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更新履歴・裏ヴァージョン(2009年)

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目次

2009.2.21. またしてもロンドン一人旅
2009.2.28. ホームグラウンド?
2009.3.7. 劇場へは現金を持って
2009.3.14. A・S・バイアットという名の芋づる
2009.3.21. 三部作の6作目の続報
2009.3.28. 『時は夜』
2009.4.4. オーディオ・ブックあれこれ
2009.4.11. 読んでみなくちゃ分からない
2009.4.18. 疑惑のタイトル
2009.4.25. ビートルズと私?
2009.5.2. 『刑事ヴァランダー 白夜の戦慄』
2009.5.9. 三者三様の『外套』
2009.5.16. 走行車線? 出入道路?
2009.5.23. 三者三様のダグラス・アダムス伝
2009.5.30. タオル・デーのイベントあれこれ
2009.6.6. オーストラリアについて想うこと
2009.6.13. 『英国流ビスケット図鑑』
2009.6.20. 「ブランデンブルク協奏曲」を聴く
2009.6.27. 映画の好み
2009.9.5. 『SFマガジン』と『SF本の雑誌』
2009.9.12. 祭りの始まり
2009.9.19. もう一つの祭りの始まり
2009.9.26. 2種類の Last Chance to See
2009.10.3. イーグルトンを英語で読む
2009.10.10. ベイリーの一周忌に寄せて
2009.10.17. ついに発売
2009.10.24. ついに到着
2009.10.31. 読みやすい?
2009.11.7. ロックスターになりたい
2009.11.14. マッカートニーのファンは知っている
2009.11.21. 『魔性の難問 〜リーマン予想・天才たちの闘い〜』
2009.11.28. リッチティー・ビスケット再び
2009.12.5. ついに読了
2009.12.12. SFX を手に入れるまで2


2009.2.21.  またしてもロンドン一人旅

 昨年12月11日から18日にかけて、私は一人、ロンドンにいた。
 観光に不向きな真冬のヨーロッパを旅行するのはこれが初めて。ポンド安というおまけは後からついてきたものの、旅行代理店に申し込み手続きをした時にはまだ1ポンド220円前後で、おまけに燃油サーチャージはバカバカしく高かった。それでも、2005年5月の映画『銀河ヒッチハイク・ガイド』鑑賞旅行から約3年半、懲りもせずロンドン一人旅を決行することにしたのは、特に「行かねばならぬ」な理由があったからではなく、単にまとめて有給休暇を取れるタイミングがこの時をおいて他になかっただけのこと。この機を逃したら今度いつまとまった休みが取れるか分からない、だったら行ける時に行っておくしかないんじゃないの、と。
 しかし、わざわざ大金を投じてロンドンくんだりまで出かけるからには、何かしらテーマなり目的なりが欲しい。勿論、ダグラス・アダムスゆかりの場所をデジタルカメラを片手に徘徊したっていいのだが、12月のロンドンの気温は昼間でも2度とか3度くらいまでしか上がらない上に、日没は午後4時前とのこと。となれば、屋外の活動は極力避けたほうが無難だろう、ということで今回の旅のモットーは、「『銀河ヒッチハイク・ガイド』は追いかけず、美術館/博物館鑑賞に徹するぞ」に決まった。自慢にもならないが、これまでに計4回もロンドンに行っているくせに、本屋やらイズリントン界隈やらの散策にかまけてばかりでナショナル・ギャラリーすらまともに見物したことがなかったのだ。
 かくして、6泊8日のロンドン滞在中に計5館の美術館/博物館を観て回り、私なりにとても楽しい時間を過ごしたのだが、当然それらはこのホームページの内容とは関係がない。故に、今回の旅行についての文章をアップするつもりはなかったのだが、やはりこの私がロンドンまで行ったからには何かしらダグラス・アダムス絡みの事柄が出てくる。それを書かないままにするのもどうかなと思い直し、2005年の映画鑑賞旅行記の後日談的な意味も含め、2008年12月の旅の記録として追加更新することにした――にしても、今回のロンドン旅行では、私にしては珍しく多くの時間を『銀河ヒッチハイク・ガイド』と無関係に過ごしたにもかかわらず、この文章だけを読むとマニアでオタクなことばっかりやっていたような感じがするのは、気のせい?
 
 といった具合で、2008年も自分でもあきれるくらい相変わらずな日々だったのだが、例年通り「My Profile」のコーナーに「2008年のマイ・ベスト」を追加したので、良ければこちらもご確認あれ。
 小説のベストについては、本当はイアン・マキューアンの『土曜日』にしたかったのだけれど、奥付を見ると2007年12月の発売になっていたのであきらめ、アラスター・グレイの『哀れなるものたち』とどちらにしようか迷った末に、こちらに決めた。『哀れなるものたち』も十分以上におもしろかったんだが、作者自らが手掛けたという表紙や挿絵がイマイチ私の趣味じゃなかったんだよな。
 小説が大当たり連発だったのに対し、2008年に観た映画はどれも割とドングリの背比べだった。で、さんざん迷った挙げ句、映画館を出た後も気分的に引きずるものが多かった作品を順に選ぶことにした。勿論、引きずればいいってもんじゃないけれど、それだけ強く印象づけられたのだと看做して。

 さて、2009年も既に1ヶ月半が過ぎ、いよいよ今日から週に一度の更新開始。無事10周年まで辿り着けるよう、今年も捲まず撓まず続けていきたいと思いますので、何とぞよろしくお願いします。

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2009.2.28.  ホームグラウンド?

 ロンドン旅行から2ヶ月半が過ぎた今となっては、正直なところ「日本語の通じない世界で、よく一人でへっちゃらだったよな」などと情けないことを思っていたりする。が、昨年12月にロンドンに滞在していた当時は、「ロンドン旅行記2008」にも書いた通り、着いて3日もすれば英語オンリーな環境に違和感がなくなっていたし、それどころか長距離フライトに疲れ果てて帰宅した途端、「もう一度ロンドンに戻れるものなら、今すぐにでも戻りたい!」とまで思った。
 無論、日本なんか嫌いだ、ロンドンに移住したい、と本気で考えた訳ではない。どちらかと言うと、単に旅行という遊びの日々が終わって翌日からは真面目に出勤しなくちゃいけない、という現実から目をそむけたかっただけなのだが、その一方でロンドンという街に対し、単なる現実逃避だけでは片付けられない気持ちが私の中に巣食っていることも痛感した。
 今回のロンドン旅行では、敢えて『銀河ヒッチハイク・ガイド』は追わないぞと決めていたし、実際追わなかった。「ロンドン旅行記2008」を読むととてもそうは思えないかもしれないけれど(現に読んだ友人の一人からもメールで「大うそつき」呼ばわりされたくらいだ)、私が積極的にホームページの更新材料を探して向かったのはウォーターストーンズ書店とHMVくらいのもので、そのために費やした時間は合わせて半日にも満たない。が、私のほうから動くまでもなく、毎朝ホテルのエレベーターホールに置かれていた新聞を開けば、サイモン・ブレットのミステリー小説がラジオ・ドラマ化されて主人公チャールズ・パリス役をビル・ナイが務めたとか(ええい、どうしてラジオじゃなくてテレビ・ドラマにしてくれなかったんだ!)、12月18日と19日にロンドンで行われる 'Nine Lessons and Carols for Godless People' とかいうコメディの舞台にリチャード・ドーキンスがゲスト出演することになったがそれというのも「無神論者がクリスマスを台無しにすると言われるのにうんざりしたから」で、舞台では『神は妄想である』ではなく『虹の解体』の一部を朗読する予定だとか(こんなことまでやるんですね、この方)、この12月にロイヤル・シェイクスピア・カンパニーの『ハムレット』でデイヴィッド・テナントが久し振りに舞台復帰するはずだったのに背中を悪くして降板することになったとか(気の毒すぎて言葉もない)、日本の新聞では絶対にお目にかかれない類の、でも私にとっては興味深い記事が次から次へと見つかり、テレビをつければ、Spooks の最新シリーズは言うに及ばず、『ドクター・フー』や『ウォレスとグルミット』のクリスマス・スペシャルの予告映像が流れ、マイケル・パリンやニック・パークがトーク番組のゲストとして登場するとあっては――日常英会話にすら不自由しているにもかかわらず、私にとってロンドンがあたかも一種のホームグラウンドであるかのように錯覚してしまったとしても、無理はないというものでしょ?
 
 そんなこんなで今回の更新は、上記に並べた固有名詞の中の一人、ニック・『ウォレスとグルミット』・パークについて。
 ロンドンでテレビを観ていて偶然拝見することになったお姿は、私がイメージしていたものより少しばかり老けていらっしゃったが、考えてみれば私が前に彼をテレビで見たのは『ウォレスとグルミット、危機一髪!』でアカデミー賞を受賞した時の映像であり、あれからもう10年以上経っているのだ。私も彼も、老けてて当然。しかし、ここで私がニック・パークを取り上げるのは、ダグラス・アダムス関連としてではなくユーリ・ノルシュテイン関連としてであり、自分で言うのも何だがちょっと紛らわしいかも。
 それから、2009年3月11日に開催される「ダグラス・アダムス記念講演」の講演者ベネディクト・アレンについても紹介する。イギリスでは有名な冒険家らしいが、私は名前をきいたことすらなかった――ということは結局のところ、私にとってロンドンはホームグラウンドどころかやっぱり単なるよその国だった、ということで、善哉?

 ところで、今日から新生アントニオ・ガデス舞踊団の来日公演が始まった。という訳で、私もさっさと頭をスペイン・モードに切り替えて文京シビックセンターに向かわねば。

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2009.3.7.  劇場へは現金を持って

 新生アントニオ・ガデス舞踊団による二度目の来日公演は、文京シビックセンターと新宿文化センターの2カ所で行われる。そしてどちらの場所でも『カルメン』『血の婚礼/フラメンコ組曲』『アンダルシアの嵐』の3演目すべてを観ることができるが、私は今回、敢えて私の自宅からは少し遠い文京シビックセンターまで足を伸ばすことにした。
 どうせなら1日でも早く観たいから先に公演が行われるほうを選んだ、という訳ではない。単に、文京シビックセンターは地下鉄の駅と直結しているおかげで寒い季節の悪天候もあまり苦にならないけれど、新宿文化センターだと新宿駅からそこそこの距離を歩かなくちゃいけないから、というだけの理由だったのだが――。

 さて、文京シビックセンター行きの初日。開演20分前に劇場に着くと、私は真っ先に入り口そばの売り場で公演パンフレットを購入した。一部1000円。この手のパンフレットにしては、お買い得な値段設定だ。それから隣接のグッズ売り場へと進み、DVD『アントニオ・ガデス その人生と舞踊の倫理』ならもうとっくに買って持ってるよ、とか、ロゴ入りTシャツとかはさすがに要らないな、などと思いながらつらつら眺めていくうちに、ある一点で目が釘付けになった。
 こ、これは、私が学生時代、あまりの高値に買いたくても買えず涙を呑んだ、そしてその後ついぞお目にかかれなかった、幻の豪華『カルメン』写真集じゃないかあああああ!
 限定20部で、定価21000円のところ18000円で販売だと、買う、絶対買う、これだけは他の客にとられてなるものか、迷わず今すぐ買ってやる――と思ってから、ふと不安になって財布の中身を確認する。私は劇場に行く際には、劇場内で特別販売されているグッズとか別の公演のチケットとかを買いたくなった時に備えて普段より多めに現金を携えておくよう心がけているのだが、この時点での私の持ち金は、あろうことか17000円であった。
 一応、売り場の方にクレジットカードが使えるかどうか訊いてはみたが、答えは勿論「不可」。
 あああああ、こんなことなら自宅からの最寄り駅でSUICAに3000円もチャージするんじゃなかった、入り口で先にパンフレットを買ったりするんじゃなかった、と、どんなに激しく後悔しても後の祭り。かくなる上は、次の公演で私が文京シビックセンターに来るまでに、限定20部が売り切れにならないことを祈るばかりだ。しかし、私が十数年の長きに亘って見つけられずにいたような稀少本が、新生アントニオ・ガデス舞踊団の公演会場というファンの巣窟のような場所で、果たして無事に残っていてくれるだろうか。そういう目で辺りを見渡すと、基本的にここに集っているのは私同様、生前のガデスの公演を観たことがあって、その流れで今回も来ているような年配のファンばかりのような気がする。逆にそれならそれで、こんな写真集はみんなとっくの昔に購入済みかも。というか、今はそう信じるしかない!

 ……で、結論から言うと、その翌々日後に私は無事、この豪華本を購入することができたのだった。3月3日、開場とほとんど同時に劇場に飛び込み、一直線に売り場に行ってめでたく発見できた時には、いやほんと、心から安堵した。
 にしても、私が「一部ください」と申し出た時に、売り手側の反応が「ありがとうございます」ではなく「えっ」という驚きだったのは、決して私の気のせいではなかったと思う。一部売れたくらいでそんなにびっくりされるということは、ひょっとして私以外にはまだ誰も買ってなかったんだろうか。一足先に売り切れになっていたよりはマシなんだけど、売れないなら売れないで気になる辺り、我ながら勝手だよな。
 ともあれ、文京シビックセンターでの公演は3月4日で終了し、来週からは新宿文化センターに場所を移すことになる。でもきっと、ここのロビーでもまだこの豪華本は販売しているだろうから、私同様にずっと買いたくても買えずにいた方がいらっしゃいましたら、現金を多めに持参されることをお忘れなく。この他にも、ガデスの死後にスペインで発売された豪華写真集も売られていた(私はスペインのサイトから直接購入済みだ。へへん)けれど、2冊まとめて買ったとしたら帰路はかなり過酷かも?
 
 そんなこんなで今回の更新は、DVD『アントニオ・ガデス その人生と舞踊の倫理』の簡単な紹介。ファンなら買っておいて絶対に損はない1本なので、まだお持ちでない方は是非。
 それから、ノルシュテインの研究本『『話の話』の話』を書いたアニメーション研究家、クレア・キッソンについて。にしても、あの小説家がこの本の書評を書いていたとは、意外であった。

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2009.3.14.  A・S・バイアットという名の芋づる

 A・S・バイアット、と言われて「ああ、あの作家ね」とピンとくる人はあんまり多くないと思う。代表作『抱擁』が日本語に翻訳されたのは今から10年以上前で、2002年に映画化されて文庫化もされたものの、今じゃそれも絶版状態だし。
 ただ、私個人にとって『抱擁』は、「ブッカー賞受賞作」という触れ込みを初めて意識して読んだ小説、という意味でなかなかに思い出深い作品だったりする。新潮社から出た上下2巻の新刊本を書店で見つけた時はその装丁の美しさに思わず見とれたものの、ジャケ買いするにはお値段も内容もご立派すぎて手が出せず、おとなしく図書館で借りてみたところ、確かにレベルは高いがいったん読み出したら止められないくらいおもしろかった、ということもあり、以来A・S・バイアットという作家の名前は私の頭にがっちりと刻み込まれた。
 『抱擁』の主人公で若い英文学研究者のローランドは、19世紀の国民的詩人ランドルフ・アッシュが書いたと思われる手紙の下書きを発見し、この手紙の真相を追いかけることになる。この小説では、ローランドが生きる現代の学者たちの世界と、ヴィクトリア朝の(実在の詩人をモデルにしたと思われる架空の)詩人たちの世界が並行して描かれるのだが、そんな構成とかあらすじだけを読むとえらく敷居が高そうな気がするものの、どちらの世界にも謎解きと恋愛という二大通俗小説の要素が盛り込まれていることもあってか、退屈とは無縁の仕上がりになっている。特に、学生時代に英文学を専攻していて、かつテーマや内容が何であれ自分なりに頑張って卒業論文を書いたと自負する人なら、きっと楽しんで読めると思う(だって私の卒業論文のテーマは『銀河ヒッチハイク・ガイド』だよ?)。研究レベルの差こそあれ、一つの文献の発見がまた新たな発見へと繋がっていく資料探しの快感そのものはよく分かるはずだし。
 ま、強いてこの小説の難点を付けるとすれば、作者のスーパーインテリぶりが読んでいて多少鼻につくことくらいだろうか。そんなところで僻み根性を発揮するバカは私くらいかもしれないが、「さすがケンブリッジ大学を優秀な成績で卒業されただけのことはある」とは読者の誰もが思うはず。そんなスーパーインテリにしてブッカー賞受賞作家、おまけに英国作家協会会長までお務めになったことがある、という経歴からして、バイアット様は現代イギリス文壇で大御所扱いされておられるにちがいない、と、私は勝手に想像していた。
 それだけに、クレア・キッソンの『『話の話』の話』の書評をネットで探していて、「ガーディアン」に掲載されたA・S・バイアットの署名記事を見つけた時はびっくりした。純文学だけでなく、新聞にこういう記事も書くことがあるんだ、とも思ったし、ノルシュテイン作品には十分以上にその値打ちがあるとは言え、そもそも彼女が短編アニメーションを観たこと自体にも驚いた。
 で、今回の更新では、ノルシュテイン関連人物としてA・S・バイアットを追加することにしたのだが、『『話の話』の話』以外にどんな書評やエッセイを書いているのかなと軽い気持ちでネット検索を続けたところ、2003年7月7日付のニューヨーク・タイムズにハリー・ポッター批判の記事を載せていることに気付いた。バイアットがハリー・ポッターに批判的なのは「さもありなん」だが、スーパーインテリな彼女がそういう記事を書いたことについてはやっぱり意外だったし(わざわざ語るだけの値打ちもないと切り捨てるかと思った)、またそれ以上に意外だったのは、記事の中でJ・K・ローリングを貶す一方、あのテリー・プラチェットを大絶賛していたことだ。
 いや、意外、なんてもんじゃない。A・S・バイアットの書斎だか書庫だかに、テリー・プラチェットのディスクワールド・シリーズがずらっと並んでいる様なんて、私は想像だにしなかったし、正直言って今だってできない。いやはや、著書から勝手な偏見とか妄想を膨らませて作家をイメージするのは大間違いの素だね、と反省しつつ、今度はA・S・バイアットとテリー・プラチェットの二人の名前でさらにネット検索してみたところ、バイアットがプラチェット作品について書いた文章の一部が出てきたのだが、  

"Terry Pratchett's imaginary world has the energy of The Hitch Hiker's Guide to the Galaxy and the inventiveness of Alice in Wonderland. It resembles both and neither; it is more complicated and satisfactory than Oz."

 ……ってことは、バイアットは『銀河ヒッチハイク・ガイド』も読んだことがある?!
 
 とりあえず現時点では、上記の文章がバイアットがプラチェットについて1996年12月15日付の Sunday Times に載せた書評('Planet of the japes')からの抜粋であることまでは調べがついた。が、彼女が『銀河ヒッチハイク・ガイド』そのものについて書いた文章は、今のところまだ見つかっていない。もし見つかったら、バイアットはユーリ・ノルシュテイン関連とダグラス・アダムス関連にまたがる、最初の一人になるかもしれない。
 かくして、ネット検索は芋づる式にどこまでも続いていくのであった。

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2009.3.21.  三部作の6作目の続報

 今年の10月12日発売予定の小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』第6作は、どうやらほぼ書き上げられているらしい。いやはや、ダグラス・アダムス本人と違ってオーエン・コルファーの筆の早いこと早いこと。これなら出版元のペンギン・ブックスも一安心だろう。
 無論、いくら原稿が早く書けたとしても出来が悪ければ仕方がない。が、3月10日に第6作のUK版カバーイラスト(写真はこちら)のお披露目をかねて開かれたレセプションの模様を紹介した、ペンギン・ブックスの公式ブログや、『銀河ヒッチハイク・ガイド』の公式ファンサイト ZZ9 Plural Z Alpha のニュース記事などを読む限り、オーエン・コルファーを含む関係者一同、『銀河ヒッチハイク・ガイド』の新作が世間から総スカンを食らうかもしれないなどという不安は微塵も抱いていないようだ。ZZ9 Plural Z Alpha のニュース記事では、そういった関係者一同の様子に対して 'positive' という単語が使われていて、そりゃレセプション会場なんだから関係者が弱気になってる場合じゃないとしても、正直なところ私としては「ったくどこまで強気なんだか」と嘆息せずにはいられない。私だって6作目が良い作品になってくれるようにと願ってはいるけれど、今の段階ではちっとも楽観視できませんって。
 一方、6作目の発売と合わせて、これまでの『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズ計5作も新装のペーパーバックとしてパン・ブックスから出版される予定とのこと。秋口からペンギン・ブックスとパン・マクミランよる共同キャンペーンが大々的に展開されるそうで、このペーパーバック発売もその一環らしいのだが、そんなこと言ったってどうせカバーイラストを替えるだけだろう、くらいに思っていたら、どうやらこの新装版には新たな紹介文がつけられるらしい。それも、Amazon.co.uk に早くもアップされた書影によると、"Forward by Russell T. Davies" って――おいおいおいマジですか?
 大手出版社のキャンペーンってちょっと凄いかも、と思わず感心した瞬間。やっぱり、目のつけどころがいいよな。
 ともあれ、私がここ数年、ダグラス・アダムス関連人物の一人としてラッセル・T・デイヴィスの名前を重点的にマークしてたのは、大正解であった。あ、そう言えば、昨年末にイギリスで買ったデイヴィス脚本のドラマ、Second Coming のDVDがまだ未開封のままだったっけ。日本語字幕なしのドラマなんて今となっては猛烈にかったるい気もするけれど、買ってしまったからには観るしかない訳で、ま、どんなに遅くても新装版ペーパーバックが発売されるまでには観てしまおうっと(え、先に延ばし過ぎ?)。
 
 そして今回の更新は、前回のA・S・バイアットに続いてもう一人、現代女性作家をノルシュテイン関連人物に追加する。リュドミーラ・ペトルシェフスカヤ、と言われても私はまったく知らなかったけれど、日本語訳も出ていたんですね。
 それから、『銀河ヒッチハイク・ガイド』関連のささやかなトピックとしてエレベーターの話も追加。随分前に用意していて、とっくにアップしたつもりだったんだけど、うっかり抜けていたみたい。
 
追伸/2008年3月8日付の同コーナーで紹介した、P・G・ウッドハウス原作の少女マンガ、『プリーズ、ジーヴス』の1巻目が、今月5日に発売された。我が家の近所の書店では見つけられず、先日都心に遠出した際にようやく購入できたのだが、内容の良さに加え、「晴れてコミックス化の暁には、森村氏のエッセイももれなく収録されるといいな」という私の希望も叶えられていて、大満足。2巻目以降は、発売日に地元の書店で買えるよう事前に予約することにしよう。

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2009.3.28.  『時は夜』

 「読んだあとは首を吊って死にたくなる」とまで評された小説を読むのは、少しばかり勇気が要る。しかし、不安が好奇心を上回るなら、手を出さずにはいられない。
 という訳で前回の更新で追加した、ノルシュテインの友人にして『話の話』の脚本を担当したことでも知られる現代ロシアを代表する作家リュドミーラ・ペトルシェフスカヤが書いた小説『時は夜』を読んでみたのだが、170ページ程のあまり長くない長編小説を一気読みしての率直な感想は、「首を吊りたいとは思わないが、走って逃げ出したいとは思う」。エゴが強くて愛情も憎悪も過多な主人公は、歯車が狂った時には見境なく周りに不幸をまき散らす分、甚だ傍迷惑ではあるけれど、生きること自体に後ろ向きになることだけはないから、その点ではまだ救いがある気がする。私が読んで「首を吊りたくなる」としたら、不運の連鎖が主人公をどん底に突き落とす、トマス・ハーディの小説(『テス』とか『日蔭者ジュード』とか)のほうだな、どちらかと言うと。
 さて、『時は夜』という小説は、貧窮した主人公が孫のティーマの手を引いて、友人のマーシャ宅を訪問するシーンで始まる。主人公としては、生活費を借りるついでにあわよくば食事にもあずかろうという魂胆なのだが、マーシャ宅にはマーシャ本人の他にマーシャの娘のオクサーナ、娘婿のウラジーミル、彼らの子供でマーシャにとっては孫にあたるデニスまでもが一緒に暮らしているような状態であり、主人公と孫のティーマは招かれざる客もいいところ。が、だからと言って肩身の狭い思いをして怯むような主人公ではない。それどころか、どさくさまぎれに孫の「テレビ鑑賞」という、第三の目的まで達成しようとするのだが、

ほら、居間では娘婿のウラジーミルがテレビを見ている。一家が毎晩敵意むきだしにあるこれぞ元凶、チャンネルを『お休みいい子たち』に切り替えたいデニスと父親の闘いが始まろうとしている。わがティーマが『お休みいい子たち』を見るのは年に一度、両手をもみしだいて「お願いします、後生だから!」とウラジーミル相手に繰り返し、ひざまずかんばかり。私から覚えた口調としぐさ。そう、私そっくり(p. 9)。

 えーーーっと、ここに出てくるテレビ番組『お休みいい子たち』って、ノルシュテインがオープニングとエンディングのアニメーションを製作したことがある、あの『おやすみなさいこどもたち』のことだよね、きっと?
 『時は夜』が書かれたのは1991年のことだから、たとえティーマがウラジーミルを口説き落としてテレビのチャンネルを変えてもらったとしても、ノルシュテインの手によるあの美しい映像を目にすることはできなかった。ノルシュテイン版のオープニングとエンディング付きで番組が放送されるのは約3年後のことなのだが、果たして3年後にもティーマはまだ『お休みいい子たち』に執着しているだろうか。子供にとっての3年は長いから、残念ながらその頃にはもうとっくに番組に興味をなくしているかもな――その約3倍もの長きに亘って、こんなホームページを作っている私とは違って。
 
 気を取り直して今回の更新は、ダグラス・アダムス・コーナーの「愛読書調査」にリストを2つ(「ベスト・オーディオ・ブック」「14歳から16歳で読むべき本」)追加。どちらも正しくは「愛読書調査」じゃないけれど、ま、番外編ということで。

追伸/2007年10月13日付の同コーナーで紹介した『虐殺器官』の作者、伊藤計劃氏が先日お亡くなりになったとのこと。私はただの一読者、それもかなり最低レベルな読み方しかできない読者だけれど、『虐殺器官』を書いてくださったことには深く感謝しています。ありがとうございました。

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2009.4.4.  オーディオ・ブックあれこれ

 ラジオ・ドラマ『銀河ヒッチハイク・ガイド』第1シリーズのCDが「ベスト・オーディオ・ブック」の投票で第1位に選ばれたことは、2008年12月のロンドン旅行の際、ウォーターストーンズ書店の手書きポップを見て初めて知った。1位になったのはめでたいが、具体的にどういう調査をしたのか日本に戻ったら調べてみなくちゃな、と思い、調べた結果が前回の更新でアップしたリストである。
 BBCが行った愛読書調査とかに比べると、何だかすごくしょぼい感じがするのは、気のせい?
 ま、そもそもオーディオ・ブックなるものがイギリスでどのくらい普及しているのかという問題もある。私の勝手な憶測にすぎないが、今回の投票はオーディオ・ブックがすごく普及しているから、というよりも、さらなる普及を目指して行われた、ということなのかもしれない。
 かく言う私は、無論、ダグラス・アダムス関連のオーディオ・ブックをしこたま所有している。『銀河ヒッチハイク・ガイド』だけでも、1位になったラジオ・ドラマ版のCDは言うに及ばず、小説版の朗読も何種類も持っている。マニアの意地で(?)どれも最低一回は聴いているが、繰り返して聴くのはやはりラジオ・ドラマ版だ。第1シリーズがいいのは勿論だが、ダーク・マッグスによる新シリーズも私はかなり好きで、特に第5シリーズのラストは聴くたびに感泣。そしてこのラストシーンを踏まえた時、私はどうしてもオーエン・コルファーの6作目に懐疑的にならざるを得ないのだが(だって、あれ以上の『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズへのオマージュってありえる?)、それはまた別の話。
 別の話と言えば、自分でも忘れかけていたけれど、ダグラス・アダムスとはほとんど関係のない(でもまったくないとは言い切れぬ)オーディオ・ブックも2つばかり所有していたのだった。それもCDではなくカセットテープというから何とも時代がしのばれるが、一つはカート・ヴォネガットの小説『スローターハウス5』の朗読テープで、これはその昔、私がまだ大学生だった頃に「少しは英語のリスニング能力が向上するかも」と思って日本橋丸善で購入したものである。リスニング能力の向上に役立ったかはさておき、パッケージに入っていた LISTEN FOR PLEASURE 社のカセットブックのリストはものすごく役に立った――インターネットなど夢のまた夢だった時代、たまたま手に入れたこのリストがなければ、当時既に『銀河ヒッチハイク・ガイド』の朗読テープが発売されていることなど知る由もなかったから。
 もう一つのカセットテープは、P・G・ウッドハウスの『よしきた、ジーヴス』(Right Ho, Jeeves)の、BBC製作によるラジオ・ドラマ。2000年にロンドンを旅した時、ついうっかりの出来心で購入したのだが、帰国後ちらっと聴いたもののあまりの分からなさに、「英語のリスニング能力が向上したら再挑戦しよう」という建前で途中退場し、そのまま今日に至る。昔からそんなのばっかりだよな、私。
 
 気を取り直して今回の更新は、イギリスのアマチュア科学者、スティーヴ・グランドについて。いやはやいかにもアダムスと意気投合しそうな御方じゃないか。
 それから、アメリカのプロの科学者、ミチオ・カクについても加筆。2008年3月発売の最新作 Physics of the Impossible に『銀河ヒッチハイク・ガイド』からの引用が入っていたことは、2008年5月3日付の同コーナーで私が予想した通りだったが、本書が同年10月に早くも日本語に翻訳されたことは、嬉しい予想外であった。

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2009.4.11.  読んでみなくちゃ分からない

 前回の更新で追加したスティーヴ・グランドの名前は、ダグラス・アダムスの公式伝記本の中に出てくる。それも、"Douglas was a fan of Steve Grand" とまで書かれていて、私としては当然グランドのことが気になってはいたのだが、この公式伝記本が出た2003年当時、グランドの著作が一作も日本語に翻訳されていなかったこともあってつい後回しにしていた。人工生命がどうしたとかいうコンピュータ・ゲームの製作話を英語で読んだって、理解できるとはとても思えなかったし。
 昨年末あたりだっただろうか。公式伝記本をパラパラとめくりながら、ホームページの更新のネタに使えそうなものはないかと物色していて、ずっと放置していたグランドの名前を再び見出した。で、ひょっとして私が知らない間にアダムスが絶賛したという Creatures という本が翻訳されてやしないかと儚い望みをかけてネット検索してみることに。すると、Creatures は未訳のままだが、グランドの別の著作なら2005年に翻訳されていたことに気付く。
 そこで早速、ご近所の図書館で『アンドロイドの脳 人工知能ロボット"ルーシー"を誕生させるまでの簡単な20のステップ』を手に取って、「イントロダクション」のページを開いてみたら、

 私がはじめて生命を生み出したときは、簡単な方法をとった。少なくとも私の立場からは、とても簡単に見えた。だが妻の見解は、どういうわけか私とは異なっているようではあるが。ただ今回、妻はのんびり構えていればいい。つわりや腰痛に耐える必要もないし、帆をいっぱいに張ったガリオン船のようにお腹を突き出して動きまわらなくてもいい。今回、生みの苦しみはすべて私にかかっている。むずかしい方法で赤ん坊を生もうとしているのだ。それも一度にすべてを。(p. 10)

 おお。さすがにアダムスがファンだと言っていただけのことはある。分かりやすい上に、すこぶる感じが良いではないか。
 と、余裕綽々で本の貸し出し手続きを取ったまでは良かったのだが、自宅に戻って「イントロダクション」以降の本文を読み始めた途端、文系人間の私にはあっという間に歯が立たなくなった。ダメだ、私にはレベルが高すぎる、と絶望しながらも、それでもテーマの異なる章によっては少しは手に負える箇所もあるかもと儚い望みをかけて流し読みを続け、本文中の最後の最後になって、まったく思いもかけずアダムスの名前を発見した時に私が感じた、驚きと喜びの大きさたるや。
 いやはや本というものは、実際に読んでみなくちゃ分からないものだ。
 それにひきかえ、ミチオ・カクの『サイエンス・インポッシブル』には項目索引が付いているため、本文に目を通すまでもなく96ページに『銀河ヒッチハイク・ガイド』が出てくることが分かる。言い換えれば、96ページ以外にはアダムス関連の事項は出てこないこともはっきりしている訳で、白状すると私は96ページ以外はほとんど読まないままに前回の加筆を行った。そして、更新した後になって気がついた――訳者あとがきの中で、『銀河ヒッチハイク・ガイド』が登場していることに。

かりに超高度な文明があったとしても、われわれにコンタクトしようとはせず、人間がアリ塚に対してとる態度のように、単に無視するだろうと指摘する。そして邪魔になったらつぶしてしまうのだ(なんだが本書でも紹介されるドタバタSF『銀河ヒッチハイク・ガイド』で、宇宙規模の道路工事によって地球が吹っ飛ばされる冒頭のシーンを思わせるが、カク氏の頭にもそれがあったのかもしれない)。(p. 414)

 やっぱり本というものは、実際に読んでみなくちゃ分からない!
 
 動転しつつ反省しつつ、気を取り直して今回は、クリストファー・サーフと、サーフがアメリカ版に序文を寄せたアダムスの遺稿集 The Salmon of Doubt: Hitchhiking the Galaxy One Last Time についての簡単な解説を追加。

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2009.4.18.  疑惑のタイトル

 未完の長編小説 The Salmon of Doubt は、『ダーク・ジェントリー』シリーズの3作目となっている。しかし、1991年頃からアダムスの頭の中で作品の構想が練り始められ、その後(恐らくは何度も中断しながら)執筆が進むにつれて、一時は『ダーク・ジェントリー』ではなく『銀河ヒッチハイク・ガイド』の6作目となる可能性が示唆されたこともあった。
 2001年5月11日にアダムスが急死してしまったことで作品が未完に終わってしまった以上、もし完成していたらどちらのシリーズになったんだろうと考えるのは詮無いことだが、アダムスの遺稿集 The Salmon of Doubt: Hitchhiking the Galaxy One Last Time に収録された80ページばかりの未完の原稿を読む限りでは、『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズに書き直された可能性は低いと思う。未完の原稿の中で、ダーク・ジェントリーが果たそうとしている役割をアーサー・デントに担わせるのはちょっと不自然な気がするし、それより何より私としては、The Salmon of Doubt というタイトルの小説が『銀河ヒッチハイク・ガイド』の6作目になることには少々抵抗がある。
 勿論、どんなタイトルをつけようと作者の勝手だってことくらい、十分自覚している。それでも、『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズの新作タイトルはこれまで通り第1作目に書かれているフレーズから選んで付けて欲しいと望むのは、きっと私一人ではないはず。ちなみにオーエン・コルファーによる『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズ6作目に付けられたタイトル、And Another Thing... は、1作目ではなく、4作目の『さようなら、いままで魚をありがとう』の第3章に出てくる。 「まるで「もうひとつ言いたいことが……」と、議論に負けたのを認めたくせに、二十分後にまた蒸し返す男のようだ。(p. 18)」――タイトルを決めるのは作者の当然の権利だってことは、頭では一応分かっているんですけどね。ええ。
 その一方、『ダーク・ジェントリー』3作目のタイトルとしてなら、The Salmon of Doubt は文句なしである。文句どころか、前回の更新で加筆した通り、'Salmon of Doubt'(疑惑の鮭)とはケルト神話に出てくる 'Salmon of Wisdom'(知恵の鮭)をもじったものなので、北欧神話を取り入れたシリーズ2作目に続いて今度はケルト神話、という意味ですごくふさわしいとさえ思う。
 とは言え、正直に告白すると、世界のありとあらゆる神話に疎い私は、'Salmon of Doubt' と言われても全然ピンとこなかった。ケルト神話との関係に気付いたのは、何のことはない、ウィキペディアに掲載されていた情報を読んでのことである。で、泡を食ってケルト神話の本を漁る羽目になったのだが、漁ってみた結果、アダムスが The Salmon of Doubt というタイトルというかアイディアをいたく気に入って、どんなに執筆に行き詰まっても手放し難く思った気持ちが理解できる気がした。そう、アダムスだったらきっと、すべてを理解し未来をも見通せる「知恵」よりも、すべてに新鮮な目を向け永遠に問い続ける「疑惑」のほうを選ぶはずだと思うのは、私一人ではないはず。
 違う?
 
 ……そんな私の妄想はさておき、今回の更新は The Salmon of Doubt: Hitchhiking the Galaxy One Last Time の収録作の中から、1992年に Sunday Times に掲載されたエッセイ、"The Voices of All Our Yesterdays" を紹介。今後も、随時この遺稿集に収録された作品を紹介していく予定なので、どうぞよろしく。

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2009.4.25.  ビートルズと私?

 前回の更新では、アダムスがビートルズにまつわる思い出について書いたエッセイを紹介した。ならば、今回のこのコーナーでは私がビートルズについて思うところを書こう、タイトルは「ビートルズと私」で決まりだな、と思ったまでは良かったが、さて、いざ書くという段になってもビートルズに関するパーソナルな思い出などこれと言って何も頭に浮かばない。
 ビートルズのメンバー4人の名前を挙げることはできる。有名な楽曲なら大体知っている。アダムスが学校を抜け出して買いに行ったという「キャント・バイ・ミー・ラヴ」だって、「ああ、あの曲ね」と思うことはできる。いくつかあるビートルズ映画のうち、『ハード・デイズ・ナイト』だけは観た。その程度の一般常識はある。でも、ただそれだけ。ちっともパーソナルじゃない。
 あとはせいぜい、ジュリー・テイモア監督によるビートルズ楽曲で構成したミュージカル映画『アクロス・ザ・ユニバース』を観たくらいか。観ていて、何度か「おや、この曲もビートルズだったのね」などという、我ながら救い難い感想を抱いたように憶えている。そうそう、一度さいたまスーパーアリーナまで行った際に、「ジョン・レノン・ミュージアム」を見物したこともあったっけ。ただし、チケット代を払って入場したのは「せっかく自宅から遠い埼玉まで足を伸ばしたんだし、次にまたここに来るのはいつになるか分かったもんじゃないし」というひどく後ろ向きな理由によるもので、実際、あれから一度もかの地に赴いたことはない。
 ビートルズが嫌いという訳ではない。むしろ、あまりに定番の楽曲すぎて、好きとか嫌いで語る範疇ですらない気がする。そういう意味では、アダムスがビートルズの音楽の革新性について、「あの時に感じた強烈な違和感を思い出すには、楽曲にすっかり慣れ親しんでしまった今となってはちょっとした努力が必要だ」と語る気持ちもリクツも理解できるけれど、当時としては何がどう革新的だったのかを考えながら分析的に聴くなどという芸当が、ポップスとロックとR&Bの区別も怪しい私にできるはずもない。
 これが、例えばエイゼンシュテインの映画の話であったなら、『戦艦ポチョムキン』の編集がどんなに画期的だったかを私は簡単に見て取ることができる。学術的に正確に説明できるかどうかはともかくとして、「こりゃ確かに凄い」と思うことはできる。でも、映画などほとんど観ない人の目は、モノクロのサイレント映画なんてただ古臭いだけの代物として映るにちがいない。つまり、音楽であれ映画であれ、単純に作品の凄さを把握するにも最低限の知識は必要であり、そして私には悲しいくらい音楽の基礎教養が欠けている、つまりはビートルズについて語りようもない、ということだが、しかし「ビートルズと私」というタイトルの文章がこんな結論でいいんだろうか(多分と言わず絶対よくない)。
 
 気を取り直して今回の更新は、やはり The Salmon of Doubt: Hitchhiking the Galaxy One Last Time に収録された作品の中から "Brentwood School""My nose" を紹介する。子供の頃のヒサンな思い出ならば私にもいくつも心当たりはあるけれど、それをアダムスのように他人が読んでおもしろいと思えるような次元にまで昇華できるかどうかはまた別だ。でも、関西出身者の一人として、そうありたいと願ってはいる。

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2009.5.2.  『刑事ヴァランダー 白夜の戦慄』

 昨年12月、私がロンドン旅行中に観たBBCのテレビ・ドラマ Wallander が、『刑事ヴァランダー 白夜の戦慄』という邦題で、今月WOWOWで放映される。
 自宅に郵送されてきた5月のWOWOWプログラムガイドでそのことを初めて知った時は、思わず歓声を上げてしまった。まさかこんなに早く、こんなにあっさり観られるとは。二カ国語版と字幕版の両方を放送してくれるというのも嬉しい。
 ちなみに私がロンドンで観たのは、ドラマ・シリーズ全3話の中の3話目にあたる「友の足跡」である。「ロンドン旅行記2008」に書いた通り、観たと言っても英語をほとんど聞き取れないまま適当に解釈して観ていただけなので、あの時のいい加減な解釈がどの程度正しくてどの程度間違っていたのか、これではっきりするというものだ。
 実は、日本に戻ってからネット検索して、Wallander の原作小説が日本でも出版されていること、しかもいわゆる年間ベスト・ミステリーの類でたびたび上位に選出されていることを遅まきながら知った。そして己の不明を恥じ、2009年に入ってから今日までかかって、創元推理文庫のクルト・ヴァランダー・シリーズ計5作をダラダラ楽しく読み続けることに。さすがに人気・評価共に高いミステリー小説だけのことはあって、どの作品も甲乙つけがたくおもしろいが、翻訳された5作のうち、今回のドラマの元となっているのは『目くらましの道』のみで、2・3話目の原作はまだ翻訳されていない。それでも、ロンドンでこのドラマを観ていた時に私の頭を占めていた最大の疑問、「イギリスの警察官が、よその国に勝手に出張して捜査していいの?」については、原作小説のシリーズ第1作目『殺人者の顔』の文庫本を手にとって裏表紙の解説を読んだ瞬間に解消することができた――いやまさかケネス・ブラナー主演の英語のドラマが、イギリスではなく「スウェーデンを舞台にしたスウェーデン人警察官の話」だったとはね、そりゃ私が混乱したのもむべなるかなだ。しかし、こんな根本的な設定すら分かっちゃいなかったくらいだから、ストーリーやキャラクターの解釈に至っては一体どのくらいズレていたのやら。
 何はともあれ、放送日が待ち遠しい。
 
 そして今回の更新も、前回に引き続いて The Salmon of Doubt: Hitchhiking the Galaxy One Last Time より、動物との交流に関するエッセイ、"Maggie and Trudie" を紹介する。
 ダグラス・アダムスのマニアとしては、元々このエッセイが収録されていた Animal Passions という本もコレクションしておきたいところだが、残念ながら私は所有していない。それだけに、The Salmon of Doubt: Hitchhiking the Galaxy One Last Time に再録されたのはとても有難いことなのだが、逆に私が持っているペンギン・ブックスで、P・G・ウッドハウスの遺作 Sunset at Blandings の冒頭を飾っているアダムスの序文もまた The Salmon of Doubt に収録されていることについては、「ちっ、どうせなら別のエッセイを入れてくれればいいものを」と思わなかったと言えば嘘になる。でも、もし遠くない将来、今なお続々とウッドハウスの新訳を発売している国書刊行会から件の Sunset at Blandings も翻訳・出版されるとしたら、その際にはアダムスが書いた序文も訳して付けてもらえたら嬉しいんだけどな――って、捕らぬ狸の皮算用もいいところか、やっぱり?
 それから、久し振りにノルシュテイン関連の最新ニュースも追加。ファンとしては嬉しいことではあるんだけど、でもこの本がこういう形で出版されるとは思わなかった。

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2009.5.9.  三者三様の『外套』

 ゴーゴリの『外套』と言えば、2、3年程前に出版された光文社古典新訳文庫の「落語調」翻訳が話題になった(と思う)。これまでの「運命と人とに辱められた不幸な零落者に対する憐憫の吐露」(『外套』岩波文庫、pp. 107-108)的なイメージをひっくり返すような訳文で、世間の評判も割と良かったように記憶している。かつて岩波文庫の『外套』に涙した私としては、「これは是非とも読んでみなくては」と色めき立ったものの、今日まで放置したままになっていた。
 そこへ、(前回の更新でノルシュテイン関連の最新ニュースとして付け加えた通り)今度は児島宏子による新訳の登場である。ノルシュテインの絵コンテ付きである。さすがにこれは呑気に放置している場合ではない。大型書店をほっつき歩いていて偶然見つけるなり速攻で買って、帰宅するなり一気読みした。
 率直な感想としては、「読みやすい」。個人的には岩波文庫に収録された平井肇による「That'sロシア文学」調も捨て難いが、ロシアの小説などこれまで読んだことがない人が初めて手に取るなら児島訳のほうがきっと親しみやすいだろう。でも、親しみやすさを問うなら上記の「落語調」はどうなのよ、と思い、この期に及んでようやく光文社古典新訳文庫の浦雅春ヴァージョンを読むことに。
 率直な感想としては、「おもしろい」。確かにこの訳文で読むと、虐げられた人々への同情のまなざし云々といった「いかにもロシア文学」のイメージは一掃される。代わりに立ち上がってくるのは、写実主義的な描写とは程遠い、グロテスクな戯画だ。
 私はロシア語はまったく分からないので、三者三様の訳文の中でどれがもっとも原文のニュアンスに近いのかを判断することはできない。せいぜい、初めて読む人には児島宏子訳が一番無難かなあと思うくらいのものだ。そして、元を正せば同じテキストのはずなのに、訳文によってよくもまあこんなに作品の印象が変わるものだと感心するばかりである(調べてみればこの三人だけでなく、ここ10年ばかりの期間に限定しても吉川 宏人訳の講談社学芸文庫とか船木 裕訳の『ペテルブルグ物語』とか、他にもいろいろ出ているらしい。が、さすがにそれらすべてに目を通す根性はないので、後は真性のゴーゴリ・ファンの方にお任せします)。
 蛇足ながら、もう一言。私はこれまで平井肇の訳文で読んで、ゴーゴリ作品の直系の子孫と言えばドストエフスキーの『貧しき人々』のような作品ばかりを連想していたけれど、浦雅春の訳文で読んでいると、ドストエフスキーよりもミハイル・『巨匠とマルガリータ』・ブルガーコフに近いような気がする――と思ってネット検索してみたら、ゴーゴリもブルガーコフもウクライナ出身ということもあって比較されることが多く、おまけにブルガーコフはゴーゴリの『死せる魂』のパロディ(「チチコフの遍歴」というタイトルの短編で、日本語に翻訳されてもいた)まで書いていた。なーんだ、単に私が知らなかっただけじゃん。
 
 気を取り直して今回の更新もやはり The Salmon of Doubt: Hitchhiking the Galaxy One Last Time より、"The Rules""Hangover Cures" の2篇を紹介。今さらこんなことを言い出しても仕方ないのは承知の上で、それでも私がアダムスの原文のニュアンスをぶち壊していないことを祈りたい(と言うか、そもそもニュアンス以前の問題として、とてつもない誤読をしている可能性も高いんだけど)。

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2009.5.16.  走行車線? 出入道路?

 2000年1月に The Independent on Sunday に掲載されたアダムスのエッセイ "The Rules" では、イギリスとアメリカでの車の運転に関する法律の違いが、具体的な例を挙げて説明されている。
 が、前回の更新でこのエッセイの概略を載せた時、私はそれらの具体例をわざと割愛した。理由は簡単、私自身が車の運転をしたことがない、ペーパードライバーどころかそもそも普通免許すら持っていないせいで、具体例の意味が良く分からなかったからである。「走行車線で追い越しする("overtook on the inside lane")」のと「高速道路の出入道路のカーブに車を止める("on a bend in the slip lane")」のとではどちらがより危険か、と言われても、日頃普通に車を運転している人なら情景がすぐ頭に浮かぶのだろうが、私には「はあ」としか答えようがない。
 勿論、英語で書かれた文章を日本語で紹介する時に、「体験したことがなくて分からなかった」という理由で内容をごっそり簡略化するという姿勢は、本質的に間違っている。間違っているがしかし、そこは素人の趣味サイトなのでご容赦ください、という路線も、およそ褒められたものではない。と、そこまで自覚はしているものの、いざとなるとつい「ま、いいか」でごまかしてしまい、だからこそいつまで経っても「所詮は素人」の域を出ないという悪循環なのだが、言い換えればどんなジャンルのどんな内容にも対応してみせるプロの翻訳家の人たちって、やっぱりエラいよな――普通車の運転レベルで感心されたってちっとも嬉しくないだろうという問題はさておき。
 
 気を取り直して今回の更新は、数週間ぶりに The Salmon of Doubt: Hitchhiking the Galaxy One Last Time から離れて、約1年半ぶりにダグラス・アダムス関連のコレクションを9点ばかり追加する。
 と言っても、上記の理由で珍しく殊勝に反省したから、ではなく、5日前の2009年5月11日がアダムスの8回目の命日だったから。本当は1年前の七回忌を記念して(?)アダムスの各種自伝本を紹介するつもりだったのだが、2008年5月17日付けの同コーナーに書いた通りの事情により実行できず、今日までそのままになっていた――もっとあけすけに言うと、安からぬ金額を払って Photoshop を購入し、今のマックには早々とインストールした割には、結局2008年末の年賀状作成までほとんど使うことはなく、そして年賀状作成の後は今回の更新の準備を始めるまでただの一度も起動しなかった。我ながらほんと、ソフトの持ち腐れもいいところだ。
 それから、ノルシュテイン関連の最新ニュースとして、ニック・パークの「ウォレスとグルミット」シリーズ最新作の劇場公開情報も追加した。「関連」とは名ばかりじゃないかという気がしないでもないけれど、まったくないとは言い切れないし、何より昨年12月のロンドン旅行の際にテレビで予告映像を観て以来、私としてはとても楽しみにしていた(でもまさかこんなに早く、こんなにあっさり観られるとは!)ので、これまたやっぱり「ま、いいか」。

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2009.5.23.  三者三様のダグラス・アダムス伝

 前回の更新追加したM・J・シンプソンならびにニック・ウェブによるダグラス・アダムス伝は、悲しいかなイギリスでは今では絶版状態になっている。
 もっとも、アマゾン等を利用すれば中古を簡単に手に入れることはできる。しかも、プレミア価格とは程遠い破格の安値で。そりゃ読みたいと思う人の許に安い値段で本が届くのはいいことだとは思うけれど、正直なところ少々切ない気持ちもする。この調子じゃ、どちらのアダムス伝も再版されてイギリスの一般書店の棚に並ぶ日は来そうもない。幸い、アメリカのアマゾン・コムを見る限り、アメリカではM・J・シンプソンのペーパーバックはまだ流通しているようで、ニック・ウェブの古本についてもそれなりにプレミア価格っぽい値段がついていたが。
 それにひきかえ、ニール・ゲイマンDon't Panic: Douglas Adams and the Hitch-hiker's Guide to the Galaxy のほうは、2003年に出たハードカバーがイギリス・アメリカ両国で今なお普通に流通しているようだ。しかも、今年の9月にはそのペーパーバック版が、"Updated with new material" の触れ込みで出版される予定とのこと。きっと小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』第6作目の出版にまつわるお祭り企画の一環なんだろうけれど、めでたいことに変わりはない。
 ニール・ゲイマンとM・J・シンプソンとニック・ウェブと。読む気があれば3人の手によるダグラス・アダムス伝を読むことができるが、実際にそこまでやるのは、日本の私は言うに及ばず、イギリスやアメリカの『銀河ヒッチハイク・ガイド』ファンの中でもそこそこ以上に「濃い」人たちだろう。普通程度のファンなら著者の伝記まではなかなか手を伸ばさないだろうし、たとえ手を伸ばしたとしてもせいぜい1冊読めば気が済むにちがいない。そして、3作のうちどれか1作だけを選んで読むとしたら、ニール・ゲイマンの Don't Panic にして正解だと私も思う。この本が一番まっとうで、一番分かりやすいから――と書くと何だか一番つまらなそうな感じもするが無論そんなことはない。それどころか、読んでて一番楽しいかもしれない。
 と書くと、今度はM・J・シンプソンとニック・ウェブの著作に何の取り柄もないような感じもするが、無論そんなことはない。M・J・シンプソン版は細かい情報の宝庫で「マニアが気合いを入れて調べ上げた」感が全編に溢れているし、ニック・ウェブ版は「公式」と銘打っているだけのことはあって、家族・親族の協力があって初めて書けたであろう「素顔のダグラス・アダムス」を覗き見することができるし。
 という訳で、私としてはこの3種類のダグラス・アダムス伝に、さらに現在随時紹介中の The Salmon of Doubt: Hitchhiking the Galaxy One Last Time などの情報も加えて、自分なりの「ダグラス・アダムス伝」をまとめられればいいなと思ってはいるが、それこそ一体いつになることやら。

 ともあれ、千里の道も一歩から、と気を取り直して今回の更新も The Salmon of Doubt: Hitchhiking the Galaxy One Last Time より、"My Favourite Tipples""Unfinished Business of the Century""The Dream Team" の3点を追加。
 それから、ダグラス・アダムス関連の最新ニュースとして、第8回タオル・デーのお知らせと、それからP・G・ウッドハウスの思いがけない新作小説も紹介する。こういう本まで新訳で出版される程に日本でウッドハウスの人気が高まったのはめでたいことだが、どうせならイギリスのテレビ・ドラマ Jeeves and Wooster の日本語字幕つきDVDも出してくれればいいのに、と思うのは私だけか?

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2009.5.30.  タオル・デーのイベントあれこれ

 2009年5月25日のタオル・デーは、私としてはこれまでと変わらず一人こっそりタオルを持ち歩くだけで終了した。でも、よその国のタオル・デー関連のサイトを見ると、世界のあちらこちらではさまざまなイベントが行われていたらしい。
 イベントと言ってもあくまで「有志の集い」レベルのもののようだけれど(パリの北駅に夜の10時半にタオルを持って集合、なんてのもあったようだ。フランスでの『銀河ヒッチハイク・ガイド』の人気はゲルマン語圏に比べると今ひとつパッとしないが、一体何人くらい集まったんだろう。もっとも、場所が場所だけに人が集まりすぎても周りの迷惑になりそうだけど)、中でも私が興味をひかれたのは、ドイツからアダムスの墓石があるロンドン・ハイゲート墓地までのヒッチハイクの旅企画。ドイツ人男性が旅の様子を英語のブログにアップしていて、予定していたタオル・デーより早く目的地に到着できたらしい。
 という訳で、まずはめでたしめでたしなのだが、21世紀の今でもヨーロッパではヒッチハイクという手段が一応有効だということにも少しばかり感じ入った。テレビ・カメラが同伴しているならともかく、である。平和で何よりではないか。
 さすがにヒッチハイクを真似する度胸はないけれど、私もこの次にロンドンに行った暁にはアダムスの墓参りだけは何とか実行したいものだと思う。件のブログを読む限り、家族・親族・友人でもない一般のファンが訪れることに特に問題はないようだし(私は相手に迷惑をかけない「良いファン」たらんと常に心がけているので、一般人が墓参りするのは身内の方に失礼になるのではとちょっと心配だったのだ。何せこの手の事柄だけは、文化的・宗教的背景が異なるだけに「何となく」の常識は通じない。やっぱり、それ相応に気を遣わないとね)。

 気を取り直して今回の更新では、The Salmon of Doubt: Hitchhiking the Galaxy One Last Time に収録されている作品の中でも、エッセイとしては一番長い "Riding the Rays" を追加する。
 このエッセイが書かれたのは、今から約10年ばかり前のこと。オーストラリアの高級リゾート、ヘイマン島でダイビングをした時の体験談なのだが、ホテルのみならずダイビング・スポットに向かう船の中でも、アダムスは新婚旅行中の日本人カップルと数多遭遇したらしい。この私がその中の一人でないことは返す返すも残念だが(オーストラリアに行ったことすらないので、ニアミスの可能性も皆無だ)、でも10年前にヘイマン島でアダムス夫妻と一緒の船に乗った、あるいは夫妻の姿を見かけた日本人の方は、今この日本に確実にいらっしゃるにちがいない。そしてまた、その中で「あの『銀河ヒッチハイク・ガイド』の作者と会えた!」と喜んだ人は、九分九厘いないにちがいない――などと、ついうっかり想像しただけで、私なぞは羨ましさのあまりジタバタ暴れ出しそうになるが、そんなことばっかり考えているから10年経った今でもなお、ありとあらゆる意味で高級リゾートでの優雅な時間とは無縁なんだろうな、きっと。

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2009.6.6.  オーストラリアについて想うこと

 前回の更新で追加したエッセイ "Riding the Rays" にもある通り、生前のアダムスがいたく気に入っていたオーストラリアという国について私が想うことと言えば――

 小学5年生の時だったか6年生の時だったかはっきりしないのだが、「好きな国を一つ選んで調べましょう」という夏休みの宿題が出たことがあり、私は何故かオーストラリアを選んだ。
 クラスの中で、オーストラリアを採り上げた生徒は私一人だった。
 日本人がダイビングやら新婚旅行やらで気軽に出かけるようになった現在と違い、あの頃のオーストラリアは日本人観光客とは無縁の「カンガルーとヒツジの国」だった。少なくとも当時の私が抱いていたイメージでは、そういうことになっていた。何せコアラが日本に送られる以前の話である(ちなみに今年はコアラが初めて来日してからちょうど25年目にあたるそうな)。あの頃、私がテレビで目にしたオーストラリアの映像と言えば、もっぱら荒野を飛び跳ねるカンガルーか、あるいは牧場で手際よく毛を刈られていくヒツジだったのだ。
 実際問題として、オーストラリアがいつ頃から日本人の観光客誘致に積極的になったのかは知らない。そもそも日本の側でも、当時の一般庶民には普通に海外旅行できるような経済力がなかったという問題もある。それでも、あの頃のオーストラリアが日本人にとって「いつか行ってみたい海外旅行先人気ランキング」の上位に入っていたとは考えにくい。
 ならば、どうして小学生の私はあの時オーストラリアを選んだのだろう。その理由を私はどうしても思い出せないのだが、突発的かつ一時的にカンガルーに興味を持ったのか、あるいは単に同じ国を選んだ人と内容を比較されるのがイヤだっただけか。
 ともあれ、あくまで田舎の公立小学校で出された宿題であり、あくまでこの私が義理でこなした程度の代物である。調べると言ったところで、せいぜい百科事典とか地図帳の内容を丸写ししたくらいのものだったと思うが、それでもレポート用紙をもっともらしく埋めていく過程で、何度か「へええ、オーストラリアってそうなんだ」と思ったことだけはいまだに憶えている。ということはつまり、投げやりな丸写しレポートにもそれなりの教育的効果はあったということだろう。そして、その「へええ」の中でももっとも印象的だったのが、オーストラリアのいわゆる「白豪主義」というヤツだった。
 オーストラリアは白人移民のための国です、白人以外の方は原則お断りです――って、昔はこういうムチャな政策も国際的に認可されてたんですね、そりゃ今でも人の心の中に人種差別は残っていますがでもさすがにここまで露骨な表現はありえないですよね、いやはやまったく時代が変わって良かったですね、というならまだ分かる。でも、当時の私が参考にしたごく普通の百科事典や地図帳の記述は、どちらかと言えば「白豪主義」に肯定的だったのだ。小学生だった私としては、「こりゃ日本人の私はオーストラリアには一生行けそうもないな」と思うのみであった。
 今では、家族旅行でケアンズに行ったことのある小学生は珍しくない。老後の年金生活を物価の安いオーストラリアで過ごすという日本人の話を新聞で読んだこともある。が、今では当たり前のように受け止められているオーストラリアの多文化主義への転換も、考えてみれば実はつい最近のことなのだ。そう思うと、21世紀に入って何もかもが悪い方へ悪い方へと向かっているように見えても、そうじゃないことも少しはあるんだなという気がしてくる。
 前回の同コーナーに書いた通り、私はこれまで一度もオーストラリアに行ったことがない。小学生の頃に読んだ「白豪主義」のトラウマがあるから、というのは勿論真っ赤な嘘で、単にインドア志向の私にはこれまで行くきっかけがなかっただけのこと。2005年2月にはかなり真剣に検討したものの、結局ロンドンまで行くことにしたし。
 それでも、私も小学生時代の悲観的な未来予想を打ち砕くべく、いつかグレート・バリア・リーフには行ってみたいものだと思う――アダムス絶賛の超高級リゾート、ヘイマン島は無理だとしても。
 
 そして今回の更新は、The Salmon of Doubt: Hitchhiking the Galaxy One Last Time より "The Rhino Climb"。キリマンジャロにも行ったことはないけれど、こちらは一生行けなくてもいいかも。

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2009.6.13.  『英国流ビスケット図鑑』

 先日、近所の図書館をふらついていて『英国流ビスケット図鑑 おともに紅茶を』という本を見つけた。
 奥付を確認すると、2008年9月の発行となっている。うわあ、こんな本が出ていたなんて全然気付かなかった、イギリスに旅行するたびスーツケースにリッチティー・ビスケットを詰めて帰国する私としたことが何たる不覚、とか何とか思いながら本のページをパラパラとめくってみると、ビスケット紹介のいの一番に、リッチティーが上げられているではないか。
 素晴らしい。
 リッチティー・ビスケットを筆頭に、さまざまなイギリスのビスケットについての説明書きを日本語で読める日が来ようとは。そりゃイギリスのアフタヌーン・ティーに関する本なら日本でもこれまで山のように出版されていて、下手すりゃイギリス本国よりも多いんじゃないかと思えるくらいだが、それらはどれも基本的に「イギリス中・上流階級の優雅な暮らし」に対する憧れをかき立てるアイテムとして書かれている。故に、「アッパーをめざせ」の号令一下、本場イギリスでのアフタヌーン・ティーは午後4時頃から始まりますだの、スコーンには本物のクロテッド・クリームが欠かせませんだのといった蘊蓄合戦が繰り広げられることとなり、ビスケットなどというワーキング・クラス丸出しなものについては「そういうもので日々のお茶の時間を過ごすしかない人もいます」的な表現で片付けられてしまう。今の私が知りたいのは、ティー・カップとケーキではなく、マグカップとビスケットな暮らしのほうなのに。
 とは言え、白状すると私も1冊だけこの手の「アッパーをめざせ」な本を持っている。PARCO出版の『英国の紅茶とお菓子』。いかにもなタイトルにつられてつい買ったものの、中身を読んで愕然とした。実はこの本、アメリカで出版された「アメリカ人が憧れるイギリスのアフタヌーン・ティーを紹介する本」の日本語訳だったのだ。

 アフタヌーン・ティーは、アメリカに伝わっても、その壮麗さ、優美さを失うことはありませんでした。一日に一度だけ、一番上等の磁器を戸棚から全部取り出します。大切な銀の砂糖ばさみや、大好きなおばさまから譲り受けたカットグラスのクリームとお砂糖入れも用意します。一番上等のリネンのテーブルクロスと手編みのレースの上に、ビリングスレイのばらの磁器の飾りも忘れてはなりません(p. 7)。  

 こういう素敵な文章を、ギャグとしてしか楽しめない私の性根は腐り果てている。
 それにひきかえ『英国流ビスケット図鑑』は、ビスケットの紹介より先にオフィスでの電気ポットの使用法の心得が書かれているほどにワーキング・クラス志向全開なのだが、悲しいかなこの本にはこの本なりの難点がある。リッチティーやその他のビスケットに関する説明文に終始してくれればいいものを、一般大衆に広くおもしろく読ませようという意図なのか、はたまた単に字数を稼ぎたかっただけなのか、どうでもいい余談がやたらと多いのだ。  

 リッチティービスケットと聞けば、ただちにひとつの矛盾が浮かびあがる。リッチ(金持ちの)ティーがあるなら、プア(貧乏人の)ティーなるものはどこに存在するのか、そしてそれはどんな味がするのか、ということだ。リッチティーそのものが、味の饗宴といった類のビスケットではないのだから、それがプアティーともなればかなりぱっとしないだろう。となればプアティーは、いや、プアを取ったただのティーでさえ、リッチティーが収めた成功にはとてもかなわないはずだ(p. 85)。

   こういうお茶目な文章を、ギャグとして楽しめない私の性根はやっぱり腐り果てている?

   気を取り直して今回の更新では、「Topics」の「リッチティー・ビスケット」に加筆した他に、前回の更新で追加した "The Rhino Climb" に登場したウィリアム・トッド=ジョーンズを、アダムスの「関連人物一覧」ではなく「映画『銀河ヒッチハイク・ガイド』スタッフ・プロフィール」で紹介する。それからさらに、The Salmon of Doubt: Hitchhiking the Galaxy One Last Time にも "Brandenburg 5" を追加したので、こちらもよろしく。

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2009.6.20.  「ブランデンブルク協奏曲」を聴く

 今、この文章を書きながら、BGMとしてバッハの「ブランデンブルク協奏曲」を流している。それも、ベンジャミン・ブリテン指揮によるイギリス室内管弦楽団の演奏。要するに、アダムスがライナー・ノーツを寄稿したCDだ。他でもないこの私が、アダムスご推薦の「ブランデンブルク協奏曲」ってどんな曲だっけ、とか何とか情けないことを思って何か一枚CDを買うなら、これ以外の選択はありえないでしょ、絶対。
 さて、いざ曲を聴いてみれば、さすがの私も「あ、これは聴いたことがある」な音楽ではあった。メールやネットで遊んでいる時のBGMとしては申し分ない。ただし、アダムスが言うような、曲の親しみやすさ(familiarity)とか凄み(magnitude)がどこにあるのかは私には不明。ま、音楽オンチな私の場合、良し悪しが分からないのはこの曲に限ったことではないので、気にしない気にしない。
 ちなみにこのCDは、ペンギン・クラシックスのシリーズとして売り出されたものの中の一枚ということになっている。そしてこれらのCDは、Penguin Guide to CDs とかいう本の中で紹介されたものらしい。ということは、この本には、同じ「ブランデンブルク協奏曲」でも、ベンジャミン・ブリテン指揮によるイギリス室内管弦楽団の演奏のどこがどう素晴らしいのか、具体的に書かれているのかもしれない。かもしれないが、今現在普通に流通している本ではないようだし、たとえどうにかしてテキストが手に入ったとしても、クラシック音楽の演奏の巧拙について英語で説明されて私に意味が分かるとはとても思えない――英語どころか日本語で読んでも理解できそうもないと思うので、クラシック音楽についてはこれ以上深くかかわるのはやめておくことにする(何せ、ここ数年における私とクラシック音楽とのかかわりと言えば、友人にテレビ・ドラマ『のだめカンタービレ』のDVD-BOXを借りて観たくらいのものだ。しかも、あのドラマを観ながら、へええ、曲もオーケストラも同じでも指揮者が違うと全然別の音楽に仕上がるってこともありえるんだねとか思っていた。我ながら、まったくもって話にならん)。
 
 気を取り直して今回の更新は、The Salmon of Doubt: Hitchhiking the Galaxy One Last Time"Frank the Vandal""Build It and We Will Come" の2項目を追加。
 The Salmon of Doubt: Hitchhiking the Galaxy One Last Time は、「LIFE」「THE UNIVERSE」「AND EVERYTHING」の三部構成になっているが、"Frank the Vandal" より第二部の「THE UNIVERSE」に入る。第一部の「LIFE」がアダムスの生い立ちや生活や趣味について書かれた作品やインタビューだったのに対し、「THE UNIVERSE」はコンピュータや科学について書かれたエッセイやスピーチの類になるため、私にとってはかなり読みにくい。とは言え、今さらめげても仕方がないので地道に読解を続けていくしかない。それに、思い出してみれば、マイケル・ハンロンの『銀河ヒッチハイク・ガイドの科学』だって相当読みにくかったしね。
 それから、ニール・ゲイマンの『銀河ヒッチハイク・ガイド』解説本、Don't Panic: Douglas Adams and the Hitch-hiker's Guide to the Galaxy の改定版の出版について、最新ニュースに追加した。この情報はとっくに載せているものと思い込んでいたが、5月23日付の同コーナーで軽く触れただけだったことに今頃になって気付いた次第。

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2009.6.20.  映画の好み

 1999年の時点でアダムスが買いたくても買えなかったフランコ・ゼフィレッリ監督の映画『ロミオとジュリエット』のDVDは、10年後の今ならアマゾンで簡単に買える。現在イギリスで流通しているDVDが発売されたのは2003年で、日本版のDVDの発売は2006年。アダムスが "Build It and We Will Come" で書いていたように、この映画のDVD化を求める声が製作会社にうまく届いた結果だろうか。
 とは言え、私はこの映画を観たことがない。
 『ロミオとジュリエット』の決定版として、一度は観ておいたほうがいい超有名作だということくらいは知っている。シェイクスピアの原作戯曲も嫌いじゃない(どちらかと言うと『ヴェニスの商人』のほうが苦手だ)。でも、あのいわゆる「往年の名画」っぽい色調の映像そのものに何となく食指が動かないまま、ずるずると今日に至ってしまった。バス・ラーマン監督の『ロミオ&ジュリエット』なら、映画館で楽しく観たんだけどな。
 ともあれ、アダムスが(たとえ一時の出来心にしろ)執心した作品とあれば、私としても放っておく訳にはいかない。早速にも近所のTSUTAYAの棚を物色してみよう、といつもなら思うところだが、今回に限っては妙に腰が重い。というのも、私とアダムスとでは映画の好みが違うんじゃないかという気がするから。
 あくまで「気がする」レベルである。好きな音楽について語っているインタビューは数多あれど、アダムスが好きな映画について語っているインタビューは私はあまり読んだことがないので、はっきりしたことは分からない。ただ、時々何かの拍子に出てくる映画のタイトルが、悲しいかないつも私の好みとは微妙にズレているのだ。2007年11月24日付の同コーナーに書いたサイレント映画の『ナポレオン』しかり、小説『さようなら、いままで魚をくれてありがとう』の中でフォードが地球から持ち出すビデオしかり――ネタバレになるからタイトルは伏せるが(知りたい方はこちらへ)、途中までしか観たことがなくて続きが気になった、という気持ちは分かるけれど、正直に言って私にはこの映画、挿入曲とラストシーンを除けば、どこがそんなに素晴らしいのか良く分からない。
 私は決して気難しい映画鑑賞者ではないし、ハリウッド映画史上のベスト10アンケートに出てくるような類の映画は、『風と共に去りぬ』であれ『市民ケーン』であれ、大抵どれもそこそこ以上に楽しく観ている。この映画だけが、例外中の例外なのだ。なのに、何故、よりによってこの映画を?
 勿論、フォードの好み=アダムスの好みとは限らない。でも、ああいう場面では作者自身が「つまらない」と思う映画は敢えて挙げないだろう。ということはやっぱり私とアダムスの映画の好みはズレていると考えたほうが無難で、ということはやっぱりフランコ・ゼフィレッリ監督の映画『ロミオとジュリエット』も私の好みじゃない可能性が高い訳で――などとぐずぐず考えていても仕方がない、さっさと観てケリをつけるか。
 
 気を取り直して今回の更新は、The Salmon of Doubt: Hitchhiking the Galaxy One Last Time"Predicting the Future" を追加。『宇宙の果てのアンソロジー』に収録されたブルース・ベスキのエッセイ "The Secret Symbiosis: The Hitchhiker's Guide to the Galaxy and Its Impact on Real Computer" も合わせてお読みいただければ、より感慨深いかもしれません。
 
 さて、当サイトは来週から例年通り2ヶ月の夏休みに入る。次回の更新は9月5日の予定。その頃には、海の向こうでは小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』30周年記念イベントが盛り上がっているだろうか。

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2009.9.5.  『SFマガジン』と『SF本の雑誌』

 普段の私は、SF関連の雑誌をチェックしたりすることはない。ごく稀に、せいぜい年に一回くらいの頻度で書店でパラパラめくってみるのが関の山だ。それも、『銀河ヒッチハイク・ガイド』が映画化された時とか、ヴォネガットが亡くなった時とか、自分が気になる記事が出ていそうな場合だけに限られる。
 SF全般に興味がない、を通り越して、どちらかと言うと積極的に避けて通りたいと思っているほうだからそれも当然なのだが、ともあれそんな私が暑さしのぎで入った書店で『SFマガジン』2009年8月号に手を伸ばしたのは、純度100パーセントの出来心だった。それだけに、最初のページをペラリとめくった途端、本気でぶっ飛んだ。
 「佐藤哲也氏の心の一冊 『銀河ヒッチハイク・ガイド』」!
 なななななななんてこったい。
 正直に白状すると、私はこれまで佐藤哲也氏の作品を一冊も読んだことがなかった。佐藤亜紀の著作なら片端から全部読んでいて、2002年のマイ・ベスト小説に選んでいるにもかかわらず、だ(ご存知ない方のために付け加えておくと、佐藤哲也氏と亜紀氏はご夫妻です)。佐藤哲也作品を読んでいないことについて深い理由はなく、ただ「SFって基本的に苦手だから」と敬遠していただけなのだが、『SFマガジン』2009年8月号をレジに持っていきながら、やっぱり読まず嫌いって良くないねとしみじみ反省する。
 とは言え、どの作品から読み始めるのがベストなんだろう、やっぱり出版順がいいのかな、と思いつつ、同じ早川書房から出版されていても〈ハヤカワSFシリーズJコレクション〉よりは〈想像力の文学〉と銘打たれた作品のほうがまだしもSF度数は低かろう、という後ろ向きな理由により、二ヶ月ほど前に出版されたばかりの最新作『下りの船』から読んでみることにしたところ――びっくりするくらい(失礼)おもしろかった。
 この作品とて立派にSFの範疇に入るのだろうが、語りの視点は次々に変わっても、「地べた目線」とでも言うのか、大所高所から世界を見通すことなどできない私たちと同じ立ち位置をキープしているため、よく分からない外部の力に押し流されるしかない無力さとか、流されつつもしぶとく順応していく図太さとかが、読んでいてとてもリアルに差し迫ってくる。言い換えると、どの国とどの国がどういう理由と経緯でどういう種類の戦争していて、といった、立派なSFやファンタジーにはよくある、小説内世界の設定に関する長ったらしい説明書きがない。それを物足りないと思う読者もいるかもしれないが、その手の説明書きが苦手な私としては読みやすかったし、ラストには心底じんときた。
 という訳で、次は〈ハヤカワSFシリーズJコレクション〉に挑戦だ。
 
 SF関連の雑誌はチェックしなくても、SF関連の書籍ならめぼしいものは必ずチェックするようにしている。特に、「オールタイムベスト」の類が載っているようなものならほぼ確実にと言っていい。
 故に、書店で2009年7月5日発売の『SF本の雑誌』を手に取り、「本の雑誌が選ぶSFオールタイムベスト100」という記事に目を光らせたのは私にとっては当然の成り行きだったし、順位付けを決めた三人のうちの一人が大森望氏だったこともあって、リストの中に『銀河ヒッチハイク・ガイド』のタイトルを見つけた時も特に驚かなかった――が、その順位が42位だったことには少々面食らった。
 これって確信犯だよねえ、やっぱり?
 
 などと相変わらずな日々を過ごしているうちに2ヶ月の夏休みは例年同様あっけなく過ぎ去り、いよいよ小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』30周年記念の祭囃子が海の向こうから聞こえてくるようになった(ダグラス・アダムス関連の最新ニュースに追加した通り、「祭囃子」という言葉が必ずしも比喩ではないのが怖い)。
 が、まずはその前に、今回の夏は昨年の Dirk Genlty's Holistic Detective Agency に続き、「ダーク・ジェントリー・シリーズ」の続編 The Long Dark Tea-Time of the Soulストーリー紹介解説を追加した。それから、イギリスの新聞「ガーディアン」の批評家たちが選んだ「必読小説1000冊」も合わせて紹介する。

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2009.9.12.  祭りの始まり

 9月1日、小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』30周年記念イベントの第一弾として、パン・ブックスから装丁を一新した『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズ計5冊が出版された。
 勿論、私は5冊まとめてアマゾンに注文しておいたのだが、注文も一括なら出版日も出版社も同じであるにもかかわらず、なぜか私の手元にはシリーズ1作目と4作目だけが先に届き、残りの3作はこれからの発送になるとのこと。バラバラの発送でも送料はかかりません、ということだからいいんだけど、物流の仕組みって何だか不思議だ。
 ともあれ、先に届いた The Hitchhiker's Guide to the GalaxySo Long, and Thanks for All the Fish には、ラッセル・T・デイヴィスニール・ゲイマンによる序文が付いている。この序文については、辞書を使って読解した上で後日詳しく紹介するつもりでいるが、逸る気持ちを抑えられずとりいそぎ辞書なしでざっと流し読みした限りでも、どちらの序文も「さすが」の出来であった。
 この新装版には、序文だけでなく、巻末にもアダムスが保管していたさまざまな資料の一部(アダムスがアメリカの出版社宛に送ったファックスとか、プロモーション用に作成された資料とか)が転写されていて、こちらも実に興味深かかったりする。新装版のカバーデザインをネット上で初めて目にした時には、率直に言って私の好みとはあまりにズレていてがっかりしたけれど、こんなにもいろいろな「おまけ」を付けてもらったからには、もう文句は言えないな。
 ――と、ここまでは万事めでたしめでたしなのだが。
 実は私も最近になって気が付いたのだが、同じ9月1日に、この新装版5冊とはまた別に、マクミラン・チルドレン・ブックスからも新装版『銀河ヒッチハイク・ガイド』が出版されている。パン・ブックスもマクミラン・チルドレン・ブックスもどちらもパン・マクミラン・グループの傘下なので、実質的には2種類の『銀河ヒッチハイク・ガイド』のペーパーバックスが同時発売されたようなものだ。
 マクミラン・チルドレン・ブックス、と言っても、子供向けに特に大きい活字で組まれている訳ではない。故に、『銀河ヒッチハイク・ガイド』のテキストを読むという意味では、両者の違いは限りなくゼロだ。違いと言えばカバーデザイン(ダサさ加減ではどちらもいい勝負)と、価格設定(マクミラン・チルドレン・ブックスのほうが1ポンド安い)、そしてマクミラン・チルドレン・ブックスではシリーズ第一作目にだけ、オーエン・コルファーによる序文が付けられていること。
 ったく、私のようなマニアにどこまで金の無駄遣いをさせれば気が済むんだよと憤慨しつつも、でもやっぱりコルファーの序文とあらば見過ごし難く、マクミラン・チルドレン・ブックス版も急ぎ追加注文することに。そして先日この本が届いたので、逸る気持ちを抑えられずとりいそぎ辞書なしでコルファーの序文をざっと流し読みしたのだが――。
 正直なところ、よりにもよってこの序文の書き手が『銀河ヒッチハイク・ガイド』の6作目を執筆することについて、これまで以上に不安が増してしまった。
 単なる私の杞憂、もしくは語学力不足だったらいいんだけどねえ。
 
 そして今回の更新は、『銀河ヒッチハイク・ガイド』6作目のテーマ曲(!?)を手掛けることになったアイルランドのバンド、The Blizzards について。
 ああ、不安だ。

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2009.9.19.  もう一つの祭りの始まり

 ダグラス・アダムス関連の最新ニュースにも書いた通り、2009年9月6日午後8時からBBC2でスティーヴン・フライマーク・カーワディンによる『最後の光景』のテレビ放送が始まった。
 番組の公式サイトにアクセスすれば、放送日から約1ヶ月間に限って、各エピソードをパソコン上で視聴できるようになっている。ただし、イギリス在住の方限定のサービスのため、残念ながら日本にいる私は手が出せない。同じBBCでも、ラジオ・ドラマ『銀河ヒッチハイク・ガイド』の新シリーズ『ダーク・ジェントリー』の時は国外からでも大丈夫だったのに。
 もっとも、この番組に関しては11月にDVDが出ることが決定済みなので、今見られないからと焦る必要はない。私の場合、むしろDVDで英語字幕を付けて観たほうが分かりやすくて助かるというもの。もっと言えば、9月3日に出版されたこの番組の本を先に読めばさらに分かりやすいのだが、アマゾンに予約注文しておいたにもかかわらず、まだ私の手元に届いてないんだよな。
 ところで、この数週間というもの、番組の放送に先駆けてスティーヴン・フライマーク・カーワディンの二人があちこちのメディア媒体でエッセイを書いたりインタビューを受けたりしているのを、あれこれ読んだり聞いたりしていた。いわゆる「番宣」というヤツですね。で、せいぜい7割の読解力と、どう考えても5割以下のリスニング力の私がこういうことを言うのもなんだが、スティーヴン・フライのどの記事もどの質疑応答も、びっくりするほど感じがいい。言いたいことを言い、批判すべきはきちんと批判しているのに、これっぽっちもイヤな空気にならない。「番宣」だからそれも当然、という意味ではなく、ポッドキャストで『最後の光景』とは何の関係もない話をしているのを聞いてみても、圧倒的に感じがいいのだ。マーク・カーワディンとしても、旅をするならアダムスよりフライと一緒のほうがラクだったんじゃないかなあと、つい余計な想像をしてしまったくらいに。
 勿論、単なる私の思い込み(私の英語力ならそうだとしても不思議ではない)とか、たまたま自分の好みと合うものにしか当たっていない(フライが公表している文章や発言の総量と比較すれば、私が触れたのは千分の一以下だろう)という可能性だってある。でも、イギリスでもトップクラスのメディア人として第一線で活躍し続けていられる程の人ならば、この「感じの良さ」は決して付け焼き刃ではないはず――と思うんだけど、どうかしら?
 
 そして今回の更新は、早くも決定した第8回ダグラス・アダムス記念講演の講演者、マーカス・デュ・スートイについて。それから、ささやかながら『銀河ヒッチハイク・ガイド』が出てくる、BBCのドキュメンタリー映画『宇宙へ。』も追加した。
 それから、ダグラス・アダムスの新たな解説本の発売も決まったので、それも最新ニュースで紹介する。'Rough' というタイトルが、著者の謙遜だといいな。

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2009.9.26.  2種類の Last Chance to See

 前回の更新分をアップロードしてから約3時間後、Amazon.co.uk からの郵便物が届いた。中身は、リチャード・ドーキンスの序文が付いた新装版 Last Chance to See のペーパーバックと、マーク・カーワディンスティーヴン・フライによる20年ぶりの新シリーズ版 Last Chance to See のハードカバー。やれやれやっと届いたか。
 前者のペーパーバックは、版権がこれまでの Pan Books から Arrow Books に移っただけなので、表紙のデザインとドーキンスの序文を除けば中身は同じ。テキストの内容が同じ、というだけでなく、活字も同じならページ番号もまったく同じ――ってことは、同じ版下で印刷したということ?
 ま、それだけなら作業効率アップという企業努力の一環として認めないでもないんだが(絶版になるよりずっといい)、新装版のほうが従来のものより印刷の状態がよろしくない感じがするのは、ちょっと切ない。刷り上がったページを見比べてみると、同じペーパーバックでもかつての Pan Books のほうがシャープでクリアなのだ。あくまで素人判断なので、ひょっとしたら単なる個人の好みの問題なのかもしれないし、紙とインクの相性が悪かっただけなのかもしれないが。
 それにひきかえ後者のハードカバーのほうは、1990年に発売されたアダムスのハードカバー版『最後の光景』と比べ、造りが格段に豪華になっている。アダムスのほうは、普通のテキストのページの間にカラー写真のページが挿入されているだけだったが、マーク・カーワディン&スティーヴン・フライ版はフルカラーでレイアウトも凝っている上、本のサイズ自体も一回り大きい。アダムスのが「写真付きエッセイ集」だったとしたら、マーク・カーワディン&スティーヴン・フライのは「エッセイ付き写真集」といったところか。前回がラジオ番組だったのに対し、今回はテレビ番組として製作されたから、その予算規模云々が出版物にも反映したということもあるかも。ともあれ、ゴージャスな方向へと進んでくれるのは私としては大歓迎だ。特に今なら、1ポンド160円以下のレートで買えることだし。
 この豪華ハードカバーで一つだけ残念だったのは、本文を執筆したのは基本的にマーク・カーワディン一人で、スティーヴン・フライは序文しか担当していないことである。ちょっとIMDBで検索しただけでも、他に同時に抱えている番組やら企画やらがぞろぞろ出てくる彼のことだもの、撮影から出版までのこの短期間に本1冊を一人で書き上げる時間的余裕がなくて当然なんだが、その分きっとテレビ番組の Last Chance to See のほうで活躍しているだろうから、そっちのDVDを期待して待つとしよう。ちなみに、その殺人的に忙しそうなスケジュールの合間に書かれたであろう序文は、やっぱりすごく感じが良くて「さすが」であった。
 という訳で、世間の皆様がシルバーウィークの行楽に明け暮れている最中に、私は一人自宅に籠って英文読解に勤しんでいた。無論、本人としては楽しいからこそやっているんだが、世間の常識ってヤツとはますますズレていくような気もして、そこのところは少々心配――そもそも、新シリーズ版 Last Chance to See のハードカバーを購入した在日日本人って、何人くらいいるのやら。
 
 気を取り直して今回の更新は、前回のマーカス・デュ・スートイに続き、やはり高名な大学教授、テリー・イーグルトンを追加。まさかこの人の名前まで、ダグラス・アダムス関連人物一覧に挙げることになろうとは。

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2009.10.3.  イーグルトンを英語で読む

 前回の更新の準備のため、テリー・イーグルトンの『新版 文学とは何か』を自宅の本棚の奥から取り出したところ、十数年間に亘って本の上に静かに降り積もっていたホコリのせいで手が痒くなった。
 これまで本棚を整理するたびに「どうせ二度と読まないんだから処分しようか」と何度となく逡巡したものの、「でも3600円も払った本だしな、ひょっとしてまた何かの折に参考にしたいと思うことがあるかもしれないしな」と手放しあぐねていた1冊である。それがまさか、こんな形で活用する日が来るとはね。こういうことがあるから、本って迂闊に捨てられない。
 とは言え、自宅にあった『新版 文学とは何か』が役に立ったのはイーグルトンの略歴や著作一覧を作る上でのことであり、彼が『銀河ヒッチハイク・ガイド』について言及したイギリス版新書 The Meaning of Life を読解するにあたって参考になったのは、図書館で借りた『アフター・セオリー』のほうだった。あ、いや、別に『アフター・セオリー』なんかを併読しなくても、きちんと The Meaning of Life の英文と向き合えばいいだけのことなんだが、以前マイケル・ハンロンの The Science of the Hitchhiker's Guide to the Galaxy を読んだ時には『宇宙のエンドゲーム』や『タイムマシンをつくろう!』にお世話になったように、英文そのものと取っ組み合うよりも、そこで書かれていると思われる内容について日本語で書かれた文献を読んで先にある程度の情報を得ておくほうが話が早い、と私はつい考えてしまうのだ。
 もっとも、普段の私なら、この本の最後に付けられた Index をチェックして、'Adams, Douglas' が42ページにしか出てこない(余談だが、よりにもよって「42」ページとは、単なる偶然にしてもよく出来ている)と分かった時点で、該当箇所だけ読んで終わりにする。たとえ素人向けに書かれた100ページかそこらの小冊子もどきな本だとしても、テリー・イーグルトンを英語で読もうとは絶対に思わない。にもかかわらず、今回に限っては根性と忍耐で最初から最後まで読んだ、と言わない、とにかく一通り目を通したのは、件の42ページに書かれていたこの一文のせいだった。

What is amusing about Deep Thought's '42' is not just the bathos of it, a notion we shall be looking at a bit later.

 お願いだから、'a bit later' なんて気安く書かないでくれ。
 Index には 'Adams, Douglas' でも 'The Hitchhiker's Guide to the Galaxy' でも 'p. 42' としか書かれていないのに 'at a bit later' って何なんだよ、と、それを知りたい一心でイーグルトンの分かるようでやっぱりよく分からない英文をひたすら追い続け、'a bit later' どころか101ページで終わる本文の95ページ目まで来てようやく "It is only slightly more edifying than '42'." という一文を発見した時は、自分で自分を褒めてあげたいと心底思いましたとも。ふん。
 
 そして今回の更新は、まもなく一周忌を迎えるSF作家、バリントン・J・ベイリーについて大幅加筆。
 私はベイリーのペーパーバックも1冊だけ持っている。が、ベイリーを英語で読む苦痛はイーグルトンを英語で読むどころの比ではないと思うので、多分この先ずっと本棚に並べたままになるだろう――と分かっていても、『新版 文学とは何か』同様、やっぱり処分できないんだけどね。


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2009.10.10.  ベイリーの一周忌に寄せて

 SF作家のバリントン・J・ベイリーが亡くなってから、まもなく一年になる。
 ベイリーの名前は、2001年2月12日に初めてこのホームページをアップロードした時から「ダグラス・アダムス関連人物一覧」の中に入れていた。理由は簡単、私が書いた「『銀河ヒッチハイク・ガイド』考」で、ロバート・シェイクリーカート・ヴォネガット・ジュニアと共に、ベイリーとアダムスを比較・検討していたからである。だが、インタビュー等でアダムス本人が「読んだことがある」と名言しているシェイクリーやヴォネガットと違い、ベイリーについてはアダムス本人のコメントはおろか、他の誰かが関連性なり類似性なりを指摘しているのすら読んだことがない。そりゃ「関連も類似もないからじゃん」と言われればそれまでだが、「似て非なる」と思ったからこそアダムスとの比較の対象として有効なんじゃないかと言いたい私としては、きっとどこかにアダムスとベイリーについて書かれた文章があるはずだ、単に私が探し切れていないだけだ、そのうちきっと見つかるさ、と思いつつ、当座の措置としておざなりに数行程度の紹介文を載せただけで、それきりまったく何の加筆もしないままに時間だけが過ぎていき、昨年末にとうとうベイリー死去のニュースを耳にした次第。
 ご冥福をお祈りします。
 という気持ちに嘘はない。ないがしかし、前回の更新に際して数年ぶりに自分でももう一度「『銀河ヒッチハイク・ガイド』考」を読み返してみたところ、ベイリーに対する遠慮も配慮もあったもんじゃない貶しっぷりに我ながら軽く目眩がした。身も蓋もない、とはまさにこのことじゃないか。
 「『銀河ヒッチハイク・ガイド』考」は、私の大学の卒業論文に若干の加筆・訂正を加えたものだが、ベイリーについて書いた箇所は当時のままで、ほとんど変更していない。いやあ、若いって残酷だねえ、というか、卒業論文執筆のために最後まで読まざるを得なかったベイリーの『時間帝国の崩壊』が救い難くも絶望的なまでにつまらなかったことへの反動で余計に辛口になった(ちなみに『SFマガジン』2009年5月号に掲載されたベイリーの追悼特集には、この作品が「私見ではベイリーの最高傑作」(p. 57)などという、思わず我が目を疑うような一文があったりして、つまりはやっぱり根本的に私はジャンルSFとは相容れないってことだ)のも確か。ただ、それにしても今の私だったらもうちょっと婉曲な言い回しを選ぶにちがいない――もっとも、それはそれで本心から相手を気遣ってというよりも、自分に逃げ道を残しておくためのセコい計算でしかないんだけど。
 
 気を取り直して今回の更新は、2009年2月にイギリスの雑誌 SFX の公式サイトで発表された、「十大イギリスSF小説」について。誰が選んだか知らないが、『銀河ヒッチハイク・ガイド』も入れてくれてありがとう。
 さて、いよいよ明日はロンドンで小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』30周年記念イベントとやらが開催され、いよいよ明後日にはオーエン・コルファーによる『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズ6作目が発売される。残念ながら、Amazon.uk から私の手元に届けられるのはもう少し先になりそうだが、こればっかりは仕方がない。それよりも、6作目の感想をこのホームページにアップする際に、「婉曲な言い回し」に頭を悩ませるような羽目に陥らないことを、切に祈る。


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2009.10.17.  ついに発売

 小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズ6作目 And Another Thing... が、イギリス・アメリカでついに発売された。
 が、Amazon.uk に注文した私の手元にはまだ届いていない。12日に発売されてからまだ5日しか経っていないのだから無理もない、もうしばらく首を長くして待っていよう、と思いつつ、でも本の中身や評判が気になって気になって仕方がないのもまた事実。で、先週末からイギリスの各種メディアのサイトなどを漁っていたのだが、こういう時やっぱり「ガーディアン・オンライン」は凄い。紙媒体の「ガーディアン」にも同じ文章が掲載されているかどうかは分からないが、今月に入ってからだけでも『銀河ヒッチハイク・ガイド』30周年の特集記事やら新作小説発売の紹介やらに加え、発売日直前の10月10日には作者オーエン・コルファー自身による、シリーズ6作目を引き受けた後の顛末や現在の心境などを綴ったエッセイなんてものまで載せてくれる。さらに翌11日には(発売日前日にもかかわらず)早くもこの新作の書評まで出ていて、つまり校正刷りの段階で出版社から渡されていたってことなんだろうけど、ともあれこの書評がかなり好意的、というか "it's clear this is a triumph." とまで言い切っているってことは、相当期待していいってことじゃないの?!
 かくして、私の首はますます長くなるのであった。
 が、まずはその前に、10月1日に発売され10月6日には早くも私のところに届いた『銀河ヒッチハイク・ガイド』の新しい解説本、The Rough Guide to "The Hitchhiker's Guide to the Galaxy" について。9月19日付の同コーナーで「'Rough' というタイトルが、著者の謙遜だといいな」と書いたが、これは私の完全な勘違いだった。ペンギン傘下にある Rough Guide Ltd という出版社が出している「Rough Guide」シリーズの中の一冊という意味で、本の内容のほうも 'Rough' どころかかなりマニアックな仕上がりになっている。Index をざっと眺めてみただけでも、私の知らない固有名詞が結構あり、ということはこのホームページに新たに追加できそうなネタがたくさん見つかりそうで嬉しいぞ、などと思いながら適当にパラパラとページをめくっているうち、'online resources' の章で、他でもないこのホームページのアドレスが出ているのに気付く。

This makes online resources particularly pertinent to The Hitchhiker's Guide to the Galaxy. They run the gamut from Japanese fanpage home.u08.itscom.net/hedgehog - sadly, all but impenetrable to those who don't speak Japanese - to official sites like eoincolfer.com.

 これって単に日本語で言うところの「ピンからキリまで」の「キリ」扱いされているだけなのかもしれないけれど、たとえそうだとしても自分のサイトのアドレスが活字になっているのを見るのはやっぱりとっても気分がいい。へへへ。
 
 そして今回の更新は、2003年にBBCが行った愛読書調査 Big Read のテレビ番組のために製作された、『銀河ヒッチハイク・ガイド』のヴィデオ・クリップのキャストについて。さまざまな新作が出ているこの時期に今さら何を、とお思いかもしれませんが、前から気になってはいたもののイマイチよく分からなかったこのヴィデオ・クリップの詳細を、このたびの The Rough Guide to "The Hitchhiker's Guide to the Galaxy" でようやく掴むことができたのが嬉しかったので、つい。


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2009.10.24.  ついに到着

 先日、Amazon.uk から、私が予約注文した『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズ6作目 And Another Thing...のハードカバーと朗読CDが届いた。
 でもその前に、私はこの小説の冒頭部分をネットラジオで聴いていた――10月18日に取り急ぎ最新ニュースに追加した通り、BBCラジオ4では10月12日の発売当日から早くもこの小説の朗読を放送していたのだ。それぞれのエピソードが放送から1週間以内に限ってBBCラジオ4の公式サイトから聴くことができ、私はぎりぎりのタイミングで第1回目の放送分に間に合った。という訳で、この情報を私にメールで教えてくれたやっさま、どうもありがとうございました。
 とは言え、いかんせん私のリスニング力では内容をろくすっぽ把握できないのも確か。で、やきもきしながら本の到着を待つかたわら、先週に引き続きネットでの書評漁りを続けることに。
 私が見つけた中でも、10月18日付で「サンデー・タイムス」から転載された「タイムズ・オンライン」の書評は、ものすごく手厳しかった。「この続編の一番の長所は、オリジナル作品がいかに良かったかを思い出させてくれること」と、バッサリ。
 一方、「ガーディアン・オンライン」には、10月11日付で掲載されたベタ褒め書評に続き、17日にはジャーナリストで作家のマーク・ローソンによる書評も出ていて、こちらもかなりの絶賛モードだった。「作者の死後に別の人によって書かれた作品としては最上の出来」で、「(ブログ等で文句を言う人もいるだろうが)ティーンエイジャーの頃に最初のパン・ブックスのペーパーバックを買った者の一人として言わせてもらえば、オーエン・コルファーは完璧に計算した脚色を成し遂げたと思う」とのこと。
 勿論、これらの褒め言葉の羅列だけでも私のテンションは相当上がったのだが、この書評の中で琴線に一番触れたのは、ローソンが And Another Thing だけでなく現在BBCで放送中のマーク・カーワディンスティーヴン・フライによる『最後の光景』の続編についても言及していた箇所だった。ニュアンスを壊さず訳す自信がないので原文のまま引用するが、

But the fact that such demand exists for those continuations is a tribute to the durability of the writer's reputation and influence -- Russell T Davies's spectacular re-imagination of Doctor Who was very much in the Hitchhiker tradition -- and this afterlife for his franchises is some consolation for the early loss of him.  

 私もまったく同意見、というより、「こういう風に考えていたのは私だけではなかったんだ」という嬉しさのあまり、ほとんど感泣。私が大学生だった時に『銀河ヒッチハイク・ガイド』の良さについていくら力説しても「どうせ一時的な流行モノでしょ」としか思ってもらえなかっただけに、この文章をプリントアウトして当時のゼミの同級生に見せて回りたいくらいの気分だ――とは言え、本当に実行したら単なるイタい人だから、やらないけど(当たり前だ)。
 それに、昔の友人知人に押し売り行脚するまでもなく、『銀河ヒッチハイク・ガイド』は日本でも着実に知名度を上げつつある、と思う。その何よりの証拠が、先月、河出書房文庫の『銀河ヒッチハイク・ガイド』の9刷が出たことだ。一度にどのくらいの冊数が増刷されるのかは知らないけれど、4年で9刷なら翻訳SF小説としてはなかなかのものではないだろうか。その割に、シリーズ5作目の『ほとんど無害』が再版された気配がないのは微妙に気になるが、ま、これ以上を望むのは贅沢というものだよな。
 
 そして今回の更新はようやく手に入れた6作目について、と言いたいところだが、前回に引き続き、2003年にBBCが行った愛読書調査 Big Read のテレビ番組のために製作された『銀河ヒッチハイク・ガイド』のヴィデオ・クリップのキャスト、パトリック・ムーア、ナイジェル・プレイナー、アダム・バクストン、ジョー・コーニッシュの4名を追加する。


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2009.10.31.  読みやすい?

 オーエン・コルファーによる小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズ6作目 And Another Thing... には賛否両論あるけれど、「読みやすい」という点ではどの批評もおおむね一致している。およそストーリーテラーではなかったアダムスに対し、ストーリーテラーたるコルファーの面目躍如とでも言ったところか。
 英文読解に苦労している私としては、勿論、「読みやすい」は大歓迎である。アダムス本人が書いた文章なら読みにくくても受け入れるしかないが、別の人が書くからにはあんまり難解であって欲しくない。今回の新作が衆目一致で「読みやすい」なら、それに越したことはないよな、とか何とか思いながら、先日届いた And Another Thing... のハードカバーを開いて読み始めた、のだが。
 読みづらい。
 手に負えない、という程ではない。ただ、読んでいて何となく意味が取りづらい。「読みやすい」との前評判に私が油断しすぎていたのか、あるいは自分の英文読解力を過大評価しすぎていたのか――それと言うのも、つい「ひょっとしていつの間にか英文読解力が向上したんじゃない?」とうぬぼれたくなるほどに、ほんの数週間前にマーク・カーワディンLast Chance to See を楽々とクリアしたばかりだったから。
 実際、これまでに読んだ英語の本の中で、私にとってこれほど読みやすい本はなかったような気がする。理由はいくつかあって、まずこの本を読み出す前に内容についての予習がきっちりできていたこと(kakapo のことも Komodo dragon のことも私は既に知っているし、生物進化論の基本についてもドーキンスの著作のおかげでばっちりだ)、あくまでノンフィクションなので文学的な表現や単語は出てこないこと(とは言えユーモアのセンスは随所にあるので退屈はしない。何たって旅の相方はスティーヴン・フライだ)、そして何より、たとえ英語を読む速度が少々遅くても、写真が多いから結構な速度でページをめくることができること。たまに意味が取りにくい文章があったとしても、同じページの写真がテキスト情報を補ってくれるときたもんだ。楽勝!
 おかげで300ページ余の本を1週間がそこらであっさり読了し、内心秘かに鼻を高くしていたのだが、And Another Thing... の冒頭で早くもあっさりつまずく辺り、ううむ、英文読解力が伸びたと思ったのはやっぱり私の気のせいだったか。
 とは言え、めげてばかりもいられない。気を取り直して、真面目に辞書を引いて、時間をかけて読み進めていこう。なので、このホームページで And Another Thing... の感想をアップするのは冬休み明け以降になるかな?
 
 そこで今回の更新は、前回の同コーナーでも書いたように2009年10月12日から23日にかけてBBCラジオ4で放送された、And Another Thing... の朗読を担当したイギリス人俳優スティーヴン・マンガンについて。CD化されたサイモン・ジョーンズの朗読も悪くないけれど、新しい著者が書いた新しい続編なんだから今までと違う人の声のほうが新味があっておもしろいと思う(朗読の巧拙については、私のリスニング力では何も言えん)。
 それから、生前のアダムスと親交が深かったミュージシャン、マーゴ・ブキャナンも追加したので、こちらもよろしく。


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2009.11.7.  ロックスターになりたい

 2001年5月16日にロンドンで行われたアダムスの葬儀の式次第をみると、生前のアダムスが好きだったバッハやモーツァルトやビートルズといった超有名な曲の合間に、マーゴ・ブキャナンというミュージシャンの 'I Wannabe (A Rockstar)' という曲が入っている。
 私としては、当然、それがどういう曲なのか知りたい、CDが出ているのなら是非購入したいと思ったが、2001年当時、Amazon 等を検索してもそういうものは見つからなかった。CDどころか、マーゴ・ブキャナン本人についてネット検索してもヒットするサイトはほとんどなく、元々音楽全般に関心の薄い私はあっさりあきらめてしまった。
 あれから、早いもので約8年半になる。長年忘れたふりをしてほったらかしてはいたものの、喉の奥に刺さった小骨のように気にはなっていたこのミュージシャンについて、久し振りにダメ元でネット検索してみたところ、いつの間にやら本人の公式サイトが出来ていて、2005年にはデビューアルバムも発売されていたことに気付く。何てこったい。
 ただしこのCDアルバムは、ブキャナンの公式サイトからの直接購入ならできるものの、Amazon 経由で買うことはできない。公式サイトから買うのがイヤ、ということでもないけれど、クレジットカード番号の入力等でもたついているうち、もしやと思って iTunes Store を検索してみると――おお、こちらでも買えるじゃないか。
 という訳で、ブキャナンの I should've Done This Years Ago は、私が iTunes Store で購入した最初のアルバムとなった。マックユーザーで iPod nano も持っているくせに、それでも2009年の今まで一度も iTunes Store で買い物をしたことがなかった(無料のポッドキャストなら試したことがある)という一事をもってしても、いかに私が音楽全般に関心が薄いかお分かりいただけるというものだが、いざ iTunes Store 使ってみると、購入手続きも簡単ならダウンロード後の取り扱いも簡単、なるほどこれは確かに便利な仕組みだと今さらながら感心する。CDと違って保管に頭を悩ます必要もないし、ムダなゴミも出ないからエコ感もある。もっとも、もし I should've Done This Years Ago のアルバムCDに歌詞カードが付いていることが確実だったとしたら、エコ意識なんかどこ吹く風で公式サイトから包装紙を使い飛行機を使って「お取り寄せ」したのだけれど。
 で、肝心の楽曲はと言うと、えらく耳当たりの良いポップ・ミュージックだった。レディオヘッドで途方に暮れたこの私でさえ、一度聴いただけで主旋律を一緒に歌えてしまうくらいの分かりやすさ。コールドプレイですら複雑に思えるほどの聴きやすさ。そりゃ私としては、難解な曲よりすぐに鼻歌で歌えるくらい単純な曲であってくれたほうが助かるのだが、それでもいささか拍子抜けしたことも確かだ。
 勿論、分かりやすくて聴きやすいことと楽曲の良し悪しとは、まったく別の問題である。歌唱や演奏の巧拙もまたしかり。私には良し悪しを区別するだけの耳はないから好きか嫌いかを語るのみだが、ブキャナンのアルバムについて言うなら答えは迷うまでもなく、「好き」。耳当たりが良い上に元気が出るような明るい歌ばっかりだし、何よりアダムスの葬儀で流された 'I Wannabe (A Rockstar)' も 'Rockstar' に曲名変更して収録されていて、「ロックスターになりたい/曇りの日でもサングラスをかけて」云々という歌詞は、生前ミュージシャンになる夢を秘かに抱いていたアダムスを偲ぶにはある意味ぴったりだとも思うし。
 なお、ブキャナン公式サイトでは彼女の楽曲(の一部)が流されているので、興味のある方は是非ご自分の耳でご確認あれ。 
 
 そして今回の更新は、そんなマーゴ・ブキャナンの夫にしてミュージシャンの、ポール・'ウィックス'・ウィッケンズを追加。


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2009.11.14.  マッカートニーのファンは知っている

 2004年9月に『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズの3作目『宇宙クリケット大戦争』がラジオ・ドラマ化されると知った時、真っ先に「クリキット人の歌はどうするんだろう?」と思ったのは、私だけではなかったはずだ。  

 アーサーは、その歌を聞いてポール・マッカートニーを思い浮かべた。ある夜、暖炉のそばに座って火に足をかざしながら、リンダにこの歌をハミングして聞かせているのが目に見えるようだ。レコードの売り上げでなにを買おうか、エセックスでも買うかなと思っていそうな歌だった(安原訳、p. 127)。

 いかにもポール・マッカートニーが歌いそうでいて、しかも大ヒット間違いなしな曲。だからってまさか、ポール・マッカートニー本人に作曲を依頼する訳にもいくまい――というか、ラジオ・ドラマの製作費全額を投入しても無理だよねえ、きっと?
 しかし、いざラジオ・ドラマ第3シリーズのスタッフの名前が公表された時、この重責を担うことになったのは、ポール・マッカートニー本人を除けば、いや、ひょっとするとマッカートニー本人を入れたとしても、世界で一番の適任者だと思った人もまた多かったはずだ。ポール・'ウィックス'・ウィッケンズ、生前のアダムスの親しい友人にして、ポール・マッカートニー・バンドのキーボート担当兼音楽マネージャー。「マッカートニーの音」を誰よりも熟知している人、と言っても過言ではあるまい。
 だから私も、ポール・'ウィックス'・ウィッケンズの名前が挙がった途端、思わず「よっしゃ!」とガッツポーズした――と言いたいところだが、残念ながら嘘である。アダムスの友人のミュージシャンにポール・'ウィックス'・ウィッケンズという名前の人がいることは前から知っていたけど、前回の更新のために調べてみるまで、こんなにもポール・マッカートニーに近い人だとは思っていなかった。もっとも、私が全然知らなかっただけで、ポール・'ウィックス'・ウィッケンズはマッカートニーの来日コンサートにも参加しているし(妻のマーゴ・ブキャナンも同行していたのかなあ)、ネットで検索した限りでも、彼の名前は日本のマッカートニーのファンの間できっちり認知されてもいるようだ。やっぱり、知っている人は知っているんだねえ。
 なお、ラジオ・ドラマ第3シリーズのためにポール・'ウィックス'・ウィッケンズが手掛けた「クリキット人の歌」が、実際どこまでポール・マッカートニーっぽいか、気になる方は是非ご自分の耳でお確かめあれ。これほどまでに音楽全般に疎い私が言っても何の説得力もないのは承知の上で、私の耳には充分以上にもっともらしく聴こえたことだけは、付け加えておく。
 
 気を取り直して今回の更新は、またしても私の苦手な音楽関係。やはり生前のアダムスと親交があり、またポール・'ウィックス'・ウィッケンズと共にポール・マッカートニー・バンドに参加していたこともある、世界的に有名なロック・ギタリスト、ロビー・マッキントッシュについて。有名、と言っても、アダムスの伝記本で彼の名前に初めて出くわした時、私は「誰?」と思ってしまったんだけどね(嗚呼、情けない)。


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2009.11.21.  『魔性の難問 〜リーマン予想・天才たちの闘い〜』

 11月15日の午後9時からNHKテレビで放送された、『NHKスペシャル|魔性の難問 〜リーマン予想・天才たちの闘い〜』という番組を観た。
 リーマン予想とは、不規則としか思えない素数の数列に規則性を見つけ出すという、数学上の難問のこと。NHKオンラインの番組紹介サイトによると、「最近の研究では、素数の規則が明らかにされれば、宇宙を司る全ての物理法則が自ずと明らかになるかもしれない」。
 1年前の私なら、数学に関するドキュメンタリーなど絶対に観なかったはずである。たまたまテレビを付けたらたまたまこういう番組を放送していた、ということがあったとしても、2分以内には確実にチャンネルを変えていたはず。それが今では、新聞のテレビ欄で「リーマン予想」の文字を見つけるなり、おっとこれは見逃せないぞ、と思ったのだから、私も随分お利口になったものだ。ほんの数ヶ月前まで、「リーマン予想」を「リーマン・ショック」と一緒くたにして、「どうして世界的数学者たちがよってたかって経済の動向を予想をしなくちゃならないんだろう」と首を傾げていたくせに。
 こんな私が突如として「リーマン予想」という素数の謎に強い関心を抱くようになったのは、言うまでもなく、オックスフォード大学教授のマーカス・デュ・ソートイが第8回ダグラス・アダムス記念講演の講演者に選ばれたが故である。もっと言えば、このマーカス・デュ・ソートイが、素数の謎を解く鍵となる数字は「42」かもしれない、などと言い出したが故である。まさかとは思うが、ひょっとしてひょっとすると、天下の『NHKスペシャル』で「42」および『銀河ヒッチハイク・ガイド』が取り沙汰されるかもしれない、これは録画してでも絶対に観なくては――と私が俄に色めき立ったことはご想像の通りだ。
 そして、番組を最初から最後まで齧り付くようにして観ても、結局「42」なんか一切出てこなかったことに一人で勝手な寂寥を募らせたこともまたご想像の通りなのだが、でも他ならぬマーカス・デュ・ソートイ本人が登場し、楽しそうに嬉しそうにわあわあと喋っている様子を見られただけでも良しとしよう。とは言え、せっかくデュ・ソートイが話しているのに、それでも「42」は陰も形もなしというのはやっぱり気になる。実際には「42」についても語られていたけれど日本じゃ通じないという判断を下され編集でカットされたのか、それともデュ・ソートイにとっても所詮「42」は素人の耳目を「リーマン予想」に惹き付けるためのおもしろネタ以上でしかないってことか?
 そこのところをはっきりさせるためにも、早いところ「リーマン予想」の答えが確定することを、私は望む――って、あ、いや、無茶苦茶な言い分だと自分でも思っちゃいるけどさ、一応。
 
 戯れ言はさておき今回の更新は、ここ数ヶ月間すっかりほったらかしていた The Salmon of Doubt の続き。"The Little Computer That Could" というエッセイを一つ、新たに追加した。


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2009.11.28.  リッチティー・ビスケット再び

 昨年2月に横浜・みなとみらい地区にイギリスのスーパー TESCO が出店したことを、遅まきながら知った。
 TESCO と言えば、イギリスでもどちらかと言うと大衆向けのスーパーである。それがどうしてわざわざ日本進出を、と思ったら、日本のやはり大衆向けのスーパーの一つ、つるかめランドと提携した上でのことらしい。
 私はこれまでに5回もロンドンに行ったことがあるが、TESCO に入ったことは一度もない。だからって別に深い意味はなく、単に私の泊まっていたホテルの近くに TESCO がなかっただけのこと。ちなみに、昨年12月にロンドンに行った際は、Waitrose というスーパーにお世話になった。
 が、たとえ実際に入ったことはなくても、TESCO にはTESCO オリジナルというかプライベート・ブランドのリッチティー・ビスケットが売られていることは知っていた。ただ、ロンドンではマークス・アンド・スペンサーアールグレイのティーバックを手に入れるついでにマークス・アンド・スペンサー製のリッチティー・ビスケットを買えば良かったから、わざわざ遠出して TESCO まで行く必要がなかったのだ。ついでに言うと、Waitrose ではリッチティー・ビスケットは売られていなかった。
 果たして、日本の TESCO にリッチティー・ビスケットはあるだろうか。幸い、我が家からみなとみらい地区までは、電車に乗って片道約30分の距離である。これはもう、無駄足覚悟で行くしかあるまい。
 という訳で、先週末、リッチティー・ビスケットを買うためだけにのこのこと出かけていったのだが――久し振りのみなとみらい地区にはいつの間にやら似たような高層マンションが林立していて、「TESCO は高層マンションの一階に入っているらしいから、きっとすぐに見つかるさ」と地図もロクに確認しないまま家を出たことを激しく後悔する羽目に。結局、その界隈を20分ばかりぐるぐると孤独に歩き回ってようやくたどり着いただけに、ドキドキしながら店内に入り、お馴染みの青いパッケージが目に入った時には、高揚感と安堵感であやうくガッツポーズしそうになった。おまけに、1パック97円という安さ。思わずまとめ買いするところだったが、今後もここでリッチティー・ビスケットが販売され続けることを信じてとりあえず2つだけ買い、そのまま自宅に直行する。
 初めて食べた TESCO 製リッチティー・ビスケットは、少なくとも私の舌ではマクビティー製やマークス・アンド・スペンサー製とまったく同じ味だった。自宅で、このビスケットをかじりながら、(昨年のロンドン旅行でしこたま買い込んだせいで約1年経った今でもまだ少しだけ残っている)マークス・アンド・スペンサー製アールグレイを飲めるとは、何たる幸せ。
 なお、オーエン・コルファーによる小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズの6冊目、And Another Thing... の冒頭にも、リッチティー・ビスケットは登場している。『銀河ヒッチハイク・ガイド』のファンにとってリッチティー・ビスケットは必須アイテムだと思うのは、どうやら私一人ではないようだ。
 
 気を取り直して今回の更新は、前回に続いて The Salmon of Doubt より、短いエッセイを2つ(タイトルなしの短文と、"Little Dongly Things")追加。また、Topics コーナーに、イギリスの有名なユーモア小説『ボートの三人男』も紹介する。
 え、And Another Thing... はどうなってるのかって? 情けないことにまだ読了していないんだな、これが。最後のページまで、あと一息なんだけどね。


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2009.12.5.  ついに読了

 オーエン・コルファーによる小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズの6冊目、And Another Thing... を、ようやく読了した。
 で、一読しての率直な感想はと言うと――「既視感と違和感の間で悪酔いした」。
 
 決してつまらない作品ではない。むしろ、よく出来ている。過去の5作品を上手に活用していて、中でもあるキャラクターの起用には「なるほど、うまいところに目をつけたな」と感心したし、その上で、リッチティー・ビスケットを筆頭に、分かる人には分かるアイテムやフレーズを随所に盛り込んでいて、ファンサービスも怠らない。
 でも、それは言い換えれば自己言及性が強すぎるということでもある。従来の『銀河ヒッチハイク・ガイド』の凄さの一つは、さまざまなアイディアを次から次へと惜しげもなく使い捨てていくことだった。勿論、単にアダムスがアイディアをストーリーへと膨らませることができなかっただけの話だと言えなくもないのだが、ともあれ、これまでのアイディアやフレーズを繰り返し再利用する姿勢は、『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズにそぐわない気がしてならない。だから、既視感と同時に違和感が募る。
 もし仮に、And Another Thing... がプロの人気作家と大手出版社が契約を交わして大々的に売り出した作品ではなく、無名のライターが自分と仲間の楽しみのためだけに書いた二次創作だったとしたら――イギリス版コミケのようなところで限定200部くらいを販売したところ、出来の良さに評判になりすぎてアダムスの未亡人ジェーン・ベルソンの目にとまることとなり、でも思いがけず気に入ってもらえて、「収益はすべてある特定の動物保護団体に寄付すること」を条件に正式に出版することが認められた、とか何とかいう話だったとしたら、多分私はこの小説を手放しで褒めていたんじゃないかと思う。二次創作なら自己言及性が強くて当然、イチャモンをつけるどころか、こういう形で『銀河ヒッチハイク・ガイド』への愛と敬意を表明できる著者に対して、私は羨望の念を禁じ得なかったはずだ。
 くどいようだが、And Another Thing... を駄作だとは私は思わない。10月31日付の同コーナーで書いたような「読みづらさ」は、私がコルファーの英文に慣れたせいか、30ページくらい進んだところでかなり解消されたし、「先が気になってついページをめくってしまう」と感じたことさえ何度かあった。ただ、そういう「読み出したら止められない」感も、私に言わせれば「ちょっと待った」なのだ。
 これがコルファーのアルテミス・ファウル・シリーズだったなら、何の問題もない。読者の関心を惹き付けて止まないストーリーテリングの技は、素直に讃えられてしかるべきだろう。だが、およそストーリーテラーではなかったアダムスの『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズの、新作としてなら話は別だ。おもしろい筋立てで読者をぐいぐいと引っ張っていくということ自体に、既に違和感を憶えるのは私だけだろうか……?

 And Another Thing... の詳しい紹介は、冬休み明けにまとめて行う予定。なのでひょっとしたら、その頃には上記のような感想は一変しているかも。何せ英語で読んでいるものだから、意味をきちんと把握できているか心許ない限りだし。
 And Another Thing... に代わって今回の更新は、アメリカン・コミック/グラフィック・ノベル界の大物、アラン・ムーアについて。よもやまさかこの人までダグラス・アダムス関連で取り上げる日が来ようとは。
 普段の私は、アメコミの類は滅多に手に取らない。が、今秋に出版された『フロム・ヘル』に限っては巷の評判の高さに後押しされて読んでみて、噂違わぬ出来の良さと密度の濃さに感服した。で、「騙されたと思って読んで良かった」としみじみ思いながら巻末に付けられた訳者の柳下毅一郎氏による解説に進んだところで、(私にとっては)驚愕の一文に出会した次第。
 この解説で書かれていなかったら、私はアダムスの Dirk Gently's Holistic Detective Agency と『フロム・ヘル』の関係について知ることはなかっただろう。それだけに、私が言うのも何だけど、柳下毅一郎氏には感謝しています。


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2009.12.12.  SFX を手に入れるまで2

 イギリスのSF映画・テレビ関連の雑誌 SFX 11月号で、『銀河ヒッチハイク・ガイド』30周年特集記事が掲載される、という情報を私が掴んだのは、9月末頃だっただろうか。And Another Thing... も発売されることだし、きっと何かしらの記事が出るだろうとは予想していたが、ただ今回この雑誌の入手に至る道のりの険しさに関しては、いやほんと、予想外もいいところだった。
 
 私が初めてこの雑誌を買った2005年当時、洋書を取り扱っている都心の大型書店であれば、洋雑誌コーナーで簡単に見つけることができた。それから3年後の2008年、洋書を取り扱う書店が激減し、また現存する書店でも洋書の売り場面積が激減して、以前は SFX を置いていた店でも入荷しなくなっていた。この時の事情は2008年9月13日付の同コーナーで書いた通りだが、それから1年が過ぎて状況はさらに悪化していた。
 1年前の教訓をふまえ、今回は事前に電話で入荷を確認しようと最初から考えていた。こういう雑誌を電話で予約するのは多少気恥ずかしいものの、一度体験してしまえば抵抗感はかなり薄れる。自意識過剰のあまり、踏まなくていい無駄足を踏むほうが余程イヤだ。
 まず、昨年お世話になった神保町の三省堂書店に電話したところ、「申し訳ございませんが、こちらでは取り扱っておりません」。
 三省堂を皮切りに、他の洋書取り扱い店に次から次へと電話してみるも、返ってくる答えは「こちらにはございません」ばかり。それでも、ようやくある大型書店で「はい、ございます」の返事を貰い、ほっとしたのも束の間、「ただ、今ある商品はしばらく店頭に置いていたせいで少々傷んでおりますがよろしいですか?」とのこと。
 いえいえ、私が買いたい号は多分それじゃありません、通し番号188番の11月号なんです、本国イギリスでも発売されたばかりなんだから、あなたが今持っているのは10月号ではありませんか――と、ここまではごく普通の展開だったのだが、問題はここから先だ。私が睨んだ通り、その店員が手にしていたのは10月号だったので、私が欲しいのはその次の号です、入荷したら購入したいのでご連絡いただけますか、と言ったところ、「洋雑誌の入荷のお知らせはこちらではやっておりません」。
 ……昨年の三省堂さんは、当たり前のようにやってくれたのに。
 まあいい。電話での連絡を約束すると、万が一電話し損ねた時に客からクレームが出て困るということなのかもしれない。かけ忘れるというより、客からきいた電話番号にかけても繋がらなかったとか、でも間違った番号をうっかり言い兼ねない客に限って後から激烈なクレーマーに化けるってのもありがちだ。じゃあ、入荷されたかどうかの連絡はいいです、こちらからまた電話しますから入荷予定日を教えてください、それから確実にその号を購入したいので今から予約しておきたいのですが、と言うと、「洋雑誌の予約はしておりません」。
 要するに、その書店では、店頭にあるものをレジで販売する以外、何もしないという方針らしい。電話をすればその時の店頭の在庫は確認するけれど、だからと言って電話してからその店に到着するまでの間に売れてしまう可能性はゼロではないし、「何時までに買いに行きますからとっておいてください」というお願いも受け付けないという。
 えーーーっと、私、そんなに小売店泣かせな無茶を言ってます?
 そりゃ、近頃は予約したけど引き取りに来ない迷惑な客が急増していて書店側も大変なのかもしれない。でも、こんなマニアックな雑誌をわざわざ電話予約してでも買いたいという人間はまずドタキャンしないと思うし、たとえドタキャンされたとしても、あらかじめ引き取り期限を3日以内とかに決めておけば、期限後に店頭に戻せば済むんじゃないだろうか。入荷予定のない雑誌を私のために輸入しろってんじゃない、元々入荷される何冊かのうちの1冊をキープしてくれと言っているだけなのに。
 結局、それから3回か4回くらい入荷確認の電話をしたのだが、予定日から2週間過ぎても「入荷されていません」。その頃には、次の12月号にもオーエン・コルファーのインタビュー記事が載ると分かり、ここに至ってその書店での購入を断念(来月もまた同じ騒動を繰り返すなんて冗談じゃない)、海外のサイトから直接オンライン注文することにする。
 ったく、最初からこうしていれば余計なストレスもなかったのに、とぼやきながら必要事項を入力し、「order」ボタンをクリックするも、「入力データに間違いがあります」とか何とか言われるばかりで先に進めない。一体何が悪いんだ、と改めて英語の説明文を読み返してみると「当サイトでは、全世界にご希望の雑誌をお送りしています。ただし、年間購読ではなく1冊単位での購入の場合は、現在のところヨーロッパ、アメリカ以外の国には送れません」。
 ……かくして、私は泣く泣く SFX を年間購読する羽目になった――というのは嘘。実際のところは、スイス在住の友人に泣きついて友人の住所を配送先にし、友人から日本の私宛に郵送し直してもらったのだった。そして先日、11月号と12月号が揃って私の手元に無事届いたのだが、目当ての記事は2冊合わせてわすか6ページ、この私の英語力をもってしてもわずか30分未満で読み終える。
 あっけない。そして、切ない!
 
 そして今回の更新(The Salmon of Doubt よりエッセイ "What Have We Got to Lose?" を一つ追加)を最後に、例年通り二ヶ月の冬休みに入ります。次回の更新予定日は2010年2月20日で、冬休み明けには上記の SFX の記事と合わせて And Another Thing... をより詳しく紹介するつもり。
 という訳で、今年も1年間お付き合いいただきありがとうございました。


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