『宇宙の果てのアンソロジー』


 2005年、アメリカの出版社 BenBella Books より『銀河ヒッチハイク・ガイド』についてのエッセイ集、『宇宙の果てのアンソロジー』(The Anthology at the End of the Universe: Leading Science Fiction Authors on Douglas Adams' Hitchhiker's Guide to the Galaxy.)が出版された。
 SF作家・研究者ら19名が、さまざまな視点で『銀河ヒッチハイク・ガイド』を読む。19通りのエッセイの概要は以下の通りだが、まとめたのは素人の私なのでとんでもない誤読をしている可能性は高い。そのため、これはあくまで参考程度にとどめて、全貌をきちんと知りたい方は、必ずオリジナルにあたってくださるようお願いする。なお、『宇宙の果てのアンソロジー』にはこの他に、1983年に雑誌 Heavy Metal に掲載された、ジョン・シャーリイによるアダムスへのインタビューも再録されている。このアンソロジーの執筆者及び編集者についてはこちらへ


Beware of the Leopard Mike Byrne

ラジオというものは、ボタンとダイヤルで操作するものと長いこと相場が決まっていた。ところが技術の進歩のおかげで、操作が非常に微妙なものに変ってしまった。パネルを指でひとなですればよかったのが、いまでは、機械の方向に片手を振ればいいだけになっている。もちろん、筋力の節約にはおおいになるけれど、ある番組をずっと聞き続けたいときには、じっと坐っていなくてはならない。(『銀河ヒッチハイク・ガイド』、p. 127)

 聞いている間は身動きできない<黄金の心>号のラジオ同様、現代社会には発達しすぎた技術のせいで却って扱いにくくなってしまったものがたくさんある。たとえば、カーステレオのリモコン。手を伸ばせば直接スイッチを押せるはずなのに、わざわざリモコンが必要になるのは何故だろう? 車の販売員に質問してみると、機能ボタンが多すぎて車本体につけられるスイッチがどうしても小さくなり、そのせいで運転しながら操作するのが厄介だからというのだが、多すぎる機能ボタンの大半が実は普段は滅多に使わないセットアップ用ボタンだったりする。これぞまさしく本末転倒だ。
 多くのSF作家が、科学技術の発展に伴う未来を理想(ユートピア)、もしくは恐怖(ディストピア)として描くことに終始するのに対し、アダムスが描く世界は理想でも悪夢でもない、日常生活の中にある「当惑」に基づく。だから、主人公アーサーが遭遇する出来事の数々は、実は我々の日常ととてもよく似ている。
 そしてこの「当惑」は、科学技術の発展が、人間工学(認知心理学、行動学など、「人間の仕組み」を解明することでよりよいデザインを考える)の知識に裏打ちされていないことから生じている。そういった、いわゆる「ヒトに優しくないシステム」が作られる理由はいくつかあるが、一つには技術者が実用性よりも最新技術のひけらかしを優先してしまうことにある。「これは一体何のために必要?」という質問に答えられない、ただ「できるから」というだけの理由で付けられた実際には不要な装置の何と多いことか。ちょうど『銀河ヒッチハイク・ガイド』に出てくる「GPP」(同、p.122)のように。
 勿論、技術者ばかりが悪い訳ではない。たとえば、次々とアップグレード版が発売されるコンピュータのOSも、開発プログラマーたちも不具合がいっぱいあることは承知している。が、開発締切に追われてよりよいプログラムを作り上げる時間的余裕がない。そして、使用者である我々自身も、ある程度システムの不具合を容認してしまっている向きすらある。ちょうど「栄養飲料自動合成機」のように。
 また、その他の理由としては、技術者たちに人間の行動や心理の働きに関する知識がなさすぎることもある。たとえば初期のATMでは、引き出しの際にはまず現金を受け取って、それからキャッシュカードを取る流れになっていたため、カードの取り忘れによるトラブルが後を絶たなかった。このシステムを、まずカードを受け取らないと現金が出ない仕組みに変えた途端、トラブルは消え、カードの再発行に伴うコストが大幅に減ることになったという。
 多くの技術者は、「正しく使えば正しく動く」システムを作ることしか眼中にないかもしれない。誰も見ないような場所に設置された掲示板、とか。あるいは、使い勝手の良さよりも見た目の美しさを優先してしまう例もある。どうでもいいCGアニメーションで始まるサイトなど、その好例だ。そういったサイトの多くが、分かりやすく操作ボタンを配置することよりカラーデザインを優先させるが、それはまさに黒一色で統一されたデザスター・エリアの宇宙船である。実際、この手の不都合なデザインの例は、枚挙にいとまがない。
 『銀河ヒッチハイク・ガイド』には、科学技術に関するジョークがたくさん詰まっている。それらは、将来においては進歩する現実の科学技術とズレが生じてしまうかもしれない。だが、こと人間工学の分野に関しては、その心配はなさそうだ。


That About Wraps it Up for Oolon Colluphid Don DeBrandt

 作品内にたびたび登場する「魚」に注目することで、『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズにおける「神」とは何かを探る、究極の裏読みエッセイ。
 著者の手にかかると、「栄養飲料自動合成機」が紅茶を製造しないのは、かの無限不可能性ドライヴが熱い紅茶で作られているからであり、製造元であるシリウス人工頭脳株式会社は宇宙を滅ぼさんとする陰謀を企んでいる。その合成機にアーサーがよりにもよって問題の紅茶を作らせようとした時、合成機は<黄金の心>号のコンピュータ、エディと接触し、エディの頭脳を紅茶製造問題で一杯にするが、合成機はその隙にアーサーの頭をスキャンし、「究極の問い」を探り出そうとしていた――「この宇宙の目的がなんであり、なぜ宇宙がここに存在するのか――その答えをあやまりなく見いだした者あらば、宇宙はたちまち消え去って、はるかに奇怪で不可解なものにとってかわられるだろう」(『宇宙の果てのレストラン』、p. 5)という理論に従うなら、これは理にかなった行動である。
 この陰謀を阻止するのがマーヴィンであり、エディである。作品内でマーヴィンは計4回に亘って人工知能と対峙し、相手をうち負かしてきた。そしてエディは無限不可能性ドライヴを操る唯一の存在である。マーヴィンは何度も死の危険から復活しているにもかかわらず、はっきりした理由は語られていないのも、秘かに無限不可能性ドライヴによって助けられていた可能性を示唆している。たとえて言うなら、エディは創造主、無限不可能性ドライヴは聖書、マーヴィンは神の子、そして『宇宙クリケット大戦争』に出てくる究極兵器を製造するハクターは、さしずめ蛇といったところか。彼らの背後で糸を引くのは、タイムパラドックスの果てに誕生した『銀河ヒッチハイク・ガイド』マーク?である。『さようなら、いままで魚をありがとう』に出てくる神の最後のメッセージは、恐らくマーヴィンに向けられたものだろう。
 また、『ほとんど無害』の42ページに出てくる、「ニシンのサンドイッチが好きだと思い込まされているロボット」も、実はマーヴィンのことを指しているのではないか。ニシンのサンドイッチを前にしても、それを拾い上げては落とすことしかできないロボットにとって、「ニシンのサンドイッチが好き」だと思い込まされるのは相当なストレスになるはずである。『さようなら、いままで魚をありがとう』の42ページでは、アーサーは「さようなら」書かれた金魚鉢を見つけ、いぶかしみながらもその中に自分の耳から取り出したバベル魚を入れるシーンがある。この金魚鉢の送り主は、言うまでもなくイルカたちであり、恐らく地球崩壊前に脱出した彼らは、惑星マグラシアでカタログ注文した「膝まで魚にあふれて」(『銀河ヒッチハイク・ガイド』、p. 240)いる別次元の惑星に引っ越したことだろう。
 『ほとんど無害』のラストで、あらゆる次元の地球が破壊されたとあるが、これはヴォゴン人の目を欺くために最初のいくつかを破壊しただけのことだと思われる。そして、このシリーズ5冊目に登場する主要キャラクターたちは、実は前4冊のキャラクターとは別の、並行宇宙の存在なのだ。その証拠に、5冊目のフォードには動物愛護精神があるし、アーサーは空を飛ぶことができない。読んでみれば、その違いは誰の目にも明らかだ。
 だから、アーサーもフォードもザフォドもトリリアンもマーヴィンも、この宇宙のどこかでまだ元気に過ごしているにちがいない。


Wikipedia: A Genuine H2G2 - Minus the Editors Cory Doctorow

 かつてフォード・プリーフェクトが地球について書いた記事は、『銀河ヒッチハイク・ガイド』の編集者によって「ほとんど無害」の二語にまで刈りこまれてしまった。「この本のマイクロプロセッサーの容量には限度があるから」(『銀河ヒッチハイク・ガイド』、p. 82)というのがフォードの弁だが、インターネットの発達により、事実上「容量」の問題を解決すると、地球上の多くの『銀河ヒッチハイク・ガイド』ファンがネット上に本物の『ガイド』、無料かつオープンな事典を作ろうと画策するようになった。
 しかし、たとえ容量オーバーの問題がなくても、ネット上の文章をよりよくするためには編集という作業を省くことはできない。ただし、従来のように書き手と編集者が別に存在するというよりも、誰もが書き手であると同時に編集者にもなることが多い。
 たとえば主にコンピュータ関係のニュースを掲載する電子掲示板「スラッシュドット」(Slashdot)では、まず誰かが記事を提供し、それを編集者が選んで掲示板に載せると、その記事に対して読者は自由にコメントを寄せることができる。が、そのコメントが的確であるかどうかを、無作為に選ばれた読者が点数をつけて評価し、またその評価が的確であるかどうかを別の評価する権利をもった読者が評価する。
 その一方で、情報の海で溺れないためには専門の編集者は必要だという考え方もある。「ヤフー!」は当初この路線を取り、専任のリサーチャーがあらかじめすべてのページをチェックしていた。が、瞬く間にネット上のページの量が増大し、実際問題として事前チェックは不可能だということで、「スラッシュドット」方式が再注目されることになる。しかし、「スラッシュドット」方式の場合、誰かの書いた文章を評価することが主眼になると、マイナスの評価を受けることを恐れて議論が盛り上がらなくなるという問題もあった。
 検索サイト「グーグル」では、この編集にあたる作業をページランクというアルゴリズムに置き換えている。あるページの重要度を、そこにリンクしているページの数を算出するというものだが、これもまた一種の編集と言えなくもない。
 そして、1995年にウィキペディアの前身、"Wikis" が誕生した。誰もがどのページにも書き込める百科事典サイト、ということは有害サイト等の被害を被る可能性も高いはずだが、読むだけでなく書き込みをするためには事前登録を要することでリスクを減らしている。さらに、更新される前のデータも保存されているので、誰かが悪意でデータを削除したとしてもすぐに元に戻すことができる。
 ウィキペディアの情報など信用できないという人もいるし、そんなことはないという人もいる。実際のところ、完璧とは言えないにしてもそう悪くはないのではないか。が、発展途上国にネット環境を普及させる活動を行っている Ethan Zuckerman から鋭い指摘を受けたことがある。すなわち、ウィキペディアはインターネットが発達したごく一部の国の豊かな人だけが書き込む、ということはその内容も当然そういう先進国に都合の良いものばかりになっていく、と。確かに、『指輪物語』に出てくるエントの争いに関する情報のほうが、コンゴ内戦よりはるかに詳しいという状態は問題だろう。今後、こうした情報の偏りを軽減するためには、学界や教育関係にもっとウィキペディアを浸透させていかなくてはならない。
 ウィキペディアの良さは、現在の内容が「決定稿」でないところにある。新しい事実が見つかれば訂正されるし、これまでの更新の記録を見ることもできる。
 ということで、「ほとんど無害」問題はひとまず決着といえるのではないか。フォードの編集者は、わずか二語だけ残して記事を削除することができるけれども、アーサー、つまり我々は遡って削除前の記事全文を読むことができる。字数制限も編集者もいない『ガイド』でなら、ヴォゴン人だって思いのままに詩を発表することできる。
 素晴らしい。


The Secret Symbiosis: The Hitchhiker's Guide to the Galaxy and Its Impact on Real Computer Science Bruce Bethke

 科学とSFは、一種の共存関係にある。が、科学者たちがその事実を認めたくないせいで、あまり表には出てこない。SF作家の多くは、なれるものなら本物の科学者になりたかったと打ち明けているのに。
 NASAで働く友人いわく、NASAの研究所にはロバート・A・ハインラインのファンが大勢いるという。他の研究機関も似たようなものだ。コンピュータ関連の会議の場でも、アメリカのトップクラスの学者たちがよってたかって「42」で盛り上がっている。
 翻訳サイト「バベル魚」など、『銀河ヒッチハイク・ガイド』は今や世界中で引用されているが、初めてその影響力の強さを知ったのは1980年代後半、アトランタで開かれた会議に出席した時のことだった。そのホテルには、いちいち「ようこそお越しくださいました」云々と喋るうっとうしいエレベーターがあったのだが、会議の期間中、そのエレベーターに誰かが「シリウス人工頭脳株式会社製」と書かれたプレートをかけたのだ。そしてそのプレートは、取り外されることなくずっとかけられたままだった。
 『銀河ヒッチハイク・ガイド』でもっとも影響を受けたのは人間工学の分野だった。1970年代後半からコンピュータはどんどん一般社会に普及していったが、最初は「ユーザー・フレンドリー」という発想はまるでなく、専門家にしか扱うことのできない代物だった。今こそほとんど電話感覚で使えるようになったが、そうなるまでには製造側もコンピュータの将来像をつかめないでいた。未来のコンピュータを「声の出る本」とイメージしてしまったせいで、その実現に向けてどれだけの金と時間が無駄にされたことか。文字だけでなく、グラフィックも映せる画面の必要性にさえ、なかなか気づくことができなかった。
 1978年のラジオ・ドラマ『銀河ヒッチハイク・ガイド』は、未来のインターフェイスのテイストとはいかなるものかを伝えてくれた。すなわち、ピーター・ジョーンズの声だ。冷静で、明晰で、親しみやすくて、ちょっと皮肉っぽい。
 2冊の小説からは、インターフェイスのデザインを教えられた。一直線に進む語りは必要ではない、むしろ従来的なプロットからの脱線こそが肝要だ、と。この作品の間接的な語りの構造には、現在のインターネットのハイパーテキストの感覚に通じるものがある。つまり、『銀河ヒッチハイク・ガイド』はインターネット誕生以前に、既にインターネットそのものだったのだ。
 1980年のテレビ・ドラマに登場した『ガイド』のアニメーションは、まさしく「コンピュータ・インターフェイス」のあるべき姿を的確に表現していた。特にバベル魚のアニメーションは、多くのグラフィック・アーチストやウェブ・デザイナーに影響を与えている。
 と言っても、実はこのアニメーション、CGではなく手描きで製作されていた。当時のコンピュータではまだ技術的に難しかったからなのだが、この時のアニメーターの想像力が今のような画面・サウンドを持つパソコンへと繋がっていった。現実のテクノロジーではまだ無理なことを、まず先にアーチストのヴィジョンが形をつくり、そのヴィジョンがすぐれていればやがてテクノロジーがそれを追いかけて実現する。ヴィジョンが現実をひっぱり、現実はヴィジョンをサポートしてまた新たな地平を示す。これこそまさに「共存関係」である。
 この他にも、地球を一つの巨大コンピュータに見立てた辺りも、インターネットがパラレルな地球を創り出しつつある様に通じるものがある。スーパーコンピュータの分野でも、『銀河ヒッチハイク・ガイド』が間接的ながら予見しているものがある。また、現実にインターネットに繋がるパソコンが増えるほど、そこで交わされる会話のレベルが下がっていくことも、カクラフーンのベルセルボン人の事例(『宇宙の果てのレストラン』、p. 207)を思い出せば納得できよう。
 1962年にSF作家のアーサー・C・クラークが発表した大真面目な未来予見本、『未来のプロフィル』の内容たるや、あらゆる意味で大ハズレ、今ではギャグにしかならない(ただしクラークは1985年にそれを書き直している)のに比べ、1977年にアダムスが「笑わせたい」一心で書いたラジオ・ドラマが未来へのかなり正確なロードマップになったのは、いささか皮肉な話ではある。


42 Adam Roberts

 「究極の答え」=42に対して、紀元前の地球でアーサーがスクラブルで自分の頭の中から無意識に引き出した「究極の問い」は、6×9だった。
 6×9=42? つまり、「結局宇宙は根本的に間違っている」と考えるべきなのか、それとも「ゴルガフリンチャムの箱船船団のせいで計算が狂ってしまった」と考えるべきなのか? いや、それとも間違った計算式そのものに「永遠のイメージ」を見る、という考え方もある(Either/Or: A Fragment of Life)。
 『銀河ヒッチハイク・ガイド』で哲学してみよう。実存主義の哲学者なら、「哲学は理性と論理の産物。コメディは理性と論理からの飛躍の産物」というだろうか。また別の哲学者は、「哲学は真実を扱うもの。コメディでは、真実かどうかは関係ない」というかもしれない。それに対して、「生命と宇宙と万物についての究極の答え=42」は、真実ではないかもしれない。が、間違いなくおもしろい。それはとりもなおさず、「42が真実でないとは言い切れない」し、「たとえ真実だったとしても、それでおもしろさが減る訳でもない」と言い換えられる。
 次に、そもそも「おもしろい」とはどういうことか検証してみよう。ジョークそのものがおもしろくても、そのジョークの説明はおもしろくないものだが、これはジョークがジョークとして機能するためには聞き手があらかじめそのジョークが求める文脈を備えている必要があるからだ。同じジョークでも聞き手が落ち込んでいるときは笑えないし、酒の席でなら大いに盛り上がるようなものである。当然、ジョークの話し手も場の空気をちゃんと読まねばならない。つまり、話し手と聞き手の両者がジョークをジョークとみなしてこそ、初めてジョークは成立する。そして、「42」はジョークである。だから、ジョークをジョークたらしめるために、これを大真面目な「答え」として受け止め考えるのは間違っている、と言える。
 以上を踏まえて、今度は逆に大真面目な「答え」を考えてみよう。神? 意志? 無限? 死? だがよくよく突き詰めて考えると、これらも結局は「数」の問題であり、そういう意味では42と大差ない。逆に、42という数字はいくつかの古代宗教では42が重要な意味を持っていし、また生命にかかわる重要な元素、モリブデンの原子番号である、と考えれば、42こそが答えであり、答えにしては何だか不明瞭な気がするのは生命の意味そのものが不明瞭だから仕方ない、が、間違いなく宇宙の背後に隠された真実なのだ――と言えないこともないけれど、これじゃおもしろくない。
 そもそも、「生命の意味」の意味とは何だろう。定義? 教訓? 目的? 「42」という答えは、確かにそのいずれにも該当しないが、ジョークなのだからそれも当然である。ジョークとは、ジョークだと分かっていて、その上で思いがけない返答を受けた時、人は笑う。アメリカの哲学者ロバート・ノージックに言わせれば、艱難辛苦の旅を経てインドの賢者に教えを請う、といった一見もっともらしい真実の探求ストーリーは、本来「答え」そのものとは何の関係もないはずなのに、「東洋の神秘」にも惑わされてつい答えまでもっともらしく思えてしまう。ちょうどディープ・ソートが「究極の答え」を計算するのに何百万年も時間をかけて計算したように。
 もし、インドの賢者から「答え」を聞いたとしたら、次にどういう展開になるのが一番「もっともらしい」だろう。ただ一人で幸せな境地で生き、死んでいった? 世間に大々的に公表され、誰もが答えを知るようになった? 答えをロック・ミュージックに織り込んで、大ヒットを飛ばし大金を手に入れる? あるいは帰りの飛行機が墜落する? 
 それとも、SFコメディのラジオ・ドラマとして放送される、とか?
 最後に、とっておきのジョークをお教えしたいと思う。今までで、一番ウケたジョークだ。え、全然笑えないって? それは、あなたがこのジョークを最初に話した、ガーデンパーティの現場に居合わせていないせいである。
 笑いというのは社会的なもの、深刻ぶった問題に風穴をあけ、個人と個人を結びつけ、人生を耐えられるものにしてくれる。私のジョークには笑えなかったかもしれないけれど、あなただっておなかの底から大笑いした記憶はあるはずだ。肝心なのは「笑った」ということ、これこそが生命の、そして『銀河ヒッチハイク・ガイド』の秘密である。私の説明に納得してもらえなかったとしても、ラジオ・ドラマを聴くなり小説を読むなりしてもらえば、あなたにもきっと分かるはずだ。


A Consideration of Certain Aspects of Vogon Poetry Lawrence Watt-Evans

 「ヴォゴン人の詩は申すまでもなく、この宇宙で三番目にひどい詩である」(『銀河ヒッチハイク・ガイド』、p. 84)というけれど、詩の悪さの度合いはどうやって決められるのだろう。ヴォゴン人の詩は、ほんの断片しか我々には知らされていないが、それでもひどい詩だということははっきりしている。詩を「詩」たらしめる要素がまるでなくて、「これでも詩か?」と言いたくなる。the American Heritage Dictionary of the English Language によれば詩とは「詩人が書いたもの」で、詩人とは「詩を書く人」だそうだが。
 ともあれ、「難解度」ではなく「極悪度」を決める基準は何か。宇宙で二番目にひどい詩は、クリス星のアズゴス人が書くといわれているが、わかっているのは大詩人グランソスによる詩のタイトルだけで、作品そのものは明かされていない。それを聴かされた人たちの中に死者まで出たというが、異なる文化背景を持つ人々に等しくダメージを与えるとは一体どんな代物なのだろう。誰か、それを兵器として利用しようとは考えなかったのだろうか。アズコス人が著作権を盾に使用を許可しなかったのか、たとえ著作権の切れた作品を使おうとしても、クリア星の朗読会に招待されてしまうかもしれないと思えばどんな武器商人たちも恐ろしくて手が出せなかった、とも考えられる。
 そんなアズコス人よりもひどい詩を書いたのが、英国エセックス州グリーンブリッジのポーラ・ナンシイ・ミルストーン・ジェニングスである。二番目、三番目は種族に冠されているのに、一番だけは個人を名指ししている不思議も、地球がディープ・ソート設計による巨大コンピュータだったことを考えれば納得できる。ゴルガフリンチャム問題を考慮に入れると話がややこしくなるが、でもゴルガフリンチャムというご先祖様のバカさ加減のおかげで、数百年後の子孫ジェニングスが宇宙一と評される詩を書くことができた、という可能性はある。
 ジェニングス本人は別にわざとひどい詩を書いてやろうと考えていた訳ではあるまい。自分ではそれなりに良い詩だと思っていて、もし他人から「宇宙一ひどい詩に決まりました」などと知らされたらひどくショックを受けただろう。もっとも、彼女が生前自分の作品を他の人に見せていたかどうかの問題は残る。エミリー・ディキンソンよろしく、生前は隠しておいて、死後に出版されて名声を得ることを夢見ていたかもしれない。ともあれ、今となっては彼女の作品を知るすべはないが、推測するにそれらはベタベタに甘いセンチメンタルな代物だったのではあるまいか。激甘のセンチメンタルこそ最悪の詩を生み出し、聴衆が受ける精神的ダメージも大きい。
 ダメージと言えば、ヴォゴン人の詩を聴いたとき、フォードは悶え苦しんだがアーサーはあまりダメージを受けなかった。彼はジェニングスと同じ地域で育ったイギリス人だったため、恐らくひどい詩というものに耐性ができていたのだ。
 そう考えると、ヴォゴン人が地球の破壊にこだわる本当の理由が見えてくる。もし、地球が壊されもせず無事に「答え」を計算したとしたら、遠くない将来、ヴォゴン人の詩に免疫を持つイギリス人たちが大挙して銀河に押し寄せるだろう。そうなったら、万に一つとは言え、「ヴォゴン人の詩を楽しむ方法」を他のみんなに伝授しないとも限らない――アズコス人は詩を武器にするつもりはなかったけれど、(捕虜への拷問という形であれ)自らの詩を武器として活用し続けたいヴォゴン人にとって、彼らの詩を「おぞましい」ではなく「おもしろい」と解釈する連中の存在が許せなかったのではないか。
 ここで、最初の疑問に戻る。銀河文明は、詩の「極悪度」を決める一定の基準のようなものを持っていたが、地球だけは適応外だった。また、「極悪度」の測定方法は、聴衆が受けたダメージの量で決まる。もっとも、その種の人体実験はあまりに野蛮なので、実際はコンピュータでモデリングしたのではないかという意見もあるが。
 ともあれ、地球人だけはひどい詩に対する免疫があるから、どんな詩とて恐れるに足らずである。


The Holy Trilogy Selina Rosen

 『銀河ヒッチハイク・ガイド』はフィクションに非ず。聖典である。
 5冊で三部作なのにも訳がある。地球が、太陽から三番目の場所にある惑星だという事実と関係している。
 人類は常々自分たちのことを、正確には自分以外の人間のことをバカだと思ってきた。どうして適者生存の法則が人類にだけあてはまらなかったのか、その理由はゴルガフリンチャムの箱船船団が説明してくれる。
 イルカたちは我々より利口だったとしても、何が悪い? ハツカネズミの件は、ハツカネズミのほうが我々を実験していたのだと分かって却って納得できた。ネズミと人の遺伝子の90パーセントが同じだというのも決して偶然ではない。
 クジラについては、創世記によれば神は5日目に海洋生物を創ったことになっている。『銀河ヒッチハイク・ガイド』が5冊で三部作なのを思い出そう。また、マグラシアに墜落したクジラの運命は、海洋汚染によって絶滅の危機にあるクジラという種族全体についてのメタファーでもある。実に奥深い。
 同じく創世記では、神は3日目に植物を創った。3、普通は3冊で三部作なのだが、『銀河ヒッチハイク・ガイド』に出てくる植物といえば、クジラと共にマグラシア上空に出現したペチュニアである。そしてこのペチュニアの心に最後によぎったのが「Oh no, not again」だったことは、三部作なのに5冊もあることを暗示している。
 スラーティバートファストというバカバカしい名前は、実は LART is fast BART という意味が隠されている。LART とは 'Landing at Roughly Two' のことで、Bart という謎の人物に当てたメッセージなのだ。
 ランクウィルとフックがディープ・ソートを起動させたくだりは、親というものの不毛さを表している。どんなに期待して、どんなに手塩にかけて我が子を育てたとしても、その子の行く末を知る前に死なねばならないのだから。
 一方、ディープ・ソートが起動した時、それを止めようとしたのは聖職者である。彼らは真実が世に広まるのを好まない。最近の例を挙げれば、聖職者たちは十代の子供たちにコンドームについて教えることは、子供にセックスをそそのかすようなものだと主張するが、性欲を高めるのはコンドームではなくホルモンだし、従来の「禁欲あるのみ」な教育方針がこれまでうまくいっていないことも明らかだ。それでも今なお「答え」から我々を遠ざけようとするのは、真実が世に出回れば彼らの仕事がなくなるからだろう。だからこそアダムスはフィクションの名を借りて『銀河ヒッチハイク・ガイド』を出せねばならなかった。
 この他にも、『銀河ヒッチハイク・ガイド』には名言がたくさんある。「宇宙の全員がパラノイア」「正義よりも楽しいことのほうがまし」、そして「タオルを忘れるな」。タオルには吸収力があることから、知識欲の象徴でもあるし、また濡れた身体を乾かすという意味では慰めの象徴でもある。「無意識のつまらぬひとことが生命にかかわることもある」――実際、政治家が何か言うたびに人が死んでいるではないか。
 これらは、まだまだほんの表層にすぎない。
 最後にスラーティバートファストの言葉を引用する。「本当に起っていることを見きわめるチャンスというものは、ごくごくわずかなもので、見きわめるためには、そんな感じがするぞと言い、自分をそんな気にさせ続けるしかないのじゃよ」(『銀河ヒッチハイク・ガイド』、p. 248)。
 これに反論できる人、いる?


The Zen of 42 Marie-Catherine Caillava
 

 『銀河ヒッチハイク・ガイド』を読んで、作者はゼン・マスターだ、と思った人はまずいないでしょう。でも、この本を読み終わった時、「よく分からないけれど、何か知的なものがある感じで、そのせいか世界が今までと違って見える気がするな……とりあえず、もう一度読み直してみよう」と、こんなふうには思いませんでしたか? もしあなたもそう思ったなら、「アダムスはゼン・マスターだ」という主張に同意したことになります。
 『銀河ヒッチハイク・ガイド』は一応SFコメディの体裁をとっていますが、内容がそこに留まらないことは冒頭から明らかです。何しろ地球がよく分からない理由で破壊されてしまうのですから。そう、『銀河ヒッチハイク・ガイド』の世界では死は必定です。役立たずどもを箱船船団に積んで追い出したゴルガフリンチャム人たちも電話での感染症で死に絶えますし、地球を攻略しようとした宇宙艦隊は子犬に飲み込まれてしまいます。登場人物は、一緒にいたくないような人ばかりです。アーサーは冷めた紅茶並に退屈だし、フォードはヘンすぎるし、ザフォドは自分のことばっかりだし、トリリアンは頭が良すぎてかわいくない、唯一まともだったフェンチャーチはこの狂った世界では居場所を見つけることができませんでした。
 アダムスは、コメディにしろSFにしろ、そういったジャンルをコケにすることでウケを狙ったりはしていません。作品には実にさまざまなすごいアイディアやジョークやダイアログが詰まっていますが、アダムスが鮮明に描き出したものは、破滅的なまでに愚かな私たちの姿そのものです。なのに決して陰気くさくなっていないのは、問いかけそのものがあまりに大きいからでしょう。
 『銀河ヒッチハイク・ガイド』では、神はいるんだかいないんだか、いたとしてもまるで信用できない存在です。賢者っぽい風貌の登場人物も出てきますが、アホな名前をつけられていて、賢いとはとても言えません。主要登場人物についてはいわずもがな。が、このつまらない人々こそが、まさに 'Just this guy'、「みなさんご存じのとおりの男」(『銀河ヒッチハイク・ガイド』、p. 128)であり、突き詰めればゴムのアヒルから宇宙まで、すべてが 'Just this guy' なのです。
 ゼンは我々に思い込みを捨てよと言いますが、アダムスの作品に規定概念や思い込みはまったくありません。憂鬱なものなら時々見つかりますが、でも総じて作品世界は活気に満ちていて、常に答え……じゃなかった、問いを探しています。そう、答えならとっくに見つかっていますよね。「42」、「タオル」、それから「無」。肝心なのは問いです。
 真面目に書かれたゼンの本を読めば、『銀河ヒッチハイク・ガイド』を読んだ時と同様、きっと目からウロコが落ちるはずです。ゼンとは、仏教の実践のことです。生きていくのは苦しいことですが、苦しいのはエゴ、自我があるからで、悟りを開けば自我や自意識なんて単なる思い込みにすぎないことがわかります。あなたは私であり、私があなた、全にして一なのです。『宇宙クリケット大戦争』のラストなぞ、そのままゼンの本として引用できるでしょう。「彼はビストロマス・ドライブのおかげで、時間と距離は同じものであり、精神と宇宙は同じものであり、感覚と現実は同じものであることを知り、旅をすればするほど、一カ所にとどまっていることになるのだということを知り、なにやかやの理由で、彼はしばらく同じところにとどまって、心を整理したい、心は今や宇宙と一体であるから、それにはあまり長くはかからないだろうし、そのあとではゆっくりと休んで、飛行の練習をし、昔からしたいと思っていた料理を習いたいなどと言った」(p. 273)
 仏教の世界観では、神は存在しません。実際、宇宙の支配者とダライ・ラマの発言はよく似ていますし、ペチュニアの輪廻転生という考えも仏教的です。また、仏教にはこれといった規則もなければ一人の教皇もいません。ブッダの書いた本もあくまで指示書であり、時代の変化に応じて臨機応変に扱っていいことになっていますのが、この辺りも『ガイド』とよく似ていますね。「あわてるな」という名言がカバーに書かれている割には、ガイドの中身そのものは直接的には役に立たないことばかりなところとか。
 ゼンの悟りとはいかなるものかを一番うまく説明しているのは「総合認識渦動化装置」でしょう。いやはや、この装置がフィクションで本当に良かった。こんなものが実際に造られたら、入れられた人は間違いなく発狂するでしょうから。こんな装置を思い付いただけでもアダムスは天才ですし、ゼンに通じた人だと言えるでしょう。つまり、ゼンとか悟りというものは、いっぺんに学べるようなものではないのです。ゼンを理解できない我々は、宇宙の中心は自分だと信じてやまないザフォドと同じです。
 ゼンと『銀河ヒッチハイク・ガイド』の類似点は他にもたくさんあります。ミリウェイズのシーンは仏教の菜食主義を表していますし、フェンチャーチの飛行レッスンはゼンで言うところの「初心を忘れるな」です。
 アダムスはゼンについての知識を持たないままに、ゼン・マスターになったのではないでしょうか。いえいえ、決して不自然ではありません。ゼンとはゼンの知識を貯えることではなく、日常の中でそれを見出すことができるかどうかが問われるものだとしたら、アダムスが自分で気づかぬうちにゼンを修得していた考えても筋が通ります。だとしたら、『銀河ヒッチハイク・ガイド』は本当はゼンのマニュアルで、世間の人たちにとっつきやすいようにわざとSFコメディとして発表したのだ、ということにも……というのは、いくら何でもちょっと非現実的すぎますね。当たり前ですが、実際にはアダムスは『銀河ヒッチハイク・ガイド』執筆中にゼンのことなんかこれっぽっちも考えてはいなかったはずです。でも、これまでも歴史上の多くの賢人・賢者たちが思考に思考を重ねた末にたどりついた境地はゼンと似通っています。本当に頭の良い人たちは、結局行きつくところに行きつくのです。「賢者クラブ」とでも申しましょうか。
 アダムスは高いIQと広範な知識を持っていました。無神論者を標榜し、本当に人の役に立つ最新技術(アップル・コンピュータとか)を愛し、動物保護を訴え、人類というものに余計な幻想を持たないエコロジストでもありました。すべての人と知識を共有することの大切さを信じていました。『銀河ヒッチハイク・ガイド』以外の著作にも、そこかしこでゼンの精神を見ることができます。アダムスは、紛れもなく「賢者クラブ」の一員でした。彼には知性と慈悲の心があり、だからこそ彼の家族や友人は彼を愛したのです。彼の死を知った時には、私や私の友人を含む多くのファンは本当にショックを受け、悲しみに沈みました。世界中のこんなにも多くの人を、まるで親しい友人が亡くなったかのように悲しませてしまう作家が、今の世の中に他にいるでしょうか?
 え、アダムスがゼン・マスターかどうかって? 
 そんなの、もうどっちでもいいじゃない。この本を読んで、底に流れる哲学のようなものについて知りたいと思う人は、表紙に「ゼン」と書かれた別の本に手を伸ばすでしょうし、そして行き着く先は結局同じ、たった一つの大きな疑問、「生命と宇宙と万物についての究極の問い」。
 「42」が究極の答えなら、その問いは何?
 まったく、何て素敵な「公案」なんでしょう。マスター・アダムス、本当にどうもありがとう。ビストロマス・ドライブが教えてくれたように、全にして一なら、答えも問いも同じですよね、きっと。


Loop-Surface Security: The Image of the Towel in a Vagabond Universe - A Semiotic (Semi-Odd) Excurtion Mark W. Tiedemann

 タオルのような日常品はあって当たり前、なくなってみて初めてその大切さに気が付く。つまり、モノの意味や価値は、その文脈、どういう場所にどういう状況で置かれているかによって変化するということだが、アダムスはそのことをフィクションで巧く表現してみせた。人間を地球という場所から引き離すことによって、モノ、つまりタオルの真価を明らかにしたのだ。
 地球が壊されそうになった時、アーサーはタオルのことなど全く頭になかった。自分の家が壊されそうになった時も、アーサーはタオルではなくバスローブを掴んだ。人前に出る時には身だしなみを整えるべき、という考えに基づくなら、パジャマの上にバスローブという格好ではなくちゃんと着替えるべきだったろうが、アーサーにはきちんと着替えてから外に出るだけの精神的かつ時間的余裕はなかったから仕方がない。が、もしここでアーサーがバスローブではなくタオルを掴んで飛び出していたなら、状況はかなり変わっていたに違いない。タオルという、その場にまったくそぐわないモノが出現することで、現場にものすごい違和感が生じ、工事担当者たちを怯ませることができたはずだ。
 が、実際にはタオルはなかったおかげで、日常性を保ち続けることができた訳で、言い換えればタオルが「ない」ということも、タオルが「ある」ということと同じくらいの象徴性を持っている。また、この物語においてタオルの有無が非常に重要であること、タオルを持っていない=アーサーの失敗、を象徴していることが明らかになってくる。さらに、地球ではほとんどの人が普段タオルを家に置きっぱなしにしていたことを鑑みれば、地球が破壊されたことにも別種の意味を帯びてくる。
 一方、タオルは不確実な構造を持つ宇宙の粒子構造との類似性もある。西洋ではタオルといえばもっぱら身体を乾かすものと考えられているが、古代においては出産や結婚や葬儀など、さまざまな儀礼に用いられるものでもあった。現在では儀礼そのものは失われ、タオルはすっかり日常生活に溶け込んだ分、言葉は一つでも使用法が多様になった――つまり、タオルのありかを知っているということは、文脈次第によっていかようにも解釈できる可能性を持つということになる。
 ところで、そもそも「ありかを知る」とはどういうことか。さっきまで使っていたコーヒーカップとか、自分の車の場所なら、(誰かに盗まれるという可能性を無視すれば)分かる。また、たとえ実際に行ったことがなかったとしても、ワシントンDCの場所も分かる。太陽とか惑星の場所も、分かると言えば分かる。が、分子とか粒子の場所と言われるともう分からない。量子論のレベルで場所とは何かと問われればもうお手上げである。
 物理学者のジョン・ホイーラーは、もっとも小さい単位である素粒子の構造を「量子の泡」という言葉で表現し、宇宙はコイルのような円形構造になっていると見なした。実際、泡というたとえは言い得て妙で、宇宙を調査するのは濡れた石鹸を掴むのとよく似ている。確かにモノはそこにあるのに、何とか掴むこともできるのに、バランスとコントロールを失えばつるんと滑って手から飛び出しそうになるところなど。また、泡の形を維持するための円形構造は、タオル生地の表面にそっくりではないか。
 タオルの円形構造は、宇宙と同じ作りになっている。実際、湿気や泡を拭うという機能によって、そのものの構造を安定化させている。かくしてタオルは宇宙旅行者たちにとって安心、安定というものの象徴となり、タオルのありかを知っているということは、すなわち自己のありかも知っているということに繋がる。


Yes, I Got It Jacqueline Carey

 若かった頃、半年間の交換プログラムとしてロンドンの金融街にある大手チェーンの本屋で働いていたことがある。
 ある日、私がレジにいると、キャリアウーマンタイプの女性が『銀河ヒッチハイク・ガイド』を手にやってきた。彼女は、イントネーションから私をアメリカ人だと見抜くと、この本を読んだことがあるかと尋ねた。私がある、と答えると、「でも読んでも意味が分からないんじゃない?この本はすごく英国的だし、それに繊細でしょ。あなたの国のジョークとは全然違ってて」と言った。当時、その店のベストセラーだったイギリス人コメディアンの本だって、下品なシモネタ満載だったのだが。
 ともあれ、『銀河ヒッチハイク・ガイド』のユーモアが英国的であることは認める。しかし、そもそも「英国的」とは何なのか。
 私に言わせれば、それは非日常と日常が隣り合う不条理感にある。マークス・アンド・スペンサーのタオル、という日常のもっともありふれたものが、いきなり銀河旅行の必携品と化す。官僚的な緑の目の怪物がへたくそな詩を朗読する。宇宙船<黄金の心>号は、無限不可能性ドライヴでインテリア・コーディネイトされ、植木鉢やら水槽やらが並べられる。日常の、ごく当たり前のものに新しい光を当てる想像力を、アダムスは持っていた。
 さらに、アダムスはいつも不条理の限界を押し広げようとしていた。無限不可能性ドライヴのせいで、ミサイルがクジラとツクバネアサガオの鉢に変わってしまったというだけでも十分おかしいのに、さらにツクバネアサガオの鉢はこう思うのだ――「ああ、いやだ、もうこりごりだ」。良い小説というのは、小説の中では語り尽くされていない多くのストーリーを内包しているものだが、ツクバネアサガオの鉢にまで語られざる物語を潜ませるような小説は他に類をみないのではないか。そしてまた、それらが何と切りつめられた、最小限の言葉で語られていることか。言葉はほとんど詩人並の精密さで選ばれ、シンプルでおかしくて、かつとても英国的だ。
 主人公のアーサー・デントも、典型的なイギリス人として描かれている。巻き込まれ型で、礼儀正しく、まごついてばかり。異常事態が起こったら、まっとうに対応する方法を探そうとし、見つからなければ泥の中に横たわって事が通り過ぎるのをじっと待っている。
 彼の国の典型例をからかいながら、でもアダムスが向ける目線はあくまで優しい。不条理な出来事に対しても心からおもしろがっている様子が見て取れる。『銀河ヒッチハイク・ガイド』は決して深淵な作品ではないけれど、くすくす笑って読んでそれでおしまい、にならない何かがあると思う。もし私がまっとうな文学研究者になっていたとしたら、『銀河ヒッチハイク・ガイド』における英国植民地主義の影響を調査していたかもしれない――そうならずに済んで、良かった。
 おかげで、今の私は『銀河ヒッチハイク・ガイド』を読んで呑気にくすくす笑っていられる。アダムスの、最小限の言葉でもって果てしなき彼方に読者を誘う才能に感嘆しながら、また、この本を買ったあのイギリス人キャリアウーマンは読んでて思わず声を出して笑ったりしたのかな、それとも内心「分かる分かる」と思っただけかな、とか、フェンチャーチ・ストリートにあったあの本屋は今も健在かな、とか、彼女は今もあの店に行くことはあるのかな、行っているとしたらそこで私の本を買ったりしないかしら、そしてそれを読んで大笑いしてくれてたらいいのになあ、とか、そういうことを想像しながら。


You Can't Go Home Again, Damn It! Even If Your Planet Hasn't Been Blown Up by Vogons Susan Sizemore

 こんな仕事、引き受けるんじゃなかった。
 私もかつてはダグラス・アダムスのファンだった。初めて彼の作品に出会ったのは、深夜にテレビ放送されていた『ドクター・フー』の「The Pirate Planet」。それまで『ドクター・フー』なんて観たこともなかったけれど、おもしろくて最後まで観てしまい、それがきっかけで私は『ドクター・フー』にハマることになる。でも、それはまた別の話。『銀河ヒッチハイク・ガイド』に関しては、一番最初の出会いが本だったかレコードだったかはっきりしないが、でも友達と一緒にあのレコードを聴いた時のことは最高の思い出である。なお、その友人とは後に2冊の本を共同執筆したし、彼女もまたこのアンソロジーにも寄稿している(註・マルゲリーテ・クラウスのこと)。
 アダムス本人とは、1982年の世界SF大会で初めて会った。会った、といってもファンの一人として彼の後ろをこそこそつけ回していただけのこと。彼はとても背が高かったのでつけ回すのは簡単だった。彼の話す言葉は一言もらさず聞き取ろうとしていたが、今となっては彼が何を言っていたのか一言たりとも憶えていない。
 普段の生活で『銀河ヒッチハイク・ガイド』を引用したことも数知れない。プロの作家になるためにそれまでの勤務先を退職した時には、パソコンのデスクトップに「さようなら、いままで魚をありがとう」の文字をスクロールさせておいたし、2001年9月11日に着陸待ちの飛行機がミネアポリスの上空で待機している様を見た時も、とっさに頭に浮かんだのは「船が空中に浮かんでいるさまは、レンガが絶対に浮かばないさまにそっくり」(安見訳、p. 47)だった。テレビ・ドラマも大好きで、台詞を丸暗記していたほどだ。
 が、約20年ぶりにDVDを観たみたら、これがトロくさいの何のって! よもや自分が『銀河ヒッチハイク・ガイド』にうんざりする日が来ようとは夢にも思わなかった。が、本を読んでみてもつまらない。いや、単に退屈なだけじゃなく、今では退屈を通り越して、私はどのヴァージョンであれ、『銀河ヒッチハイク・ガイド』がすっかり嫌いになっていた。
 何となく記憶していた以上に、皮肉がキツイ。特に神に関するくだり。アダムスが何と言おうと、神は存在しているし、神の存在は我々人間にとって決して無関係なことでないはず。私自身、宗教を茶化して笑うのをおもしろいと感じた時期もあったけれど、今はイライラさせられるだけだ。
 誰が何と言おうと、『銀河ヒッチハイク・ガイド』はもはや時代遅れの代物だ。あの時代へのノスタルジーなしには、とても読めたものじゃない。ただ一人の主要女性キャラクター、トリリアンの描かれ方を見よ。あれでもアダムスにしてみれば十分フェミニズムを意識して書いたつもりだったのだから笑わせる。アーサーの家が破壊される冒頭シーンにしたって、古き良き英国が失われるとでも言いたいのだろうが、少なくとも私は情緒たっぷりの田舎の小道よりもイギリスの最新高速道路を利用している時間のほうがずっと長い。
 だが、この作品で一番不愉快なのは、普通のワーキング・クラスの人々をバカにしている点である。アダムスはそういう人々が人類の先祖となったことを恥ずかしく思っていられるようだが、私に言わせれば先祖に電話衛生係を持つほうが、ヒトラーの子孫になることに比べればはるかにマシだ。
 それでも、『銀河ヒッチハイク・ガイド』で今でも気に入っている点もある。バベル魚とか、ヴォゴン人の詩とか、マーヴィンとか。かつては好きだったアーサーは今では嫌い、ザフォドも今ではバカにしか思えないけれど、フォードはどっちかと言うとまだ好きかも。
 つまりは時代が変わったということか。ただし、『銀河ヒッチハイク・ガイド』の影響で多くのすぐれたSFやファンタジーが生まれたことについては感謝している。テリー・プラチェットの『ディスクワールド』シリーズを読めば、「アダムスは終わった」ということがよく分かるけれど、でもアダムスなしにこの作品が生まれなかったこともまた確かだろう。
 政治風刺なら、『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズ全部を合わせたよりテレビ・ドラマ『ザ・ホワイトハウス』の5分間分のほうが上だ。『ファースケープ 宇宙からの帰還』の主人公はアーサーなんかよりずっとタフでおもしろい。マット・グローニングのアニメーションもウィットに富んでいるし、『サウス・パーク』にだって知性の閃きが感じられる。
 昔のイギリスの作品も改めてチェックしてみたけれど、『ブラックアダー』の1〜3はおもしろかった(4は前から好きじゃない)。『宇宙船レッド・ドワーフ号』も大丈夫。『空飛ぶモンティ・パイソン』は今でも天才的だと思う。ということは、イギリスのユーモアが苦手になった訳でもない。単に『銀河ヒッチハイク・ガイド』がつまらないだけだ。冒頭にも書いた通り、こんな仕事引き受けるんじゃなかった。
 現在、『銀河ヒッチハイク・ガイド』の映画化企画が進行中というが、うまくリニューアルされることを祈っている。ともあれ、アダムスには、私に『ドクター・フー』を紹介してくれたことに感謝する。SF・ファンタジー小説の世界にユーモアを持ち込んでくれたことにも。
 蛇足だが、私は今後『ドクター・フー』の古いエピソードを決して見直すまいと思う。うっかり見て、長年の愛が消えてしまったりしたら、泣くに泣けないから。


The Subversive Dismal Scientist: Douglas Adams and the Rule of Unreason Vox Day

 『銀河ヒッチハイク・ガイド』を正しく理解するためには、この作品が生まれたのがハロルド・ウィルソンやジェイムズ・キャラハンらの英国労働党政権下だったことを思い起こす必要がある。労働党といっても、今のトニー・ブレア率いるクール・ブリタニアな代物ではなく、古臭くて重々しい昔ながらの労働党だ。経済は労働組合に振り回され、政府は厳しい通貨規制をしていた、あの時代。
 『銀河ヒッチハイク・ガイド』の冒頭で、一人の男が自宅を潰そうとするブルトーザーに抵抗する。それでも容赦なくバイパス工事は進められるが、その手の話なら、最近でもアメリカのコネチカット州で地元議会が開発業者に中流クラスの住民たちの家を壊して再開発を進める許可を出そうとした例がある。不幸中の幸い、アーサーの家が潰された時と違って、地球まで潰されることにはならなかったが。
 アダムスが考えるところの官僚の姿は、ヴォゴン人に集約されている。交通局に住まうデブの類人猿と関わり合ったことのある人なら誰しも、アダムスの文章に納得するにちがいない。
 だが、アダムスが描いたのはそういう単純な社会風刺だけではなかった。かつて繁栄を誇った銀河帝国について、「荒々しく、豊かで、そしておおむね非課税」(安見訳『銀河ヒッチハイク・ガイド』、p. 155)と描写するだけではない。さらに、帝国の経済が衰退するとみてとるや、エリートたちは景気の波が回復するまで冬眠する、と続けるのだ。
 フィクションにおいて、経済という学問領域がプロットに組み込まれることは稀だし、ましてやそれが笑いにつながることなど皆無に等しい。が、『銀河ヒッチハイク・ガイド』においては経済が作品全体を貫く主要なテーマとなっている。「靴の事象の地平線」の経済危機や、「木の葉の紙幣」のインフレ問題、他にもまだまだある。アダムスが若かりし頃に、英国政府が晒した経済政策の失敗の数々が、よほど強い印象を与えたのだろうか。作品の中で、アルタイル・ドルの崩壊についてたびたび言及されているし、「宇宙の果てのレストラン」での支払い方法をみてもインフレ経済に対して懐疑的な姿勢が伺える。実際のところ、一部の金融家が貨幣経済を管理しようとしても上手くいきっこないというアダムスの考えは、オーストリア学派の経済学者、マレー・ロスバートに相通じるものがあるかもしれない。
 巨大な政府機構がもたらす弊害は、貨幣管理だけに留まらない。マーヴィンがスコーンシェラス・ゼータ星でマットレスに語った橋の建設工事の話を思い出そう。その建設工事は、「スコーンシェラス・ゼータ星系の経済を再生させようという計画だった。スコーンシェラス・ゼータ星系の全予算をつぎ込んで建設し」(安見訳『宇宙クリケット大戦争』、p. 90)、その挙げ句、橋は開通と同時に崩壊して橋の上にいた全員が沼地に沈んで死亡するのだが、このエピソードなどはまさに20世紀の社会主義国における中央管理経済を思い出させずにはおかない。地上の楽園作りのはずが、一転して地獄に転じる。また、中央集権と大量殺人の例なら、クリキット戦争という例もある。税金についてなら、<ディザスター・エリア>の例もあった。
 こうした反政府的なジョークの塊である『銀河ヒッチハイク・ガイド』が、BBCで放送されたというのは何にもまして痛烈な皮肉かもしれない。アダムスとしては、政治的な主張をしたかったというよりも、単に問題点や矛盾点をうまく突いてみせたかっただけだろうが、たとえそうだったにせよ、ラジオ・ドラマ『銀河ヒッチハイク・ガイド』が1978年3月8日に初めて放送される5週間前には、公共サービス機関による大々的なストライキが起こっていた。そして翌年には労働党は選挙で大敗し、17年間維持した政権の座を保守党に渡すことになるのだが、こうして誕生したサッチャー政権下のイギリスで保守化の波が急速に広まったことは、アダムスが作家として世界的な名声を獲得していく後押しとなった、と言えなくもない。ディープ・ソートの即時停止を訴える哲学者たちの労働組合の描写を読めば、労働組合がいかに起業家精神や経済成長を阻害するかがよく分かる。
 アダムスがただのSF作家としか見なされないのは不幸なことだ。『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズ5作は、ヴォルテールの『カンディード』やスウィフトの『ガリバー旅行記』に匹敵する程の、哲学的示唆に富んでいる。アダムス本人はリバタリアンではなかったかもしれないが、その作品はリバタリアン文学の最高峰と呼ぶにふさわしい。
 とは言え、『銀河ヒッチハイク・ガイド』におけるアダムスの反権力姿勢をもっとも良く表しているのは、以下の文章だろう。ここには、権力を志向する者に対するアダムスの深い懐疑がみてとれる。

 人を支配することにまつわる重大な問題は――重大な問題はいくつかあるから、そのうちのひとつは――つまり、数多くの重大な問題のうちのひとつは、だれに支配させるかということだ。というよりむしろ、この人に人を支配させようと人に思わせられる人はだれかということだ。
 要約するとこうなる。これはよく知られた事実であるが、人を支配したがる人は、人を支配したがっているというその事実によって、人を支配するのにふさわしくない人である。要約をさらに要約すると、大統領になれる人は絶対に大統領にしてはいけない人である。(安見訳『宇宙の果てのレストラン』、p. 272)


Lunching at the Eschaton: Douglas Adams and the End of the Universe in Science Fiction Stephen Baxter

 これまで多くのSF小説は「宇宙の終焉」を描いてきた。アダムスの「宇宙の果てのレストラン」もまた然り。
 宇宙の終末論は、19世紀に「エントロピー」という考え方と共に生まれた。1895年にH・G・ウェルズが発表した小説『タイム・マシン』では、3000万年後の地球は、人類はもとより生命のほとんど死に絶えた世界として描かれている。後に、オラフ・ステープルドン、アイザック・アシモフ、アーサー・C・クラークといったSF作家たちも、自作の中で宇宙の終わりについて考察しているが、それらは当然のことながら「神の探求」に結びついていった。ステープルドンの古典的SF『スターメイカー』(1937)は、その典型であろう。その影響は、現在でもグレッグ・イーガンのような作家に見ることができる。
 神がなかなか見つからないとなると、ある作家たちは登場人物自身に神を創らせようと考えた。アシモフの短編小説「最後の質問」(1956)では、酔っぱらった二人の技術者が、マルチヴァクという名の巨大なコンピュータに宇宙の終末を防ぐ方法について質問する。「宇宙におけるエントロピイの総量は、いかにして減少させうるのか?」。これに対するマルチヴァクの答えが「意味ある答えをだすにはデータ不足」(『停滞宇宙』、p. 290)。人類、コンピュータ共に世代が移っていっても、同じ問いと答えが繰り返されるが、時間も空間も消えたはるか10兆年先の未来で、ただ一つの存在と化したコンピュータ、ACはついにその答えを見つけ出す。「ACは言った。゛光あれ″すると、光があった。」(同、p. 304)この短編小説は、アシモフの作品の中でも人気が高く、またアシモフ自身のお気に入りでもあった。
 果たしてアダムスは「最後の質問」を読んだことがあっただろうか。その可能性は否定できない。実際、ACはディープ・ソートによく似ている。だが、ストーリーそのものがアダムスに大きな影響を与えたとは考えにくいし、アシモフについて「ジャンク・メール書きにも彼を雇いたくない」という意地悪発言まで飛び出す始末だ。多分、アダムスはSFを読んだことはあるにしても、決してファンではなかったということだろう。子供の頃はジュヴナイルSFを読み、大人になってからはロバート・シェイクリーやフィリップ・K・ディック、ロバート・シルヴァバーグ、カート・ヴォネガットを読んでもいる。だが、無意識のうちにそれらの題材を吸収していたにしても、SF作家の作品を大真面目に受け止めたとは思えない。
 アダムスが世界の終わりについて真剣に考えたとしたら、それはSFよりもむしろ彼の宗教的背景に起因しているのではないか。彼は篤信的なキリスト教の家庭に育ち、後に宗教的世界観と科学的世界観の相違から無神論に転じたが、キリスト教を捨てると世界の終末がより荒涼たるものになることは避けられない。神を信じられるなら、たとえ終末が来てもその後には永遠の救済が待っているが、神が信じられないとなれば救いはどこに? 
 ここで、ステープルドンやアシモフなら深刻に悩むところだが、アダムスは不条理なユーモアのセンスで対抗することにした。アダムスのユーモアに影響を与えたのは、シェクリイやヴォネガット、それに忘れちゃいけないモンティ・パイソンと、そしてルイス・キャロル。「朝のうちに六つの不可能事をなし遂げて、最後の仕上げに宇宙の果てのレストラン<ミリウェイズ>で朝食を!」(安原訳『宇宙の果てのレストラン』、p. 141)なぞ、キャロルそのものではないか。また、『宇宙の果てのレストラン』18章では、宇宙が終わる直前になってようやく復活した大予言者ザークォンを描いて宗教の終末論をコケにする一方で、有限な時間の中ではすべては無意味であることもよく分かっていたアダムスは、ミリウェイズの名物ホスト、マックス・クォドルプリーンにこう語らせる。「わたしは知っているんですがね、何度もお運びくださるお客様がおおぜいいらっしゃるんですから。これこそほんとうに奇跡的なことだと私は思うんですが。ここに来てすべてが終わるのを見届けて、それから自分の時代のわが家に戻り……そして家族を養い、よりよい社会を築こうと努力し、正しいと信ずるもののために血みどろの戦争をし……それを考えると、全生物の未来に希望が持てると思いませんか? ただもちろん(略)これこのとおり、生命に未来などないんですが……」(同、pp. 170-171)。
 生命など無意味だ。『銀河ヒッチハイク・ガイド』のジョークの核は、地球が実は生命の答えを計算するためのコンピュータだったが、答えが出る直前にバイパス工事のためにぶち壊されてしまい、答えを見つける希望は失われてしまった、ということに尽きる。だが、そのような絶望をすら、アダムスは笑いのめすのだ。その態度は、物理学者スティーヴン・ワインバーグの次のような言葉とはまさに対極にある。「(地球が)圧倒的に敵意に充ちた宇宙の小さな一部にすぎないと実感することは非常に難しい。この現在の宇宙が言語に絶するほど未知な初期の条件から進化したものであり、限りないほどの冷たさ、あるいは耐えられないほどの熱のなかにいつかは消えてゆく運命にあると実感するのは、さらに困難である。宇宙が理解できるように見えてくればくるほど、それはまた無意味なことに思えてくる」(ワインバーグ、p. 186)。ワインバーグはビッグバンから3分後の世界がいかなるものであったかを解明したことで知られているが、アダムスはと言えば、かのマックス・クォドルプリーンにこう語らせている――「ついさっきまで、わたしは時間のまったく正反対の端におりまして、<ビッグバン・バーガーバー>でショーの司会を務めておりました」(同、p. 159)宇宙の終焉すら笑い飛ばすことで、アダムスは後続の終末SFのあり方を変えてしまった。

 とは言え、SFとは基本的に可能性を探す文学である。何とか宇宙の終焉を避ける方法は見つからないものだろうか?
 1979年、物理学者のフリーマン・ダイソンは、人類そのものは滅亡するかもしれないが、すべてが失われるということにはならないのではないかという見解を出して、多くのSF作家に影響を与えた。フレデリック・ポールの『時の果ての世界』(1990)はその一例である。
 宇宙は膨張し続ける、という考え方とは逆に、宇宙はある時膨張を止めて縮小に転じるのではないかという考え方もある。フリーマン・ダイソンに言われれば「考えると閉所恐怖症になりそう」な状況を、上手く切り抜ける術があるか否かについては、SF作家ジョージ・セブロウスキーが、小説 Macrolife の中で挑戦している。
 また、1994年には物理学者フランク・ティプラーが、ついに科学がSFに追いついたかのような未来予測を出した。未来の知性体(=進化したコンピュータ)が宇宙全体をコントロールし、終末の到来をも防ぎうるというのだ。さらにティプラーは、この時間という概念をも越えた究極のコンピュータ・マシンなら、宇宙のすべてを一から再現し直すことすら可能だろうと言うが、この考えなどアシモフが描いたACそのものである。そう考えると、我々が宇宙の果てで復活し、ディープ・ソートに会える日が来てもおかしくはない。今のうちに、<ミリウェイズ>の席を予約しておくか。
 ティプラーの説が物理学者の満場一致で認められた訳ではないが、ダイソンの説よりも期待が持てるという理由で、チャールズ・シェフィールドの Tomorrow and Tomorrow(1997)など、SF界にはあっという間に広まることとなった。とは言え、最新の宇宙学によると、やはり宇宙は縮小ではなく拡大し続けるというのが通説である。が、それでも宇宙の終末をめぐるSFは尽きない。私自身、拙著 Manifold: Time(1999)で取り上げてみた。
 「宇宙の果てのレストラン」は、典型的な宇宙の終末に立脚しつつも、それをいかに受け止めるか次第で生き残るすべも見つけられることを示してくれた。終末そのものを笑うことができれば、多分何とかなるということだ。

 アダムスのジョークはダークな色彩が強い。後の巻になるとその傾向はより強まるが、やはり一番のアイディアは「レストラン」だろう。何と言っても、宇宙の終末が飲食業に乗っ取られるのだから。
 アダムスの小説を読んでいると、時折アダムス自身「事象渦絶対透視機」に入ったことがあるんじゃないかと思えることがある。そして、すべての不条理を笑いのめすことで無事生還したんじゃないかと。マックス・クォドルプリーンが「この後はすべてが無となるのです。虚無、消滅、空の空、なにひとつ残るものはありません…(略)……そうは言っても、もちろんデザートのワゴンまでは消えたりいたしません」(同、p. 167)と語るように、ラストでフォードが「もうどうでもいいよ。問題なんかなんにもない。今日はこんなにいい天気なんだし、今を楽しもうぜ」と話すように。
 アダムスは先行する多くの終末SFに影響を受けたかもしれないが、『宇宙の果てのレストラン』が後続の作品に影響を与えたこともまた疑いの余地がない。私の意見では、このアイディアが『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズの中で一番の出来だと思う。アダムスがこの本を一番気に入っていたというのも、恐らくは同じ理由からだろう。


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 『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズから飲食にまつわる事柄を取り除くとしたら?
 まず、「宇宙の果てのレストラン」のくだりは全滅。え、それでも2冊目の小説以外はそのまま残るじゃないかって? とんでもない。まずは紅茶。そして自動栄養飲料合成機も消える。考えてみれば、無限不可能性ドライブだって紅茶なしには発明されなかったんじゃなかったっけ? アーサーが地球がなくなったという事実に向き合うのも、「マクドナルドのハンバーガーなんてものは、もうどこにもない」(安原訳『銀河ヒッチハイク・ガイド』、p. 84)と考えたのがきっかけだった。そうそう銀河の至るところに「ジン・アンド・トニック」と似たような名前の飲み物がある、という話もあったね。というか、アルコールなら「汎銀河ウガイ薬バクダン」が出てこない『銀河ヒッチハイク・ガイド』なんてありえない。
 ことほど左様に、ダグラス・アダムスの『銀河ヒッチハイク・ガイド』には飲食にまつわる話が詰め込まれている。話の発端で、地球を離れる直前のアーサーはフォードと共にパブに行き、ビールとピーナッツを口にする。ビッグ・バンや宇宙の終焉さえ、飲食業と結びついている有様だ。
 このシリーズにおいて、食べ物とは単なる栄養ではなく、科学を進化させるエンジンともなる。『宇宙クリケット大戦争』に出てくるスラーティバートファーストの宇宙船は「レストラン数量ドライブ」を見よ。『さようなら、いままで魚をありがとう』では、地球に戻ったアーサーが冷蔵庫の中に入っていた不気味な食品を食べることで、知らぬうちに感染していた恐ろしい宇宙病を撃退する。ストレスに晒されたフォードやゼイフォードが、いくたびアルコールで気持ちを和らげたことか。
 食は、時に宗教的重要性さえ帯びることがある。イギリスのまずいサンドイッチを食べることは、英国人にとって「罪の償い」(『さようなら、いままで魚をありがとう』、p. 98)とされるかと思えば、イルカたちは人間に「魚をありがとう」と言い残して去っていく。そしてアーサーは最終的にたどり着いた地球によく似た惑星で、サンドイッチ屋になって心の平安を見出すのだ。
 では何故、このシリーズにはこんなにも飲食の話が多いのだろうか。その答えは簡単。アーサーが、我々と同じごく普通の人間であることを、常に読者に思い起こさせるためである。と同時に、とてつもない災難が次々と襲いかかる時の、彼の気持ちを読者に理解させるためでもある。
 地球の崩壊からからくも逃れ、フォードと共に旅することになったアーサーは、まずは次の食探しをしなくてはならない。
 もともと、人間にとって食とはとても単純なものだった。生きるためには栄養素を摂取する必要があり、そのために草を取ったり獲物を捕まえたりして、それを食べるだけのこと。だが、考えてみればそうして手に入れた食べ物も、実は腐っていたり毒があったりする。アーモンドでさえ、安全な食品に加工されるまでは人体に有害な物質を含んでいたりするのだ。この危険を取り除くため、農耕が発達し、スーパーマーケットや宅配ピザが誕生することとなった。そして現在では、小さな緑の紙切れやプラスチックのカードがあれば、怒り狂ったトラに襲われるといった死の危険を伴わずに一日三食を手に入れることができる。
 とは言え、その分人と食との関係は飛躍的に複雑になった。アダムスが『銀河ヒッチハイク・ガイド』を書いた1970年代頃までには、豊かな先進国の間ではダイエットの流行や、ビタミン剤、摂食障害、有機栽培、ファーストフード、スローフード等々、食にまつわるさまざまな事柄が話題に上るようになっていた。そして現在では、我々はカネで買う以外の方法で食べるものを手に入れることができなくなっている。単純に、農業の知識がないからというだけの問題ではない。購入できるような農地がない、あっても値段が高すぎる、ということもあるが、それだけでもない。育った穀物の種で翌年の種まきをする、という過去何千年もの間続いていたことすら、現在では何と違法行為になりかねないのだ。というのも、多くの食性植物は既に特許申請されており、特許料を支払うことなく栽培することは法律で禁じられているからである。かくして多くの生物学者たちは、まだ特許登録されていない未知の食用植物を求めて世界各地に赴くことになる。
 この他にも、宗教や地域によって食事制限やアルコール厳禁の風習があるが、これらは肉体的、精神的、社会的な健康を保つためのものとして有益なものである。問題は、度を超してしまいがちなことだ。やたら熱心なダイエット信奉者の口ぶりだと、まるでダイエットをしていると死なずに済むかようだが、そんなダイエットなどあるはずもない。
 だが、結局のところ、簡単な話なのだ。食べれば生きられるし、飢えれば死ぬ。それだけのこと。しかし、こんな簡単なことがSFではしょっちゅう無視されている。そりゃ勿論、メアリー・ドリア・ラッセルの『ザ・スパロウ』とか、モーリーン・マクヒューの『ミッション・チャイルド』といった例外はあるが、大抵のSFでは、食の問題はまったくと言って良いほど出てこない。
 それにひきかえ『銀河ヒッチハイク・ガイド』ときたら、誰もかれもが何かを食べる必要を感じている。バベル魚だろうと、地球出身のアーサーとトリリアンだろうと、宇宙人のフォードとゼイフォードだろうと。この作品の中で一番不幸なキャラクターが、文字通り食べ物で慰めを得ることができない、というのは決して偶然ではない。そう、鬱病ロボットのマーヴィンである。
 食べるものが簡単に手に入る昨今では軽視しがちだが、アーサーの体験を通して、我々は食事がただの栄養補給のみならず、抗しがたい愉しみであることを思い出させずにはいられない。それ故、食は人類の歴史を大きく動かしてきた。スパイスを求めて大航海時代が始まったし、パンの価格高騰がフランス大革命に繋がった。今では、食物を求めて暴動が起こるということは先進国では考えにくいが、別の意味において食に関する危険は以前より高まっている。BSEとか、遺伝子組み替え食品とか。
 遺伝子組み替え食品が最初に出たのは1994年だが、アダムスは『宇宙の果てのレストラン』の「本日のメインディッシュ」で既に予見していた。品種改良され自ら進んで食べられようとする牛をみて、初めは驚き、ついで食欲をなくすアーサーの姿は、遺伝子組み替え食品と初めて出会った時の我々の反応とよく似ている。
 未来予見と言えば、地球が潰されて帰る場所を失ったアーサーは、現在のホームレス問題の先鞭でもある。究極のホームレスたるアーサーが一番になすべきことは、安全なねぐらを確保することであり、それから食物を手に入れることである。が、アーサーはただ腹を満たせればいい、とは考えない。彼は単なる栄養以上のものを欲しがる――つまり、紅茶だ。アーサーにとって紅茶とは慰めであり、贅沢や安心の象徴でもある。一方、フォードやゼイフォードといった、アーサー以外の連中はもっぱらアルコールに慰めを見出す。
 実際、死や破滅だらけのエピソード満載なのに、よくもまあアダムスはこれをコメディに仕立てたものだ。確かに、基本的にコメディは悲劇を内包しているものだが。
 三部作の英文学と言えば、J・R・R・トールキンの本を思い出す向きもあろう。この本でも、ホビットたちはひどい目に遭わされたが、束の間のもてなしを受ける際はいつも豊かな食事が提供されたものだ。彼らはたらふく食べ、朝食の時間が来るまでベッドでぐっすり眠ることができた。
 それに引き換え、アーサーときたら惑星マグラシアでもミリウェイズでも食べる機会を逃してばかりいる。故に、『さようなら、いままで魚をありがとう』でようやく地球に戻った頃には、喜びや希望などすっかりなくしていたが、冷蔵庫の中のよくわからないものを食べ、バーに行き、フェンチャーチと出会って、少しずつ生きる気力を取り戻していき、サンタバーバラのシーフードレストランでフェンチャーチと共に本当に美味しい食事と出会った時、アーサーは幸福を感じる力を取り戻した。5作目でフェンチャーチと別れてしまっても、アーサーはサンドイッチを作ることで心の安寧を得る。
 我々自身は、無限不可能性ドライブの船で宇宙をさまよう羽目になることはないかもしれない。でも、我々がアーサー同様、無力な存在であることに変わりはない。食べれば永遠に生きられるというものではないが、食べなければ間違いなく死ぬ。願わくば、死を迎える直前のアーサーのような境地に達することができますように――心と身体に滋養を与えるものをたくさん手に入れ、かつその豊かさを他の人たちを分かち合いたいと望むことができますように。
 以上の点を留意した上で、ま、とりあえず台所に何か美味しいお菓子でも取りに行くとするか。


The Only Sane Man in the Universe Marguerite Krause

 ユーモアを分析したり説明したりしても、ちっともおもしろくない。『銀河ヒッチハイク・ガイド』が素晴らしいのは、説明されなくてもそのユーモアがみんなに理解されるからだ。
 そして、そのユーモアにもっとも貢献しているのが主人公アーサー・デントである。ごく普通の人が主人公、というのはフィクションにはよくあることで、作者の視点を導入しやすいし、読者にそのフィクションの世界像を説明しやすいという利点もある。が、アーサーは単なる「普通の人」というだけでなく、「宇宙でただ一人の正気の人(the Only Sane Man in the Universe、略してOSM)」でもある。
 OSMを簡単に説明するなら、無心で世間ずれしていなくて、アウトサイダー的なところを持ち合わせた人物、ちょうど童話『裸の王様』の中で、「王様は裸だ!」と叫ぶ子供のようなものだ。この手のキャラクターは、他の人よりも明晰、というか正気なのだが、かと言って現状を変える力を持たないのが通例である。コメディ作品にはたびたびOSMが登場するが、それには二つの理由がある。一つには、無理解な親を持ったティーンエイジャーだったり、無能な上司の元で働く部下であったりする我々も、日頃自分をOSMだと感じることがあることがあるので、OSMの気持ちがよくわかるということ。もう一つは、そのOSMがトラブルをうまく解決できたら素直に良かったと思うし、失敗したら失敗したでこれまた我が身を振り返って同情したくなるからである。
 そういう意味でアーサーはまさに典型的なOSMなのだが、でも他のOSMと異なっている点もある。ではどこが違うのか、イギリスの他のユーモア作品と比較してみてみよう。
 まずは、アダムスもファンだというP・G・ウッドハウスから。比べて読んでみると、二人の文章はとてもよく似ていることが分かる。
 続いて、1950年代に放送されたラジオ番組、『ザ・グーン・ショウ』。『銀河ヒッチハイク・ガイド』のおじいさん格に当たる番組である。ユーモアの質に共通するものはあるが、今の人にとってはいささか自意識過剰気味で内輪受けの感があり、おまけに単純すぎてオチが先に判ってしまうかもしれない。
 それから、言わずと知れた『空飛ぶモンティ・パイソン』。アダムスが『銀河ヒッチハイク・ガイド』を執筆するほんの数年前の番組だから、「親」というよりは「兄弟」と言ったほうが適切だろうか。モンティ・パイソンのスケッチには、『銀河ヒッチハイク・ガイド』と同じ、イギリスのごく普通の人が自分がOSMになっていることに気づくというパターンが数多く見られる。そのOSMがいかにして問題解決を図るかだが、

1・状況の認識
2・問題を解決してくれそうな人に状況を説明
3・その人が失敗し、しようがないのでOSMなりにできることをする、すなわち皮肉を言う

 『空飛ぶモンティ・パイソン』におけるOSMの典型例は、「死んだオウムのスケッチ」である。スケッチなら短くまとめる必要があるが、小説でなら1から3の過程をもっと長く書くことも可能だ。
 3の皮肉に関して言えば、皮肉はユーモアより攻撃性が強い。ただし、それがどのくらい攻撃的かは、語り手の声の調子で変わってくる。つまり、演じる役者次第ということだ。またアメリカでは、皮肉は下の者が上の者に立ち向かうための武器でもある。権威に反抗する、弱い者が立ち上がっていじめっこを倒す、という構図は、まさにアメリカの神話そのものだ。
 イギリスのユーモア作品の中のOSMも、時には社会の不正義に抵抗するために皮肉を用いることがある。「死んだオウムのスケッチ」に出てくるペットショップの客もその一例だし、家を壊されそうになって抵抗するアーサーもそうだろう。と言っても、大抵の場合、OSMはそういう種類の皮肉を言うより、トラブルを何とかやり過ごすことに終始するものだが。映画『ギャラクシー・クエスト』で英国人俳優アラン・リックマンが演じたアレックスのように。
 モンティ・パイソンのジョン・クリーズは、『フォルティ・タワーズ』のバジル・フォルティ役で、史上もっともやかましく、かつもっとも役に立たないOSMを作り出した。バジルの場合、自分ではOSMのつもりで振る舞うのだが、実際には彼自身が騒動の元凶となっていく。たまには、彼に分があることもあるけれど。
 さて、アーサー・デントが他のOSMと少しばかり異なるのは、彼が出くわす災難が、他のOSMに比べてケタ外れに大きいことにある。そのため、アーサーはほとんどいつもヒステリー寸前の状態だが、それでもOSMの三段階をきちんと踏んでいく。まずは状況把握に務め、論理的な解決法を提案し、そしてうまくいかなくて皮肉を言う。自宅が壊されそうになった時も、

「ですがね、いちおう告知はしてあったわけでしょ?」
「してあったよ」とアーサー。「もちろんしてあったさ。鍵のかかったファイリング・キャビネットの一番底に貼り出してあったよ。しかもそのキャビネットは使用禁止のトイレのなかに突っ込んであって、ごていねいにもトイレのドアには『ヒョウに注意』と貼り紙がしてあった」(安原訳『銀河ヒッチハイク・ガイド』、p. 14)

 通常、OSMは終始一貫して自分の視点を貫き、世界を正そうとするものである。バジル・フォルティでさえ、最後まで自分が正しくて周りが間違っていると揺るぎなく確信している。ところが、アーサーはこの点で他のOSMとは違う、独自の道を進み始める。それでも、最初の4作目までは従来通りのOSMとして振る舞い、地球がヴォゴン人に破壊されて180度ひっくり返ったような宇宙に放り出されても、あくまで論理的に考え、秩序を取り戻そうとするのだが、問題はアダムスの世界観では絶対的な正気というものはない、ということにある。つまり、アーサーは「イカれた宇宙でただ一人の正気の人(the Only Sane Man in the Insane Universe)」なのだ。アーサーの試みがことごとく水泡に帰すのも無理はない。
 もっとも、そのおかげでアーサーは何度死の危険に晒されても、死に損なって生き延びることができた、と考えることもできる。そして、『さようなら、いままで魚をありがとう』に至って、アーサーはOSMであり続けることは無意味なだけでなく、実害をもたらすものであることを悟っていく。

「アーサー、わたし真剣に話しているのよ。わたしにとっては現実の問題だし、まじめな話なの」
「ぼくはまじめもまじめだよ」アーサーは言った。「ただ、この宇宙がまじめかどうかはわからないけど」(『さようなら、いままで魚をありがとう』、p. 152)

 こうしてアーサーはOSMから進化した。そして、かつて惑星マグラシアを訪れた時に貰ったアドバイスを思い出したことだろう。「ほんとうはなにが起きているかわかる可能性は、もうお話にならんほど小さいものだ。とすれば、意味なんぞ考えるのはやめにして、その時間をほかのことに使えと言うしかなかろう」(安原訳『銀河ヒッチハイク・ガイド』、p. 257)
 宇宙に自分流の論理や秩序を押しつけるのではなく、混沌とした宇宙をあるがままに受け入れること。アーサーが、普遍的でありながら他に類を見ないキャラクターとなった所以は、彼が自身の核となっている信念を捨てることで、本当の幸せを手にしたところにある。そして、アーサーにとっては、これこそがまさに「生命と宇宙と万物についての究極の意味」だったにちがいない。


Douglas Adams and the Wisdom of Madness John Shirley

 10歳で父を亡くし、12歳までに計6回引っ越しして、人は自分と異なる人に敵意を抱くということを思い知らされた。この世は学校で教えられているようなフェアなところじゃないし、人生は矛盾だらけ、周りに上手く適応できない人間は不合理な目に遭う。1980年代、そんな過酷な世界に何とか適応すべく、私はパンク・ロック歌手になり、SF作家になったが、そういうやり方で人生の矛盾に向き合おうとすると、今度は自分と自分の想像の世界との境界線が薄れてしまいかねない。
 たとえば、私は空想上の友達と会話をしたことがある。その友達は、異世界からやってきた宇宙人だったが、今になって地球とおさらばしたいと言い出した(勿論、その宇宙人は私の一部であるからして、私が地球にいる限り本当におさらばすることは不可能なのだが、それはさておき)。何でも、気が狂った地球人たちにほとほと嫌気が差したんだとか。
 これって、アダムスっぽくないか?
 でも、よくよく考えてみるとこの宇宙人とアダムスの考え方は明らかに異なっている。宇宙人は地球だけが狂っているといい、アダムスは宇宙全体が狂っているというのだから。もっとも、アダムスも地球生まれなので、つい地球を贔屓してしまったという可能性もある。
 という訳で、最近の私と宇宙人との会話を以下の通り書き出してみた。宇宙人は、一応私の想像の産物ということになっているが、この宇宙人が語った出来事は、残念ながらすべて実際に起こったことである。

宇宙人いわく――
 最初は、あんたらの惑星を征服しようと思ってたんだけどさ、今となってはその気はすっかり失せちまったよ。あんたらを奴隷にする? 冗談だろ、あんたらには金輪際近づきたくもないね。そりゃ、俺たちだって宇宙から来た乱暴な征服者かもしれんが、ネットオークションで聖母マリアの顔が浮かんだチーズサンドに数万ドルも支払うほどイカれちゃいない。そもそも聖母マリア自体、ぶっちゃけありえねえって感じなのに、あんたらときたらナノテクノロジーで原子を並び替える程度の科学力を得た今でも、ヘビにそそのかされた二人の裸の人間が人類の子孫だと真顔で信じてるってんだから。
 そりゃ宗教は他にもあるけどさ。でもイスラム教徒にしても、女性に死ぬまで石を投げつけたり、飛行機をハイジャックして何千人も殺したりすれば天国でごほうびが貰えるとか思っているし、ユダヤ人がHIVウィルスを作ったとテレビでのたまうヤツまでいる。イスラエル軍も、軍のポストに近づいたからという理由で10歳に満たない女の子を撃ち殺しやがって、しかも最初は足を怪我させただけだったのに、わざわざ歩いて近づいて弾が空になるまで撃ちまくったっていうじゃないか。ルワンダの話もする? 80万人のフツ族がツチ族にぶち殺されたってんだけど、その理由は人種的対立によるもの、って、おいおい、連中はどちらも同じ言語、同じ歴史、同じ文化を共有してたんだぜ。でもさ、あんたらのことだからこの際そういうのは置いといて、よっしゃツチ族をぶっ殺そうぜ!ってノリで盛り上がったんだよな、きっと。
 え、そういうのは一部の困った人たちだけだって? ほおおおお、それならこれまで地球の変態医師どもが女性のヴァギナに詰め込んだもののリストでも進呈しようか? それもやっぱり一部の変態の話で、普通の人はもっとまともだと? へえええ、その割には感謝祭前後のニュース記事をざっと見ただけでも、アメリカ国内のいろんなところでやたら殺人事件が起こっているけどな。
 な、あんたら絶対ビョーキだよ。俺はほとほと愛想が尽きた。どんなイカれた惑星だって、地球よりはまだマシだ。いいや、考え直す気はないね。うっかりあんたらを連れて帰って、俺らの惑星にまでスターバックスとかが伝染したら、と思うとぞっとする。

 宇宙人が言っていることにも一理ある。
 ある精神科医いわく、精神に異常をきたしているように見える人は、実はこういう狂った世の中に適応しようとしているだけなのだと。そういう意味では、狂気もある意味では健康にいいということになるかも、と。
 ここに、アダムスの作品のテーマが見えてこないだろうか。狂気がさらなる狂気を生み、それでも我々は何とかそれに適応していかねばならない――できる範囲で、だけど。
 ただし、狂気には不健康な狂気もあれば利口な狂気もある。アダムスは前者を皮肉りつつ、後者の存在をほのめかす。
 人類にとって、実は平和よりも戦争のほうが馴染み深い。ここ数十年、アメリカやヨーロッパでは一応平和だったけれど、いつ戦争が起こってもおかしくないと感じていたし、911以降はしっかり分かってもいる。こんな事態に適応するために、「現実を否定する」という種類の狂気を利用するのはよくあることで、アダムスも作品の中でしばしば揶揄している。
 ブッシュ大統領の無茶苦茶に適応するために、私は真剣にカナダ移住を検討したが、これも狂気の兆候と言えるだろう。バグダッドで靴下とかを売っていたらテロリストの間違われてCIAに身柄を拘束され、刑務所で素っ裸にされて他の囚人とピラミッドを作らされ、写真撮影されたとしたら? 人によっては、この状況に適応するには身体にバクダンをぐるぐる巻きにするしかないと思うかもしれないけれど、それはよくない適応狂気例だと私は思う。
 人は無秩序の中にもパターンを見出して秩序立てる能力がある。ただ、あまりに巨大すぎるものに対しては、その無意味さに怯え、狂気に向かう他ない。
 この状況に文句を言うとしたら? 『銀河ヒッチハイク・ガイド』に出てくるシリウス人工頭脳会社には苦情処理部門があって惑星3個分を覆うほどの繁盛ぶりだが、巨大組織の例にならって不合理極まりない連中なのは言うまでもない。大体、『銀河ヒッチハイク・ガイド』の出版社だってすこぶる怪しい。彼らに言わせれば、「重大な食い違いがある場合、まちがっているのはつねに現実のほう」(安原訳『宇宙の果てのレストラン』、p. 54)なのだから。これは、もはや根本的に断絶しているとも言える。この断絶を痛烈に皮肉る例として、『宇宙の果てのレストラン』でアーサーとフォードがゴルガフリンチャム人と共に先史時代の地球に戻った時の様子を思い出そう。

「それがその」とマーケティング女が言った。「いまちょっとむずかしい問題にぶつかってるんです」
「むずかしい?」フォードは叫んだ。「むずかしいだって? どういう意味だ、むずかしいっていうのは。この宇宙じゅうどこを探したって、あんなに簡単な機械はないぞ!」
 マーケティング女は汚いものでも見るような目でフォードをにらんだ。
「ああそう、そんなにあんたがえらいのなら教えてよ。どんな色に塗ればいいの?」(同、p. 304)

 この現実に対する認識のズレのようなものを、アダムスは巧く提示してくれる(ヴォネガットやジョセフ・ヘラーも巧いが、アダムスほどバカバカしくはない)。すべてが不確かだということだけは確かであり、またその不確かさを正しく把握することが現実をきちんと認識することに繋がる、とほのめかしているようだ。
 ゼイフォードとトリリアンが出会った宇宙の支配者は、自分の記憶すら現実かどうか怪しいものだと思っている老人だった。彼は狂人のように見えるが、その場面においては一番正気な人間である。現実に適応しつつ、懐疑心は失わず、思い込みを捨ててその場の流れにうまくのっていけ、という老人の哲学に、ゼイフォードも納得する。
 『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズでは、人も惑星も無造作に殺され、壊される。現実の宇宙も、暴力的で不公平。科学者によれば、生命は単なるDNAの運び屋とのこと。この世は矛盾だらけだ。我々は生まれた瞬間から生存本能を持っていて、生存のために必死になるのに、その一方で映画『ブレードランナー』に出てくるアンドロイド同様に死ぬこともあらかじめ決められている。生きにくい宇宙で生き抜くために、我々にはエゴが与えられ、そのせいであたかも自分が宇宙の中心であるかのように思ってしまうが、アダムスが何度も指摘する通り、そのうち我々自身なぞ宇宙の巨大さに比べればチリ以下だということに気づかされもする。この現状不一致を乗り越えるためには、現実に目を瞑って見えない振りをするしかないのか。
 いや、アダムスが示唆してくれたように、他にも方法はある。「宇宙の支配者」の考え方を身に付ければいいのだ。つまり、全ての先入観を捨てること。一定の先入観を共有している人からは狂人と見なされるかもしれないが、これはある種の健全な狂気、あるいは哲学的狂気と言えるのではないか。また、時に矛盾があまりに耐え難い場合には、「笑い」という手を取ればいい。「笑い」は、テンションを和らげ、周りを見回す余裕を与えてくれるだろう。
 と言っても、実際には哲学的狂気で人生の不条理に適応する、なんてなかなか難しい。そういう時のために、アダムスがくれたアドバイスが――Don't Panic。


Another Fine Mess Adam-Troy Castro

 『銀河ヒッチハイク・ガイド』には、私が命名した二つの現象、「ローレル&ハーディ・パラドックス」と「宇宙で災難続きの二人組」の両方の要素が混ざっている。
 「ローレル&ハーディ・パラドックス」というのは、映画の冒頭ではごく普通の市民として暮らしているローレルとハーディが、ささいなきっかけからどんどん事態を悪化させていって最後には大惨事を引き起こすという展開を指す。パラドックスというのは、あんな大騒動を引き起こすような人間が、それまでまともで平穏な生活を送っていたなんて、到底考えられない、ということ。
 もう一つの「宇宙で災難続きの二人組」は、不運な二人組が次から次へと災難に見舞われるという展開のことで、「何度も何度も」というのがポイント。古くはロス・ロックリンが1930年代に書いた、エドワード・デヴェレルとジョン・コビーのシリーズがあり、アイザック・アシモフのパウエルとドノヴァンもこの系譜に入る。ロバート・シェイクリーのAAA惑星サービスの二人組もそうだ。私自身、アーネストとカールという銀河を股にかける悪党コンビを書いたことがある。
 ローレル&ハーディとは違って、これらの二人組は決して愚か者ではない。それどころかどちらかというと頭は良い方の部類なのだが、ただとことんツキに見放されている。まるで、宇宙全体が彼らをおちょくっているかのようだ。とは言え、この二人組のほうもローレル&ハーディと同じパラドックスを抱えている。こんなに災難続きで、これまで一体どうやって生き延びてきたんだ?
 では、アーサー・デントとフォード・プリーフェクトの二人を検証してみよう。
 話の冒頭で、アーサーはごく普通に暮らしていた。フォードも、同じようなもの。二人の関係は、「そこそこまともなつきあい」(安原訳『銀河ヒッチハイク・ガイド』、p. 33)だった。危険も事件も何もなし。こんな二人が、ヴォゴン人による地球破壊の瞬間から「宇宙で災難続きの二人組」と化す訳だが、どうして死にも狂いもしないで無事に生き延びることができたのだろう?
 フォードについては、答えは簡単だ。彼は地球に来る前まで『銀河ヒッチハイク・ガイド』の記者をやっていたから、この手の宇宙規模の災難に慣れていたのだ。むしろ、地球に滞在している期間だけ、この手の災難から一休みしていたとさえ考えられる。
 アーサーについても、アダムスは読者にちゃんとヒントを与えてくれている。そしてそれは、「ローレル&ハーディ・パラドックス」を解く鍵でもある。
 宇宙船<黄金の心>号で、アーサーとフォードがトリリアンとゼイフォードに遭った時、アーサーは、この二人を見て、彼らとは既に地球で遭っていたことに気づく。自分では平凡でつまらない日々を過ごしていると思っていたけれど、実はこの時既に異星人との遭遇を果たしていたのだ。フォードに至っては、友人として長年付き合ってすらいた。つまり、自覚はなかったにせよ、アーサーの中で宇宙規模の災難を受け入れる下地は出来ていたのだ。ただ、これまで気づいていなかっただけ。
 だとしたら、アーサーが気づいていなかっただけで、実は郵便配達員は土星人だったのかもしれない。いつもデスクに座っていた秘書は、腰から下はタコみたいになっていたのかもしれない。ぼーっとしていて見過ごしていただけで、彼が歩を踏み出すごとに周りでちょっとしたアルマゲドンがしょっちゅう起こっていたのかもしれない。ただ、自分が直接被害を受けるまでまったく気づかなかった、あるいは、たとえ目にしていたとしても、単なる幻覚だろうと思っていた、とか。
 つまり、アーサーは我々とたいして変わらないということだ。


Words to Live By Amy Berner

 14歳の時、母から『銀河ヒッチハイク・ガイド』と『宇宙の果てのレストラン』の2冊を貰った。母もこの小説のファンで、SF好きな私がきっと気に入るだろうと思ったのだ。
 そんな訳で、私にとって『銀河ヒッチハイク・ガイド』はいつも母との思い出に結びついている。初めて読んだ時に大笑いしていたら、私がどこで笑っているのかを確かめようと母が私の部屋を覗きにきたこと、42が生活の一部となったこと、イルカを見る目が変わったこと、友達からビデオを借りてテレビ・ドラマ版をポップコーンを食べながら観たこと、等々。
 あれから『銀河ヒッチハイク・ガイド』を何度も読み返したし、そのたびに笑わされずにはいられない。でも、あの本には単なるコメディ以上のものがあると思う。母もきっとそう思っていたはずだ。人生に必要な知恵はすべて、とは言わないが、人生をもう少し素敵なものにしてくれる何かが、この本にはある。

「時刻なんて幻想だよ。昼どきなんてのは二重に幻想だ」(安原訳『銀河ヒッチハイク・ガイド』、p. 33)

 今にも自宅がブルトーザーに壊されそうになっている時ですら、アーサーは昼食時間にビールを飲むなんてと驚いている。アーサーに限らず、我々は気づかぬうちにいかに習慣に捕らわれていることか。ランチタイムの過ごし方にしても、本当は人それぞれ違うはず。「そうあるべし」という思い込みを捨てて、たまには思い切って日頃の習慣を逸脱してみよう。思いがけない満足感を得られること間違いなしだ。

「わたしはやっぱり正しさより楽しさを追求するほうがずっとよいと思う」(同、p. 258)

 スラーティバートファーストに向かって、私の母ならきっと、赤道にフィヨルドを造ったっていいじゃないと言ったと思う。母は周りがどう思うかより、自分の好みを優先させる人だった。勿論、いつでも好き勝手に振る舞っていいというのではない。だが、スポーツ観戦で立ち上がって歓声を上げたり、派手は服を着たり、音楽に合わせて歌い出したり、娘である私は時としてついていけないと思うこともあったけれど、それでも母は私に「他の人と違う自分になる」ことを教えてくれた。地味なダンスの衣装にピンク色を加えてくれたり、リップグロスを塗ってくれたり、おかげで私は少しずつ自分自身のフィヨルドを増やしていくことができた。定番の家具や服ではなく、私が好きだと思うもので家を飾ることもできた。だって、私自身が楽しめなかったら仕方がないでしょう? ともあれ、今の私は幸せなフィヨルド生活を過ごせていると思う。

「タオルのありかはちゃんとわかっている」(同、p. 46)

 タオルの実用法は多々あれど、タオルの真価はその心理的効果にある。タオルは、一種の安心毛布なのだ。何があろうと、これさえあれば大丈夫、みたいな。
 そういう意味で私にとっての「タオル」はクマのぬいぐるみである。セオドラという名のそのぬいぐるみがどこにあるか分かっている、あるいはそばにあるというだけで、私は万事オッケーという気持ちになれた。母も私の気持ちを汲んでそのぬいぐるみを大切に扱い、家を出た後で迂闊にもセオドラを家に置き忘れた、と気づいた時は、一度ならず車を引き返してくれたものだ。今でも私と母はセオドラのことを家族の一員のように話すし、現在、彼は私の家の居間に座っている。
 だから私は大丈夫。自分のタオルのありかをわきまえたヒッチハイカー同様、私も「たいした人物なのはまちがいない」(同、p. 38)

「空を飛ぶ秘訣とは、高いところから飛び降りて、地面に落ちそこなう方法を学ぶことである」(『宇宙クリケット大戦争』、p. 110)

 空を飛ぶとは、要するに自分の夢を実現するということだと思う。失敗を恐れては、何もできない。とにかく試してみなくては。
 母は、私がリスクを冒そうとする時、いつも応援してくれた。私が失敗した時は、いつも手をさしのべてくれた。そして、上手くいった時は私以上に喜んでくれた。15歳でスーパーボウルのハーフタイム・ショウのオーディションに臨んだ時も、私の番号がアナウンスされると、はるか彼方のサイドラインから母の歓声が聞こえたくらいだ。
 誰だって空を飛べる。肝心なのは、いざという瞬間に失敗を考えないこと。考えすぎは失敗の元である。それからあまり真剣になりすぎず、ある程度流れに身を任すこと。肩に力が入りすぎてもうまくいかない。ちょうど、ゼイフォードが銀河帝国大統領になった時みたいに。
 最後に、『ガイド』にも書かれている通り、誰かが「そんなばかな、人がそれを飛べるはずがない!」(同、p. 112)と言ったとしても、耳を貸さないこと。耳を貸した途端、その通りんなってしまう。他人ではなく自分を信じること、これが一番大切である。

「Don't Panic」

 フォードが言う通り、「銀河系は愉快なとこ」(『銀河ヒッチハイク・ガイド』、p. 76)だが、我々はそのことをついうっかり忘れがちである。
 実際、パニックを起こしたくなる事柄はいっぱいあるが、パニックを起こしたところで解決には至らない。せいぜい周りの人をおもしろがらせるだけだ。フォードやゼイフォードのように、"Be cool" とか "Relax" はできなくても、私にも"Don't Panic" ならできる。
 いつでも母が私を信じてくれたこと、それが今の私の自信となっている。母は、何があろうと、どんなに可能性が低かろうと、必ず道は開けると教えてくれた。私は今イベント・プランナーをしているが、この仕事を続ける上で"Don't Panic" の2語は、母からのアドバイス同様、まさに金科玉条である。
 『銀河ヒッチハイク・ガイド』を読み返すたび、私はいつも肩越しに母を感じる。この本自体、私にとっての「タオル」になっていると思うし、またこの本があれば私はいつでも母と一緒だとも思う。
 ありがとう、お母さん。


"Goodnight, Marvin" Maria Alexander

 2001年5月12日、私は友人のアビーと『シュレック』のプレス試写に行く予定だった。とりたてて深い意味もなく、母が15歳の誕生日にくれたお手製の「Don't Panic」Tシャツを16年ぶりに着て家を出た。
 私は今も昔もダグラス・アダムスの大ファンである。もっとも、初めて彼の顔写真を見た時は、正直言ってがっかりした。「老けてるしデカすぎるし見た目がバカっぽい」と嘆く私に、母は「男の人ってそんなものよ」と一蹴した。
 NPRのラジオ放送で、当時12,3歳だった私は初めて『銀河ヒッチハイク・ガイド』を知った。その時録音したテープは、今でも大切に残してある。音質は劣化しているし、BBC製のテープも買ってもっているにもかかわらず、だ。妹がエピソード4の上にマイケル・ジャクソンを録音してしまった時など、私は本気で妹に殺意を憶えた。あの時、タイミングよく母が部屋に入ってこなかったとしたら、私はまた一人っ子になっていたにちがいない。
 とは言え、アダムスは決して『銀河ヒッチハイク・ガイド』の一発屋ではない。シリーズ5作もさることながら、2冊のダーク・ジェントリー・シリーズ(この小説にインスパイアされて私は中編小説 Samantha Blazes: Psychic Detective of L. A. を書いた)、その他にもいろいろある。
 アダムスにファンレターを送ったことだってある。その中に、私は例の「Don't Panic」Tシャツの話も書いた。「モロすけすけ」でブラジャーが丸見えになるから恥ずかしくて着られないのだ、と。私を笑わせてくれた彼を、笑わせてみたかったのだ。何しろ彼は、信仰と家族を失った13歳当時の私に、人生を楽しむ機会を与えてくれたのだから。
 話を戻すと、その日私は『シュレック』を観て大笑いした後、帰宅して原稿を書いた。が、その夜、アビーから電話が入り、アダムスが昨日心臓発作で急死したと知らされた。まだ49歳だったのに。電話を切るなり、私は泣きに泣いた。私は彼に一度も会ったことはないけれど、それでも私なりに愛していたし、もはや自分自身の一部になってもいた。その朝、私が着替えをしようとした時、きっと彼の幽霊が私の耳元でこう囁いたのだと思う――「僕はもう死んだんだから、君がすけすけTシャツを着るところを是非見せてくれよ」。
 おやすみなさい、マーヴィン。今ならきっと、左足のダイオードの痛みも消えたことでしょう。でもあなたがいなくなって、私はすごく、すごく寂しい。

 

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