関連人物一覧 -G-
Gaiman, Neil ニール・ゲイマン Gee, Grant グラント・ジー Gilliam, Terry テリー・ギリアム Gleick, James ジェイムズ・グリック Gross, Michael C. マイケル・C・グロス
Gaiman, Neil ニール・ゲイマン 1960.11.10-
Don't Panic: The Official Hitch-Hiker's
Guide to the Galaxy (1988) の著者。
ロック・ジャーナリストや、アダムスのガイド本の筆者としてキャリアをスタートさせたが、彼の代表作と言えば、従来のいわゆる「アメコミ」のイメージを一新させる、幻想的でアート性・文学性の高いグラフィック・ノベル『サンドマン』シリーズだろう。このシリーズの中の1冊、Sandman
#19 "A Midsummer Night's Dream" は、コミックとしては初めて世界幻想文学大賞を受賞した。
コミック以外にも、テリー・プラチェットとの共著によるユーモア・ファンタジー小説『グッド・オーメンズ』を始め、ヤングアダルト向けの小説を何冊も出している。また、BBCのテレビシリーズ『ネバーウェア』の脚本およびそのノベライズの執筆も手掛けており、映画「もののけ姫」英語吹替版の翻案に携わった(スタジオ・ジブリのホームページによれば、あのクエンティン・タランティーノがゲイマンを推薦したのだとか)。最近では、自作『スターダスト』の映画化に際して製作を務めたり、ロバード・ゼメキス監督の『ベオウルフ』の脚本を担当したりと、映画界での活躍も目立つ。
今となってはなぜ彼が Don't Panic を書いたのか不思議なくらいだが、2003年に行われた Science
Fiction Weekly のインタビューで、その経緯を語っている。
ゲイマンいわく、そもそものきっかけは、あるアダムス・ファンの編集者から、アダムスのインタビューをとれないかと頼まれたことだった。ゲイマン自身もアダムスの大ファンだったため、アダムスの出版社に電話をして首尾よくインタビューの約束を取り付け、当時アダムスが住んでいたイズリントンの自宅を訪問したらしい。この時のインタビューはかなり充実したものだったようで、予定の一社に記事を売った他に、書ききれなかったことをまとめて別の2つの雑誌に売ることができたという。そして、このインタビュー記事がきっかけで、なかなか書き手が見つからなかった『銀河ヒッチハイク・ガイド』の解説本の仕事がゲイマンに回ってくることとなった。
ゲイマンの書いたDon't Panic は好評で、売れ行きも良かった。そこで、ゲイマンの元には他の作品の解説本や伝記執筆の依頼が来るようになったが、他の人が書いた本について書くのではなく自分自身の本を書きたいと考え、彼はそれらの仕事を辞退する。当時のゲイマンには随分と迷った末の決断だったようだが、ヒューゴー賞やネビュラ賞の受賞作家となった今となっては、その決断が大正解だったことは言うまでもない。
そういう意味で、ゲイマンにとって Don't Panic は、「進まなかったもう一つの道」の象徴となった。他人の本について書き続けていたかもしれない、もう一つの人生。とは言え、Don't
Panic は決して後ろ向きな思い出に終始する本ではなく、クラシックでイギリス的なユーモアのセンスを文章にするのはなかなか楽しくて、その結果、後にテリー・プラチェットとの共著で『グッド・オーメンズ』を執筆することに繋がった、とも語る。Don't
Panic なしに、『グッド・オーメンズ』はありえなかった、と。
アダムスとの個人的な付き合いは、 Don't Panic を出版した後も続いていた。アダムスから、ラジオ・ドラマ『銀河ヒッチハイク・ガイド』の新シリーズの脚本執筆に参加しないかと誘われたこともあったらしい(ゲイマンは断ったが)。最後に直接アダムスと会って話したのは、ピンク・フロイドのデイヴィッド・ギルモアの誕生パーティの席で、自作『ネバーウェア』がBBCでテレビ・ドラマ化された時の体験話をアダムスに披露したところ、『銀河ヒッチハイク・ガイド』がテレビ・ドラマ化された時の状況とものすごく良く似ているということで、盛り上がったのだとか。またそれだけに、香港からの電話インタビューの最中に取材相手からアダムスの突然の死を知らされた時は、ひどいショックだったという。
ゲイマンの主な著作は以下の通り。
Stardust (1999) 『スターダスト』 角川文庫 2007年
Neverwhere (2006) 『ネバーウェア』 インターブックス 2001年
American Gods (2001)
Coraline (2002) 『コララインとボタンの魔女』 角川書店 2003年
Anansi Boys (2006) 『アナンシの血脈 上・下』 角川書店 2006年
Fragile Things (2006)
映像監督。映画『銀河ヒッチハイク・ガイド』のDVDに入っている、特典映像メイキング・ドキュメンタリーを手掛けた。
ブラーの「テンダー」、レディオヘッドの「ノー・サプライゼズ」等のミュージック・クリップの他、1999年にはレディオヘッドの『OKコンピューター』のワールドツアーの模様を撮影した約90分のドキュメンタリー『ミーティング・ピープル・イズ・イージー』を監督した。
2001年に発売されたオアシスのライブDVD『ファミリアー・トゥ・ミリオンズ』に、彼が手掛けたオアシスのドキュメンタリーが収録された。2006年、スコット・ウォーカーのドキュメンタリー映画、Scott
Walker: 30 Century Man の撮影を担当し、また2007年にはパンク・バンド「ジョイ・ディヴィジョン」のドキュメンタリー映画『JOY DIVISION ジョイ・ディヴィジョン』で撮影と監督の二役を務めている。
Gilliam, Terry テリー・ギリアム 1940.11.22-
モンティ・パイソンのメンバーの一人。モンティ・パイソンでは、主にアニメーションを担当していた。ブリティッシュ・コメディの代表のようなモンティ・パイソンの中で、彼だけはアメリカ人である。
ギリアムがモンティ・パイソンのメンバーと最初に知り合ったのは、1964年、ニューヨークで雑誌『ヘルプ!』の仕事をしていた時に、ちょうどニューヨークで公演中だった「ケンブリッジ・フリンジ」に出ていたジョン・クリーズに『ヘルプ!』誌面に日給15ドルで出てもらえないかと直接交渉したことから始まる。クリーズはこの仕事を快諾し、二人は友人同士となった。数年間の音信不通状態の後、1967年にギリアムがイギリスに渡ってクリーズに連絡を取ると、今度はクリーズがギリアムにテレビ局のプロデューサーの連絡先を教えてくれた。こうしてギリアムはBBCの『ドゥ・ノット・アジャスト・ユア・セット』の仕事をつかむと共に、この番組に出演していたエリック・アイドル、テリー・ジョーンズ、マイケル・パリンらと知り合うことになる。オックスブリッジ出身の彼らの中でギリアムの「よそ者」感はなかなか消えなかったようだが、1969年のモンティ・パイソン結成時には最初からメンバーの1人となっている。ただし、番組に出演するよりも一人でアニメーション部分を担当している時間のほうが圧倒的に長かった。ギリアムいわく、「結局、いつ僕はあの輪の中に入れたんだろう。テリーは今でもよく、僕の当時の「象」というアニメーションがパイソンに影響を与えていると言っているというから、それなりにいい仕事はしていたんだと思うが。どうやら僕は胡散臭いよそ者ではない、とようやくわかってもらえたらしい。妙な話だが、のちにダグラス・アダムスがやってきてグレアムを手伝っていた頃、僕はその頃の彼らみたいに「このパイソンの中に割りこんできたよそもんは誰だ?」てな態度でいた気がする」(『モンティ・パイソン正伝』、pp.29-30)
しかし、後にギリアムとアダムスは親しい友人となったようだ。その証拠に、アダムスが1990年代半ばにイズリントンのダンカン・テラスに引っ越してからたびたび開いた自宅パーティには、リチャード・ドーキンスやスティーヴン・フライらと共にギリアムの姿もあったという(Webb, p.
180)。また、ギリアムは映画『12モンキーズ』についてのインタビューの中で、アダムスの作品を引き合いに出して答えたことがある。「『全体論探偵、ダーク・ジェントリー』のシリーズを読んだことがある?僕は全体論監督になってたね」(クリスティ、p.
301)
ギリアムはミネソタ州ミネアポリス生まれ。カリフォルニアのオクシデンタル・カレッジで政治学を学ぶ。モンティ・パイソンのメンバーとして活躍し、1978年にはパイソン初の映画『モンティ・パイソン・アンド・ホーリー・グレイル』ではテリー・ジョーンズと共同監督を務めた。その一年後には一人で映画『ジャバーウォッキー』を監督し、以後『モンティ・パイソン/人生狂騒曲』オープニングの短編アニメーション「クリムゾン/老人は荒野をめざす」を除けば、モンティ・パイソン映画に出演はしても監督はしていない。
ギリアムの主な監督作品は以下の通り。
Jabberwocky (1977) 『ジャバーウォッキー』
Time Bandits (1981) 『バンデッドQ』
Brazil (1985) 『未来世紀ブラジル』
The Adventure of Baron Munchausen (1989) 『バロン』
The Fisher King (1991) 『フィッシャー・キング』
12 Monkeys (1996) 『12モンキーズ』
Fear and Loathing in Las Vegas (1998) 『ラスベガスをやっつけろ!』
The Brothers Grimm (2005) 『ブラザーズ・グリム』
Tideland (2005) 『ローズ・イン・タイドランド』
この他、未完に終わった映画『ドン・キホーテを殺した男』の撮影風景を追ったドキュメンタリー、『ロスト・イン・ラマンチャ』(2001年)に出演(?)している。
科学ライター。『ニューヨーク・タイムズ』にも寄稿していたことがある。1987年に出版された科学書『カオス―新しい科学をつくる』は、最新のカオス理論について素人にもわかるように数式をまじえず書かれており、ベストセラーとなった。
この手の科学書には目がないアダムスも、『カオス―新しい科学をつくる』を「暗い部屋の中に急に明かりがついたようだ」と絶賛している。また、カオス理論は Dirk
Gently's Holistic Detective Agency のストーリーにも通底している(Webb, p.
271)ということらしいので、興味のある方はお試しあれ。
グリックの主な著作は以下の通り。
Chaos - Making a New Science (1987) 『カオス―新しい科学をつくる』 新潮文庫 1991年
Genius: The Life and Science of Richard Feynman (1992) 『ファインマンさんの愉快な人生(1)(2)』 岩波書店 1995年
Faster: The Acceleration of Just About Everything (1999)
What Just Happened: A Chronicle from the Electronic Frontier (2002)
Isaac Newton (2003) 『ニュートンの海ー万物の真理を求めて』 日本放送出版協会 2005年
アメリカの映画プロデューサー。実現しなかったが、かつて『銀河ヒッチハイク・ガイド』の映画化をめぐって、ジョー・メドジャックと共にアダムスと交渉した経緯がある。
グロスは、1981年製作のアニメ映画『ヘヴィメタル』の録音でロンドンに滞在していた際に、ラジオ・ドラマ『銀河ヒッチハイク・ガイド』を聴いたことがあり、「すごくクールだと思った」(Hitchhiker,
p. 193)。アメリカに戻った後、メドジャックから次回作の候補として小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』が提示された時、グロスが快諾したのは想像に難くない。が、原作の骨子にこだわるアダムスと、それではヒット映画にならないと考えるアイヴァン・ライトマンとの間で板挟みとなり、最後には『銀河ヒッチハイク・ガイド』映画化を断念せざるを得なくなった。
グロスの主な製作映画は以下の通り(* は製作総指揮、** は製作補)。
Heavy Metal (1981) ** 『ヘヴィメタル』
Ghost Busters (1984) ** 『ゴーストバスターズ』
Legal Eagles (1986) * 『夜霧のマンハッタン』
Twins (1988) * 『ツインズ』
Ghostbusters II (1989) * 『ゴーストバスターズ2』
Kindergarten Cop (1990) * 『キンダガートン・コップ』
Stop! Or My Mom Will Shoot (1992) 『刑事ジョー/ママにお手あげ』
Beethoven (1992) 『ベートーベン』
Dave (1993) * 『デーヴ』
Beethoven's 2nd (1993) 『ベートーベン2』
映画プロデューサーになる前はアート・デザイナーとして活躍し、『エスクァイア』等の雑誌にデザインを掲載したこともある。また、映画『ゴーストバスターズ』のノー・ゴーストのロゴ・デザインも、彼の手によるものだとか。