The Art of Neil Gaiman

 以下は、イギリス在住の作家・ジャーナリストのヘイリー・キャンベルが、ニール・ゲイマンに取材してまとめた The Art of Neil Gaiman: The Story of a Writer with Handwritten Notes, Drawnings, Manuscripts & Personal Photographs(2014年)の中で、ゲイマンが書いたダグラス・アダムスの伝記本、Don't Panic: the Official Guide to Hitchhiker's Guide to the Galaxy Companion について紹介した文章の抄訳である。ただし、訳したのが素人の私なので、少なからぬ誤訳を含んでいる可能性が高い。そのため、この訳はあくまで参考程度にとどめて、全貌をきちんと知りたい方は、必ずオリジナルにあたってくださるようお願いする。



 ゲイマンは、駆け出しのライターだった頃、自分の得意技の一つは他の人の発言を活用することだったと言っていた。

 「僕は、既に実在する誰かの発言を用いて、それをパロディにするのがものすごく得意だった」。パロディというのとはちょっと違うけれど、ゲイマンが27歳の時に出版したダグラス・アダムスの伝記と作品ガイドは、アダムス自身の発言が巧く文章に落とし込まれていた。これは、ゲイマンが飢餓寸前の(少なくともひどく空腹だった)ジャーナリスト時代に行った、たくさんのプロジェクトのうちの一つである。
 1980年代の初頭、その時点で『銀河ヒッチハイク・ガイド』は世に出てからもう何年も経っていた。ラジオドラマがあり、3冊の小説があり、テレビドラマがあり、コンピュータ・ゲームもあったが、大いなる骨折りにもかかわらず映画化だけはまだだった。アーサー・デント、フォード・プリーフェクト、2つ頭のゼイフォード・ビーブルブロックス、鬱病ロボットのマーヴィン、彼らはよく知られた名前だった。
 ゲイマンが雑誌『ペントハウス』のためのインタビューを最初に依頼された時に話を戻すと、雑誌の編集者は自分がダグラス・アダムスの大ファンであること、もしニールが彼にインタビューすることができたら、さらなる仕事が約束されたも同然だと言った。「で、僕はダグラスの出版社に電話し、話をつけた。インタビューする頃には、その編集者は解雇されていた。でも、ダグラスはすごくたくさん話をしてくれたので、一社にインタビュー記事を売るだけでなく、インタビューの残りの話を他の二つの雑誌、KnaveFantasy Empire にあてることができた」
 「リチャード・ホリスという人が『銀河ヒッチハイク・ガイド』のガイド本の仕事をクビにされた。リチャードはフォービドゥン・プラネット(訳者注/ロンドンにあるSF専門書店)で働いていたすごくいいヤツで、何があったのかは知らない。彼は何章か書いていて、それを彼は僕にくれたけれど、僕が利用したところはまったくないと思う。でも彼がドタキャンしたので、タイタン・パブリッシングのボスのニック・ランドーはキム(・ニューマン)に『銀河ヒッチハイク・ガイド』の本を書く気はないかと尋ね、キムは「いいや、でもニールはダグラスに何度もインタビューしているし、ダグラスのことも知っているから、ニールならきっと良い仕事をするんじゃないかな」。かくして僕は1986年の残り半分もさらなるインタビューに費やすことになった。
 「僕は彼のオフィスの隅っこに陣取って、古い書類キャビネットを漁り、さまざまに輪廻転生を重ねた『銀河ヒッチハイク・ガイド』の草案に次ぐ草案やら、長らく忘れ去られていたコメディ・スケッチやら、『ドクター・フー』の脚本やら、新聞雑誌の切り抜きやらを引っぱり出した」。アダムスは本の完成を熱望していて、質問には答え、書類キャビネットから発掘されたものについては説明し、忙しく仕事をしている合間にゲイマンがお茶を飲んで一休みしているか常に気にかけていた。

 僕はものすごいファンだった。畏れ敬っていたと言ってもいい。当時、彼はイズリントンにある家に住んでいて、そこは後に『さようなら、いままで魚をありがとう』の中に出てくる。ちょうどアメリカから戻ったばかりの時期で、向こうで彼は『銀河ヒッチハイク・ガイド』の映画化企画を実現させようとしてひどくみじめな1年を過ごしていた。それはダグラスの人生で何度か繰り返し起こる主題の一つだった。それから自分の精神の支柱であるロンドンに戻ってきたところだったから、話をすることにすごく熱心だった。ジョン・ロイドとの共著 The Meaning of Liff が出版されたタイミングでもあった。この本のことを彼はものすごく誇りに思っていて、プロモーション活動を楽しんでいた。のちに出した何冊かの小説より、この本のほうが気に入っていたんじゃないかと思う。熱意があって、背が高くて、愛想がよくて、とんでもなく礼儀正しかった。作者としてファンの人やジャーナリストとどのように接するか、ダグラスを見ていて大いに学ばせてもらった。彼は誰とでも常に変わらず愛想よく、そして礼儀正しく接していたんだ。

 Don't Panic はアダムスの伝記というより、あるアイディアの伝記――5作からなる三部作の本、コンピュータ・ゲーム、タオル、テレビドラマなど――どのようにして誕生し、どのようにして世界中に広まっていったかについての本である。『銀河ヒッチハイク・ガイド』で何がうまくいって何がうまくいかなかったかについて、たくさんの逸話が盛り込まれている。ラジオドラマではうまくいったものがテレビドラマではうまくいかなかったり、テレビドラマではうまくいったものが小説ではうまくいかなかったり、といった具合に。作家としての技能を学ぶにあたり、これはとてもゲイマンらしいやり方だ。外に出ていろいろな質問をし、実際に本を書き上げた人に訊くことで、その本の仕組みを理解する。インタビューのテープを使い果たした1987年までに彼は本を書き上げ、その後何年にもわたって別の人の手で章や付録が付け加えられていった。

 「Don't Panic を書き終えて、「この仕事は自分にもできる」と感じた。」

 「これは僕が初めて本格的に進出したノンフィクションだった。他のノンフィクションも書けるという絶対の自信があった。おもしろいだろうな、とも思った。多くのことを学べるだろうし、過去を遡るのもいい。ダグラスを観察していて作家生活の落とし穴についても多くを学んだ。僕にとってDon't Panic は道を示してくれこそすれ搾取ではなかったと思う。この路線で、他の人についての本を書く人になることもできただろう。とは言え、Don't Panic の文体、クラシックなイギリスのユーモア作家みたいな文体を書くのがあまりに楽しかったので、引き続きテリー・プラチェットとの共著で『グッド・オーメンズ』という本を書いた。Don't Panic がなかったら、『グッド・オーメンズ』はこの世に存在しなかっただろう。」

 

 

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