『ドクター・フー』とダグラス・アダムス

1 『ドクター・フー』とは
2 アダムスと『ドクター・フー』
3 『ドクター・フー』の再利用
4 『ドクター・フー』の影響と余波
5 『銀河ヒッチハイク・ガイド』の影響と余波
6 『銀河ヒッチハイク・ガイド』と『ドクター・フー』新シリーズ
7 'City of Death' と『ドクター・フー』新シリーズ
8 軽蔑と賞賛

 



1 『ドクター・フー』とは

 『ドクター・フー』とは、1963年から1989年にかけて放映された子供向けのSFドラマで、「ドクター」と呼ばれる謎の人物(エイリアン)が、ターディスと名付けられた公衆電話ボックス(正確には、1960年代頃にイギリスで使用されていた、警察への通報用の電話がついたポリス・ボックス)型のタイムマシンに乗って過去や未来に飛び、悪と戦うというもの。2005年からは新シリーズが始まり、現在も製作・放送が続いている。これだけの長寿番組だけに、ドクター役の役者は何度も入れ替わっていて、そのリストは以下の通り。

旧シリーズ

初代  William Hartnell  ウィリアム・ハートネル (1963-1966)
2代目 Patrick Troughton  パトリック・トラフトン (1966-1969)
3代目 John Pertwee  ジョン・パートウィー (1970-1974)
4代目 Tom Baker  トム・ベイカー (1974-1981)
5代目 Peter Davison  ピーター・デイヴィソン (1981-1984)
6代目 Colin Baker  コリン・ベイカー (1984-1986)
7代目 Sylvester McCoy  シルヴェスター・マッコイ (1987-1989, 1996)
8代目 Paul McGann  ポール・マッギャン (1996)

新シリーズ

9代目 Christopher Eccleston  クリストファー・エクルストン
      第1シリーズ (2005) 
10代目 David Tennant  デイヴィッド・テナント  
      第2シリーズ (2005-2006) 
      第3シリーズ (2006-2007) 
      第4シリーズ (2007-2008) +特別番組(2009-2010)
11代目 Matt Smith  マット・スミス  
      第5シリーズ (2010) 
      第6シリーズ (2011) 
      第7シリーズ (2012-2013) 
12代目 Peter Capaldi  ピーター・カパルディ  
      第8シリーズ (2014-) 
      第9シリーズ (2015-) 
      第10シリーズ (2016-) 
13代目 Jodie Whittaker  ジョディ・ウィテカー  
      第11シリーズ (2018-) 

 アダムス自身、子供の頃からこの番組をよく観ていたらしい。1964年、ブレントウッド・スクールで寮生活を送っていた時には、寮内でのクリスマスの出し物として『ドクター・フー(Doctor Who)』ならぬ『ドクター・フィッチ(Doctor Which)』なる寸劇の脚本を書いてもいる。この寸劇には、アダムスも気に入っていた『ドクター・フー』シリーズ一番人気の悪役エイリアン、ダーレクも、ライスクリスピー(米から作られたシリアル)を動力源として登場している(Hitchhiker, p. 17)。当時の教師、フランク・ハルフォードも、この寸劇を観て、なかなか良く書けていると感心したという。



 
2 アダムスと『ドクター・フー』

 『ドクター・フィッチ(Doctor Which)』から約13年後の、1977年4月。無名のコメディ作家だったアダムスに、ようやく大きなチャンスが訪れた。BBCからラジオ・ドラマ『銀河ヒッチハイク・ガイド』の試作を許可されたのだ。アダムスは早々と4月4日に第1話の脚本を脱稿し、試作は完成された。が、実製作の許可がなかなか下りない。この間、一銭の収入もなかったアダムスは、製作されなかった番組用のアイディアやストーリーを『ドクター・フー』の脚本編集者に送り、仕事を貰えないかと打診した。
 当時の脚本編集者ロバート・ホームズはアダムスの才能は認めたものの、ちゃんとした脚本が書けるかどうか実例をみてから決めたいと考えた。そこで、1977年7月、アダムスは『銀河ヒッチハイク・ガイド』の試作脚本をホームズに送るが、この時点でホームズは既に『ドクター・フー』を抜けた後だった。
 このため、アダムスはプロデューサーのグレアム・ウィリアムズに呼ばれ、ホームズの後任のアンソニー・リードを交えた3人で話し合った結果、7月中旬になって正式に『ドクター・フー』の脚本執筆を依頼される。8月31日までに、'The Pirate Planet' 4話分のアウトラインを書くこと――締め切り破りの常習犯だったアダムスだが、このアウトラインだけは何と締め切りの9日前に提出している。
 実はこの時のアダムスには、悠長に構えていられない事情があった。同じ8月末に、『銀河ヒッチハイク・ガイド』製作の許可も出たためである。かくしてアダムスは、翌月から『銀河ヒッチハイク・ガイド』と『ドクター・フー』の、二つの締め切りを一度に背負うことになってしまった。

 一脚本家として始まったアダムスと『ドクター・フー』の関係は、『銀河ヒッチハイク・ガイド』が大成功し、アダムスが作家として充分に軌道に乗る 1980年1月まで続く。しかも1979年からは、ロバート・ホームズの後任、アンソニー・リードの推薦で脚本編集者を務めることになった。
 脚本編集者としてのアダムスの最初の仕事は、'The Armageddon Factor' のラストシーンの書き直しだった(脚本家としてクレジットはされていない)。アダムスいわく、「自分が作家として仕事をしていた時は、作家の仕事は書くことで脚本編集者の仕事は編集することだと思っていたけれど、いざ自分が脚本編集者になってみると、ほとんどの作家はその逆だと考えていることが分かった」(Hitchhiker, p. 127)。表現に多少の誇張はあるとしても、アダムスはどちらかというと脚本に自ら手を入れたがる編集者だったようだ。「作家が脚本を書き上げるまでは、僕はBBCの代表として作家と向き合っている。というのも、脚本が最終的にどういうものになるべきか僕はわかっているから、作家のアイディアが『ドクター・フー』作品としてうまく適合するように手助けする必要があるんだ。(略)でもいったん脚本が完成してしまうと、今度は僕は作家の代表としてBBCや俳優や監督と向き合うことになる。どこからどこまでが自分の管轄かはっきりしていなくて、プロデューサーの仕事とかぶってしまうグレーゾーンも多いんだけど」(同, p. 123)。
 また、アダムスは新しい脚本家を発掘することにも積極的だった。実現しなかったようだが、ジョン・ブラナーやクリストファー・プリーストといったSF作家をはじめ、作詞家のリチャード・スティルゴーやトム・ストッパードにも声をかけたらしい。それから、友人のジョン・ロイドにも。
 当時のプリーストにとって、アダムスからの脚本執筆依頼の電話は晴天の霹靂だった。アダムスとは何の面識もない上に、プリースト自身特に『ドクター・フー』のファンでも何でもなかったのだから。プリーストは電話口で仕事を断った上、『ドクター・フー』についてかなり辛口に評したが、アダムスは鷹揚に笑ってうけとめ、BBCとしてももう少しきちんと予算を割いてちゃんとした作家にちゃんとした脚本を書いてもらおうと考えている、ついては今度一緒にBBCの経費でランチでもいかが、と誘ったという。その結果、プリーストはアダムスに説得され脚本執筆を引き受けることになるが、残念ながらプリーストの脚本が出来上がる頃にはアダムスは『ドクター・フー』の仕事から手を引いており、せっかくの脚本も製作されないままに終わってしまった。1979年12月14日には、アダムスと、アダムスと同時期に『ドクター・フー』を辞めることになったウィリアムズの合同送別会が開かれたらしい(同、p. 126)。

 約2年半の期間に、アダムスが脚本編集者を務めた『ドクター・フー』作品は以下の通り。

 
'The Armageddon Factor' (1979年1月放映)

'Destiny of the Daleks' (1979年9月放映)

'The Creature from the Pit' (1979年10月放映)

'Nightmare of Eden' (1979年11月放映)

'The Horns of Nimon' (1979年12月放映)

 

 それとは別に、アダムスが脚本執筆を手掛けた『ドクター・フー』作品は以下の通り。

'The Pirate Planet' (1978年9月放映)

'City of Death' (1979年9月放映)

'Shada' (未完成)

 この他に、映画用脚本として執筆されたが製作されないままに終わった、'Doctor Who and the Krikkitmen' がある。この作品のアイディアは、後に『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズ3冊目、『宇宙クリケット大戦争』という形で活かされることになった。

 2004年に発売された3枚組のCD、Douglas Adams at the BBC には、ラジオ番組のインタビューでアダムスが『ドクター・フー』について語っているシーンも収録されている。1986年に放送されたラジオ番組 Wogan では、『ドクター・フー』は11歳の時から見始めたこと、でも第1話は見逃していて、後に『ドクター・フー』の脚本編集者になってから初めて観たことなどを語り、1999年の Today では、「一番好きなドクターは?」と訊かれ、初代ドクターのウィリアム・ハートネルと、現場で一緒に働いた4代目トム・ベイカーの、二人の名前を挙げた。
 またこのCDには、アダムスが脚本を書いた 'The Pirate Planet' の一部も、サイモン・ジョーンズの解説付きで収録されている。

 1993年、『ドクター・フー』30周年特別番組の企画が持ち上がった際に、アダムスはBBCから脚本家の候補として真っ先に声をかけられた。
 前の年の1992年に、4第目ドクターことトム・ベイカーは、アダムスの 'Shada' をビデオ発売するため、未完成の部分を補うためのナレーションを担当した。この仕事がきっかけで、彼は再び『ドクター・フー』に復帰したいという気持ちになったが、当時、テレビドラマ・シリーズとしての『ドクター・フー』は、7代目ドクターことシルヴェスター・マッコイ主演で1989年1月に放送された 'The Greatest Show in the Galaxy' を最後に、事実上放送を終了していた。そこでベイカーは、1993年の放送開始30周年を記念して、4代目ドクターを中心として他のドクターも出演するような、1話限りの特別番組を作ろうとBBCに話をもちかけた。そしてこの申し出を受けたBBCがアダムスに連絡した、という流れだったらしい。
 この時のアダムスの返事は、「私を信頼して『ドクター・フー』の新作脚本を任せたら、30周年記念のつもりが40周年記念になりますよ」というものだった。かくして、ダグラス・アダムスとトム・ベイカーのコンビによる特別番組の企画は潰え、代わりに他の脚本家が 'The Dark Dimension' という作品を書き上げたが、予算の問題等もあて結局実現には至らなかった。

 'City of Death' のDVDに収録された特典映像、"Paris in the Springtime" によると、2001年春、アダムスは当時BBCのドラマ部門の総責任者(the BBC director of drama)だったアラン・イエントフと会い、アダムスが脚本を書く映画版『ドクター・フー』製作の可能性について話し合った。どこまで現実的な話し合いだったのかは不明だが、少なくともアダムスが『ドクター・フー』に対する思い入れを生涯抱いていたことだけは間違いない。

 2013年11月22日、『ドクター・フー』50周年特別番組の一環として、'The Culture Show: Me, You and Doctor Who' というドキュメンタリー番組がBBC2で放送された。この番組は、ホスト役のマシュー・スウィートによる『ドクター・フー』の製作スタッフのインタビューを中心に、番組製作の歴史を振り返るというもの。65分の放送時間のうち、10分弱がダグラス・アダムスに費やされている。
 アダムスの思い出について語るのは、当時の脚本編集者だったアンソニー・リードと、(『ドクター・フー』とは直接かかわりのない)ジョン・ロイド。アンソニー・リードは、アダムスの脚本から知性が溢れ出ていたが、脚本のプロットを作るのはヘタだった、と語り、ジョン・ロイドは、脚本編集者としてのアダムスはその仕事に全然向いていなかったと語る。その他に、アダムス本人のインタビュー映像や、Dirk Gently's Holistic Detective Agency のサイン会の映像も挿入されている。



 
3 『ドクター・フー』の再利用

 先に書いた通り、『宇宙クリケット大戦争』は、没になった 'Doctor Who and the Krikkitmen' のアイディアを別の形で利用したものだった。が、アダムスは実際に製作された『ドクター・フー』作品からもアイディアやストーリーを再利用している。

 アダムスが1987年に発表した小説 Dirk Gently's Holistic Detective Agency は、アダムスが書いた『ドクター・フー』の脚本3本うちの2本、'City of Death''Shada' のアイディアを基に書かれた。この小説は2012年にテレビドラマ化されたが、このドラマの中でも 'Shada' の痕跡を見ることができる。
 残る1本、'The Pirate Planet' についても、「内部が空洞になっている惑星ザナック」のアイディアは、『銀河ヒッチハイク・ガイド』の惑星マグラシアに通じるものがある。また、'The Pirate Planet' に出てくる、「夜空の星を見上げれば宇宙における相対的な位置を把握できる」という考え方は、『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズ4作目『さようなら、いままで魚をありがとう』(先史時代の地球にあった洞穴の位置を正確に突き止める」(p. 123)ために、パソコンに天文学のソフトを入れ、自分の記憶にある夜空を入力して算出しようとした――勿論、うまくいかなかったが)や、コンピュータ・ゲーム『宇宙船タイタニック』にも登場している。『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズ5作目『ほとんど無害』で、トリシア・マクミランが、冥王星の惑星ルパートに滞在している異星人から、地球人用のホロスコープを「地球とルパートの相対的な位置関係を計算に入れて」(p. 70)作り直してほしいと頼まれるのも、ヴァリエーションの一つと言えるかもしれない。
 
 現在なら、テレビの人気作品は放送直後にDVDがリーズナブルな値段で販売され、ネット上には詳細な情報がアップされる。が、家庭用のホームビデオすら一般に普及していなかった当時の感覚では、テレビ番組は一度放送されればそれで終わりだった。そのため、アダムスが自分で書いた『ドクター・フー』の脚本からアイディアを再利用していることに気付く人は稀だったようだ。M・J・シンプソンいわく、「一体どのくらいの数のファンが、Dirk Gently's Holistic Detective Agency が『ドクター・フー』からの転用だと気付いていたかは分からない。批評家が気付いていなかったことは確かだが」(The Pocket Essential Hitchhiker's Guide, p. 72)。



 
4 『ドクター・フー』の影響と余波

 これらは、アダムスが自分で書いた『ドクター・フー』の脚本内のアイディアを、別の作品で再利用した例だが、『ドクター・フー』という番組そのものが『銀河ヒッチハイク・ガイド』に影響を与えた例もある。
 たとえば、フォード・プリーフェクトというキャラクター。アダムスいわく、「フォードは、『ドクター・フー』への反動で出来た。言ってみれば、ドクターはいつも人類やら惑星やらを救おうと奔走して、たいていうまくやってのける。そこで僕は、フォード・プリーフェクトというキャラクターは、ことに巻き込まれて世界を災害か何かから救うか、あるいはパーティに行くか、どちらかを選べと言われたら、世界も、まあ世界なんてものに何か価値があるとしたところで、自分で自分の面倒くらいみられるだろうと考えて毎回パーティに行くほうを取るタイプの人間にしようと考えた」(Gaiman, p. 162)。
 蛇足ながら、フォード・プリーフェクトの性格付けは、後に、イギリスのクライム・ノベル作家クリストファー・ブルックマイアによって転用された。ブルックマイアは、『銀河ヒッチハイク・ガイド』のファンであることを公言しており、彼のデビュー作『殺し屋の厄日』(1996年)の主人公ジャックのキャラクターの設定は、無責任でお気楽なジャーナリストのフォードに倣ったものだという。そして、さらなる蛇足だが、2004年にこの小説の朗読を手掛けた俳優のデイヴィッド・テナントは、さらにその2年後には『ドクター・フー』で10代目ドクターを演じることになる。
 
 アダムスが脚本にかかわった『ドクター・フー』作品の多くで、準主役のロマーナを演じたララ・ウォードは、後にアダムスの紹介でリチャード・ドーキンスと知り合い、結婚した。ドーキンスは、2001年9月17日、ロンドンのセント・マーティン・イン・ザ・フィールド教会で行われたアダムスの追悼式で頌徳の辞を述べたが、この中でララ・ウォードとの出会いについても語っている。

Douglas introduced me to Lalla. They had worked together, years ago, on Dr Who, and it was she who pointed out to me that he had a wonderful childlike capacity to go straight for the wood, and never mind the trees:

 ちなみに、この頌徳の辞はドーキンスの著書『悪魔に仕える牧師』に収録されており、日本語で読むことができる。ただし、該当箇所をチェックすると少々面食らう。

 ダグラスは、私にララを引き合わせてくれました。ダグラスとララは某博士のところでいっしょに働いていたのです。彼が森をまっすぐにつっきって、樹木のことなどまったく気にしないという子供のような驚くべき能力をもっていることを指摘してくれたのは彼女でした(p. 296)。

 訳者は、ミセス・リチャード・ドーキンスが女優だとは夢にも思わなかったようだ。



 
5 『銀河ヒッチハイク・ガイド』の影響と余波

 アダムスが『ドクター・フー』を書いたのとは逆に、『ドクター・フー』のほうで『銀河ヒッチハイク・ガイド』に言及していることもある。

 まずは、『ドクター・フー』旧シリーズから。ここでは、二つのエピソードで『銀河ヒッチハイク・ガイド』が顔を出している。
 一つ目は、1979年9月に放映された 'Destiny of the Dalek'。この中で、トム・ベイカー扮する四代目ドクターは、『銀河ヒッチハイク・ガイド』に出てくる哲学者ウーロン・コルフィドの著書、The Origins of the Universe を読んでいる。もっとも、このエピソードはアダムスが脚本編集者として最初に手掛けた作品なだけに、こういう遊びが入っていたとしてもそんなに不思議ではない。
 次に、1989年10月放映の 'Ghost Light'。ここでは、シルヴェスター・マッコイ扮する7代目ドクターが、ディナーの席上で "Who was it that said earthmen never invite their ancestors to dinner?" と発言する。これは、小説版『銀河ヒッチハイク・ガイド』には出てこないが、ラジオ・ドラマ版とテレビ・ドラマ版、それぞれの第1話の冒頭に近い部分で使われるナレーション、"Earthmen are not proud of their ancestors and never invite them round to dinner." (original radio script, p. 20) に呼応したものだ(日本で発売されたテレビ・ドラマのDVDでは、該当箇所の日本語字幕は「人類は先祖を夕食に招かず/誇りにも思っていない」となっている)。
 この他にも、『ドクター・フー』の解説本、Inside the Tardis によると、1987年11月放映の 'Delta and the Bannerman' と 'Dragonfire' にも『銀河ヒッチハイク・ガイド』の強い影響が見られるとのことだが、詳細は不明。

 これらの例は、あくまでダグラス・アダムスと『銀河ヒッチハイク・ガイド』へのオマージュとして意図的に書かれたものだ。が、『銀河ヒッチハイク・ガイド』の影響から逃れようとして逃れられず、意図せざる形で『銀河ヒッチハイク・ガイド』との類似作品を生み出してしまった例もある。
 1982年から1986年まで『ドクター・フー』の脚本編集者を務めたエリック・サウォードは、1984年放送のエピソード 'The Two Dilemma' を小説化した。Love and Monsters: The Doctor Who Experience, 1979 to the Present によると、「サウォードは、脚本編集室の前任者ダグラス・アダムスの影響から逃れようと苦闘していた。アダムスは、SFコメディ『銀河ヒッチハイク・ガイド』のスマッシュ・ヒットを受けて『ドクター・フー』を去ったが、サウォードがノベライズした 'The Two Dilemma' と 'Slipback' に見られる数々の冗長な脱線話は、『銀河ヒッチハイク・ガイド』に相通じるものがある。(略)'The Two Dilemma' で、ネコが地球で一番知的な生き物だったと判明する辺りは、アダムスのハツカネズミとイルカの話にそっくりだ」(Booy, p. 113)。
 また、1980年放送のエピソード 'The Leisure Hive' も、脚本家デイヴィッド・フィッシャー自らノベライズし、1982年に Doctor Who and The Leisure Hive のタイトルで出版されたが、小説のために新しく追加された内容に、やはり『銀河ヒッチハイク・ガイド』の影響が見てとれるという(同、p. 59)。ちなみに、彼が『ドクター・フー』の脚本を締め切りまでに完成できなくなったため、急遽アダムスがチャップマンと共に彼のアイディアを基に脚本を書いて仕上げたのが、'City of Death' である。



 
6 『銀河ヒッチハイク・ガイド』と『ドクター・フー』新シリーズ

 2005年から始まった『ドクター・フー』新シリーズでは、『銀河ヒッチハイク・ガイド』からの引用は旧シリーズの時と比べてはるかに大胆になった。
 その最大の理由は、新シリーズの事実上の最高責任者である脚本家兼エグセクティブ・プロデューサーのラッセル・T・デイヴィスが、ダグラス・アダムスのファンであることに起因している。そのため、「影響下にあると思われる」といった漠然としたレベルにとどまらず、はっきり『銀河ヒッチハイク・ガイド』を意識して書かれていたり、あるいはもっと直接的に言及されていたりもする。
 新シリーズは、現在のところ第1シリーズから第7シリーズまで製作されているが、その中で『銀河ヒッチハイク・ガイド』の影響が明白なものは以下の通り。

第1シリーズ エピソード2 'The End of the World'(「地球最後の日」) 2005年6月11日放送

 エピソード自体に『銀河ヒッチハイク・ガイド』からの直接の引用や言及はないのだが、いろいろなエイリアンたちが一カ所に集合するというアイディアそのものが、『宇宙の果てのレストラン』に由来しているらしい。
 脚本を書いたラッセル・T・デイヴィスいわく、  

 言うまでもなく、このエピソード全体が今は亡き天才作家、ダグラス・アダムスへのトリビュートである。おもしろいことに、『ドクター・フー』のファンたちが自分の好きなエピソードをリストアップする時、'The Pirate Planet' は滅多に上がってこない。つまらないから、というのではなく、多分、この作品の良さはまったく別の物差しで測らなければならないからだろう。小さな一つの世界として完結しているように見えるのだ。私が観たのは15歳の時だったが、とてつもないアイディアの数々に頭をふっ飛ばされてしまった。
 対象をあまりに好きになってしまうと、いつの間にかそれが自分の一部となってしまい、自分では気付かないうちに引用していたりするものである。このエピソードを書いている最中の私は、ダグラス・アダムスのことは念頭にあったものの、誓って『宇宙の果てのレストラン』のことはまったく意識していなかった。他の人から指摘されて初めて、「どうして自分では気が付かなかったんだ!」と思った。
 一方、「ミーム」という単語を使うに際しては、アダムスの親しい友人でもあったリチャード・ドーキンスのことは十分意識していた。『ドクター・フー』の中に直接そういう場面は出てこないけれど、ドクターはある時点できっとローズにミームの概念を説明したにちがいない、と私は考えている。だからこそ、このシリーズの最後でローズは事実上彼女自身のミームのようなものを創り出すことになる――それが「バッド・ウルフ」だ、と。え、それとも私の考え過ぎか?(Doctor Who: The Shooting Scripts, p. 49)。
 

第2シリーズ エピソード0 'The Christmas Invasion'(「クリスマスの侵略」 ) 2005年12月25日放送

 2005年のクリスマスに、第1シーズンと第2シーズンを繋ぐ形で「クリスマス・スペシャル」と銘打って放映された。このエピソードは、通常より長い60分枠で、「テレビ局にとって1年で一番大切な日にあたるクリスマスに、BBC特別編成の目玉として放映され」(『ドクター・フー:インサイド・ストーリー』、p. 188)、かつ10代目ドクター役のデイヴィッド・テナントが初めて活躍するエピソードでもあるのだが、地球を侵略しようとするエイリアン軍団に一対一の決闘を挑んで勝利した直後、ドクターは人間の仲間たちに向かって唐突にこう話すのだ――'just Arthur Dent'。
 一体、何が「アーサー・デント」なのか。実はこのエピソードでは、ストーリーの展開上、ドクターは病み上がりで(正確には病気ではないのだが、説明するとクドくなるので、きちんと知りたい方はレンタルDVD等でご確認ください)、ラストの10分間くらいまでぐんにゃりと寝ているだけのような状態にある。そのため、このエピソードに限ってドクターは普通の服装ではなく、ほとんどずっとアーサー・デントさながらのパジャマとガウン姿なのだ(エイリアンとの決闘シーンではガウンは脱いでいるけれど)。細かいことを言えば、『銀河ヒッチハイク・ガイド』でアーサーがパジャマとガウン姿なのはテレビ・ドラマ版と映画版の中だけのことであり、ラジオ・ドラマ版や小説版では特にそういう描写や設定はないのだが、イギリスではアーサーと言えばパジャマにガウンということですっかり定着しているのだろう。このエピソードが放映される約半年前に、映画『銀河ヒッチハイク・ガイド』がイギリスで公開されていたことも、後押ししたにちがいない。また、ラスト10分前になってドクターが突如回復するきっかけとなったのが紅茶だったことも、アーサー・デントを彷彿とさせずにはおかない。
 ただし、日本語吹き替えならびに日本語字幕には、「アーサー・デント」の固有名詞は出てこない。残念ながら、日本では意味が分かる人は少ないと判断されたのだろう。ちなみに該当箇所は、吹き替えでは「結構かっこよかっただろう?/パジャマ男にしては上出来だなあ」、字幕では「パジャマ男にしては/かっこよかっただろ?」となっている。

 2018年4月、このエピソードのノベライズがターゲット・ブックスから出版された。著者は、これまでに何冊もの『ドクター・フー』のノベライズを手掛けているジェニー・T・コルガン。『銀河ヒッチハイク・ガイド』への言及は、テレビドラマよりもさらに踏み込んでいる。決闘で勝利したドクターが、テレビドラマでは 'just Arthur Dent' と言っただけだったのに対し、小説では、

'Very Arthur Dent,' said the Doctor, looking down. 'Now there was a nice man,' which would have surprised Arthur tremendously if he'd heard it, seeing as every time they'd met, the Doctor had appeared almost outstandingly uninterested in killing Vogons, before beating him at Scrabble whilst simultaneously sharing long boring reminiscences with Ford about wild nights out they'd had together at college.

 何と、ドクターがアーサーやフォードと知り合いだったとは。少なくともこの小説版の設定では、『ドクター・フー』の世界と『銀河ヒッチハイク・ガイド』の世界は相互乗り入れしているようだ。巻末に添えられた著者の謝辞には、ダグラス・アダムス・エステートの名前も入っている。

 
第3シリーズ エピソード7 '42'(「タイムリミット42」) 2007年5月19日放送

 コントロールを失って太陽に向かって飛び込もうとしている宇宙船を、ドクターが42分という制限時間内に救助するというストーリー。このエピソードの脚本家クリス・チブナルは、単に「42」という数字を使っただけでなく、太陽に宇宙船が太陽に飛び込むというプロット自体、『宇宙の果てのレストラン』に出てくる「ホットブラック・デザイアトのスタント船」を踏まえて書いたと語る。

「サンダイヴィングって何なの?」トリリアンが小さな低い声で言った。
「それは」マーヴィンが答えた。「船が太陽のなかに飛び込むことです。太陽……飛び込む。ごく簡単に理解できますよ。ホットブラック・デザイアトのスタント船を盗んで、どうなると思っていたのですか?」(pp. 204-205)

もっとも、「42」を『銀河ヒッチハイク・ガイド』からの引用ではなく、アメリカのテレビ・ドラマ「24」をもじったのだと勘違いした視聴者も多かったらしいが。
 なお、この脚本でチブナルは英国脚本家組合賞を受賞した。
 

第4シリーズ エピソード0 'Voyage of the Damned'(「呪われた旅路」) 2007年12月25日放送

 2007年のクリスマスに、第3シーズンと第4シーズンを繋ぐ形で「クリスマス・スペシャル」と銘打って放映された。
 このエピソードの中核となっているアイディアは、「宇宙船タイタニック」である。ただし、1998年に発売されたこのコンピュータ・ゲームの存在にラッセル・T・デイヴィスが気付いたのは、「宇宙船でタイタニックをやる」と決めた後のことだったようだ。2007年5月30日に、ベンジャミン・クックに宛てたメールの中で、  

Oh! Forgot to tell you - looking up the real Titanic online today, what did I find? A computer game, released in 1998, called - wait for it - Starship Titanic! By Douglas Adams! I got straight onto BBC Editorial Policy to see if we're all right copywright-wise. If we're not...oh, damn! I must have heard of it, and yet this feels brand new. (Doctor Who: The Writer's Tale, p. 133)

 ダグラス・アダムスのファンですらこの有様なのだから、コンピュータ・ゲーム『宇宙船タイタニック』の知名度はイギリスでも相当低いとみて間違いないだろう(細かいことを言えば、「宇宙船タイタニック」という言葉だけなら、小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』の3作目に既に登場しているのだが)。
 なお、エピソードのタイトルが、'Starship Titanic' ではなく 'Voyage of the Damned' になったのは、単なる著作権の問題だけでなく、第3シリーズの最終話でこのエピソードの予告を入れる時に、視聴者には次回は(宇宙船ではなく)本物のタイタニックの話なのかと思わせることができる、という理由もあったらしい。また、このエピソードには、攻撃してくるロボットを止めるため、ドクターがロボットのセキュリティ・プロトコル・ナンバーを当てずっぽうに叫ぶシーンがあるが、その中に「42」も入っている(残念ながら「42」は正解ではなかったが)。

 
第5シリーズ エピソード12 'The Pandorica Opens' 2010年6月19日放送

 ドクターはコンパニオンのエイミーを連れて、宇宙一古い惑星に行く。その惑星にある、ダイヤモンドで出来た崖には、宇宙最古の文章が刻まれている。が、これまで解読されたことがない。でも、ターディスの翻訳機能があれば簡単に読めるはず、とドクターは考えた。実際、文章は簡単に読むことができたのだが、それは誰かによって書き換えられた後だった。
 崖に刻まれた太古のメッセージ、という設定は、『さようなら、いままで魚をありがとう』のラストに出てくる「被造物への神の最後のメッセージ」(God's Final Message to His Creation)を思い起こさせる。ただし、この類似を指摘している人はあまり多くない。
 なお、この'The Pandorica Opens' とその続き 'The Big Bang' で、スティーヴン・モファットはヒューゴー賞短編映像部門賞を受賞した。
 

 『ドクター・フー』新シリーズにおける、こういったオマージュや引用が出版関係者の目を引いたのだろうか。2008年11月、ラッセル・T・デイヴィスは小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』30周年記念の新装版ペーパーバックへの序文を依頼された。この序文を読めば、彼がいかに『銀河ヒッチハイク・ガイド』を愛読し、大切に思っているかがよく分かる。



 
7 'City of Death' と『ドクター・フー』新シリーズ

 ダグラス・アダムスと『ドクター・フー』新シリーズとの関係は、直接の引用やオマージュといった、表に見えるものばかりではなかった。むしろ、視聴者には見えないところでより大きな影響力を発揮していた、とさえ言えるかもしれない。

 ラッセル・T・デイヴィスは、2010年1月2日に放送されたエピソード、'The End of Time: Part Two' を最後に、脚本家兼エグセクティブ・プロデューサーの立場から退く。後任は、デイヴィスの指揮下で『ドクター・フー』の脚本を何本も手掛けてきたスティーヴン・モファット。この交代劇についてはデイヴィスの The Writer's Tale にも書かれており、それを読む限り、とても友好的かつスムーズに行われた。
 2010年4月3日、スティーヴン・モファットが脚本家兼エグセクティブ・プロデューサーに就任して最初の『ドクター・フー』第5シリーズの放送が始まる。そしてその前日の4月2日、BBCラジオ4で、'The Doctor and Douglas' というタイトルの30分のドキュメンタリー番組が放送された。
 この番組は、タイトルが示す通り、『ドクター・フー』とダグラス・アダムスとの関係について紹介したものだ。アダムスが脚本を書いた作品に出ていたキャスト(ララ・ウォードジュリアン・グローヴァー)やスタッフ(アンソニー・リードやデイヴィッド・フィッシャー)が、'City of Death''Shada' について語り、アダムスのブレントウッド・スクール時代の恩師、フランク・ハルフォードが、アダムスが子供の頃に『ドクター・フー』のパロディを書いたエピソードについて披露する。さらに、スティーヴン・モファットも登場し、"'City of Death' is a perfect piece of television. It's absolutely gorgeous."と、最上級の賛辞を贈った。
 とは言え、ここまでは、ある意味、予想の範囲内だ。モファットは、2005年に発売された 'City of Death' のDVDに収録された特典映像の中のインタビューでも、'City of Death' を絶賛しているのだから。
 が、ラジオ番組 'The Doctor and Douglas' で、モファットはそこからさらに一歩踏み込んで、'City of Death' が2005年以降の『ドクター・フー』新シリーズに与えた影響について語る。
 モファットいわく、2005年以前の、まだ製作の詳細も決定していなかった頃、もともと『ドクター・フー』の大ファンだったラッセル・T・デイヴィスは、プロデューサーのジュリー・ガードナーに、自分が選んだ『ドクター・フー』の傑作エピソードを何本か見せることにした。よりすぐりの作品を見せることで、当時はまだ新シリーズ製作に必ずしも乗り気でなかったガードナーの気持ちを動かそうとしたのだ。そして、そのガードナーが、「これだ、これなら現在の視聴者にも支持されるにちがいない!」と強く反応したのが、他でもない 'City of Death' だった――かくして、'City of Death' は新シリーズの製作にあたっての「手本(benchmark)」となった、という。
 ラジオ番組'The Doctor and Douglas' は、現在でもBBCのサイト(http://www.bbc.co.uk/programmes/b00rp3dw)から聴くことができる。興味のある方は、是非。
 なお、'City of Death' を手本として脚本を書いたというモファットの『ドクター・フー』のエピソードは、現在までに4度のヒューゴー賞短編映像部門に輝いている。



 
8 軽蔑と賞賛

 と、ここまではダグラス・アダムスが関わった『ドクター・フー』作品に好意的なコメントばかりを並べてきたが、誰もが同意見だった訳ではない。それどころか、猛反発を感じる人も多かった。

 オーストラリアにあるチャールズスタート大学教授のジョン・タロックは、著書 Science fiction audiences: Watching Doctor Who and Star Trek (1995) の中で、アダムスが脚本を書いた『ドクター・フー』作品が、『ドクター・フー』マニア、あるいは一般のSFファンの間でどのように受け止められたかを調査した結果について書いている。
 その著書によると、アダムスと、アダムスを引き入れたプロデューサーのグレアム・ウィリアムズが『ドクター・フー』に携わった1977年から1980年にかけて、番組の視聴率はかなり高かった。にもかかわらず、長年に亘ってイギリスやオーストラリアで『ドクター・フー』のファンクラブの幹部を務めていたような人たちに言わせると、この3年足らずの期間に製作されたエピソードの多くはファンにとっては「許しがたい」(Science fiction audiences, p. 146)の一語に尽きるらしい。
 オーストラリアのファンジンに掲載されたワースト調査の結果は、1位が 'The Horn of Nimon'、2位が 'Destiny of the Daleks'で、どちらもアダムスが脚本編集者としてかかわった作品である。オーストラリア・ドクター・フー・ファン・クラブでの投票では、'Destiny of the Daleks' がワースト1位に輝いたという。
 1976年発足のイギリスの公式(?)『ドクター・フー』ファン・クラブ、Doctor Who Appreciation Society でも、放送当時、アダムスは「多くの会員の軽蔑の対象」(Booy, p. 35)になったという。番組史上最高の視聴率を記録した 'City of Death' でさえ、そんなものを本気でおもしろがるのはマニアとしては一種の恥と看做された(同、p.3)。
 では、一体何がそんなにもマニアの神経を逆撫でしたのだろう?

 'Destiny of the Daleks' に関しては、『ドクター・フー』の世界観に抵触するような強引なストーリー設定を持ち込んだことが理由の一つに上げられている。たとえマニア以外の一般視聴者にとってはたいして気にならない些細なことだったとしても、番組を何度も繰り返して観るようなマニアにとっては見過ごし難い一大事だった。
 また、この時期にドクター役を務めていたトム・ベイカーについても、マニアの視線は(ベイカーがもっとも長い期間ドクター役だったことを考えれば)意外なくらい厳しくて、それまでは良質のストーリーが何より重視されていたのに、ベイカーがドクターになってからはキャラクター中心、あるいはストーリー無視のおちゃらけに変わってしまった、と嘆く。
 確かに、アダムスが脚本に参加するようになってからの『ドクター・フー』は、コメディ色が強くなった。ただし、それは必ずしもアダムス一人のせいではなく、プロデューサーのグレアム・ウィリアムズの意向でもあった。1965年頃から、イギリスでは女性の活動家メアリー・ホワイトハウスを中心に、キリスト教的道徳観に基づいてテレビの低俗番組を糾弾する社会活動が活発化し、アダムスが番組に参加する直前の1970年代半ばには、『ドクター・フー』も非難の対象になっていた。作品が持つホラーの要素が子供に悪影響を与える、というのだ。グレアム・ウィリアムズが『ドクター・フー』のコメディ路線への変更を歓迎したのは、ホワイトハウスらの攻撃から逃れるためでもあった(Inside the Tardis, p. 112)。
 ホラーからコメディへ。たとえば、'Destiny of the Daleks' では、シリーズでもっとも人気の高い悪役ダーレクが、恐ろしいモンスターどころか、むしろ滑稽な存在としてコケにされている。'City of Death' を高く評価するスティーヴン・モファットですら、アダムスがを脚本編集者していた時期の『ドクター・フー』作品の出来について難色を示しているが、恐らくこれはその一例だろう。モファットいわく、「モンスターをシリアスに描かないのは、『ドクター・フー』では致命的な間違いだ」。
 子供への悪影響を考慮する以外にも、1977年に映画『スター・ウォーズ』が公開されたせいで、『ドクター・フー』のただでさえチープな特撮がさらにお粗末なものに見えるようになった、という情けない事情もあったようだ。映像で太刀打ちできないなら、ユーモアのセンスやキャラクターで対抗するしかない、という訳だ。(Doctor Who: The Unfolding Text, p. 159)。それはそれで、考え方としては悪くないような気もするが。
 さらに言うと、アダムスにとって、『ドクター・フー』にコメディの要素を持ち込むことは作劇上の戦略でもあった。コミカルな場面を入れることは、ドラマの緊張感を台無しにするどころか、むしろそれをもっと高めてくれるのではないか。その好例として、アダムスは『マクベス』第二幕第三場を引き合いに出す。「数ある芝居の中でも、とびきり強烈に印象的な場面は、『マクベス』の中で、最悪の事態が起こったシーンだと思う。ダンカンはマクベスに殺された。自然の理に反する、ひどい犯罪だ。すると、門のところにマクダフがやってきて、中に入ろうと城門を叩く。緊張の、恐怖の一瞬だが、その時、舞台上にはおかしなキャラクターが出てくる。門番が、フランス人の仕立て屋についての冗談を言っている……最高の緊張の瞬間に、だ」(同、p. 172)。
 アダムスの狙いは、リスキーな戦略でもあった。コメディの要素を増やしたことは、長年主演を務め続けてきたトム・ベイカーのおふざけ演技が度を超してもプロデューサーやディレクターがベイカーを止められなくなるという、思いがけない副作用を生むことになる。アダムスも、内心ではベイカーはやりすぎだと感じていたのだろう。ベイカーとの関係はとても良好だったと断った上で、「もうちょっと的確に、というかリアルにやれていれば、台無しにならなかったのに」と語っている(同、p. 168)。
 ただし、演技にしろ脚本にしろ、コメディの度合いが「的確」かどうかの基準は、当然ながら人それぞれだ。たとえば、'City of Death' のラストでジョン・クリーズがカメオ出演する場面。

アート・ギャラリーの一角に、ターディスが置いてある。ジョン・クリーズ扮する美術愛好家は、ターディスを美術館の展示品の一つと思い込み、連れの女性(エレノア・ブロン)ともっともらしいモダンアートの言説で語り合う。そこにドクターとロマーナと刑事の3人が走ってきて、ターディスに駆け込み、作動させる。ジョン・クリーズとエレノア・ブロンの目の前でターディスは消え、エレノア・ブロンは一言、'exquisite' (最高)とつぶやく。二人はターディスを、モダンアートのインスタレーションか何かと勘違いしたのだ。  

 スティーヴン・モファットは、この場面についてストレートに 'very funny' と語る。が、長年の『ドクター・フー』ファンの一人、イアン・レヴァインは、「SFに『フォルティ・タワーズ』的ドタバタを持ち込んだ」と憤る(同、p. 151)。
 'City of Death' がイギリスで放送された1979年10月20日当時の視聴者なら、モダンアートについてもっともらしく語るジョン・クリーズの姿は、大ヒットコメディ『フォルティ・タワーズ』のバジル・フォルティを想起しただろう(何せ『フォルティ・タワーズ』の最終話が放送されたのは、クリーズが出演した 'City of Death' 第4話が放送された5日後だったのだから)し、アダムスも十分それを意識して脚本を書いたにちがいない。
 イアン・レヴァインをはじめ、アダムス脚本の『ドクター・フー』作品を嫌う人々にとっては、この種の間テクスト性は、作品の本質をぶちこわすものとしか思えなかったようだ。が、たとえば約30年後の現在、『ドクター・フー』と言えば新シリーズしか観たことがなくて、『フォルティ・タワーズ』どころかジョン・クリーズのことすら知らない日本人にこの場面を見せたとしても、笑いの意味は十分通じるのではないか。
 この場面が、コメディとして「上から目線でアートについてもっともらしく喋っている態度のデカイ男」=「モンティ・パイソンのジョン・クリーズ」=「バジル・フォルティ」の間テクスト性に依らなくてもコメディとして成立するのであれば、イアン・レヴァインらの非難を少なくとも半分は躱せたことになる。残る半分、そもそもこのようなコメディを挟み込むこと自体、ストーリーの展開を阻害している、という見方については、この場面を 'very funny' と評したモファットでさえ、「'City of Death' において、ユーモラスな場面は笑いを取るためだけでなく、同時にストーリーを前進させる機能も果たしているが、このジョン・クリーズの場面だけは例外」と語る。つまり、モファットも、この場面だけはストーリーとは直接関係のない、言ってみれば、有名人のカメオ出演という視聴者サービスの一種と認めている訳だ――たとえどれほど出来が良くておもしろいとしても。
 アダムスの非公式伝記 Hitchhiker によると、ジョン・クリーズのカメオ出演は最初から予定されていたものではなく、'City of Death' の撮影が始まった後になって急遽決定し、脚本に追加されたものだという(p. 124)。だとすれば、モファットが感じた通り、この場面だけストーリーと直接関係がないのも当然だ。むしろ、急に追加した場面だったにしては、'City of Death' にどちらかと言うと批判的なジョン・タロックでさえ、この場面にリアリティがあると認めていることのほうを強調すべきだろう。
 しかし、笑いと話題を取ることだけが目的の場面の、一体どこがリアルなのか。
 アダムスは、ドクターの行動には常に論理的な動機付けがなくてはならない、と考えていた。ならば、そんなドクターが、もしイギリスの青いポリス・ボックス型のターディスを、パリで人目につかないように置いておこうとするなら、それは一体どこだろう? アダムスが導き出した答えは、「そうだ、彼ならモダンアートのギャラリーに置いておくにちがいない。そこなら誰にも気付かれないだろうから」(同, p. 164)。
 他の作家ならそこまで深く考えない、と、タロックは書く。たとえ視聴者がそこまで気にしない、あるいは気付かないとしても、アダムスはドクターの行動に論理的裏打ちを求めた。そしてその結果、ジョン・クリーズに的外れな蘊蓄を言わせる絶好のシチュエーションをお膳立てすることにも繋がったのだから、咄嗟のアイディアとしてはたいしたものではないか。

 いや、そういう問題ではない、と、グレアム・ウィリアムズの後任プロデューサー、ジョン・ネイサンーターナーは主張する。そもそもジョン・クリーズが出てきただけで、視聴者の注意がストーリーと関係のない方向にそれてしまうこと自体が間違いなのだ、と(同、p. 167)。
 ジョン・ネイサンーターナーは、1968年頃からスタッフとして『ドクター・フー』製作にかかわるようになり、グレアム・ウィリアムズがプロデューサーだった時には製作進行(ユニット・プロダクション・マネージャー)を務めていた。つまり、長年に亘って番組を裏で支えてきたスタッフだったのだが、1977年から1979年にかけてグレアム・ウィリアムズとダグラス・アダムスの二人が生み出した作品に関して、'City of Death' を含め、かなり否定的な見解を示している。では、そんな彼が、ウィリアムズとアダムスが去った後、プロデューサーとしてどのような作品を作ったのか。

 先に書いた通り、'City of Death' は『ドクター・フー』史上最高の視聴率を記録している。ジョン・クリーズが出演した最終話の視聴者数は約1600万人、この数字は同じ時間にテレビを見ていた人の約90パーセントに相当するらしい。当時はまだ一般家庭にテレビの録画機器は普及しておらず、チャンネル数自体もずっと少なかったため、現在のイギリスの視聴率調査と一概に比較することはできないが、ともあれ当時の基準と照らし合わせてみても、たいした高視聴率だったことだけは間違いない。
 'City of Death' に限らず、グレアム・ウィリアムズとダグラス・アダムスの時代の『ドクター・フー』はおおむね視聴率は良かった。無論、視聴率は高いからと言って作品の質も高いとは限らない。が、新たにプロデューサーとなったジョン・ネイサンーターナーが製作した作品は、1981年にトム・ベイカーが番組から去った後、視聴率は低迷することになる――長年のマニアの間では高く評価されたにもかかわらず。
 
 ではここで、ジョン・タロックの著書 Science fiction audiences: Watching Doctor Who and Star Trek に話を戻そう。
 この著書の中で、タロックは、『ドクター・フー』マニアと一般視聴者の中間地点にいると思われる、いわゆるSFファンの目に、アダムスの'City of Death'とジョン・ネイサンーターナー時代の代表作 'Kinda' がどのように受け止められたかを調査している。

 まず最初、調査を開始する前に、タロックはテレサ・エバートの定義に従い、SFを'Para'-SF、'Literary'-SF、'Meta'-SFの3種類に分けた。'Para'-SFとは、ガーンズバックの『アメージング・ストーリーズ』誌の延長線上にあるような、能天気な科学万能主義に基づく娯楽としてのSFで、小説よりも映画やテレビ作品といった映像作品が多い。エバートに言わせれば、その代表作がテレビ・ドラマ『スター・トレック』である。続く'Literary'-SFは、科学万能主義が潰えた後の悲観主義から生まれたより文学性の高いもので、エバートはその代表作としてハインラインの『異星の客』を上げる。残る'Meta'-SFとは、「SFについてのSF」、つまり「SFとは何か」を十二分に意識して書かれた作品で、エバートいわく代表作はサミュエル・R・ディレイニーの『ダールグレン』。
 そして、この3種類のSFをどう受け入れるかによって、タロックはSFファンを2種類に大別する。まず、基本的に'Para'-SFしか受け付けないタイプ。その多くは、SFといってもテレビや映画をみるだけで小説を読むことはせず、興味はもっぱら特撮やガジェット類に向けられる。それからもう一つは、'Literary'-SFを享受できるタイプ。このタイプは、'Literary'-SFだけでなく、Para'-SFも'Meta'-SFも楽しむことができる。
 タロックが調査対象として選んだのは、後者のタイプだった。1982年9月、シドニーのマッコーリ大学のSFファンを対象に、タロックは『ドクター・フー』のエピソード、アダムスが脚本を書いた 'City of Death'(1979年)と、クリストファー・ベイリー脚本の 'Kinda' (1982年)の2作を見せ、グループ・インタビューを行った。
 子供向きのSFテレビ・ドラマという意味では『ドクター・フー』は'Para'-SFの典型のようだが、長年に亘ってさまざまな脚本家が手掛けたこともあって、エピソードごとにその色彩はかなり異なる。1981年のインタビューで、クリストファー・ベイリーはアダムスの『ドクター・フー』作品を'Meta'-SFに分類した上で、「SFを笑いものにして利口ぶる連中には賛同できない」(Tulloch, p. 54)と語り、'Literary'-SFの代表作家、アーシュラ・K・ル=グィンの『世界の合言葉は森』をベースに、'Kinda' を書いた。つまり、ベイリーの弁に従うなら、『ドクター・フー』において 'City of Death'が'Meta'-SFの典型なら、'Kinda' は'Literary'-SFの典型ということになる。
 ところが、マッコーリ大学の学生たちはアダムスの 'City of Death'を高く評価する一方で、'Kinda' を古臭くて安っぽい'Para'-SFと見なした。彼らにとって良いSFとは、世界の見方を変えてくれるようなもので、アダムスの'Meta'-SF的な資質、従来のSFの話法をひっくり返すような語り口が、'Literary'-SFとして受け入れられたのではないかとタロックは分析する。それにひきかえ、'Kinda' には日常を違う目線でとらえる姿勢が欠けていた、と。'Meta'-SFか'Literary'-SFの区分はどうあれ、「ものごとは見た目通りとは限らない」にこだわり、常に新しい視点、新しい見方を追い続けていたアダムスにとって、マッコーリ大学の学生の感想は最高の賛辞だったにちがいない。

-----------------

 2001年、イギリスのアーティスト、マーク・ウォリンガーは、「Time and Relative Dimensions in Space」と名付けた作品を発表した。その画像が、こちら。かくしてターディスは本物のモダンアートとなった。
 なお、マーク・ウォリンガーは、2007年、対テロ戦争を批判した「State Britain」でターナー賞を受賞している。

-----------------

 2008年4月12日、イギリスで、ラッセル・T・デイヴィス指揮下の『ドクター・フー』の第4シリーズ第2話、'The Fires of Pompei' が放送された。
 ドクターとコンパニオンのドナはタイムトラベルで古代ローマ帝国に行くが、街角にターディスを置いてしばらく目を離した隙に、何者かにターディスを持ち去られてしまう。持ち去った主は、ターディスを売り物の「モダンアート」だと勘違いしたのだった。
 これは、勿論、'City of Death' へのオマージュである。脚本家ジェイムズ・モランが、'City of Death' のファンだったらしい。また、このエピソードに出てくるドクターの台詞、"She's from Barcelona" は、『フォルティ・タワーズ』でジョン・クリーズが演じたバジル・フォルティがたびたび口にする有名な台詞、"He's from Barcelona" をもじったものである。

Top に戻る