小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』30周年記念版への序文

 

 以下は、2009年9月1日、小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』30周年を記念して出版された新装版ペーパーバックに寄せられた序文の抄訳である。
 ただし、訳したのは素人の私であるので、少なからぬ誤訳を含んでいる可能性が高い。そのため、この訳はあくまで参考程度にとどめて、全貌をきちんと知りたい方は、必ずオリジナルにあたってくださるようお願いする。


オーエン・コルファー 『銀河ヒッチハイク・ガイド』 マクミラン・チルドレン・ブックス

 『銀河ヒッチハイク・ガイド』は古典の域に達しているので、タイトルを最初から最後まで言う必要すらない。我々は忠義の気持ちを込めて、Hitchhiker's とか The Guide とか、あるいはもっと簡単に H2G2 と呼ぶ。時には図書館で親指のジェスチャーをしただけで、クスクス笑いをこらえきれず、SFコーナー全域をおシャカにすることもある。
 そのような本に序文を書くのは難しい。あまりに奇妙であまりに素晴らしい本であるが故に、これからこの本を読もうとする読者に心の準備のさせようがないからだ。5歳の子供に、1音節程度の単語だけを使って、雷に打たれたらどんな感じがするのか説明するようなものである。やるだけやってみてもいいが、前もってどう説明してみたところで、実際にその子供が雷に打たれたら心底びっくりすることは分かり切っているし、またそうなったら子供は子供なりに1音節程度の単語を使ってその驚きを説明するだろう。
 私にできることはせいぜい、これまで以上におもしろいキャラクターたちに会えますよと警告するぐらいである。初めて彼らに会った時に、たまたま小型電動芝刈り機を操作していたり、ピラニアの入ったビーカーでジャグリングをしていたらタイヘンだから。
 たとえばアーサー・デント。アーサーは、平均的なウンコ鳥より頻繁にドツボにはまる(ウンコ鳥とは褐色の羽根のはえた飛べない鳥のことだが、この鳥は自分が落ち込んでいるのを正当化したい一心で、ホカホカの糞の山に身投げする)。アーサーは、特殊な電子比率でトラブルを引き寄せる電気磁石のようなもので、平均的な一日ですら、自分の惑星が破壊されただけでとどまらず、それよりさらにひどい目に遭ったりする。
 アーサーのペテルギウス出身の友人、フォード・プリーフェクトも、トラブルがその醜い、そして往々にして緑色の手を伸ばしてくる回数ではアーサーにひけをとらないが、フォードの場合は解決法を提示することができる。ただし、残念ながらそれらの解決法は例外なくトラブルメーカーを激怒させ、アーサーとその仲間たちをさらなるドツボへと突き落とすことになる。あのウンコ鳥すら、思わずクスっと笑ってしまう程に。
 ザフォド・ビーブルブロックスは二つ頭だ。他に何とも言いようがない。先を読み進めていけば、逃走中の銀河大統領云々という話は、ちょっとした不運に過ぎないことが分かる。ザフォドについて読むのは、文学的な表現を用いるなら、今にも脱線しそうな原子力列車の屋根に自分を縛り付け、V字型にカットしたレモンをブレーキにしてプラズマトンネルを停止させようとするようなものだ。しかもその間はすっぱだかで、おまけに尻をちっこい悪魔が三つ又の矛で突っつきまくっていることは言うまでもない。
 悪役はヴォゴン人。あなたは彼らを気に入らないだろうが、心配することはない、彼らも自分たちのことが嫌いなのだ。ヴォゴン人は醜すぎて、宇宙港の入港管理員たちですら彼らには写真つきIDの提出を求めない。万が一、その写真が美容整形前に撮られていたら困るからだ。そしてまた、ヴォゴン人なら自分たちの惑星を丸ごと木っ端みじんに破壊しかねないからでもある。
 42という数字はくれぐれもお忘れなく。これは、銀河を旅するなら極めて重要である。この数字を知らなければ、あなたがこれまでの短い人生で培ってきたあらゆる知識など、ディジュリドゥ(アボリジニの伝統的木管楽器)の奏者にとっての詰まった穴ほどの役にも立たない。え、どうしてそんなに重要なのかって? いい質問だ。その答えが分かったら、私にも教えてほしい。あなたが瞬間的に並行宇宙の彼方に吹き飛ばされてしまう前に。
 その他の注意事項をいくつか。アゴの出たヒーローたち、死を前にしてのヒーロー然とした高笑い、宇宙における人類の立場についての長くて退屈な講義。この本にはそういうものは出てこない。代わりに、とてつもないバカバカしさと、宇宙規模の大爆笑、そして有り余るほどの不条理なジョークを見つけることができる。
 さあ、これで準備が整った。警告なしに警戒なし、この本を友だちと一緒に読む計画があるなら、くれぐれも心の広い友だちを選ぶこと。笑いすぎて、ついうっかりおならが出るかもしれないからね。僕が初めて H2G2 を読んだ時はパジーア星のプルーディア姫と一緒だったんだが、おかげで僕は二度とあの星域には近づけないんだ。


ラッセル・T・デイヴィス 『銀河ヒッチハイク・ガイド』 パン・ブックス

 5歳から18歳までの間に、僕は何千もの学校集会に出席したはずである。が、記憶にあるのはたった2つ。1つは小学校で、副校長が、紅茶のテレビ・コマーシャルに出ているチンパンジーは、紅茶の葉を摘んでいる人間の労働者よりたくさんのお金をもらっていると言っていたこと、それからもう一つは、1979年の秋、スウォンジーにある Olchfa 中学校で、マーガレット・アイルズとスザンヌ・クーリングの二人が立って、他でもないこの本の第18章を朗読したことだ。
 ああ、ペチュニアの鉢植え、そしてマッコウクジラ。「まいったな、またか」(安原訳『銀河ヒッチハイク・ガイド』、p. 183)。僕らは姿勢正しく座り、拝聴し、笑った。この時だけは僕らは気持ちを一つにしていたが、それというのも僕ら全員がこれを知っていたからだ。こんな瞬間は、ティーンエイジャーの間では滅多にはない。ある文章のことをみんなが知っていて、みんなが愛している。当時、ポスト・パンクとかグリーン・フラッシュとかアンチ・ナチ・リーグのバッジとかの時代において、『銀河ヒッチハイク・ガイド』は本当にユニークな代物だった。つまり、クールだった。
 「クール」とは怖い言葉だ。「コールド」に近すぎる。美しきエリート、みたいな感じもする。だが、この本は最良の意味での「クール」――頭が良くて真実を突いていて破壊力抜群、しかもここが肝心なのだが、人と人の間に絆を作り出してくれる。特にペーパーバック。きっと、ラジオ・ドラマ版が好きで長波ラジオを必死で聴いた人もたくさんいるだろうが、最良の才気やジョークのすべてが本という形式の中に収まっていることには特別の意味がある。何しろ本は、簡単に持ち運べる。簡単に手に入る。いつでも人に貸すことができる。これまでの人生を振り返ってみても、こんなにもみんなで回し読みをした本はない。僕らは、胸を張ってこの本を手にしていた。一部のエリート集団だけでなく、あらゆる階層、ガリ勉からラグビー部員、女の子集団から不良集団、背が高い子も背が低い子も友達のいない子も、そしてもちろん、特に目立つところのない大多数の普通の子も。僕らはこの本を持ち歩いていた。iPod とか、煙草とか、ギデオン聖書のように。雨にぬれたネオンサインの表紙のペーパーバックが、ズボンの後ろポケットとか学校鞄から取り出され、盾か何かのようにしっかりと握られて、通過儀礼よろしく人から人へと手渡されていく光景を目にしたことはないだろうか。まあね、ハリー・ポッターだって同じ栄光の瞬間を手にしたことは認める。でも、一つだけ言わせてもらうと、ハリー・ポッターのペーパーバックはズボンの後ろのポケットには入らない(『銀河ヒッチハイク・ガイド』なら、この新しい版でも収まることは確認済みだ)。だからこそ僕は、『銀河ヒッチハイク・ガイド』の他のどのヴァージョンにもましてペーパーバックを愛している。ソフトで曲げやすくて手軽な、そのペーパーバックの特質故に。
 ダグラス・アダムスが子供たちにどれだけ大きな意味があったかを忘れてはならない。いつの間にか『銀河ヒッチハイク・ガイド』はすっかり持ち上げられ、オックスブリッジやハリウッドを闊歩するようになった。校庭こそがこの本の本来の居場所なのに! 子供の頃、四方を壁に仕切られた小さな自宅から外の広い世界に足を踏み出した時に、自分は何てちっぽけなんだろうと感じたその瞬間こそ、たった一人で宇宙に立ったアーサー・デントだ。あるいは、ザフォドのように二つ頭で行動する瞬間。誰かに本気で「あわてるな」と言ってあげなくてはならなくなった瞬間。「まいったな、またか」と心から呟くにも理想の年齢である。この言葉は、イマドキの「どうでもいいよ(Whatever)」よりもずっと知恵がある。1979年当時、哀れなベチュニアのくだりで僕らが笑ったのは、それがおかしかったからではない。共感したからだ。
 ダグラス・アダムスを児童文学者のリストに入れるべきだとは思わない。多分、児童文学者たちはたいして子供を必要としていない。が、傑出した人物が、とびきりの知性とめくるめく哲学を駆使し、何百もの学術論文を生み出すに足る力強い文章を書いたとしたら、そこにはきっと大いなる子供の魂が宿っているはずである。これって、最上級の褒め言葉なんですよ! 子供はみんなお話を作る。戦争ゲームとか、ドクター・フーとダーレクとか、地に足のついていない感じの素敵なロジックとか。でも、次第にホルモンとかキスとかニキビとかに気を取られて、物語作りはうっちゃられる。もしくは、自分自身の人生という物語を語り始める。でも、すぐれた作家は決して忘れないはずだ。彼らは、子供時代の狂気を、その愉しさと危うさを、生涯ずっと心に留めておく。そして『銀河ヒッチハイク・ガイド』には、危なっかしくてとんがっていて大胆な、独特のエネルギーが詰まっている。ウィットに富み、因習打破的で、神なんか無視で、野蛮で、かわいらしくて、シュールなのは確かだが、それ以上にこの本は敢えてバカバカしくあろうとしている。それはもう強烈で、崇高なまでのバカバカしさだ。この本が、1979年における旗印だったりレッテルだったりトーテムだったりしたのも無理はない。ダグラス・アダムスは、僕らのための作家だった。
 良い本は、放射能半減期のように子供時代を越えていくことができる。何年か前、僕は家を買うことになった。当時のオーナーが家の中を見せてくれたので、みんながやるように僕も本棚に目を向けた。するとそこにあったのだ。あのオリジナルのペーパーバックが。あの雨に濡れたネオンサインが。僕が本を手に取って笑顔になると、オーナーも笑いかけてくれた。言葉にして言う必要もない。そこにあったのは、約30年の年月が過ぎてなお、まったくの他人同士を結びつける絆だった。僕らがかつて愛したもの、今でも愛しているものが、本の形でそこにあった。いつかは電子ブックに駆逐されることになるだろうが、今のところまだシリコンバレーの天才小僧たちは、プラスチックのタブレットの角を折ったり、背表紙を曲げたり、ページを茶色く変色させたり、コーヒーのリングを一つ二つくっ付けたり、お気に入りの箇所で開いたまま伏せておく方法を発見していない。
 さて、この本を読み終わったら、お願いだから本棚の奥にしまい込んだりしないでほしい。そうじゃなくて、君のポケットに入れてほしい。次の誰かに貸すためにね。そうやって言葉を広げよう。バスに置き忘れるという手もある! やがて完璧な輪が出来る――そして、どうか、誰か学校集会でこの本を朗読してくれないだろうか。みんなきっと気に入るよ、僕が約束する。なるほど、言えてるよな、って思ってくれるはずだ。ダグラス・アダムスはみんなを待っている。続く30年も、この愛すべきペーパーバックを人から人へと渡していこう。


テリー・ジョーンズ 『宇宙の果てのレストラン』 パン・ブックス

 とある日曜日、二日酔いで目が覚めた私は、その日は5時間の無声映画(アベル・ガンスの『ナポレオン』の初上映)のチケットを二枚買っていたことを思い出した。
 私の妻も二日酔いでそんな映画は観られないと言うので、私はマイケル・パリンに電話したが、彼も二日酔いで無理だと言う。そこで、ダグラス・アダムスに電話したところ、彼も二日酔いで無理だと言った。
 仕方ない、観たいかどうかも怪しい映画を一人で5時間座って観よう、と腹をくくった。
 が、いざ自宅の玄関のドアを開けて出ようとしたちょうどその時、電話が鳴った。ダグラスからだった。「ちょっと考えてみたんだけど、そこまでエグいアイディアなら、逆に体験してみるべきなんじゃないかと思って」
 ダグラスは、それがどんなに悲惨そうだったとしても、アイディアを恐れたりしなかった。というか、「アイディア」というアイディアに取り付かれていた。
 小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズを、プロットを楽しむために読む人はまずいないだろう。キャラクターに惹かれて読む、という人も少数派にちがいない(マーヴィンは除く)。ならば、私たちはなぜこの小説をこんなにも愛しているのか。つまり、凄いキャラクターも強力なプロットもない小説を、どうしてわざわざ読むのだろう?
 『宇宙の果てのレストラン』には、宇宙の支配者はネコに向かって話しかける場面があるが、彼いわく、何かを知っているとか分かっているというのは、本当のところは今現在分かっているとか起こっていることだけであり、挙げ句の結論として「なんだかウィスキーが一杯飲みたいような気がする。そうだな、それはありそうな気がするな」(安原訳『宇宙の果てのレストラン』、p. 279)。
 かくして彼は自分のためにウィスキーを注ぐのであった。
 このくだりなど、ダグラスのアイディアというものに対する強い関心が前面に出ている、魔法のような瞬間である。こういう魔法の瞬間があるからこそ、私はダグラスの文章を愛している。彼は、私が知る限り、アイディアゆえに読者をひきつけることのできる、ただ一人の小説家だ。
 そして、『宇宙の果てのレストラン』にはそんなアイディアが一杯詰まっている。それにユーモアも。そこがダグラスのもう一つの良いところだ。アイディアを興味深いものにするだけでなく、笑えるものにもできるところが。
 『銀河ヒッチハイク・ガイド』によると、すべての文明は三つの段階を通り抜けることになっている。生存、疑問、そして洗練。言い換えると、「いかに」「なぜ」「どこ」。
 ガイドはいう。「第一段階に特徴的な問いは「いかにして食うか」であり、第二段階の問いは「なぜ食うのか」であり、第三段階の問いは「どこでランチをとろうか」である」(同、p.205)。
 それから、AとBとCという三つの宇宙船という素晴らしい構想。経営管理者や会計士や広告担当者や美容師といった連中をまとめて先に宇宙に送り出し、残りのもっと創造的で生産性の高い人々はあとから行くよ、と言っておきながら、彼らは出発しないのだ……確信犯的に。BBCや国民健康保険の現状を見るにつけ、我々もみんな箱舟団のB¢Dに乗っているべきだったとは感じずにはいられない。
 実際、『宇宙の果てのレストラン』には予言的な感じの要素も多く含まれている。中でも、現在のような金融危機の瀬戸際において私が思わずぞっとしたのは、B¢Dから出てきた入植者たちが、木の葉を法定通貨にするくだりである。文字通り、金のなる木という訳だ。だがそれでは流通する通貨の量が多すぎるということに気づいて、決算期になると状況を改善するため森という森を焼き尽くすべしという結論に至る。
 では、ダグラス・アダムスによる、アイディアのジェットコースターにご搭乗あれ。
 そうそう、私たちはアベル・ガンスの『ナポレオン』を楽しく観た。ってことは、結局、そんなに悪いアイディアでもなかったんだな。


サイモン・ブレット 『宇宙クリケット大戦争』 パン・ブックス

 私は人類史上において稀有な存在である。宇宙開闢以来、と言ってもいい。私は、ダグラス・アダムスから予定通りに原稿を受け取ったことのあるただ一人の人間なのだ。かくなる僥倖に恵まれたのは、私がラジオ・ドラマ『銀河ヒッチハイク・ガイド』の最初の脚本を依頼したBBCのプロデューサーだったからで、録音する脚本がなければパイロット版の制作はできない、ということでダグラスは期日通りに仕上げて持ってきたのだった。そこから先は、言うまでもなく、彼の締め切りの先送りとやり過ごしは伝説となった。
 私が初めてダグラスと会った時、周りにはジョン・ロイドやグリフ・レイ・ジョーンズやメアリー・アレンといった、他のケンブリッジ大学のレヴュー作家やパフォーマーたちがいた。彼がいくつかのシュールなスケッチ(そのうちの一つは今では古典となった、不首尾なカミカゼパイロットの話)を書いたケンブリッジ・フットライツ・レヴューを、ラジオ軽演芸部門の若手プロデューサーらと表敬訪問したのである。後に私はこの舞台のラジオ版を制作することになった。
 そのような訳で、私はBBC界隈で何度となくダグラスの姿を見かけるようになった。彼のコメディの分野での潜在能力は分かっていたが、同時に彼が自分の非凡な才能を活かせる場所を見つけられずフラストレーションを募らせていることにも気付いていた。その頃のラジオのコメディは厳密に階層化されていた。スケッチとは導入部と中心部とオチできっちり構成されるものであり、そしてそのようなフォーマットは、ダグラスのような広範で貪欲な知的好奇心の持ち主には不向きだった。
 当時、私は『ウィークエンディング』という時事問題を取り扱うコメディ番組も制作していて、彼にその番組に寄稿するよう頼んだことがある。が、番組と作家の間の齟齬たるや、かつて類を見ないほどに壮大だった。ダグラスのような頭脳には、マーガレット・サッチャーに関する30秒程度の長さのおもしろネタをささっと書き上げるなどということはおよそ不可能なのだ。The Burkiss Way という、やはり私が制作していた別の番組では彼の作品をいくつか採用したが、こちらはアダムスのスタイルに近かった。が、この番組にはデイヴィッド・レンウィックとアンドリュー・マーシャルというメイン作家(後に二人ともテレビのコメディに移って素晴らしいキャリアを築くことになる)が番組を作り出していたから、そういう意味では外部の作家に介入の余地はほとんどなかった。
 とは言え、ダグラス・アダムスの秘められたままの潜在能力については私も気になっていたので、自分の番組を作れるとしたら何か思いつくアイディアのようなものはないかと彼に尋ねてみた。1977年2月18日金曜日、日本食レストランでのランチの席で、彼は私に三つのアイディアを出してきた。私は、一番有望そうなのは君が『銀河ヒッチハイク・ガイド』と名づけたSFコメディだね、パイロット版の制作を許可してくれるよう軽演芸部門の上司たちに話してみるよ、と言った。後のことは、よく言われるところの、歴史である(ちなみに、ダグラスも私も、ボツになった他の二つのアイディアがどんなものだったか思い出すことができない)。
 そして、1977年6月28日火曜日、ロワー・リージェント・ストリートのパリス・スタジオにて、『銀河ヒッチハイク・ガイド』のパイロット版を録音した。これが、私が制作した最初で最後のエピソードになる。続きを作りたくなかったからではなくて、ちょうどその時期、ロンドン・ウィークエンド・テレビジョンに移って新しい仕事をすることになっていたからだ。それに、シリーズの続きを私がら託すことができたのは、まさにうってつけの人物だった――ジェフリー・パーキンス。すぐれたコメディのプロデューサーであり、ダグラス同様、彼の死もあまりに早すぎた。
 7月12日、私は直近の上司たちに編集済みのパイロット版の録音を聴かせた。三人の上司は、丸々一時間もの間、石のように黙りこくっていた。再生が終わると、軽演芸部門のトップ、コン・マホーニーが、今自分が聴いたものがこの部門で通常作られるものとはかなり異なっていることを確認した上で、私に質問した。「サイモン、これはおもしろいのかね?」ええ、おもしろいですよ、と私が保証すると、その瞬間から彼はこのプロジェクトを全面的にサポートしてくれるようになった。
 そう、このパイロット版がすべての始まりであり、やがて『銀河ヒッチハイク・ガイド』は出版業界で国際的なセンセーションを巻き起こすこととなる。そして、今あなたが手にしているのは、「5作の三部作」のうちの3作目、『宇宙クリケット大戦争』だ。
 この本には、アダムスの文章のトレードマークとも言うべき、英語という言語が持つ可能性を引き出すことへの純粋な喜びが溢れている。時として、その効果はとてもシンプルだ。たとえば、空飛ぶパーティのくだり。'It tried to right itself and wronged itself instead.'(註1)。他のイメージはもっと複雑だが、常に簡潔だ。北欧神話の神トールについての描写をみてみよう。'He expanded his chest to make it totally clear that here was the sort of man you only dare to cross if you had a team of Sherpas with you.' (註2)
 さらに、ダグラスが作り出した言葉もある。マットレスが鬱病ロボットのマーヴィンと会話しようとする場面には、'flolloped' だの 'globbered' だの 'vollued' といった言葉が出てくるが、これらはルイス・キャロルの『ジャバウォーキー』に入っていたとしても遜色ない。
 ダグラスは、私がこれまで会ったことのある人の中でも、もっともオリジナルな頭脳を持っていた。彼には、まったく異なるもの同士を結びつけることのできる、独特の才能があった。『銀河ヒッチハイク・ガイド』の世界では、飲んだくれのパーティはいつまでも空中をさまよい、新しい数学理論はレストランにおける人間の行動に基づくことになる。
 『宇宙クリケット大戦争』は、ダグラスが書いた中では一番プロットらしいプロットを持つ作品である。本人はすんなりとは認めないだろうが、彼はプロットを立てるのが下手だったし、この作品のプロットも良いとは言えない。でも、それはたいしたことではない。プロット目当てでダグラス・アダムスを読む人はいない、それならレイモンド・チャンドラーを読めばいいのだ。文章の良さとか豊かな想像力で創り出された世界とか、そういうものが目当てならどちらの作家を読んでもいいが。
 それでは、この本をお楽しみください。ダグラスの執筆速度は恐ろしいまでに遅かったけれど、出来上がったものはいつだって待つに値するものだった。そうそう、『宇宙クリケット大戦争』にはもう一つ、非常に珍しい特徴がある。この本はアメリカでもヒットした、数少ないクリケット関連本なのだ。

(註1)
風見訳 「姿勢を正そうとし、かえって悪化させた」(p. 204)
安原訳 「体勢を立て直そうとしたが逆に立てちがい」(p. 224)

(註2)
風見訳 「胸をふくらませて、たとえシェルパの一団をつれてきたって、この胸を乗り越えることはできないぞ、と誇示した。」(p. 207)
安原訳 「胸を突き出し、一点の疑問も残さずはっきり示した――ここにいるのは、やすやすと征服できるような男ではない。エベレストを征服したヒラリー卿でも、シェルパの大集団を雇いでもしないかぎりとうてい乗り込えることはできないだろう。」(p. 227)


ニール・ゲイマン 『さようなら、いままで魚をありがとう』 パン・ブックス

 これからお読みになる方へ: 前三部作を読み終わって、これから初めてこの小説を読もうとしているのなら、この序文は飛ばして本文にお進みください。序文には、本文の内容に関する内容が書かれています。ネタバレが含まれています。どうか先に小説のほうを読んでください。
 読み終えてあなたが戻ってくるまで、私はここで待っていますから。
 いや、そうじゃないな。
 アスタリスクをつけておきます。本文を読み終えたら、アスタリスクから先のところでもう一度お会いしましょう。
 
 * * *
 
 ダグラス・アダムスは背が高かった。彼はとても頭が良かった。私はこれまで天才と呼ぶにふさわしい人に何人か会ったことがあるが、彼もその一人だと言いたい。彼は欲求不満のパフォーマーであり、とびきりの説明上手であり、話芸の達人であり、ものごとに熱中する人でもあった。驚異的なコミック作家で、丹念に文章を紡ぎ出しては、読者の世界観をひっくり返したり、複雑で難しい問題を適切なメタファーで要約してみせたりした。また、サイエンス・フィクションの装いに、深みのある社会的考察や世界を一新させるような健全なユーモアのセンスを融合させたりもした。コンピュータが好きで、壇上に立ってスピーチするのがものすごく巧かった。ベストセラー作家だった。腕のいいギタリストで、世界中を飛び回る旅行者で、環境保護活動家で、素晴らしいパーティを開催し、グルメでもあった。
 だが彼は、小説家ではなかった。こんなにたくさん書いて売れて、なおかつこんなに評価が高い作家なのに、それってヘンじゃないかと思われるかもしれない。でも、これこそ彼の小説が一風変わっている理由だと私は確信している。
 『さようなら、いままで魚をありがとう』は、ダグラスがゼロから小説を書こうとした、初めての試みだった。
 いろいろな意味で、この作品はある種の実験として見ることができる。宇宙規模の大騒動だった『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズの最初の3冊と、地球レベルの冒険にとどまったダーク・ジェントリーの中間に位置する、普通の小説。というか、この作品はそれまでのダグラスの作品と違って、彼の創作意欲が最高潮だった、『銀河ヒッチハイク・ガイド』のラジオ・ドラマ制作に始まり『ドクター・フー』の脚本編集者を務め終えるまでの期間に書かれたものを土台としていないのだ。彼の最初の2冊の小説、『銀河ヒッチハイク・ガイド』と『宇宙の果てのレストラン』にははっきりしたベースがあって、ダグラスによる、そして後期のシリーズではダグラスおよびジョン・ロイドの共作による、BBCラジオ4のオリジナル『銀河ヒッチハイク・ガイド』ラジオ・ドラマの脚本に基づいていた。3作目の『宇宙クリケット大戦争』は、ダグラスが書いてボツになった映画版『ドクター・フー』のストーリー、'Doctor Who and Krikkitmen' に拠る。その次の小説 Dirk Gently's Holistic Detective Agency は、ダグラスの製作されずに終わった『ドクター・フー』のエピソード 'Shada' を(実際に制作された 'City of Death' のアイディアを少々追加して)翻案したものだった。
 最初の本を書いた時、ダグラスは無名の若者だったし、本も最初からペーパーバックで出版されている。だが4作目は、ダグラスにとっては初めてハードカバーで出版されることになった。ベストセラー作家の仲間入りを果たしたものの、自分でも誇りに思えるような小説はまだ書いていなかった。そもそも彼は小説家ではなかった、というのも一因かもしれないが。
 さて、新作の執筆に向けて多額の前金を受け取ったからには、書かないでは済まない。彼の会計士は金の大半を横領し、しかるのち自殺した。ダグラス・アダムスは、ハリウッドでの『銀河ヒッチハイク・ガイド』映画化実現に向けて第一回目の失敗したところだった。丸一年もの間、現地で生活して映画の草案を作成し、不愉快な時間を過ごし、不可解な気持ちを抱え少しばかり傷ついて、イズリントンのアップ・ストリートから少し入ったところにある、少し改築されたが懐かしの我が家へと戻った。そこで彼は、次第にプレッシャーを感じるようになり、『さようなら、いままで魚をありがとう』の執筆を先延ばしするようになる。
 出版元のパン・ブックスも、1984年当初には事態に気づいて執筆の催促をするようになるが、本はほとんど書かれていなかったばかりか、プロットすらろくに出来上がっていなかった。最初に出た本の表紙には、レンズで覗いたような感じでセイウチが描かれているが、これはダグラスが作品の中にセイウチを出す予定だと言ったからだった。
 本書に、セイウチは出てこないが。
 本の出版期日が迫り、もはや締め切りを延ばす猶予はないという時点で、出版社のソニー・メータはホテルのスイートルームを取り、ダグラスをその部屋の中に軟禁状態にして、書き上げるごとにその場で編集者がページをチェックした、というのはこの作品にまつわる有名な話である。本を書くにしては奇妙なやり方だし、ダグラス自身、作品の欠点を指摘された時の言い訳にしていた。
 それでも、ダグラスはこの本が出版された時、とても誇らしく思っていた。私は、その時の様子を今でも覚えている。
 ダグラス・アダムスはアメリカからイズリントンに戻ったばかりだったが、『さようなら、いままで魚をありがとう』は南カリフォルニアが舞台ではない。つまり、ダグラスにとってのアウター・スペースも南カリフォルニア体験も、共に極端にカリフォルニア的である。ロック・スターがプールサイドで『言語・真理・論理』を読むホテルも、フォード・プリーフェクトがアメリカン・エキスプレス・カードでの支払いを断られるバーも、どちらも銀河の彼方にあるようなものではないし、金持ちのために特別なサービスをしてくれる売春婦ならどんな世界にも必ず一人はいるものだ。
 アーサー・デントは、これまでのシリーズでは単純なキャラクターで、不可能なこと、往々にして無限に不可能なことに出会してびっくりするために存在しているようなものだったが、もっと重要味を帯び、ダグラス本人に似てきた。アメリカから帰国したダグラスの姿は、時空を超えてヒッチハイクで壊されてなくなったはずの地球に戻ってきたアーサー・デントと呼応しているし、アーサー自身、自宅を留守にしていたのはアメリカに行っていたからだと語ってもいる。
 社会風刺家だとみなされているような作家にとっては、ベストセラーシリーズの第一作目の冒頭でいきなり地球を破壊してしまうのは問題ありだと思われるかもしれない。有利な点としては、これで気兼ねなく無限の宇宙を探検できる。不利な点は、観察したことをユーモラスに表現する作家(obsevational humourist)にとっては、具体的な対象について書きたいと思っても制限がかかることで、ダグラスは小説家ではなかったかもしれないが、間違いなく観察したことをユーモラスに表現する作家ではあった。
 とは言え、本書の冒頭で地球が復活するのにはもう一つ別の理由があると私は思う。
 好き嫌いは別として、実際この本が出た時には好きだという人も嫌いだという人もいたのだが、とにかく『さようなら、いままで魚をありがとう』はラブ・ストーリーであり、ラブ・ストーリーにするためには地球を戻す必要があった。派手な設定の底にある、アーサーとフェンチャーチの尋常ならざる出会い方や愛や骨折りこそが、この本の真の主題である。
 年齢を重ねるにつれ、本の読み方も変わる。若い時分に、私はダグラス・アダムスと『銀河ヒッチハイク・ガイド』に関する本を書いたが、その中で第25章のぎこちなさと、ダグラスの修辞的な問いかけについて取り上げた。  

「(アーサー・デントは)なんの情熱もないのか。早い話、こいつはセックスをしないのか」
 その答えを知りたい人は、このまま続きを読んでいただきたい。そうでない人は、途中は飛ばして最終章を読もう。面白いし、マーヴィンも出てくるから。(p. 185)  

 当時私はこの文章を、ダグラスの軽蔑心と読者に対する不満の表明として受け止め、決まりの悪い思いをした。四半世紀が過ぎて改めて読み返してみると、これらの文章は不安からくる空威張りように読めた。まるで執筆が自分の手に負えなくなることを恐れて、あらかじめ批評家や読者に言い訳しようとしているかのように。今でも思うのだが、もし、書き直したり、考え直したり、修正したりする時間があったなら、こんなヘンな形で第四の壁を乗り越えようとしたり、作者と読者の間で協定を結ぼうとしたりすることはなかったのではないだろうか。
 ホテルの部屋に缶詰にされ、隣の部屋でソニー・メータがビデオを観ながら見張っているような状況でなければ、もっと良い本が書けただろうとは私は思わない。結局のところ、『さようなら、いままで魚をありがとう』に前後きっちりと編み込まれたプロットがないことも、作品の魅力の一部だからだ。ある意味シュールリアリストのように、調査に時間を費やしたり再考したり熟考したりしなかったからこそ、作者の思考がそのまま作品になった。登場人物は、夢のように現れては消える。現実ははかない。小説は一つの輪を描く。その中心には、カップルが雲の中で裸で愛し合い、空を飛びながら魔法のような完璧なセックスをする、ほとんど詩のようなシーンがある。
 『さようなら、いままで魚をありがとう』は、表面的な優雅さの下に、とびきりシンプルで、簡単で、そしてもっとも伝統的なプロットを持っている。少年が少女と出会い、少年が少女を見失い、少年が少女を発見し、雲の中で愛し合い、被造物への神の最後のメッセージを探すために旅立つのだ。結局のところ、最初から最後まで陰気で憂鬱な気分で満ち満ちていて、宇宙は邪悪でなかったとしてもひねくれている、という内容の本にしては、『さようなら、いままで魚をありがとう』はえらく楽観的だったりもする。たとえば第18章には、『銀河ヒッチハイク・ガイド』の世界ではこれまで見られなかったようなくだりが誇らしげに書かれている。あっという間に消えてしまい、うっかり見逃しがちであるけれど、でも確かにそこに存在しているのは、「喜び」だ。  

 アーサーはこのとき初めて知った。生命は声を持ち、その声で語りかけている。その声は、人を悩ましてやまない生についての疑問に答えてくれる。その声を意識したことはなかったし、その声音を聞き分けられたこともなかったが、いまはちがう。その声はいま、かつて彼に語ったことのない言葉を語っていた――「然り」と。(p. 131)


ダーク・マッグス 『ほとんど無害』 パン・ブックス

 これは、素晴らしくも恐ろしい本である。素晴らしいというのは、他のどの作品にもまして、ダグラス独自のユーモアと吹き荒れる妄想に満ちているから。恐ろしいというのは、壮大かつ究極のフィナーレを迎えるから。
 他の作家だったら、『銀河ヒッチハイク・ガイド』の登場人物たちをめでたく再集合させて、続編執筆の余地を残しておくだろう。そうすれば、アーサーとフォードとその仲間たちを次なる愉快な冒険の旅に送り出すことができるし、彼らを無事に(どこへなりと)帰還させ、(自動栄養飲料合成機が出したものではない)お茶を飲ませることもできる。
 ダグラスが『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズの新作を期待する周囲の声を意識しすぎたあまり、書くこと自体が書く内容に負けず劣らずドラマチックなものとなってしまった。それでも、彼は自作をお約束の型にはめ込むことはできなかった。たとえその型が、かつて自分が考案したものだったとしてもだ。勿論、実現せずに(あるいは実現一歩手前で)消えてしまったプロジェクトから、出来の良いアイディアを拾い出してリサイクルするのは別だけれど――不採用になった 'Doctor Who and Krikkitmen' のアイディアが『宇宙クリケット大戦争』のストーリーの核となったり、 'Shada'Dirk Gently's Holistic Detective Agency という迷宮世界へと変貌を遂げたように。
 『ほとんど無害』は、果敢な新機軸である。ダグラスは決意を持って、登場人物と読者に対し、入り組んだ並行宇宙のようなプロットに挑戦した。未知なる先へと続くジェットコースターに乗り、熱狂と恐怖の旅をするようなものだ。じっと座って書き続けていられなかったのも無理はない。
 締め切りを守るためにホテルの部屋に閉じ込められたというダグラスの話は、実際のところはそんなにおっかないものではなく、せいぜいディナーパーティの席上で語られる逸話レベルのものだった。ノンストップで休みなしというのは疲れる行程だが、本書には未来を予見する驚異的なまでの想像力がある。『ガイド』第二号はおぞましいが、人工知能と金銭づくの企業とが一緒になった時に起こるであろうことへの警告となっていないだろうか。僕らはふと気がつくと、ダグラスが予想した、チェックボックスに印をつけ、目的のためには手段を選ばず、「喜びを分かちあいましょう」(安原訳『宇宙の果てのレストラン』、p. 17)な監視社会に生きている。
 本書は、現代的かつおぞましい二つのテーマに刺激された、創造力に富んだ精神のスナップショットとして読むこともできる。そしてそのテーマとは、不滅と破滅。
 本書の執筆に至るまでの数年間で、科学と芸術の齟齬についてダグラスが漠然と抱いていた関心は、母なる惑星における生命の危機に目を向けたことでより深く、永続的な関心へと変わっていった。彼の『最後の光景』プロジェクト―地球上で絶滅の危機にある生物を追いかけて観察する――は、ちょっとした気分転換どころか、彼の良心を掌握し彼の想像力に火をつける課題となる。
 『ほとんど無害』では、これらのテーマが愛すべきお馴染みの登場人物たちによって展開される。この本で危機に直面するのはある特定の生命体だけではない。我々が日々生活し体験しているこの宇宙で起こるのと同じように、無意識の力が盲目的に働き、その結果たるや完璧に論理的、かつ感傷を差し挟まない。蝶々のはばたきだろうが、隕石と巨大宇宙船との衝突だろうが、最初に倒れた一枚のドミノが無秩序なパターンを引き起こす。それらは、おぞましいくらい合理的に交差するのだ。
 ダグラスは読者の安全圏の外でも健闘していて、登場人物同士のやり取りや、日常をシュールなものに変えてしまう彼独自の観察眼、ヌマブタや防犯ロボットが出てくるドタバタ喜劇さながらの場面にはつい笑ってしまう。
 そして、物語のクライマックスに辿り着いたと思ったら、唐突で衝撃的な終わりを迎えることになる。気持ちがへこんだとしても当然だ。こういう時は、コナン・ドイルだってシャーロック・ホームズをライヘンバッハの滝に投げ落としたけれど、結局のところ情と銀行の支店長に屈して復活させたじゃないかと思うしかない。
 ダグラスが、『銀河ヒッチハイク・ガイド』の原点に戻ってラジオ・ドラマでこのサーガを完成させたい、と僕たちに申し出てきた時―これがすべての始まりだったのだが―、この仕事に決着をつけるという彼の選択に興奮すると同時に、彼が一体どういうエンディングを望んでいるのかにもすごく興味があった。小説3冊分をラジオ・ドラマ化する、まずは叙事詩的な広がりを持つ『宇宙クリケット大戦争』―彼は、'The Tertiary Phase'(第3シリーズ)と命名した―から始めることにし、『ほとんど無害』については詳しく話し合わなかったけれど、「ハッピーエンドの」『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズを書きたいとは言っていた。
 実のところ、この物語のラストで起こる思いがけない展開は、皮肉なものかもしれないが、本当の破滅とは言えないのではないか。ダグラスは、僕らが、二十日鼠と人間とヴォゴン人の三つ巴よりももっと大きなものがあることに気付くのを、今でも静かに待っている。その証拠に、『ガイド』第二号計画を管理遂行するための前提を考えれば、アーサーやフォードやその仲間たちに関する新作を書く余地はある。ダグラスにそれを書く時間がなかったということが、本当の悲劇なのだ。
 ダグラスがアーサーのさらなる冒険をほのめかしていたこと、それも彼の死で幕切れとなってしまったことが、ラジオ・ドラマ版『ほとんど無害』―'The Quintessential Phase'(第5シリーズ)―を複数のハッピー・エンディングからなる最終章で終わらせた理由である。その中では、これまでのアーサーの人生に立ち戻っている。その結果、このラジオ・ドラマを最後まで聴いた人には、もう少し心穏やかな解決策を提示できた。ダグラスが残した物語の結末部分もちゃんとあるから、そこから先は聴きたくないという人にはそこで止めてもらうこともできる。
 ともあれ。僕らが『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズの登場人物の未来についてどう考えるかとは関係なく、本書のエンディングこそがこの問題についてダグラスが最後に出版した文章であり、それはそれで、作家として自分が創り出した世界に対してなしうる、もっとも勇気ある行為ではないか。

 

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