アダムスは、『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズとして5冊の小説を上梓した。
The Hitch Hiker's Guide to the Galaxy. 1979(『銀河ヒッチハイク・ガイド』)
The Restaurant at the End of the Universe. 1980(『宇宙の果てのレストラン』)
Life, the Universe and Everything. 1982(『宇宙クリケット大戦争』)
So Long, and Thanks for All the Fish. 1984 (『さようなら、いままで魚をありがとう』)
Mostly Harmless. 1992(『ほとんど無害』)
この5作の他に、"Young Zaphod Plays It Safe"(1986)という短篇もある。これは、コミック・リリーフというチャリティ活動の一環として、アダムスが編集した The Utterly Utterly Merry Comic Relief Christmas Book という雑誌の中に掲載された(その日本語訳は2006年に河出書房新社から出版された『宇宙クリケット大戦争』に「若きゼイフォードの安全第一」のタイトルで収録されている)。
ちなみにアダムスは、"Young Zaphod" の他にも同じの雑誌の中で、テリー・ジョーンズと共作"A
Christmas Fairly Story" や、グレアム・チャップマンと共同製作した(そして一回限りで打ち切られた)テレビ番組
Out of Tree のスケッチを基にした"The Private Life of Genghis
Khan" という短篇小説を書いている。これら2編は『銀河ヒッチハイク・ガイド』とは関係ないが、マイケル・フォアマンのカラーイラスト付きで、このイラストもなかなかかわいい。
とは言え、15年も前に出された雑誌である。今となっては手に入れにくいことこの上ない。しかし"Young Zaphod" に限って言えば、ニューヨークのWing Books から出ている『銀河ヒッチハイク・ガイド』の完全版 (The Ultimate Hitchhiker's Guide, 1996) にはこの短篇も収録されているので読めないこともない。この分厚い本には、シリーズ長篇5册と短篇1作、さらに序文 "A Guide to The Guide: Some unhelpful remarks from the author" がもれなく収録されている。
2009年10月12日、小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』発売から30周年を記念して、オーエン・コルファーによる『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズ6作目、And Another Thing... が出版された。これはアダムスの未完原稿をまとめたものではなく、コルファーが新たに書き下ろした『ほとんど無害』の続編で、2010年5月10日には『新 銀河ヒッチハイク・ガイド』のタイトルで河出文庫から日本語訳も出版されている。詳しくはこちらへ。
また、このシリーズ6作目の出版にさきがけて、2009年9月1日にはこれまでの計5作品もパン・ブックスから新たな装丁で出版された。カバーイラストが刷新されるのみならず、各巻に新しく序文が付けられ、『銀河ヒッチハイク・ガイド』をラッセル・T・デイヴィス、『宇宙の果てのレストラン』をテリー・ジョーンズ、『宇宙クリケット大戦争』をサイモン・ブレット、『さようなら、いままで魚をありがとう』をニール・ゲイマン、そして『ほとんど無害』にダーク・マッグスが担当している。
また、パン・マクミラン・グループの傘下のマクミラン・チルドレン・ブックスからも新装版が出版された。こちらは、パン・ブックスより少し安く、第1作目にだけオーエン・コルファーによる序文が付いている。
30周年記念版ペーパーバックの序文については、こちらへ。
The Hitch Hiker's Guide to the Galaxy 『銀河ヒッチハイク・ガイド』
アダムスとジョン・ロイドの二人が小説版『銀河ヒッチハイク・ガイド』をイギリスの大手ペーパーバック出版社、パン・ブックスから出すことに決めたのは、編集者ニック・ウェブに好感を抱いたからだったが、彼はまもなく退社してしまい、実際の編集に携わることはなかった。
ことほどさように、当初の予定では小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』はアダムスとロイドの共著になるはずだった。それはアダムスの希望でもあった。ラジオ・ドラマの第5・6話を共同執筆していることだし、何よりアダムスはこれまで書いたことのない小説を一人で仕上げる自信がなかった。また、いい加減ラジオの仕事に飽きを感じていたロイドにとってもこの話は渡りに船だった。二人は、一緒に小説を執筆するためにBBCに休暇を申請し、ギリシャのホテルに予約まで入れる。しかし、結局アダムスは独力で書き上げる決心をし、その旨をロイドに手紙で伝えた。
この突然の申し出に、ロイドは激しいショックを受けたという。「ある晩、僕らの会話がおかしな方向に流れていった。ダグラスは僕に『どうして自分の本を書かないんだい?』『でも僕らは一緒に『銀河ヒッチハイク・ガイド』を書くんだろ?』。すると彼は『君は、自分の本を書いたほうがいいと思う』。
次の日、僕はアダムスからの手紙を受け取った。『いいにくいけれど、僕はこの仕事を自分だけでやりたいと思う。迷ったけれど、自分だけで、一人でやりたいんだ』――それはもう、ファンタスティックなまでにショックだった。まるで、底が抜けて全人生が転がり落ちてしまったようなものさ。僕らは随分長い間一緒に仕事をしていたというのに、こんな手紙が来るなんてまったく信じられなかった。そもそも彼が手紙を書いたということ自体からして訳がわからない、だって僕らは毎晩一緒にパブに行っていたし、おまけに当時アダムスはラジオのプロデューサーの仕事をしていて、僕らは互いに6インチと離れていないオフィスで働いたんだから。
今にして思えば、自分でもどうしてあんな反応をしたのか分からない。あの仕事をダグラスが一人でやるのは至極当然のことだし、一緒に書いたほうがうまくいったはずだとも思わない。本当だよ。
でも当時は、ショックだった。僕は丸2日間ダグラスと口をきかず、彼を契約不履行で訴えられないものか弁護士と相談しようかと真剣に考えた。で、数日後彼と街で会った時、「調子はどう?」と訊かれたので、「話は僕の弁護士からきいてくれないか」と言ったんだ」(Gaiman, p. 46-47)
それが喧嘩の始まりだった。ロイドの言葉に怒ったアダムスが、今度は逆にエージェントを通じて『銀河ヒッチハイク・ガイド』の名前を使うごとにロイドに10パーセントの著作権料を支払うと通告することで、二人の争いは頂点に達する。これにはロイドはおろか、アダムスのエージェントや実の母親までがやり過ぎたと考え、二人の関係ももはやこれまでかと思われたが、ある日偶然出会った二人はその場でお互いの誤解を解き、あっさり仲直りした。そして著作権問題は、最終的にロイドが小説の前金1500ポンドの半額を受け取る形で決着する。
アダムスが独力で書くことになった以上、ギリシャのホテルに予約したロイドの部屋は用無しだったが、仲直りしたロイドは一緒にギリシャに行き、アダムスに助言役を務めた。実際、アダムスが最初に書き上げた第1章を、ロイドはまるでヴォネガットの小説みたいだと言って書き直させたという。また、この時のギリシャ旅行がきっかけとなり、後にアダムスとロイドの本当の共著、『新・地名辞典』が誕生することになった。
とは言え、ギリシャから戻っても、小説はまだ完成していなかった。アダムスの場合は毎度のことだが、原稿は遅れに遅れた。アダムスは言う。「パン・ブックスから『銀河ヒッチハイク・ガイド』の脚本を小説にしないかといわれた時、二通りのやり方があると思った。雇われ仕事のノベライザーがよくやるように、台詞の終わりに「彼は言った」「彼女は言った」(僕の本の場合は「それは言った」になるのかな)を適当に挟み込んでいくだけか、あるいはちゃんと取り組むか。僕は、自分がちゃんと取り組むことができるかどうかやってみることにした」(Locher, p. 15)。
とは言え、たび重なる締め切りオーバーにしびれを切らせた出版社は、アダムスに今書いているページをとにかく書き上げるように言った。アダムスが書き上げると、出版社はその時までにアダムスが書き上げていた原稿を持ち帰り、そのまま出版することにした。小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』がラジオ・ドラマ第4話分までの内容しかなく、終わり方にやや唐突さが残るのはそうした理由による。
こうして、小説版『銀河ヒッチハイク・ガイド』は1979年10月の第2週にパン・ブックスよりペーパーバックで出版された。初版は6万部。当時パン・ブックスで扱われたSF小説の初版は1万部前後というから、SFとしては破格の待遇だったことが分かる。そして、その読みは正しかった。
発売と同時に『銀河ヒッチハイク・ガイド』はベストセラー・リストの1位に輝いた。その後も1位の座に君臨し続け、発売開始から3ヶ月で25万部を突破する。そして1984年1月には100万部突破、アダムスはパン・ブックスからゴールデン・パン・アウォードを受賞した。1980年10月、小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』はアメリカでも出版された。また、その10年後には10周年記念の特別版としてThe Hitchhiker's Guide to the Galaxy:10th anniversary edition も出版されている。勿論、記念版でも小説の中身は同じだが、アダムスの600語ばかりの序文が添えられている。
なお、1994年9月に発売された、豪華ビジュアル・ブック版『銀河ヒッチハイク・ガイド』についてはこちらへ。
The Restaurant at the End of the Universe 『宇宙の果てのレストラン』
『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズ全5冊の小説作品の中で、アダムスは2冊目の『宇宙の果てのレストラン』が一番のお気に入りだとか。内容的にはラジオ・ドラマの第5・6話のプロットを中心として、第7話以降のアイディアやエピソードを随所に挿入して書き上げられた。
前作『銀河ヒッチハイク・ガイド』が大ベストセラーとなり、かつ(締め切りの都合で)唐突なエンディングとなったからには、続編出版の話が直ちに企画され、またアダムスが快諾したであろうことは想像に難くない。が、この時期のアダムスは、1980年1月までラジオ・ドラマの第2シーズンや『ドクター・フー』の脚本に時間をとられ、それが終わったかと思うと今度はテレビ・ドラマ版の企画が持ち上がるという有様。ただでさえ遅筆家のアダムスの原稿は遅れに遅れた。編集者のジャクリーヌ・グレアムいわく、第1作の時と同じ轍を踏まぬよう、最初からアダムスが締め切りに間に合わないことを予想してスケジュールを立てたのに、それでも追いつかないほどの遅れたとのこと。
当時、アダムスは、ケンブリッジ大学のフットライツで一緒だったコメディ・ライターのジョン・カンターとフラットを共有しており、執筆の最中でもカンター宛にひっきりなしにかかってくる電話の呼び出し音に悩まされていた。そこでジャクリーヌ・グレアムは、アダムスのためにロンドンのイズリントンにフラットを借り、そこにアダムスを引っ越しさせる。要するに体よくカンヅメ状態にさせられた訳だ。こうして丸一ヶ月の隔離生活の後、アダムスはようやく原稿を完成させることができた。
当時を振り返って、アダムスはこう語る。「ものすごい体験だったよ。ときどき、本当に気が狂うかと思った……「ついにやった! とうとう期限内に原稿を書き上げたぞ!」と思った瞬間のことは、今でも覚えている。ちょうどポール・サイモンのアルバム「ワン・トニック・ポニー」が発売された時で、僕はそのアルバム1枚だけしか持っていなかった。で、タイプライターの前に座っている時以外はずっとウォークマンでそれを聴き続けていたんだが、このアルバムは僕がその時小説を書くのに必要だった、狂気と催眠状態を生み出してくれた」(Gaiman, p. 89)
『宇宙の果てのレストラン』の献辞に、サイモン・ブレットやジョン・ロイド、ジェフリー・パーキンス、ジャクリーヌ・グレアムといった面々と共に、ポール・サイモンの名前が挙がっているのはそうした理由からである。
1980年10月にパン・ブックスよりペーパーバックで出版され、批評も売り上げも総じて好評だった。1988年4月には100万部を突破し、アダムスは『銀河ヒッチハイク・ガイド』に続いて二度目となる、ゴールデン・パン・アウォードを受賞する。
Life, the Universe and Everything 『宇宙クリケット大戦争』
『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズ3作目にあたるこの小説は、アダムスが以前テレビ・ドラマ『ドクター・フー』用に書いたもののボツになった、「ドクター・フーとクリキットマン」のストーリー・プロットを転用したものである。
そのため、この小説は前2作とはかなり趣が異なっている。その最大の理由は、今回はまず最初にストーリー・プロットありきで書かれたせいだろう。これまでの「一行先は闇」的な、エピソードとエピソードを綱渡りのような文章でつないでいくスタイルはすっかり影をひそめ、逆にプロットを維持するためにキャラクターやエピソードが強引にねじこまれている。とりわけ、他に適当な登場人物がいないからと、ドクター役に抜擢されたスラーティバートファストは、アダムス自身も認める通り、ミスキャストもいいところだった。
余談ながら、この時期のアダムスはどうも安定した精神状態で執筆に専念していたとは言えないようである。前年のテレビ・ドラマ製作は不本意な結果に終わり、続編の製作も頓挫してしまい、おまけに私生活でもそれまで付き合っていたガールフレンドと別れてしまったらしい。事実関係はどうあれ、「人生を救ってくれるような楽しいことなど何も考えられなかった。崖から飛び降りでもしたい気分だったよ」と語るほどに、アダムスの受けた精神的ダメージは大きかった。
しかも、ようやく下書きの三分の一が完成した時点で、アメリカでの『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズ出版に向けての全米プロモーション・ツアーに丸一ヶ月近くも出かけなくてはならなくなった。なのに、アダムスは内心、これまでに書いた下書きももう一度最初から書き直す必要があると考えていた。
こうして、何度も何度も書き直された末に、『宇宙クリケット大戦争』は1982年8月にパン・ブックスよりペーパーバックで発売された。
が、この本に対する批評はどれも辛辣だった。「ここからさらに膨らませそうな、あるいは膨らましてほしくなるようなアイディアは、ほとんどない」(Brown, TLS)、「出来が悪すぎて、『銀河ヒッチハイク・ガイド』三部作の締めくくりとしては前2作とつりあわない」(Library Journal, 15 Oct. 1982)、とどめは「不必要な挿入句や自己パロディの痕跡からすると、どうやらアダムスは4作目に手を出さないだけの賢明さは持ち合わせているのだろう」(Gaiman, p. 101)。
アダムス自身によると、「『宇宙クリケット大戦争』には『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズの最良の部分と最悪の部分がある」(同, p. 97)とのこと。また、アグラジャグの場面と飛行の場面がアダムスのお気に入りだそうだが、その一方でアグラジャグのエピソードの結末についてはおざなりだったもと感じているらしい。そして、二度と『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズに手を染めるつもりはないと断言する。
『宇宙クリケット大戦争』は、確かに『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズの続編としては不出来である。だが、読んでいて楽しいアイディアはいくつかあるし、おまけにマーヴィンのファンなら嬉しくなる場面もたくさん盛り込まれている。シリーズのファンなら、読んで損はない――が、前2作の「続編」として読むと、(特にクリケットを知らないほとんどの日本人にとっては)期待外れになる恐れはある。続編というより「番外編」くらいの感覚で読むのがちょうどいいかもしれない。
なお、33章の次の「エピローグ:生命、宇宙そして万物」(p. 273)は、イギリス版では"Epilogue: Life, the Universe and Everything" (p. 151)だが、アメリカ版では "Chapter 34" (p. 213)となっている。
シリーズ4作目では、「破壊されなかったもう一つの地球」に戻ってきたアーサーが、「どうすれば世界が幸せで立派な場所になるか、ついに悟った」(『銀河ヒッチハイク・ガイド』、p. 6)あの少女と出会い、二人で「神の最後のメッセージ」を探す。
タイトルは、『銀河ヒッチハイク・ガイド』で地球が破壊される直前にイルカたちが人類に残した最後のメッセージ、「さようなら、魚をたくさんくれてありがとう」(pp. 203-204)に由来する。出版社やエージェントはこのタイトルに難色を示し、「神の最後のメッセージ」(God's Final Message to His Creation)にしてはと提案したが、アダムスとしては『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズのタイトルはあくまで最初の1冊目の中から選びたいと考えていた。(Gaiman, p. 116)それにしても、『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズの続編を書くつもりはない、と断言していたアダムスが、なぜ4作目に手を染めたのか?
アダムスのエージェントと出版社は、さらなる続編出版に意欲的だった。出せば売れること間違いなしのシリーズである。あとは、多額の前金を用意してアダムスがイエスと言うのを待つばかりだ。
アダムスが執筆を承諾した理由はいろいろあるだろうが、前年の1983年にロスアンジェルスに滞在し、『銀河ヒッチハイク・ガイド』の映画化に事実上失敗したことが遠因だったことは否めない。ハリウッドで思うにまかせない日々を過ごして帰国したアダムスには、また一から全く新しいことを始めるのではなく、古巣に戻って好きに書けばいい、というのは抗し難い誘惑だったはずだ。また、アダムスの頭の中では3作目の『宇宙クリケット大戦争』で明かさなかった「神の最後のメッセージ」の内容は既に決まっていて、それを明らかにしたいという気持ちもあった。おまけに、用意された前金は60万ポンドだった。
契約書にサインしたものの、この時期のアダムスは同時に『銀河ヒッチハイク・ガイド』のコンピュータ・ゲーム化の企画や、長期に亘るプロモーション・ツアーの仕事もあって、締め切りは何度も何度も何度も破られる羽目になった。出版社の宣伝で、シリーズ4作目のシノプシスやストーリーのアウトラインが発表されるが、それも発表されるたびに毎回すっかり変更する有様。結局、業を煮やした出版社は、約1ヶ月ばかりアダムスをハイド・パークに近い五つ星ホテル、ザ・バークレーにカンヅメにする。二つのベッドルームを持つ高級スイートルームが予約され、一つの部屋をアダムスが使用し、もう一つの部屋ではパン・ブックスの編集長、ソニー・メータ自らが、隣室で待機していたらしい。アダムスに許された外出は、一日二回、運動のためにハイド・パークをジョギングする時だけ、というから徹底している。(同、p. 121)
こうしてようやく完成した小説は、アダムスがそれまでに発表したどのシノプシスやアウトラインとも異なるものだった。イギリスで出版された初版の表紙に、小説にはまったく関係のないセイウチの写真が印刷されたのはそういういきさつによる。
発売の一ヶ月前、『さようなら、いままで魚をありがとう』の唯一のコピーをサー・クライヴ・シンクレアが1000ポンドで購入している。ただし、その1000ポンドはアダムスではなくグリーンピースに寄付、という形で落ち着いたが。
1984年11月、『さようなら、いままで魚をありがとう』は英米で同時に発売された。アダムスの作品としては、初版がハードカバーで出版された初めての本である。
ようやくファンの手元に届けられた新作は、しかし、従来のファンの期待を裏切るものだった。断片的にはさみこまれるジョークやエピソードの類はほとんど見あたらず、ザフォドやトリリアンといった、シリーズの主要キャラクターたちも出てこない。「ファンのいいなりにはならない」(Gaiman, p. 123)という気持ちは理解できなくもないが、続編執筆の契約書にサインしたのは誰でもないアダムス本人なのだ。それなのに、小説の途中でいきなり「興味のない人は最終章までとばしなさい。そこにマーヴィンが出てきますから」(p. 132)とまで書くのはいくら何でもやりすぎだろう。
批評も、良いものばかりではなかった。「言葉の使用の面でしばしば不注意であるばかりか、意図されたユーモアも不注意に残酷なものとなっている」(Tritel, p. 25)、「他の作品と比べて力強さがなくなり、おとなしくなった。プロットは直線的で、いささか鋭さにかける」(Snorb)。
とは言え、『さようなら、いままで魚をありがとう』は、他のシリーズと異なり、物語の大半が地球上で展開しているという点でとても興味深い。宇宙でのアーサーは、地球人代表であり、我々と同じ「普通の人」である。ところが、シリーズ4作目にして地球に戻ってきたアーサーは、8年も宇宙を放浪していた「普通じゃない人」である。主人公の立場が見事に反転するのだ。アダムスが書き進めるのに手こずったのも無理はない。
また、宇宙から地球に戻ったアーサーの姿は、ちょうど失意のロサンジェルスから古巣のロンドンに戻ったアダムスの姿とだぶって見える。実際、『さようなら、いままで魚をありがとう』にはロサンジェルスやニューヨークについてのコメントも登場する。また、フェンチャーチという新しいキャラクターは、かつてアダムスが付き合っていたサリー・エマソンという女性を彷彿とさせるところがあるらしい。アダムス本人が認めようと認めまいと、この作品はさまざまな意味で当時のアダムス本人の姿を露骨なまでに反映している。
「並行宇宙」をテーマに書かれた、シリーズ5作目。1992年10月に発売された。
アーサーは、神の最後のメッセージを見つけて地球に戻る途中、思いがけない事故でフェンチャーチと離ればなれになる。失意に沈むアーサーは、たどりついたある惑星でサンドイッチ屋を始め、ようやくささやかな心の平安を得た。が、そんなアーサーの目の前に、突然トリリアンがランダムという名前の少女を連れてやってくる。ランダムは、かつて金に困ったアーサーが売った精子を買ってトリリアンが作った子供だ、というのだ。
高名なジャーナリストとなったトリシア・マクミランは、「イズリントンで開かれたパーティで、宇宙人と名乗る男についていかなかった」ことを後悔している。フォードは、ヴォゴン人によって編集された「銀河ヒッチハイク・ガイド」二号を発見する。その表紙には、小さな親しみにくい文字で「パニクれ」と書かれていた。
この小説を読み進めていくうちに、このアーサーはあのアーサーなのか、このトリシア・マクミランはあのトリリアンなのか、この地球は一体どの地球なのか、次第に確信が持てなくなってくる。「こうならなかった世界」「こうなってもおかしくなかった世界」「こうだと思っていた世界」、一体どこからどこまでが一繋がりの世界なのか、どこから隣り合わせの別の世界に移ってしまったのか、それともすべては一つなのか?
決してわかりやすい小説ではないし、コメディの要素もほとんどない。だが、ある意味でこの作品は『銀河ヒッチハイク・ガイド』の集大成である。ラジオ・ドラマ、小説、テレビ・ドラマ、コンピュータ・ゲーム、(そしてついに未完成の)映画、あらゆるヴァージョンが同時に存在し、同じキャラクターであって同じキャラクターでなく、一つのストーリーなのに、エピソードの順番は入れ替わり、またいくつものエンディングを持つ、そんな『銀河ヒッチハイク・ガイド』において、「新作」とは、新しいストーリーの始まりではなく、また新たなるヴァージョンの誕生に他ならない。このような作品のありようこそ、まさしく「並行宇宙」そのものではないか。
『ほとんど無害』を読む時の混乱は、単にこの小説一冊だけではなく、既にいくつもの並行宇宙を抱える『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズならばこそ強烈に生じる。そのことを誰よりもよく分かっていた、というより次から次へと増幅していく『銀河ヒッチハイク・ガイド』の宇宙に誰よりも混乱していたはずのアダムスは、明らかに確信犯である。
だが、この小説は決して単なる混沌で終わっていない。かつて貧乏なヒッチハイカーだったアーサー/アダムスは、自分の意志で行き先を決められないがために、行き先を決めねばならない不自由さとは無縁だった。だが、人はいつまでも自由なヒッチハイカーではいられない。いつかは、定住することを受け入れなくてはならない。シリーズ4作目の『さようなら、いままで魚をありがとう』が、「定住する場所」を捜す物語だったとすれば、『ほとんど無害』は「定住する場所を探す」呪縛から解き放たれた物語でもある。自分の意志と無関係に生まれた娘と対峙して、愛情と責任を受け入れることを憶えたアーサーは大きく変わる。そして、それは間違いなく、この小説の発売直後に結婚することになったアダムス自身の心境の変化でもあったにちがいない。
And Another Thing... 『新 銀河ヒッチハイク・ガイド』
2008年9月17日、ペンギン・ブックスの公式ホームページで小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズ6作目の出版計画が発表された。
2001年に死去したアダムス本人に代わってこの続編を執筆することになったのは、ファンタジー小説『アルテミス・ファウル』シリーズの著者、オーエン・コルファー。コルファー自身、若い頃から『銀河ヒッチハイク・ガイド』のファンで、だからこそ出版社から続編を依頼された時に引き受けることにしたのだという。とは言え、アイルランド人の児童向けファンタジー作家である自分がアダムスの跡を継ぐことを、アダムスの未亡人であるジェーン・ベルソンが承諾しないのではないかと思ったそうだが、実はベルソンも娘のポリーも彼の小説のファンで、快く許可してくれたらしい。
アダムスの遺族がコルファーに好意的だったしても、アダムスのファンもそうだとは限らない。6作目出版の事実を知れば『銀河ヒッチハイク・ガイド』のファンたちが抗議の声を上げるのは火を見るより明らかだったが、その声の大きさはコルファーの予想を越えるものだった。And Another Thing... の出版に際してガーディアン紙に寄せた文章の中で、コルファーは『銀河ヒッチハイク・ガイド』の続編執筆を引き受けた当初、どうして周りの人から「勇気があるね」と言われるのか分からなかったと書いている。そして、後にその言葉の意味を痛感させられた、とも。
雑誌 SFX 2009年11月号に掲載されたインタビュー記事によると、コルファーとしては、「これはダグラス・アダムスの本ではない。誰にもダグラス・アダムスの代わりなんてできはしない。私に言わせれば、これは公式の二次創作("authorised fan fiction")だ」(p. 75)。同じような意味で、2008年12月31日付のタイムズ紙に掲載されたインタビュー記事では「究極の同人活動みたいなもの("more like the ultimate act of fandom")」という表現が使われていた。
アダムス本人が執筆しなかっただけのことはあって、6作目は2009年10月12日、予定通りのスケジュールで出版された。同時にサイモン・ジョーンズによるオーディオCDも発売されている。また、BBCラジオ4では発売日から10日間に亘ってスティーヴン・マンガンによる朗読を放送した。
果たして出版部数が出版社の期待通りだったかどうかは不明だが、各紙に掲載された批評記事は賛否両論だった。サンデー・タイムズ紙が「続編の唯一の取り柄は、オリジナルがどんなに良かったかを再認識させてくれること」とこき下ろす一方で、ガーディアン紙は「作者の死後に別の作家の手で書かれた続編としては、これまで読んだ中で一番の出来」と絶賛している。『新 銀河ヒッチハイク・ガイド』のより詳しい内容についてはこちらへ(ネタバレあり)。