ギリシア・イオニア諸島の一つで、北西に位置する島。アルバニアとの国境に近い。かつてイギリスやイタリアの統治下だったこともあってか、イギリスからの観光客が多く、人気のリゾート地である。
小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』の出版が決まり、当初ジョン・ロイドと共同執筆するつもりだったアダムスは、この島のヴィラを一ヶ月予約した。が、途中で気が変わって一人で書くことにしたため、二人は大喧嘩することになった――が、ともあれ仲直りして二人でコルフ島に行くことにする。彼らが借りたヴィラの近くにはサイモン・ブレットも滞在していて、結局執筆どころか単なる休暇となってしまい、島で書き上げたのは20ページかそこらだけだったとか(Hitchhiker, p. 133)。
また、この島でアダムスが始めた言葉遊びがきっかけで、後に『新・地名辞典』が誕生する。
大好きな都市はどこですか、という質問に対して、アダムスはイタリア・フィレンツェの名前を挙げた。ただし、あくまで自分が学生時代に訪ねた時の記憶の中にある、輝く太陽と安いワインと芸術品に溢れた空想上の「フィレンツェ」であって、現実のフィレンツェではない、とのこと。(The Salmon of Doubt, p. 42)
Great Barrier Reef グレート・バリア・リーフ
世界最大の珊瑚礁。この広大な珊瑚礁の南端にあるヘイマン島でのダイビング中に、アダムスは巨大なイトマキエイに会う。(The Salmon of Doubt, p. 47)
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アダムスは、ケンブリッジ大学に入学する前にイスタンブールへのヒッチハイク旅行を敢行した。その途中のインスブルックで、酔っぱらって野宿していた時に『銀河ヒッチハイク・ガイド』のアイディアを思い付いたというのは有名な話だが、M・J・シンプソンはアダムスの伝記の中でその定説に対する疑問を投げかけている。
アダムスは、ケンブリッジ大学に入学する前にイスタンブールへのヒッチハイク旅行を敢行した。何とか無事にイスタンブールまでたどり着いたものの、現地で食中毒になり、イギリスへ列車で強制送還される羽目に。
南フランス・ニースから電車で30分ほどの距離にある、小さな村。高級リゾート地として知られている。7月に開催されるジャズ・フェスティバルでも有名。
アダムスは、この地でThe Hitchhiker's Guide to the Galaxy:10th anniversary edition への序文を書いた。
ロサンゼルスでレンタカーを借りたが、そこは人が棄てた車を貸している業者だった。(『さようなら、いままで魚をありがとう』、p. 208)
『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズ4冊目で、アーサーとフェンチャーチは、ロンドンからロス・アンジェルスに飛び、レンタカーを借り、サンセット大通り沿いのホテルに宿泊し、マルホランド・ドライブを通ってハリウッド・ヒルから見下ろすロスの夜景を楽しむ。
この小説を書く前年、アダムスは映画版『銀河ヒッチハイク・ガイド』の脚本を書くためにロサンジェルスに長期滞在していた。『さようなら、いままで魚をありがとう』の後半で舞台がロスに移るのは、あきらかにこの時の体験が反映している。
フォードが書いた地球の記事は、『銀河ヒッチハイク・ガイド』の編集者によって大幅にカットされ、残ったのは「ほとんど無害」の2語だけだった。が、シリーズ4冊目の『さようなら、いままで魚をありがとう』では、なぜかボツになったはずの記事が採用され、『銀河ヒッチハイク・ガイド』に掲載されていた。
その記事によれば、ニューヨークに着いたエイリアンは、「どこに着陸してもいい。セントラル・パークでもどこでも、お好きなところにどうぞ。だれも気にしないし、気づきもしないだろう」(p.37)。
フォードのみならず、アダムス本人もニューヨークには思い入れがあったらしく、一時は London to New York: the Silly Route という本の執筆を企画したこともあった。が、それが企画倒れに終わったことは言うまでもない。
また、仕事でよく行くからホテルに泊まるより経済的だという理由で、セントラル・パーク南という最高の場所に建つビルの14階にある高級アパートを購入したこともある。同じビルには、サイモン・ジョーンズ夫妻も暮らしていた。しかし、結局アダムスも妻のジェーンもほとんどこのアパートを使うことはなく、高い管理費を払い続けるほうが不経済だということで数年後に売却された。
シドニー北部に位置する高級リゾート地。1988年末、アダムスはこの地でプール付きの大きな家を借り、クリスマスにはロンドンの友人たちを招待した。
49歳で亡くなった時、アダムスは映画版『銀河ヒッチハイク・ガイド』の脚本執筆のために家族と共にサンタ・バーバラに滞在していた。
アダムスいわく、「ニュー・メキシコ州サンタフェに行ったことがないなんて、愚かの極みである」(The Salmon of Doubt, p. 16)そうな。
アダムスは学生時代、父クリストファーの運転する車に乗ってウィーンに行き、ハンガリー人作曲家ジェルジ・リゲティの講義を受けたことがあるらしい。とは言え講義はドイツ語で行われたため、内容はよく分からなかったようだが、後にラジオ・ドラマ『銀河ヒッチハイク・ガイド』で彼の曲が一部BGMとして採用されている(Webb, p. 168)。