小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』のプロモーション活動の一環で、アダムスはバーミンガムにある書店、アンドロメダ・ブックショップにてサイン会を行い、450冊以上を売った。これは今なおこの店の記録だとか(Webb, p. 156)。
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UK Map に戻る言うまでもないが、これはボーンマス始まって以来の一大センセーションを巻き起こした。(『さようなら、いままで魚をありがとう』、p. 247)
「ボーンマス始まって以来の一大センセーション」な出来事とは何か? 知りたい方は、『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズ4冊目の小説をお読みください(残念ながら、1997年にボーンマス大学で開催された理論考古学者会議のことではありません。この小説を執筆していた1984年当時のアダムスは、よもやこんな会議に招待されることになるなんて、夢想だにしていなかったことでしょう)。
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UK Map に戻るアダムスが通ったパブリック・スクール、ブレントウッド・スクールはこの街にある(1959年9月に入学し、1970年に卒業)。
1979年8月23日から27日にかけて、世界SF大会がブライトンの5つ星ホテル、グランド・ホテルにて開催され、アダムスは名誉ゲストとして招待された。残念ながら、ラジオ・ドラマ『銀河ヒッチハイク・ガイド』はヒューゴー賞ドラマ部門の第2位に甘んじてしまったが、アメリカ進出が1980年以降であることを考えれば大健闘と言えるだろう(ちなみに第1位は映画『スーパーマン』)。
アダムスが生まれた街。と言っても生後6ヶ月の時に引っ越してしまった。そしてその後、晴れてケンブリッジ大学の学生となって戻ってくることになる。
「初対面じゃないとはどういうことだ?」とフォードは訊ねた。「彼はクロイドンのマーティン・スミスじゃない。ベテルギウス第五惑星のザフォド・ビーブルブロックスなんだぞ」(『銀河ヒッチハイク・ガイド』、Ap. 140)
「クロイドンのマーティン・スミス」は、大学時代のアダムスの友人。詳しくは、関連人物欄のマーティン・スミス参照のこと。
先史時代の地球で、彼は洞穴に住んでいた。快適な洞穴ではなく、なんの取り柄もない洞穴だったが、それでも……いや、「それでも」に続く言葉はない。まったくもってなんの取り柄もない洞穴だった。彼はあの洞穴を心底嫌っていた。しかし、五年も住んでいたのだからわが家のようなものだったし、人間はわが家の記録を残しておきたがるものだ。アーサー・デントもそういう人間だったので、エクセターにコンピュータを買いに出かけた。
アーサーはコンピューターを買いにエクセターに行く。アーサーの家のある地域で、コンピューター・ショップがあるような大きな街といえばエクセターになるらしい。昭文社の『個人旅行25 イギリス』によると、「イギリス最古の街のひとつで、エクセ川のほとりにあり、ローマ時代の城壁に囲まれた古い街道と、近代的なショッピングセンターが調和した美しい街」(p. 217)とのこと。
アダムスの父方の曾祖父ジェイムズ・マックスウェル・アダムスとダグラス・キンチン・アダムスは、グラスゴーの高名な医者だった。残念ながら、アダムスの父クリストファーは医者にならずグラスゴーとの縁も切れてしまったが、『銀河ヒッチハイク・ガイド』の最初のファンの集い(Hitchercon 1)はこのグラスゴーのアルバニー・ホテル(the Albany Hotel)で開催された。この時集まったファンは150人〜200人くらいで、アダムス自身も参加しスピーチをしている(Hitchhiker, p. 173)。
亜空間高速道路建設のため地球が破壊される二、三日まえ、ロンドンはセント・ジョンズ・ウッドのロード・クリケット場の上空のみならず、サマセット州のグラストンベリ上空でもUFO目撃数が劇的に増加したのは、まったく関係がないけれど、興味深い事実である。
グラストンベリは古代の王の神話や魔法、古代遺跡の並ぶレイ・ライン、イボ治療などと昔から関係があり、いまは『ヒッチハイク・ガイド』の新しい帳簿課オフィスの所在地に選ばれていた。実際、十年分の帳簿がヴォゴン船の到着数時間前に郊外の魔法の丘に移されたのである。(『宇宙クリケット大戦争』、p. 176)グラストンベリは、古代ケルト神話、キリスト教、アーサー王伝説など、複数の神話・伝説が絡み合った土地である。『アーサー王の死』の著者マロリーによれば、伝説の王アーサーはグラストンベリに葬られたことになっている。12世紀に掘り当てられたというアーサー王の石棺の場所は、現在でもグラストンベリの僧院跡の一角にある。また、アリマテアのヨセフがキリストが受難の苦しみを受けて流した血と汗の入った二つの瓶を入れたという「聖餐の井戸」などもあるというが、イボ治療と関係があるかどうかは不明。
また、「郊外の魔法の丘」というのは、グラストンベリに実際にある「ザ・トール」という名の丘のことであろう。この丘はケルト人たちが宗教的儀式に使ったとされる一方、霧に包まれると丘がまるで島のように見えるため、アーサー王伝説の「アヴァロンの島」だという言い伝えもある。さらに13世紀頃にはこの丘の上にキリスト教の教会が建てられていた。「よかろう。説明してみるよ。ぼくら、知りあってどれくらいになる?」
「どれくらい?」アーサーは考えた。「五年くらいかな。六年かもしれん。そのほとんどはまあ、かなり仲がよかったと思えるがね」
「よかろう。で、ぼくが実はギルフォード生れではなく、ベテルギウスをめぐる小さな星の生れだと言ったら、どうするね?」(『銀河ヒッチハイク・ガイド』、pp. 33-34)なぜフォードが「ギルフォード生れ」と騙ったか、その理由は不明だが、アダムスがもっとも影響を受けた作家の一人として名前を挙げているP・G・ウッドハウスは正真正銘のギルフォード生れである。
London Map 参照
さて、他人にやさしくするのはなんとすばらしいことでしょうと説いた罪で、ひとりの男が磔にされてから二千年ばかりがたったある木曜日、リックマンズワースの小さな喫茶店にいたひとりの少女がふと、これまで何がいけなかったのかに気づいた。(『銀河ヒッチハイク・ガイド』、p. 6)
「なんてこった」アーサーがうめいた。「こいつはサウスエンドの海そっくりじゃないか」
「やれやれ、それを聞いてほっとしたよ」
「どうして?」
「だって、狂ってしまったのかと思ったものだから」(『銀河ヒッチハイク・ガイド』、p. 105)大学を卒業し、コメディ作家として身を立てようとするもうまくいかず、財政的に困窮したアダムスはロンドンを離れ、母親が暮らすストルブリッジに家に移る。この家でアダムスの母親ジャネットは、再婚相手のRon Thiftと、彼との間にうまれた二人の子供(アダムスからみれば異父兄弟)と暮らしていたが、家族はアダムスを温かく迎え入れた。
アダムスは、ラジオ・ドラマ『銀河ヒッチハイク・ガイド』の最初の脚本をここで書いている。母親がいれてくれる紅茶がヒントになって、無限不可能性ドライヴに紅茶を入れる(「 もし、この機械が究極的に不可能なら、論理的に言って、そのことこそ無限不可能性をあらわしているにちがいない。だから、その機械をつくるためにしなくちゃならんことは、それがどれほどありえぬことか正確に計算し、その数値を有限不可能性発生機に送りこみ、熱い紅茶を一杯いれればいいだけだ」『銀河ヒッチハイク・ガイド』p. 113)というアイディアも生まれたのだとか(Webb, p. 111)。
執筆のかたわら、アダムスは運動不足とストレス解消のために近所の丘陵地帯を走っていた。この頃から、精神的な重圧から逃れるためくたくだになるまで身体を動かすという習慣を身につけたのだろう。それが後に、アメリカ・サンタバーバラでの突然死へと彼を導くことになるのだが。すごく近いか遠いか、どっちかならいい。近ければ近くに住んでいるということだし、遠ければ長く話していられる。
「トーントンまで行きたいの。ご迷惑でなかったら。そんなに遠くないから、途中で降ろしてもらっても……」
「トーントンに住んでるの?」彼は言った。たんに好奇心から訊いているように聞こえればいいのだが、舞いあがっているのを悟られたらどうしよう。トーントンならすばらしく近所だ。ひょっとしたら……
「住んでるのはロンドンなんだけど、一時間しないうちに電車が出るの」(『さようなら、いままで魚をありがとう』、p. 94)アーサーの家がある村は、トーントンという町のすぐ近くらしい。ちなみに、トーントン駅から電車に乗ると1時間45分から2時間くらいでロンドン・パディントン駅に着く。
コンピュータ・ゲーム版『銀河ヒッチハイク・ガイド』では、冒頭に登場するアーサーの自宅はデヴォン州ティバートンという設定になっている(Gaiman, p. 134)。
また、1984年夏には、アダムスは小説『さようなら、いままで魚をありがとう』の執筆のため、デヴォン州ティバートン北部にある小さなヴィクトリア朝ホテル、Huntsham Court に10週間宿泊した。ホテルのオーナーとも意気投合し、滞在を心から楽しむことはできたが、肝心の小説のほうは全くはかどらなかったとか(Hitchhiker, p. 203)。