『ポップ・カルチャー発掘 考古学とサイエンス・フィクション』

 1997年、アダムスはボーンマス大学で開催された理論考古学者会議(Theoretical Archaeologists Conference)に招待された。アダムスと考古学、ときくと何とも不思議な取り合わせのように思えるが、この会議には「世界が衝突するとき――考古学とサイエンス・フィクション(When Worlds Collide: Archaeology and Science Fiction)」と題されたセッションがあったのだ。
 このセッションでは、1・大衆文化における考古学者像とはどのようなものか、2・サイエンス・フィクションに出てくるアイディアやテーマを考古学の実践で活かすことは可能か、3・過去を研究することで未来をつかむことはできるか、の3点に分かれて、1ではハワード・カーターやインディ・ジョーンズといった、「いかにも」な考古学者像が、2ではサイエンス・フィクションという形式で創り出された過去の世界や異次元世界の造形が、3では過去に想像されていた「未来」の姿が、それぞれ検証されている。
 残念ながら、アダムスはスケジュールの都合で会議に参加することはできなかったが、それでも発表用の原稿を会議担当者に送っていた。
 後に、このセッションが本としてまとめられる運びとなり、アダムスの原稿はこの本の序文として付されることとなった。そこで、アダムスは元の原稿を序文用に書き直したが、本の発売を目前にしてアダムスは急逝してしまった。
 そのため、この本 『ポップ・カルチャー発掘 −考古学とサイエンス・フィクション−』(原題:Digging Holes in Popular Culture - Archaeology and Science Fiction) は、今は亡きアダムスに捧げられている。
 なお、この本の編者であり会議の主催者でもあったマイク・ラッセルは、ボーンマス大学で考古学を教える上級講師(senior lecturer)で、『ドクター・フー』の大ファンとのこと。

 以下は、アダムスが Digging Holes in Popular Culture - Archaeology and Science Fiction (Ed., Russell, Miles, 2002) に寄せた序文の抄訳である。ただし、訳したのが素人の私なので、少なからぬ誤訳を含んでいる可能性が高い。そのため、この訳はあくまで参考程度にとどめて、全貌をきちんと知りたい方は、必ずオリジナルにあたってくださるようお願いする。


 サイエンス・フィクションのどこが好きかと言えば、まあ私が知っているのはほんの一角だけだけれど、お馴染みの事物を馴染みのない視点で見ることで、事物に対する新たな認識をもたらしてくれるところである。現実の世界を照射する、と言おうか。
 勿論これはサイエンス・フィクションに限ったことではなく、たいていのすぐれたフィクションには同じような作用がある。ただ、サイエンス・フィクションには最初からそういうものを期待して読むという点で、特に顕著だ(あるいは顕著であるべき)というだけのこと。異星人やロボットや宇宙船は、そのために利用される一連のフィクション上の道具立てに過ぎない。これらフィクション上の道具立てを、文字通りに捉えるようになるのは危険だ。『スター・トレック』が大まじめに受け止められるのは由々しき事態だ(実際ウィリアム・シャトナーの名文句は確か "Get a life!(正気に返れ)" ではなかったか)が、みんなだって脳細胞の奥の奥ではあれは現実じゃないと分かっているはず(しかしながら私が本当に心配しているのは、合理性より過信を推奨している『Xファイル』のほうなのだが)。
 私はこれまで考古学者の視点というものについて特に考えたことはなく、考古学者になりたいと思ったこともないが、実は考古学はすべての対象に対してあまねく適応させることができるのではないかと思う。マンガ科学は、実際の科学よりも大きな影響力を持つ。現実に基づいて想像された解釈か、はたまた一時的に現実逃避して、現実よりも効用のある代替品に気分転換を図っただけなのか、その違いを問われることはない。私も、座って新しいストーリーを作っていると、他ならぬ私自身が自分で考えている以上に積極的にこの問題を後押ししているのではないかと心配するようになった。そのため、今の私は現在の風潮においては少々過剰なくらい懐疑的な視点を持つようになり、ちょっとリチャード・ドーキンスに似てきたような気がする(彼の思考は大いに尊敬しているが、彼はいくら人の心をつかむためとは言え、時々残酷なくらい自分の論敵を攻撃する)。
 私は、ピラミッドに関する、ピラミッドが本当はどのくらい古いかとか、その手の話についての、今どきのえらく推測ばっかりな本を眉にツバをつけながら読んだことがある。この手の本を読むと私はイライラする。その理由は、単に議論のレベルが低すぎてただのたわごとでしかない(修辞的に「これが偶然だろうか?」という問いかけをしては、いつも「いや、偶然ではない」という答えを出す)というだけでなく、まるでもっと厳密に分析されてしかるべきものが残されているかのように書かれていることだ。だが、恐らくこの手の異端者とエジプト学の権威との間の溝はあまりに深くて、実際の情報が相互に行き交うことはまずないのだろう。
 私はたまたま中近東を専門とする考古学者に会う機会があったので、ずっと疑問に思っていたこと、素人がパッとみただけでは、おびただしい数のエジプト学がその礎としている仮説自体、多くの異端者たちが唱える仮説と比べて、科学的根拠の乏しさという意味では似たりよったりで、単に今の時点でそれが定説扱いされているだけではないかという疑問について訊いてみたところ、彼は私の考えを認めてくれた。なるほど、自説を守るためにかくも激しく敵対する訳である。新たな観点が出されても、提示された議論のレベルが低すぎて役目を果たせないとは残念なことだ、もしそうなら権威者たちももっとちゃんと厳密に反論するだろうし、そうなれば権威者たちの推測自体もまた検証にかけられることになるだろうに。
 何年か前に、ワンダーリック(Wunderlich)というドイツ人のアマチュア考古学者にしてプロの天文学者が書いた、クノッソスについての本を読んで、とても感銘を受けたことがある(と言っても私も素人なので内容の是非について判断することはできないが、その論理は尊敬に値すると思う)。この本の中で、彼は自分の専門分野の知識に立脚して、証拠を徹底的に再検討している。長くて複雑で、でもとても論理的に検証された議論を省略して結論に飛ぶと、彼は、クノッソスはエヴァンスが描いたような栄華を極めたメトロポリスではなくてネクロポリス(埋葬地)であり、古代エジプトの死体防腐処理技術の起源にあたるのではないか、というのだ。この本で興味深いのは、ワンダーリックが干からびて想像力に欠けているであろう権威者たちを躍起になって攻撃するどころか、その正反対の態度を取っているところにある。彼はとことん論理的な合理主義者らしく、エヴァンスがミノア文明のクレタ島について、実際のデータよりも自分が想像した夢のほうを優先した度合いを浮き彫りにしていく。勿論、我々もエヴァンスが夢想家だったことは分かっている。でも、この本を読むと、差し当たり我々はただエヴァンスの見解を鵜呑みにしたままでいて、ポワロのように元証拠に立ち戻ってみるということをしていなかった、ということが明らかになってくる。私は、大学で考古学を専攻していた友人(今は時折コメディ・ライターをしている)にこの本について訊いてみたところ、彼女はナンセンスだとにべもなくはねつけた。でも私がさらにしつこく質問し続けると、彼女の論点は要するに彼女がブリストルで習ったことと違っているからの一事に尽きることが分かり、結局私は釈然としないまま残された。
 それはさておき、私のお気に入りのマイナー学説は、アクア説(水生類人猿説)である。これには私はいたく感服させられた。この説によると、誰の目にも明らかな人類固有の奇妙な特性、二足歩行とか、体毛のなさとか、皮下脂肪とか、脂線の代わりに汗腺があることとか、咽喉と舌の配置とか、そういった諸々のことについて、我々の先祖の一群が500万年から700万年くらい昔に、特にエチオピアの東海岸にあるダナキル山あたりで、水中または半分水中での生活を余儀なくされたと考えれば、見事に説明がつくというのだ(もしエレイン・モーガンの 『進化の傷あと』 (注)をまだ読んでいなかったら、ぜひご一読あれ)。これがどの程度現実に起こったことなのかについての真偽のほどは別として、私がこの説で気に入ったのは、考古学・人類学の権威たちがきちんと取り上げることなく、ただ溜まりに溜まった推測の山の下に埋もれさせてしまっているとしか思えない一連の問題を、エレガントなまでに見事に解き明かしてくれたことである。二足歩行と無毛という人類の二大特性は、私の好奇心をいたく刺激するが、分厚くてご大層なケンブリッジ版人類進化大辞典にもほとんど記述が見つからない。アクア説は、私に言わせれば、ちゃんと検証する価値が大いにあるにアイディアだ。ただ棄却するのは簡単である。論破してこそ、より厳密な研究であり、関係者すべてにとっても喜ばしいことになるだろう。
 既存のモデルに対する革新的な変化は、おうおうにして研鑽を積んだ正統な学問の世界の外からやってくるものだが、新しいアイディアが広まるのは、議論と論理と証拠を踏まえた上で以前の考えよりも優れている、とみなされてからであるべきだ。「何となくいい感じ」な科学は科学では断じてない。サイエンス・フィクションは、視座をずらして新しい発見や認識を導くにはとても有効な分野である。だが、想像力を論理と理性で鍛えれば、単なる思いつきよりもはるかに力を発揮することができる。


(注)エレイン・モーガンの 『進化の傷あと』  Morgan, Elaine. The Scars of Evolution, 1990. 翻訳は、『進化の傷あと』のタイトルで1999年にどうぶつ社より出版されている。著者のエレイン・モーガンは1920年生まれのサイエンス・ライターで、オックスフォード大学では英文学を専攻していた。彼女自身が専門の研究者でないためか、この本は科学の門外漢にもとても読みやすい。おまけに、手を抜かずにきちんと理詰めで説明してくれるので、読めばアクア説にすっかり参ったアダムスの気持ちがよく分かること請け合いの一冊である。

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