ダーク・ジェントリー・シリーズ


 ダーク・ジェントリー・シリーズとして、2冊の小説が上梓されている。

Dirk Gently's Holistic Detective Agency. 1987 (邦題『ダーク・ジェントリー全体論的探偵事務所』)
The Long Dark Tea-Time of the Soul. 1988 (邦題『長く暗い魂のティータイム』)

 原著の発売からちょうど30年経った2017年、長らく待たされた日本語訳が『ダーク・ジェントリー全体論的探偵事務所』(河出文庫)の邦題で発売された。続く2作目の日本語訳は、翌年の2018年に出版される。2作目のタイトルである『長く暗い魂のティータイム』という謎めいたフレーズは、銀河ヒッチハイク・ガイド・シリーズ3冊目『宇宙クリケット大戦争』に既に出ている。

結局、すべてが、どうしてもうまく折り合えない日曜の午後になってしまったのだった。恐ろしいほどの倦怠は、二時五十五分ごろから始まる――すなわち、たっぷりと風呂に入り、新聞のどこをじっと見つめても一行も頭にはいらず、そこに書かれている革命的な剪定技術をためしてみることもせず、時計の針が無情にも四時にむかって動きつつあり、長くて暗い魂のティータイムに突入することを意識する時間だ。(p. 10)

 1985年11月。ニューヨークのホテルにて、アダムスにとっては初めてとなる『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズでない小説2作の版権をめぐって、アメリカの大手出版社の間で秘かに競りが行われていた(Webb, p. 258)。
 指揮を取ったのは、アダムスの敏腕エージェント、エド・ヴィクター。最終的にアメリカでの版権を手にしたのはサイモン・アンド・シュースター社で、1986年1月10日、契約のために支払われた前金は227万ドルだったという。破格の高額なのは確かだが、ブライアン・W・オールディスデイヴィッド・ウィングローヴ共著のSF評論『一兆年の宴』に書かれていた「三百万ドルを越える金額」(p. 222)は、いささか水増ししすぎである。ちなみに、イギリスでの版権は William Heinemann(ハードカバー)とパン(ペーパーバック)が取得し、契約金は57万5千ポンドだった(Hitchhiker, p. 231)。
 言うまでもなく、この時点では原稿は一字も書かれていない。
 1作目の締め切りは、当初の予定では1986年12月、そして出版は1987年4月になるはずだった。契約した当時のアダムスは、ニール・ゲイマンのインタビューの中で「今はこの本の執筆に専念したいし、2作目にもすぐ取りかかるつもり。1年以内には2作とも書き終えられるんじゃないかな」と話している(Gaiman, p. 146)。
 『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズとはまったく別の作品、しかもSFでもコメディでもない作品を、ペーパーバックではなくハードカバーの出版社から出す、ということは、アダムスにも大きな意味を持っていた。『銀河ヒッチハイク・ガイド』ではつい笑いの要素が先行してプロットがおざなりになりがちだったけれど、今度の小説ではさまざまなアイディアを詰め込みつつも緻密なプロットを構成したい――が、実際の締め切りになってみると、Heinemann の担当編集者、スー・フリーストーンが手にしたのは小説1冊分の原稿どころか、わずか1センテンスだけだった。
 かくしてアダムスはまたもカン詰めにされ、フリーストーンがつきっきりで世話をすることになる。フリーストーンは、イズリントンのアッパー・ストリートにあったアダムスの自宅を訪れ、アダムスが何ページが書き進めるごとに原稿を読んでは感想や励ましの言葉をかけた。親切でおおらかな気性のフリーストーンは、書けないアダムスをなだめて原稿に向かわせるのも巧かったようだが、やはりイライラさせられることもあったようだ。フリーストーンいわく、「ごく普通の、右利きの人のために作られた世界は、変わったものの見方をする左利きの彼には合ってないの」(Webb, p. 268)。
 予定より2ヶ月遅れの1987年6月、『ダーク・ジェントリー全体論的探偵事務所』は出版される。'ghost-horror-detective-time-travel-romantic-comedy-epic' という、ジャンル分け不可のキャッチコピーがつけられた、いささか暗くてシニカルなトーンの作品であるにもかかわらず、売り上げは好調だった。批評家からの評判も良く、アダムスは作家としての自信を得たらしい。また、探偵小説を意図しながらもSF的な要素も盛り込まれたことについては、「『銀河ヒッチハイク・ガイド』を書いている時、僕はみんなに自分はSF作家じゃない、SFのアイディアを使ってコメディを書いているんだと言い続けていたけれど、『ダーク・ジェントリー』を書いて考えが変わった。多分、自分はSF作家なんだと思う。ヘンな話だけど」(Gaiman, p. 148)。
 とは言え、この小説のプロットの一部が、以前アダムスが脚本を書いたものの製作されないままに終わった『ドクター・フー』のエピソード、'Shada' からの転用であることを考えれば、『ダーク・ジェントリー』にSF的要素が入っているのは当然の結果である。M・J・シンプソンに言わせれば、「(『ダーク・ジェントリー』)は、'Shada''City of Death' のアイディアを混ぜ込んで、上手にまとめたもの」(Hitchhiker, p. 232)だったが、小説が出版された1987年には、そのことに気付いた批評家はいなかった(註)。'Shada' は未発表作品だったから気付かなくても無理ないが、2003年にオーディオ・ドラマとして製作され、現在もBBCのサイトで無料配信しているので、今なら簡単に両者を比較することができる。アダムスが、『ダーク・ジェントリー』の中に何をどう混ぜ込んだかを考えながら聴くのも、一興かもしれない。

(註) 『ダーク・ジェントリー』における『ドクター・フー』の影響を指摘する批評ならあった。1987年6月18日付のロンドン・タイムズ紙で、ジョン・ニコルソンは登場人物の一人、クロノティス教授について「アダムスが『ドクター・フー』の脚本編集者をしていた頃の名残り( "a legacy from Douglas Adams's stint as Script Editor of Dr Who.")」と喝破しているし、1987年6月25日付のリスナー紙ではマット・カワードが、「エキセントリックなアイディアや、「もし〜だったら」という仮説に熱を上げる辺り、いかにも元『ドクター・フー』の脚本編集者だ(Adams also possesses an enthusiasm for eccentric ideas and 'What if...?' speculations, as befits a former Dr Who script editor.")」と書いている。

 なお、この小説は、アダムスとリチャード・ドーキンスが友人となるきっかけともなった。「私がダグラスと出会うことになったのは、私が勝手にファンレターを送ったからだった――私がファンレターなどというものを書いたのは後にも先にもこれっきりであると思う。私は、『銀河ヒッチハイク・ガイド』を崇拝していた。それから、『ダーク・ジェントリーの全体論的秘密探偵社』を読んだ。読み終わるとすぐに、また最初に戻ってもう一度一気に読み通した――そんなことをしたのは生まれて初めてのことで、そのことを手紙に書いた。彼は、私の本のファンだという返事をくれ、ロンドンの彼の自宅に招いてくれた。こんなに気のあう精神と出会えたことはめったにない」(『悪魔に仕える牧師』、p.289)。その後、ドーキンスは、アダムスから『ダーク・ジェントリー』の原型(の一つ)である'City of Death' に出演していたララ・ウォードを紹介され、結婚することになる。

 ストーリーを簡単に紹介すると、

Dirk Gently's Holistic Detective Agency

 主人公リチャード・マクダフは、母校ケンブリッジ大学の「コールリッジをしのぶ夕べ(the Coleridge Dinner)」でクロノティス教授との再会したのをきっかけに、最終的には地球の生命誕生を阻止しようとする存在に抵抗する羽目になる。カオス理論や量子論が随所に織り込まれ、大学の同級生で、現在はペット探しを得意とする私立探偵ダーク・ジェントリーや、電気仕掛けの修道師(エレクトリック・モンク)とその馬、さらにはサミュエル・テイラー・コールリッジ本人までが登場し、ただでさえわかりにくい話がさらにわかりにくく展開されていく。
 正直なところ、私もきちんと理解している自信はないが、とにかくこの小説を読む前に、イギリスの詩人サミュエル・テイラー・コールリッジの代表作、「老水夫行」('The Rime of the Ancient Mariner', 1978)と「クーブラ・カーン」('Kubla Khan', 1797)には必ず目を通しておこう。
 より詳しいストーリー紹介と解説(ネタバレあり)は、こちらへ

The Long Dark Tea-Time of the Soul

 ヒースロー空港ターミナル2で大爆発が起こる。過激派によるテロかと思われたが、ダーク・ジェントリーが若い女性ケイトと謎を追ううち、実は「神のしわざ」だったことを知る。
 「神が不老不死ならば、今もこの地球上のどこかで生きて暮らしているはず」という発想で、北欧神話の神々が現代のロンドンに甦った。故に、この小説を読む前に、最低限の北欧神話の知識を入れておくことをおすすめする。
 なお、このちょっと奇妙なタイトルは、16世紀スペインのカトリック司祭、十字架のヨハネことファン・デ・イエペス(1542-1591)が書いた神学論文『暗夜』(Dark Night of the Soul、スペイン語では La noche oscura del alma)に由来している。ただし、 'dark night of the soul' は今では英語の慣用表現の一つとして用いられることも多いようなので、アダムスが原典の論文をどの程度意識していたかは不明。
  より詳しいストーリー紹介と解説(ネタバレあり)は、こちらへ


 このシリーズも、『銀河ヒッチハイク・ガイド』程ではないかもしれないが、それなりに人気を博してはいるようだ。
 モンティ・パイソンのメンバーにして映画監督のテリー・ギリアムも、インタビューの中で作品名を引用している(「『全体論探偵、ダーク・ジェントリー』のシリーズを読んだことがある?僕は全体論監督になってたね」)し、世界的に有名な分子生物学者リチャード・ドーキンスの代表作『利己的な遺伝子』にも、補注とは言え登場している。


 余談ながら、アダムスは The Long Dark Tea-Time of the Soul の献辞に書かれた、"For Jane" の Jane ことJane Belson と、この本の出版から三年後の1991年11月25日にイズリントンの町庁舎で結婚した。

 また、本来はシリーズ3作目が The Salmon of Doubt というタイトルで発売されるはずだったが、1995年10月発売の予定が遅れに遅れ、結局完成されないまま終わった。アダムスの死後、コンピュータの中に残っていた原稿を編集したものが、未発表のままに終わった作品を中心にまとめた一冊 The Salmon of Doubt : Hitchhiking the Galaxy One Last Time の中に収録されている。


 『ダーク・ジェントリー』シリーズは、2007年にはラジオ・ドラマが、2010年にはBBCでテレビ・ドラマが製作された。さらに、コミックスが出版され、2016年にはBBC版とは全く別の、新たなテレビ・ドラマ・シリーズがBBCアメリカで製作/放送され、現在、世界各国のNetflixで公開されている。


『ダーク・ジェントリー』関連ページ

Dirk Gently's Holistic Detective Agency ストーリー紹介
Dirk Gently's Holistic Detective Agency
作品解説
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