Dirk Gently's Holistic Detective Agency 作品解説


 Dirk Gently's Holistic Detective Agency(以下、『ダーク・ジェントリー』と略す)の構造は複雑で、一読しただけではなかなか掴み切れない。その上、サミュエル・テイラー・コールリッジの「老水夫行」('The Rime of the Ancient Mariner')と「クーブラ・カーン」('Kubla Khan')を知らなければ、肝心のオチさえ理解不能のままに終わってしまう。
 ということで、以下の通り作品解説をつけた。ただし、これは素人の私が理解できた範囲のものであり、見逃している箇所や勘違いしている箇所は多いはずなので、あくまで「参考」程度にとどめておいていただきたい(主要登場人物とストーリー解説については、こちらへ)。

 コールリッジの詩の翻訳は、上島建吉編『対訳 コウルリッジ詩集』(岩波文庫)による。ただし、上島訳では 'The Rime of the Ancient Mariner' というタイトルは、「老水夫行」ではなく「古老の船乗り」となっている。なお、『ダーク・ジェントリー』においてコールリッジの詩が果たす役割については、こちらにまとめたのでご参照あれ。


 まずは、『ダーク・ジェントリー』のストーリーを、実際に事が起こった順に書き直してみよう。  

 はるか遠い過去。Salaxala という星のエイリアンが、新天地を求めて生命誕生以前の地球を目指す。スタッフ一同母船から着陸のための船に移って無事地球に着陸したものの、着陸船が故障し母船に戻れない。修理係の手抜かりで、着陸船は爆発、エイリアンは全員死亡し、強い後悔の念を抱く修理係のみ幽霊として残ることに。幽霊は、爆発の影響で地球に生命が誕生し、長い年月をかけて進化していく様を見ている。

 18世紀末。ようやくある程度の知的生命体が生まれ、幽霊は彼らを利用して自分の過去の失敗をやり直す方法を思いつく。幽霊がコールリッジに取り憑いたことで、コールリッジが幽霊の話に影響されて長編詩「クーブラ・カーン」を書き、その詩から幽霊は自分の過去の過ちを修正する方法を知る。アヘンに酔っている最中のコールリッジに取り憑いてレッジと彼のタイムマシンを利用しようとするが、ラリっている最中のコールリッジでは何一つまともな行動がとれず失敗する。

 現在。レッジに直接取り憑くが、肝心なことを実行させようとすると無意識に抵抗されて巧くいかない。取り憑いて何かをさせるにしても、本人の意志に対立することを実行させるのは難しいのだ。そこで、レッジに「日焼け薬になる粉を手に入れる」という名目でよその惑星に行かせ、その隙にこういう仕事にはうってつけと思われるエレクトリック・モンクという装置を地球に持ち込むことに成功するものの、たまたまこのエレクトリック・モンクが故障中だったこともあり、不首尾に終わる。

 さて、小説の主要登場人物であるリチャードやダークが登場するのはこの時点からだが、注意すべきなのはこの「現在」は、我々が考えている「現在」とは別次元のものであることだ。我々の現実では、コールリッジ「クーブラ・カーン」を書いている最中にポーロックから来た男からの来訪で中断され、50行程度の長さで未完のまま終わってしまった。が、ここでの「現在」は、コールリッジが詩の執筆を邪魔されず最後まで書き上げている(第6章)。
 

 何者かに取り憑かれている気配を感じたレッジは、コールリッジを忍ぶディナーにリチャードを招待する。リチャードを通じて、リチャードの知人のダーク・ジェントリーに助けを求めるためだ。幽霊はレッジからリチャードに取り憑くが、媒体としてはリチャードも不適合だった。が、リチャードの次に取り憑いたマイケル・ウェントン=ウェイクスは、失恋や仕事の失敗で自暴自棄になっており、幽霊にとっては理想の人物だと分かる。幽霊はマイケルに取り憑いたまま、コールリッジ詩集を読み返しておのれのなすべきことを把握し、レッジの部屋を訪ねて、タイムマシンを使って過去に戻り着陸船の修理を完遂させてくれるよう言葉巧みに説得する。マイケル及びマイケルに取り憑いた幽霊を過去に送り出した直後、ダークは着陸船の爆発こそが地球の生命のきっかけであり、着陸船が正しく修理されてしまったら地球独自の生命は誕生すらしなくなり、地球がSalaxala のエイリアンに完全に乗っ取られることに気付く。そこで、船の修理が終わって地球の生命の歴史が丸ごと消え去る前に、ダークは「ポーロックからの来訪者」を装って幽霊より先にコールリッジの許を訪れ、幽霊が「過去をやり直す方法」を知るきっかけとなった「クーブラ・カーン」第二部の執筆を阻止する。
 

 かくして歴史は書き換えられ、『ダーク・ジェントリー』の小説内の「現在」は、我々と同じ次元のものとなった。第36章で、リチャードがスーザンの弾くバッハに驚くのは、スーザンが考えたようにリチャードがクラシック音楽にあきれるくらい無知だからではなく、歴史を書き換える以前の世界ではバッハの音楽は存在していなかったからである。Salaxala の母船に流れていた音楽を、レッジが無名の音楽家に自分の曲として発表するようにと渡したことで、人類の間でもこの音楽が広く知られることになった――というオチの裏には、いかにもアダムスらしい、バッハに対する最大級の賛辞と敬意を見ることができる。


以上を踏まえた上で、各章ごとにより詳しい解説を追加する。

Author's Note

 アダムスが書いている通り、ケンブリッジ大学のセント・セッズ・カレッジ(St. Cedd's College)は架空のカレッジである。この名称は、『ダーク・ジェントリー』以前に、『ドクター・フー』'Shada' で既に使用されていた。建物としてのモデルはアダムスの出身校であるセント・ジョンズ・カレッジであり、'Shada' の撮影時においてもアダムスとしてはセント・ジョンズ・カレッジでのロケを希望していたが、許可が出なかった。
 小説の中では、サミュエル・テイラー・コールリッジとアイザック・ニュートンが共にセント・セッズ・カレッジの出身として書かれているけれど、実際は前者はジーザス・カレッジを卒業し、後者はトリニティ・カレッジを中退している。

第1章

 This time there was just the dead earth, ... (p. 1)
 
 この章で描かれているのは生命が誕生する以前の地球なのだが、無論、この小説を初めて読む時には過去のことなのか未来のことなのかは分からない。
 
第2章

The Electric Monk was a labour-saving device, like a dishwasher or a video recorder. (p. 3)

 エレクトリック・モンクについて、リチャード・ドーキンスは著書の中でたびたび紹介している。  

 信仰篤い人々が何を信じるかは問題ではない。人々はとんでもなくふざけた人為的なものさえ信仰の対象にする。たとえばダグラス・アダムスの愉快な著書『Dirk Gently's Holistic Detective Agency』の中の電気仕掛けの修道師のようなものだ。彼はあなたに代わってあなたの信仰を貫くように作られており、見事に仕事を果たす。私たちが彼とあう日は、彼はあらゆる反証にもかかわらず、世界のすべてはピンクだと断固として信じているのである。(『利己的な遺伝子』、p. 520)

「何を信じるか」ということが自分で決定できるものだという馬鹿げた考えは、ダグラス・アダムスの『ダーク・ジェントリーの全体論的秘密探偵社』において、もののみごとにからかわれている。そこにはロボットの電子僧侶が登場するが、それは「あなたにかわって物事を信じてくれる」、労働節約型の装置である。宣伝によれば、デラックス型は、「ソルトレイク・シティ[モルモン教の本拠地]では信じないようなことを信じさせることができる」というふれ込みの商品だ。(『神は妄想である』、p. 157)

第4章

The poor beleaguered fellow," Reg continued, "The George the third, I mean, was, as you know, obsessed with time...So many terrible things had occurred in his life that he was terrified that any of them might happen again if time were ever allowed to slip backwards even for a moment...He appointed me, or rather I should say, my office, this professorship, you understand, the post I am now privileged to hold to. (p. 13)

 レッジことクロノティス教授は、『ドクター・フー』'Shada' から転用されたキャラクターである。'Shada' では、クロノティス教授は時間の支配者(タイム・ロード)の一族だが、ケンブリッジ大学に居着く以前の記憶をなくし、自分がタイム・ロードであることも忘れてしまったという設定になっていた。さすがに『ダーク・ジェントリー』には「タイム・ロード」という単語は出てこないが、レッジについて「自分の正体を忘れてしまったタイム・ロード」だと思えば分かりやすい。
 リチャードに、そもそも「年代学の欽定講座担当教授(the Regius Professor of Chronology)」とは何かと訊かれたレッジは、「ジョージ三世から自分が任命された」と口を滑らせている。無論、リチャードは単なる言い間違いとして気にも留めていないが、後に事実だと分かる。
 ジョージ三世は、18世紀後半から19世紀初頭にかけて英国を君臨していた。晩年には精神障害を患っていたことでも知られていて、『宇宙クリケット大戦争』にも登場している。

  「ぼくは何年もだれにも会ってなかったんだ」ややあって言った。「だれにもだ。話しかたも忘れちまったくらいだ。どんどん言葉を忘れていくんだ。練習はしてるんだぜ。練習のために話しかけているんだ、あの……あの……ほら、人がそれに向かって話したら、頭がおかしくなったって言われるものがあるだろ。ジョージ三世みたいに」(安原訳、p. 22)。

第5章

A few minutes later, a figure that had been sitting out of sight around the next outcrop of rock finished rubbing dust on his face, stood up, stretched this limbs and made his way back toward the door, patting his clothes as he did so. (p. 35)

 第5章のラストに登場する人物は、幽霊に取り憑かれたレッジである。レッジは自分では気付かぬうちに、エレクトリック・モンクを現在の地球に連れ込む手伝いをさせられている。
 
第6章

The association of the college with Coleridge was taken very seriously indeed, despite the man's well-known predilection for certain recreational pharmaceuticals under the influence of which this, his greatest work, was composed, in a dream. (p. 36)

 サミュエル・テイラー・コールリッジの代表作「クーブラ・カーン」は、実際コールリッジがアヘンを服用して眠っていた時に見た夢を書き留めたものである。コールリッジがこの詩につけた前書きによると、  

目覚めるなり、見たことすべてを明瞭に記憶しているような気がした彼は、ペンとインクを手にとると、矢のようにはやる心で脳裏に留まる詩行を書き写しにかかった。そのとき間の悪いことに、ポーロックから来た男の来訪を受け、一時間あまりこの客に手間取らされた。そして自室に戻った時、彼はある事態に直面して愕然とし、そして無性に腹立たしく思った。先程の幻想の記憶が、大筋のところはまだ漠然とかすかに覚えてはいるものの、わずか八行から十行のばらばらな詩句やイメージを例外として、他の部分はすべて消えていたのである。(『コウルリッジ詩集』、p. 195)

 ただし、小説『ダーク・ジェントリー』においては、この時点ではまだコールリッジは「ポーロックから来た男」に詩作を邪魔されていない。従って、我々の知る限りでは「クーブラ・カーン」の最終行にあたる "And drunk the milk of Paradise" が読み上げられても、朗読は続く。  

"The voice continued, reading the second, and altogether stranger part of the poem..." (p.44)

 という訳で、現実の「クーブラ・カーン」には第二部が存在しないことを知っている読者だけが、ここで首を傾げることができる。
 
第7章

The policeman stared at him blankly. "Just for the sake of argument," he went on to say, "if I were suddenly to do this..." -- he made himself go cross-eyed, stuck his tongue out of the corner of his mouth and danced up and down twisting his fingers in his ears-- "would anything strike you about that?" (p. 47)

 ゴードンが殺害されたガソリン・スタンドの売店に、警官が聞き込みにやってくる。ここでは「警官」としか書かれていないが、ギルクス巡査のことである。ゴードン殺害の夜は変わったことはなかった、という売店の店員に対して、わざとアブない人のフリをして見せて、ヘンだと思うかどうか尋ねる。ギルクス巡査いわく、何がヘンで何がヘンでないかの判断は人によって異なるものだから一応確認してみた、ということだが、この時のやり取りが思いがけない形で第24章に繋がっていく。

As he went to the boot, it opened, a figure rose out of it, shot him through the chest with both barrels of a shotgun and then went about its business. (p. 50)

 車のトランクから出て来てゴードンを撃ち殺したのは、エレクトリック・モンクである(第10章、第17章を参照のこと)。
 
第8章

He picked up a couple of books from the table...One of them, an elderly one, was an account of the hauntings of Borley Rectory, the most haunted house in England...The other book was more recent, and by an odd coincidence was a guide to the Greek islands. He thumbed throughit idly and a piece of paper fell out...The note said, oddly enough, "Regard this simple silver salt cellar. Regard this simple simple hat."(pp.56-57)

 リチャードがレッジの部屋のテーブルで見つけた2冊の本のうち、1冊はイギリスで一番有名な幽霊屋敷、ポーリィ牧師館について書かれたもの。ダークに指摘される前から、レッジ自身も幽霊のことが気になっていたということだろう。もう1冊、ギリシャの島々をめぐるガイドブックは、勿論「偶然」ではない。コールリッジ記念のディナーの席で、落ち込む少女を慰めるべく、ギリシャの壷から塩入れを取り出す「手品」(昔のギリシャにタイムトラベルをして、塩入れを中に入れた壷を焼いてもらった)のために必要だった。ガイドブックにはさまっていた紙に書かれていた言葉は、ディナーの席を外す直前のレッジ自身の台詞である。紙に書いて残しておかないと、過去に遡って壷を手に入れてディナーの席に戻ってきた頃には自分が何と言ってその場を去ったか分からなくなってしまうからだ(自分以外の人にとってはレッジが席を外していた時間はほんの数分でも、レッジにとってはもっと長い時間が流れている)。
 
There was something odd about the horse, but he couldn't say what. Well, there was one thing that was clearly very odd about it indeed, which was that it was standing in a college bathroom. Maybe that was all. (p. 62)

 第5章でエレクトリック・モンクがドアをくぐり抜けた先が、レッジのバスルームだった。エレクトリック・モンクを現在に引きずり込むために、幽霊がレッジの無意識に命じてタイムマシンをエレクトリック・モンクがいる世界に繋げさせたのだ。そして、エレクトリック・モンクは馬を狭いバスルームに置いて出て行ってしまった。
 
第9章

As if the night hadn't produced enough shocks already. He started, and stared at the damp depression in the glass.
His body was not there. (p. 68)

 ゴードンの死体を運び出し、幽霊となったゴードンを唖然とさせたのは、エレクトリック・モンクである。
 
第10章

"I had a chap in here earlier. Sort of strange foreigh priest. Couldn't understand a word he said at first. But he seemed happy just to stand by the fire and listen to the news on the radio."
"Foreigners, eh?"
"In the end I told him to shoot off. Standing in front of my fire like that. Suddenly he said that is really what he must do? Shoot off? I said, in my best Bogard voice, 'You better believe it, buddy.'" (p. 70)

 エレクトリック・モンクは、ケンブリッジのポーターの部屋でラジオを聴いてあっという間に英語を学習する。が、短時間すぎて完璧にマスターした訳ではなかったため、"Shoot off" を「出て行け」ではなく「撃ち殺せ」という意味だと勘違いした。
 
第12章

At the end of the room were a couple of long tables smothered in, at the last count, six Macintosh computers...Three other Macs were connected up via long tangles of cable to an untidy agglomeration of synthesizers. (p. 81)

 リチャードのフラットは、マックとマックに接続されたシンセサイザーで溢れている。当時のアダムスのフラットも、同じような状態だったらしい。
 
第13章

It is a dark figure, splayed against the wall, looking down for a new foothold, looking upward, looking for a ledge. The binoculars peer intently. (p. 84)

 壁をよじ登ろうとしているのはリチャード、その様子を見つめる双眼鏡の持ち主はダークである。
 
第14章

Suddenly, without even noticing himself doing it, he changed his mind. In a flash he popped the substitute cassette out of the machine again, replaced the one he had stolen, rammed down the rewind button and made a lunge for the sofa where, with two seconds to go before the door opened, he tried to arrange himself into a nonchalant and winning posture. (p. 91)

 リチャードは、自分でもよく分からないまま、ようやく盗んだ留守番テープを咄嗟の判断でまた元に戻す。幽霊に取り憑かれてスーザンのフラットに侵入したリチャードが、幽霊の呪縛から逃れて正気に返った瞬間である。
 
第15章

"Well, of course he's unhappy. Al Ross has turned Fathom into a really sharp, intelligent magazine that everyone suddenly wants to read..." (p. 95)

 『ダーク・ジェントリー』の小説全体を通じて、雑誌 Fathom の新編集長のファーストネームはただ一度、スーザンの発言の中にのみ登場する。その他は、" a certain A. K. Ross"(p. 100)だったり、"Whatsisname Ross, for God's sake,"(p. 237)だったりする。アダムスがロスのファーストネームを伏せているのにはちゃんと理由があって、実はアル・ロス=アルバート・ロス=アルバトロス(アホウドリ)というシャレなのだ(コールリッジの『老水夫行』で、主人公の水夫はアホウドリを殺す)。
 
第16章

Peckender Street was only a few minutes' walk away. Richard scribbled down the address, pulled on his coat and trotted downstairs, stopping to make another quick inspection of the sofa. (p. 111)

 'Peckender Street' は架空の名前だが、リチャードが自分のフラットからダークのオフィスへと向かう道のりをたどれば大体の場所は想像できる。詳しくはこちらへ
 
第17章

He had been quite clearly instructed to "shoot off" and had felt strangely compelled to obey, but perhaps he had made a mistake in acting so precepitately on an instruction given in a language he had learned only two minutes before. (p.128)

 第10章でポーター達が語っていた内容が、エレクトリック・モンクの視点で語られている。
 
The next thing he had believed to be right was that having spoiled this person's evening he should at least convey him to his home, and a quick search of his pockets had produced an address, some maps and some keys. (p. 129)

 エレクトリック・モンクはゴードンを撃ち殺した後、遅まきながら「撃ち殺せ」がどうやらゴードンの望みではなかったらしいことに気付く。そこで、せめてもの慰めに死体を自宅まで持って行くことにした――その結果、幽霊となったゴードンを失神させ、自宅をガス爆発で吹っ飛ばさせることになるのだが。
 
第18章

"This one's been driving me crazy all the way up. Cold even with the heater on full blast, and the radio keeps turning itself on and off." (p. 139)

 ギルクス巡査は車の故障だと思っているが、この怪現象は無論、幽霊となったゴードンのしわざである。
 
第19章

The slimy things with legs from his dream.
A cold calm came over him as he felt himself coming very close to something.
Coleridge. That man.

Yea, slimy things did crawl with legs
Upon the slimy sea. (p. 147)

 マイケルの、というか、マイケルに取り憑いた幽霊が見せた夢のイメージは、コールリッジの『老水夫行』の一節そのものだった。ここで引用されているのは、125行と126行である(「ぬるぬるしたもの這いまわる、/ぬるぬるした海ぬらぬらと」)。
 
There reared up inside him a sense of loss and desolation of terrifying intensity which, while he knew it was not his own, resonated so perfectly now with his own aggrievements that he could not but surrender to it absolutely.

And a thousand thousand slimy things
Live on; and so did I. (p. 148)

 かくして幽霊は、マイケルという完璧な媒体を手に入れた。引用されているのは、『老水夫行』の238行目と239行目(「百千万ものぬるぬるした生きものは/なおも生き続け、わしも生き続けた」)。
 
第20章

"I hadn't realized how filthy it would be in there. And cold. Here," he said, handling the towel back to Dirk, "thanks. Do you always carry a towel around in your briefcase?" (p. 156)

 『銀河ヒッチハイク・ガイド』のファンなら、ここでクスリと笑うべきだろうか。残念ながら、この時ダークがタオルを持っていたのは、常にタオルのありかをわきまえておくことの重要性を心得ていたからではなく、リチャードに運河に飛び込むよう催眠術で暗示をかけていたからに過ぎない。
 
第21章

His large soft cowlike eyes returned to the last few lines of "Kubla Khan" which he had just been reading. The match was made, the zip was pulled. (p. 168)

 ここでマイケルが読んだ「クーブラ・カーン」のラストは、現在我々が知っているラスト、"And drunk the milk of Paradise" ではない。
 
第24章

The man was dancing up and down and twisting his fingures in his ears, and this was clearly making a deep impression on the man behind the till.
The Monk watched in transfixed awe. The man, he believed with an instant effortlessness which would have impressed even a Scientologist, must be a God of some kind to arouse such fervor. (p. 180)

 ギルクス巡査が聞き込みをしている姿(第7章参照)を見たエレクトリック・モンクは、彼こそが神だと思い込む。'Scientologist' とは、トム・クルーズらがメンバーであることでも有名なアメリカ発祥の新興宗教「サイエントロジー」の信者のこと。『ダーク・ジェントリー』執筆当時のアダムスはまだ「過激な無神論者」ではなかったが、お手軽な信仰を茶化すことにためらいはなかったようだ。
 
第25章

"Where is what?"
"The time machine."
"You're standing in it." said Reg. (p. 194)

 ケンブリッジの研究室そのものがタイムマシンだったという設定は、『ドクター・フー』'Shada' に由来するものである。『ドクター・フー』において、タイムマシンの装置は「ターディス」('Time And Relative Dimention In Space'、直訳すると「宇宙の時間および相対次元移送装置」)と呼ばれ、この装置は時空間を超えて旅した先で悪目立ちしないよう外観を変化させる機能を持っている(ただし、テレビドラマの『ドクター・フー』では、主人公のドクターが操るターディスはこの機能が壊れていることになっている)。『ダーク・ジェントリー』の中では、勿論「ターディス」ではなく「タイムマシン」としか書かれていないが、レッジのタイムマシンがケンブリッジ大学の研究室そっくりなのはターディスのこの機能あってのことで、研究室をタイムマシンに改造したからではない。
 
第26章

The two other ones stood up again, expressing the idea that it might be simpler if they just bought the entire bar.
The third was about to get up again and follow them, when slowly, but with unstoppable purpose, the cow-eyed man sitting opposite him leaned across and gripped him firmly by the forearm. (p. 196)

 第26章は、章全体がコールリッジの『老水夫行』の模倣である。『老水夫行』において、老水夫が婚礼の宴へと向かう三人の若者のうちの一人を掴まえて強引に自分の体験を語って聴かせたように、マイケルに取り憑いた幽霊は、ケンブリッジ行きの列車の中で、結婚パーティへと向かう三人組の若者のうちの一人に語りかける。
 
第27章

"I think he must have been mad. He suddenly went off a tangent about some bird. He said the bit about the bird was all nonsense. He wished he could get rid of the bit about the bird. But then he would be put right. It would all put right. For some reason I didn't like it when he said that." (pp. 203-204)

 マイケルに取り憑いた幽霊が語った 'the bird" とは、「老水夫行」に出てくるアホウドリ=アルバトロス=アルバート・ロスのこと。
 
第28章

Most of his personal eternity -- not really eternity, but a few million years could easily seem like it -- had been spent wandering across interminable mud, wading through ceaseless seas, watching with stunned horror when the slimy things with legs suddenly had begun to crawl from those rotting seas -- and here they were, suddenly walking around as if they owned the place and complaining about the phones. (p. 208)

 幽霊がたびたびイメージする "slimy things with legs" は、第19章にもある通り、コールリッジの「老水夫行」に出てくる一節で、「老水夫行」ではアホウドリを殺した後、天罰か何かのように風が止まって南の海で身動きがとれなくなってしまった恐怖の様を表している。「おそろしくしずかな腐り果てた海は、魂の 'Stagnation' や 'Corruption' さらにはその 'Wastland' を暗示するかも知れないが、これは自然界が老水夫に敵対するからというより、むしろ 'Guilty Soul' が感じる孤独感のイメージである」(田村謙二、p. 396)。勿論、詩の解釈は他にもいろいろあるだろうが、アダムスはこの一節を進化した生物が太古の海から陸に上がってくるイメージとして利用した。
 
第29章

"Was that a dodo?" he exclaimed.
"Yes," said Reg, "one of only three left at this time. The year is 1676. They will all be dead within four years, and after that, no one well ever see them again..." (p. 214)

 レッジがタイムマシンを使うのは、17世紀のモーリシャスへ行って生きているドードーの姿を眺めるためだった、という設定は、『ドクター・フー』'Shada' から転用されたものである。

第30章

Noel Road, he thought. It rang a vague bell. He had a feeling that he had recently had some dealings with someone in Noel Road. Who was it?
His thoughts were interrupted by a terrible scream of horror that rang through the street. (pp. 219-220)

 ゴードンは、ダークのオフィスを後にしてノエル・ロード(イズリントン地区に実在する)に出る。'some dealings with someone in Noel Road' とは、A・K・ロスと結んだ雑誌 Fathom の編集長就任契約のことであり、'a terrible scream of horror' とは、マイケルによるゴードン殺害を目撃した女性が発したものである。
 
第31章

"...Are you trying to saying you told your story to Samuel Taylor Coleridge?"
"I was able to enter his mind at ... certain times. When he was in an impressionable state."
"You mean when he was on laudanum?" said Richard.
"That is correct. He was more relaxed then." (p. 223)

 コールリッジがアヘンを常用していたという事実を、アダムスは『ダーク・ジェントリー』で巧く利用している。他でもないアヘンこそが、幽霊にコールリッジに取り憑く隙を与えた、というのだ。そして、幽霊がコールリッジに見せた夢の断片は、「老水夫行」の中にも取り込まれることになったが、幽霊に言わせればコールリッジが書いたものは「随分とゆがめられている('very garbled')」(p. 224) とのこと。「老水夫行」における "slimy things with legs" の使われ方をみれば、幽霊の言い分も納得できるなくはないが、「老水夫行」のプロットそのものは幽霊の体験に酷似している。「老水夫行」では、主人公の水夫が犯した一度の過ち(アホウドリを殺す)が、船を難破させ仲間の乗組員全員を死なせることになる。そして主人公一人が生き残り、自分の体験談を語り続ける。
 
The ghost gathered Michael's breath for him and started again. "We were on a ship --" it said.
"A spaceship."
"Yes. Out from Salaxala, a world in ... well, very far from here..." (pp. 224-225)

 タイムマシンで過去に戻り着陸船の故障を直したい、ただしそれを実行すると地球の全人類の存在が消えてしまう、という設定は、『ドクター・フー』'City of Death' から転用されたもの。ただし、"City of Death" では、エイリアンの出身は 'Salaxala' ではなく 'Jagaroth' という星になっていた。
 
第32章

At the same moment the ghost of Gordon Way, his last call finally completed, fell back to his own rest and vanished. (p. 229)

 ゴードンは、ロスが殺されたことをスーザンの留守番電話に残し、成仏する。
 
第33章

The music of light dancing on water that rippled with the wind and the tides, of the life that moved throught the water, of the life that moved on the land, warmed by the light. (p. 233)

 Salaxala の宇宙船で流れていた、リチャードを失神させる程に感動的な音楽を、我々は「バッハの音楽」として聴くことができる。実際、『ダーク・ジェントリー』執筆中のアダムスは、BGMとしてバッハをずっと流していたのだとか。
 
第34章

He sat heavily on the sofa then stood up again and removed Michael's discarded jacket from under him. As he did so, a book fell out of the pocket. (p. 239)

 マイケルのジャケットから転がり出た本は、コールリッジの詩集である。
 
第35章

He glanced into the sky. Unconsciously he started to quote:

"Could I revive within me
Her symphony and song
To such a deep delight 'twould win me
That with music loud and long
I would build that dome in air,
That sunny dome, those caves of ice!" (p. 241)

 リチャードが無意識に引用したのは、「クーブラ・カーン」の42行目から47行目まで(「もしそれを心中によみがえらせたなら/あの乙女が奏でまた語った調べと歌とは/どんなにか深い愉悦に私を引き入れ、/嫋々と鳴りひびくその楽の音によって/私はあのドームを空中に造りあげることか、/あの陽光の宮殿を、あの氷の洞窟を!)。
 
When the door had opened, somewhat reluctantly, and a slightly dazed face had looked out, Dirk had doffed his absurd hat and said in a loud voice, "Mr Samuel Coleridge?
"I was just passing by, on my way from Porlock, you understand..." (p. 241)

 ダークがコールリッジに向かって「ポーロックから来た」と告げるのは、「クーブラ・カーン」の執筆がポーロックからの来訪者によって中断されたため、未完に終わるという事実に基づいている。コールリッジ「クーブラ・カーン」につけた序文によると、「間の悪いことに、ポーロックから来た男の来訪を受け、一時間あまりこの客に手間取らされた。そして自室に戻った時、彼はある事態に直面して愕然とし、そして無性に口惜しく思った。先程の幻想の記憶が、大筋のところはまだ漠然とかすかに覚えているものの、わずか八行から十行のばらばらな詩句やイメージを例外として、他の部分はすべて消えていたのである」(『対訳 コウルリッジ詩集』、p. 195)。
 
"...I said blast the bloody albatross and he said he had a good mind to and he wasn't certain that that didn't give him an idea for a poem he was working on. Much better, he said, than being hit by an asteroid, which he thought was stretching credulity a bit. And so I came away." (p. 242)

 ダークに干渉される前の「老水夫行」では、アホウドリではなく隕石がぶつかるという設定だった、というのは、勿論、アダムスのジョークである。
 
第36章

" Remeber the horse? Well, he turned up again with his owner. They'd had some unfortunate encounter with the constabulary and wished to be taken home. Just as well Dangerous sort of chap to have on the loose, I think. So. How are you then?" (p. 246)

 不幸な行き違いでギルクス巡査に逮捕されたエレクトリック・モンクと彼の馬は、かくして無事に元の世界に戻ることができた。


『ダーク・ジェントリー』におけるコールリッジの役割について

 コールリッジの「老水夫行」では、主人公の水夫が犯した一度の過ち(アホウドリを殺す)が、船を難破させ仲間の乗組員全員を死なせることになる。そして主人公一人が生き残り、自分の体験談を婚礼の宴に招かれた若者に語る。
 一方、『ダーク・ジェントリー』では、宇宙船に乗っていた主人公のエイリアンが犯した一度の過ち(着陸船の修理に失敗した)が、着陸船を爆発させ仲間の乗組員全員を死なせてしまう。そして、エイリアンは幽霊となって地球に取り残され、自分の体験談をコールリッジに語る。つまり、『ダーク・ジェントリー』においては、「老水夫行」はコールリッジがエイリアンの幽霊に取り憑かれた時に見せられた夢(もっと正確に言えば、聞かされたエイリアンの体験談)に基づいて書かれたことになっている。
 『ダーク・ジェントリー』内の設定に従って改めて「老水夫行」を読み返してみると、アダムスがいかに巧くこの詩を利用したかがよく分かる。現実の「老水夫行」は、地球侵略を目論んで失敗したエイリアンの話などではない。が、詩そのものはまったく同じなのに、ひとたびアダムスが提示してみせた新しい視点を知ってしまうと、詩の持つ意味合いがおもしろいくらい変わってしまう。第19章で引用された、"Yea, slimy things did crawl with legs/Upon the slimy sea." など、海で誕生した生命が進化して陸地へ上がろうとしている様を思い起こさせるし、"And a thousand thousand slimy things/Live on; and so did I."も、地球侵略に失敗したエイリアンの幽霊が、地球オリジナルの生命の進化の過程を忌々しげに眺めているところを想像せずにはいられない。また、『ダーク・ジェントリー』には直接引用されていないが、"I pass, like night, from land to land;/I have strange power of speech;/That moment that his face I see,/I know the man that must hear me:/To him my tale I teach." など、まるでエイリアンの幽霊が己の目的を達成するのに最適な標的(アヘン服用中のコールリッジとか)を狙っているかのようではないか。
 「クーブラ・カーン」については、ポーロックから来た男に邪魔されて書かれなかった幻の第二部が要となっている訳だから、今現実に存在する「クーブラ・カーン」という詩そのものは「老水夫行」のように『ダーク・ジェントリー』と直接的に繋がってはいない。それでも、地球に彼らなりの楽園を築こうとしたエイリアンは、ザナドゥに歓楽宮を造ろうとしたクーブラ・カーンと似ているし、第35章でリチャードが引用した一節、"That with music loud and long/I would build that dome in air" は、美しい音楽で満ちていたエイリアンの宇宙船と重なっている。さらに深読みするなら、『ダーク・ジェントリー』にたびたび登場する「泥の河」(a river of mud)のイメージや、あるいは冒頭の "A clear river ran through the shattered remains of the valley" (p. 2)も、「クーブラ・カーン」の「聖なる河」に通じるものがあるかもしれない。
 
 コールリッジという詩人もまた、単なる「老水夫行」と「クーブラ・カーン」の作者だという事実を越えて『ダーク・ジェントリー』にうってつけだった。『ダーク・ジェントリー』では、ダークに指摘される前のリチャードがそうだったように、コールリッジには「幽霊に取り憑かれている」という自覚はなく、「老水夫行」にしても「クーブラ・カーン」にしても、あくまで自分の見た夢を詩として書いたと思っている。E・M・フォースターは、「批評の存在理由」というエッセイの中でコールリッジの「クーブラ・カーン」創作過程について触れているが、  

 創作の精神状態とはどういうものでしょうか。人間は身体から抜け出して、この状態の中に入って行きます。言うなればバケツを自分の無意識という井戸の中へと下ろし、平常の時には手の届かぬ何かを汲み上げるのです。これを自分の平常時の体験と混ぜ合わせ、この混合液から芸術作品を作ります。(略)
 この創作プロセスの申し分ない実例が「クーブラ・カーン」です。コールリッジはアヘンの助けによって有名な夢を見て、無意識の中に深く沈み込みました。目覚めてからそれを文字に書き移したのですが、かなりうまく進んだところで、不幸にして例のポーロック町から来た男が用事で訪れました。(略)
コールリッジは執筆を再開できなくなりました。無意識とのつながりが断ち切れてしまったのです。(pp.178-179)

 夢という形で自分の無意識を覗き込み、それを詩として文字に移し替えること。「真実は表面下にある」(田村謙二、p. 382)というコールリッジの基本姿勢は、気付かぬうちに自分の内に潜む幽霊の言葉に耳を傾けてしまった詩人として取り上げるには、アダムスにとって「申し分ない実例」だったにちがいない。
 おまけに、コールリッジはロマン主義の詩人の一人として、「描写と事件とそして人間・自然・社会についての熱情的思索にたいして平等に場所と自由を与え,しかもそれ自体においては部分に自然な繋がりを,そして全体には統合をもたらすような題材を求めていた」(山田豊、pp. 355-358)。そして、万物を統合へと導くものこそが想像力であり、想像力は「もろもろの事物を全体として見,創造と発明によって,もろもろの新しい世界を蘇生させる力を所有している」(田村謙二、p. 202)と考えてもいた。まったく、"what we are concerned with here is the fundamental interconnectedness of all" (p. 120)と主張する全体論探偵ダーク・ジェントリーとすぐにも意気投合できそうではないか――ただし、コールリッジの場合、「統合」の先にあるのは進化論やカオス理論ではなく、神への信仰だったけれども。


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