The Salmon of Doubt: Hitchhiking the Galaxy One Last Time

 本書は、アダムスの死後1年を記念して出版され、編集者の注意書き、プロローグ、イントロダクションに続いて、アダムスがこれまでにさまざまな媒体で発表した文章やコメントを、「LIFE」「THE UNIVERSE」「AND EVERYTHING」の三部仕立てで構成されている。タイトルだけをみると、『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズの第6作かと期待してしまうが、残念ながらそうではない。「LIFE」ではアダムスの少年時代の思い出や普段の生活のことなど、「THE UNIVERSE」ではコンピュータや無神論について、「AND EVERYTHING」では既に雑誌で発表済みの短編小説2本と、アダムスのコンピュータに残っていた未完の長編小説 Salmon of Doubt をアダムスのエージェントや友人たちが編集して仕上げたものが入っている。エピローグは、2001年5月14日付のガーディアン紙に掲載されたリチャード・ドーキンスの追悼文。

 この本は、2002年5月にイギリスでは Macmillan から、アメリカでは Harmony Books から出版されている(1年後の2003年には、イギリスでは Pan Books から、アメリカでは Ballantine Books からペーパーバックが出版された)。表紙デザインやページ番号はどちらも同じだが、Macmillan 版のイントロダクションスティーヴン・フライが書いている(表紙にも、'FOREW0RD BY STEPHEN FRY' の文字がわざわざプリントされている)のに対し、Harmony Books 版のイントロダクションクリストファー・サーフというアメリカ人が書いている。当然ながら内容はまったく別物なので、気になる方は Macmillan 版と Harmony Books 版の両方をご購入あれ。ちなみに裏の見返しに載せられたアダムスの顔写真も別だった。
 ただし、この本のオーディオCDおよびカセットブックには、スティーヴン・フライクリストファー・サーフ両名のイントロダクションが、それぞれ自身による朗読で収録されている。本文を朗読しているのはサイモン・ジョーンズで、リチャード・ドーキンスの追悼文についてはドーキンス自身が朗読している。
 なお、2002年6月22日付のロンドン・タイムズのベストセラー・リストでは第4位に入っていた。

 タイトルの 'Salmon of Doubt'(疑惑の鮭)とは、ケルト神話に出てくる 'Salmon of Wisdom'(知恵の鮭)をもじったものである。ケルト神話の中でも、アイルランド神話の「フィン物語群」に登場し、この鮭をまるごと一匹食べるとあらゆる知恵が授かるといわれている。神話によると、ドルイド僧フィンガスが7年かけてこの鮭を釣り上げ、絶対に味見をするなと命じた上で弟子のフィンに鮭を調理させる。が、フィンが調理中に鮭の脂で火傷した指を口に入れたため、英知の鮭の力はフィンが得ることになった。

 フィンガスは若者を座らせ、鮭を食べるよう言いました。フィンは言われたとおりにしましたので、こうして、フィンは知恵の鮭の中にあった予知能力を身につけるようになりました。これより後は、未来のことを知りたいと思えば、ただ聖なる詩を唱えながら、知恵の歯の上に指をおけばよかったのです。間もなくフィンはフィンガスのもとを去り、旅を続けました。(『図説 ケルト神話物語』、p. 151)


 註:以下のリストで(untitled)としたものは、一番最初の12歳のアダムスが書いた手紙を除き、タイトルもキャプションもない、ほんの数行の短い文章である。

Editor's Note

Peter Guzzardi
Chapel Hill, North Carolina
Feb. 12. 2002
pp. vii-x

Prologue

Nicholas Wroe
The Guardian
Saturday, Jun. 3, 2000
pp. xv-xxix

Introduction

Stephen Fry
Peru
Jan. 2000
pp. xxxi-xxxv

LIFE

(untitled)

D. N. Adams (12)
Brentwood, Essex
Jan. 23, 1965
Eagle and Boy's World Magazine
p. 3

The Eagle は、1960年代にイギリスで人気のあったSF雑誌で、アダムスにとってこの手紙が初めて活字になった作品である。

The Voices of All Our Yesterdays

The [London] Sunday Times
Jun. 17, 1992
pp. 3-6

 ビートルズの音楽との出会いについて書かれたエッセイ。
 アダムスは12歳の時、学校を抜け出して発売されたばかりの "Can't Buy Me Love" のレコードを買いに行き、レコード・プレイヤーを持っている寮母の部屋に侵入して、音がもれないようボリュームを絞ってスピーカーに耳をくっつけるようにして聴いたという。B面まで聴いたところで見つかって罰として放課後の居残りを命じられたが、「芸術のために支払う代価としては安いものだと思った」(p. 4)。
 教師や親たちに言わせれば、ビートルズなど1週間後には忘れ去られるようなゴミだったけれど、アダムスには何故彼らにビートルズの革新性が理解できないのかが分からない。学校の聖歌隊に参加していてクラシック音楽の和声や対位法について知っているからこそ、いかにビートルズが凄いことをやっているかが分かるというのに、どうして大人たちはそうじゃないんだろう、と。
 とは言え、ビートルズの新しいアルバムを初めて聴いた時は、理解できず途方に暮れたともいう。今ではごく当たり前となっているポップ・ミュージックの手法も、当時はまだ誰もやったことがない、まったく新しいものだったのだ。「あの時に感じた強烈な違和感を思い出すには、楽曲にすっかり慣れ親しんでしまった今となってはちょっとした努力が必要だけれど」(p. 5)。
 そのくせ、アダムスはビートルズの姿を生で拝む機会をことごとく逸してしまった。学校の友人からデイヴィッド・フロスト・ショウのスタジオ見学のチケットがあるから一緒に行かないかと誘われたのに、それを断って番組をテレビで見ていたら、よりにもよってその日のゲストがビートルズだったり、たまたまロンドン行きを取りやめた日に限って、サヴィル・ロウの屋上で彼らがゲリラ・ライヴをやったり、と。
 月日は流れ、ビートルズは解散してしまったけれど、ある日アダムスは友人でギタリストのロビー・マッキントッシュから電話を貰う。「僕らは今度 Mean Fiddler で演奏するんだけど、良かったら来ないか?」
 Mean Fiddler とはロンドン北西部にあるパブのことで、奥には200人くらい収容できるライヴ・スペースがある。ロビー・マッキントッシュがどうしてそんなところで? しかも「僕ら」ってどういう意味だ? 彼は今、ポール・マッカートニーのライヴに同行して演奏しているはずだが……?
 かくしてアダムスは、わずか200人ばかりの観客と共に、ポール・マッカートニーのライヴを堪能するという奇跡のような僥倖を得る。また、演奏された曲のうちの一曲は他でもない、子供の頃にスピーカーに耳を押し当てて聴いた、あの "Can't Buy Me Love" だった。
 好きな時代の好きな場所で暮らせるとしたら、あなたはいつの時代、どこの場所を選びますか、と質問されたら、できればバッハの近くで生活をしたいとアダムスは言う。でも、そうなるとビートルズなしの人生になってしまう。やっぱりそれはありえない、とも。

Brentwood School

pp. 7-9

 アダムスは、プレパラトリ・スクール時代も含めると計12年間、ブレントウッド・スクールに通っていた。このエッセイでは、ブレンドウッド在学中に起こった、もっとも強烈な思い出について書かれている。
 アダムスは子供の頃から飛び抜けて背が高かった。プレパラトリ・スクールでは、生徒は全員半ズボンの制服着用が義務づけられていたのだが、12歳にして教師よりも背が高いくらいのアダムスにとっては、半ズボンを着ているのはかなり決まりが悪い。母親からも、彼だけは特例として長ズボンを履かせてほしいと担任に願い出たものの、規則は規則だからと認められなかった。
 ともあれ、ようやくプレパラトリ・スクールを卒業し、来学期からは晴れて長ズボンの制服で通学できる、ということで、学期の始まる2週間前にアダムスは母親と一緒に学校内にある店に新しい制服を買いに行った。そして、その店にはアダムスが着られるほどの長さのズボンはないばかりか、アダムス用に特別にあつらえるには6週間はかかるという衝撃の事実を知らされる。
 かくして2週間後に始まった新学期には、他の生徒全員が長ズボンを履いている中で、誰よりも背の高いアダムス一人が、丸4週間にも亘って半ズボン姿で通学する羽目に。「ふと気がつくと目抜き通りで自分だけ素っ裸だった、という夢をみたことのある人は多いだろう。はっきり言って、それよりもっと悲惨だし、おまけにあれは夢ではなかったのだ」(p. 9)。

Y

From Hockney's Alphabet
(Faber & Faber)
pp. 9-10

(untitled)

From Pan Promotion News 54
Oct. 1983
pp. 10-12

Meaning of Liff のプロモーション

My Nose

Esquire
Summer 1991
pp.12-14

 母親の長い鼻と、父親の幅の広い鼻の遺伝を受け継いだ結果、アダムスの鼻は特大サイズになった。子供の頃はこの鼻のせいでからかわれることも多かったらしい。もっとも、自分でも自分の鼻はヘンだと認めるようになったら、その種のからかいはなくなった――ただし、今度は言葉遣いがヘンだと言ってからかわれるようになり、こちらは終世止むことなく続いたそうだが。
 アダムスの鼻には、見た目だけでなく機能面でも問題があった。子供の頃に暮らしていた母方の祖母の家では、祖母が王立動物虐待防止協会の会員だったため、怪我をした鳥や動物が多く飼われていたのだが、これらの鳥の羽根や動物の毛のせいでアダムスはアレルギー性鼻炎になった。幸い、この症状はアダムスがブレントウッド・スクールの寄宿舎に移った途端に改善したのだが、そのわずか2週間後には、ラグビーの試合中に自分の膝で自分の鼻を折るという偉業を成し遂げ、その結果、鼻腔が変形して鼻詰まりが慢性化してしまった。耳鼻咽喉科の診療も受けたものの、どの医者からも匙を投げられてしまったという。
 「自分の鼻が機能的でなくただの飾りに過ぎないことについては、今ではおとなしくあきらめている。ハッブル宇宙望遠鏡が、科学技術の粋を極めた巨大な塊でありながら、ちょっとした笑いのネタになる以外には実際には何の役にも立っていないのと同じようなものか、と」(p. 14)。

The Book That Changed Me

pp. 14-15

「人生を変えた一冊」として、アダムスはリチャード・ドーキンスの『盲目の時計職人』を挙げた。

Maggie and Trudie

Animal Passions (ed. Alan Coren; Robson Books; Sep. 1994)
pp. 16-21

 動物との交流について、有名人が書いたエッセイをまとめた Animal Passions (1994) という本から転載されたもの。このエッセイの中で、「今まで一度も犬を飼ったことがない」(p. 16)アダムスは、自分のペットの話ではなく、ニュー・メキシコ州サンタフェで出会った二匹の犬、マギーとトルーディの思い出について書いている。
 1992年か1993年頃のアダムスは、『銀河ヒッチハイク・ガイド』の映画脚本執筆のため、サンタフェにあるマイケル・ネスミスの農場に滞在していた。マギーとトルーディは、この農場の隣人が飼っていた犬なのだが、隣人と言っても相当遠く離れていたため、アダムスが犬の飼い主と直接会うことはなかったという。
 マギーはハンサムな雑種犬で、トルーディはまぬけな感じの黒いフレンチプードルだった。毎朝、この二匹の犬はアダムスのいる農場のドアや窓を外からひっかいて彼を起こし、一緒に散歩に出ようと誘った。が、アダムスが出て行っても、二匹は自分たちでじゃれて遊んでいるだけで、アダムスにかまってもらいたがる様子はない。そのくせ、アダムスがどこかに出かけようとしようものなら、二匹はどうしていいかわからないという風情を見せた。まるで、そこにいるアダムスを「無視して」遊ぶことこそが、肝心であるかのように。
 アダムスが執筆している間、犬たちはアダムスのそばにくっついていた。アダムスの膝の上にあごを乗せ、早く散歩に出てくれないかな、そうすればまた彼を「無視して」遊べるのにな、とでも言いたげな様子でアダムスの顔を見上げながら。そして夜になると、二匹は飼い主がいる自宅へと戻っていった。
 ある朝、なぜかマギー一匹だけがやってきた。いつも一緒にいるはずのトルーディがいない。トルーディの身にどんな不幸なことが起こったのかとアダムスはやきもきしたが、翌日、何事もなかったかのようにマギーと一緒にやってきたトルーディを一目見るなり、その理由は判明した。トルーディを襲った災難とは、飼い主にペットのトリミングに連れて行かれたことだったのだ。
 数日後、アダムスはイギリスに帰国することになった。犬たちは、そのことをまったく気にかけていないようだった。
 その6週間後、映画脚本の第二稿作成のためにサンタフェに戻ったアダムスは、大声をあげたり騒音を立てたりして犬たちを探した。メッセージを聞きつけた二匹は、雪に覆われた砂漠の中を走ってきて再会の喜びを表現してくれたが、しばらくするとやっぱりアダムスを「無視して」二匹で遊び回っていた。「そして3週間後、私は再びその地を去った。今年も、私は時々彼らに会いに戻るだろうが、でも彼らにとって私はあくまで「他人」にすぎないのだと自覚してもいる。いつか、私も自分の犬を飼いたいと思う」(p. 21)。

The Rules

The Independent on Sunday
Jan. 2000
pp. 21-24

 国によって、車の運転に関する法律が異なることについてのエッセイ。イギリスでは禁止されている行為がアメリカでは許されていたり、逆にイギリスでは当たり前のように行われていることでもアメリカでやれば警官から違反切符を貰う羽目になったりする。実際の運転行為が理にかなって安全かどうかではなく、その国の法律がどう規定しているかが問題なのだ。中でも、アダムスが一番びっくりし、どうにも信じかねている事例は、東京に数年間暮らしていた従姉妹から聞いた話だった。何でも、歩道に突っ込んで店のショウウィンドウをぶち破り歩行者数人を死亡させたとして起訴された運転手が、運転当時へべれけに酔っぱらっていたからという理由で刑を軽減された、というのだが――確かに、危険運転致死罪が制定される以前の道路交通法では、そういうこともあり得たか?

Introductory Remarks, Procol Harum at the Barbican

From the Procol Harum and London Symphony Orchestra concert
Feb. 9, 1996
pp. 25-26

プロコル・ハルムのコンサートで、開演に先立ってバンド紹介を行った時のアダムスの言葉。アダムスは彼らの大ファンで、「グランド・ホテル」という曲は「宇宙の果てのレストラン」というアイディアの素となったという。

Hangover Cures

The Independent on Sunday
Dec. 1999
pp. 26-29

 1999年12月に新聞に掲載されたエッセイ。
 「新年の誓い」が守れないのは、「新年の誓い」が何なのかをすぐ忘れてしまうからで、忘れないようにと紙に書いておいたとしても、今度はどこに書いておいたかを忘れてしまう。そして、年末になって次の「新年の誓い」を立てようとすると、約1年間行方不明だった「新年の誓い」を書いた紙が不意に見つかる――が、これは決して偶然ではない。人間の脳は、前と同じ状況になった時に記憶を甦らせるように出来ているのだ。酔っ払って仕出かした不始末は、素面に戻った時にはどうしても思い出せないのに、前と同じくらい酔っ払えば思い出せるように。
 解決策は? 強い克己心あるのみ、と言ってしまえばそれまでだが、実際のところ我々が新年初日に思い出したいと切実に望むのは、「新年の誓い」ではなく二日酔いの治療法だったりする。そして、先にも書いた通り、思い出したいと思うものほど思い出せないものだ。じゃあどうしよう? そういう時は、「www.h2g2.com へどうぞ。次なる1000年も、あなたとあなたの子孫にとってより良きものでありますように」。(註:www.h2g2.com は現在では閉鎖され、形を変えてBBC内のサイト、http://www.bbc.co.uk/dna/h2g2/ に移行している)

My Favourite Tipples

The Independent on Sunday
pp. 29-30

 好きなアルコールについてのエッセイ。
 ウィスキーは味も香りもボトルのラベルも好きだが、酔って千鳥足になるから飲まないようにしている。マルガリータもいいが、飲むとおかしなものを衝動買いしてしまう。6フィートの鉛筆と2フィートの消しゴムをニューヨークで購入して船便で送ったこともあって、おまけに数週間後に自宅でそれを受け取ったのがキャンティ・ワインを飲んだ翌朝だったものだから、余計話がややこしくなってしまった。以来、ニューヨークで飲む酒はストリチナヤ・ウォッカと決めている。とてもニューヨークっぽいから、というだけでなく、この酒を飲むとバカなことを、というよりどんなこともできなくなってしまうからだ。
 ブラッディ・マリーは、空港でしか飲んだことがない。特に理由はないが、普段は飲みたいと思ったことがないのに空港のラウンジに着くと無性に飲みたくなる。
 自宅では、冷蔵庫に入っているものなら何でも飲むが、うちの冷蔵庫には不思議な特徴がある。冷蔵庫に上等のシャンパンを冷やしておいて、いざ飲もうという段になると、普通の安い白ワインに変わっているのだ。「どうしてそうなるのかは未だに不明だが、結局私がいつも飲むのは、この世でもっともありふれた、でも飲んでも二日酔いにならない唯一の酒、ジントニックである」(p. 30)。

Radio Scripts Intro

Introduction to the Original Hitchhiker Scripts, 10th Anniversary Edition
(Harmony Books, May 1995)
pp. 31-32

 ラジオ・ドラマ『銀河ヒッチハイク・ガイド』10周年記念として発売された脚本に、新たに付けられた序文。

How should a prospective writer go about becoming an author?

p. 32

Unfinished Business of the Century

The Independent on Sunday
Nov. 1999
pp. 32-36

 21世紀の到来を目前にして、20世紀中に是非やりとげたいこと――このエッセイによると、アダムスは『サウンド・オブ・ミュージック』に出てくる「ドレミの歌」の歌詞で、「ラ」の説明が 'La, a note to follow so' (「ラはソの次の音」)といういい加減なものになっているのをどうにか改善したかったらしい。残念ながら、アダムスにはもっともらしい候補作は思いつかなかったようだが。

The Dream Team

The Observer
Mar. 10. 1995
pp. 36-38

 このエッセイで、アダムスは「理想の映画」や「理想のロック・バンド」、「理想の休暇」などの例を挙げているが、中でも興味深いのは「理想の料理」である。「残りの人生を、決まった国の料理しか食べてはいけませんと言われたら、僕は日本食を選ぶだろう」(p. 38)。

Where do you get the inspiration for your books?

p. 38

Intro for Comic Books #1

The Hitchhiker's Guide to the Galaxy (collected edition)
DC Comics
May 1997
pp. 38-39

Interview with Virgin.net

interview conducted by Claire Smith
Virgin.net, Limited
Sep. 22, 1999
pp. 40-44

Riding the Rays

1992
pp. 45-62

 アダムスはオーストラリアが好きだった。オーストラリアでの新作宣伝ツアーにも積極的だったし、プライペートで滞在することも多かった。
 このエッセイでは、アダムスがイトマキエイに会うためにヘイマン島を再訪問したときのことが書かれている。初めてこの島に滞在したのは、オーストラリアでの宣伝ツアーを終えた後の休暇としてであり、その時に退屈しのぎで始めたスキューバ・ダイビングがすっかり気に入った。が、島を離れた後になって、ヘイマン島でのダイビングでは巨大なイトマキエイの集団を見ることもできると知り、何とかもう一度行く機会はないものかと思っていた。10年後、妹の隣人マーティン・ペンバートンから 'Sub Bug' という一人用プロペラ式スキューバ装置を発明したと聞き、これは是非試さねばいけない、試すなら是非ヘイマン島でなければならない、'Sub Bug' を付けてイトマキエイに会った話をエッセイに書けばこれも立派に仕事のうちだ、と強引にこじつけることに。
 ヘイマン島に行くためには、まずはオーストラリア本土からハミルトン島に飛び、ハミルトン島から船でヘイマン島に渡る必要がある。どちらもリゾート島ではあるが、高級リゾートして知られるヘイマン島に対し、ハミルトン島は少々庶民的な色彩が濃いらしく、アダムスいわく「ハミルトン島は、世界屈指の自然の楽園のすぐそばにある美しい亜熱帯の島に対し、何をしてはいけないかの見本市となっている。見苦しくも安作りの建物が立ち並び、ビールやTシャツと並んでポストカードも売られているが、そのポストカードには、ポストカード屋ができるまではこの島はこんなにキレイだったんですよという絵が描かれている」(p. 49 )。当然、アダムスと妻のジェーンはハミルトン島に長居することなく、直ちにヘイマン島へと移動した。
 ヘイマン島では、ホテルは島の外観を損なわないように設計されている。スタッフのホスピタリティも完璧で、「ここのスタッフに、シャンパンを注いでくれてありがとうと言うと、"No worries" ではなく "No worries at all" と返答してくれる。ここでは、客に対してなら誰でも、ではなく、あなた一人に向かって、あなたはまったく何の心配もしないで好きにしてくれていいんですよ、と伝えてくれる」(p. 51 )。とは言え、アダムスには 'Sub Bug' が巧く作動してくれるかどうかの心配はあったのだが、ホテルでダイビング関連を担当しているイアン・グリーンからアダムスの部屋に電話がかかり、ホテルに 'Sub Bug' が配達されたとのこと、装置が動くかどうかのお手伝い等が必要ならば何なりとお申し付けくださいと言われるに至って、その心配も消えていった。
 翌朝、アダムスとジェーンはダイビング・センターでグリーンと会う。'Sub Bug' は既に梱包から外され、いつでも使用できるようになっていた。グリーンは、'Sub Bug' の発明者のマーティン・ペンバートンから、その使用法をファックスで送ってもらっていたのだ。彼は自信たっぷりで、アダムスのどんな依頼に対しても彼の返事は「問題ございません」だったが、アダムスが「'Sub Bug' の乗り心地と比較するためにも、イトマキエイにも同じように乗ってみたい」と言った時だけは、「それは絶対にできません」。
 野生動物保護の観点から考えても、野生のイトマキエイに触るなどもってのほかだということくらい、あらかじめ分かっていてもいいはずだったとアダムスは述懐する。イアンいわく、イトマキエイは臆病な動物なので近づくだけでも容易ではないが、ひょっとしたら過去にはイトマキエイに乗っかった人もいたかもしれない、でも現在では絶対に認められないという。
 ともあれ、その日はヘイマン島から小舟で10分ほど行ったところにある小島の浅瀬で、イアンと 'Sub Bug' を作動させてみたところ、浅瀬ではあまり巧く動かないことがわかり、次はもう少し深いところで試そうということになる。しかし、アダムスは今回の旅のためにニコン社の人から最高級の水中カメラを借りていたにもかかわらず、ちゃんとマニュアルを読んでいなかったせいで、どうもフィルムの巻き戻しに失敗したらしい。
 翌日は、日本人の新婚旅行カップルと共に船に乗って珊瑚礁でのダイビングへ。アダムスにとって海での本格的なダイビングは久し振りだったので、まずは普通のスキューバ・ダイビングで水中の動きに体を慣らして、それから 'Sub Bug' を装着することにする。最初のうちは、自分で泳いでいるのと変わらないくらいのスピードしか出ないことに落胆したが、慣れてくると逆に超スローモーションでスキーをしているような、まるでゼンの世界のような(an almost Zenlike idea)、そんな感じがして楽しめたという。が、ものの15分もするとそれにも飽きて、結局普通のダイビングをすることに。
 かくして 'Sub Bug' の装着体験はあっさり終了してしまった。そこでアダムスは、野生動物保護の観点からすればイトマキエイに乗るのはいけないことだけれど、もし人工的な水中移送に変わる交通手段の新たな開発という観点から考えればイトマキエイを試しているのは悪いことではないのでないか、と(かなり無理矢理なロジックで)イアンを説得する。
 その日の午後、イアンはアダムスを別のダイビング・スポットに連れていく。そこは、色とりどりの珊瑚と色とりどりの魚で一杯の場所だったが、イアンが指し示した、一見珊瑚も何もなくてただの黒い海底と思われた箇所は、実は大きなイトマキエイの背中だった。そのイトマキエイが泳ぎ去った後、アダムスはさらに3匹のイトマキエイが泳いでいるのを仰ぎ見ることに成功する。
 その日の夜、イアンと 'Sub Bug' を銀色のケースに片付けている時、アダムスはあまり喋らなかったという。ただイアンに、イトマキエイを見つけてくれてありがとう、どうしてイトマキエイの背中に乗ってはいけないかよく分かった、とだけ伝えたところ、イアンの返事は "No worries at all" だった。

Who are your favorite authors?

p. 63

「好きな作家は?」と訊かれたアダムスの答えは、「チャールズ・ディケンズ、ジェーン・オースティン、カート・ヴォネガットP・G・ウッドハウスルース・レンデル」。

Sunset at Blandings

From the Introduction to Sunset at Blandings
(Penguin Books)
pp. 63-67

P・G・ウッドハウスの未完の遺作、Sunset at Blandings序文

Tea

May 12, 1999
pp. 67-69

おいしい紅茶というものを知らないアメリカ人に向けての、アダムスの紅茶指南。

The Rhino Climb

Esquire
Mar. 1995
pp. 69-77

 野生のサイの保護を行っている団体 Save the Rhino International を支援活動の一環として、アダムスは妹のジェーンと共に行進に参加した。
 行進はモンバサの海岸からキリマンジャロの頂を目指すというもので、アダムスとジェーンはナイロビ近郊から途中参加することに。ただしこの行進では、交替で誰か一人、サイのコスチュームを着用しながら歩くことになっていた。このコスチューム、元々はラルフ・ステッドマンがオペラのためにデザインしたものだったという。
 アダムスいわく、この行進の真の目的はサイを保護するための寄付金集めではなかった。実際、ケニアにおけるサイの保護活動自体は、リチャード・リーキーの働きかけでかなり手厚いものとなっており、保護区でサイが密猟される心配は少なくなった。が、問題は保護区の周辺で生活する人々である。彼らは保護区のせいで使用できる土地を制限された上、保護区から迷い出た野生動物に農作物を荒らされたり襲われたりする危険と隣り合わせで暮らさなければならない。将来的には、保護区の周辺で暮らす人々にこそ自然保護活動に前向きになってもらう必要があるのに、これでは逆効果だ。そこで、まずはそういった人々の生活を支援しなければいけない、という発想が生まれた。
 コスチュームを着て歩く係は、1時間ごとの交代制だった。被り物を付けていて顔が見えなくても、歩き方で誰が今サイの格好をしているのかすぐに分かるようになったという。中でも、せかせかした歩き方をするのはウィリアム・トッド=ジョーンズ。彼はプロのコスチューム・デザイナー兼パフォーマーで、サイのコスチュームの管理を担当していた。1988年に製作されたBBCのテレビ・ドラマ・シリーズ『ナルニア国物語/ライオンと魔女』でライオンのアスラン役を務めたこともある。また、このサイのコスチュームをつけて実際のオペラの舞台に立っていたのも彼だった。
 そのトッドがサイになっている時に、最初の村に着いた。子供たちが大歓声で出迎え、村の広場まで案内される。まさに村を挙げての歓待ぶりで、子供たち(と言っても年齢は17歳くらいだが)はこの日のために作ったサイの歌まで歌ってくれた。
 アダムスにも次第に「どうしてわざわざサイの格好をする必要があるのか」が分かってきた。普通の格好で村を訪ねても「またイギリス人の一群がやってきた」というだけのことだが、サイとサイの山登り仲間たちが来たとなれば、それは一種のお祭り騒ぎであり、この先何年も村の人たちの記憶に残るイベントと化すのだ。
 翌日、アダムスにもコスチュームをつけて行進する順番が回ってきた。が、アダムスの体があまりに大きかったため、全身着ぐるみスタイルのコスチュームをきちんと着ることができず、「まるで巨大なエビの天ぷらみたいになった」(p. 75)。コスチュームの中は猛烈に暑かったが、トッド=ジョーンズはコスチュームに不慣れなアダムスに気を遣って隣で歩き、常に話しかけてくれたという。
 結局のところ、アダムスはこの行進には1週間しか参加できなかったし、キリマンジャロ登頂も果たせなかった。そのことは残念だったが、一頭のサイをちらっと見ることはできたという。もっとも、本来ならその場所に何千ものサイがうろついていてしかるべきなのだが。「人類はこの惑星に百万年ばかり生息しているが、その間には飢餓やら疫病やら戦争やらエイズやら、いろんなものと戦わなければならなかった。それにひきかえ、サイは四千万年以上この地で生きているが、絶滅寸前の危機にまで彼ら追いやった敵と言えばただ一つ、人類だ。我々は、残りの世界を破壊し尽くそうとする唯一の種ではないし、また、自分たちの行動がどういう結果をもたらすかを理解し、それを食い止めようとする唯一の種となることは、我々にとっても益のあることと言わねばならない」(p. 76)。

For Children Only

pp. 77-80

Brandenburg 5

-Penguin Classic Vol. 27: Bach-
Brandenburg Concertos 5 & 6,
Violin Concerto in A Minor
(English Chanber Orchestra, conducted by Benjamin Britten)
pp. 80-82

 バッハのブランデンブルク協奏曲第5番についてのエッセイ。ブランデンブルク協奏曲の第5番と第6番、ヴァイオリン協奏曲第1番イ短調を収録したCDに付けられたライナーノーツとして書かれた。「ブランデンブルク協奏曲は親しみやすい曲ではあるが、だからと言ってその凄みを見過ごすべきではないだろう。バッハはこの世に生を受けた何者にも勝る天才であり、そしてブランデンブルク協奏曲はその彼が幸せだった時に書き上げたものだと、私は信じて疑わない」(p. 82)。

THE UNIVERSE

Frank the Vandal

pp. 85-91
MacUser magazine
1989

 雑誌 MacUser に掲載されたエッセイ。
 アダムスいわく、コンピュータはもっと使いやすいものでなくてはいけない。未来のコンピュータは、ファイルの種類だとか、アプリケーションの使い分けだとか、そういった煩わしさと無縁のものであるべきだ。そして、そのようなシンプルなコンピュータに一番近いのはマックであり、今後もそのシンプルさを追求してほしい――というアダムスの願いは、現在のアップル社の方向性とどこまで一致しているだろうか?

Build It and We Will Come

The Independent on Sunday
Nov. 1999
pp. 91-95

 パーソナル・コンピュータの使用法の変遷についてのエッセイ。
 アダムスがロンドンのトテナム・コート・ロードで初めて目にしたパーソナル・コンピュータは、コモドール社のPETというマシンだった。大きなピラミッド型をしていて、上部にはチョコレート・バーくらいの大きさのスクリーンが付いていたという。アダムスは興味をそそられたものの、実際の使い道はなさそうだとも思った。当時、コンピュータと言えば「デカい電気計算機」程度の認識しかなかったのだ。
 やがて、数字の計算がアルファベットと結びつくことで「電気計算機」から「タイプライター」へと変化した。コンピュータの演算速度が上がるにつれ、今度は画像処理が実現した。「タイプライター」が「テレビ」になったのだ。そして現在では、World Wide Web の出現により、動く「カタログ」と化した。
 肝心なのは、コンピュータは本質的にタイプライターでもテレビでもカタログでもないことだ。我々は、コンピュータを使ってそういった機能をモデリングしているだけである。そのことに気付けば、現実世界ではできないことがコンピュータを使えば可能になる。
 たとえば、本物の「カタログ」は、どんなに金のかかった立派な仕上がりであろうと、消費者が本当に知りたい情報は載っていない。同じように、たとえばBMWの公式サイトをみても、本当に知りたい情報、たとえば車の燃費とか雨の日の走行の加減といったことは知ることができない。勿論、メールで問い合わせることはできるが、他の人と情報を共有することにはならない。BMWの公式サイトは、従来の「カタログ」そのものなのだ。
 それに比べて、インターネット書店のアマゾンは「情報の共有」をはるかに巧くやっている。利用者や読者の情報が集まれば集まるほど、アクセス数が増え、本の売り上げも伸びる。BMWと違い、アマゾンでは製品の質に責任をとらなくていいからできるとも言えるが、その方向性は見習うべきだろう。
 とは言え、ここまでならアマゾンとて普通の書店と変わらないかもしれない。どんな本が何冊売れたという情報だけなら、一般書店でも公表しているからだ。が、インターネット書店の強みは、利用者の潜在的なニーズを掘り起こすことができる点にある。たとえば、アダムスはアマゾンのサイトでフランコ・ゼフィレッリ監督の映画『ロミオとジュリエット』のDVDを探したところ、VHSはあってもDVDは見つけることができなかった。そこでそういう希望をメールしてみたのだが、今ではアマゾンはそういった利用者の要望をマーケティング情報としてスタジオ側に渡しているようだ。今後は、映画化したい小説の投票なども行われるかもしれない。
 やがては本に限らずさまざまな分野でウェブサイトが個々人の希望を吸い上げるようになるだろう、というのがアダムスの予想だったが、さて現実は如何に?

(untitled)

p. 95

Interview, American Atheists

From The American Atheists 37, No. 1
(interview conducted by David Silverman)
pp. 95-101

リチャード・ドーキンスは、著書『悪魔に仕える牧師』pp. 297-298)及び『神は妄信である』(p. 175)で、このインタビューの一部を引用している。

神という概念には非常に強い疑念を感じてはいたのですが、そうですね、たとえば、生命、宇宙、そしてあらゆる事物をしかるべき位置に収めるだけの、ほかの説明の仕方によるうまい作業モデルをつくれるほどの知識をもっていなかったのです。しかし私は根気よく努力をつづけ、本を読み、考えることをつづけました。三○代になったばかりのころ、たまたま偶然に、進化生物学に、とくにリチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』と『盲目の時計職人』という本の形で出会うことになり、そこで突然(『利己的な遺伝子』を二度めに読んでいるときだと思う)、すべてのことがうまく収まったのです。それは驚くほど単純な考え方なのに、自然に、どこまでも限りなく当惑させられるような生命の複雑さを生みだすのです。それが私の心にかきたてた畏怖の念は、正直に言って、宗教的な体験に敬意を表して語る人々の畏怖の念など比べるのも馬鹿馬鹿しく思えるほどのものでした。それ以来、どんなときでも私は、無知ゆえに畏怖することよりは、理解ゆえに畏怖することを選択してきました。(『神は妄信である』、p. 175)

What are the benefits of speaking to your fans via e-mail?

p. 101

Predicting the Future

The Independent on Sunday
Nov. 1999
pp. 102-104

 未来予測に関するエッセイ。
 アダムスに言わせれば、未来予測など「バカのゲーム(mug's game)」(p. 102)である。が、世の中の移り変わりが年々速くなってくる昨今では、誰もが参加せざるを得ない、とも言う。なぜなら、予測された未来とやらは、来週にも実現しているかもしれないからだ。
 とは言え、我々は本当に未来予測などできるのだろうか? 過去を振り返ってみても、間違った未来予測は枚挙にいとまがない。クリストファー・サーフとヴィクター・S・ナヴァスキーの共著 The Experts Speak には、識者によるトンデモ未来予測の例が山ほど載っている。
 一つの予測が当たるか当たらないか、目を離さずに見守り続けるのも一興だ。アダムスは、アメリカの電話会社USウェストの重役の発言に注目しているという。高速無線データ送信の技術発展について「時速60マイルで移動中の車でも使用できるようになるだろうが、実際に使う人は少ないだろう」と語ったらしいが、アダムスいわく「この発言は後に彼に取り憑いて離れなくなるのではないか。衛星ナビ。無線インターネット。共有情報スペース内で自分の現在位置をマッピングできるようになれば、インターネットの利用法が爆発的に増えるだろう――というのが、私の未来予測である。勿論、大ハズレの可能性はあるが」(pp. 103-104)。
 スチュアート・ブランド著 The Clock of the Long Now によると、さまざまな未来予測がなされても予測そのものがすぐに忘れ去られてしまうという。実際、毎年各メディアが「来年はどんな年になるか」を競って予測したとしても、我々はその2日後には忘れてしまい、いちいち検証しようなどとは思わない。でも、たとえばこの5年以内に起こることの未来予想をウェブ上に書き出して、みんなで後追いしてみては、とアダムスは提案する。「未来予測はバカのゲームかもしれないが、どんなゲームもちゃんとスコアを付け続ければ改善されるものだから」(p. 104)。

(untitled)

p. 104

The Little Computer That Could

pp. 105-110

 小型ノートパソコンに関するエッセイ。アダムスいわく――
 
 ブロンテ姉妹の兄、ブランウェル・ブロンテは、人間はその気になれば立ったままでも死ねるということを証明しようとして、マントルピースにもたれて立ったまま死亡したらしい。
 私は今、ミシガン州グランドラピッズに来ている。飛行機に乗って朝早くに到着したが、ホテルの部屋に入れてもらうにはあと3時間待たなくてはならない。他に行くところもなく、死人のような気分で私はマントルピースにもたれて立っている。真鍮とプラスチックもどきで出来たお粗末な代物をマントルピースと呼べばの話だが。
 そして、私は立ったままこの記事を書いている。でも、PowerBook は使っていない。使いたいのは山々だが、バッテリーが切れてしまったのだ。電源ケーブルもアダプターも持っているが、それはスーツケースの中であり、スーツケースはチェックインの際にベルマンに預けてしまった。つまり、あと3時間は PowerBook を使えないということになる。
 ではこの記事を手書きしてるのかって? ご冗談を。ディクタフォン(口述録音装置)に話しかけるというのも論外。あれは、スイッチを押している間は言葉が何も出てこなくて、スイッチを離すと同時に頭が働き始める仕組みになっている。
 そうではなくて、私は手のひらサイズの新しいコンピュータ、Psion シリーズ3a を使っているのだ。ヒースロー空港の免税店で衝動買いしたものだが、これが意外に使える。
 おっと、ここで状況に変化があった。私の部屋を見つけてもらえたらしい。早速、マックブックをアダプターにつないでチャージする。でも今はまだ使えない。私は風呂に入っているからだ。でも、Psion なら使える。風呂場でものを書くのは初めてだ。紙は湿度でダメになるし、ペンは上向きでは書けないし、タイプライターは腹に食い込むし、PowerBook を使うのは――賭けてもいい、風呂場で自分の PowerBook を使う奴はいない。
 という訳で、手のひらサイズパソコンである。以前、Sharp Wizard を使ったことがあったが、キーボードの配置が「qwerty」ではなくアルファベット順だったのが難点だった。手のひらサイズパソコンのもう一つの問題は、本体が小さくなればなるほどキーボードも小さくなり、人間の指では操作しづらくなることだが、これについては私は既に解決策を見出している。え、そんなのとっくに知ってるよ、という方がいたら失礼、というかひょっとすると私がこの世で一番最後に気付いた人間なのかもしれないが、ともあれ解決策というのはこうだ――両手でパソコンを握り、親指だけでキーを打つ。最初のうちはぎこちなくて普段使わない手の筋肉が痛くなるかもしれないが、慣れればすこぶる快調である。私はもう1000字も打ってしまった。
 来るべき未来には、キーボードに頼らない入力方法が見つかるかもしれない。ワープロを10年使っただけで私は手書きのできない人間になってしまったが、次のコンピュータが一体どんなものになるかなんて想像もつかない。とりあえず現時点ではキーボート入力あるのみ、そしてキーボード入力と言えば「qwerty」である。実際のところ、「qwerty」はその昔、人が早くタイプしすぎてタイプライターが壊れないようにわざと打ちにくい順番に並べられたものだ。でも、今ではみんながすっかり馴染んでしまい、もっと効率のよい「Dvorak」などが開発されても一般に普及するには及ばなかった。
 さて、ここでいよいよ手のひらサイズパソコンの出番である。この数時間というもの Psion シリーズ3a を使い続けた者として、これは画期的な技術だと申し上げたい。そして技術者の方々には、かつての「Dvorak」の失敗に怯むことなく、決して万全とは言い難い「qwerty」を捨て、人が手のひらサイズパソコンを両手で握った状態で入力するに最善のキーボード操作を考え出していただきたい。今の私の指の間接みたいに、凝って痛くなったりしなければ万々歳だ。ブランウェル・ブロンテ同様、私も人間やればできるということを証明したが、明日も同じことを繰り返すのはごめんである。

(untitled)

p. 110

 我々は、うまく動かないものには気付く。うまく動いているものには気付かない。コンピュータには気付くが、小銭には気付かない。電子ブックの読者には気付くが、普通の本には気付かない。

Little Dongly Things

MacUser, Sep. 1996
pp. 111-115

 電源アダプターやプラグが、製品によってバラバラで、また国によっても異なることについてのエッセイ。
 アダムスは新しい製品にも目がなかった上に、国外で仕事をすることも多かったから、結果として彼の部屋には使いようのないアダプターの類がどんどん溜まっていったという。このエッセイの中で、アダムスはそれらを 'little dongly thing' と呼んでいるが、'little dongly thing' に代わる統一規格を生み出すために、まずは第一歩としてDCパワーアダプターを作ることから始めてはどうかと提案している(アダムスの願いも空しく、現在に至るもそんな気の利いたものは実現していないような気がするが)。

(untitled)

p. 115

What Have We Got to Lose?

Wired, UK edition; Issue No. 1, 1995
pp. 115-120

 オンライン雑誌の展望に関するエッセイ。
 従来の紙に印刷された雑誌からインターネット上の雑誌に移行することは、読者の側にとっては悪い話ではないとアダムスは言う。興味のない記事までいちいち目を通すことなく、必要な情報に簡単に辿り着けるし、何よりタダだ。
 では、出版社にとっては? 雑誌を売らないとしたら、代わりに何を売ればいい? 広告収入はどうなる? アダムスいわく、そもそも出版社とは何を売っているのかを考えてみればいいと言う。広告収入に頼っているということは、つまり彼らが広告主に売っているのは「広告を読んでくれる読者たち」ということになる。だとすると広告主にとっては、ただ漫然と雑誌に記事を載せるよりもオンライン雑誌にリンクを貼るほうが、消費者の許に彼らが欲しいと思っているものの情報をよりスムーズに届けられるのではないか――アダムス自身、新しいカメラを購入するためにカメラの雑誌を買い漁ったものの、雑誌全体の中で自分の希望と合致する商品の記事はほんのわずかだったという。
 今後、ひょっとすると人気のあるウェブページを読むにはお金がかかるようになるかもしれない。が、そこで支払う金額は、従来の新聞や雑誌に費やしたものより少なくて済むはずだ。なぜなら、パルプを作るために切り倒した木の代金も、運搬するためのガソリン代も、マーケティングの仕事をしている人間がいかに素晴らしいかをひけらかすのにかかる費用も、一切払わなくていいのだから。
 だとしたら、出版社の業務そのものが不要なのではないか、出版社がなければ、作家がお金を全額受け取れるし――と言いたいところだが、そう都合良くいかないとアダムスは言う。自分の書いた文章を広大なデジタルの海にぽんと投げ入れただけでは、誰かが拾って読んでくれる可能性は薄い。そこで、膨大なデジタル情報を整理し、読者の許に欲しい情報が届くように潮の流れを作ってくれる人が必要となるのだ、と。そして、「この(ビジネス)モデルから目を背けることは、とりもなおさず、多くの木を殺すことを意味している」(p. 120)。
 

Time Travel

p. 121

 タイム・トラベルについてどう思うかって? 定期的に未来からやってきては我々の日々の暮らしに干渉している人々がいる、と私は信じている。証拠なら至るところにある。保険金の請求をする時のことを思い出せばいい。不思議なことに、我々が請求する内容だけが、保険証書の記述から見事に排除されているではないか。

Turncoat

October 2000
pp. 121-125

 アダムスはかつて『銀河ヒッチハイク・ガイド』を書き、科学やテクノロジーを茶化したことで評判になった。それが後に、科学やテクノロジーを擁護するラジオ番組("The Hitchhiker's Guide to the Futre")に携わることになる。
 この変節(Turncoat)には、二つのきっかけがあったとアダムスは言う。
 一つは、アダムスが子供だった頃はコメディ番組はごく稀にしか放送されず、またそれらは「とびきり頭の良い人たちが、他のやり方では表現しようのないことを表現するもの」(p. 122)だったのに対し、今では天気予報士までもがコメディアンと化し、コメディに新鮮な驚きなど期待できなくなった、ということがある。そこで、新たな知的興奮を求めて、科学やテクノロジーのほうに関心を向けることとなったらしい。
 その直接の契機となったのが、あるスタンダップ・コメディを耳にした時だった。  

「科学者って、ほんとバカだよな! 飛行機にはフライト・レコーダーってのが積んであるだろ? あれは絶対壊れないっていうよな? 何があっても粉々にならないっていうんだぜ? だったら何で飛行機そのものを同じ材料で作らないんだよ?」(p. 123)。

 他の観客がこのジョークに大笑いしているのをよそに、アダムスは一人居心地の悪い思いをしていた。フライト・レコーダーはチタンで、飛行機はアルミニウムで出来ている。もしチタンで飛行機本体を作ったとしたら、重すぎて飛べない。アダムスはこのことを知識として知っている。観客が舞台のコメディアンを「チタンとアルミニウムの比重も知らないで科学者の悪口を言っているバカ」と思ってウケているのならいい。が、このジョークの狙いは「これだから科学者は使えない」であり、観客もそれに同調して笑っているのだ、と思った時、アダムスは背筋が冷たくなった。コメディに裏切られた、と感じつつ、また、自分がこれまでに作った多くのジョークも同種の無知から来るものだったらどうしよう、と。
 
 もう一つのきっかけは、1985年に動物学者のマーク・カーワディンとマダガスカルを旅した時だったという。熱帯雨林の何がそんなに特別なんだい、と、アダムスが軽い気持ちで質問したところ、わずか2分ほどの時間でカーワディンから熱帯雨林の生態の複雑さと多様性、それと同時にいかに危ういバランスの上に成り立っているものなのかを説明された。その説明で世界の見方がひっくり返るような感覚を味わったアダムスは、進化生物学に傾倒することになる。
 それまでアダムスが興味を持っていたコンピュータ・テクノロジーの世界も、ごく単純なコードが恐ろしく複雑な結果を産み出すという意味で、進化生物学に相通じるものがあった。また、生物進化のタイムスケールは巨大すぎてなかなかピンと来ないけれど、コンピュータによるシミュレーションを使えば進化の過程を実感することができる。「水圧ポンプを発明したおかげで、心臓がどうやって全身に血液を送り出しているのか分かるようになったように」(p. 125)。
 かくして科学とテクノロジーは、互いに刺激し合って発展していく。そのおもしろさに比べれば、コメディアンもテレビもサッカーも何程のものでもない、とアダムスは結論づけた。
 

(untitled)

p. 125

Is There an Artificial God?

Extemporaneous speech given at Digital Biota 2,
Cambridge
Sep. 1998
pp. 126-150

リチャード・ドーキンスは、著書『悪魔に仕える牧師』pp. 273-275、pp. 294-297)及び『神は妄信である』(p. 535)で、この講演の一部を引用している。

Cookies

From a speech to Embedded Systems, 2001
pp. 150-151

 2001年4月にサンフランシスコで開催された「組込みシステム開発技術展(Embedded Systems Conference)」で行った、基調演説の抜粋。内容は、『さようなら、いつも魚をありがとう』に出てくるリッチティー・ビスケットのエピソードが実体験だった、というもの。アダムスはこの話をあちこちの講演で繰り返しているようで、同年2月27日にテキサス州ダラスで開催された、米国BEAシステムズ(世界を代表するE−ビジネス・インフラストラクチャ・ソフトウェア企業の1つ)のユーザーカンファレンスでの基調講演の中でも使ったらしい。2001年3月5日のZDネット・ジャパンの紹介記事を読む限り、内容はオチに至るまで 'Cookies' とまったく同じである。

 そして最後は、おなじみのある旅先での列車の待ち時間の話で締めくくった。
 同氏は、待ち時間に、新聞とコーヒー、そしてクッキーを買いテーブルについて新聞を広げた。すると向かいにビジネスマンが座り、自分のクッキーを食べはじめるではないか。同氏は、頭が混乱しどうしていいか分からなくなったが、とりあえず怒るのも大人げないと思い、自分もそのクッキーに手を伸ばした。
 両者の間には、ただならぬ緊張感が漂ったが、お互いに引かず、最後のクッキーを手にしたところでビジネスマンは席を立った。同氏は、世の中にはひどいヤツもいたものだと思いながら、時間が来たので新聞をたたみ、席を立ったその瞬間、新聞の下に自分のクッキーが隠れていたことに気が付いたという。 「きっとあのビジネスマンは、この話を至る所でしていると思う。でも、彼はかわいそうだね。彼の話にはオチがないのだから……」

AND EVERYTHING

Interview with the Onion A. V. Club

interview conducted with Keith Phipps, 1998
pp. 155-167

a letter to David Vogel

Apr. 14, 1999
pp. 168-171

『銀河ヒッチハイク・ガイド』の映画化実現のため、アダムスがウォルト・ディズニー・ピクチャーのデイヴィッド・ヴォーゲルにあてて書いた手紙。

The Private Life of Genghis Khan

From The Utterly Utterly Merry Comic Relief Christmas Book, 1986
pp. 171-182

Young Zaphod Plays It Safe

From The Utterly Utterly Merry Comic Relief Christmas Book, 1986
pp. 183-197

Excerpts from an Interview conducted by Matt Newsome

pp. 197-198

The Salmon of Doubt

pp. 201-282

Excerts from an Interview with the Daily Nexus, April 5, 2000

Interview conducted by Brendan Buhler
artsweek
pp. 283-287

Epilogue
A LAMENT FOR Douglas Adams

Richard Dorkins, in the Guardian,
May 14, 2001
pp. 289-292

リチャード・ドーキンス著『悪魔に仕える牧師』に収録された。(pp. 288-292)

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