The Private Life of Genghis Khan

 以下は、1986年にチャリティとして発売された雑誌 The Utterly Utterly Merry Comic Relief Christmas Book に収録された、ダグラス・アダムスとテリー・ジョーンズの共作による短編小説の抄訳である。ただし、訳したのが素人の私であるので、少なからぬ誤訳を含んでいる可能性が高い。そのため、この訳はあくまで参考程度にとどめて、全貌をきちんと知りたい方は、The Salmon of Doubtに収録されたテキストにあたってくださるようお願いする。


 馬上の男たちの最後の一人が煙の中に消え、馬の蹄の鈍い音も灰色の地平線へと遠ざかっていった。
 煙が大地に漂っていた。煙は沈みゆく太陽の前を流れ、西の空に傷が開いているかのように見えた。
 戦闘の後の耳を聾する沈黙の中にあって、ごくほんのわずか、苦痛に満ちたかすかな悲鳴が、大地に横たわる血まみれでずたずたの残骸から聞こえた。
 恐怖に凍りつき、幽霊のような姿をした者たちが森の中から現れ、つまずいて転び、立ち上がって走りながら叫んだ――夫や、兄弟や、父親や、恋人を、死にゆく者や既に死んでいる者の中から探し出そうとしていた。彼らは明滅する光を頼りに探していたが、その光のもとは彼らの村を燃やしている炎であり、村はその日の午後、公式にモンゴル帝国の一部となったのだった。
 モンゴル族。
 中央アジアの荒地から出てきて、すべてをなぎ倒していくその獰猛な力は、世界が全く予期せぬものだった。彼らは、彼らの進む先にあるものすべてを、容赦なく振り下ろされる鎌のように刈り、たたき切り、ぶちのめし、全滅させ、それを「征服」と呼んだ。
 既に襲われた場所はもちろん、これから襲われることになるであろう場所でも、彼らの統率者、チンギス・ハーンほど恐れられている名前はなかった。アジア最強の戦士として孤高の存在となり、戦士の神としてあがめられ、冷たい光を放つ灰緑色の目と、眉に刻まれた恐ろしげな皺と、また相手が誰であろうとたたきのめすことができるという事実によって抜きん出ていた。
 夜がふけて月が昇ると、その光を頼りに馬上の男たちの小さな一群が松明を持ち、丘の裾野に広がるモンゴル族の野営地から静かに出て行こうとしていた。普通の観察者なら、彼らの中央で馬に乗り、重いマントにくるまり、緊張感を漲らせ、重い荷物を背負ってでもいるかのように馬の上で前のめりになっている男を見ても何とも思わなかっただろうが、そのような普通の観察者はとっくに死んでいた。
 一群は月光の森を数マイルばかり馬で進み、道を選びながら少し開けた場所に出たところで馬を止め、彼らの統率者を待った。
 彼は馬をゆっくりと前に進め、その開けた場所の中央に農民の小屋がいくつか寄り集まっている様を吟味し、鋭い一瞥でそれらが放置されたものであることを見て取った。
 原始的な煙突から煙が上がっている様子はなかった。窓から光が洩れてもおらず、どんな音も聞こえなかった。小さな子供が「しーーーっ」と言う声を除いては。
 一瞬、奇妙な緑色の炎がモンゴル族の統率者の目の中で煌めいたように見えた。笑み、と呼ぶにはあまりに重くて恐ろしいものが、よく手入れされた細い顎髭を引っ張った。その変わった種類の笑みを見れば、どんな愚か者でさえ、モンゴル族の戦士が何にもまして人をぶち殺すのが大好きなのだとわかっただろう。
 ドアが大きく開いた。モンゴル族の戦士がつむじ風のように小屋の中に飛び込んできた。2人の子どもは悲鳴をあげ、小さな部屋の角で目を見開いたまま小さくなっている母親のもとに駆け寄った。犬が吠えた。
 戦士は手に持った松明をまだ火が燃えている暖炉に放り投げ、続いて犬もそこに放り投げた。犬には良い教訓になっただろう。家族の中で最後の生き残りの男性は、白髪で老いた祖父だったが、勇敢にも目をぎらつかせて前に進み出た。刀の一振りでモンゴル人は老人の首をはね、首はコロコロ転がって机の足に小粋にもたれかかるようにして止まった。老人の体のほうは、自分の身に何が起こったのかわからず、しばらくそのまま突っ立っていた。それからゆっくりと、荘厳な様子で前に倒れ、ハーンは大股で近づいて乱暴に脇にどけた。幸せそうな家庭の光景を見てとり、恐ろしげな笑みを浮かべた。そして大きな椅子に歩み寄り、座ってみてその快適さを確かめてみた。椅子が気に入ると、大きな吐息をつき、犬が陽気に丸焼けになっている最中の暖炉に背を向けて座り直した。
 戦士は、怯えている女性の腕をつかみ、子供たちを強引に脇に押しやって、偉大なるハーンの目の前に震えている女性を立たせた。
 彼女は若くて美しく、長く濡れた黒髪だった。胸は盛り上がり、顔は恐怖で凍りついた。
 ハーンは、ゆっくりと、嘲るように、彼女を眺めた。
「おぬしは」ようやく彼は、低く、平板な声で言った。「わしが誰だか知っておるか?」
「あなたは……あなたさまは偉大なるハーン様です!」女性は叫んだ。
 ハーンの目が彼女を凝視した。
「おぬしは」彼は小声で言った。「わしがおぬしに何を望んでいるか知っているか?」
「わ、わたしはハーン様のためなら何でもいたします」彼女は言葉につっかえながら言った。「その代わりどうか子供たちをお助けください!」
 ハーンは静かに言った。「ならば、始めよ」。彼は視線を落とし、暖炉の炎に目をやった。
 恐怖で震え、ビクビクしながら女は前に進み出て、ためらいがちに青白い手をハーンの腕に置いた。
 戦士はその手を払い除けた。
「そうじゃない!」彼は吠えた。
 女はぱっと飛び退いた。もっとうまくやらなきゃダメなんだ。彼女は床にひざまずき、ハーンの膝をそっと押し広げようとした。
「やめろ!」戦士は怒鳴り、女を後ろに突き飛ばした。床の上にちぢこまる女の目に、恐怖に加えて困惑が混ざり始めた。
「さあ」戦士が切り出した。「今日はどんな日でしたか、と彼に訊くのだ」
「どんな……?」彼女は涙ながらに言った。「私……私、よくわからないのですけど……」
 戦士は彼女を睨みつけると、羽交い締めにして首元に刀を突きつけた。
「今日はどんな日でしたか、そう訊けというのだ!」
 女は苦痛と意味不明に喘いだ。刀がさらに突きつけられた。「言え!」
「えっと、今日は……」ためらいながら、かすれた声で彼女は言った。「どんな日……でしたか?」
「貴方!」戦士はささやいた。「貴方と言うんだ!」
 彼女の目は刀への恐怖で大きく見開かれていた。
「今日はどんな日でしたか……貴方?」彼女はいぶかしげに訊いた。
 ハーンは、疲れたようにちらっと彼女を見遣った。
「ああ、いつもと同じだったよ」彼は言った。「暴力まみれだ」
 彼は再び暖炉の火に目を向けた。
「よし」戦士は女に言った。「続けろ」
 彼女はほんの少しだけほっとした。どうやら、ある種のテストを通ったらしい。多分、ここからはもっと直接的なものになるのだろうし、少なくとも何とかやり遂げられる。彼女はびくびくしながら進み出て、ハーンを愛撫し始めた。
 戦士は彼女を部屋の隅まで突き飛ばし、蹴り付け、それからもう一度、喚きながら彼女を腕づくで立たせた。
「やめろと言っただろうが!」彼はがなり立てた。彼は彼女の顔を自分の顔の近くに引き寄せ、安ワインと傷んで悪臭漂うヤギ脂の匂いのする息を吹きかけたが、その途端、彼女は今は亡き夫のことを思い出した。彼も毎晩彼女に同じことをしていたのだ。彼女はすすり泣いた。
「感じよくしろ」モンゴル人は唸り声をあげ、彼女に向かって欲しくもない歯を吐き出した。「仕事はどうだったか彼に訊け!」
 彼女は呆然と彼を見つめた。悪夢はまだ続いていたのだ。彼女の頬にきつい一撃が見舞われた。
「彼に言うんだ」戦士はまたしても唸り声を上げた。「お仕事はどうだったの、貴方?」彼は彼女をぐいと前に押し出した。
「お仕事……どうだったの……貴方?」彼女はみじめったらしく声を上げた。
 戦士は彼女を揺さぶった。「もっと感情をこめろ!」彼は吠えた。
 彼女はまたすすり泣いた。「お仕事は……どうだったの……貴方?」またしてもみじめったらしい声だったが、でも今回は言葉尻に哀れっぽくも不機嫌な調子があった。
 偉大なるハーンはため息をついた。
「うむ、まあ悪くなかろう」彼は厭世的な様子で言った。「満洲をちょっとばかり一掃して、たっぷりの血を流してやった。それが午前中のことで、午後からは主にそこで略奪してたが、4時半ぐらいまでちょっとした虐殺もやった。そなたはどんな一日だった?」
 そう言うと、彼は毛皮の隠しから丸めた地図2枚を取り出して広げ、燃える犬の明かりを頼りに熱心に検証し始めた。
 モンゴルの戦士は暖炉から焼けた火かき棒を取り出し、脅すように女に突きつけた。
「言え! 続けろ!」
 彼女は悲鳴を上げて飛び退った。
「言え!」
「えっと、夫と父が殺されました」彼女は言った。
「ほう、そうかね」ハーンは地図から目を上げることなく、無関心そうに答えた。
「犬が焼かれました!」
「そりゃ本当かい?」
「え、あ、それは本当ですけど……あの……」
 戦士はまたしても火かき棒を突きつけた。
「それから、私はちょっとだけ拷問されました!」彼女は金切り声をあげた。
 ハーンは目を上げて彼女を見た。「何だって?」彼はぼんやりと言った。「すまんな、地図に集中していたもので」
「よし」戦士が言った。「彼に文句を言え」
「何ですって?」
「こう言うんだ、『ねえ、チンギス、私が話している時は他のものはどけてちょうだい。私はここにいて、一日中あくせく働いてたのよ……』」
「そんなこと言ったら殺されてしまう!」
「言わなきゃ殺す」
「こんなの耐えられない!」女は叫んで床にくずれ落ちた。「もてあそぶのはもう止めて」彼女は泣いた。「強姦したけりゃすればいいでしょ、でも私は……」
 偉大なるハーンは立ち上がり、女を見下ろして睨んだ。「だめだ」彼は荒っぽく呟いた。「結局バカにするだけ――他の連中と同じだ」
 彼は小屋から飛び出し、夜の闇へと馬で駆け出して行ったが、あまりに怒っていため、去る前に村を丸焼きにするのを忘れるところだった。

* * *

 またしても残虐な1日の終わり、馬上の男たちの最後の一人が煙の中に消え、馬の蹄の鈍い音も灰色の地平線へと遠ざかっていった。
 煙が大地に漂っていた。煙は沈みゆく太陽の前を流れ、西の空に傷が開いているかのように見えた。
 戦闘の後の耳を聾する沈黙の中にあって、ごくほんのわずか、苦痛に満ちたかすかな悲鳴が、大地に横たわる血まみれでずたずたの残骸から聞こえた。
 恐怖に凍りつき、幽霊のような姿をした者たちが森の中から現れ、つまずいて転び、立ち上がって走りながら叫んだ――夫や、兄弟や、父親や、恋人を、死にゆく者や既に死んでいる者の中から探し出そうとしていた。
 はるか遠く、煙幕の向こうでは、何千もの馬に乗った男たちが夜営地に到着し、騒々しい音を立て、怒鳴りちらし、手の甲にできた傷を見比べながら馬から降るや否や、安いワインと嫌な匂いのするヤギの脂肪にかぶりついた。
 豪華な布張りの皇帝用テントの前では、血をしたたらせ、闘いに疲弊したハーンが馬から降りた。
「今回は何の戦いだったかな?」彼は共に馬に乗っていた息子のオゴデイに訊いた。オゴデイは若く、野心的な将軍で、あらゆる種類の残虐行為に強い関心を抱いていた。彼は、1本の刀で農民を串刺しにする自身の世界記録を更新することを願っていて、その夜は練習に明け暮れるつもりだった。
 彼は父親に歩み寄った。
「サマルカンドの闘いでございます、ハーン様!」彼は宣告し、自身の刀を素晴らしく印象的なやり方でカタカタ鳴らした。
 ハーンは腕を組んで馬にもたれかかり、眼下に広がる谷で自分たちが引き起こしたすさまじい惨状を眺めた。
「もはや区別がつかなくなってきた」彼はため息をつきながら言った。「わしらは勝ったのか?」
「もちろんです! もちろんですとも!」オゴデイは大いなる誇りをこめて叫んだ。「まことに見事な勝利でした!」
「本当に、そうでした!」付け加えて、また刀を揺すった。興奮して刀を抜き、何度か突きの練習をする。そうとも、今夜は記録を6人にのばしてやる。
 ハーンは暮れゆく空に向かって顔をしかめた。
「やれやれ」彼は言った。「20年もの間、2時間の戦闘を続けてきたのだから、もっと生きている実感を感じられてもよさそうだがな」彼は振り返り、破れて血のついた黄金の刺繍付きチュニックを持ち上げ、自分の毛深い腹を見下ろした。「ほれ、ここだ」彼は言った。「ちょっと太ったと思うか?」
 オグデイは、偉大なるハーンの腹を敬意とイライラの混ぜこぜ状態で眺めた。
「えっと、いいえ」彼は言った。「ちっとも太ってません」オグデイは指を振って召使いを呼びつけ、地図を持って来させ、ざっと目を通すと、腰をおろし、冷静だが全く動揺していないというわけでもない指先で偉大なるキャンペーン計画を指し示した。
「ハーンよ、今こそ」そう言いながら彼は後ろにいる別の召使いの背中に地図を広げた。この召使いは、そのために猫背の姿勢で立っていたのだ。「我々はペルシャに進軍しなければなりません、そうすれば全世界制覇の準備が整うことでしょう!」
「うーん、いやその」ハーンは指の間の皮膚のひだをつまみながら言った。「どうだろう……」
「ハーン!」オグデイは性急に遮った。「我々は今まさに世界征服を成し遂げようとしているのです!」彼は地図にナイフをぶっ刺し、そのせいで地図の下の召使いは左肺にひどい怪我を負った。
「いつ?」ハーンはまゆをひそめながら言った。
オグデイは激昂して両腕を振り回した。「明日です!」彼は言った。「明日から始めるのです!」
「ああ、いや、明日はちょっと難しいかのう」ハーンは言った。ほっぺたを膨らませ、少しの間考えをめぐらせる。「というのも、来週ブハラで大虐殺技術の講義があって、明日はその準備をしようと思っておったんじゃ」
 オグデイは唖然として彼を眺め、地図台係の召使いはゆっくりと足元に頽れていった。
「えっと、延期することはできないのですか?」彼は叫んだ。
「ああ、いや、既に大金を支払ってもらったから、今さら断れんのじゃ」
「では、水曜日は?」
 ハーンはチュニックから巻物を取り出して確認し、それからゆっくりと頭を振った。「水曜日は難しいな……」
「木曜日は?」
「木曜日はダメじゃ、それははっきりしておる。この日はオグデイとオグデイの奥方をディナーに連れていってやらねばならん、わしは約束は守る男だから……」
「でも、私がオグデイなんですよ!」
「おや、それなら話は早い。お前も無理だよな」
 オグデイは押し黙り、聞こえてくるのは何千もの毛深いモンゴル族の男たちが怒鳴り、争い、小便をする音のみ。
「いいですか」彼は静かに言った。「それじゃあ世界征服をするのは……金曜日でいいですか?」
 ハーンはため息をついた。「じゃが、金曜の朝には秘書が来るのじゃよ」
「来させればいいじゃないですか」
「解答しなくちゃならん手紙を山ほど抱えてな。みんながどんなにわしの時間を奪おうとするか、お前も知ったらびっくりするぞ」彼は陰鬱な様子で馬を撫でた。「これにサインしてください、だの、あちらに行ってください、だの。チャリティのための虐殺のスポンサーになってくれませんか、とか。そんなこんなで最低でも午後3時までかかって、それが終わったらのんびりとした週末を過ごせるというのだけが楽しみなんじゃ。なので、月曜、月曜か……」
 彼はもう一度巻物をチェックした。
「悪いが月曜はナシじゃ。休息と保養、これだけは譲れん。ということで、火曜日はどうじゃ?」
 この時、遠くから耳障りな騒音が聞こえてきたが、よくある男たちに虐殺される女子供の悲鳴だったので、ハーンは気に留めなかった。地平線上に光がまたたいていた。
「火曜日――えっと、朝の間は用事はなさそうですね――いや、ちょっと待った、私の苦手分野にものすごく精通した、ものすごく興味深い男と会う約束をしていたっけ。となると、次なる候補は翌週の火曜日か――この日は私は……」
 耳障りな騒音は続いていた、というか、激しくなっていたが、夕風の中に軽やかに漂っていたので、ほとんどハーンの邪魔にならなかった。光もだんだん近いてきていたが、明るい月夜だったため、区別がつかない程度の弱々しいものだった。
「……となると、3月は無理そうだな」ハーンは言った。「残念ながら」
「4月ですか?」オグデイが疲れたように言った。彼は何となく農夫の肝臓を取り出してみたが、今やちっともおもしろいと思えなかった。彼はそれを無造作に暗闇に放り投げた。何年もの間、常にオグデイのそばにいたせいで丸々と太った犬がそれに飛びついた。それもちっとも愉快じゃなかった。
「いや、4月も無理だ」ハーンは言った。「4月にはアフリカに行く。これだけは、自分に自分で約束したのじゃ」
 夜空を抜けて近いてくる光は、ついに集落の周辺にいた二人のリーダー格のモンゴル人の注意を惹いた。驚くべきことに、彼らは互いを殴ったりそこらにあるものを刺したりするのを止めて、近づいた。
「となると」何が起こっているのか知らぬまま、オグデイは言った。「では、5月に世界征服をする、ということでよろしいですか?」
 偉大なるハーンは、懐疑的な様子で口をすぼめた。「というか、わしはこれ以上の前進にかかわりたくないのじゃ。人の運命があらかじめ完璧に定められているのなら、あまりに窮屈ではないか。わしはもっと読書をすべきなのに、いやはや一体いつになったらそんな時間がとれるのだ? ともあれ――」ハーンはため息をつきながら巻物をめくった。「『5月――世界征服の予定』、と。予定に書き込んだだけだから、これで絶対的に決まったとは思わんでくれよ――それでも心にはとめておくし、ま、なるようになるじゃろ。ん、何じゃ?」
 ゆっくりと、バスタブに入ろうとする美女のような優雅さで、長くてスリムで銀色の物体が地面にそっと降りてきた。柔らかな光が溢れ出ていた。入り口が開き、奇妙で淡い灰緑色の肌をした、背の高い優雅な生き物が現れた。彼らに向かってゆっくりと歩いてくる。
 その通り道には、自分の肝臓をオグデイの犬に食べられてしまい取り返すすべがなく、哀れな妻がこの先どうやって折り合いをつけていくのだろうと思ってしくしく泣いている農夫の陰気な姿があった。この瞬間、彼は自分より立派なものに道を譲ることにした。
 背の高いエイリアンは、不快そうに彼を踏み越えたが、もし彼の表情をものすごく近くで仔細に検討したなら、そこにほんの少しの嫉妬を見出すことができただろう。エイリアンは、集まったモンゴル族のリーダーたちに順番に軽く頭を下げて挨拶し、重そうで光沢のあるローブの下から小さなクリップボードを取り出した。
「こんばんは。私の名前はウォウバッガー、無限寿命とも呼ばれているが、その理由を説明して手数をとらせるつもりはない。よろしく」
 彼は、心底びっくりしている偉大なるハーンに向き直った。
「あなたがチンギス・ハーン? イェスゲイの息子、チンギス・テムジン・ハーン?」
 ハーンの手から、スケジュール帳の巻物が地面にすべり落ちた。ウォウバッガーの船から放たれている青白い光が、当惑し、やつれ、疲れ果てたモンゴル族の男たちを包み込んでいた。まるで夢の中にいるかのように、偉大なる皇帝は承認の証として前に進み出た。
「スペルを確認させてもらえますか?」エイリアンはクリップボードを見せながら言った。「この段階で間違えてまた最初から全部やり直す羽目になるのは、いやほんと、勘弁なのでね」
 ハーンは軽くうなずいた。
「Hの数も合っていますか?」エイリアンは言った。
 神のごとき皇帝は、もう一度、軽く頭を下げたが、その目はきょときょとしていた。
「結構」エイリアンはそう言うとクリップボードに小さくチェック印を付けた。目を上げて、「チンギス・ハーン」と言った。「お前はヘタレだ。マヌケだ。おそろしくちっぽけなクソだ。以上」それだけ言うと、彼は船に引き返して飛び去った。
 イヤな感じの沈黙が残った。
 翌年、チンギス・ハーンはヨーロッパを強襲したが、あまりに怒り狂っていたため、うっかり後に残してきたアジアを焼き払うのを忘れるところだった。

 

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