The Salmon of Doubt のイントロダクション

 2002年5月、アダムスの遺稿集 The Salmon of Doubt: Hitchhiking the Galaxy One Last Time が、イギリスでは Macmillan から、アメリカでは Harmony Books から出版された。イギリス版もアメリカ版も内容はまったく同じだが、イギリス版にはスティーヴン・フライが、アメリカ版にはクリストファー・サーフが、それぞれ紹介文を寄せている。以下はその抄訳だが、ただし訳したのは素人の私なので、少なからぬ誤訳を含んでいる可能性が高い。そのため、この訳はあくまで参考程度にとどめて、全貌をきちんと知りたい方は、必ずオリジナルにあたってくださるようお願いする。


〈イギリス版〉

Introduction

 私は今、とてもダグラスっぽい状況にある。ダグラスっぽいとは、大体こんな感じ。
 
 ・アップル・マッキントッシュ・コンピューター
 ・絶対守れない締め切り
 ・エド・ヴィクター(ダグラスのエージェント)
 ・絶滅危惧種
 ・恐ろしく高額な五つ星ホテル
 
 私は(マッキントッシュ)コンピューターを叩きながら、エド・ヴィクターに課せられた締め切りと闘っている。果たして、次の火曜日までに The Salmon of Doubt への序文を書き上げられるだろうか?
 私がいるのはペルーにあるべらぼうに贅沢なホテル、リマのミラフローレス・パーク・ホテルで、セロファンに包まれた果物の籠盛りと高級シャンパン、ルイ・ロデレールを楽しみながら、地球上で生態がほとんど知られていない、それでいてもっとも迫害されているメガネグマを探しに内陸部へと探検に出る準備をしている。
 超高級ホテルでは、どの部屋でもブロードバンド回線でインターネット接続が可能であり、私も自分のパソコンで、Apple 社のCEO、スティーヴ・ジョブス氏がサンフランシスコのマック・エキスポで基調演説をしている2時間の映像を観たばかりだ。クールなコンピュータ界の帝王が、ちょうど新しい iMac のお披露目をしたところだったが、私はこのことについてダグラスに電話することもメールすることもできずにいる。セクシーでたぐいまれなるアップルのハードウェアの真新しくて革命的な一品に、ダグラスが対面することはない。iPod で遊ぶことも、iPhoto をいじくり回すことも叶わない。ダグラスを知っている人なら誰しも、彼の何百万もの読者も含め、この事実に悲しみと失望を憶えるはずだ。彼にとって新製品を見逃すのは痛恨事だろうが、我々にとっても劣らず痛恨事である。せっかく新製品が出ても、新製品に関する定評ある詩人がそれを褒め讃えることはもうないのだから。
 私は、新製品をどう捉えるべきか知りたいと思う。新しいマシンが何に似ているか知りたい。そりゃ自分の視覚と感性を使うことはできるが、私は自分のよりはるかに優れたダグラスの洞察を利用するのに慣れ切っているのだ。彼なら、的を射た悪口や、完璧な隠喩や、最高の笑顔を提供してくれただろう。勿論、新製品に限ったことではない。彼なら、メガネグマの愛想がよくて奇妙な行動や性格を、普通の人間としての経験と抽象的な科学的思考とに繋げる方法も見つけ出しただろう。我らが暮らすこの世界は、ダグラスの視線を経てより鮮明となる。と言うか、この世の大混乱と理不尽な不透明さがはっきりする。ダグラスが説明してくれて初めて、我々はこの宇宙がいかに矛盾だらけでデタラメか、人類がどんなにバカで低能かに気が付いたのだ。彼特有の、人なつっこくて逆説的で、かつ気負いのない文体は、彼を一段と偉大にした。ついさっき、私はバスルームに行ってきたが、そこに置いてあった石鹸(客室用としてホテルが用意したもので、どうやっても破けないプラスチック・ペーパー製の、バカバカしいまでに開封不可能なディスクに入って、きつく密封されていた)が実は石鹸なんかではなくて、正しくは「アーモンド・フェイシャル・バー」という名前だった。こんな話は、本当なら直ちにダグラスにメールして、そうしたら彼からすぐ返信メールが届いて、そしてその文章たるや、私をホテルの部屋でたっぷり一時間半はくすくす笑いで踊り回らせるはずなのに、そういうことはもう二度と起こらない。
 彼の衝撃的で理不尽な訃報に続く数週間、ダグラスがどんなに素晴らしいコミック作家だったか、とか、彼がいかにさまざまなことに関心を持っていたか、とか、彼の影響力がどれほど大きかったか、という話を耳にしたことと思う。この本は、彼が優れた教師でもあったことを示している。夕焼けがいつも同じ色と形ではないことをターナーの目を通じて知ったように、キツネザルや一杯の紅茶は、ダグラスの鋭くも訝しげな視線のおかげで、もはや以前と同じものには戻らないだろう。
 それにしても、さまざまな本の紹介をテーマに書かれた素晴らしい紹介文を収録したような本の紹介文を書け、とは、あまりに不当な依頼ではないだろうか。さらに不当なことに、これは同世代の中で最高のコミック作家の死後に出版された本であり、この本にはあらゆる世代の中で最高のコミック作家の死後に出版された本に対する決定版ともいうべき紹介文が収録されている。P・G・ウッドハウスSunset at Blandings への、ダグラスの序文だ。ロンドンで行われた記念葬儀の場でエド・ヴィクターが指摘した通り、この序文は他でもないダグラス本人の才能についての正確な描写でもあった。勿論、ダグラス本人は書いている最中にそんなことはこれっぽっちも考えていなかっただろうが。
 ダグラスはいかにもイギリス人的な、謙虚さを第一とするタイプではなかったけれど、高慢ちきでもうぬぼれ屋でもなかった。とは言え、彼が自分のアイディアを人に伝えようと必死になった時は、熱意が高じて電話越しだろうとディナー・テーブル越しだろうと風呂場だろうとおかまいなしで、また他の仲間や他の考えに対して聞く耳を持たなくなることはあった。そういうダグラス流の会話は、一対一だったり差し向かいだったりした時にはえらく疲れるものだったし、思考から思考へと情熱的に次々と移っていくのについていけない人には支離滅裂だっただろう。でも、彼の書く文章が支離滅裂だったことは一度もない。彼が、ただの一度も完璧なピルエットをやってのけられなかったのと同じように――嘘じゃない、単にピルエットをやるだけで家具と善良な見物人の安心感をぶち壊すことのできる人間は、ダグラス・ノエル・アダムスぐらいのものである。
 彼は作家だった。この世には、時々上手な文章を書く人と、本物の作家がいる。ダグラスは、ここで説明やら分析を試みるのも的外れではあるけれど、作家として生まれ、作家として成長し、その早すぎる死の瞬間まで作家であり続けた。最後の約10年間ほどは小説家であることは止めていたが、一秒たりとも作家であることは止めなかったし、幸せなことにその事実は、この The Salmon of Doubt という本が証明している。講義のための準備稿でも、その時々に書いた新聞記事でも、科学やテクノロジーの専門誌に寄せた文章でも、ダグラスが生得的な才能で言葉を一つ一つ丹念に紡ぎ、読者の心を鼓舞し、喜ばせ、けむに巻き、肯定し、示唆し、そして楽しませてくれたということにおいては、終生変わりなかった。彼の文章には自意識過剰なところがなく、文章を書くのに有効な修辞や裏技は、本当に必要と思われる時以外には使われていない。この本を読めば、一見したところ(そして実に誤解されやすくもあるのだが)彼の文体の飾り気のなさに驚かれるにちがいない。まるで直接話しかけられているような、それも即興で語られているかのようにさえ感じられる。が、ウッドハウスの時と同様、彼の作家としての執筆エンジンがかくも滑らかで自然な動きをするのは、丹念なチューニングを行い、ネジやガスケットをきちんと締めたからなのだ。
 ダグラスは読み手に、ダグラスまるでが自分だけに向けて書いたかのように感じさせることのできる、稀なアーティストの一人だった(またぞろウッドハウスも含まれる)。そうなる理由の一つとしては、彼の(この言葉を使うのには抵抗があるけれど)ファン層の親密さと熱心さがあると思う。ベラスケスを見たり、モーツァルトを聴いたり、ディケンズを読んだり、ビリー・コノリーに笑ったりする時――この四人の名前は適当に挙げただけだ(議論する目的で適当に名前を選ぼうとするといつもすごく時間がかけて考え込んでしまう)――、彼らがこの世に与えた影響の大きさに気付かされる。一方、ブレイクを見たり、バッハを聴いたり、ダグラス・アダムスを読んだり、エディ・イザードに笑ったりする時には、「彼らのことを誰より理解しているのは自分だ」と思う。そりゃ他の人たちだって褒め讃えてはいるけれど、自分みたいに彼らと繋がりを感じている人はいない、と。これを理論として押し進めてみよう。ダグラスの仕事は、バッハのような高尚な芸術でもなければブレイクみたいに個人の内なる宇宙を凝視したものでもなかったが、それでも私の見解は有効である。それは、恋に落ちるようなものだ。とびきり美味しいアダムスの言い回しや形容語句を目にして思わず脳細胞を差し貫かれたなら、思わず近くの人の肩を叩いてその感動を共有したいと思いつつ、でも他の連中には自分のようにあの文章を理解するだけの能力も資質もないはずだと秘かにほくそ笑む――自分の友人が、(ありがたいことに)これから自分が付き合い始めようと思っている相手と恋に落ちなかった時と同じように。
 あなたは今、利口で、挑発的で、親切で、愉快で、中毒性の強いダグラス・アダムスの世界のとば口に立っている。一息に丸呑みしたりしないで――ダグラスが大好きだった日本食同様、見た目は軽くて消化が簡単そうだとしても、一見したときのイメージ以上に繊細で滋養が多いから。
 亡くなってまもない作家の引出しの底には、固く鍵をかけて仕舞い込まれた、往々にして最高の文章が残されているものである。ダグラスに関しても、皆様にもご納得いただけると思うが、引出しの底(彼の場合はハードディスクのサブフォルダの中だけど)をこじ開けるだけの価値が十分にあった。クリス・オグル、ピーター・ガザーディ、ダグラスの妻ジェーンとアシスタントのソフィー・アスティンは素晴らしい仕事をした。ダグラスのいない世界は、ダグラスのいる世界よりちょっと楽しくないけれど、The Salmon of Doubt を読んでいる時の高揚感は、彼が不意にいなくなってしまった寂しさをしばし忘れさせてくれる。  

 スティーヴン・フライ
 ペルー
 2002年1月


〈アメリカ版〉

Introduction

  ダグラス・アダムスはあらゆる意味で巨大な存在だった。まず、身体がとんでもなく大きくて、6フィート5以上の高みから世界を見下ろしていた(実際、学校の遠足ではダグラスいわく、「教師たちは「時計台の下に集合」とか「戦争記念碑の下に集合」と言わず、「ダグラスの下に集まって」と言ったものだ」)。
 また、彼は個性という面でも特大サイズだった。開放的で快活で常に好奇心旺盛、いつだって新しいことに関心を持って熱心に取り組み、人を引き付けてやまない魅力があった。私は、イズリントンで彼と数時間ランチを共にするという僥倖を得たことがある。それは、彼がその頃参加していた "Save the Rhino International" 活動の一環として、重くて動きにくいサイの着ぐるみを着てアフリカの最高峰キリマンジャロ登頂を目指すというプロジェクトを彼が正式に引き受けた数時間後のことだった。イベントはすぐ間近に迫っており、指定された登山開始日は偶然にもいくつかの大切な原稿の締め切りと同じ日だった。「どうする気だい?」私は尋ねた。「そりゃあ」と、彼は答えた。「やるしかないだろう?」(そして彼はやってのけた。この時の模様は、"The Rhino Climb" で詳しく語られているが、このエッセイが本に収録されるのは今回が初めてである)。
 ダグラスが人に親しみを感じさせた理由の一つとして、自身の広範囲かつ常に進化し続けるアイディアと熱意を、理解してくれそうな相手となら誰とでも共有することに純粋な喜びを抱いていたことが挙げられる。この気質こそが、たぐいまれなるユーモアのセンスや親切心や寛大さにもまして、彼をユニークで得難い友にしていた。私が彼に初めて会ったのは1980年代初め、アメリカン・ブックセラー協会のコンベンションの席上だった。共通の友人(にしてエージェントの)エド・ヴィクターが、私が臆面もない『銀河ヒッチハイク・ガイド』狂であること、またちょうどその当時、私がインタラクティブ・フィクションの一ジャンル、コンピューター・テキスト・アドベンチャーについて猛勉強中で、そしてダグラスがこの分野に関心を寄せ始めていることを知っていて、私たちを引き合わせてくれたのだった。後にダグラスは、インタラクティブ・フィクションとは、語り手が「観客に反応を促すのではなく、観客が語り手に反応を促す」ものと特徴づける。
 ダグラスと私は、読み手がコンピュータに入力する言葉を予測し、それに対してウィットに富んだ、しかも意外性のある返答を準備することにすっかり夢中になった。幸運にも、私はインフォコムの画期的なアドベンチャー・ゲーム「ゾーク」の共同製作者、マーク・ブランクに会ったことがあり、ダグラスに彼を紹介することができた――自慢させていただくと、このミーティングがきっかけとなって、インフォコムからダグラスの素晴らしいゲーム版『銀河ヒッチハイク・ガイド』が誕生した(ダグラスと一緒に原稿を書いたのはスティーヴ・ゼレツキー(訳者註)だけど)。そしてそれからさらに数年後には、『宇宙船タイタニック』という新たなスタイルのテキスト・アドベンチャーで賞を受けることになる。
 程なくして、ダグラスと私には他にも共通の趣味があることが分かった。モンティ・パイソンのコメディや、Beyond the Fringethe Goon Show。新発売のマッキントッシュ・コンピューター。『ウィークリー・ワールド・ニュース』(地球上もっとも笑えるタブロイド紙だ)。それからプロコル・ホルムの驚異的な電子音楽と、ピアニスト兼ボーカルのゲイリー・ブルッカー、彼の作品は『青い影(A Whiter Shade of Pale)』を除けば、もっと注目されていい(私は彼らの「グランド・ホテル」という曲が大好きだったが、この曲がダグラスの『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズ2作目の『宇宙の果てのレストラン』にインスピレーションを与えたと知った時はびっくりした)。
 プロコル・ホルムと言えば、ダグラスを取り巻く友人たちがダグラスの最大の魅力と考えているもの、すなわち、みんな心の中では切望していても実行するにはあまりにバカバカしい、あるいは責任が負えないようなことを、まんまと私たちにやらせてしまう能力を示す出来事があった。1990年代初頭のとある午後、私はニューヨークの自宅アパートメントにいた。その一日か二日前に、私は太平洋を渡って日本に行き、アップル・コンピュータ主催の国際コンファレンス会場でダグラス(及びその他の数百人)に会ったのだが、その時彼からびっくりするような電話を貰った。「もしこのミーティングの次の日に、僕がゲイリー・ブルッカーをロンドンでのディナーに誘えたら、君もニューヨーク経由でロンドンに来るかい?」
 「君、ゲイリー・ブルッカーと知り合いだったっけ?」私は訊いた。
 「今のところ、まだ」彼は正直に言った。「実際、どうやったら彼を見つけられるかもよく分からないんだが。でも、イギリスは小さい国だしね。君のほうは、来れるって約束できる?」
 私は約束した――そして次に私が憶えているのは、1週間と経たないうちに地球を四分の三にあたる距離を移動し、イズリントンにあるアダムス宅のディナーテーブルを囲んで、ダグラスと彼の奥さんのジェーンと、それからちょっと当惑した顔のゲイリー・ブルッカーと一緒に座っていたこと。私たちはブルッカーのキャリアや作品について彼を質問攻めにしたのだが、その結果、(不可能なことなどないに等しい)ダグラスはゲイリーの曲を本人以上に熟知していることが分かった。何たって、ピアノの前に座ってゲイリーに曲の弾き方を思い出させたのだから。
 それはさておき、ダグラスと言えばやはり並外れた、多面性的な天才コメディ作家である。私が思うに、彼の作品がユニークなのは、彼が作品の中で示しているひどく矛盾した特質故だ。彼は、世界トップクラスの知性を持ち、文学、コンピューター、進化論、ポップ・カルチャー、遺伝学、音楽など、ありえないくらい多岐に亘るジャンルで凄い博識を誇ると同時に、とんでもないバカを晒すこともある。餓えるテクノフォビアでありながら、いわゆるハイテクおもちゃの類には目がない。ありとあらゆることにひどく懐疑的でいて、そのくせ大仰なくらい快活な精神を持ち合わせている。地球上の誰より反応の早いウィットの持ち主なのに、自作を仕上げる段には執拗なまでの完璧主義を貫く。
 わんぱく小僧の茶目っ気(260ポンド以上の目方がある人間を「小僧」呼ばわりすることが許されるなら、だが)、比類なきアイロニーのセンス、それに物事を不条理かつ論理的に関連づける巧さ、そういったものがあれば、他に類をみないようなものを創り出せる。攻撃を受けて破壊されているのに、それでもまだ一列に並んで「抵抗しても無駄だ!」と叫び続けているセキュリティロボットとか、地球上のあらゆる生命の営みが詳しく記述されたものの、宇宙旅行者が人類について知っておいたほうが良いことなんて煎じ詰めれば「ほとんど無害」の二語で十分、と出版社に判断されてしまったガイドブックとか、また、この本に納められたダグラスの未完の(たびたび締め切りが引き延ばされた)新作小説の気になる断片から選ぶとすれば、自分のタクシーに客が飛び乗るなり定番のフレーズ「前のタクシーを追いかけろ!」を言ってくれたことがないのは、きっと他のタクシーが自分のタクシーを追いかけているせいだ、という結論に至ったタクシー運転手だろうか。
 今あなたの手の中にあるこの本に集められた文章は、ダグラスの死後、彼のマックのディスクドライブから引き出され、ダグラスの未亡人ジェーン・ベルソンと長年に亘って仕事をしていた秘書ソフィー・アスティンの二人から力強いサポートを得て、ピーター・ガザーディが見事に編集したものである。ここに選ばれた文章は、アダムスの他の作品同様に、彼の幅広い興味と才能をよく伝えているが、それと同時に、彼の小説とは違って、何か新しくてわくわくするものに出会ったら、それを紹介して共に分かち合おうとする姿が見られる。私を含む、幸運にも彼を個人的によく知っていた者たちが、彼からおもしろくてためになることをたくさん教えてもらったように。みなさんも私同様、この本を読み終える前に、ダグラスのアドバイスに従ってリチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』を読んだり、ビートルズの「ドライヴ・マイ・カー」やバッハの「ブランデンブルク協奏曲第5番」をもう一度(今度は前よりも身を入れて)聴き直したり、あるいはダゲンハム・ガール・パイパーズについて調べて直したり、あるいは、人生初の本当の英国紅茶をいれてみるにちがいない。
 さて、ここまできてようやくダグラスの驚異的な先延ばし能力について触れる時がきた。今ではすっかり伝説と化しているが、ダグラスの少なくとも3人の編集者、スー・フリーストーンとソニー・メータと Shaye Areheart は、とっくに締め切りを過ぎた原稿をアダムスに書き上げさせるために、何日も彼と同じ部屋に閉じこもる羽目になった(とは言え、彼が一緒にいてあんなにも楽しい人物でなかったとしたら、それでも彼らはああも頻繁に彼の許を訪れただろうか、とは思う)。そもそも締め切りを守れないことについてのダグラスの言い訳(本当のところは、完全主義と、彼のお気に入りのフレーズを使えば「何十万もの言葉を精確に並べる」のに失敗することへの恐怖とが渾然一体とっていたのだけれど)が、これまたさらに驚異的だった。先に書いた通り、サイ救済活動のためのキリマンジャロ登頂でダグラスは締め切りを破って編集者を動転させたが、その後さらにダグラスは「sub bug」(一人用スキューバ・ダイビング・マシン)とイトマキエイの試乗テストのためにオーストラリア旅行を決行し、またしても締め切りを破ったのだった(詳しくはこの本に収録された "Riding the Rays" を参照のこと)。
 不幸にして、そして理解不可能にして、誰も予測できなかった心臓発作により、ダグラスは長く待ち望まれ、遅れに遅れていた新作 The Salmon of Doubt を先延ばしすることができなくなった。生前のインタビューで、彼は本の完成にはまだ何ヶ月もかかる(何年も、でなければだが!)と話している。この本は、『ダーク・ジェントリー』シリーズのままだっただろうのか、それとも彼がほのめかしていたように『銀河ヒッチハイク・ガイド』三部作のシリーズ6作目にして最終巻に書き直されただろうか。ああ、どうして彼は昨年春のジムへと向かう運命の道を進みながら、先延ばしにする言い訳を思いついてくれなかったのだろう。
 私と、それからやはりダグラスのアメリカ人の友達だったマイケル・フリスがPBSに向けて製作している子供向けテレビ教育番組 Between the Lions をご覧になったことのある方なら、主要なキャラクターであるライオンのライオネルがいつも着ているラガーシャツに「42番」と書かれていることにお気付きだろう。このちょっとした信条表明は、(『銀河ヒッチハイク・ガイド』の中でかの有名なコンピューター「ディープ・ソート」が算出した)「生命と宇宙と万物についての究極の答」を伝えるためというより、ダグラス・アダムスというユニークで他に買え難い素晴らしい人物のことを、直接知っている人にも本で読んで知っている人にも、いつまでも忘れないでいてもらいたいと願ってのことである。少なくとも、これは正しい方向に進む一歩ではある。
 ダグラス、君のことが大好きだった、君がいなくなって本当に寂しい。それから、ハードディスクの中身をそのままにしておいてくれてありがとう。おかげで、君との最後の会話をみんなと共有することができるよ。

 クリストファー・サーフ
 ニューヨーク
 2002年2月

(訳者註)クリストファー・サーフは、ゲーム版『銀河ヒッチハイク・ガイド』の共同執筆者の名前を'Steve Zeretsky'と書いているが、これは'Steve Meretsky'の間違いだと思われる。

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