以下は、アダムスがP・G・ウッドハウスの遺作、Sunset at Blandings (Penguin Books, 2000) に寄せた序文の抄訳である。ただし、訳したのが素人の私なので、少なからぬ誤訳を含んでいる可能性が高い。そのため、この訳はあくまで参考程度にとどめて、全貌をきちんと知りたい方は、必ずオリジナルにあたっていただきたい。なお、このテキストはアダムス自身の遺作、The Salmon of Doubt にも再録されている。


 本書はP・G・ウッドハウスの最後の、そして未完の作である。未完、というのは、単にこの作品が、彼と彼の作品を愛する我らにとっては胸の痛むことに、唐突に話の途中で終わってしまっている感がある、というだけではなく、もっと重要なことにテキスト自体が完成されたレベルにまで達していない、という気がするためである。ウッドハウスにとって初稿とは、プロットの構造や、登場人物の出入り、彼らが登るべき山やら下るべき丘、といったストーリーを整えるための基本材料を集めた叩き台にすぎない。執筆する、というのはその次の段階であり、ここで容赦ない改修や訂正、推敲が行われ、彼の作品は我々が愛してやまない言葉の奇跡へと生まれ変わる。本を書く時、彼は仕事部屋の壁に書き上げたページをひらひらはためく紙の波よろしくピンで留めた。よく書けた、と思うページは壁の高いところに、まだ手直しが必要、と思われるところは低いところに留めたらしい。そうやって、すべての原稿を写真かけの場所よりも高いところに貼り付けてから、彼は原稿を人に渡したのだ。Sunset at Blandings の大半は、多分まだイスの後ろに隠してあったにちがいない。書きかけの原稿だったのだ。この中の多くの文章は、後に訂正するためのその場しのぎにすぎなかった――めくるめくイメージと着想が、ページとなって壁に向かって貼り付けられている状態。
 とは言っても、ここにもウッドハウスという偉大な天才の、多くの証拠を見て取ることはできないだろうか? 率直に言って、答えはノーである。書きかけの未完作だ、ということもあるが、そもそもこの作品を書いていた時、何と言っても彼は93歳だったのだ。この年齢ともなれば、最良の作品とみなされるべきものは既に書き上げられていてしかるべきだろう。ある意味、ウッドハウスはとびきりの長寿を享受する(彼はダーウィンが死んだ年に生まれて、ビートルズが解散した後も執筆していた)ことで、最後にはセルバンテス役とピエール・メナール役を一人二役で演じることになったとも言える(これがどういう意味かは敢えて説明しない。私が何を言っているのか分からないという人は、ホルヘ・ルイス・ボルヘスの短篇小説「『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール」を読んでほしい。たった6ページの長さだけれど、読めば必ず薦めてくれてありがとうの手紙を私に送りつけたくなるはずだ)。それでもこの本をこのまま完全版として読みたいと思うのは、まさに未完成であるが故に、突然思いもかけず、実際に仕事場にいる巨匠の姿をすぐ間近に感じることができるからだ――ちょうど、ペンキ入れや足場が運び込まれたり持ち出されたりしている、システィーナ礼拝堂を眺めるかのごとく。
 巨匠? 偉大な天才? その通りだとも。英語という言語の愉しさを一番堪能させてくれるのは、実際のところその最大の実践者であり、かつその中でも最上段に位置する者は、笑話作家である。これはたいして驚くほどのことでない。その他には誰がいる? オースティン (注1) は当然として、あとはディケンズ (注2) とチョーサー (注3) か。ただ一人、シェイクスピアだけはジョークで人生を救えなかった。
 ここは一つ、怖がらず本音でいこうじゃないか。イギリスの役者の芝居をみていて最悪なのは、『から騒ぎ』のドグベリー (注4) みたいな役を、ごたいそうで大げさな演技でやられることだ。これは絶望的である。ここで彼がとっている「マラプロピズム(言葉の乱用)」という笑いの手法によって引き起こされるドタバタには、もう幕を引いてしまうべきだ。マラプロビズムとは、シェリダン (注5) の『恋敵』に登場するキャラクター、ミセス・マラプロップに由来しているが、同じような言葉を乱用でもこちらは素直におもしろい。シェイクスピアが書いたのは16世紀だったから、と言ってもムダである。いつの時代であろうと関係ない。チョーサーは14世紀の作家だったし、スペルにいたってはさらにめちゃくちゃだったけれど、それでも彼は苦もなくおもしろいものを書いたじゃないか。
 多分、偉大な作家に対して「おもしろい」と言うのは、我々が「おもしろいかどうか」に主眼をおいていない以上、無理がある。そういう意味では、すべての才能を「おもしろい」に向けていたウッドハウスは(本人はあまり気にしていないかもしれないが)高い評価を得にくかったけれど、「おもしろい」を実現するそのあまりに高尚なやり方は、単なる詩を見劣りさせてしまうほどだった。彼が意味や音質、リズム、慣用表現の範囲、風味、といった言葉の特性のあらゆる側面を同時に取り扱うその精密さには、キーツ (注6) とて感嘆の口笛を吹いただろう。キーツも、 "the smile vanished from his face like breath off a razor-blade," とか、あるいはまたホノリア・グロッソップの笑い声を "cavalry on a tin bridge" と描写できたなら、自分を誇らしく思ったはずである。それを言うなら、シェイクスピアが、"A man may smile, and smile and be villain" (「人はにこやかに、にこやかに微笑みつつ悪党たりうる。」『ハムレット』第一幕第五場 松岡和子訳)と書いた時には、少なくとも"Many a man may look respectable, and yet be able to hide at will behind a spiral staircase" に感銘をうけていたのかもしれない。 (注7)
 ウッドハウスの文章は、純粋な言葉の音楽だった。これは彼が際限もなく同じようなテーマ、ブタの誘拐だの高慢な執事だのバカバカしい詐欺だののことばかり書いていたこととはまったく関係がない。彼は、英語という言葉の音楽家であり、日常馴染み深い素材のヴァリエーションを探索するのは、音楽家がいつでもやっていることである。実際、「何について」書かれているかと問うことは、私に言わせれば素晴らしく見当はずれだ。美は何かについて語るためにありはしない。ツボに何の意味がある? 夕日や花は? それじゃあ、モーツァルトのピアノ・コンチェルト23番は何なんだ? すべての芸術は音楽のような状態に向かっていくといわれるが、音楽は何かを意味したりしない。まあ出来のよくない音楽の場合はそういうこともありうるけれど。たとえば映画音楽は、何かについての音楽だ。"The Dam Busters' March" には何かしら意味がある。しかし、バッハのフーガは、純粋な形式と、美と、愉しさそのものであり、人が作り出したあらゆるものの中で、バッハのフーガを超えるものはざらにないのではないかと私は思う。せいぜい量子電磁力学理論、とか。あるいは、「フレッド叔父」("Uncle Fred Flits By")とか。よく知らないが。
 イーヴリン・ウォーは、私の記憶ではウッドハウスの世界を堕落する前のエデンの園にたとえていたと思うが、確かにブランディングスにおいてプラム (注8) (と、呼ばせていただくとして)は無垢で穏やかな楽園を創り上げ、そしてそれをどうにかこうにか維持し続けたが、思い起こせばかつてはこの仕事は、かの有名なミルトン (注9) がおそらくは相当に苦労して挑んだものだった。ミルトン同様に、ウッドハウスもパラダイスの外側から、読者に現実感を与えるための暗喩を追い求めた。が、ミルトンがたどり着いたパラダイスには、ちょっと面食らってしまうが、昔ながらの神々やら英雄やらしかおらず、彼のイメージときたらまるで他の番組からネタととってくるテレビのライターのようなのだが、それにひきかえウッドハウスのほうは鮮明で現実的だ。"She was standing scrutinising the sage, and heaving gently like a Welsh rarebit about to come to the height of its fever." とか、"The Duke's moustache was rising and falling like seaweed on an ebb-tide." とか。暗喩(いやまあ直喩と言ってもいいけれど)を作るとなると、この巨匠を侮ってはいけない。もちろん、ウッドハウスは人に対して神の重責を担おうとはしなかったけれど、でも時には数時間の間、人を最高に幸せな気分にしてくれた。
 ウッドハウスはミルトンより上か? もちろん、そんな比較はバカげているけれど、でも、仲間として、ではなく、その作品と、という意味でなら、どちらと一緒に気球に乗りたいかははっきりしている。
 我らウッドハウス・ファンは、互いに電話しては新しい発見をしゃべるのが大好きだ。そのくせ、大作家に対して無礼なことに、普段の生活では自分の好きな箇所を引用して話したりはしない。たとえば、"Ice formed on the butler's upper slopes," とか、"...like so many substantial Americans, he married young and kept on marrying, springing from blonde to blonde like the chamois of the Alps leaping from crag to crag" とか、(また私事だが)私の最近のお気に入り、"He spun round with a sort of guilty bound, like an adagio dancer surprised while watering the cat's milk" とか、それ自体が完璧によく出来てはいるものの、それだけを取り出してみると、何となくマントルピースに乗せられた剥製の魚のようにな感じがする。その効果を完全に理解するためには、実際の流れの中に置いてみなければならない。フレディ・トリープウッドの孤独なセリフ、「僕のそばにいるのは袋の中に数匹のネズミだけ」を本当に味わうためには、前後関係を把握して読んでみることだ、そうすればどんな英文学を読むよりもはるかに素晴らしい一瞬、まさに頂点に立つことができるだろう。
 シェイクスピア? ミルトン? キーツ? どうして、Pearls, Girls and Monty BodkinPigs Have Wings の著者を、彼らと同次元で語ることができるだろう? ウッドハウスはシリアスではないというのに!
 彼はシリアスになる必要がなかった。それよりずっと上を行っていた。人間の精神がたどり着ける最高位の場所、悲劇や小難しい思想のはるか上空にある、バッハやモーツァルト、アインシュタイン、ファインマン (注10) 、ルイ・アームストロングたちが集う、純粋で、創造性に富んだ、遊びの王国に。



(注)

(注1) オースティン (Jane Austen 1775-1817) 小説家。代表作は『高慢と偏見』(1813年)、『エマ』(1814年)。

(注2) ディケンズ(Charles Dickens 1812-1870) 小説家。代表作は『デイヴィッド・コパフィールド』(1849-1850)、『大いなる遺産』(1860-1861)。

(注3) チョーサー(Geoffrey Chaucer 1340-1400) 『カンタベリー物語』の著者で、中世英文学を代表する作家。「チョーサーの人間を見つめる眼は、しばしば鋭い風刺を辛辣なまでに発揮することもあるが、総じて、寛容なユーモアに満ち、人間の思想や行為の価値をさまざまな視点から眺めている。チョーサーが何よりも嫌ったものは、硬直した精神の事大主義であった。事大主義を嘲笑するチョーサーの遊び(諧謔)の精神に不誠実の影は微塵もない。人間の思想であれ、情念であれ、行為であれ、それが誠実の仮面の下に独善に陥ったと見た時、チョーサーはこれを遠慮なく笑いの対象としたのである。この強靱なユーモアの感覚は、まぎれもなく英国的である。」(橋口稔編著 『コンパクトイギリス文学史』 荒竹出版 1983年)

(注4) 『から騒ぎ』Much Ado about Nothing, 1598-1599) シェイクスピアの喜劇の一つ。ドグベリーは、イタリア・メシーナの警保官の役で、この喜劇の中のコメディ・リリーフ的なキャラクター。ケネス・ブラナー監督の映画『から騒ぎ』(1993)ではマイケル・キートンがこの役を演じた。

(注5) シェリダン(Richard Brinsley Sheridan 1751-1816) アイルランド出身の劇作家・政治家。イギリス風習喜劇の代表的作家とされる。代表作は『悪口学校』(1777)。当時の流行していた道徳趣味やお涙頂戴型の感傷喜劇に反発し、テンポが速くてユーモアや機知に基づく風刺喜劇を書いた。この伝統は後に、オスカー・ワイルドの喜劇に引き継がれることになる。『恋敵』(1774)は、恋人の過度の感傷趣味に合わせて、貧しい軍人のふりをした名門の青年が、父親から結婚を強いられ、その相手が他でもない自分の恋人であったことから起こる騒動を描いたもの。

(注6) キーツ(John Keats 1795-1821) ロマン派詩人。大作『エンディミオン(1818)の他、オード形式の叙情詩を多く書いた。その代表作は「ギリシアの壺に捧げる賦」('Ode on a Grecian Urn', 1819)で、アダムスが「美は何かについて語るためにありはしない。ツボに何の意味がある?」と後述するのは、この詩の中の有名な一節「'Beauty is truth, truth beauty' --that is all/Ye know on earth, and all ye need to know.」(「美は真であり、真は美である」――これこそ世の人が/この地上で知るすべて、また知るべきすべてなのだ)に拠ると思われる。

(注7) シェイクスピアが……感銘をうけていたのかもしれない これはアダムスのジョーク。言うまでもなく事実はその逆である。ウッドハウスは年に一度くらいの割でシェイクスピアの全作品を読み返すほど、シェイクスピアに精通していた。

(注8) プラム(Plum) ウッドハウスのファースト・ネーム、Pelham の略称。

(注9) ミルトン(John Milton 1608-1678) エデンの園における人間の不服従をテーマにした長編叙事詩、『失楽園』(1667)の著者。

(注10) ファインマン (Richard P. Feynman 1918-1988) アメリカの理論物理学者。1965年、量子電磁力学の理論でシュウィンガー、朝永振一郎と共にノーベル物理学賞を受賞する。エッセイ集『ご冗談でしょう、ファインマンさん』(1985)の著者としても有名。

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