The Ultimate Hitchhiker's Guide to the Galaxy への序文

 以下は、2002年に Ballantine Booksの支部である Del Rey から出版されたThe Ultimate Hitchhiker's Guide to the Galaxy ニール・ゲイマン寄せた序文である。ただし、訳したのが素人の私なので、少なからぬ誤訳を含んでいる可能性が高い。そのため、この訳はあくまで参考程度にとどめて、全貌をきちんと知りたい方は、必ずオリジナルにあたってくださるようお願いする。


Forward: What Was He Like, Douglas Adams?

 彼はすごく背が高かった。快活ながら奥ゆかしい気配をまとっていた。カミソリの刃のような知性を持つと同時に、謎だらけの世界で驚きを与えてくれる職業に復帰した人みたいな困惑顔をしながらも、自分のやっていることを理解していた。そんな印象を与えつつ、あくまで彼はそれを楽しんでいた。
 彼が天才だったことは間違いない。昨今、この言葉は乱用されすぎて何にでも使われるようになってしまった。が、彼は本当の意味で天才だったし、それは彼が世界を他の人とは異なる目線で見ていたからだが、それ以上に大切なことに、彼は自分が見ている世界とコミュニケートすることができた。もっと言うと、ひとたび彼の物の見方に触れると、元には決して戻れなくなった。
 ダグラス・ノエル・アダムスは、1952年にイギリス/ケンブリッジで生まれた(デオキシリボ核酸というより大きな影響力を持つDNAが世界に公表されるよりほんの少し前だった)。彼は自分でも「変わった子供だった」と語っており、4歳になるまで言葉を話すことはなかったという。核物理学者になりたかった(「算数がダメすぎて夢はかなわかったけれど」)が、ケンブリッジ大学に進学して英文学を専攻し、いつか伝統あるイギリスの作家兼パフォーマー(よく知られている例では「空飛ぶモンティ・パイソン」のメンバー)の仲間入りをするという野心を抱いていた。
 18歳のとき、ヨーロッパ横断のヒッチハイク旅行をしていて、インスブルックの原っぱで酔っ払い、たくさんの星が輝く夜空を見上げて「誰か「銀河をヒッチハイクするためのガイド本(The Hitchhiker's Guide to the Galaxy)」を書けばいいのに」と思った。そして眠りにつき、そのことはすっかり、というかほとんど、忘れてしまった。
 1975年にケンブリッジ大学を卒業してロンドンに出たが、そこでの彼の作家兼パフォーマーとしての企画の大半は実現しなかった。かつてのモンティ・パイソン・メンバー、グレアム・チャップマンと一緒に脚本やスケッチを執筆したが身を結ばず(リンゴ・スターのための番組もあって早くも「宇宙船タイタニック号」という言葉が使われている)、脚本家兼プロデューサーのジョン・ロイドとも共同作業した(「七雪と白い小人たち(Snow Seven and the White Dwarfs)」は、エベレスト山頂の観察小屋で過ごす二人の宇宙飛行士のコメディ・シリーズで、「最低限のキャストと最低限のセットだから製作コストがかからないというのを売り文句にしたかったんだ」)
 SFは好きだったが決してファンではなかった。この時期、糊口をしのぐためにさまざまな変わった仕事をした。ある時は、石油成金のアラブ人一家にボディーガードとして雇われ、スーツを着てホテルの廊下に座り夜通しエレベーターのドアが開閉する音を聞いていたという。
 1977年、BBCラジオのプロデューサー(にして有名なミステリー作家の)サイモン・ブレットから、BBCラジオ4用にSFコメディを書く仕事を依頼された。もともとダグラスは、「地球の終わり」と題して毎回ラストに世界が終わるという愉快なストーリーで1話30分、計6話のシリーズを考えていた。まず第1話では、地球は宇宙の高速道路を造るために壊されることになっていた。
 が、じきにダグラスはあることに気が付いた。地球が滅ぼされるとしても、何が起こったのかを語る人がいなければならない。レポーターのような人、そう、『銀河ヒッチハイク・ガイド』のレポーターというのはどうだろう。それからもう一人……ダグラスの原案では「アラリック・B」と呼ばれていた人物がいた。最後の最後でダグラスは「アラリック・B」という名前に線を引き、「アーサー・デント」と書き換えた。普通の人なんだから、普通の名前のほうがいい。
 1978年にBBCラジオ4を聞いていた人にとって、この番組はまさに革命的だった。おもしろい――本当にウィットに富んでいて、シュールで、スマートだった。シリーズのプロデューサーはジェフリー・パーキンス、シリーズ最後の2話はジョン・ロイドとの共同執筆だった。
 (子供の頃、私も、他のリスナー同様、たまたまこの番組の存在に気づいた。2話目からだったけれど。ドライブウェイに停められた車の中で、ヴォゴン人の詩の朗読に震え上がった後、完璧なラジオドラマのセリフ「フォード、きみペンギンになりかけてるぞ。なんとかしろよ」(安原訳『銀河ヒッチハイク・ガイド』、p. 113)を聴いて、私は幸福な気持ちになった。それも、言葉にならないほど最高の幸福を)
 その頃には、ダグラスも正規の仕事に就いていた。BBCの長寿SFシリーズ『ドクター・フー』(当時の主役はトム・ベイカー)の脚本編集者になったのだ。
 パン・ブックスからラジオシリーズの小説化の申し出があり、ダグラスは小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』の原稿を締め切りをちょっぴり過ぎてからパン・ブックスの編集者に渡した(伝説によると、編集者は彼に電話してきて、どちらかというと絶望的な口調で、今どこまで執筆が進んでいるのか、あとどのくらいかかりそうなのかと訊いてきた。彼は答えた。「そうですか」編集者は、最悪の仕事を最良の形にまとめるべく言った。「では、今書いているページを終わらせてください。30分後にバイク便に取りに行かせますので」)。小説は、書き下ろしペーパーバックとして出版され、誰もが驚くベストセラーとなり、その結果、誰も驚かないことに、さらに4冊の続編が書かれた。ベストセラーのテキスト・アドベンチャー・ゲームまで作られた。
 『銀河ヒッチハイク・ガイド』のエピソードは、サイエンス・フィクションの比喩を用いて、ダグラスが関心を寄せていることや、彼の世界観、生命と宇宙と万物について考えたことなどを語っている。人々が本当にデジタル時計をいかした発明だと思っている世界へと足を踏み入れると、その風景はサイエンス・フィクションと化し、ダグラスは、科学的事象への飽くなき好奇心や説明せずにいられない本能やどこにジョークを挟み込む場所を見分けるカミソリのようなセンスでもって、完璧な立ち位置からこの風景をコメントし、説明し、描写する。
 私は最近、『銀河ヒッチハイク・ガイド』は実はルイス・キャロルへの長大なトリビュートであることを証明する長大な新聞記事を読んだ(ダグラスが知ったら驚くのではないだろうか。彼は『不思議の国のアリス』は読んだけれどあまり好きになれなかったと言っていたくらいだし)。実際のところ、文学の伝統にダグラスが参加しているとしたら、少なくともその主要な部分は、P・G・ウッドハウスを生み出したイギリスのユーモア作家の伝統だろう(ダグラスはたびたびその影響に言及しているが、大抵の人はウッドハウスは宇宙船について書いていないからという理由で無視する傾向にある)。
 ダグラスはもともと書くことを楽しめなかったが、歳を経るに従ってますます楽しめなくなった。彼はベストセラーを連発し、高く評価され、多くの人に愛された小説家だったが、小説家になりたいと望んでいたわけではなく、小説作品を組み上げていく作業にもほとんど喜びを見出せなかった。聴衆に話しかけるのは大好きだった。映画の脚本を書くのも好きだった。テクノロジーの最先端に立ち会うのが好きで、彼特有の熱意を持って考案したり説明したりした。ダグラスの締め切り破りの能力は、伝説になった(「私は締め切りが好きだ。締め切りが通り過ぎていくときにたてるヒューヒューという音が好きだ」(ドーキンス『悪魔に仕える牧師』、p. 290))。
 2001年5月、彼は亡くなった――あまりに若くして。彼の死は我々みんなを驚かせ、世界にはダグラス・アダムス・サイズの巨大な穴が残った。我々は、彼という人間(背が高くて、愛想が良くて、自分をまごつかせ楽しませた世界に優しくほほえみかけている)とその精神の両方を失ってしまった。
 彼が残した何冊かの小説は、よく真似されるけれど、でも本当の意味で真似することは決してできない。彼は、鬱病ロボットのマーヴィンやゼイフォード・ビーブルブロックスやスラーティバートファストといった愉快なキャラクターを残してくれた。頭の中で思い返すたび、思わず笑ってしまう文章を残してくれた。
 それも、すごく簡単そうにやってのけたのだ。

ニール・ゲイマン
2002年1月

 

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