『銀河ヒッチハイク・ガイドの科学』


 2005年に、アメリカの出版社 Macmillan より『銀河ヒッチハイク・ガイドの科学』(The Science of the Hitchhiker's Guide to the Galaxy)が出版された。著者は、サイエンス・ライターのマイケル・ハンロン。『銀河ヒッチハイク・ガイド』に登場するさまざまなSF的事象を、1970年代/現在の科学と照らし合わせて解説している。
 概要は以下の通りだが、まとめたのは科学にも英語にも素人の私なのでとんでもない誤読をしている可能性は高い。そのため、これはあくまで参考程度にとどめて、全貌をきちんと知りたい方は必ずオリジナルにあたってくださるようお願いする。


1. introduciton

 『銀河ヒッチハイク・ガイド』は、あくまでコメディである。ここに出てくるサイエンスは明らかにむちゃくちゃで、でもそれはわざとそうなっている。中にはサイエンスではなくサイエンス・フィクションをコケにしたようなところもあるが、『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズを読めば、アダムスが当時の最先端宇宙学や物理学に強い関心を持っていたことが分かる。
 中でも興味深いのは、並行宇宙の問題である。子供の頃は、ふとした拍子に異次元への扉を見つけることができるのではないかと想像したりするものだが、ある研究者によると量子の世界ではこれは決してファンタジーではないらしい。
 『銀河ヒッチハイク・ガイド』が取り扱うサイエンスには、哲学の問題も含まれている。人の運命はあらかじめ決められているのか、とか、未来予測は可能か、とか。そういった疑問や不安を解決すべく、『銀河ヒッチハイク・ガイド』では「究極の答え」が呈示されるが、たとえ「答え」が分かっても「究極の問い」が分からなければ意味がない、というオチが待っている。
 そこで、神の問題が浮上する。アダムスがラジオ・ドラマを書き始めた頃、伝統的な教会の人気は凋落傾向にあり、代わりにタロット・カードや水晶占いが幅をきかせるようになった。1960年代の物質主義への反動として、ヴィクトリア時代のオカルト趣味がケルトやオリエントの味付けを加えて復活した訳だ。
 『銀河ヒッチハイク・ガイド』では、バベル魚が神の非存在を証明する。また、『宇宙の果てのレストラン』には「宇宙の支配者」は出てくるが、神どころか浜辺で猫と暮らす一個人に過ぎず、自分と猫のこと以外は一切興味がない。
 『銀河ヒッチハイク・ガイド』は、徹底して「物事は外見とおりとは限らない」と教えてくれる。そのせいで、人類の月面着陸はフェイクで、世界中にアメリカがロシアに勝ったと思わせるための宣伝にすぎないと考える人々もいた(今でもいるが)。
 サイエンスにも流行があり、たとえば1970年代頃には地球外生命体についてまともに取り上げる科学者はほとんどいなかった。もっと時代を遡って19世紀頃には、逆に宇宙にはさまざまな生命体がいるのではと想像されていたが、そういった生命溢れる宇宙のイメージは、20世紀半ばになって実際に月や火星に向けて発射された探査機から撮影された、生命の痕跡すら見つけられない映像によって一掃された。
 アダムスが描くエイリアンには、当時の人々の失望が反映している。リアルさを追求する姿勢はほとんどなく、『スター・ウォーズ』や『スター・トレック』と同じで、単に人間を戯画したものにすぎない。
 しかし、ここ20年ばかりの間で、地球外生命体に再復活の兆しが見えている。地球上でも、深海とか超高温といったおよそ生命など見つかりそうもない場所で微生物が繁殖していることが分かり、同様に火星でも生命の痕跡のようなものが発見された。ということで、現在の科学者たちは、どんなところにだって生命が存在する可能性はあると考えるようになっている。また、1980年代以降、コンピュータや電波望遠鏡が発達し、おかげでエイリアン探しの方法も随分と洗練された。
 アダムスは、未来を予測しただけでなく未来を形作りもした。たとえば、バベル魚は現在ではネット上の翻訳ソフトだし、「亜空間通信(サブイーサ)ネット」はインターネットにそっくりだ。「宇宙と生命と万物」はイマドキの宇宙学者や哲学者の間でお約束のフレーズとなり、「42」という答えについても、アダムス本人はあくまでジョークのつもりだったのに、1999年にはイギリスの著名な天文学者が宇宙とは煎じ詰めればたった6個の数字に還元できると発表している。勿論、ほとんどの科学技術はアダムスがおもしろがって書いた程にはうまくいかなったけれど、何しろ25年も前に書かれた作品なのだから、多少は大目に見るべきだろう。
 そう、時間の問題と言えば、タイムトラベル。そんなものはありえないと思われてきたけれど、最近の研究ではその可能性も示唆されるようになってきた。だとすれば、「宇宙の果てのレストラン」ことミリウェイズに行ける日もやってくるのかもしれない。しかし、宇宙の終焉は見物に値する大爆発を伴う「ビッグ・クランチ」ではなく、単なる燃料切れのような地味な消滅に終わるのではないかという説もある。
 ともあれ、宇宙は我々の想像以上にヘンなところである。アダムスが書いた20年前と比べて、ますますヘンテコでおまけに危険な場所だということが分かってきた。宇宙探検など考えず、おとなしく地球にとどまっていたほうがいいのかもしれない。我らが暮らす宇宙の片隅は生命維持に最適で、あらかじめ誂えられたかのように感じる人もいるだろう。また、別の人に言わせれば多次元宇宙理論による無限の可能性を説明できる、とも。
 多分、この世界は本当に神によって誂えられたものなのだろう。でもって、その時彼はきっとふざけていたにちがいない。我々としては、神から謝罪の言葉一つも受け取りたいところだ。


2. where are the aliens? 

 宇宙は広く、星の数は多い。最近の調査では、地球のすべての浜辺の砂粒の数より多い。それも、地球から望遠鏡で観測できる星に限っての話。宇宙は今も光速以上の早さで膨張しており、我々が目にしているのはごく狭い範囲にすぎない。異次元宇宙の問題を抜きにしても、この広さ。どこかに、我々と同じような生命体が存在していても不思議ではない。
 
 我々が見ている星は、太陽と同じ恒星である。恒星ではなく、地球と同じ、惑星の発見は意外に遅く、1990年以降のこと。現在までに、150以上の太陽系以外の惑星が発見されている。今後、技術が発達すればもっと多くの惑星が見つかるだろう。我々が発見できないだけで、実際には砂の数ほどにも存在しているであろう惑星の中には、どんなに確率が低かろうと生命に適した惑星がきっとあるはずだ。ただし、それがどこなのかが分からない。
 
 フェルミ・パラドックスというものがある。1950年に物理学者のエンリコ・フェルミがロスアラモスで他の科学者たちとの昼食中に口にした言葉、「(エイリアンがいるとしたら)みんな一体どこにいるのだろう?」。
 存在を推測できるが、証明できないというパラドックス。『銀河ヒッチハイク・ガイド』の冒頭で、ヴォゴン人が地球にやってきた時の模様は、このパラドックスに対する一つの回答でもあった。つまり、宇宙にはエイリアンはごまんといるが、単に我々が彼らに気付いていないだけ、ということ。願わくば我々のファーストコンタクトの相手がヴォゴン人に似ていませんように。
 既にエイリアンは地球に来ている、と考える人もいる。UFOの目撃談も跡を絶たないが、たいていはただの勘違いである。また、これらはもっぱら1940年代後半以降に起こっていることを鑑みれば、核弾頭ミサイルの誕生や東西冷戦という時代背景が影響しているのではないかとも言える。確かに、すべてのUFOの目撃談を間違いと証明することはできないが、いくつかの実例を挙げることでいわゆるUFOというものの信憑性のなさを伝えられればと思う。
 最初のUFOが目撃談は1947年6月24日、場所はシアトルの東にあるカスケード山脈だった。パイロットのケネス・アーノルドが、水面すれすれを飛ぶ円盤のようなものを見たと言ったのがマスコミで報道されると、「空飛ぶ円盤を見た」という人が続々と現れ、センセーションを巻き起こした。が、アーノルド自身は、正確には「コウモリのような形のものが円盤みたいに飛んでいるのを見た」と言っただけであり、いわゆる「空飛ぶ円盤」と見たとは言っていない。アーノルド以降の目撃者たちのことを嘘つきよばわりする気はないが、しかし「コウモリのようなもの」が「空飛ぶ円盤」に、「空飛ぶ円盤」が「円盤状の宇宙船」になって、いつしかエイリアンの地球侵略話へと発展した経緯を考えれば、いわゆる「空飛ぶ円盤」が実在するとは考えられない。
 有名なロズウェル事件など、馬鹿馬鹿しくて一考の価値もない。イギリス版ロズウェル事件ことレンドルシャムの出来事のほうがまだマシだ。1980年12月27日、サフォーク州の森で、近くにあった米軍基地の軍警察官2人が、霧の中、すさまじい電子音とともにさまざまな色に明滅する光を目撃し、基地に通報した。すぐさま森に調査に入った者たちも、やはり謎の光目にしたばかりか、そのうちの一人、チャールズ・ホルト中佐は逃げ去るエイリアンらしき姿まで見たという。
 彼らが、宇宙船やエイリアンを捏造して世間の注目を集めたいと考えるような人物だったとは考えにくい。それだけに、彼らの発言はエイリアンを信じる人たちから絶対的に信用されてきた。ところが2003年になって、当時やはり同じ基地の軍警察官だったケビン・コンドが、実は軽いジョークのつもりで自分の車をデコレーションしてやったと告白する。彼はその後アメリカに帰国し、すっかり忘れていたが、後に軍のウェブサイトをみて騒ぎの大きさに驚いたという。
 人の記憶は、後から仕入れたストーリーで書き換えられがちなものだ。レンドルシャム事件の後は似たような宇宙船の目撃談が相次いだ。またアメリカには自分はエイリアンにさらわれたと言う人が300万人くらいいるらしいが、この手の話を読めば読むほど、人類の先行きのほうが心配になってくるから不思議なものだ。
 
 2003年、物理学者のスティーヴン・ウェブは、フェルミ・パラドックスに対する50の解答を検証した本を出版した。そして、地球には今のところエイリアンは来ていないという結論を出す。もし一度でも接触していたとしたら、地球の環境に何らかの影響があってしかるべきだし、大体わざわざ地球まで来ておきながら人類の目を避けて隠れている理由がないではない。
 エイリアンは存在していたが既に絶滅してしまったのだとか、高度な文明を築くようなエイリアンは青二才のように宇宙をほっつき歩いたりしないのだとか、宇宙が巨大すぎてたとえ知的生命体がいたとしても離れすぎていてお互い気付くことができないとか、いろいろな考えはあるものの、ウェブに言わせればフェルミ・パラドックスへの一番当たり前の解答は、「そもそもエイリアンなんかいない」である。いや、地球の外にも生命は存在するだろうが、宇宙船や望遠鏡を作ったりはしていないだろう、と。

 地質学者のピーター・ウォードと天文学者のドナルド・ブラウンリーは、Rare Earth という著書の中で、地球がいかに特殊な惑星であるかについて語っている。
 地球は、銀河の中でも比較的安定した位置にあり、近くにブラックホールやスーパーノヴァはない。太陽は、80億年も変わることなく燃え続けている。地球の大きさも大気を維持し続けるにはちょうどよく、プレート状の地殻構造のおかげで気候を一定に保つことができる。水は生命の誕生になくてはならないものだが、多ければいいというものでもなく、知的生命体が宇宙に関心を持つためにも地表部分は必要だ。木星と土星のおかげで、彗星や隕石が地球にぶつかる率は低く、また月も気候の安定に大きく貢献している。
 という訳で、ウォードとブラウンリーいわく、地球という存在自体、宇宙広しと言えどかなり珍しい例で、ましてや生命となるとますます稀なものだということになる。おまけに、その地球にしたところで、知的生命体と呼べるものが存在しているのはたかだか15万年かそこらのこと。ましてやその知的生命体が地球の外に目を向け、宇宙を旅する手段を考案し、無線信号を送受信できるようになったのは、わずかここ100年ばかりの間に過ぎない、ということを忘れてはならない。
 
 地球が特殊なら、地球近辺の惑星も生命の誕生に比較的向いているはずで、月や火星の地下などにバクテリアが潜んでいる/潜んでいた、と示唆する学者もいる。
 我々はエイリアンというとつい人間のような形の生物を想像しがちだが、異なった環境で進化した生物なら我々とまったく異なった身体を持つと考えるほうが自然だろう。また、知的生命体なら地表で暮らしているにちがいない、というのも偏見だ。ひょっとしたら水中で生息しているかもしれないし、地下で生活しているかもしれない。あるいは惑星の深奥、とか。カール・セーガンは、1976年に木星の大気の層で生きる生命体の可能性を提唱している。木星どころか、生命はブラックホールから産まれるという学者すらいる。
 エイリアンが我々とどのくらい似ているかはさておき、彼らとの意思疎通できるかどうかが問題だ。カリフォルニアには、地球外知的生命体を探すためのSETIプロジェクトというものがあり、知的生命体の痕跡を求めて宇宙から届くラジオ信号を走査している。探す方向性を間違っている、という学者もいる。ちなみに、1961年の時点で物理学者のチャールズ・タウンズはこう語った。ETは、レーザー光線を使って宇宙にメッセージを発信することができるけれど、我々の側でそれを聞き取る耳を持っていない、と。
 
 ここ30年ばかりの間に、地球外生命体に関する科学者の態度は大きく変わった。1970年代には、エイリアンについて真面目に研究するなど科学者にあるまじきことのように考えられていたものだが、1996年8月に火星でバクテリアが発見されたと報じられて以来、流れは大きく変わり、今ではNASAに宇宙生物を研究する組織がある。
 2004年の『ネイチャー』誌にはエイリアンとのコンタクト方法についてニュージャージーの技師、クリストファー・ローズとグレゴリー・ライトが書いた記事も掲載された
 何かに文字を刻み込んでそれを宇宙に送るよりも、もっと効率よく地球の情報を遠くまで発信する方法はないだろうか。我々は既に、宇宙船ボイジャーを宇宙に送り出した。確かにボイジャーには随分いろいろなモノを積めたけれど、それでも積める重さには限度がある。それよりも、ナノテクノロジーを駆使して地球についての情報を詰め込んだチップのようなもの、いわば宇宙版「メッセージ・イン・ア・ボトル」を、宇宙に大量にばらまいてみるのはどうだろう。確かに、それらがどこかにたどり着くまでに相当の時間がかかるだろうが、効率的と言えないこともない。また、ばらまくにしても、生命体が存在する可能性が高い、周期の安定している惑星に狙いを絞るという手もある。ローズとライトの二人は、遠くの星にばかり目を向けるのではなく、我らが太陽系の中も調査してみる価値があると言うが、はてさて。
 
 いくら地球が例外的な惑星だとしても、地球以外の生命の存在を完全に否定することはできない。意外と銀河にはいろんな生命体がいるのかもしれないし、カール・セーガンは知的な生命体もごまんといるはずだと考えていた。
 では、我々がそういったエイリアンと出会う日は来るのだろうか。世界各地に作られた巨大望遠鏡等を使えば、2025年までには実現すると主張する学者もいるが、多分、ここ50年くらいのうちには何とかなるのではないだろうか。アメリカやヨーロッパでは、月面に観測基地を作ろうという話もあるし、地球にも超特大サイズの望遠鏡を作る計画もある。
 確かに、恐ろしく金はかかる。だが、人類が月に行った時もものすごく金がかかったけれど、宇宙から眺めたたった一つの青い地球の姿は、我々の地球に対する認識を大きく変えることに繋がった。それを思えば、地球外生命体と出会うことで、人類はまた新たなステージに上がるに違いない。
 もっとも、最初に出会った相手が火星の微生物だったら、科学者以外の人はあまり盛り上がらないだろう。まあ実際のところ、盛り上がるに値するビッグニュースでもない。火星の微生物、といっても実は隕石か何かがぶつかりあったせいで地球の微生物がたまたま移動しただけかもしれないのだから。
 その点、アルファ・ケンタウリから届くラジオ波のほうがもっと興味深い。これがもし人工的に作られたものだったとしたら、彼の地に知的生命体が存在する証拠となる。勿論、「そんなもの信じられない」という人も大勢いるだろうが、未だに進化論とか地動説すら信じない人がいるのだから、仕方あるまい。
 エイリアンのほうでは、我々の存在に気付いているのだろうか。我々が人工的に電波を流し始めて約100年、テレビ放送は約50年になるが、彼らも我々のテレビ番組を観ているかもしれない。
 ただし、良いことばかりとは限らない。最近では、『宇宙戦争』の凶悪なエイリアンよりも『未知との遭遇』の友好的なエイリアンのほうが流行のようだが、人類の歴史をひもとけば、進んだ科学技術を持つ側はいつだって持たざる側にひどいことをしてきた。そういう意味では、ファースト・コンタクトの相手がヴォゴン人もどきになる可能性は高い。我々は、もう少し自分たちが利口になるまで頭を低くしておいたほうが無難かもしれない。


3. deep thought

 1970年代のコンピューターは、ディープ・ソートみたいに巨大で高価だった。地下に大切に格納され、ミサイルの軌道計算等に使われ、その仕組みは選ばれた一握りの人にしか理解できないものだった。
 『銀河ヒッチハイク・ガイド』のはつかねずみたちがディープ・ソートに「生命と宇宙と万物についての究極の答え」を計算させたところ、ディープ・ソートが出した答えは「42」だった。「究極の答え」の意味を知るためには、「究極の疑問」とは何かを知らねばならない、ということで今度はそれを計算すべく、「地球」という名のコンピューターが作られる。今度こそ「疑問」が手に入るかと思いきや、「地球」はその直前に破壊され、ねずみたちは 'Mark Two' を買うことを余儀なくされた――今度こそ究極のコンピューターを手に入れた、と思ったらまた新製品が出て買う羽目になるのと、何だか似ている。
 
 プログラムを組んで機械に何かさせるという概念は、19世紀の産業革命を契機に生まれた。フランス人技師が、織物のパターンをプログラムできないかと考え、パンチカードで織物のパターンを作ったのが始まりだ。
 1820年代にはイギリスの数学者チャールズ・バベッジが「差分機関(Difference Engine)」という計算マシンを考案した。残念ながら時代の技術が追いつかず効果は上がらなかったが、もし精密機械として作ることができていたなら世界は大きく変わっていたにちがない。
 初のソフトウェア・ライターは、さしずめエイダ・ラヴレイスだろうか。彼女は詩人バイロンの娘で、裕福で美人で、おまけに惑星サイズの頭脳を持っていた。1830年代に「差分機関」の次世代マシン、「解析機関(Analytical Engine)」のアルゴリズムを書いている。彼女は、技術がこの先どこに向かうのかよく分かっていた。
 バベッジのアイディアは、ダ・ヴィンチの飛行マシンと同じで、時代の先を行きすぎていて実現には至らなかったものの、もしあの時代、1830年代のイギリスで本当に作られていたらどうなっただろうと想像してみるのは楽しい。
 
 電子回路を持つコンピューターの誕生は、1940年代になってからのことである。第二次世界大戦が、コンピューターの必要性に火をつける形となった。連合国側では、ドイツ軍の暗号解読のためアラン・チューリングを含む多くの学者たちが集結させられた。
 1950年代頃には、コンピューターによる天気予報も計画されるようになった。19世紀のイギリスでは海軍が船舶からの情報に基づいて予報したり、また1890年代にはタイムズ紙に天気予報欄が出来たりしたが、しょっちゅう間違っていたという。また、1920年代に数学者のルイス・フライ・リチャードソンが天気予報の計算方法を編み出したものの、計算が複雑すぎ、訓練を受けた天気予報士64000人が一丸となって計算しても、「明日の天気」の答えが出るのはその2日後という有様。手計算ではとても無理、ということで電子計算機の登場が待たれていた。そして、戦後になって「レオ」という名のコンピューターで天気予報が計算されるようになる。
 1960年代になると、NASAが台頭する。人類の月面着陸を実現するため、巨額の税金を投入してトランジスタとマイクロプロセッサの開発が進められた。こうして1969年の月面着陸の時には、持ち運びができる程に小型で、ディスプレイとキーボードがついている、現在のパソコンの原型とも言えるコンピュータが作られた。
 
 今では、人類を月面に誘導したのより強力なコンピューターが、著者の車の中だけでも6個も備わっている。
 とは言え、ほんの20年前ですら、ここまで凄いことになるとは誰も予想していなかった。かのビル・ゲイツでさえ、1981年には「コンピューターのメモリは一人640Kもあれば十分」と発言している。1943年には、後にIBMの会長になるトーマス・ワトソンが「世界には、コンピューターは5台もあれば十分」と言ったとか。それにひきかえ、1965年に「コンピュータの性能は18ヶ月ごとに倍になる」と予言したゴードン・ムーアは実に正しかった。
 確かに私のPCは優秀だが、ちょっとしたおしゃべりを楽しむこともできないし、「究極の答え」を計算することもできない。一秒間に700万回の計算はできても、ゴキブリ並みの知恵もない。
 参考までに、今の時点で世界最速のコンピューターは、IBMの BlueGene/L。二位がNASAの Columbia で、三位は NECの Earth Simulator である。BlueGene/L は、 核実験のモデリングするもので、実際に核兵器を爆発させて実験するのは危険だし環境に悪いし国際問題にもなりかねないということを考えると、世界最速のコンピューターの正しい使い方と言えよう。
 そのうちBlueGene/L の何千倍も高性能なマシンも登場するだろうが、性能アップにも限度がある。回路の中の温度が上がって、回路自体が溶けてしまうからだ。となると、どの時点で限界に達するかが問題だが、量子論を駆使したコンピューターが作られるようになれば、その限界も越えられるという説もある。現時点では、夢物語もいいところだけれど。
 
 未来のコンピューターは、「考える」ことができるだろうか。1978年に初めてチェスをするコンピューターが開発され、1997年にはIBMの Deep Blue が世界チャンピオンのゲイリー・カスパロフに勝った。だが、ささやかな計算能力しか持たない人間が、ものすごい早さで演算を繰り返すコンピューターを相手に対等に戦えるのだから、むしろ人間の知性とはたいしたものだと言わざるを得ない。
 自意識を持つコンピューターの開発は、AI(人工知能)研究者の見果てぬ夢だ。でも、そもそも人間の脳の仕組みも理解できないというのに、どうして人工知能を作ることなどできようか。ニューロンやシナプスについての知識を増やしたところで、それらがいかに繋がっているかがわからなければ仕方がない。
 とは言っても、コンピューターに個性を持たせることならできる。アダムスがずばり指摘した通り、エンジニアたちは自分の電子機器に偽の感情を植え付けたがる。たとえば現在のカーナビの声には実にさまざまな種類があるけれど、それらはまさに偽の人格だ。
 いわゆるコンピューターではなく、我々に代わってさまざまな労働を行ってくれるロボットについても、実現への道のりは険しい。今の技術レベルで作れるロボットは、段差につまずいたり、ほんの数分で電池切れになったりする。遠くない将来、惑星サイズのマーヴィンの頭脳は作れるかもしれないが、マーヴィンのボディを実現するにはもっと年月がかかりそうだ。


4. the existence of god

 もし神が存在するなら、はつかねずみたちはどうして神に「究極の問い」とは何かと質問しなかったのだろう。もし神が「究極の答え」も「究極の問い」も知らないとしたら、そんな神には何の値打ちもない。神の最後のメッセージは、「ご迷惑をおかけして申し訳ございません」(『さようなら、いままで魚をくれてありがとう』、p. 268)だというが、インスピレーションに欠けている上、42と何の関係もない。故に、誰かがでっち上げたものだという疑いは払拭できない。メッセージを信じるか信じないかは、結局のところ、神の存在を信じるか信じないかにかかっている。
 ダーウィンやアインシュタインの時代から100年以上経った今でさえ、多くの知的エリートたちは、人間も他の生命体もたかだか数千年前に一人の神の手によって創り出されたと考えている。それも、たった1週間でだ。
 そもそも、神について考えることは科学の領域だろうか。然り。600年前までは、神こそがすべての問いへの答えだった。ウサギ同士をかけ合わせれば、ウサギが産まれる。亀やキリンやペチュニアが産まれたりしない。人間の経験則では、池の魚に手足が生えて、陸に上がって猫になったりしない。遺伝子やDNAが発見される以前は、うさぎや亀やキリンやペチュニアの起源について筋の通った説明を求めても、結局「神」と貼られた引き出しに入れて放置するより他になかった。
 科学的合理主義と宗教との対立の歴史は、この「神」という名の引き出しに入っているものを一つまた一つと取り出すことにある。たとえば、「地球は丸い」とか。幸い、今では引き出しの中はかなり空っぽになった。そりゃ、量子論とかビッグバン以前の世界とか、今でも説明のつかない事柄は残っているけれど、でもウサギの起源同様、そのうち自信を持って答えられる日が来るはずだ。
 にもかかわらず、昨今ではまたしても宗教熱が盛り返してきている。地球が数百万年も存在していることや、進化論の何たるかを知らないアメリカ人は多い。テネシー州が進化論を教えた罪で若い教師を訴えようとして世界の笑い者になってから80年経った今、再びダーウィンが封印されようとしている。1990年代には、「インテリジェント・デザイン」なるものまで編み出され、進化論は科学的事実ではなく「一つの理論」にされてしまった。
 聖書の神では満たされない心の隙間を埋めてくれるのが、いわゆる「スピリチュアル」である。このお手軽な宗教もどきは、科学にとって昔ながらの盲目的信仰より脅威となりうる。自然科学の研究は、証拠と論理性が第一であり、迷信や直感にまどわされてはならない。

 そもそも、神とは一体何なのだろう。地球上のどんな文化にも、超現実的なものへの信仰はみられる。ネアンデルタール人にも埋葬の習慣はあったし、紀元前3000年のエジプトで巨大な神殿やピラミッドを建てることができたのも、信仰心のなせるわざだった。
 それにひきかえ、無神論者の集団は滅多にない。例外は共産主義国くらいだが、1980年代後半には事実上の終焉を迎えたし、ソビエト体制崩壊後のロシアや東欧では以前にもましてキリスト教が盛んになっている。現在の西欧のように、宗教に無関心なほうが珍しい。アメリカで教会に通う人の率は、イギリスの約5倍である。
 と言っても、みんなが信じている=神は存在する、というものではない。そこで、神の存在をいかに証明するかが問題になる。
 典型的なのが、「無から有は生まれない」式の考え方である。宇宙に始まりがある以上、最初に宇宙を作った者=神がいるはずだ。でなければ、何も始まらないはず。
 ならば、宇宙を最初に作った神は、一体どこから生まれたのだろう? 神を作った神がいる? いやいや、神に始まりも終わりもなく、時間というものの外に存在しているのだ、と主張する人もいるだろうが、だとしたら神とは原因と結果の因果関係に縛られない、この宇宙の外側にいるまったく別種のものということになる。
 17世紀フランスの哲学者いわく、人間は不完全な存在である。不完全な人間が、神という概念をでっち上げることなどできない。故に神は存在する――しかし、どうして不完全な人間は神を思いつくことができないと言えるのか。神が実際に存在していようといまいと、人間は必要とあらば神を想像することくらいできるはずだ。哲学者でない現在の人間には、この手の証明はバカバカしく聞こえるが、それは現実世界の表象を観察することなく、理性や論理だけで証明しようとしているせいである。「神を信じないのは愚かだ、故に神は存在する」と言うようなものであり、カントの登場で一応終止符を打たれることになった。
 でも、古い「証明」が今になってにわかに脚光を浴びることもある。いわゆる新創造主義者たちは、地球が6000年前に誕生し、アダムとイヴが人類の起原なのだとは言わないが、でも神のような存在が我々を現在の人間のように進化させるようプログラムしたのだと説く。重力の法則がわずかでも違っていたら、宇宙はこのような形で存在することはできない。この完璧に調和の取れた世界こそ、何者かがあらかじめデザインして作られたという何よりの証拠である、と。
 だが、我々が知らないだけで、まったく異なる物理法則に基づく世界だってあるかもしれない。今の世界が完璧に見えるのは、単に我々がそこで生まれ育ってきたからである。他の世界には他の世界の調和がある。水の中に生き物を見つけたからといって、水の中でしか生命は育たないと考える理由はない。ましてや、神のおかげ、などと考える必要性はないのだ。

 神を信じないとしたら、モラルはどうなるのだ、と言う人がいる。
 どんな文化でも、セックスや所有などについて似たようなモラルがある。大雑把に言えば、「自分がされて嫌なことは、他の人にもしてはならない」ということだ。信心深い人たちに言わせれば、このような普遍的な価値観こそ神が人間に授けたものだということになるが、実は生物学の理論で簡単に説明がついてしまう。
 一見利他的に見える行動、親が子供を守ったり家族を大切にしたりすることは、遺伝子の保存という意味では十分利己的な行動である。まったくの赤の他人に親切にしたり、チャリティで大金を寄付したりすることもあるけれど、それとて社会の中で助け合って生きていくほうが結局は自分のためになると知っているから、ということになる。もちろん、中にはモラルを持たないサイコパスのような人間もいるが、彼らの寿命は総じて短く、進化の淘汰においては意外に分が悪い。「あなたが私の背中を掻いてくれたら、私もあなたの背中を掻いてあげる」――これが、社会生物学者ロバート・トリヴァースが提唱するところの互恵的利他主義である。
 一方、物理学者のスティーヴン・アンウィンは、ベイズ推計という数学の方法を使って神の存在/非存在を算出しようと試みをした。最初に、神が存在する可能性と存在しない可能性を五分五分に設定し、そこに奇跡とか自由意志とか信仰心とかを入れて計算する、というのだが、そもそもそれらの数字には何の根拠もない。大体、神の存在する確率が5割だなんて、その前提はどこから来るというのか。結局、アンウィンのやったことは、神を信じている人を不愉快にし(神が存在する確率は2対1です、と言われて喜ぶ信者はいない)、リチャード・ドーキンスをはじめとする無神論者からこき下ろされただけだった。
 という訳で、今後も神をめぐる論争は終わりそうもない。


5. the restaurant at the end of the universe

 ミリウェイズこと宇宙の果てのレストランは、料理の良し悪しより窓からの眺めで人気がある。だが、最近の科学者たちによると、宇宙は平和裡に終わるため、わざわざ見物する甲斐はないらしい。
 比較的最近まで、科学者たちは宇宙の始まりに目を向けることはあっても終わり方に注目することはなかった。しかし、近頃はその傾向が変わり、1週間後の天気はわからなくても60億年後の地球についてなら推測できるようになってきた。
 太陽のような水素系の星のライフサイクルについては、今ではかなり研究が進んでいる。この先、太陽の熱量は大きくなり(地球誕生当初、太陽は今の四分の三くらいの大きさだった)、地球はどんどん暑くなる。海水の温度が上がると、水中に溶けていた二酸化炭素が蒸気と共に放出され、いわゆる温室効果によって地球はますます暑くなり、熱に強いタイプのバクテリアしか生息できない世界になる。そのうち、海も干上がり、わずかに残ったバクテリアも死に絶えることに。

 地球がダメになる代わりに、火星の住み心地はよくなるはずだ。ひょっとしたら、生物だって誕生するかもしれない。さらに太陽の熱量が増えれば、今度は土星の衛星タイタンあたりも有望だ。何しろ太陽系の中でも地球と似たような構成の大気を持っているのだから。40億年後には、ひょっとしたらタイタンで、地球とはまったく異なる形の第二の創世記が始まるかもしれない。ただし、我々の遠い子孫が、地球が暑くなりすぎる前にタイタンに引っ越ししていなければ、の話。
 最終的に、太陽は赤色巨星と化し現在の2000倍の明るさになると考えられる。その頃には、タイタンも灼熱地獄だ。天王星や海王星あたりの衛星なら、比較的快適かもしれないが。
 やがて太陽の温度が下がり始め、溶けたバターのようになっていた地球も元通り固くなる。そして、太陽は燃えカスのような白色矮星となって終わる。

 とは言え、たかだか50億年かそこらなど、宇宙全体の歴史からすれば瞬きするほどの時間にすぎない。1990年代後半に出版されたフレッド・アダムスとグレッグ・ラフリンの共著『宇宙のエンドゲーム』には、我らの地球が崩壊してから何兆年も経った後の宇宙について書かれている。
 宇宙が誕生してから現在までで、130億年くらいが過ぎたという。このくらいの数字なら、まだ我々にも理解可能だ。だが、宇宙の終わりまでの時間、となると、1のあとに0が100個も続くような数字になり、我々の手には負えない。そこで、フレッド・アダムスは「宇宙年」(cosmological decade)という単位を設定し、少しは理解しやすいものにした(詳しくは『宇宙のエンドゲーム』参照のこと)。
 宇宙は、重力とエントロピーのバランスの上に成り立っている。エントロピーが勝てば宇宙はどこまでも拡散してしまうし、重力が勝てばあらゆるものが引き付けられブラックホールと化す。
 果たして宇宙には、拡散を防ぐだけの物質があるのだろうか。2001年にNASAで打ち上げられたWilkinson Microwave Anisotropy Prove (WMAP) の調査結果によれば、宇宙を現在のような形にとどめている物質には、いわゆる原子や電子といったバリオン(重粒子)は宇宙全体の物質の中で、5パーセント程度に過ぎず、この他にダークマターと呼ばれる謎の物質が25パーセント、さらに正体不明なダークエネルギーというものが70パーセントを占めているらしい。

 もし宇宙が拡張を止めるとしても、それは200億年先の話であり、その頃には太陽はとっくに死んでいる。勿論、代わりに新しい星が形成されているだろうが。
 もし、宇宙がどこまでも拡張し続けるとしたら、330億年後には宇宙は現在の2倍のサイズになっている。最大限まで拡張した後は縮小し始め、縮小開始から200億年も経つ頃には宇宙は現在と同じ大きさに戻る。その後も縮小は進み、星と星の距離が縮まるせいで夜空はどんどん明るくなっていく。
 やがて「暗い夜空」なんてありえない世界になったとしても、それでも生命はもちこたえるだろう。凍り付いていた惑星が溶け始め、今までにない化学合成物質が出来て、新しい生命も生まれてくるはずだ。宇宙の消滅直前の繁栄とは、皮肉なことだけれど。
 その頃まで太陽系が残っていたとしたら、木星や土星の月は再びあたたかくて過ごしやすい場所になっているだろう。だが、それからさらに数十億年が過ぎると、宇宙は現在の地球の昼間よりも明るい場所になり、宇宙の平均気温は100度を越え、生命は絶滅する。さらに数百年後には、すべてが燃え尽きる。
 ここからが、壮観である。「宇宙の果てのレストラン」の客ならきっと喜ぶはずだ。現在の1万分の一にまで縮小した宇宙は、今の太陽の表面に負けない暑さと明るさになり、残っている星は次々と爆発し、やがて宇宙は巨大な水素爆弾と化す。原子は強い放射能を出しながら電子と陽子に分解され、宇宙そのものが粉々になる。
 宇宙の最後の瞬間は、ちょうどビッグバンの逆まわしのようなものだ。宇宙は、中核にあるブラックホールの重力で原子1個のサイズより小さくなり、やがて現行の物理法則も効かなくなって終わる(ビッグクランチ)。フレッド・アダムスいわく、「次に何が起こるかはわからない。もし神がいるとしたら、荷物をまとめて立ち去るだろう」。
 もっとも、ビッグクランチ後にはまたビッグバンが起こり、それが永遠に繰り返すという説(ビッグバウンス)もある。

 ビッグクランチもぞっとしないアイディアだが、ある意味でそれ以上に恐ろしいアイディアが、ビッグフリーズである。
 と言っても、今から数兆年くらいは生命は安泰なので、心配することはない。太陽を含む多くの星は、せいぜい100億年くらいで消滅してしまうにしても、そういった星の燃えカスが宇宙に散らばることで、新たな生命誕生への材料が増えるし、また新しい星も次々生まれてくる。フレッド・アダムスはこの時期の宇宙を「星たちが輝く時代」と表現したが、今より1万年後の宇宙は、まさに映画『スター・ウォーズ』さながらの、生命のゴールデン・エイジとなっているかもしれない。とすると、我々がエイリアンに出会えないのも、単に我々が時期尚早すぎただけなのだろうか。
 ただし、宇宙が100兆年目を迎える頃(ビッグバウンス説では宇宙はとっくに終わっている)には、新しい星を生み出す燃料は底をついている。現存する星が細々と生き長らえるのみで、もしまだ生命が残っていたとしたら暖かい場所を探して移住しなくてはならない。
 その後も、宇宙はますます巨大でますます暗い場所になっていく。それでもまだ白色矮星や惑星といったものは残っているし、それらが惑星衝突を起こして新しいエネルギーを生み出すことも、現在の宇宙と比べるとものすごく稀なことになっているとは言え、皆無ではない。ただし、その時代の生命はまるで虚無の中で暮らしているような気がするだろうし、仮にその生命が天文学を発達させたとしても、夜空に星がまたたく華やかなりし過去は想像もできないだろう。
 やがて、星と何かが衝突することはほとんどなくなり、もっとも長生きな星ですら燃料切れとなる。さらに時が過ぎると、陽子の寿命すら尽きてきて、この陽子の衰退が宇宙に残された最後のエネルギーとなる。これは、自分の身体を自分で食うようなものだ。こうして後に残るのは原始的な微粒子と放射線のみ、この頃にはブラックホールすら消えると言われている。ブラックホールは、縮みすぎて形を維持できなくなり、強い光と熱と共に爆発する――こうして、つかの間ながら、宇宙に物質が戻る。
 その後は、宇宙に真の闇が訪れる。次に何が起こるのかは分からない。このまま永遠に闇のままなのか、あるいは一部の学者が言うように、古い宇宙の死体から新しい宇宙が生まれるのだろうか。
 
 ミリウェイズからの眺めには、派手なもの(ビッグクランチ)と地味なもの(ビッグフリーズ)の、二通りの可能性がある。この他に、ある種のダークエネルギーが強くなって、銀河から原子に至るまであらゆるものを素粒子レベルにまで粉々に吹っ飛ばすのではないか、という考え方もある(ビッグリップ)。
 宇宙物理学者のミチオ・カクは、空間を飛び越えるような星間旅行のできる宇宙船を動かすには銀河規模のエネルギーが必要となるため、現実的には不可能だと指摘する一方で、ブラックホールを利用して平行宇宙への片道旅行ならできるかもしれない、と言う。宇宙環境の変化のせいで絶滅の危機にある知的生命体にとっては、それも悪くない話だろう。
 別の考え方として、自分で宇宙を創る、というのもある。現宇宙とベビー・ユニバースをワームホールで繋いで、ワームホールが閉じる前にくぐり抜ければ、ビッグバン直後の宇宙が体験できるだろうし、その後の宇宙の進化も見物できる。また、タイム・トラベルという手もあるが、これについては9章で触れる。
 ともあれ、どんなに支払いが高くつくにしても、ミリウェイズには行ってみるだけの価値がある。そして、ミリウェイズに行った暁には、きっと今度はもう一方の端、つまり宇宙の始まりにも行ってみたくなるにちがいない。


6. the big bang burger bar

 ビッグバン・バーガーバーからの眺めとは、一体どんなものだろう。「ありとあらゆる全般的ぐちゃぐちゃ」(『ほとんど無害』、p. 50)はどこから生まれたのか。始まりの前はどうなっているのか。あるいはそうした謎は、「北極の北は?」と問うような愚問なのだろうか。
 宇宙の始まりについては、宇宙は何もないところからただ一度の巨大な爆発で誕生した、というビッグバン説が、半世紀以上に亘って有力である。
 最初の仮説は、1920年代頃から始まる。アメリカの天文学者エドウィン・ハッブルが、遠くの星ほどこちらに届く光は赤くみえるという現象から、銀河がどんどん膨張していることに気付いた。この時点では、ただ宇宙が拡大方向にあるというだけだったが、この発見が後にビッグバンというアイディアに発展する。
 その一方、1940年代には、宇宙には始まりなどなくずっと変わらず同じだという定常宇宙論も現れる。この理論を支持するイギリス人物理学者フレッド・ホイルは、無からすべてが生まれるビッグバン説などナンセンスだと切り捨てている。
 1960年代に入って、宇宙からの電磁波が測定されるようになると、ようやく物理学の理論でビッグバンを裏付けできるようになった。さらに時代が進み、望遠鏡の精度が上がってさまざまな測定法が開発されると、過去の宇宙の姿が現在のものとかなり異なっていることも分かってきた。たとえば、100億年前の宇宙にはいたるところにあったクエーサー(準星)も、現在ではほとんど存在しない。宇宙は不変どころか、進化しているのだ。

 実際のところ、ビッグバンは起こったのだろう。でも、我々に分かるのはビッグバン後の宇宙のことだけであり、アメリカの物理学者アラン・グースの言う通り、ビッグバン理論それ自体は、「何が、どうして、どうやって爆発したのか、そもそも本当に爆発そのものがあったのか、何の説明にもなっていない」。
 ともあれ、グースは1979年にインフレーションという考え方(宇宙は、ビッグバンの瞬間に10の50乗ともいう、高速を上回る程のすさまじい勢いで急激に膨張した)でビッグバン理論に修正を加えた。この考え方は、現在ある宇宙の巨大さと一様さをうまく説明してくれる。
 しかし、ビッグバン理論とは、物質と反物質の均等を破壊するような理論でもある。このような、通常の物理法則が通用しない特異点として現在判明しているのは、ブラックホールの中枢だけだ。だがそれ故に、ビッグバンとはブラックホールが爆発したものだ、とか、ブラックホールの中にはそれぞれに宇宙が存在している、といった考え方もある。宇宙そのものは未来永劫存在していて、たまに何かのきっかけでブラックホールが爆発し、新しい時間軸が生まれる――我々が全宇宙だと思っているものも、実はそれらのうちの一つにすぎないのではないか、と。
 あるいは、ビッグバンとは三次元で存在する二つの宇宙が、五次元の領域でぶつかって起こるという「エクピローティック宇宙論」というものもある。今、この宇宙が拡大しているのも、未来で別の宇宙とぶつかる可能性を示しているのだとか。
 今どきの天文学者たちは、宇宙の誕生を大昔に起こった一回きりの単純な爆発とは見なさない傾向があるようだ。スタンフォード大学教授のレオナルド・サスキンドに言わせれば、ほとんど無限ともいえる宇宙を創り出した爆発を「スーパーバン」と呼ぶとすれば、いわゆるビッグバンなんて辺境で起こったちっぽけな出来事、「シャンパン・ボトルの中の、たった一つの泡のようなもの」らしい。

 ビッグバンのことは、誰でも一度は話題にしたことがあると思う。が、それに附随する物理学について、会話が盛り上がることはない。そもそも、超ひも理論だの11次元だのと言われても、高度な数学の知識なしには理解することもできないし。
 少し前までの近代科学は、もっと啓蒙的だった。ニュートンの法則は、利口な高校生なら難なく飲み込めるだろうし、19世紀最高の科学論文であるダーウィンの『種の起源』は、学者のみならず一般人に向けて書かれたものだ。それが今では、たとえ科学者同士であっても、隣の研究室で行われている実験に首をひねっている有様。最近の宇宙理論の本では、たとえばブライアン・グリーンの『エレガントな宇宙』はベストセラーになったけれど、この本を読んで本当に理解することができた人はどれだけいただろう。恥ずべきことだが、コメディアンのケン・キャンベルが指摘した通り、一般人は「科学を信仰する」状態が抜け出せないでいるのだ。
 確かに天文学は難しい。だが、世界各地に作られた最新の望遠鏡や人工衛星は、初期宇宙の驚くべき画像を撮れるようになったし、やがて分子物理学者たちによってビッグバン当初の様子が証明されるにちがいない。

 コペルニクスの地動説やダーウィンの進化論を経て、我々は宇宙の中心どころか、実に実にちっぽけな存在にすぎないことを思い知らされた。挙げ句、我々は「この惑星に住むサルの子孫はあきれるほど遅れていて、いまだにデジタル時計をいかした発明だと思っている」(安原訳『銀河ヒッチハイク・ガイド』、p. 5)と揶揄されてしまったけれど、もしビッグバンを解明することができたなら、それは「いかした発明」と胸を張っていいのではないだろうか。


7. time travel

 『銀河ヒッチハイク・ガイド』において、タイム・トラブルは災厄の素である。詩人ララファの話(安原訳『宇宙クリケット大戦争』、pp. 162-164)は、まさにタイム・パラドックスの好例だ。自分自身で書くはずの詩を、未来からやってきた修正液メーカーに詩集を渡されて丸写しする羽目になったとしたら、さてそもそもこの詩は誰が生み出したものになるのだろう。あるいは、アインシュタインが自分で思い付く前に、先回りして彼にこっそり相対性理論を耳打ちしたとしたら?
 タイム・パラドックスと言えばSFの世界の定番のようだが、この問題にアダムスほどきちんと向き合っているSF作家は意外と少ない。映画『バック・トゥー・ザ・フューチャー』のような作品は、むしろ例外的だ。後は、ロバート・A・ハインラインの短編小説「輪廻の蛇」とか、それから映画『ターミネーター』シリーズとか。『ターミネーター』では、過去に遡ってジョン・コナーを殺害し歴史を改変しようとする試みは失敗に終わっているようにみえるが、実はシリーズ2作目では科学技術にまつわる情報の流れがタイム・パラドックスを起こしている。

 はたしてタイム・トラベルは可能なのだろうか。そんなことは不可能、という物理学者もいるけれど、どうやらタイム・トラベルは光の速度との兼ね合いの問題にすぎないことがわかってきた。ただし、実行に移すとしたらとてつもなく大変なことになりそうだけれど。
 でも、過去に戻るのに比べれば、未来に行くほうがまだ簡単である。何せ、実際に我々は未来に向かって進んでいる訳だし、あとはその速度を上げてやればいいだけのことだ。実際、アインシュタインの理論でも、違う速度で進む物体は時間の流れ方が異なることは分かっている。空間的に早く進めば進むほど、時間の流れは遅くなるのだ。例えば、マッハ2の速度で一時間飛行したパイロットの腕時計は、ほんのわずかながら地上の時計より遅れている。宇宙基地ミールで1年を過ごせば、地上とは4秒の差が出る。理論上は、立ち止まっている人と歩いている人との間でさえ時間の流れ方は異なっている訳で、つまるところ絶対的な時間の流れなどないのだ。
 という訳で、光速は越えられないにしても、たとえば光速の80パーセントの速さで移動すれば、時間の流れは70パーセントにまで遅くなる。光速の99.9パーセントなら、あなたの1時間は地上の22日分にも相当する。このように光速に限りなく近付けば近付くほど、時間の流れは急カーブを描いて遅くなり、光速の99.999999999999パーセントともなれば、たったの1日で2万年もの年月を通り過ごす計算になり、タイム・トラベルを楽しむならこれで十分だろう。数年間ばかり、光速に近い早さで宇宙を旅して地球に戻れば、地球では何十万年もの時が流れていることになる。
 重力もまた、時間の流れを遅くする要因である。ブラックホールのような巨大な重力場であれば、その影響も大きくなり、重力が無限なら時間の流れも無限に遅くなる。故に、事象の地平線と呼ばれるブラックホールのある一点では、時は止まったようになり、宇宙の盛衰をも目撃することができるかもしれない。『タイムマシンをつくろう!』の著者で宇宙物理学者のポール・デイヴィスが言うところの、「時の終わりを越える片道旅行」である。ただし、たとえ十分の一秒にしても、その一点に留まり続けるには莫大すぎるエネルギーが必要な上、通り過ぎると身体は原子レベルにまで分解されてしまうが。
 光速で飛ぶにしても、ブラックホールに留まるにしても、コストが甚大な上に、片道旅行しかできないとあっては、あまり現実的とは言えない。

 過去へと向かうタイム・トラベルは、完全に机上の空論である。そもそも時間とは、三次元の空間と一体化して四次元を形成しているものだから、切り離すことはできない。三次元の人間の身体に、数十年分の時間がくっついて細長い虫のようになっているようなものだ。ただし、この時間が伸びる線、ワールドラインは一直線である必要はなく、曲がっていても構わない。むしろ、強い重力場ではワールドラインは閉じた環のようになっていると考えられ、CTC(Close time-like curve)と呼ばれている。
 この理屈でいけば、猛スピードで回転する宇宙に飛び込めば過去へのタイム・トラベルは可能になる、と考えた論理学者もいた。が、残念ながら現実の宇宙は回転していないし、理論上は回転するブラックホールでもCTCは起こり得るものの、ブラックホールへの旅がどんな結末を迎えることになるかは先に述べた通りである。1974年には、数理物理学の教授、フランク・ティプラーが、円筒を猛回転させることで同じ効果が得られるのではと計算している。
 現時点で、タイム・トラベルを実現するもっとも有効な手立てと考えられているのは、ワームホールである。1980年代後半に物理学者のキップ・ソーンが初めて提唱したもので、作家カール・セーガンが小説『コンタクト』の中で、数時間のうちに人が何光年先の星まで行って戻ってくる方法はないかと相談をもちかけたのがきっかけとなったらしい。ワームホールとは、もともと1920年代にアインシュタインとその弟子たちが考えたもので、遠く離れた空間同士を繋ぐ橋のようなものであり、ブラックホールもその一種と考えられている。ただし、現実問題としては、ワームホールが本当に人間にも通過可能なものかどうかはすこぶる怪しいし、たとえ通過したとしても出口がどこなのかはまったく分かっていない。
 ポール・デイヴィスの説に従えば、自力でワームホールを作り出すことができるように思える。が、人間が通れるサイズのワームホールを安定させるためには、木星の質量と同じくらいのエネルギーが必要となる。ブラックホールなら、そのくらいのエネルギーを手に入れることができるかもしれないが、ブラックホールのそばにタイム・マシン工場を建てるのはあまり好ましくない。おまけに、ワームホールが出来たとしても、それをタイム・マシンとして利用する作業はまだ残っている。

 コネチカット大学の理論物理学者、ロナルド・マレットの案はもっと単純である。円形のレーザー光線を回転させることで、その内部で時間のずれを生じさせるというのだ。H・G・ウェルズの『タイムマシン』も似たような考え方で作られているが、実はマレット自身ウェルズの大ファンらしい。マレットのアイディアは理論上は問題がないが、現在のレーザーではパワーがまるで足りないのが難点である。
 ひょっとしたら宇宙には、我々が気付いていないだけで時間の抜け穴やら何やらがあちこちに散らばっているのかもしれない。それでも、『スター・トレック』に出てくるような、二つの空間を繋いで行う「ワープ航法」よりは、宇宙空間にかかる負荷はまだしも少ないのではという学者もいる。

 タイム・トラベルには、タイム・パラドックスの問題がつきものである。
 タイム・パラドックスの解決案として、タイム・マシンで過去に戻って何をしでかそうと、歴史はそれをあらかじめ折り込み済みだという考え方がある。理に適った考え方のようだが、だとすれば個人の意志など幻想にすぎず、すべては運命の定めるまま、ということになりかねない。もう少し穏当な答えとして、スティーヴン・ホーキングの「時間順序保護仮説」がある。たとえ理論上は可能だったとしても、現実の宇宙は歴史を汚染するようなタイム・マシンの存在を許さない、というのだが、現在ではどうやら宇宙はそんなに単純に割り切れるものではないということがわかってきた。実際の宇宙は、私たちが何となく知覚している以上に、もっとぐちゃぐちゃでデタラメなものらしい。
 量子物理学の理論を使えば、タイム・パラドックスを解決できるという考えもある。何かが選択されるごとに、多元宇宙がどんどん増えていくというものだ。たとえば、過去に戻ってヒトラーを暗殺し、現在に戻ってきたとしたら? 恐らくまるで違う「現在世界」に戻ることになり、ひょっとしたらその世界ではあなたは生まれていないかもしれないが、だからと言ってあなたが急に消えてなくなる訳でもない。ただ、そういう新たな平行宇宙が作り出されるだけのことだ。故に、パラドックスも何もない。
 イギリスの物理学者・哲学者のジュリアン・バーバーは、我々は時間を川の流れのように考えているが、それは我々の脳がそうさせているだけであって、時間とは細切れの瞬間の寄せ集めにすぎない、と説く。故に、過去・現在・未来の差はなく、すべてが同時に存在していることになり、自分自身の記憶の中に過去が、予想の中に未来がある以上、タイム・トラベルなど不要、なのだとか。ごもっともなご意見ではあるが、それではヘイスティングの戦いを見物することはできない。

 もし、未来の人類がタイムマシンを作ることに成功したなら、メソポタミア文明とかローマ帝国もいいけれど、我々が今生きている20世紀後半から21世紀にかけての時代にもきっと興味を抱くはずだ。なのに、我々が未来からの訪問者と出会えていないということは、やはりタイムマシンは製作不可能なのだろうか?
 タイムマシンは作れても、最初にタイムマシンを作った時間より前には遡れないから? あるいは、タイムマシンは作れても中に人が乗れないとか? タイムマシンを作れるくらいまで文明が発展する前に、人類は滅亡してしまう? それとも、おびただしい数の多元宇宙の中で、たまたま我々がいるのは未来人が訪れない宇宙なのか?
 いや、ひょっとしたら我々が気付いていないだけで、未来人は来ているのかもしれない。私は、宇宙人が地球人にまぎれているなどとは一秒たりと信じたことはないが、それは彼らが広大な銀河を横切って、わざわざ地球くんだりまで来る理由がないからである。でも、我々の子孫がタイムマシンに乗ってやってくる、というなら話は別だ。可能性はものすごく低いが、詐欺師の中には本当に未来を目にしたことのある者もいるのかもしれない。


8. the babel fish

 外国語の学習に苦労したことのある者なら、バベル魚の素晴らしさがよく分かるだろう。だが、原子爆弾や薄型テレビは作れても、まともな翻訳マシンが今もって作れないのは何故だろうか。
 言語の違いは文化の違いである。単純に一つの言葉から別の言葉へ言い換えれば済むものではない。それ故に、言語が失われることは、文化の消滅という悲劇でもある。それが分かっているからこそ、我々も、外国語なんて面倒くさいと思いつつ、だからと言ってこの世界が一つの言語に統一されることなど望んでいない。要は、手軽に外国語をマスターしたり素早く翻訳する方法があればいいだけのこと。なのに、それがものすごく難しい。ただし、オランダ人は例外である。彼らは、子供のうちに耳の中にバベル魚もどきを埋め込んでいるらしい。
 ともあれ、我々のコンピュータをもってしても、現時点ではほとんど使い物にならないというのが現状だ。翻訳のオンライン・サイトで試してみれば分かるが、結果は実にお粗末なものである。
 しかし、機械による自動翻訳はどうしてこんなに難しいのだろう。どうして、機械には我々が言わんとうするところを理解することができないのだろう。普通の2歳児だって、もっとマシな言葉の選び方ができるだろうに。
 
 カーネギー・メロン大学言語技術研究所教授のアーロン・ラヴィいわく、バベル魚のような自動翻訳マシンを作る試みは1940年代から始まった。翻訳は、まさにコンピュータにうってつけの仕事だと考えられていたのだ。1950年代にはおもちゃのような翻訳マシンが作られ、ジョージタウン大学で初のデモンストレーションも行われた。49のロシア語の文章を250の英単語で翻訳するというものだったが、結果は無惨なものだった。1960年代に入ると、自動翻訳は当初考えられていたよりはるかに難しいということが分かってきて、研究助成の対象からも外される始末となった。
 70年代、80年代には、代わって音声認識技術の開発が進められた。その結果、1990年代半ばにはIBMのViaVoiceのような製品が誕生している。
 インターネットの発達や、あるいはEU、国連といった、国境に縛られない人や物の交流が盛んになるにつれ、翻訳サービスの重要性は年々高まっている。あるいは、もう一つの解決策として、英語が世界共通語になる日が来るのかもしれない。あるいは、人口と国力にものを言わせて中国語が席巻する可能性もなきにしもあらずだが、英語の文化的側面の優位性を考えると、そう簡単に英語を駆逐することはできないだろう。
 それにつけても、自動翻訳の研究者たちを一番悩ませているのは、言語の曖昧さである。文法と辞書だけで言語を理解できると思ったら大間違い、言語の意味はその多くを前後のコンテキストに拠っている。そして、このコンテキストを機械に理解させるのが大変なのだ。
 一つの方法として、まずはマシンにデジタル化された文法と語彙をプログラミングし、それを一種の仲介言語として、実際に人間が使っている異なる言語同士の橋渡しをさせる、という手もある。理論上は可能だが、マシンのための仲介言語には言語にありがちな曖昧さを一切排除する必要がある上に、既存のあらゆる言語の中で中立でなければならないということを考えると、実現はかなり難しい。最近では、とにかくマシンに大量のテキストを読み込ませた上で、マシン自ら言語の中のパターンやフレーズを統計学的に学習させるという方法も検討されている。
 話し言葉の自動翻訳はさらに難しい。書き言葉に比べて文法がいい加減になりがちな上、発音は人によって大きく異なっている。大体、翻訳以前の問題として、性能の良い音声認識装置を作ることすらいかに大変か、一度でもアメリカの電話サービスを利用して映画館のチケットを予約したことのある人なら容易に想像できるはずだ。
 とは言え、ラヴィの考えは至って楽観的であり、今から10年以内には耳に装着するタイプの自動翻訳マシンを手に入れることができるという。実現すれば、まさに電子版バベル魚だ。だが、ラヴィに言わせれば、その頃にはそもそも翻訳マシンの必要はなくなっているらしい――つまり、巨大なグローバル化の波が我々を単一言語の世界へと押しやっているというのだが、さてどうなることやら。


9. telepotation

 20世紀の技術力のおかげで、我々の移動速度は格段に早くなった。でも、やっぱり時間はかかるし、交通渋滞の問題もある。環境汚染を引き起こすことなく、瞬間移動する方法はないものだろうか。
 確かに、現状では『スター・トレック』に出てくるようなテレポート装置は夢のまた夢である。だが、タイムマシンを作るのに比べれば、テレポート装置はまだしも実現可能のようだ。実際、量子力学の理論を用いて、ウィルスくらいの大きさならば実現まであと一歩のところまで迫っている。
 SFに出てくるテレポートでは、人やモノをいったんバラバラに分解して、それを送り先で再構築する、というのが通例だ。さらに進んで、現実のモノではなく情報を走査して送り、そのデータをもとに新たに原子や分子を集めて再構築する、という考えもある。しかし、その場合、送り先たる異星に自分の身体を構成しているのと同じ元素がなかった場合、大変なことになる。
 あるいは、テレポート装置はファックスのようなものだと考える手もある。手紙をファックスで送っても、向こうに届くのはその複製であって手紙そのものではない。そして、ファックスの場合、オリジナルは手元に残っているが、テレポートではそれが残らない、と。
 だが、そもそもファックスで届いた複製は、オリジナルとまったく同じと言えるだろうか? 手紙をただの情報運搬ツールとみなすなら、答えはイエスである。だが、我々の心情としては、直筆とファックスを同じものとは思えない。2003年に、ラムズフェルド国防長官がイラク戦争の遺族に宛てて送った手紙が、彼の直筆ではなく直筆をまねた機械によるものだと分かったとき、強い抗議の声が上がったのもそのためである。どんなによく似ていても、我々にとって複製と直筆には別物なのだ。
 テレポートをめぐる問題は、コピーという過程から生じる。一番単純な例としては、映画『ザ・フライ』のようにテレポート装置に自分以外の異物が混入したらどうなるか、という話。自分のDNAと蝿のDNAがごちゃまぜの状態で再構築され、悲惨な結末を迎えることになる。
 あるいは、情報の受信はうまくいったが、送信に失敗してしまったら? ただのファックスですらケーブルが絡まったり紙が詰まったりして送り損ねることがあるのだから、テレポート装置でも同じようなことが起こらないとは限らない。実際、初期の『スター・トレック』や『ザ・フライ』でも、身体の内側と外側がひっくり返った状態で転送されるという不幸な事故が描かれていたではないか。『銀河ヒッチハイク・ガイド』の冒頭では、アーサーとフォードが地球脱出のために宇宙船にテレポートする(地球を脱出する羽目になる原因が、バイパス道路建設のせいというのは実に皮肉だ)が、テレポートの衝撃を和らげるために、フォードはアーサーに塩分とタンパク質と筋緩衝剤として、ピーナッツとビールを勧めていた。
 テレポートに関する最大の問題は、複製を本物と見なせるかどうかにかかっている。オリジナルのデータに基づいて分子の結合の一つまで寸分同じに再現できたとしても、気持ちの上でそれをオリジナルと同じと考えることには抵抗がある。クラシック・カーの修復を例に挙げよう。ボロボロのクラシック・カーを修復するために、同じような型の車の部品を集めたとする。その結果、元通りきれいに修復できたとしよう。だが、部品を取り替えに取り替えた結果、残っているオリジナルの車の部品はバッチのみ、しかもそのバッチは貴重だということで金庫に片付け、車にはレプリカに付けていることにした、となると、出来上がった車は「修復」というより「複製」と呼んだほうが正しいのではないか。
 テレポートでは、複製されるのは車どころか人である。自分の身体が分解され、別のどこかで再生されるとしたら、果たしてテレポートしたのは自分か、それとも複製か? テレポート装置に入って頭に銃を当てて引き金をひいたとしても同じことだ。オリジナルの自分に関しては言えば、テレポート装置に入るということは生命の終わりを意味する。新しく複製された自分は、替え玉にすぎない。
 話をさらに進めて、たとえばテレポート装置に入ったもののデータ送信に不具合が生じて、テレポート先で復元されたのが100年後だったとしたら? あるいは、間違って計5カ所の受信先に同時に情報が送られてしまったら? オリジナルの1人だけ残して抹消します、とテレポート会社は親切に申し出てくれるかもしれないが、では5人の自分のうち、オリジナルは誰なのか?
 とは言え、実は現在自分の身体を作っている細胞は昔と同じではない。細胞は次々と死んでは新しいものに作り替えられ、変わっていく。脳細胞とて例外ではなく、原子レベルでは別物となっていて、そういう意味ではテレポートを殺人行為のようにとらえるのは間違っているのかもしれない。
 たとえば、事故で脳を損傷し、人工ニューロンのようなものを移植したとしても、それでも同一人物と言えるだろうか。本人も周りも違和感がなければ、脳の大半が人工物に置き換わっていたとしても、同一人物と見なしていいのではないか。要は、自分で自分を「同じ」と感じられるかどうかの問題である。脳移植など持ち出すまでもなく、量子のレベルでは、今の脳は5分前の脳とですら異なっている。それでも「同じ脳」だと感じられるということは、言ってみれば毎秒ごとに死んでは生き返り、ただし死んでいる間の記憶がないのと同じようなものだ。
 ならば、何故テレポートにためらいを感じるのか?
 ためらいなど感じない、とブライアン・グリーンなら言うだろう。著書 The Fabric of the Cosmos の中で、テレポート装置に入った結果、オリジナルの自分と複製の自分の2人が出来てしまったとしても「どちらも自分」として迷わず受け入れることができると書いている。しかし、誰もがグリーンの意見に賛成できるとは限らない。テレポートの過程で、魂とか自我はどうなってしまうのだろう。クラシック・カーでさえ、マニアとディーラーの間で「車の魂」について話し合われた結果、どの部品がオリジナルとして残っているかによって、「修復」か「複製」かを厳密に区別するルールが作られている。人間についても、同じようにすっきりと線引きできればいいのだが、そうもいかない。かくして、テレポートにもタイム・トラベル同様、哲学的な問題が生じてくる。
 しかし、タイムマシンに比べれば、テレポート装置はずっと簡単だ。量子力学の理屈をもってすれば、やってやれないことはない。1993年にはIBMのチャールズ・ベネット率いるアメリカ、カナダ、イスラエルの6人の学者が理論上のテレポート装置を作り上げ、さらに1997年には、インスブルック大学のアントン・ザイリンガーらが、ベネットらの理論に基づいた実験で、一つの光子をほぼ光の速度でテレポートすることに成功したという。2003年には、オーストラリアの科学者ピン・コイ・ラムが光ビームを用いた量子のテレポート実験に成功している。
 とは言え、我々が望むのは光子や電子の移動ではない。今後、この理論を発展させることで、車や猫や人間を移動させることのできる装置が作れるのだろうか。
 理論上の答えは、「Yes」である。実際、2004年には原子のテレポートにこぎつけた。次に目指すは分子、さらにウィルス、という調子で続けていけば、人のテレポートも実現できるはずだ。ただし、人体サイズのものでそれをやるには、核爆発の何百倍ものエネルギーが必要となるが。
 という訳で、人のテレポートが実現することはないにしても、量子テレポート技術は今後、コンピュータ間の情報のやり取りで有効活用されるに違いない。


10. meat with a clean conscience

 遺伝子組み換え食品(GM食品)の誕生により、我々の食にまつわるグロテスクな問題がマスコミにも取り上げられるようになった。ヨーロッパでは、コスト重視のひどい飼育方法で食用の家畜を育てることについても注意が向けられるようになったが、世界一味覚オンチな国、アメリカではGM食品についての関心もかなり低いままである。それも無理はない、アメリカ人の食生活は現状でもひどいもので、人工添加物だらけの加工食品に加え、低脂肪をアピールする食品には味をごまかすために砂糖と塩がたんまり入っている有様だ。
 ヨーロッパでは事情は違う。ヨーロッパの中でも、イギリスだけはアメリカ並みだが、少なくとも遺伝子組み換えの問題には反対の声が大きいし、大陸側では食の問題にはもっと熱心である。フランスは、マクドナルドを始めとするアメリカの食文化に反対し続けているし、イタリアはまさにスローフードの国だ。もっとも、ヨーロッパが反対しているのは、食の問題だけでなく、アメリカ型の生活、恐怖心にあおられて長時間労働を余儀なくされる生活そのものでもあるのだが。
 ともあれ、現時点ではGM食品が人間の健康に害を与えるという証拠はない。それに、遺伝子組み換え自体は人為的なものだけでなく、自然界でも普通に起こっていることなのだ。1998年、医学雑誌 The Lancet に、GM食品を食べたネズミが病気になったという論文が掲載されたが、統計学的に間違っている箇所がある上、ネズミの病気とGM食品との関連性に根拠がないとの批判を受けた。
 以来、GM食品の是非をめぐる討論は、不毛なものとなっている。何しろ、実際に死んだり病気になった人はいないのだから。
 
 食べられても構わない、と心から思う家畜を創り出すことは可能だろうか。どんな生物だって、殺される瞬間はつらい思いをするはずだが、それをなくす方法は見つけて、良心の呵責なしに肉を食べることはできないだろうか。
 NASAのモリス・ベンジャミンソンは、宇宙食開発の一環として、一切れの肉を培養して大きくする方法を考えた。現在では宇宙飛行士の食事は随分改善されて良くなったが、それでも宇宙に滞在していると味覚がどんどん鈍化していく。そこで、宇宙基地ミールでは食事に大量のスパイスを入れるようになり、新入りの宇宙飛行士を驚かせたらしいが、ともあれベンジャミンソンの実験は今のところ大きな成果には繋がっていない。金魚の肉を滋養液に浸けて培養してちょっとしたフィレサイズにすることはできたが、同じ方法をチキンで試したところ、14パーセントしか大きくならなかった。また、金魚についても、培養肉の出来を調べるため、オリーブオイル等に浸してからフライにしてみると、普通の魚フライのように仕上がったものの、健康上の危険を鑑みて実際に口に入れることは禁じられていたため、どんな味がしたのかまでは分からずじまいだった。
 サウスカロライナ大学のウラジミール・ミロノフは、肉そのものを培養して大きくするよりも、いったん繊維組織をどろどろに溶かして増やし、それから肉の状態に精製するほうが簡単なのではないかと考える。チキンナゲット方式、という訳だ。彼の夢は、自動パン焼き器のように、毎朝新鮮なソーセージを培養・提供してくれるマシンだという。
 しかし、本当のステーキ肉を作るとなるともっと大変だ。単にタンパク質を固めればいいというものではない。たとえ同じ肉でも、放し飼いで育てたチキンとブロイラーとでは味がまるで違うというのに。
 それでも、いつの日か技術者たちがそういう肉を生産できるようになるかもしれない。ただし、それは我々が脳のない(少なくとも意識のない)動物を作ることを意味する。苦痛も自意識もない牛でも、ごく原始的な脳幹部分さえあれば最低限の生体機能維持に支障はなく、餌を食べることもできるはずだという。しかし、もはや苦痛を感じることすらなくなるほどにひどい扱いをすることは、倫理的に許されることだろうか。ベンジャミンソンの魚の切り身は、いつか呼吸して動く哺乳類や鳥類と同じようなレベルに成長し、人類の主なタンパク質供給先となる日が来るかもしれない。というと、グロテスクな話のようだが、現在我々が鶏や七面鳥に対してやっているのはまさにそういうことなのだ。
 地球の人口は増える一方だし、資源の有効活用という意味でも人類は肉食を止めるべきだ、という意見もある。が、実際には肉を食べたいと思う人は増え続けるだろう。30年ほど前、「グリーン革命」という運動が起こり、米などの穀物の栽培を促して第三世界の農業生産率を向上させたが、この先起こることは「レッド革命」とでも呼ぶべき変革だろう。動物にも遺伝子組み換えを行って生産率を上げる、という試みは既に始まっており、実際、通常サイズの10倍のサケが作られたこともある。生産性だけでなく、たとえば牛乳の質を変えるために牛に遺伝子組み換えを施すといったことも可能だ。
 やっぱり、我々は「生物を殺して食べる」ことに対する疾しさを失わないほうがいいのではないだろうか。実験室で育てられたステーキは、たとえ話しかけてこないとしても、遠慮したいものだ。


11. totax perspective vortex

 事象渦絶対透視機は、最悪の拷問装置である。何しろ、普通の拷問がせいぜい生きる意欲を失わせる程度なのに対し、事象渦絶対透視機は、生まれてきたのが間違いだった、宇宙など存在しなければよかったと思わせてくれるのだから。
 装置の仕組みは単純だ。宇宙のすべてのものは、どんな小さいものからであれ、なんらかの影響を受けている。故に、小さなケーキ1個からでも、全宇宙を外挿することができる、という訳で、この装置の発明家トリン・トラギュラはこの装置に一方に妻を、もう一方にケーキから外挿された全宇宙を繋いだところ、妻は自分が全宇宙に大してどのくらいちっぽけな存在かを思い知らされ、発狂してしまった。これぞまさに究極の罰というものだ。
 ゼイフォードの場合は、たまたま彼のために作られた宇宙にいた時にこの装置に入れられたため無事だった。むしろ、前から高かった彼の自己評価を裏付けするような結果となってしまった。
 今では、我々の身体を作る原子の一つ一つでさえ、何百万光年も離れたところの物体と関連し合っていることがわかっている。宇宙は元を正せばほんの小さな固まりで、すべては莢の中のマメのようにぎゅっとくっつき合っていたのだ。
 とは言え、事象渦絶対透視機を実際に作るのは難しい。量子力学の観点、ハイゼンベルグの不確定性原理からいっても、電子の位置や速さを正確に掴むことはできないし、他の分子も同様である。こういった量子の曖昧さは、テレポート装置を作るときには役に立つのだが、事象渦絶対透視機を実現するとなると、ゼイフォードを無傷のまま逃げ出させる方法を編み出すほうがずっと簡単だろう。
 
 数年前の New Scientist の記事に、我々は現実の世界よりもコンピュータ・シミュレーションの世界で過ごしている時間のほうがずっと長い、という興味深い調査結果が出ていた。やがて我々はコンピュータが作成したモデル世界にすっかり取り込まれて、ネット世界を生きる仮想人格(アバター)さえあればいいと考えるようになったとしたら、その時はもう人間の身体そのものなどマシンの想像の産物程度の意味合いしかないかもしれない。イェール大学のニック・ボストロムは、いつの日か我々は完全なヴァーチャル・リアリティをいくつも作り出すだろうし、またその中に入ってしまえば現実かそうでないかの区別もつかなくなるだろうと語っている。
 このようなマトリックス仮説は、そもそも意識を持ったコンピュータを作れるかどうかに拠る。カーネギー・メロン大学のロボット工学の研究者、ハンス・モラベック教授は1秒間に10の14乗の速さで計算するコンピュータを作れたら可能だと言うが、これまでのコンピュータ開発のスピードを考えれば2010年代半ばには実現できそうだ。
 とは言え、ボストロムに言わせれば、我々の意識を納得させるだけなら何も世界のすべてを細部に亘って完全複製する必要などなく、我々の目の届く範囲だけもっともらしく再現し、残りは空白にしておいて構わない、とのこと。この世のすべては薄っぺらな書き割りで事足りる、というのはぞっとしないアイディアだが、ボストロムは、もしこの世界が本当にシミュレーションだったとしたら、映画『トルーマン・ショー』のように、きっとプログラムの穴が見つかるはずだとも言う。しかし、穴があるとしたらそれはどんなものだろう? コンピュータの管理が行き届きにくそうな、顕微鏡レベルの小さなものだろうか。逆に、ものすごくマクロなスケールで物理学の計算が合わなかったりするのはそのせいだろうか。これまで、量子理論と相対性理論が両立しないことにずっと頭を悩ませてきたけれど、悩むこと自体が間違いなのかもしれない。もし、その答えを発見したとしたら、我らのマスターがリセット・ボタンを押してゲームを再スタートさせるかもしれないから。
 無論、こんなのはただの戯言である。それでも、実は自分は今もマトリックスの中にいるのかも、という可能性がごくわずかでもあれば、それだけで長くて暗い魂の夜の時間を過ごしかねない。そういう人へのアドバイスはただ一言、「気にするな」。どうしても気になる、という方は、ゼイフォードよろしく、全宇宙は自分の楽しみのために創られたのだと考えることにしよう。


12. parallel world

 現実の宇宙だけでも我々の想像をはるかに越える広さだというのに、この他に無限の並行宇宙が存在するとしたら――
 並行宇宙は実在するのか、あるいはただのSFのプロットにすぎないのか。並行宇宙なんて真面目な科学者が取り扱うにはバカバカしい代物のように思えるかもしれないが、イギリスの天文学者マーティン・リースは、並行宇宙は形而上学などではなく、純粋に科学的な問題として取り扱われるべきと主張している。
 『銀河ヒッチハイク・ガイド』では、哀れなアーサー・デントは並行宇宙に振り回されていた。また、『ガイド』の新編集長に就任したヴァン・ハールはフォードに向かって「これからは多次元的なものの考えかたを身に着けてもらいたいね」(『ほとんど無害』、p. 88)と語っている。
 これまでに多くの社会や文明が、神話という形で現実世界とは別の精神世界のようなものを形作ってきた。祈りや幻覚によってのみ、そういった精神世界にたどりつける、というものもあれば、例えば北欧神話やローマ神話のように、現実にある山の上などに神が棲んでいるというものもある。が、後者のような設定だったとしても、当時の信者たちとて山に登れば本当に神に会えると考えた訳ではない。
 小説家たちは、並行宇宙が大好きである。特に、児童文学。主人公は、現実世界から逃れて自由を手にする。『ナルニア』がその代表例だ。この他に、エニード・ブライトンの The Faraway Tree のような作品もあるが、何と言っても世界一有名な並行宇宙ものがたりと言えば、『不思議の国のアリス』だろう。
 『銀河ヒッチハイク・ガイド』においては、地球は不安定な多次元領域にあり、破壊されたはずなのに存在していたり、存在していたとしてもまるで別物だったりとややこしい。そんなこんなで、アーサーはフェンチャーチを見失い、アーサーの娘は、ゼイフォードの宇宙船に乗ったトリリアンと、乗り損ねたトリシア・マクミランに、同時に会うことになる。
 こういったフィクションではなく、実際に並行宇宙は存在するのだろうか。結論から言えば、答えは「Yes」である。乱暴な言い方ではあるが、何しろ宇宙は我々の想像をはるかに越えてとてつもなく広いし、また「無限」とはそういうものだから。
 
 それにしても、どうして我々は並行宇宙は存在すると思いたいのだろうか。そこには、「神」の問題が絡んでいる。もし、宇宙がたった一種類しかなく、また生命が生存可能な星が一つしかないとしたら、この世界は神が人間のために設計したという、人間中心主義の考えを促すことになる。が、この宇宙とは似ても似つかない物理法則にのっとった宇宙が何百と存在するとしたら、そういった人間中心主義は霧散する。
 かつて、アインシュタインの弟子のアーノルド・シュトラウスは、「宇宙を創るとき、神には他に選択の余地はなかったのか?」と問うたが、これは実にいい問いである。答えが「Yes」なら人間中心主義はありえない。答えが「No」なら、問い自体が無効になってしまう。我々が物理法則と呼んでいるものは絶対的な法則ではなく、言ってみれば一種のローカル・ルールのようなものなのかもしれない。
 
 量子力学の世界では、複数の宇宙という考え方は並行宇宙とは別の形で用いられている。量子の世界では、事象や事物はいわば俄然性の「波」のようなもので、観察という行為によって対象物が変化してしまう。その好例が、「シューレディンガーの猫」と呼ばれるパラドックスだ。これは、言い換えれば二つの箱にそれぞれ猫が入っていて、一方の箱は閉じられたままで中の猫は生きており、もう一方の箱は開けられ猫は死ぬ、という二つの世界が同時に存在しているのだと解釈することもできる。
 もし、量子論のレベルで電子がそのように振舞っているのだとしたら、どうしてもっと大きな物質、車とかキッチンテーブルでも同じことが起こらないのだろう? こういうものだって量子で出来ているのだから、ショッピングから駐車場に戻ってきたら自分の車が海王星に移動していたということだって十分ありえそうなものだ。
 実際のところ、量子理論の世界ではすべてのことが同時に起こっている。が、一つ一つの違いごとに無限に新しい宇宙が誕生するため、我々の宇宙では一通りのパターンで物事が起こっているようにしか見えないだけである。
 では、そういった別の宇宙は一体どこにあるのだろうか。量子の世界では、複数の宇宙は「無限次元ヒルベルト空間」と呼ばれる形でひしめき合っているという。一つの宇宙から別の宇宙への移動は不可能だが、神の視線では、無限の宇宙、無限の可能性が一つの宇宙にまとまって見えるのかもしれない。
 多元宇宙仮説に反対する意見もある。が、オックスフォード大学教授のデイヴィッド・ドイチュはそういった意見を「感情的なだけで、科学的な反論ではない」という。量子理論では、別の世界が存在することも、それでいて我々の世界が一種類しかないように感じることも、どちらも筋が通ったことなのだ、と。
 この他に、第6章で触れたように、この宇宙を産み出したビッグバンはこれまで考えられていたよりもっと大規模なもので、従来の「ビッグバン」はその中のごくちっぽけな出来事にすぎないという説もある。また、ペンシルヴァニア州立大学教授のリー・スモーリンは、ブラックホールが新しい宇宙を創ると主張している。
 ともあれ、いくら並行宇宙が実在していたとしても、訪れることも観察することもできないのであればどうしようもない。それなら、今あるこの宇宙について、ハッブル宇宙望遠鏡などを使って解明を進めたほうが有意義なのではないか。だが万が一、別の宇宙へと移動することができるようになったとして、人類にとっては、未知なる宇宙生命体と出会うのと、トリシア・マクミランがハンドバックを取りに戻ったせいでゼイフォードの宇宙船に乗り損なってしまったもう一つの地球を発見するのと、一体どちらのほうがショックが大きいだろうか?


13. the whale that came from nowhere

 世の中、どんなことだって起こりうる。カジノで勝ち続けるとか、サルの群れがタイプで『ハムレット』を書き上げるとか、ものすごく確率は低いけれど、でも別に物理法則に反している訳ではない。
 さらに言えば、運転中に車を形成する全ての原子がいきなり1メートル左に移動することも、目が覚めたら木星にいたということも、あくまで可能性(probability)の問題であって、量子物理学の考え方でいけば絶対にないとは言い切れない。何もないところから突然クジラが出現するのは珍しいことかもしれないけれど、でも我々の普段の生活の中でも、電子が同時に二カ所に存在するなんてことはざらに起こっているのだ。
 そして〈黄金の心〉号は、不可能性をパワーの源へと変えてみせた。
 
 アダムスは可能性や確率の問題を、作品の推進力としてうまく利用した。昔は飢饉や病気に対して予防する術がなく、運を天に任せるしかなかったが、今では「病気になりたくなければ清潔な水を飲む」といった選択をすることができる。病気などのトラブルについて、「避け難い」とか「危険」とは言わず、「リスク」と呼ぶ。
 1990年代に実施されたある調査で、アメリカの学生に健康に害を与える可能性が高いと思われるものを選ばせたところ、上位に入ったのは「原子力発電所の近くに住む」「殺虫剤」といった項目だった。その下に「コンピュータから出る電磁波」「食品添加物」などが入り、「自転車」「自動車」と続いた後、最下位に「喫煙」「水泳」「日曜大工」が入った。
 だが、核も飛行機も汚染も列車事故も、統計的には無害なものばかりである。確率で考えれば、飛行機事故で死ぬより、空港まで運転している途中で事故に遭う可能性のほうがずっと高いのだ。殺虫剤より煙草のほうがずっと身体に悪いし、旅行中に襲われるよりも酔っぱらってプールで溺死する率のほうが高い。健康のためにダイエット食品を食べるくらいなら、食品添加物に神経を使うべきだ。
 確率とは不思議なもので、我々の直感に反することも多い。たとえば、巨大隕石が地球に落ちてきたらどうしよう、と真顔で考えるのは馬鹿馬鹿しい気がする。人類が滅亡しかねないような、そんな隕石が地球に落下するのは大体100万年に一回くらいの割だが、前回落ちたのは65万年くらい前のことだから、実はそろそろ落ちてもおかしくない。その確率は何と、実はイギリスの宝くじで一等を取るのと比べて750倍も高いのだ。なのに我々は宝くじに大枚をはたき、平気で飛行機に乗るくせに、隕石迎撃準備にはビタ一文払おうとしない。
 ポイントは、「コントロール」と「頻度」である。自動車より飛行機が怖いのは、飛行機は自分で操縦できないからである。また、飛行機恐怖症の人でも、飛行機の仕組みについてのレッスンを受けるだけでも、恐怖は随分軽減するという。無知が恐怖を引き起こすこともあるのだ。
 また、メディアの問題もある。ことさらに原子力発電所を危険視したり、目新しくて派手なニュースになりそうな事件(飛行機事故とか、遺伝子組み換え食品とか)ばかりを追いかけるのではなく、もっと本当に危険因子の高いもの(アルコールの過剰摂取とか、ラグビーとか)を取り上げるべきだろう。 そしてまた、統計的に危険の高いもの、健康とか輸送といった事柄に対し、税金をきちんと投入して対処すべきだ。が、イギリスでは大きな列車事故が起こるたびに、再発防止のため多額の税金が使われるが、その結果運賃が値上がりして国民の列車離れを促す結果ともなっている。統計によれば、電車の安全を確保するのに必要な経費は、安全な道路の整備よりも何百倍、何千倍もかかるという。
 確率計算や統計分析は、有効なツールである。新薬のテストやテロ対策にも役立つし、消費者の動向を探ることもできる。ただ、取り扱いは難しい。その点、アダムスは正しかった。巧く使えば、無駄を省き危険から身を守ることができる。が、下手をすると、ゼイフォードやトリリアンみたいに、とんでもないところに連れていかれかねない。


14. ultimate question - and answers

 グーグルで、'answer to life, the universe and everything' と入力すると、「42」という答えが出てくる。究極の答は数字、というアダムスのジョークはなかなか良く出来ているが、1999年にマーティン・リースが出版した『宇宙を支配する6つの数』によれば、ある特定の数字が宇宙を形作る鍵となっているらしい。残念ながらその数字は42ではなかったが、ともあれ究極の答がジョークではなく本当に数字だったということはありうる訳で、だとしたら是非にも究極の問いとは何かを探り出さねばならない。
 我々がまだ発見していない物理法則はあるのだろうか? この世界を司る物理法則は唯一絶対のものなのか、あるいは別の宇宙にはまた別の物理法則があるのだろうか? そもそも、時間とは一体何だろう? ダーク・マターとか、ダーク・エネルギーというのもよく分からない。
 次元の問題というものもある。最近では、ひも理論とか超ひも理論とかM理論とかいろいろあるけれど、もし超ひも理論が正しければ、「世界は何で出来ているか」という問いへの答えが見つかるかもしれない。ただし、そのためには現在の粒子加速器よりもはるかに強力なものを開発する必要があるけれど。
 現在分かっているだけでも幾つも存在する物理法則を一つに束ねる、いわゆる「統一場理論」はあるのだろうか? 相対性理論と量子論を一体化する、量子重力理論のようなものを見つけることはできるだろうか?
 量子理論も、ミクロの世界では正しいことは分かっている。が、現実感覚としてはどうにも受け入れ難い。同じ物理法則が働いているはずなのに、どうして我々の目に映る世界は量子理論的に動いていないのだろう?
 これら多くの問いに対して未だに答えが見つからないというのは、情けないことかもしれない。だが、ほんの100年前まではこういった問いが存在することすら我々は知らなかったのだから、そういう意味では進歩したと言えるのではないか。
 宇宙の構造を解明するには、多額の金がかかる。1997年、欧州原子核研究機構(CERN)は大型ハドロン衝突型加速器(LHC)を建設し、物理学者たちはこの巨大装置を使って「神の粒子」の別名を持つヒッグス粒子をつきとめたいと考えている。その発見は、ひも理論による多次元宇宙の発見にもつながるかもしれない。また、LHCよりもさらに巨大な粒子加速器、リニアコライダー(ILC)を造ろうという計画もある。
 宇宙そのものを観察するにも、粒子加速器に負けない巨大装置が必要である。そろそろ寿命が尽きそうなハッブル宇宙望遠鏡に替わる、新たな望遠鏡を打ち上げなければならない。
 そうそう、エイリアンの問題もあった。地球外生命体は本当に存在しているのか? 地球から数百光年くらいの距離から放たれた電磁波があれば2030年頃までにはキャッチできると思われるが、たとえキャッチできなかったとしても、もっと遠い場所にエイリアンが存在するという可能性は否定できないし、もっと原始的な生命体なら火星のような身近な場所からでも発見されるかもしれない。2020年頃には、火星の調査はもっと進んでいるだろう。
 謎は、外の世界だけでなく我々の内側にもある。たとえば、「意識とは何か」。これぞ最重要課題、とみなす学者も入れば、語るに値しないとみなす学者もいるが、ともあれこの答えは哲学と形而上学の間にありそうだ。「クオリア」とか「自由意志」とか、考えただけで頭が痛くなりそうだけれど、もし意識の謎を解けたなら、意識を持つコンピュータやロボットを作ることができるかもしれない。鬱病ロボットのマーヴィンとか、ディープ・ソートとか。あるいは、映画『ターミネーター』に出てくるような、おっかないマシンとか?
 ところで、死ぬとどうなるのだろう? 宗教とは別のところで、答えを見つけることはできるだろうか。 1980年代には、物理学者のフランク・ティプラーが「オメガ・ポイント」という仮説を打ち出し、巨大コンピュータの中に各人の脳をシミュレーションすれば、永遠の宇宙を再創造できるのではないかと提案した。おもしろいけれど、非現実的なアイディアだ。
 そう、我々にはまだまだ根本的な疑問がたくさん残っているし、その答えはちっとも「42」じゃない。『ほとんど無害』の中で鳥の『ガイド』がランダムに向かって言ったように、「いまのところはこれだけ言っておきましょう。この宇宙はあなたが思っているよりずっと複雑なんです。たとえ、最初からこの宇宙がめたくそに複雑だと思っていたとしてもですよ」(p. 244)。
 私が思うに、究極の問いに一番近いと思われる候補は、「何故、ここに在る?」。このことを考えれば考える程、ますます足元がおぼつかなくなる気がするけれど、そのことこそ今自分が正しい方向に進んでいる証である。この先、どんなに科学が進歩して、物理法則が証明され、宇宙の起源が発見され、時空の謎が解明され、地球外生命体に遭遇できたとしても、それでもなお「何故、そうなのか」という疑問だけは残る。"Being, or not being"、これこそが本当の問題だ。この問いに対する答えを見つけるためには、ディープ・ソートより利口でないと無理だろう。

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