舞台
『ドン・ファン』(1964年?)
『フラメンコ組曲』(1968年)
『エル・ランゴ』
『血の婚礼』(1974年)
『カルメン』(1983年)
『炎』(1986年)
『アンダルシアの嵐』(1994年)
映画
『バルセロナ物語』(1961年)
『恋は魔術師』(1967年)
『血の婚礼』(1981年)
『カルメン』(1983年)
『恋は魔術師』(1985年)
ドキュメンタリー
『アントニオ・ガデス』(1988年)
『アントニオ・ガデス その舞踊と人生の倫理』(2007年)
1963年から1964年にかけて、ガデスは初めて結成した自身の舞踊団を結成する。バルセロナでの旗揚げ公演は大成功で、マドリード、ニューヨークでの公演も実現する。そして、ニューヨークから帰国後に『ドン・ファン』を製作した。DVD『アントニオ・ガデス その舞踊と人生』に収録されたほんの一部分を除けば、私自身はこの作品に関しては観たことがないので何も言えないが、アントニオ・ガデス舞踊団1991年来日公演パンフレットに収録された、カルメン・コヴィートのインタビュー記事に書かれている紹介文によると、
そして地中海民族の神話的人物の一人に取り組みました。それは「ドン・ジョヴァンニ」です。自由奔放な彼の方法でそれを制作したのです。フランコ政権下のスペインで、この舞台はペルシャの古典詩人オマール・カヤムの「愛する女よ、酒をついでくれたまえ。夜が明けようとしているときの酔っ払いのゲップは、ここにいる偽善者全員の祈りよりも価値があるのだから」という詩の朗読ではじまりました。「ドン・ジョヴァンニ」の物語は、ブルジョア階級の女性を恋におとしいれ、スキャンダルをもみ消すのに躍起になっている彼女の家からの様々な調停、脅迫をすべて拒否する、庶民の青年のストーリーとして演じられています。そして最後には、その青年は殺されます。初演後、フランコ政権の検閲は、革命的だという理由でこの公演を劇場から締め出しました。
とのこと。また、ピエール・ラルティーグ著『アントニオ・ガデス』に収録された、ガデス本人のエッセイ「私は1936年11月に生まれた」では、
作品は政治的なもので、このドン・ファンは女性のおかげで貴族社会に地位を得る。彼はある男の妻と寝て、また別の男の愛人と寝る。その結果、金持のコキュたちは彼を庭におびき出し、いわゆるカスティーリャ風に彼らの側につかせようとするが、ドン・ファンは自分の階級への忠節からそれを望まず殺される。当時文化相だったフラガ・イリバルネは新聞に、このスペクタクルについては一日だけ、しかも悪評だけを書くように命じた。知識人たちは私を支援し、学生たちはデモをした。しかし我々にはこの陰謀に耐える方法がなかった。私は再びフラメンコ舞踊団の指導に戻った(p. 34)。
後に、カルロス・サウラと組んで映画『血の婚礼』を製作した時、次回作としてガデスは『ドン・ファン』を希望したが、サウラの説得に応じて『カルメン』に取り組むことになる。
原作はガルシーア・ロルカの戯曲『ベルナルダ・アルバの家』。エル・ランゴとは「階級」を意味する。
地主階級の旧家の生まれで、専横君主のように振る舞う母親は、五人の娘を支配している。娘たちを家に閉じこめ、「階級」が違うという理由で他の男性との交際は禁じ、結婚も許さない。抑圧された娘たちは、やがて一人の男をめぐって争いを始める。
ガデスは、この舞台では女装し、横暴な母親役を務めた。男性が女性の役を演じるのは、フラメンコの舞踊においてはかなり異例のことらしい。
スタッフ
監督・脚本:フランシスコ・ロビーラ・ベレータ
撮影:R・P・デロサスキャスト
アングスティアス・タラント:カルメン・アマジャ
ラファエル・タラント:ダニエル・マルティン
フアナ・ソロンゴ:サラ・レサーナ
ロセンド・ソロンゴ:アントニオ・プリエト
クーロ・ソロンゴ:ホセ・マヌエル・マルティン
イサベル・ソロンゴ:マルガリータ・ロサーノ
モヒ(モヒゴンゴ):アントニオ・ガデス劇作家アルフレド・マニャスの原作『タラント家の物語』の映画化。
物語は、若い男女が対立する二つの家族の間で恋に落ち、悲劇の死を迎えるというもので、バルセロナ版『ロミオとジュリエット』である。ロミオの母親にあたるタラント家の母親に、高名なフラメンコ舞踏家のカルメン・アマジャが扮して、劇中でも見事な踊りを見せた。
ガデスはこの映画の振付を担当するのみならず、ロミオの親友マキューショオに該当する、タラント家の青年ラファエルの親友モヒ役として出演。酒好き女好きの陽気な遊び人(!)で、アメリカ人とおぼしき観光客の女性をナンパして遊び回っているが、最後にはラファエルをかばって死ぬ。出番はそう多くはないものの、随所で披露される踊りは素晴らしいの一言に尽きる。特に、夜のバルセロナでガデスが踊るファルーカのシーンは圧巻。「自己顕示欲はだれだってもっているが、それをこのように美しく表現するには、非常な技術と内面の充実が必要だ。余談だがこのシーンはセットではなく、ロケ撮影された。真夜中はとっくに過ぎて、人通りはあまりなかったが、まだうろついている酔っ払いもいて、カフェのテーブルから歩道へと踊っているガデスを見て、夢かと思って呆然としていたそうだ(「ガデスよ、永遠なれ」『パセオフラメンコ』2004年11月号、p. 9)」。
スタッフ
監督:フランシスコ・ロビーラ・ベレータ
振付:アルベルト・ロルカキャスト
アントニオ:アントニオ・ガデス
カンデーラ:ラ・ポラーカ
ディエゴ:ラファエル・デ・コルドバ
ルシーア:モルーチャ
ギタリスト:カマロン
踊り手:クーラ・ヒメモスマヌエル・デ・ファリャ作曲のバレエ作品(1925年)が、現在(1960年代)のカディスに置き換え、それに合わせてストーリーも書き直された。
女たらしの悪党ディエゴは、追っ手と刺し違えるように崖の上からカディスの海に転落する。ディエゴの愛人状態だったヒロインのカンデーラは、ディエゴの死によって彼から解放されるどころか、悪夢にうなされ、起きている時も常に何者か(ディエゴの幽霊?)に付きまとわれ、監視されているように思えてならない。カンデータを愛しているアントニオは幽霊の存在など信じていなかったが、実は幽霊ではなく、ディエゴが死んだと見せかけて追っ手から逃れようとしているのだと知り、自らの手でディエゴを始末しようとする。
原作では、ディエゴにあたる女たらしの悪党は、本当に死んで幽霊になってヒロインに付きまとっている。ヒロインから幽霊を引き離すために、ヒロインの友人のジプシー娘が幽霊を誘惑して踊る「火祭りの踊り」は原作バレエの見せ場の一つだが、この映画では悪党はまだ生きているという設定だから憑物落としをすることはできない。が、そこはうまく形を変えて「火祭りの踊り」は挿入されている。
この映画のDVDに入っていたパンフレットによると、「原作初演50周年記念の映画化」とのこと。1968年度のアカデミー賞外国語映画賞にノミネートされたが、受賞には至らなかった。また、当時21歳のクリスティーナ・オヨスも踊り手役で出演している。
『フラメンコ組曲』 SUITE FLAMENCA(1968年)
『フラメンコ組曲』は、もともとガデス舞踊団の《スペイン組曲》の第2部として上演されていたという。全8曲のフラメンコを組み合わせた作品で、一貫したストーリーはない。とは言え、そこはガデス作品である。『パセオフラメンコ』2007年2月号に掲載された濱田滋郎氏の記事「アントニオ・ガデスの世界 来日公演3作品、その魅力と見どころ」によれば、「配列、レトラ(歌詞)の選択、そして振付の細部に至るまで、差し替えや任意の変更は許されない、隅々まで磨き抜かれ完成された舞台芸術としてまとめられている」(p. 37)。
その記事には、『フラメンコ組曲』の8曲が「87年度のプログラムに沿って曲種を登場順、配列順に列記」されていて、それによると、1 ソレア(テーブル La Mesa )――男性2名
2 ソレア・ポル・ブレリア(古酒の味 Solera)――女性ソロ
3 ファルーカ(影 Sombra)――男性ソロ
4 サパテアード(男たち Hombres)――男性5名
5 タンギージョス(女たち Mujeres)――女性3名
6 セギリージャ[シギリージャ](出会い Encuentro)――女性2名
7 ルンバ(集い Reunion)――全員2009年の新生『アントニオ・ガデス舞踊団』来日公演プログラムでは、2が「ソレア・ポル・ブレリアス」、6が「タンゴス・デ・マラガ」と書かれていて、特に6は女性2名ではなくステラ・アラウソとアドリアン・ガリアの二人による踊りになっていた。
さらに言えば、1985年に出版されたピエール・ラルティーグ著『アントニオ・ガデス』(原著の出版は1984年)には、『フラメンコ組曲』は、1 ブレリアス
2 マルティネーテ
3 ファルーカ
4 ロス・カバレス
5 ソレア・ポル・ブレリアス
6 サパテアード
7 ファンダンゴ
8 タンゴ
9 ルンバと記録されている。ガデス舞踊団による『フラメンコ組曲』が単なる曲の羅列でないことには私も心から同意するが、絶対的に「差し替えや任意の変更は許されない」というより、少しずつ改良を重ねて完璧を目指していった、というほうが正しいのかもしれない、とも思う。
スタッフ
監督:カルロス・サウラ
製作:エミリアーノ・ピエドラ
原作:ガルシーア・ロルカ
脚色:アルフレド・マニャス
振付:アントニオ・ガデス
撮影:テオ・エスカミーリャ
音楽:エミリオ・デ・ディエゴキャスト
レオナルド:アントニオ・ガデス
花嫁:クリスティーナ・オヨス
花婿:ファン・アントニオ・ヒメネス
花婿の母親:ピラール・カルデナス
レオナルドの妻:カルメン・ヒジェナ
ギタリスト:エミリオ・デ・ディエゴ、アントニオ・ソレラ
歌手:ホセ・メルセ、ゴメス・デ・ヘレス、マリソル、ペペ・フランコ原作はガルシーア・ロルカの戯曲『血の婚礼』。
映画監督のカルロス・サウラは、舞踊家アントニオ・ガデスと組んで映画を撮る、という企画が持ち上がった時、最初は困惑したという。だが、ガデスがかつてスペイン国立バレエ団で芸術監督をしていた時期に『血の婚礼』を手がけたことを知り、その作品を観たいとガデスに申し出ると、サウラ一人のためにスタジオを借りて上演してくれた。
映画『血の婚礼』は、この時のサウラの体験を再現してみせたものと言えるかもしれない。映画は、団員が劇場の楽屋に入ってくるところから始まる。団員たちは、自分の化粧道具を取り出し、自分の化粧台に並べていく。他の団員たちが家族や聖者の写真などを飾る中で、ガデスが自分の鏡台に飾る写真は、ロルカが主宰した移動劇団「ラ・バラッカ」を写したものである。鏡に向かって舞台化粧をしながら、ガデスは自身の半生について、尊敬する踊り手について語る(「私はビセンテ・エスクデロを心から尊敬している/本当の芸術家といえる人間の一人だろう」)。続いて稽古場に移動し、稽古が行われる。それが終わると、今度は本番同様の衣装に着替えて、ドレス・リハーサル(途中でストップしないよ/最後まで通すからね)、フラメンコ・バレエ『血の婚礼』が始まる。
花婿とその母親が、婚礼の朝を迎える。息子から、母親がナイフを取り上げる。花を取るために使うのだと言っても、母親は頑として返さない。その一方、一人の女性が子供をあやしている。彼女は夫に捨てられる予感に怯えている。やがて登場した夫レオナルドは、すがりつく妻を振り払うようにして出ていく。彼は、以前からずっと、その日の婚礼の花嫁を愛しているのだ。婚礼の場、楽しく踊る人々の中で彼は一人たたずんでいる。その姿を見た花嫁の心は乱れる。なぜなら、彼女もまた以前からずっと彼のことを愛していたから。いつのまにか踊りの場から二人の姿が消えていることに気づいたレオナルドの妻は、二人が駆け落ちしたのだと村人たちに訴える。新婦を奪われた新郎に、母親は自らの手でナイフを渡す。馬に乗って逃げた二人を、村人たちが手分けをして探す。やがて追いついた新郎は、レオナルドと決闘する。嘆き悲しむ花嫁の目の前で、男たちは互いに差し違えて死ぬ。
この映画に登場する劇場の楽屋と稽古場は、映画のために製作されたセットである。バレエ団のドキュメンタリーのように見せかけておいて、それでもなおこの映画はあくまで「虚構」なのだ。踊り手たちは「日常」の虚構を演じ、「舞台」の現実を生きる。
なお、この映画を離れた現実の生活において、花嫁役のクリスティーナ・オヨスと花婿役のファン・アントニオ・ヒメネスは夫婦であり、また馬の子守唄を歌うマリソルは、当時ガデスの妻だった。映画が製作されるきっかけとなったガデス振付の舞台『血の婚礼』は、、1974年4月2日、ローマのオリンピコ劇場で初演された。全体で約45分くらいの長さで、内容は映画のドレス・リハーサルの部分とほとんと同じ。なお、『血の婚礼』の舞台背景として貼られた布に描かれた抽象画は、ガデス本人の手によるものである。
また、森瑤子の小説『ハンサムガールズ』(集英社文庫)には、出会ったばかりの男女が、新宿文化センターに『血の婚礼』を観に行くシーンが登場する。
二つのギターによる生演奏をバックに、土色の集団がくりひろげる悲劇である。
アントニオ・ガデスは、花嫁を婚礼の席から奪って行く男を演じている。その姿の優雅さ。ひめられた情熱。洋子は溜息の連続であった。(p. 296)興味のある方はぜひご一読を。
スタッフ
監督:カルロス・サウラ
製作:エミリアーノ・ピエドラ
撮影:テオ・エスカミーリャ
編集:ペドロ・デル・レイ
振付:アントニオ・ガデス、カルロス・サウラ
音楽:パコ・デ・ルシア、ジョーン・サザランドとマリオ・デル・モナコによるオペラ「カルメン」より
助監督:フリアン・マルコス
録音:カルロス・ファルオロキャスト
アントニオ:アントニオ・ガデス
カルメン:ラウラ・デル・ソル
パコ:パコ・デ・ルシア
クリスティーナ:クリスティーナ・オヨス
カルメンの夫、フアン:フアン・アントニオ・ヒメネス
エスカミーリョ:セバスティアン・モレノ
ダンサー:ホセ・ルナ・"タウロ"、エンリケ・エステベ、アントニオ・キンタナ、ホセ・アントニオ・ベニテス、エルネスト・ラベニャ、カルメン・ビリャ、ロシオ・ナバレーテ、マリア・フェルナンダ・キンタナ、アナ・ヨランダ・ガビニョ、マリア・ホセ・ガビニョ、ステラ・アラウソ唄:ゴメス・デ・へレス、マノロ・セビリャ、"ラ・ブロンセ"
ギター:アントニオ・ソレラ、マヌエル・ロドリゲス、ロレンソ・ビルセダ『血の婚礼』の時は、完成された舞台版を元に映画が撮影された。それに対し、『カルメン』は映画が先で、後から舞台が作られている。
映画『血の婚礼』が製作された後、ガデスは再びカルロス・サウラと組んで作品作りに乗り出すことになった。サウラいわく、「アントニオは最初『カルメン』をやりたくなかったんだよ。彼は『ドン・ファン』がやりたかったんだ。なぜかいつもこの作品に執着していた。でも僕は『カルメン』をやりたかったから、説得して納得してもらったんだ」(『パセオフラメンコ』2004年11月号、p.14)。
当初ガデスが『カルメン』という題材にあまり乗り気でなかったのは、それまでにも何度か『カルメン』を扱ったことがあったせいかもしれない。ガデスは、1957年にヴェローナで上演されたオペラの『カルメン』に出演したり、ミラノやシカゴでも振付を担当している。サウラが一体どんな言葉でガデスを口説いたのは不明だが、映画『血の婚礼』製作時に二人の間で培われた信頼関係が後押ししたことは確かだろう。何しろ、ガデス本人が「『血の婚礼』を終える直前までほかのことを二人でしたいと思っていた。『カルメン』はたんなる口実にすぎず、仕事はもう始まっていたのだ」(ラルティーグ、p. 100)と語っているくらいなのだから。
サウラ/ガデスによる『カルメン』の最大の特徴は、言うまでもなく、「『カルメン』の舞台を上演する劇団」という入れ子構造になっている点である。映画では、ホセ役のガデスとカルメン役のラウラ・デル・ソルが『カルメン』のストーリーと並行しての恋愛関係に陥るのに対し、舞台ではその設定が削除されている、といった違いはあれど、入れ子構造そのものはあくまで同じだ。このアイディアはガデスではなくサウラが提案したもので、虚と実が入れ替わるような構図はもともとサウラの好みではあるようだが(ガデスとの三部作は程度の差こそあれどれも虚実の二重構造を持っているし、その他の作品でも多用されている)、『カルメン』という題材でこの構図を押し出したことには特別な意味合いがあったと思われる。
『カルメン』と言えば、闘牛やドン・キホーテと同じ、典型的なスペインのイメージだが、もともとはフランス人作家プロスペル・メリメが自身のスペイン旅行体験を元に1845年に発表した小説である。スペイン=カルメンのイメージは、メリメの小説に基づいて作曲したオペラ『カルメン』によって一段と強くなるが、作曲家ジョルジュ・ビゼーもまたフランス人だ。言い換えると、スペイン人が『カルメン』を製作するとは、外国人によって生み出された「典型的なスペイン」のイメージを、スペイン人自身がなぞることになりかねない。勿論、外国人の手によるものでも、そこにはスペイン人自身も納得できるいくばくか以上の真実味なり信憑性なりが含まれているのは確かだろう。だが、例えば日本舞踊の神髄を伝える作品を作りたいと思う時に、題材として『道成寺』ではなく『蝶々夫人』を選ばざるを得ないとしたら? 直接的にストーリーを語るのではなく、一ひねり加えたほうがより効果的だと考えたことにも素直に納得できるというものだ。だからこそ映画『カルメン』は、カルメンというフィクションそのものではなく、「カルメン」というフィクションを舞踊で表現するスペイン人ダンサーたちの物語なのである。その意味で極めて重要なのが、パコ・デ・ルシアがオペラの「セギディーリャ」をブレリアのリズムで弾きなおすシーンである。セギディーリャはもともとスペインの歌である。それをフラメンコで弾きなおす。ここは、パコがいうように、オーケストラだとリタールダンドがあって踊りにくいから、ブレリアのほうがいいというだけではない。それほど単純ではないのである。もともとスペインのものを、本来のスペインの土壌に帰すのである。取り戻すのである。(乾英一郎「カルメンは故郷に帰ったか」映画『カルメン』パンフレット、pp. 36-37)
後にガデスは、映画『カルメン』では、サウラと自分と、それぞれが100パーセントを出し合い、合計200パーセントの力で製作したと語る(Carmen | Gades, p. 142)。二人の協力体制は舞台『カルメン』の製作へと続き、台本・振付・照明・演出がガデス/サウラの連名になっている(もっとも、Carmen | Gades に収録されたインタビュー記事によると、サウラ本人は舞台『カルメン』で自分が果たした役割は視覚的効果についてちょっと助言した程度だとも語っている)また、舞台装置をカルロス・サウラの兄で画家のアントニオ・サウラが担当した。
舞台版『カルメン』は、1983年5月17日にパリのパリ劇場で初演された。舞台版でも、映画の時と同じ、「『カルメン』の舞台を上演する劇団」という入れ子構造は守られている。導入部は舞踊団の練習風景であり、そこから本番の「カルメン」へと移行していく訳だが、合間には踊り手たちがふざけて「カルメンごっこ」をする場面もある。約1時間半の上演で休憩はなし、すべての場面転換は、鏡や椅子といった最小限の小道具と照明の効果を駆使されてて驚く程スムーズだ。そのため、練習風景という「実」と実際の舞台公演という「虚」が交錯しても、観ていて混乱することはない。ただし、舞台版では映画で描かれたような主役二人の恋愛関係が削除されている分、虚と実の関係が単純になっていることは確かだが。
舞台『カルメン』について、三浦雅史は著書『バレエの現代』の中で次のように評している。舞台には二十数人の人々がほとんど同じような扮装で登場する。そして踊りはじめる。観客はまず彼らの全員に、すなわちコロスに感情移入してしまうのだ。しかる後、コロスから絞りだされるように登場したカルメンやドン・ホセの悲劇に心を打たれる。こうして観客はひとつの共同体を体験するのである。アンダルシアの歴史、スペインの歴史、その厚みを体験するのだ。
感動はそこから来る。そうでなければ、この全存在を根こそぎにするような荒々しいまでの迫力はありえない。
私にはこのガデスのコリオグラフィーにこそ舞踊の根源が生きているように思える。ガデスの舞台『カルメン』について書かれた文章として、間違っているとは私も思わない。ただ、実際の舞台を観たことのない人がこの文章を読んだ時、「荒々しいまでの迫力」といった表現が、美意識や洗練よりも原初のパワーや情熱を優先するような類の舞踊をイメージするのではないか、とつい余計な心配をしてしまう。実際の舞台を観さえすれば、ガデスの舞台が洗練の極にあることは誰の目にも明らかだ(素人の一私見ながら、スペインに語学留学したことのある私の友人は、ガデスの舞台は洗練されすぎていて、スペイン特有の一種の野暮ったさ、泥臭さがなくて少々物足りないと言ったことさえある)が――たとえば、アントニオ・ガデス舞踊団1991年来日公演パンフレットに収録された、カルメン・コヴィートのインタビューの中で、ガデスが『カルメン』の一シーンの照明について語っているところを引用すると、
私は直感的な人間ですから、何か物事をする前にそれを分析することはせず、後でそれを分析します。自分でした仕事を見てみますと、自分の中に蓄積したものを無意識のうちに出していたことに気づきます。例えば『カルメン』では、女たちの喧嘩が起こる前、皆がテーブルを囲んでいる場面で、無意識のうちにベラスケスの絵「紡績女工」にある光と同じ照明を使用していたのです。でもそれに気がついたのは舞台制作を終えてからです。
ガデスの演出や振付の背後には、常に絶対的なまでの美意識がある。何しろ彼が自身の舞台演出で参考にした、影響を受けたとして真っ先に名前を挙げるのが画家のモンドリアンなのだ。上記と同じインタビューの中で、
彼の絵や記述から、一本の木を描き、そして削りに削っていくと、本質――幾何学的図像に到達することができる、ということを学びました。それは詩人のする作業と同じです。最小の表現で最大を表現することです。少ない言葉で、すべてをいい尽くすことができるのです。
『カルメン』に限らず、ガデスが演出した作品には抽象絵画の影響が見られるという。一番端的な例は、『血の婚礼』の舞台背景として貼られた布に描かれた抽象画だが、これはガデス本人の手によるもの。高田将美は、「ガデスは抽象画家の目を持っていた」(「ガデスよ、永遠なれ」『パセオフラメンコ』2004年11月号、p. 9)とまで書いた。
映画版『カルメン』の主役ラウラ・デル・ソルに代わって、舞台ではクリスティーナ・オヨスがカルメン役を務めた。オヨスいわく、パリでの公演初日は照明に手間取ったため、リハーサルを劇場のロビーで行ったのだとか(Carmen | Gades, p. 149)。このキャスト変更により、映画『カルメン』があくまで「ドン・ホセが見たカルメン/カルメン役の女性の話」だったのに対し、舞台ではドン・ホセと対等、あるいは主人公としてのカルメンが可能となった、と、オヨスが果たした役割を高く評する批評家もいる(同、p. 161)。
1988年以降は、ステラ・アラウソが引き継ぎ、ガデス亡き後、新生アントニオ・ガデス舞踊団を指導することになる。イングリッシュ・ナショナル・バレエ団の芸術監督兼リード・ブリンシパル、タマラ・ロホが、2008年に出版された Carmen | Gades Twenty Five Years 1983-2008 に寄稿したエッセイは、こちらへ。
スタッフ
監督:カルロス・サウラ
製作:エミリアーノ・ピエドラ
撮影:テオ・エスカミーリャ
編集:ペドロ・デル・レイ
振付:アントニオ・ガデス、カルロス・サウラ
主題歌:ロシーオ・フラードキャスト
カルメロ:アントニオ・ガデス
カンデーラ:クリスティーナ・オヨス
ホセ:フアン・アントニオ・ヒメネス
ルシア:ラウラ・デル・ソルロケーション撮影が中心だった1967年版とは対象的に、1985年版では映画の冒頭で撮影用の巨大なセットが映し出され、観客に対してすべてのシーンが精巧に作られた映画用セットの中で撮影されていることを宣言する。敢えて虚構であることを際立たせることで、逆にセットや役者のリアルを浮かび上がるという逆転の構図は、形は違えど『血の婚礼』や『カルメン』の時と変わらない。
ストーリーも、1967年版のような極端な脚色はしていない。舞台は、ヒターノたちが暮らす集落。女たらしのホセは、子供の頃からの許嫁同士として育ったカンデーラと結婚するも、ルシアという別の女性とも浮気している。このルシアをめぐって他の男性と喧嘩になり、ホセは刺されて死亡する。ホセを介抱しようとそばにいたカルメロは、やってきた警官に犯人と間違えられて逮捕される。4年の服役の後、カルメロが村に戻ってみると、ホセの浮気など疑ったこともないカンデーラは、夜ごとホセが死んだ場所でホセの幽霊と踊っている状態だった。カンデーラを死んだホセから解放するため、「火祭りの踊り」が行われるが効果はない。そこで、カンデーラと一緒にルシアにもホセの幽霊と会わせることに。ホセの幽霊はルシアと共に去り、カルメロとカンデーラはハッピーエンドを迎える。
カルロス・サウラいわく、「これは当初、僕は主役にクリスティーナ・オヨスじゃなくラウラ・デル・ソルを持ってきたかったんだ。この役には若い魅力的な女性が必要だった。オヨスとガデスの純愛って、映画のスクリーンではなんだか信ぴょう性がない気がして……。でもアントニオがどうしても彼女にって押したんだよ。彼女はいつも彼の舞台では主役だったからね」(『パセオフラメンコ』2004年11月号、p.14)
マヌエル・デ・ファリャによるバレエ曲はヒターノの音楽を意識して書かれたものだったが、この映画のために新たに追加された音楽や振付もヒターノ色の強いものだった。この映画のDVDに収録されたパンフレットには、「サウラ=ガデスは、この映画をヒターノ・ミュージカルとして作ったのだろう」とさえ書かれている。
確かに、「舞台本番のためのドレス・リハーサルを撮影した」という設定の『血の婚礼』や、「舞台を製作していく過程を描く」という設定の『カルメン』に比べれば、『恋は魔術師』ではいわゆるミュージカルに近い。一般的なミュージカル映画と同様に、普通の話す台詞があるかと思えば、歌と踊りで見せるシーンもある。だが、『恋は魔術師』を観ていて、ミュージカル作品にありがちなその手の不自然さをほとんど感じさせないのは、踊りと歌が日常生活に根付いているヒターノの集落という設定の妙と、サウラとガデスによる演出・振付の巧さ故か。
『炎』は、映画『恋は魔術師』が公開されてからほどなくして初演された舞台版『恋は魔術師』だが、内容は映画とは一部異なっている。もっとも大きな変更は、映画でラウラ・デル・ソルが演じたルシア役が省略されていること。『炎』では、冒頭でホセが殺された後、幽霊となり、カルメロとカンデーラにつきまとって二人の結婚を邪魔しようとするが、火祭りの踊りなど、村人たちによる悪霊払いの歌や踊りが幽霊を追い払い、カルメロとカンデーラは村中に祝福されて結婚する、というもの。印象としては、映画よりも呪術的でハッピーエンド色が強い。
『アンダルシアの嵐』 FUENTEOVEJUNA(1994年)
1476年に実際に起こった民衆蜂起を基に書かれた、ロペ・デ・ベガの戯曲『フエンテオベフーナ』(1619年)を、ガデスとは個人的な親交も深い作家のホセ・マリア・カバジェロ・ボナールが舞台用に脚色した作品。1991年の日本公演を最後に、ガデスはアントニオ・ガデス舞踊団を解散したが、この舞台のために舞踊団を再結成した。
舞台復帰を決意した時の心境を、彼はキューバの詩人ホセ・マルティの詩に託している。もう一度始めるのだ、
たとえ疲れを感じようとも、
勝利がお前を見捨てようとも、
あやまちがお前を傷つけようとも、
ひとつの夢が消え去ろうとも、
痛みに両の目を灼かれようとも、
人びとがお前の努力に気づかずとも、
報酬はただ背信のみであろうとも、
無理解がお前の微笑みを断ち切ろうとも、
たとえすべてが無に見えようとも、
お前はもう一度始めるのだ。
(訳:濱田滋郎、『アントニオ・ガデス舞踊団 1995年日本公演パンフレット』より)初演は1994年12月、イタリア・ジェノヴァのカルロ・フェリーチェ歌劇場。翌年1月には、早速日本でも公演された。スペインでの初演は、日本での公演の後、セビージャで行われ、1997年には新装されたマドリードのロペ・デ・ベガ劇場で長期公演を実現している。
フエンテオベフーナとは、スペイン南部・コルドバ地方にある村の名前である。村長の娘、ラウレンシアとその恋人フロンドーソは結婚を誓い合う仲。だが、美しいラウレンシアに目をつけた領主は、力づくで彼女を手に入れようとする。逆らう村長やフロンドーソは衛兵に捕らえさせ、そしてラウレンシアを領主の館へ連れ去ってしまった。自力で逃げ出したラウレンシアは、村人たちに蜂起を訴え、ついに村の男たち全員が立ち上がる。反乱は成功し、領主は殺された。やがて、フエンテオベフーナの村に国王軍が到着する。国王軍が、領主を殺したのは誰かと村人たちに詰問すると、村人たちは口を揃えてこう答える――「フエンテオベフーナでさ!」
フエンテオベフーナ村はコルドバ地方だが、この舞台で使用される音楽や舞踊は必ずしもこの地方のものだけではない。むしろ、『フエンテオベフーナ』の精神がこの地方特有のものではなくスペイン全土に普遍のものであることを強調するかのように、スペイン各地の民族音楽、民族舞踊が取り入れられている。スペインには、いろいろな言葉を話す、いろいろな民族が集まっています。カタルーニャ人もいれば、バスク人もいる。以前にはユダヤ人もたくさん住んでいた。私は、地方の別を超え、時間すらも超えて、スペインのあらゆる民衆が感じてきた、また感じている、権力に対する反骨の精神と団結、連帯をねがう心を、この作品のうちに表したいのです。(『アントニオ・ガデス舞踊団 1995年日本公演パンフレット』より)
2001年、ガデスはこの作品をスペイン国立バレエ団に振り付け(振りうつし)した。そして2003年10月には、スペイン国立バレエ団版『アンダルシアの嵐』が日本でも上演された。また、2008年の新生アントニオ・ガデス舞踊団の第二回来日公演でも上演されている。
『アントニオ・ガデス その舞踊と人生の倫理』 (2007年)
2008年9月20日、株式会社パセオからDVD『アントニオ・ガデス その舞踊と人生の倫理』が発売された。これは、2007年にスペイン国営放送が制作した約55分のテレビ番組をDVD化したもので、ガデス本人や関係者のインタビューを交えつつ、ガデスの生涯を追悼している。このDVDに収録された貴重な未公開映像には、スペイン国立バレエ団でのリハーサルの模様や、キューバ国立バレエ団の『ジゼル』でガデスがヒラリオン役を演じているシーンなども含まれている。
出演者は登場順に、エミリオ・デ・ディエゴ(ギタリスト/作曲家)
アントン・ガルシア・アブリル(作曲家)
エレットラ・モリーニ(バレリーナ)
フェルッチョ・ソレーリ(俳優)
クーラ・ヒメネス(バイラオーラ)
クリスティーナ・オヨス
カルロス・サウラ
ヘスス・ロペス・コボス(音楽監督)
プラシド・ドミンゴ(オペラ歌手)
ホセ・マヌエル・カバジェロ・ボナルド(作家)
アリシア・アロンソ
マリア・エステヴェ
ステラ・アラウソ
エウセビオ・レアル(歴史学者)