現代スペイン舞踊を代表するバイラオーラ。1988年のスペイン国立バレエ団10周年記念公演で、アントニオ・ガデスを相手に『血の婚礼』を踊った。
マドリード生。12歳でスペイン王立芸術高等学校を主席で卒業し、1981年にスペイン国立バレエ団に入団する。1985年には第一舞踊手に昇格、世界各地の劇場で活躍するも、背中の痛みなどもあって退団。ホアキン・コルテスとの共演や、モーリス・ベジャールの学校でスペイン舞踊の指導といった活動の後、1998年にはスペイン国立バレエ団の芸術監督に就任した。2001年にその責務を解かれた後、映画監督カルロス・サウラに『サロメ』演出を依頼、サウラから逆に舞台と映画を同時に作らないかとの申し出を受け、映画『サロメ』と舞台『サロメ』を制作した。
新生アントニオ・ガデス舞踊団のバイラオールとして、ガデス亡き今、『カルメン』のドン・ホセや『血の婚礼』のレオナルドを踊る。生前のガデスと直接会う機会はなかったけれど、若い頃からガデスに私淑していたとのこと。
アルゼンチン生まれ。ただし1歳で国を離れ、踊り手である両親に連れられて4年の歳月をかけて南米大陸を北上する旅をした。「本当にいろいろな場所へ行ったよ。僕は母親のバタ・デ・コーラの中で眠っていたんだ。それが揺りかごさ。あの匂いは今でも忘れられない。仕事の匂いだね」(『パセオフラメンコ』2007年2月号、p.
30)。そして5歳の時にスペインに入り、やがてスペイン国立舞踊学校で学ぶことになる。
17歳でマドリード・スペイン舞踊団に入団し、1986年にはラファエル・アギラール舞踊団へ。1992年7月にマドリードで開催された第1回スペイン舞踊・フラメンコ振付コンクールでは1位に輝いた。自らの舞踊団を率いて日本を含む海外公演を行う一方、1993年にはクリスティーナ・オヨス舞踊団でオヨスの相手役を務め、振付も行っていた。2001年には東京にインターナショナル・フラメンコ・センターを設立し、日本人舞踊家を積極的に指導している。「アドリアンのフラメンコ舞踊入門」DVD(全21巻)も製作した。
20世紀を代表するプリマバレリーナ。1975年、ガデスがフランコ独裁政権に異を唱えて自身のバレエ団を解散し、舞踊の世界から引退することも考えた時に、アロンソは彼を励まし復帰を促した。「自分たちの理想のために闘う5人の青年が死ななければならないというのに、私が舞台に上がるために化粧をしているなどとは、まったく馬鹿らしく思えたのです。舞踊家であることが恥ずかしく思えました。だからもう踊らないと決心したのです。もしその後アリシア・アロンソとキューバの同志たちが、再起するよう私を説得してくれなかったら、二度と踊ることはなかったでしょう」(『1991年日本公演パンフレット』より)
アロンソは、ハバナのバレエ学校で学んだ後、アメリカン・バレエ・シアターに入団。プリマとして世界的に活躍するが、祖国のバレエ教育のためキューバに戻り、1955年からはキューバ国立バレエ学校の芸術監督を務めた。『カルメン組曲』等、バレエの振付も行っている。2002年にはユネスコからニジンスキー・メダルが贈られた。
アロンソのプリマバレリーナとしての当たり役の一つは「ジゼル」で、ガデスとも踊ったことがあるとか。
スペインを代表するバイラオール。ガデスが亡くなった夜の公演では、「ひとつの座席に花を供えて、ガデスへのオマージュとしたという」(『パセオフラメンコ』2004年11月号、p.
10)。
セビリア生。1982年にスペイン国立バレエ団に入団。3年間に亘りソリストを務めた後に退団し、1992年には自身の舞踊団を旗揚げした。世界各地で精力的に公演を行う他、『アンダルシアの恋物語』(1989年)、『ベンゴ』(2000年)、『イベリア 魂のフラメンコ』等の映画にも出演している。
現代スペインを代表する画家で、映画監督カルロス・サウラの兄。1950年代に美術集団「エル・パソ」を結成し、アンフォルメルという抽象絵画を担うスペイン画家の代表格となった。ガデスが舞台『カルメン』を制作した時には、舞台装置を担当している。『カルメン』における鏡を効果的に用いたシンプルなセットは、日本の禅文化の影響もあるらしい(Carmen|Gades, p. 148)。
現在のスペイン国立バレエ団芸術監督。
1978年、アントニオ・ガデスが芸術監督を務めていた同バレエ団に入団、1980年にはソリストに昇格した。映画『血の婚礼』にも、招待客役の一人として出演した。後にアントニオ・ガデス舞踊団が世界各地で公演を行った際にはツアーに参加し、日本の舞台にも立っている(1991年の来日公演では『カルメン』と『炎』の両方に出演)。踊り手としてだけではなく、振付家・演出家としても活躍し、1993年には『ムヘーレス(女性たち)』という作品でスペイン舞踊フラメンコ振付コンクールで入賞、1994年にはアントニオ・ガデス舞踊団のダンス・マスター兼リハーサル監督の仕事もこなした(1995年の来日公演では、『カルメン』『アンダルシアの嵐』に女たち役の一人として出演すると同時に、舞台指導アシスタントとしてもクレジットされている)。2001年からスペイン国立バレエ団の芸術監督に就任。同バレエ団に、自作『ムヘーレス』やガデスの『アンダルシアの嵐』をレパートリーに加えている。
スペインを代表する詩人・劇作家。
グラナダに生まれ、21歳でマドリードに出る。カトリック思想にとらわれない、自由な学問を志す<学生館>に入り、そこでサルバドール・ダリやルイス・ブニュエルらと知り合った。この<学生館>を拠点として、まず詩人として、そして劇作家として高名を果たすが、ファシズム政権により1936年に銃殺された。
ガデスは言う。「ロルカが暗殺された1936年に、私は生れた。そしてこの年はスペイン市民戦争が始まった年でもあるのです。時々、なぜあなたは舞台で黒い服を着て苦渋に満ちた表情で踊るのかときかれるのだが、それは私の生れた年によるもので、いわば私はスペインの死の中に生れたと思っているのです」(『アントニオ・ガデス イン・シネマ』、p.
43)
代表的な劇作は、アンダルシア地方を舞台とした悲劇の三部作『血の婚礼』(1933年3月8日初演)『イェルマ』1934年12月29日初演)『ベルナルダ・アルバの家』(1945年3月8日初演)。
『血の婚礼』はガデスが1974年に舞台化し、後にカルロス・サウラとの共同作業で映画化された。また、『ベルナルダ・アルバの家』は、『エル・ランゴ(階級)』というタイトルでラファエル・アギラールによる振付で舞台化され、ガデスは厳格な母親役を務めた(ちなみに末娘役はクリスティーナ・オヨス)。
バルセロナのヒターノ居住区出身のバイラオーラ。サパテアードの名手として名高い。幼い頃からプロとして踊り、スペインの内戦を機にアメリカ大陸に渡り、国際的に高い評価を得た。当時のアメリカ大統領ルーズベルトから、ホワイトハウスに招かれたこともあったという。「生涯ヒターナ気質を失わず、ルーズベルト大統領からダイヤモンドをちりばめたチャケータ・コルタ(短いチョッキ)を贈られたときも、「踊りは皆で踊ったんだからね」と言いながら、ダイヤモンドを全部外して一座の人たちに分け与えてしまったと伝えられるように、カリスマと呼ばれるにふさわしい人柄を持っていた」(『フラメンコへの招待』、p. 66)。
カルメン・アマジャの主演作でガデスも出演している映画『バルセロナ物語』の撮影後、50歳の若さで急逝した。この日、ガデスが「カルメン・アマジャが亡くなった夜、タブラオに「こんな日になぜ踊れる」と怒鳴り込んだ」(『パセオフラメンコ』2004年11月号、p. 10)というエピソードが残されている。『バルセロナ物語』のDVDに付いていたパンフレットによると、ガデスは「カルメン・アマジャに頼まれて、彼女の舞踊団を監督する計画があった。彼女の健康悪化で実現できなかったけれど……」とのこと。
スペインの映画監督。ガデスとのコラボレーションにより、『血の婚礼』『『カルメン』『恋は魔術師』を監督した。インタビューの中で、ガデスと共作することになったきっかけについて訊かれると、「友人を通して知っていたけど、それほど親しくはなかったね。新しい企画を練っていた僕のプロデューサーが、ガデスとやらないかって持ちかけてきて、アトーチャにあった、当時彼が監督していた学校のスタジオに、『血の婚礼』のリハーサルを観に行ったんだ。見るなり凄く気に入って、すぐにOKした。でも一つだけ条件をつけた。あのアトーチャのスタジオを再現したいってね。映画では鏡から窓からそっくりそのまま再現したんだよ。ここから彼との付き合いが始まって、凄く良い友人になった」(『パセオフラメンコ』2004年11月号、p. 14)
サウラは、1932年1月4日、スペイン・ウエスカ生。1953年にマドリードの国立映画研究所の監督科に入学、卒業後も演劇実習で教壇に立つ。その間、数本の短編映画を撮影し、当時の検閲と衝突しつつフリーの映画監督として独立する。女優ジェラルディン・チャップリンと11年間に亘り結婚、1子をもうけた。現在までに数多くの映画を監督しているが、中でも「『カルメン』は私の映画人生の中で、最大の成功作になった。参加者すべてにとって忘れられない経験になったね。単に世界的に成功したからではなく、そこで使われた音楽、つまり、我々の文化、リズム、舞踊に基づいた作品を私たち自身がやって見せたということだから(『パセオフラメンコ』2006年10月、p.10)。
サウラのこれまでの主な監督作品は、
『狩り』 (1965年)
『ペパーミント・フラッペ』 (1967年)
『従妹アンヘリカ』 (1973年)
『カラスの飼育』 (1975年)
『ママは百歳』 (1979年)
『急げ、急げ』 (1980年)
『血の婚礼』 (1981年)
『アントニエッタ』 (1982年)
『カルメン』 (1983年)
『恋は魔術師』 (1985年)
『エル・ドラド』 (1985年)
『歌姫カルメーラ』 (1990年)
『マラソン』 (1992年)
『愛よりも非情』 (1993年)
『フラメンコ』 (1995年)
『タクシー』 (1996年)
『タンゴ』 (1998年)
『ゴヤ』 (1999年)
『サロメ』 (2002年)
『イベリア 魂のフラメンコ』 (2005年)
『ドン・ジョヴァンニ 天才劇作家とモーツァルトの出会い』 (2009年)
現代スペインを代表するバイラオーラの一人。アントニオ・ガデス舞踊団で、長年ガデスの相手役を務めた。
1946年、セビリア生。子供の頃は「恥ずかしがり屋で控え目だった」(ラルティーグ、p. 42)。内気を克服するため舞踊学校に入学し、12歳で初舞台、16歳でセビリアのタブラオ「エル・パティオ・アンダルース」に入り、プロの踊り手となった。その後マドリードのタブラオに移り、そこでガデスと知り合い、また1965年にはマルエラ・バルガス舞踊団のニューヨーク公演に参加する。
1968年、アントニオ・ガデス舞踊団に参加。1974年『血の婚礼』では花嫁役を演じる。政治的理由にガデスが舞踊団を一時解散した時期には、新宿の「エル・フラメンコ」に出演したこともあるという。
その後、ガデスがスペイン国立バレエ団の監督に就任した時には共に参加。また再びガデスが自身の舞踊団を結成すると、彼の相手役として世界各地で公演した。1983年の映画『カルメン』では、カルメン役を若いダンサーに譲るベテランダンサーという役を演じたが、舞台版『カルメン』ではカルメン役を演じている。
1988年、アントニオ・ガデス舞踊団を退団し、クリスティーナ・オヨス舞踊団を結成。1990年にパリ・オペラ座で『フラメンコの夢』を上演した。1991年にはスペイン文化省の舞踊国家賞を受賞。バルセロナ・オリンピックの開会式では白馬に乗って登場し、踊った。
アントニオ・ガデス舞踊団を代表するバイラオーラの一人。ガデスの死後に結成された新生ガデス舞踊団では、主役として踊るのみならず芸術監督も務めている。
1964年マドリード生。4歳から踊り始め、9歳で王立舞踊芸術高等高等学校に入学、フラメンコやクラシック・バレエを学ぶ。15歳でプロとなり、マリア・ロサ舞踊団の日本公演にも参加した。17歳でアントニオ・ガデス舞踊団に入団。群舞を踊っていたが、クリスティーナ・オヨスの退団後、ガデスの相手役に抜擢され、『カルメン』のカルメン役をはじめ、1989年初演の『炎』でも主役を務める。「私はクリスティーナに憧れていました。彼女は私にとっての目標でもありました。その彼女の役をというのは本当にたいへんなことでした。私はまだ24歳でしたし。毎日毎日規律正しく、舞台をつとめ、今日が成功したからといってそれに甘えることなく、謙虚に一日一日の舞台をつとめる。私はもともと控えめな性格ではあったのですが、ガデスによって、より謙虚になったと思います」(『パセオフラメンコ』2004年11月号、p.
12)。
ガデスが引退を表明していた時期は、ラファエル・アギラール舞踊団の『エル・ランゴ』でも踊っていた。夫はやはりアントニオ・ガデス舞踊団のギタリスト、アントニオ・ソレーラ。
フラメンコ・ギターの名手。ガデスとは個人的にも親交が深く、映画『カルメン』にも出演している。
1947年アルヘシーラス生。本名パコ・サンチェス。十代の頃から才能を認められ、20歳で最初のソロ・アルバムを発表するなど、若くしてその天才ぶりを発揮、独奏楽器としてのフラメンコ・ギターの可能性を世界に知らしめた。フラメンコの伝統や伝承スタイルを踏まえつつも、ジャズやロックといった他ジャンルの音楽をも取り込むなど、意欲的な創作活動を続けてきた。2014年2月26日、滞在先のメキシコにて心臓発作のため逝去。享年66歳だった。
こんにちのパコが奏でるフラメンコ、たとえばソレア、グァヒーラ、ブレリアスなどは、十年前の演奏(彼が初めて日本へ来た一九七二年頃のそれ)とは、たとえコンパスとか迫力は同じでも、はっきり違ったものになっている。ハーモニーを目立ってモダンな――本当の意味でモダンな――ものに染め変えたそれらは、昔風なアンダルシアの殉情の響きを、もう立てない。だが、たしかに美しい。特異ではあれ、底の方から輝いてくる美をもって美しい。肝心なのは、当のパコが、けっして実験や気まぐれの故ではなく、一言で言うなら「いま、アンダルシア人であると同時に若い世界人である自分」を正しく表現するために、切実に求めぬいた響きが、これにほかならないという事実である。
結局、それは「あくまでも生きた人間そのものを表現する」という、フラメンコの永遠の理想に、パコが忠実であればこそ生まれ出た響きなのである。(浜田滋郎、p. 384)
また、カルロス・サウラ監督の映画『フラメンコ』(1995年)の第18幕にも登場し、タンゴ(ギター・ヴァージョン)を演奏している。
20世紀前半に活躍したバイラオール。ガデスも映画『血の婚礼』の中で、彼を「本物の芸術家」と賞賛する。
スペイン北西部の町、バリャドリード生。幼い頃からヒターノと付き合うことでフラメンコを覚え、やがてマドリードに出てカフェ・カンタンテで踊るようになるが、それに飽きたらず、スペインを離れ、ドイツ、イタリアなどヨーロッパ各地を巡りながら自身の踊りを確立していく。1920年、パリで行われた国際舞踊コンクールで優勝。パリのみならず、ロンドン、アメリカ合衆国での公演も成功させ、フラメンコ舞踊家が国際的に認められる地歩を築いた。1945年には自叙伝を出版するなど、ひとかどの知識人でもあった。
たんなるバイラオールではなく、バイライン、つまりバレエダンサーとしても一流中の一流といわれた。生まれながらの風格を湛えた独創的な舞踊家で、「私は教会の中でもその威厳をそこなうことなく踊れる」と言い、(略)シギリーヤに対してすらふさわしい振付を行なって人びとを感嘆させた。バイレの世界に幾多の革新をもたらし、伝統の格式を崩したとして批判をあびたこともあるが、結局は人を感動させる力が勝った、と評されている。(浜田滋郎、p. 374)
オランダの抽象画家。キュビズムの影響を受けた後、キュビズムをさらに押し進めて本格的な抽象絵画を完成させた。その絵は、カンディンスキーの「熱い抽象」と対をなして、「冷たい抽象」とも呼ばれている。
ガデスは、モンドリアンの抽象絵画の手法や考え方に傾倒し、自身の演出や振付の参考にしていた。アントニオ・ガデス追悼特集の『パセオフラメンコ』2004年11月号に掲載された前田滋郎と小島章司の対談の中でも、「日本に初めて自分のカンパニーで来た際の記者会見でもモンドリアンの話などをして」(pp. 17-18)ジャーナリストたちを驚かせたとの逸話が語られている。
現代の大御所格のバイラオーラ。最初にガデスの才能を見出し、育てた人でもある。
北スペインのサン・セバスティアン生。1946年に自身のグループを結成、彼女自身の踊りがすぐれているのみならず、グループの男性パートナーやメンバーに高い水準の人材を揃えたことが成功のゆえんとも言われる。実姉は、やはり高名なバイラオーラのア・アルヘンティニータ。
キューバの現国家評議会議長。共産主義を信望しキューバ革命支持を公言していたガデスとは、個人的な親交もあった。
1975年、ガデスはフランコ政権によるバスク人活動家処刑を機に引退を決意したが、1978年にアロンソの招きでキューバに訪れ、アロンソを始めとするキューバの人々の説得により再び舞踊の世界に戻ることにする。舞踊家ガデスを支援する人々の中に、カストロ本人が含まれていたことは想像に難くない。キューバとキューバ人を気に入ったガデスは、その後もたびたびキューバを訪問しており、1982年にガデスが歌手のマリソルとハバナで挙式した時には、カストロはアリシア・アロンソと共にスポンサーになっている。
2004年6月、自らの死期が遠くないことを自覚したガデスがキューバを訪れた際には、カストロはガデスに個人に向けて贈られるものとしてはキューバ最高の賞であるホセ・マルティ勲章を授与した。また、ガデスはスペイン共産党中央委員会のメンバーだった(ただし1981年に決別している)が、それだけでなくキューバ共産党の一員としても正式に認められていた。これは外国人としてはかなり稀な例だという。
スペインの映画監督。バルセロナ生まれで、多くの作品を監督したが、現在までのところ日本で公開されたのはガデスが出演している『バルセロナ物語』(1963年)と『恋は魔術師』(1967年)のみ。
キューバの詩人・思想家。一度は引退を宣言したガデスは、復活を決意したときの心境を彼の詩に託した。
ハバナ生。16歳にして早くも詩劇を発表するほどの早熟ぶりを示す一方、キューバ独立運動に身を捧げ、26歳で国外追放になってからは人生の大半を外国で過ごした。1892年には<キューバ革命党>を結成し、1895年にはキューバに上陸、スペイン軍との交戦中に戦死した。著作の多くは評論だが、劇や童話なども執筆し、中でも詩は近年になって評価が高まっている。
スペインの女優・歌手。
エステヴェ、という名前はガデスの本名。父親はアントニオ・ガデス、母親はマリソルという有名人カップルの間に生まれたにもかかわらず、「両親の「七光り」をまったく利用しないでアーティストになったことを、スペインの評論家たちも大いに尊敬している」(『パセオフラメンコ』2007年2月号、p.
35)とのこと。
アルゼンチン生まれ。マラガ王立舞踊・演劇学校で演劇を学んだ後、多くの舞台、テレビ、映画に出演した。現在はアントニオ・ガデス財団の会長としての仕事に専念するため、女優や歌手としての仕事はしていない。「父が遺した作品はわずか五作品と少ないのですが、どれもが今やフラメンコの偉大な古典です。スペインが誇る、文化遺産と言っていいでしょう。その遺産を守り、正しく継承し、広めていくことがアントニオ・ガデス財団の使命です。そのため、2005年には、ガデス舞踊団を再結成しました」(『朝日新聞夕刊』2007年2月14日、p.
11)
スペインのアイドル歌手・女優。1960年代以降のスペインでは一世を風靡する程の人気だった。映画『血の婚礼』では、馬の子守唄を歌っている。ガデスと結婚、3年後に離婚したが3人の子供をもうけ、そのうちの一人マリア・エステヴェは現在、アントニオ・ガデス財団の理事を務めている。
現代スペインを代表する詩人で、アントニオ・ガデスに捧げる詩を書いたことがある。その一部の英訳を紹介すると、
"You feel sorrow in your dance / the fires fanned by / your arms are yellow" (Carmen|Gades, p. 158)
アルベルティは、スペイン南西部の港プエルト・デ・サンタ・マリア生まれ。巨大な葡萄園を有するブルジョア家庭に育ち、1917年に家族と共にマドリッドに移る。最初は画家を志すが、やがて詩人を目指すようになり、1925年に出版した第一作目の詩集『陸の水夫』で国民文学賞を受賞。ガルシーア・ロルカら多くの詩人とも親交を結ぶと共に、共和制を求めてスペイン独裁政権に反対する活動にも身を投じた。人民戦線軍が破れ、フランコが独裁の座につくと、1939年にパリに亡命、1940年にはアルゼンチンへと逃れた。アルベルティが祖国に戻ったのは、フランコが死去してから4年経った1977年のこと。1983年には、スペイン語の文学者にとって最高の栄誉である「セルバンテス賞」を受賞した。アルベルティの経歴を鑑みると、彼がガデスにあてて詩を書いたのも改めて頷けるが、ガデス以外にも画家のピカソや詩人のパブロ・ネルーダ、ルイ・アラゴンらについての詩も書いている。
スペインの詩人・劇作家。彼の作品と断定されるコメディア(言葉の起源である「喜劇」だけではなく、悲劇や悲喜劇をも含む、劇一般のこと)だけでも優に300作を越えるほどの多作家で、15歳年上のセルバンテスをして、<自然の怪物>と言わしめた。
一時は引退を表明していたガデスが、それを撤回して製作した舞台『アンダルシアの嵐』は、ベガの代表的戯曲『フエンテオベフーナ』(1619年)を基にしている。