『銀河ヒッチハイク・ガイド』考

 目次

 SF嫌いのSF好き

第1章
 エピソード風の長篇
  短編作家ロバート・シェクリイと比較する

第2章
 〈ワイドスクリーン・バロック〉
  同時代作家バリントン・J・ベイリーと比較する

第3章
 「SF作家」でないSF作家
  カート・ヴォネガット・ジュニアと比較する

第4章
 後期『銀河ヒッチハイク・ガイド』
WORKS CITED


 私はSFが嫌いだった。
 小説ならたいてい何でも読んだが、SFだけは別だった。読んでもどうせ分からないだろうと敬遠していた向きもあるが、実際ネコ好きなら涙なくして読めないとまで言われるハインラインのかの名作『夏への扉』すら、普段は読み始めた本は滅多なことでは途中で放り出さないのに、ついでに大のネコ好きでもあるのに、半分も進まないうちに見事に挫折した。本屋の文庫本コーナーはくまなく見て回っても、某出版社の水色の背表紙の一画だけは素通りした。
 そんな私が新潮文庫の『銀河ヒッチハイク・ガイド』を読んだのは、本なぞ年に一冊も読まない弟がたまたま買ってきて、たまたま居間のテーブルに置きっぱなしにしていたからだった。あの弟に読めるなら、私にだって読めるだろう。そう思って手を出して、それでも最初は何だかよくわからない話だなあ、やっぱりSFって何のこっちゃだな、とか何とか考えつつ、ともあれ活字中毒者の惰性でとりあえず読み進めて、そして48頁までたどり着いた時、落雷ような衝撃を受けた。
 後にも先にも、本を読んであれほどのショックを受けたことはない。
 何がそんなにショックだったのか、当時の私にはよくわからなかった。今の私は少しはわかる。『銀河ヒッチハイク・ガイド』を読んでからこのかた、そのことをずっと考えていると言っても過言でないからだ。ヒマだって? 確かに。でも、「この本は絶対おもしろいから、騙されたと思って48頁まで読んで」と友人に貸しても、十人中九人までが「話の意味さえわからない」と返してくるたびに、考え込まずにはいられない。私は『銀河ヒッチハイク・ガイド』の何がそんなに好きなのだろう、と。
 私自身、決して英国通でもなければ原書で読んだ訳でもない。『銀河ヒッチハイク・ガイド』を初めて読んだ時、モンティ・パイソンが何なのかも知らなかった。ヴォネガットなんて名前は聞いたこともなかった。SFだって好きじゃない。そんな私の心を引っ掴んだ、『銀河ヒッチハイク・ガイド』の魅力とは何か。
 以来、あの時感じたのと同じ衝撃や感激をもう一度味わいたくて、アダムスに「似ている」とか「近い」とか言われる作家の作品を読み散らしてきた。その中には「出会えて良かった」と思う本もあったし「できれば一生会いたくなかった」と思う本もあった。でも、おかげで私の中で少しずつその「魅力」とやらを整理することができたと思う。
 あくまで私なりに、の域を出ないものの、以下の通りまとめてみた。御一読いただいた上で、もし万が一にも、『銀河ヒッチハイク・ガイド』を読んでみようかと思ってくださったなら、これに勝る喜びはない。

 ただ、『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズは、1978年のラジオ・ドラマに始まり、1992年の五冊目の小説『ほとんど無害』に至るまで、作風にかなりの変化が見られる。その変化については4章以降で触れることにして、ここでは特に言及のない限り初期の作風について考察した。初期の作風とはすなわち、その成立過程から鑑みて、ラジオ・ドラマ版と小説版『銀河ヒッチハイク・ガイド』及び『宇宙の果てのレストラン』である。


第1章 「エピソード風」の長編
       
短編作家ロバート・シェクリイと比較する

 『銀河ヒッチハイク・ガイド』についてフィリップ・ハワード氏は「エピソード風に挿入される災難や騒動の連続」(p.9)と評した。実際、アダムス自身、自作のことを「エピソード風に書く」("A Guide", p.9)と述べている。
 この「エピソード風」という形容は、1950年代を中心に活躍したSF作家ロバート・シェクリイにも与えられている。しかし、同じ「エピソード風」であっても、アダムスは長編を、シェクリイは短編を、それぞれ得意としており、ここではそのような両者の相違を比較・分析して、長編作品としての『銀河ヒッチハイク・ガイド』の特徴を検証したい。

 それではまず、『銀河ヒッチハイク・ガイド』の方から一例を挙げてみよう。アーサーが宇宙船〈黄金の心〉号で紅茶を探していて、「栄養飲料自動合成機」なる代物を見付けた下りである。

彼は栄養飲料自動合成機というものを見つけていた。それはプラスティックのコップに紅茶とは似ても似つかぬ(しかし、まったく似ていないとも言いきれぬ)液体をそそいでくれるのである。その機械の働きぶりはなかなか興味深いものである。飲料ボタンを押すと、すぐに、押した人物の味蕾がくわしく調べられる。その人物の物質代謝が分光分析機でチェックされ、その人物の味覚中枢に通じる神経に弱いテスト信号が送られ、どんな味が受け入れられるかを調べるのである。もっともなぜそんなことがおこるのか、はっきりわかっている者はひとりもいない。なぜなら、その機械はいつも、紅茶とは似ても似つかぬ(しかし、まったく似ていないとも言いきれぬ)液体を出すのだから。栄養飲料自動合成機はシリウス人工頭脳株式会社で設計され製造されている。ちなみに、この会社の苦情処理課は、シリウス=タウ星系の第一から第三惑星までの陸地のすべてを占めている。(p.159)

 『銀河ヒッチハイク・ガイド』以前も以後も、アダムスは共作を除いては短編作品をほとんど発表していない。否、正確には採用されていないという方が正しい。
 先に引用した箇所は、長編小説の一エピソードとしてとても器用に仕上げられている。しかし、これを取り出して、一つの独立した短編小説やスケッチにすることができるかと言えば、甚だ心許ない。わずか数行に見事にまとまっている上、これ自体には何のストーリー性も見出せないからである。まだ無名のライターにすぎなかった頃のアダムスについてジョン・ロイドが語ったように、「おもしろいのは確かだけれど、使いものにならない」(Gaiman, p.20)。

 一方、同じようなアイディアでありながら、それがロバート・シェクリイの手にかかると、うまく一つの短編小説が出来上がってしまう。
 彼が1959年にSF雑誌『ギャラクシイ』11月号に発表した短編小説「ラクシアの鍵」には、メルジという小惑星の極度に発達した古代文明によって造り出された「無料生産機」と呼ばれる妙な機械が登場する。

『この生産機は、あらゆる破壊に耐え、故障絶無、欠陥皆無。いかなる動力接続も不要。始動には、第一ボタンを押し、停止にはラクシアの鍵をお使い下さい。あなたのメルジ生産機は、永久に故障せぬことを保証されております。』(『人類の罠』、p.177)

 この機械を手に入れた二人の若者は、喜んですぐに始動ボタンを押すが、機械が止むことなく生産し続けるのは、惑星メルジの住民が主食とする以外はほとんど何の役にも立たない灰色の粉であった。
 ここまではアダムスの「栄養飲料自動合成機」の設定と、まんざら似ていなくもない。ところがシェクリイの場合、アダムスと違ってこの設定を一つのストーリーにうまく展開させる。
 役に立たない灰色の粉は増え続け、機械を止めるラクシアの鍵はどこにも見つからない。困り果てた二人はさんざん苦労して生産機を宇宙船に積み込み、唯一この灰色の粉を消費してくれる惑星メルジに向かう。しかしメルジに着いてみると、この惑星は既に辺り一面灰色の粉に覆われていた……。

 シェクリイは1929年にニューヨークに生まれ、1946年から48年まで陸軍に入隊、朝鮮半島に出兵した後、ニューヨーク大学に入学した。そして1951年に卒業すると同時に、彼の書いた短編小説はSF雑誌を中心に即座に受け入れられ、たちまちフルタイム・ライターになった。その辺りの経緯も、大学卒業後自分の作品の採用先を全く見出せなかったアダムスとは対照的であるが、新人ライターの売り込みが短編中心である以上、その理由もアダムスの「自動栄養飲料合成機」とシェクリイの「無料生産機」を比べてみれば明らかだろう。アダムスのアイディアが、シェクリイのそれより劣っているというのではない。ただ、一つの独立した作品とするには難があるというだけであり、長編の中の一エピソードとして活用される際には十分に機能することができる。例えば、ゴルガフリンチャムの箱船船団のアイディアは、元は一つの独立したスケッチとして書かれたもので、当時は見事に不採用となった。(Gaiman, P.15)が、後に『銀河ヒッチハイク・ガイド』(小説版では『宇宙の果てのレストラン』)の中で再使用された時には、他のエピソードと比べても何の遜色もない。
 ただし、いくらさまざまなエピソードやジョークを持ち込んで一つの長編にするとしても、それだけでは作品全体がバラバラで、単なるアイディアの寄せ集めという印象を与えかねない。その典型的な悪例が、シェクリイの長編小説である。
 シェクリイは、実際のところ、8本の長編小説を上梓している。にもかかわらず、彼がその実力を高く評価されるのはもっぱら短編小説の方であり、与えられる称号も「短編作家」である。長編小説については、言及されることもあまりない。
 では、彼が1968年に発表した長編SF小説で、「エピソード風」(Kiniry, p.104)と評された『奇蹟の次元』を取り上げてみよう。
 主人公カーモディは、ある日突然、銀河センターの使者だと名乗る男に全銀河宝クジに当選したと言われ、その男の後について何気なく玄関を出た途端、彼は次元を超えて銀河センターに立っていた。もう一度地球に戻るためには3つの座標、すなわちどこ(where)、いつ(when)、どれ(which)を知る必要があり、それを知らないカーモディは銀河センターの事務官と使者に放り出されてしまう。そして物語は、彼が地球を探して次々といろいろな惑星、あるいは時や次元のズレた地球を遍歴する形で進行する。
 何しろカーモディは、地球を探したくてもその術をまったく知らないし、変な惑星に送り込まれて生命の危機に晒されても自分でそれを乗り切ることができない。必然、何らかの形で他の者が彼を救い出すなり、次の状況に移すなり、手を貸してやることになる。
 銀河センターから厄介払いされた先の惑星ラーシスの唯一の住人メリクローンは、親切にも「わしの友人モーズリイのところへおまえを送りとどけてやろう」(p.69)と言い出し、続いてモーズリイの惑星では、またしても他人のためには指一本動かさない性格のモーズリイが、不意に親切心を起こし、カーモディを銀河系配置サービスの議員シーズライトに引き渡してくれる。
 そしてこのシーズライトによって、カーモディはどこ(where)といつ(when)の二つの座標をいともあっさり知ることができ、残るどれ(which)についても、このシーズライトがカーモディに本物の可能性の高いいくつかの次元の異なる地球に次々に送り込み、順に試させることで解決が図られる。
 一見本物のような、あるいは本物よりも住み心地のよさそうな地球の候補が、次第にそのとんでもない本性を表す。これでもかこれでもかとばかりに、手を変え品を変え描かれる地球の候補群の中で右往左往するカーモディの姿は確かにおもしろい。しかし、そうやって絶体絶命の危機に陥ったカーモディは、ただ大声でシーズライトの名前を叫ぶだけで、シーズライトが間髪置かず次の地球候補に彼を送ってくれる訳で、なまじ偽の地球の下りが良く書かれているだけに、これなら無理にアイディアをつないで長編にしなくても、それぞれのエピソードを独立した短編にした方がいいのではと思わざるを得ない。『奇蹟の次元』の中のエピソードはどれも「ほとんど完全に自己充足して」(Kiniry, p.104) おり、長編小説としては「さまざまな創案を、複雑だが筋の通った世界の部品として組み立てようとして失敗」(Kiniry, p.104)している。
 その点アダムスは、シェクリイとは逆に、場面と場面を繋ぐことに非常に神経を使う。
 カーモディ同様、『銀河ヒッチハイク・ガイド』の主人公アーサー・デントも、アダムスの言葉を借りるなら「何が起こっているのかさっぱり把握できないまま、次から次へととんでもない災難を渡っていく」(Adams, M. p.176) 人物であり、そのアーサーに絶体絶命の状況を何とか乗り越えさせるためには、外部から何らかの形で彼を助けてやれねばならない。
 まず、物語の冒頭で起こる地球崩壊からアーサーを救い出す人物としてフォード・プリーフェクトが登場する。フォードは明らかにアーサーを地球から脱出させるための布石であるが、だからと言っていきなり何の脈絡もなくアーサーの前に出現させたのではあまりに唐突で白々しいことも、アダムスは心得ている。

PROSSER Mr. Dent!
ARTHUR Hello? Yes?
PROSSER Have you any idea how much damage that bulldozer would suffer if I just let it roll straight over you?
ARTHUR How much?
PROSSER None at all.
GRAMS NARARATOR BACKGROUND
NARRATOR By strange coincidence, 'None at all' is exactly how much suspicion the ape decendant Arthur Dent had that one of his closest friends was not decended from an ape, but was in fact from a small planet somewhere in the vicinity of Betelgeuse.
Arthur Dent's failure to suspect this reflects the care with which his friend blended himself into human society after a fairly shaky start. When he first arrived fifteen years ago the minimal research he had done suggested to him that the name Ford Prefect would be nicely inconspicuous. He will enter our story in 35 seconds and say 'Hello Arthur'. The ape decendant will greet him in return, but in degerence to a million years of evolution he will not attempt to pick freas off him. Earthman are not proud of their ancenstors and never invite them round to dinner.

FORD (Arriving) Hello Arthur.
ARTHUR Ford, hi, how are you?
FORD Fine, look, are you busy? (original radio script, p.93)

 勿論これは言葉の上の遊びにすぎない。フォードがアーサーの許に不意に訪れるという事実関係に変わりはないのだから。しかし、このような文章を駆使することによって、よどみなく話が続いているように見せかけることはできる。
 フォードに助けられたアーサーは、地球崩壊からからくも逃れ、ヴォゴン人の宇宙船にヒッチハイクするが、一難去ってまた一難、その宇宙船からも宇宙服なしで宇宙空間に放り出される。

 『銀河ヒッチハイク・ガイド』には、肺いっぱいの空気を吸いこめば、真空中でも三十秒ほど生きていられると書かれています。もっとも、宇宙の茫々漠々たることを考えれば、その三十秒以内に、別の宇宙船に救助される確率は、二の二十六万七千七百九乗分の一だとも記されています。
 二六七七○九という数字が、かつてアーサーがでかけていったパーティの会場となったイズリントンのあるマンションの電話番号と同じだというのは、まことにめくるめく偶然の一致にすぎない(そのパーティで彼はとびきり可愛い女の子に出会ったのだが、ものにすることはできなかった――娘は押しかけ客とどこかへしけこんだのである)。
 地球もイズリントンのマンションもそこの電話もいまはないが、二十九秒後にフォードとアーサーが救助されたという事実によって、この数字が記憶にとどめられるとすれば、それもまた善哉。(pp.101-102)

 この展開もまた、何か意味がありそうに見えて、何の意味もない。その点では、シェクリイの『奇蹟の次元』と同じである。
 しかし、シェクリイが個々のエピソードのおもしろさにかまけて、一つの場面から次の場面への無力な主人公の移動を、出会った人の善意という安易な理由づけのみに頼って簡単に片付けたのに対し、アダムスは、どうせアーサーが自力で危機を乗り越えられず、何らかの形で外部から助けてやらねばならないのなら、いっそ中途半端な理由づけなどせず、ひねった文章表現や言葉上の遊びでさらりと交わしてみせる。強引な展開の「強引さ」そのものが逆手にとられ、丹念な文章の力で一つのジョークとして処理されてしまう。その結果、「エピソード風に挿入される災難や騒動の連続」でありながら、作品全体としては、バラバラなアイディアの寄せ集めではなく、れっきとした一つの長編小説に仕上がるのである。
 また、ラジオ・ドラマ版においては、この特徴がさらに、場面と場面を繋ぐために挿入された、普通のラジオ・ドラマの基準から考えればあまりに長いナレーションや、最初から最後まで途切れることなく流される効果音やBGMによって、より一層強調されている。



第2章 〈ワイドスクリーン・バロック〉
      同時代作家バリントン・J・ベイリーと比較する

 『銀河ヒッチハイク・ガイド』が登場した1970年代のイギリスSFについて、ブライアン・W・オールディスは〈ワイドスクリーン・バロック〉と命名した。
 その作風とは、名付け親オールディスの言葉を借りると「豪華絢爛な風景と、劇的場面と、可能性からの飛躍の楽しさに満ちた、自由奔放な宇宙冒険物」(オールディス、p.289)で、「時間と空間を手玉に取り、気の狂ったスズメバチのようにブンブン飛びまわる。機知に富み、深遠であると同時に軽薄」(同、p.365)にして、「奇想天外なアイディアの奔流」(同、p.362)となる。
 言うまでもなく、これは先に述べた『銀河ヒッチハイク・ガイド』に対する批評、すなわち「エピソード風に挿入される災難や騒動の連続」と酷似しているし、実際巽孝之氏は『宇宙の果てのレストラン』の書評の中で、〈ワイドスクリーン・バロック〉は「アダムスをも一翼としうる」(p.189)と述べている。しかしながら、〈ワイドスクリーン・バロック〉の代表的な作家とされ、アダムスと全くの同国人・同時代人であるバリントン・J・ベイリーは、アダムスの作品が今なお英米で何百万部も売れているのに対し、その著作のほとんどが絶版状態、近年評価が高まっているとは言え、それも依然少数のSF愛好家の狭い枠の中に限られている。ここでは、両者のそのような差がどこからくるものなのかを検討してみたい。

 まず、ベイリーの代表作『時間帝国の崩壊』に登場する「時間航法」を例にとって、彼の作品におけるアイディアを具体的に見てみよう。

「EイコールMC二乗。この方程式の右辺から一つの因子を取り上げてみよう。C二乗。ここに時間を挿入するんだ。Cは光の速度だ。別の質量ゼロの素粒子の時間当たりの距離ともいえる。つまりエネルギーは質量に時間の二乗をかけたものだということになる。ところがこの方程式をこのように書きかえることもできる。MイコールC二乗分の一。さあ、そろそろわかってきただろう。もしわれわれがこの関係を混乱させたらどうなる?われわれは強力な粒子を光よりも速く飛ばすことによってこの混乱を起こしているわけだ。そうなると方程式はもはや成り立たないことがわかる。エネルギーを光速の二乗で割ったものが、静止質量と釣り合わない。しかし方程式は成り立たねばならない――基本的な物理法則だからな。では、どうなる。静止質量が時間の中を通過する時でも、右辺の時間因子の方が同じ分だけ歪みを持つから、方程式は均衡を保てるんだ」(『時間帝国の崩壊』)

 作品の中核とも言える「時間帝国」のアイディアの説明はもっと長い。あまりに長いので引用は避けるが、その中でベイリーは、「時間帝国」を支える3つの真理とやらについて、何ページにも亘って長々と書きつらねている。
 〈ワイドスクリーン・バロック〉では、基本的に「奇想天外なアイディア」がまず第一で、物語も登場人物もそのアイディアを引き立たせるための脇役にすぎない。そして当然、「時間航法」や「時間帝国」といった「奇想天外」でおよそありそうもないアイディアを、もっともらしく本当にありうるもののように書く、この場合「説明する」ことがどうしても必要になる。だが、アイディアが奇抜であればあるほど、もっともらしく見せかけるための説明書きは冗長になるばかりで、多くの場合、読者の忍耐を超えてしまう。

...it handles various sort of paradoxical time travel and makes the mistake of explaining them all carefully...scientific explanation in science fiction are about as gripping as descriptions of the weather in pornography, with the additional drawback that they are, exhypothesi, wrong. (Korn, p.626)

 大野万紀氏は、ベイリーの作品を「ある程度SFに親しんだ読者を対象とし、SF特有のいいまわしや概念に読者が反応することを前提としたSF」(p.339)であると言う。また、ベイリー自身、イギリスの代表的なSF雑誌『ファウンデーション』の1979年9月号で、「世界にはSFを理解できる者と、どうしてもできない者とがいる」(『カエアンの聖衣』、p.340)と言い切っている。つまり、ベイリーは最初からSFの愛好家だけを自作の読者と見做して書いているのである。
 そのせいだけではないだろうが、ベイリーの文章は難解で読みづらいものと言われている。ベイリーがわざとぎこちない文章を綴っている、とまではいかなくとも、少なくとも平明で読みやすい文章を心掛ける姿勢も、SF愛好家のみをターゲットにしているベイリーにはあまり見受けられない。その結果、ベイリーのマイナーさに拍車がかかることになる。(Nicholls, p.62)
 では今度は、アダムスに目を転じてみよう。『銀河ヒッチハイク・ガイド』にも、ベイリーの「時間航法」に対応すると思われるアイディアは登場する。宇宙船〈黄金の心〉号に取りつけられた、「無限不可能性駆動」である。

 不適当だと言うのにはもうひとつ理由があった。星と星のあいだに広がる魂も凍るような広大な宇宙空間を航行するのに必要な無限不可能性フィールドを発生させる機械をつくろうと、何度も何度も試みられてきたのだが、そのたびごとに例外なく失敗したからである。結局、そうした機械は究極的に不可能なのだ、と科学者たちは不機嫌な口調で言明した。
 ところがある日、例によって失敗した研究員たちが帰宅したあと、掃除に残されたひとりの学生がこんなふうに考えた――
 もしこの機械が究極的に不可能なら、論理的に言って、そのことこそ無限不可能性をあらわしているにちがいない。(p.113)

 続いて、今度はベイリーの「時間帝国」と発想の良く似た、「宇宙の果てのレストラン」のアイディアを見てみよう。

NARRATOR The Restaurant at the end of the Universe is one of the most extraordinary ventures in the entire history of catering. A vast time bubble has been projected in the future to the precise moment of the End of the Universe. This is, of course, impossible.

In it, guests take their places at table and eat sumptuous meals whilst watching the whole of creation explode about them. This is, of course, impossible. You can arrive as many time as you like without prior reservation because you can book retrospectively as it were when you return to your own time. This is, of course, impossible.

At the Restaurant you can meet and dine with a fascinating cross-section of the entire population of space and time. This is, of course, impossible. You can visit it as many time as you like and be sure of never meeting yourself - because of embarrassment that usually carses. This is, of course, impossible.

All you have to do is deposit one penny in a savings account in your own era, and when you arrive the end of time the operation of compound interest means that the fabulous cost of meal has been paid for. This is, of course, impossible.

Which is why the advertising executives of the Star System of Bastablon came up with this slogan -
'If you've done six impossible things this morning why not round it off with breakfast at Milliways, the Restaurant at the End of the Universe.' (original radio script, p.93)

 アダムスの作品を読んでいると、improbable(あり得ない)やimpossible(不可能な)といった単語が多用されることに気付く。例に挙げた「無限不可能性駆動」と「宇宙の果てのレストラン」の他にも、やはり物語の中核的なアイディアの一つである惑星マグラシアに対しても、「いちばんありそうにない」(『銀河』、p.149)という形容が付けられる。
 しかも、もっとも分かりやすい宇宙の果てのレストランを見てみると、「宇宙の果てのレストラン」が存在し得ない理由を6つも挙げておきながら、その6つの不可能事がどうして可能になるのかについての肝心な説明は完全に欠落している。2冊目の小説の題に使われるほどに重要なアイディアが、「不可能」のままで放っておかれるのである。
 ベイリーの場合、およそありそうもない(improbable)「時間航法」や「時間帝国」を、ありそうな(probable)ものにするために、さんざん骨を折って説明し、その結果却って読者をうんざりさせるという矛盾を抱えてしまった。それに対してアダムスは、そんな面倒な説明書きなぞあっさり無視して、その代わりに、逆にベイリーが最初から無視していた平明で読者を楽しませることを前提とした文章の力を行使して、言葉巧みに交わしてみせる。アダムスにとって、improbable(あり得ない)をprobable(あり得る)、impossible(不可能な)をpossible(可能な)に見せかけることなど重要な問題ではない。それよりはむしろ、improbableはimprobableのまま、impossibleはimpossibleのまま、肯定し容認し、さらにはそれを楽しもうとさえするのである。

 ベイリーとアダムスの相違点としてもう一つ、性の取り扱い方が挙げられる。
 ベイリーの作品には、かなり積極的に性が取り扱われている。『時間帝国の崩壊』は、比較的表立って出てくることの少ない作品ではあるが、それでも全くない訳ではない。

 一時間にわたって二人は彼女をいたぶりながらゆっくりと儀式を進めた。立体スクリーンは淫びで不吉な雰囲気をかもし、ハルムのたわむれの相をを映し出して、異様な光で部屋を包み込んでいる。二人の朗唱からインプリス・ソースは時流層の底で自分の魂が待ち受けるものを思い浮かべた。彼女はそこでハルムのご用を勤めるのだ。教会の言う偽りの神を捨てて罵倒せよと説得するように二人の祈りは続いた。
 『電撃の儀』で体の隅々まで所かまわず弱い電流を当てたあと、二人は『交接の儀』へ移ることにした。最初にストレインが、続いてヴェレンが、それぞれ歓喜の祈りを唱えながら彼女と交わった。
 満足のあえぎと吐息をもらし、二人はしばし立たずんでどんよりした目の女を見おろした。(p.105)

 SF作品の中で、性の問題を取り扱ったり具体的な性描写を盛り込んだりするようになるのは、ごく少数の例外を除いて、1960年代以降のことである。それまでは、SF界の最大の権力者と言えるSF雑誌の編集者が、ジョン・W・キャンベルを筆頭に、作品内に性に関する事柄が入ることを好まず、性を表す言葉や場面を排除しようと一種の検閲を行っていた。(Nicholls, p.538)
 しかし、60年代、いわゆる〈ニューウェーヴ〉SF、「内宇宙」SFの到来と共に、当然作家の側から性描写自己規制からの解放を求める声が高まった。〈ニューウェーヴ〉作家のハリイ・ハリスンは、抵抗の一環として、1964年にSF評論雑誌『ホライズン』の創刊号で次のように述べている。

SFはパルプ雑誌という雑誌の遺産の殻を、まだ脱ぎ捨てていないのだ。あのパルプ雑誌というのは、どぎつい表紙とうらはらに、中身はちょっぴりの流血と死と拷問、そしてノー・セックス、ヒーローはつねに勝ち、一人のアメリカ人は二十人のドイツ人や黄色人種に匹敵するという、道徳的幼児の読み物だった。(浅倉久志、p.193)

 あまりに長くタブーに縛りつけられてきたために、セックスと排泄機能を正常な人生の一部と受けとることができないSF作家。タブーのまわりを大わらわでよけまわり、自作の主人公が手綱をはずれて暴れださぬようにと、ひたすら汲々としているSF作家。
 少数の例外を除いていまのSFに欠けたリアリティと性格の厚みを手に入れるために、われわれはまずこの事実を直視して、そこから抜け出るために編集者を動かす努力をすべきだ。
 SF作家よ、もっとおとなになろう。(同、p.194)

 60年代後半ともなると、フェミニズムの立場から優れた作品を発表する女性のSF作家が次々と登場することも手伝って、ハリスンが憂いていた状況はたちまちのうちに打破される。そして、70年代ともなると、もはやSF作品の中に性が頻繁に登場することの方が当たり前となった。
 それ故、70年代の作家であるベイリーの作品に、少々過激な性描写が出てくることは、書かれた時期から考えても何の不思議もない。それよりもむしろ、アダムスの作品に性に関する事柄がほとんど出てこないことの方にこそ注目すべきであろう。

...Trillian, the young woman, is in love with a two-headed three-armed extraterrestrial, and contrary to all established precedents, Arthur remains indifferent to her and to sex through the first three series. (Knopf, p.62)

 この論文では、地球の生き残りのアーサーとトリリアンが最終的にエデンの園を彷彿とする惑星に落ち着き、そこで第二の創世神話を築く、という話の展開にならないのは、当然そうなるだろうと予想する読者の裏をかくためで、二人の間に性的関係の片鱗すら伺わせないのは、アダムスがSFというジャンルの約束事を意識的にひっくり返そうとしているからだ、と続く。確かに、物語の冒頭で地球があっさり崩壊するという設定に関しては、この説は正しい。

"Most science fiction seems to have for the climax the great concern: is the earth going to be destroyed?" Adams observes. "Everybody knows the hero is going to save it, so I thought, why not get past that one straight off? Just get rid of the earth in the first reel, so to speak." (Crichton, p.48)

 しかし、同時にアダムスは、ジャンルとしてのSFそのものをパロディにするつもりもないことを明言している。

"Why bother writing a send-up of sceince fiction?" he wonders. "It may give you a 10-minute sketch, but that's about all. I'd rather use the devices of sceince ficiton to send up everything else. The rest of the world, I think, is a better subject to take than just science fiction." (Crichton, p.48)

 話を戻して、もしアダムスの意図が「ジャンルの約束事を意識的にひっくり返す」ことであるとすれば、アーサーとトリリアンではなく、トリリアンとザフォドとの性的関係について何か言及があってもよさそうなものである。ところが、トリリアンとザフォドはほとんど一緒に行動していて、かつまたザフォドがおよそ高潔の士とは程遠い性格を与えられているにもかかわらず、両者の間に具体的な性描写はおろか、性的関係を匂わせるような言動さえ見られない。「性に無関心」なのは、アーサーだけではないのである。
 アダムスが作品中に性に関する事柄を、1つのエピソードやジョークという形でさえも取り入れていない(『銀河ヒッチハイク・ガイド』の中の「宇宙の宙勢・社会学に関する統計」には性の項目があるが、その答えは「なし」(『レストラン』、p.192)である)ことは、70年代SFという点から見てのみ特異なのではなく、この作品がコメディである点から考えてもかなり特異だと言える。コメディ作品の中で性に関係する冗談を入れないことは「笑話作家としてはたいへんな犠牲である」(p.333)とイギリス人のジョージ・オーウェルが書いたのは、何と1940年代のことなのだ。
 かと言って、単純に『銀河ヒッチハイク・ガイド』が、小説ではなくより公共性の強いラジオ・ドラマとして始まったこともあって、アダムスが道徳性を重視して敢えて性に関する事柄を省いたのだ、と考えるには無理がある。第一に、それならばそれで、小説化に際してその種のジョークを復活させたはずであるのにそれがないこと、第二にアダムスがこのラジオ・ドラマの製作以前から、彼よりほぼ10歳年上のコメディ集団モンティ・パイソンと親交があったということである。モンティ・パイソンと言えば、現在でもイギリスのコメディの代表とされる存在であるが、1969年からBBCで放送された『空飛ぶモンティ・パイソン』を筆頭に、彼らの作品中にどれほど性に関するダーティ・ジョークが含まれているか、今更言うまでもない。そして、そんな彼らに憧れ、尊敬し、一時はメンバーの一人であるグレアム・チャップマンと共同執筆を試みてさえいるアダムスが、道徳的規範から性に関する冗談をタブー視すると考えるのは、無理がありすぎる。
 しかし、ここで一つ注目すべきことがある。先に例に挙げたジョージ・オーウェルの言葉、「笑話作家としてはたいへんな犠牲」とは、実は20世紀イギリス最大のユーモア作家P・G・ウッドハウスについて書かれたエッセイからの引用であり、そしてアダムスが最も影響を受けた作家としてこのウッドハウスの名前を挙げていることである。
 アダムスとウッドハウスについて言及するのは今回のテーマであるSF作品としての考察からいささか外れてしまうので、ここではあまり深く追求しないことにするが、ある意味でウッドハウスはアダムスに一番近い作家であると言えるかもしれない。「ウッドハウスの描くのは、ロボットでも宇宙船でもなく」(Crichton, p.48) 、エドワード朝イギリスの上流階級社会であるけれど、どの話も季節は初夏がほとんどで、しかもイギリスではおよそあり得ない(improbable)ような上天気続き、登場人物の服装は時代設定から臆面もなくたっぷり10年は遅れている。しかし、ウッドハウスはそんなことはまるで気にしない。ウッドハウスにとっても、アダムス同様、もっともらしさ(probablity)なぞは重要ではないのだ。それよりもむしろ、イーヴリン・ウォーをして「生存するイギリスで最も優れた名文家」(Amory, p.414) と言わしめた文章力をもって、およそありそうもない(improbable)上天気続きのウッドハウスの世界へ、実情を一番よく知っているはずの他ならぬイギリス人自身をまんまと連れ出してみせる。
 このようなウッドハウスの態度に対して、J・B・プリーストリーは「スクールボーイ」と呼び、他のユーモア作家と区別した。

Most of us who enjoy him still have a schoolboy somewhere in us, and to reach that schoolboy (aged fifteen or sixteen), to let him enjoy himself, is a perfect escape from our adult problems and trials. (p.109)

 プリーストリーのいう「スクールボーイ」は、そっくりそのままアダムスの「ヒッチハイカー」に転じることはできないだろうか。
 さらにプリーストーリーは、ウッドハウスについて「偉大なユーモア作家になるためには、彼はおとなにならなくてはならない」(p.109) と締めくくっており、これは先に挙げたハリイ・ハリスンの言葉、「SF作家よ、もっとおとなになろう」に見事に呼応する。ハリスンの言葉は、自作の中に性を取り扱わないSF作家に向かって投げられたものだが、それでは自作の中で性を取り扱わないアダムスは現実逃避型の、「おとな」でない作家なのだろうか。
 この問いに否と断言することは難しい。しかし、モンティ・パイソンを心から敬愛するこのコメディ作家が敢えて「たいへんな犠牲」を払った理由を探るため、ここでもう一度ハリスンのエッセイに戻ってみよう。この中でハリスンは、作品の中で性を取り扱わないことイコール、リアリティを欠いたもの、と述べている。そして、このリアリティという言葉くらい、improbableをimprobaleのまま肯定する『銀河ヒッチハイク・ガイド』に似つかわしくないものもない。言い換えれば、アダムスは作品のimprobability(あり得なさ)を保つため、意識的にしろ無意識的にしろ、性というリアルで生々しい臭いのするものを避けたということになりはしないだろうか。
 また、アダムスの作品が現実逃避か否かについては、次章で改めて検証することにする。


第3章 「SF作家」でないSF作家
       カート・ヴォネガット・ジュニアと比較する

 これまでロバート・シェクリイ、バリントン・J・ベイリーといったSF作家と比較・分析してきたが、最後に総まとめの意味で、アダムスに一番近いと一般的に評価されているカート・ヴォネガット・ジュニアの『タイタンの妖女』を取り上げてみたいと思う。
 そこで、まずは『銀河ヒッチハイク・ガイド』と『タイタンの妖女』の類似点を3点挙げて、それぞれに検証してみることにする。

 類似点の一つ目は、『タイタンの妖女』も〈ワイドスクリーン・バロック〉の作品の一つと見做されていることである。
 第二章で、『銀河ヒッチハイク・ガイド』も〈ワイドスクリーン・バロック〉の作品に包括されることあると述べた上で、〈ワイドスクリーン・バロック〉の代表的作家バリントン・J・ベイリーとの比較を試みたが、その際アダムスとベイリーの相違点として次の3点を挙げた。

1・奇想天外なアイディア
   ベイリー・・・improbable(あり得ない)ものをprobable(あり得る)ものにみせかけようとする。
   アダムス・・・improbableをimprobableのまま肯定する。
2・文章力
   ベイリーの文章は難解で読みにくいとされる。
3・性について
   ベイリー・・・含む。
   アダムス・・・含まない。

 では、同じく〈ワイドスクリーン・バロック〉の銘を受けた『タイタンの妖女』の場合はどうなのか、1から3について順にみていくことにする。
 まず1だが、ベイリーの「時間航法」、アダムスの「無限不可能性駆動」に対応すると思われるアイディアとして、『タイタンの妖女』では「UWTB〈そうなろうとする万有意志〉」がある。
 この「UWTB〈そうなろうとする万有意志〉」とは何なのかについては、『タイタンの妖女』の中では、たまたま宇宙船が破損して土星の惑星タイタンに足止めを喰ってしまった異星人サロから伝授された、と述べるにとどまっている。「想像しうるかぎりの最強力のエネルギー源」(p.186)と書く以上の、具体的な説明はどこにもない。

His [Vonnegut's] exaggerations make us stay aware of this take as a fiction, as imagined. For him, space explration ventures into possibilities, not facts. (Giannone, p.29)

 ヴォネガットが「奇想天外なアイディア」に必ずしもベイリーに見られる類のもっともらしさ(probablity)を求めていないことは明らかである。従って、1に関してはヴォネガットはベイリーよりもアダムスに近いと言える。
 次に2の文章力だが、現在アメリカ文学の代表的作家であるヴォネガットの文章力について問うのは愚の骨頂と言ってしまえばそれまでだが、しかしヴォネガットもアダムスも既製のSF作家の文章について同じような調子であげつらっていることは、注目に値する。
 まずはアダムスから。

I've read the first 30 pages of tremendous amount of science fiction. One thing I've found is that, no matter how good the ideas are, a lot of it is terribly badly written. (Gaiman, p.149)

 続いてヴォネガットだが、彼の別の小説作品『スローターハウス5』にキルゴア・トラウトという人物が登場する。この男は作品数はめっぽう多いが全く売れないSF作家で、明らかにヴォネガットのイメージするSF作家像がそのまま投影された形で書かれている。

キルゴア・トラウトの不評判は、当然の結果なのである。彼の文章は読むにたえない悪文であり、よいのは彼の思想だけなのだ。(p.133)

 最後に3についてだが、『タイタンの妖女』には相当積極的に性に関する事柄が取り入れられているので、この点だけは『銀河ヒッチハイク・ガイド』と異なる。
 とは言うものの、1から3まで振り返ってみれば、全く同じではないものの、ベイリーがアダムスかと言えば、同じ〈ワイドスクリーン・バロック〉でも、ヴォネガットはアダムスに近い作家と言えるだろう。

 次に『銀河ヒッチハイク・ガイド』と『タイタンの妖女』の類似点の2つ目、すなわち物語そのものの類似性である。
 物語の類似は、大きく二つに分けることができる。一つは、どちらの主人公も全く無力であること、もう一つは、物語が展開していくうちに地球という惑星が実は異星人によって造られた、あるいは造り直されたものだった、と判明することである。
 『タイタンの妖女』では、主人公マラカイ・コンスタントは、ある日突然破産し、火星人と名乗る者たちに連れ去られ、記憶を奪われ、地球から火星、水星、木星、最後にはタイタンと、自らの意に染まぬまま、あちらこちらへ翻弄される。『銀河ヒッチハイク・ガイド』の主人公アーサー・デントも、アダムスの言うところの「何が起こっているのかさっぱり把握できないまま、次から次へととんでもない災難を渡っていく」人間であるから、この点では両者は確かに似ている。
 ところが、コンスタントの場合、話が進んでいくうちに、一見運命のいたずらに玩ばれたかにみえる彼の一生は、ウィンストン・N・ラムファードなる人物が、地球に恒久の平和をもたらさんとの計画にコンスタントを利用したにすぎないのだと分かる。そして、このラムファードも含む、これまで地球で起こったすべてのこともまた、タイタンで足止めを喰ってしまったトラルファマドール星人サロに、壊れた宇宙船の部品を届けるために、サロの母星から遠隔操作されたものだった。つまり、コンスタントの一見でたらめで無茶苦茶な一生は、実のところガッチリとした二重三重の因果関係の枠に嵌め込まれているのである。
 一方、『銀河ヒッチハイク・ガイド』のアーサーはと言えば、コンスタント同様に全く無力で、宇宙のあちらこちらにひっぱり回されている。しかし、ロバート・シェクリイとの比較において述べたように、アダムスは無力なアーサーが「次から次へととんでもない災難を渡っていく」ために、敢えて何の因果関係も与えない。その比較の際に引用した、アーサーとフォードがヴォゴン人の宇宙船から宇宙空間に放り出される場面でも、やはり何の因果関係もなく、かと言って自力で危機を乗り越えることのできないアーサーを生き延びさせるためにもっともらしい理由づけをするのでもなく、文章表現上の遊びに茶化してしまうことで、それ自体を一つのジョークに仕立てた。また、この場面で使用される「偶然の一致」という言葉も、アダムスの作品中には頻繁に登場する(同様の例として引用した、フォードがアーサーの前に姿を現わす場面でも、この言葉は使用されている)が、この言葉に対して、「因果関係」というものくらい不似合いなものはない。同じように無力な人間ではあっても、因果の糸にがんじがらめに縛られたコンスタントとアーサーとでは、大きな相違があると言える。
 その相違は、両者が地球の真の姿を知った後に端的に表れる。それまで地球で起こったすべてのことは、トラルファマドール星人によって操られていたのだと知ったコンスタントは次のような結論を出した。

「たった一地球年前のことだった」とコンスタント。「おれたちはそれだけ長いあいだかかってやっと気づいたんだよ。人生の目的は、どこのだれがそれを操っているにしろ、手近にいて愛されるのを待っているだれかを愛することだ、と」(p.333)

 『銀河ヒッチハイク・ガイド』でも、地球は「生命と宇宙と万物についての究極の疑問」を計算するために造られてた巨大な有機コンピュータであったと判明する。しかし、それを知らされたアーサーの反応は、コンスタントのそれとはかなり違う。

 アーサーは熱のこもっていない様子で大きく息を吸った。
「わかったよ。でも、どこから始めればいい? どうやって知ろうというんだ? 究極の答えは四十二だとねずみは言っていた。それに対応する疑問をどうやって知ることができるんだ? それは何でもいい。つまり、六かける七だっていいのか?」
 ザフォドはしばらくアーサーをじっと見つめた。やがて、その眼が興奮に輝いた。
「四十二だ!」彼は叫んだ。
 アーサーはてのひらで額をぬぐった。
「そうだ」彼は忍耐強く言った。「それはわかっている」
 ザフォドのふたつの顔が下をむいた。
「ぼくは、疑問は何でもいいと言っただけだよ。どうしてぼくがそれを知っていなくちゃならんのか?」
「なぜなら、おまえは故郷の星が大きな花火になったときまでそこにいたからだ」
「地球にそれらしいものがある……」
「あった、だ」ザフォドが訂正する。
「……というんだね。そんなの知ったことか。ぼくにはわからない」(『レストラン』pp.197-198)

 地球人であるアーサーも、地球という巨大有機コンピュータの一部分であるから、アーサー自身の中に「究極の疑問」を見出すことは可能である。しかし、アーサーには、コンスタントと違って、そんなものを探そうという目的意識はない。逆に目的意識がないからこそ、アーサーはこの後も、偶然と無限不可能性に振り回されながらヒッチハイクの旅を続けることができるのである。

 最後に3つ目の類似点だが、それはアダムスもヴォネガットも、明らかにSFを書いておきながら、二人共自らがSF作家であることを否定している点である。
 ヴォネガットは次のように書いている。

I have been a soreheaded occupant of a a file drawer labeled "scinece fiction" ever since, and I would like out... ("Science Fiction", p.2)

続いてアダムス。

I'm not a science fiction writer, but a comedy writer who happened to be using the convention of science fiction for this particular thing. (Locher, p.15)

 何故彼らがこんな言い方をするのか、その理由はほとんど同じである。
 SFは、良くも悪しくもマニア色の強いジャンルである。一部の熱狂的な愛好家が膨大な量を読み漁り、SF雑誌を定期的に購読し自作の投稿を繰り返す者の中からプロのSF作家だ誕生し、やがては批評や編集も兼任するといった具合で、読み手と書き手がしっかりと意気投合した、狭い世界が形成される(ヴォネガットはその世界のことを「ロッジ」("Science Fiction", p.2) と呼んだ)。良く言えばそれだけ熱心なのだが、悪く言えば限られた世界の中で仲間内にだけ通用する価値観に浸り切ることにもなりかねない。先に引用したように、アダムスとヴォネガットが口を揃えて既製のSF作家の文章の下手さ加減を嘲っているのも、このことと無縁ではないだろう。そのような文章は、SF愛好家だけに向けて書く時にのみ通用するのであり、また二人の言うところの「SF作家」とは、そのような限定された読者のみを想定して書く作家のことなのである。そして、彼らの言う「SF作家」の典型的な例が恐らく、「世界にはSFを理解できる者とできない者とがいる」と言い切るバリントン・J・ベイリーであろう。
 アダムスもヴォネガットも、自作の読者にSF愛好家だけを想定して書いたのではない。アダムスの場合、はじまりはラジオ・ドラマであるから、そんな少人数をターゲットにするはずもないし、ヴォネガットにしても最初のうちこそは「SF作家」のレッテルを貼られ狭い世界に押し込められはしたものの、結局その「引き出し」を抜け出して、主流文学(SF愛好家がSF以外の文学を語る時に好んで用いる表現)に移行している。
 ところが、ここで一つ問題が残る。すなわち、それならば何故、「SF作家」と見做される危険を承知の上で、アダムスとヴォネガットはSFを書いたのか。この問題に対する答えは、アダムスとヴォネガットでは異なっている。
 まずはヴォネガットだが、ウィリス・E・マクネリィ氏は、「SF作家としてのカート・ヴォネガット」と題した論文の中で次のように述べている。

So scinece fiction in Vonnegut's hands enable us to distance ourselves from ourselves, to face problems we cannot otherwise face directly. T. S. Elliot once pointed out in "East Coker" that "human beings cannot stand very much reality." Perhaps they can stand the unreality of science fiction, Vonnegut seems to reason, and face a little bit more reality after reading a novel like Slaughterhouse-Five than they could before they read it. To enable himself and his readers to cope with the slaughter of innocents, Vonnegut reinvents Tralfamadore as a sort of looking grass extension of Earth. If we cannot be moved by Dresden, perhaps the awareness of what happened to the universe with the coldly logical madness of Tralfamadore may cause us at least to stop and think. (McNelly, p.93)

 ドレスデンとは、ヴォネガットが第二次世界大戦中にドイツ軍の捕虜になっていた街で、その時この街は連合軍によって大規模な無差別空襲を受けた。ドレスデンには、攻撃対象となるような工場も何もなかった上、ここに連合軍の捕虜が収容されていることも承知の上で、である。しかも戦後、ドレスデンの空襲のことは軍事機密としてひた隠しにされた。
 ヴォネガット自身は運良く助かったとは言うものの、この体験は作家としての後のヴォネガットに大きな影響を与えた。しかしながら、もし彼が自分の体験をそのまま書いたのなら、それは一つの社会的事件としてとらえられ、片付けられてしまうだろう。ヴォネガットは、社会的事件としてドレスデン無差別空爆を世に知らしめ糾弾したかったのではなく、個人の感情や意志などをまるで無視した形で大きな力が(それが政府であれ神であれ)個人を押し潰していくことについて、読者に「立ち止まって考える」気にさせたかった。そのために、ドレスデンを空爆した連合軍という具体は、一度SFの手法を借りて、トラルファマドールという抽象に置き換えられる。
 それに対して、アダムスは次のように書いている。

When you're a student or whatever, and you can't afford a car, or a plane fare, or even a train fare, all you can do is hope that someone will stop and pick you up.
At the moment we can't afford to go to other planets. We don't have the ship to take us there. There may be other people out there (I don't have any opinions about Life Out There, I just don't know) but it's nice to think that one could, even here and now, be whisked away just by hitchhiking. (Gaiman, p.2)

 『タイタンの妖女』も『銀河ヒッチハイク・ガイド』も、どちらも奇想天外でおよそあり得ない物語である。ただし、ヴォネガットの場合、あくまでそれは残酷な現実と正気で向き合うための手段であるのに対し、アダムスの方は、「宇宙船がないから宇宙旅行できない」という現実を軽々と吹き飛ばすためにある。
 ここで、ベイリーとアダムスを比較した前章の最後に残っていた問題、すなわち『銀河ヒッチハイク・ガイド』は現実逃避か否かについてもう一度考えてみたい。
 確かにアダムスは、ヴォネガットと違って、重い現実に真正面から組み合っている訳ではない。しかし、彼が書いているのは、現実から完全に離反した別世界でもない。地球に宇宙船がないという現実も、地球人の代表である主人公アーサーが全く無力であるという事実も、変えようとはしていないのだから。彼が変えようとしたのはただ一つ、「現実」に対する物の見方である。「宇宙船がないから宇宙旅行できない」のなら、「異星人の宇宙船にヒッチハイクすればいい」。「究極的に不可能」な機械は、それ故に「無限不可能性」を持つことができる。どんなに行き詰まった袋小路も、見方を変えるだけで突破口が見えてくる。
 アダムスはこう語る。

"I was surprised and delighted to find a lot of letters from people in the early days would say, 'I was terribly depressed and upset until I sat down and read your book. It's really shown me the way up again.' I wrote it to do this for myself, and it's seemed to have the same effect on a lot of people." (Gaiman, p.21)

 『銀河ヒッチハイク・ガイド』が単なる現実逃避であったなら、恐らく読者はこの中に「道」を見出すことはなかっただろう。


第4章 後期『銀河ヒッチハイク・ガイド』

 以上、三人のSF作家との比較を通じて、『銀河ヒッチハイク・ガイド』のSFとしての特徴を探ってきたが、冒頭でも述べた通り、『銀河ヒッチハイク・ガイド』と一口に言っても、初期のものと後期のものとではかなりの作風の変化が見られる。これまでは初期のもの(ラジオ・ドラマ版と小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』及び『宇宙の果てのレストラン』)に限定して論じてきたけれども、最後に後期のもの(小説『宇宙クリケット大戦争』、『さようなら、いままで魚をありがとう』、『ほとんど無害』)にも若干触れておこうと思う。
 ヴォネガットの『タイタンの妖女』との比較において、『銀河ヒッチハイク・ガイド』の特徴は1・性に関する事柄を含まない、2・因果関係や目的意識がない、3・現実に対する視点を変える、の三点を挙げた。しかし、後期の作品では、これらの特徴が次第に薄れていく。
 三冊目の小説『宇宙クリケット大戦争』は、不採用になった『ドクター・フー』用のストーリー・プロットを『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズに転用する形で書かれた。『ドクター・フー』と言えば、正義の味方でドクターと呼ばれる謎のエイリアンが、悪者を倒し、宇宙なり地球なり人類なりを破滅から救うというのが大筋であり、目的意識のかけらもない登場人物たちが何の因果関係もなく銀河をフラフラさまよっている『銀河ヒッチハイク・ガイド』とは、まさに水と油である。アダムス自身、積極的に宇宙を救おうと考える登場人物がこのシリーズにはいないことに頭を痛め、結局スラーティバートファストにお鉢をまわすものの、「それが彼自身の性格に当て嵌まっていたとはいえない」(Gaiman, p.98) と語っている。
 いずれにしろ、この『宇宙クリケット大戦争』には、前作品と比べてあまり2と3の要素は見られない。殊に2に関しては、登場人物が望む望まないにかかわらず、物語の展開上どうしても宇宙を救うという目的意識が存在してしまうのに加え、何度転生してもアーサーに殺されてしまう不運な生物アグラジャクの登場により、アーサーも因果関係の呪縛から逃れることができなくなる。こうなっては、アーサーの「まったくの偶然の一致なんだ」(p.167)との叫びも空しい。
 四冊目の『さようなら、いままで魚をありがとう』、五冊目の『ほとんど無害』に至っては、1から3の要素はほとんど失われる。もはや「エピソード風」ですらない。無目的なヒッチハイカーであったアーサーは、四冊目では破壊されなかったもう一つの地球で、「神の最後のメッセージ」を探すという目的意識を持ち、その地球で出会ったフェンチャーチと名乗る少女(「他人にやさしくするのはなんとすばらしいことでしょうと説いた罪で、ひとりの男が磔にされてから二千年ばかりたったある木曜日、リックマンズワースの小さな喫茶店」(『銀河』、p.6)で「これまで何がいけなかったのかに気づいた」(同、p.6)あの少女である)と恋に落ち、性的関係を持つ。さらに五冊目では、アーサーは父親になるのだ!(ただし母親はフェンチャーチではない。五冊目の小説に彼女は存在しない)
 このような変化を良しとするか悪しとするかについて判断を下すことは避けたいと思う。ただ、変化があることを認識するにとどめたい。
 最後に、この変化の一因を暗示しているかとも思われるアダムスの言葉を引用して、本論を締めくくることにする。

"I used to hitch a lot when I was a student and loved it. You can't take the slow boat to China anymore as people with wanderlust and no money used to do. So you hitch. Unfortunately it's something you can only do for real, you can't do it as an affection. I occasionally think it would be great to do some hitching again, but since I can afford to go by car or plane or whatever, it would not work. I'd feel completely fraud." (Locher, p.15)

 アダムスは「ヒッチハイカー」を卒業して、「おとな」になったのかもしれない。

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