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A・S・バイアット(1936.8.24-)

 イギリスの作家。クレア・キッソンの『『話の話』の話』について、2005年4月16日付のイギリスの新聞『ガーディアン』紙にて "Sweet Little Mystery" というタイトルで好意的な書評を発表した。この文章でバイアットは、『話の話』の中で建物の廊下の奥から白い光が溢れ出すシーンについて、我々が初めて目を開けた時に見た光の記憶ではないかと考察している("And I would suggest that the sudden flaring white light - at the end of the corridor, emanating from the poem-paper - is perhaps a recollection of the first light we see, opening our eyes for the first time, our first visual memory")。
 バイアットはヨーク州シェフィールド生まれ。ケンブリッジ大学で英文学を専攻、卒業後はアメリカのブランマー大学院、オックスフォード大学でも学んだ。1963年からはロンドン大学等で講師として英米文学の講義をし、1964年に最初の小説 The Shadow of the Sun を発表する。1990年には『抱擁』でブッカー賞を受賞。小説のみならず、英文学の研究者としてアイリス・マードックやワーズワース、コールリッジに関する研究書も出版し、1990年にはCEOを、1999年にはDBEを受けた。新聞や雑誌で書評を担当したり、文学賞の審査員や英国作家協会会長を務めたこともある。作家マーガレット・ドラブルは実妹。
 バイアットの主な著作は以下の通り(* は「フレデリカ四部作」と呼ばれ、2002年にBBCラジオ4でドラマ化された)。

The Shadow of the Sun (1964)
The Game (1967) 『ゲーム』 河出書房新社
The Virgin in the Garden (1978)*
Still Life (1985)*
Sugar and Other Stories (1987) 『シュガー』 白水社
Possession: a romance (1990) 『抱擁』 新潮社
Angels and Insects (1992)
The Matisse Stories (1993) 『マティス・ストーリーズ:残酷な愛の物語』 集英社
The Djinn in the Nightingale''s Eye: five fairy stories (1994) 短編集
Babel Tower (1996)*
Elementals: Stories of fire and ice (1998) 短編集
The Biographer's Tale (2000)
A Whistling Woman (2002)*
Little Black Book of Stories (2003)

 


アレクサンドル・ソクーロフ(1951.6.14-)

 映画監督。ノルシュテインとは個人的な親交も深い。
 イルクーツク生。軍人だった父について各地を転々とした後、1974年にゴーリキー大学で歴史を学び、1980年にモスクワの全ソ国立映画大学の監督コースに進んだ。レンフィルムで監督として映画の撮影を始めるものの、彼の作品は1987年までソビエト当局により公開禁止処分となっていた。
 ソクーロフが監督した映画『孤独な声』(1978年)について、ノルシュテインは次のように語った。「彼は目で見る以上に見ています。彼の目はまるで何か器具でも入っているかのようです(略)ソクーロフはこの驚くべき映画的描写力に恵まれているように見えます。ただ、これは完全に、彼の天性――映画――なのです。映画以外の何物でもありません。そしてこの面で彼はタルコフスキーに近いのです。彼は映画の官能性を克服し、それを即座に思考と感情のレヴェルに移すことができます。」(アルクス、p. 61)
 一方、ソクーロフはノルシュテインについてこう語る。「ノルシュテインの素晴らしい作品を見つめ感じて呟く〔神の世界――お前は素晴らしい!〕と。さらに素晴らしいのはこの人の魂とビロードのように柔らかい眼差し。彼の魂も、雪のように白いライカ犬のように柔らかく、とてもとても温かい。」(「ユーリ・ノルシュテインの仕事」、p. 66)また、映画『太陽』の撮影現場に二度ほど訪れて、「隠された高度なユーモア、日本とアメリカ合衆国にたいする心細かな取り組みなど、驚くべき作品になるだろう」との言葉を残して去ったとか。(映画『太陽』パンフレットより)
 現在、ソクーロフは四部作『モレク神』(ヒトラー)『牡牛座』(レーニン)『太陽』(昭和天皇)の最後を飾る映画『ファウスト』を製作中とのこと。この映画は、  

八億ユーロの予算と言われ、資金提供はロシア文化省、サンクト・ペテルブルクのマスコミ、ロシア発展財団などである。プーチン首相はソクーロフの資金支援依頼に快く応じたという。同首相はドレスデンで行われた大出版社やマスコミの編集長たちとの会合で「ロシアは石油や天然ガスだけではなく価値ある文化を世界に提供している…」(イズヴェスチヤ紙、二○○・○九・○九)と語り、質問を受ける前にソクーロフ監督を紹介し、「政治、経済、ビジネスにかかわりないヒューマンで興味深い仕事となるだろう」と《ファウスト》についても触れた。その報道をテレビで見たノルシュテインは大きな懸念を抱き「ソクーロフの作品の質に影響を与える結果になるのではないか、権力から支援を受けるのはよくない」と断言した。(児島宏子「ロシア映画―伝統と個性の重視」、p. 251)

 ノルシュテインの言葉が的中してしまうのか、それとも単なる杞憂で終わるのか? 映画『ファウスト』の完成が待たれるところだ。
 ソクーロフの主な監督作品は以下の通り。

『孤独な声』 (1978)
『マリア』 (1975/88)
『堕落した者』(1980)
『痛ましき無関心』(1983-87)
『帝国』(1987)
『日陽はしづかに発酵し…』 (1988)
『救い、保護せよ』(1989)
『セカンド・サークル』(1990)
『ストーン』 (1992)
『静かなる一頁』 (1993)
『ロシアン・エレジー』 (1993)
『精神の声』(1995)
『オリエンタル・エレジー』(1995)
『オリエンタル・エレジー・ロシアン・ヴァージョン』(1996)
『マザー、サン』 (1997)
『オリエンタル・ノスタルジー』(1997)
『モレク神』 (1999)
『ドルチェ 優しく』(1999)
『牡牛座』(2001)
『エルミタージュ幻想』(2002)
『ファーザー、サン』(2003)
『太陽』(2005)
『ロストロポーヴィチ 人生の祭典』(2006)
『チェチェンへ アレクサンドラの旅』(2007)


アレクサンドル・プーシキン (1799-1837)

 ロシアを代表する詩人・作家。
 ノルシュテインは、「プーシキン作品に親しんだことのない人はノーマルなロシア人とは言えない」とまで語る。また、『話の話』の「永遠」と呼ばれるシークエンスについて、「私はいままで読んだものを自然に思い出していた。そこからの印象が撚り合わさるかのように、そのエピソードは絡み合い互いに編み込まれていった。そこに絵画のイメージが混入した。私の記憶に残されたピカソやプーシキンの絵……ある時目にしたプーシキンの手稿から流れてきた光も」(『フラーニャと私』、p. 37)。
 また、2004年に未知谷から出版されたプーシキンの物語詩『金の魚』と『金の鶏』には、ノルシュテイン自らがロシア語の原文を朗読したCDが付いている。日本語訳はみやこうせいで、解説にはノルシュテインが朗読することになったいきさつも書かれている。
 プーシキンは、モスクワの貴族の家庭に生まれる。母方の祖父はエチオピア人で、ピョートル大帝に気に入られていた。当時のロシアでは、上流階級の師弟はロシア語ではなくフランス語で教育されるのが普通だが、彼を育てた乳母はプーシキンにロシア語とロシアの民話を語って聞かせていたという。1811年、貴族の師弟のために新設された学習院に入り、15歳の時、進級試験の場で朗読した『皇帝村の思い出』で早くも詩人としての天才ぶりを発揮した。卒業後は外務院に置きつつ、詩作と社交界での交遊に明け暮れるが、1820年には当時の専制政治を批判した詩を書いたことが理由で南ロシアに追放される。この時期、プーシキンはバイロンに憧れ、叙事詩『コーカサスの虜』『バフチサライの泉』等を執筆する。その一方、追放先での恋愛沙汰が原因となって1824年に母の領地であるミハイロフスコエ村に移るよう命じられた。デカブリストの乱で多くの友人が死刑になった翌年の1826年、追放を解かれモスクワに戻るも、その後のプーシキンには秘密警察がつきまとうようになっていた。1830年、ナタリア・ゴンチャローワと婚約、結婚祝いに父親から送られたボルヂノ村にて韻文小説『エヴゲーニー・オネーギン』(1823-31年)を完成させる。翌年ナタリアと結婚、プーシキンは美しいが軽薄な妻に苦しめられつつも叙事詩『青銅の騎士』や小説『スペードの女王』『大尉の娘』等を書き、1837年、妻に言い寄った貴族と決闘し、射殺された。


アレクサンドル・ペトロフ (1957.7.17- )

 アニメーション作家。ノルシュテインの教え子の一人でもある。
 ヤロスラーブリ州プレチストエ村生。映画大学3年生の時に『話の話』を観たのが、ノルシュテインとの最初の出会いだという(「この作品を見て、大変な衝撃を受けました。私の考え方、感じ方を360℃転回したのです。私はそれから1週間、この映画から自由になることができませんでした」――「世界と日本のアニメーション ベストオブベスト」案内チラシより)。とは言え、「ノルシュテイン式の切り絵アニメも試みたのですが、これは失敗でした。私には向かないし、この手法では、とても耐えられないとわかった」(小野耕世、p. 205)。
 油絵がそのまま動き出したように見える彼の作品は、ガラスペインティングと呼ばれる、ガラスの上に指で絵の具をのせて描くという手法で製作されたもの。デビュー作『雄牛』で広島国際アニメーションフェスティバルのグランプリを受賞した。その後、縁あってカナダに招かれ、カナダ・ロシア・日本の共同出資で製作された『老人と海』で、見事アカデミー賞短篇アニメーション賞を受賞するも、師匠・ノルシュテインの言葉はなかなか厳しい。

『雄牛』の彼は戸惑いながら、結果が予想できないままに作業していた。そこにはリリシズムとポエジーがあった。その後彼は、こうすればどういう画面になるか予想できて作品を作っている。『老人と海』もまさにそうだった。どういう効果になるか彼にはわかって作っている。そしておそらくその通りになったであろう。この次彼がどういう仕事をするか、注目されるところです (『シネマティズム』 第4号、p. 18)

 とは言え、アカデミー賞受賞がペトロフのアニメーターとしてのキャリアを一変させたことは間違いない。何せ、彼の故郷である「ヤロスラーブリ市で英雄として迎えられ、名誉市民になり、市は彼に十年間無償でスタジオを提供した。ヤロスラーブリ州は負けまいと、そのスタジオのガス、水道、電気代を十年間引き受けた」(児島宏子「ロシア映画―伝統と個性の重視」、p. 244)というのだから。
 ペトロフは現在もヤロスラーブリに暮らし、「自分のスタジオで若い人々の育成に励み、地元の美術学校で教鞭もとっている」とのこと(同、p. 245)。
 ペトロフの主な監督作品は以下の通り。

『雄牛』 (1990) 10分 アカデミー賞短篇アニメーション賞ノミネート

『おかしな人間の夢』 (1992) 20分 

原作はドストエフスキーの同名小説。

『水の精』 (1996) 10分

 原題の「ルサールカ」とは、若くして溺れて死んだ娘の妖怪のこと。この作品もまた、アカデミー賞短篇アニメーション賞にノミネートされた。

『老人と海』 (1999) 23分

 原作はヘミングウェイの同名小説。
 ペトロフにとっては初めての商業用アニメーションとなった本作で、彼はアカデミー賞短篇アニメーション賞を、3度目のノミネートにしてついに受賞することになった。ヘミングウェイ生誕100年を記念して、アイマックス・シアター用に製作されたもので、日本のイマジカ、NHKエンタープライズ21、電通テックも出資している。

『春のめざめ』 (2006)

広島国際アニメーションフェスティバル観客賞・国際審査員特別賞受賞。


アレクセイ・バターロフ (1928.11.20-)

 ロシアの俳優。「霧につつまれたハリネズミ」で、ナレーションを担当した。ノルシュテイン本人との親交も厚い。
 俳優一家に生まれ、モスクワ芸術座附属演劇学校を卒業する。モスクワ芸術座の舞台に立つかたわら、1954年からは映画にも出演するようになった。『外套』(1959年)や『賭博者』(1972年)といった映画では、監督を務めている。
 バターロフの主な出演映画は以下の通り。

『鶴は飛んでゆく』 (1957)
『子犬をつれた貴婦人』(1959)
『一年の九日』(1961)
『帰郷』 (1971)
『がんばれかめさん』 (1971)
『モスクワは涙を信じない』 (1979)


アンドレイ・タルコフスキー (1932.4.4-1986.12.28)

 映画監督。ノルシュテインとしては本意ではないようだが、タルコフスキーが監督した映画作品の類似性を指摘する声は多い。とりわけ、ノルシュテインの『話の話』は、過去と現在、夢と現実を混在させて語るその作風において、タルコフスキーの『鏡』に近いと言われる。
 ヴォルガ河畔のザヴラジエ生。父アルセニーは詩人。3歳の時に両親は離婚し、母のもとで教育を受ける。1954年、国立映画学校に入学、卒業製作として監督した『ローラーとバイオリン』でニューヨーク国際学生映画コンクールの1位に輝き、続く長編第一作『僕の村は戦場だった』ではヴェネチア国際映画祭グランプリを受賞する。しかし、続いて製作された『アンドレイ・ルブリョフ』がソビエト政府から「反国家的」とみなされたことにより、映画製作そのものにも支障をきたすようになった。1982年、ソビエトを出てイタリアで『ノスタルジア』を撮影し、ソビエト政府に対して外国滞在許可延長と家族の出国許可を申請するも黙殺され、1984年7月イタリア・ミラノにて亡命宣言をする。1986年、スウェーデンで撮影した『サクリファイス』でカンヌ映画祭審査員特別賞を受賞するも、同年12月28日パリで客死した。享年54歳。
 タルコフスキーの主な監督作品は以下の通り。

『ローラーとバイオリン』 (1960)
『僕の村は戦場だった』 (1962)
『アンドレイ・ルブリョフ』 (1967)
『惑星ソラリス』 (1972)

 原作はポーランドの作家、スタニスラフ・レムのSF小説『ソラリスの陽のもとに』。カンヌ映画祭審査員特別賞受賞。

『鏡』 (1975)
『ストーカー』 (1979) 

 原作はソビエトのSF作家、ストルガツキー兄弟の『路傍のピクニック』。「ゾーン」と呼ばれるエリアの中に、人の望みをかなえてくれる「部屋」がある。タイトルになっている「ストーカー」とは、「ゾーン」の案内人のこと。製作はソビエト当局の弾圧により、何度となく中断されたという。

『ノスタルジア』 (1983)
『サクリファイス』 (1986)


アンドレイ・フルジャノフスキー (1939.11.30-)

 ソビエトの人形アニメーション監督。ノルシュテインは、フルジャノフスキー監督作品にアニメーターとして参加したことがある。
 モスクワに生まれ、1962年に全ソ映画大学を卒業すると同時に連邦動画スタジオに入る。主に実験性、芸術性の高い大人向けのアニメーションを製作し、「詩的原理に基づいて構成された『グラスハープ』は、合理的理解を拒むシュールな映像の連鎖で、当局により上映が禁止された」(井上徹、p. 46)という。それでもフルジャノフスキーの独自性は損なわれることなく、その後も国際的にも評価の高い意欲作を発表し続けている。ノルシュテインも参加したプーシキン三部作は、プーシキンが肉筆原稿や手紙などに書き散らしたデッサンをアニメーションに仕立てたもので、評価は高い。
 主な監督作品は以下の通り。

『不思議な国のコジャヴィン』 (1966)
『軽妙なダンス』 (1970)
『ちょうちょ』 (1972)
『ジャックが作った家』 (1976) ザグレブ国際アニメ映画祭児童映画賞受賞
『王様のサンドウィッチ』 (1985)
『魔法のグラスハーモニカ』 (1986)
『私はあなたの思い出となって飛んでいく』(プーシキン三部作 第一部) (1977)
『私は再びあなたと共にいる』(プーシキン三部作 第二部) (1980)
『秋』(プーシキン三部作 第三部) (1981)


イワン・イワノフ=ワノ (1900-1987)

 ソビエト・アニメーションの創始者的存在で、ノルシュテインとは共同で「ケルジェネツの戦い」を監督している。
 モスクワ生まれ。1923年に、当時ロシア・アヴァンギャルドの拠点の一つであったヴフテマス(国立高等芸術技術工房)を卒業、翌1924年に国立映画技術学校(現・ロシア国立映画大学)に入学する。この学校の中に設置されたアニメ実験工房に参加し、『炎の中国』(1925)では美術担当を務めた。が、この実験工房は1年ほどで解散になったため、イワノフ=ワノは映画製作所で予告編用のアニメーションなどを手掛けながら、1927年に子供向けアニメーション『アフリカのセーニカ』『スケート』の製作に参加、児童アニメの監督の地歩を築く。1936年に設立された連邦動画スタジオに移り、スターリンによる大粛正、第二次世界大戦等の不遇の時代をくぐり抜けた後、2年もの歳月をかけてソビエト初の長編カラーアニメーション『せむしの仔馬』(1947)を製作する。ロシア伝統工芸の美術を巧みに取り込んだ美しい映像は一躍世界の注目を集め、カンヌ映画祭特別賞を受賞した。イワノフ=ワノは、1975年にこの映画を自らの手でリメイクしている。
 ノルシュテインいわく、「この人は、怒りから善良さまで、あらゆる矛盾を抱え込んだ本当のロシア人でした。とても太い杖を持っていて、上役が何かとても理不尽なことを言うと、その杖をばん!と床にたたきつけたんです。彼は、このように怒りに満ちた人でしたけれど、涙を流すほどセンチメンタルな人でもありました」(『シネマティズム』第4号、p. 25)。
 主な監督作品は以下の通り。

『ブラック・アンド・ホワイト』 (1932)
『皇帝ドゥランダイ』 (1934)
『せむしの仔馬』(改題・『イワンのこうま』) (1947)
『森は生きている』 (1956)
『金の鍵〜ブラチーノの冒険〜』 (1959)
『左利き』 (1964)
『四季』 (1969)
『ケルジェネツの戦い』 (1971)
『サルタン王物語』 (1984)


ヴァジーム・クルチェフスキー (1928-)

 ソビエトの人形アニメーション監督。ノルシュテインは、クルチェフスキー監督作品にアニメーターとして参加したことがある。
 1953年にレニングラード高等工芸学校を卒業し、人形製作や人形劇に携わった後、1957年に美術監督として連邦動画スタジオに入る。1961年には監督になり、1963年ニコライ・セレブリャコフと共に『勇敢になりたい』を製作した。ヒートルークの『フリードリヒ・エンゲルスの青春』にも共同監督として参加している。単独監督作品としては、ノルシュテインも参加した『愛しの青いワニ』(1966)や『ペールギュント物語』(1980)、『ドン・キホーテ』(1987)などがある。
 また、クルチェフスキーは1981年に来日したことがあり、その折にノルシュテインの『話の話』についてこう語っている。

 「あれはね、四○年代の戦時中に飢えた子どもであったノルシュテイン監督が、その頃を追憶して作った作品なんだ。オオカミというのは、ロシアでは常に飢えている動物というイメージがある。監督夫妻とカメラマンの三人だけで、準備に一年、撮影に二年かかっているよ。人によって受けとりかたはさまざまで、私にもわからない部分はあるけれど、すばらしい」(「最新ソ連アニメ事情 アニメーションは短歌に似ている」、p. 112)


ウラジミール・デクチャリョフ

 ソビエトのアニメーション監督。ノルシュテインは、デクチャリョフ監督作品にアニメーターとして参加したことがある。
 1953年、連邦動画スタジオに人形映画製作部が設置されたのを機にセルアニメーションから人形アニメーションに移り、1954年に人形アニメ『二匹のよくばり子ぐま』を監督した。他の監督作品に、『魔法の井戸』(1956)や、ノルシュテインも参加した『ニャオとないたのはだあれ』等がある。



エドゥアールド・ナザーロフ (1941- )

 ロシアを代表するアニメーション作家。ノルシュテインとは学生時代からの親しい友人でもある。「じつはユーリと私は、一二歳のとき、モスクワの子供のための美術学校で、同じクラスだったのさ。中学は別々になったけど、大人になってアニメ・スタジオに入ったら彼がいるじゃないか。」(小野耕世、p. 184)
 1941年モスクワ生。1959年に美術工芸学校を卒業し、連邦動画スタジオに入所、フョードル・ヒートルーク作品の美術監督・助手を務めた後、1975年『ひとりぼっちのカバ』で監督デビューを果たす。脚本・監督・美術に加えてナレーションまで自分でこなして製作した『犬が住んでいました』で、多くの映画賞を受賞、一躍世界に知られるアニメーション作家の一人となった。ユーモラスで暖かみのある作風が特徴で、ナザーロフ本人も「彼の描くキャラクターにどこか似て、決してオーバーでない、人の良さそうなそして知的な話し方をする」(『ソビエト・アニメーション2』、p. 4)とのこと。
 主な監督作品は以下の通り。

『ひとりぼっちのカバ』 (1975)
『お姫様と怪人』 (1977)
『猛獣狩り』 (1979)
『犬が住んでいました』 (1982) アヌシー国際アニメ映画祭審査員特別賞受賞
『アリの冒険』 (1983) ザグレブ国際アニメ映画祭児童部門グランプリ受賞
『シードロフ・ヴォーヴァに愛を込めて』 (1985)
『マルティンコの奇跡』 (1987) 上海国際アニメ映画祭審査員特別賞需要


川本喜八郎 (1925-2010.8.23)

 日本を代表する人形アニメーション監督。ノルシュテインとの親交も深く、ノルシュテインをはじめ世界のアニメーターが参加して製作された連句アニメーション『冬の日』の企画・監督を務めた。
 東京都に生まれ、旧制横浜高等工業学校(現横浜国大)建築科を卒業。1946年に東宝撮影所に入り美術助手の仕事をした後、1950年にはフリーの人形美術家に。1952年にイジー・トルンカの長編アニメーション『皇帝の鶯』『バヤヤ』を観て、人形アニメーションを志すようになった。1958年、CM製作会社シバ・プロダクションを設立、人形アニメのCMを製作する。1963年から1964年にかけて旧チェコスロヴァキアに渡り、イジー・トルンカに師事する。約2年の自費留学の後、「彼は最後に旧ソ連を回って帰国するのだが、モスクワの連邦動画製作所を見学してロマン・カチャーノフと意気投合している。川本のスナップに収められた40年前のカチャーノフはまさにボクサーの風貌、バーベルエクササイズで鍛えた手でギュッと握手されて川本は飛び上がった。その際、作業中のアニメーターたちをスナップした中に、なんと無名時代のユーリー・ノルシュテインが写っている!」(おかだえみこ、p. 219)
 帰国後は、芸術性の高い短編アニメーションを次々と発表、そのどれもが国内外の多くの賞を受賞しているが、日本国内ではNHKの人形劇『三国志』『平家物語』の人形製作者として広く知られている。1995年、勲四等旭日小綬章受章。現・日本アニメーション協会会長を務めたこともある。2010年8月23日、肺炎のため死去した。享年85歳。
 主な監督作品は以下の通り(ほとんどが短編だが、『蓮如とその母』と『死者の書』は長編である。また、* は人形アニメ以外の手法で製作された)。

『花折り』 (1968) ママイヤ国際アニメーション映画祭銀のペリカン賞受賞
『犬儒戯画』* (1970)
『鬼』 (1972) 毎日映画コンクール大藤賞/メルボルン映画祭特別賞他受賞
『旅』* (1973)
『詩人の生涯』* (1974) 毎日映画コンクール大藤賞他受賞
『道成寺』 (1976) 毎日映画コンクール大藤賞/メルボルン映画祭特別賞他受賞
『火宅』 (1979) メルボルン映画祭特別賞他受賞
『蓮如とその母』 (1981)
『不射の射』 (1988) 上海国際アニメーション映画祭審査員特別賞他受賞
『セルフ・ポートレート』* (1988)
『いばら姫またはねむり姫』 (1990) 毎日映画コンクール大藤賞他受賞
『冬の日』 (2003) 毎日映画コンクール大藤信郎賞他受賞
『死者の書』 (2006) 第17回ザグレブ国際アニメーション映画祭審査員特別栄誉賞受賞


クレア・キッソン 

 イギリスのアニメーション研究家。2005年、『『話の話』の話 アニメーターの旅 ユーリー・ノルシュテイン』(Yuri Norstein and Tale of Tales: An Animator's Journey)を出版した(序文はニック・パーク)。
 イギリスのテレビ局、チャンネル4で多くのアニメーションを製作した後、1999年に退職。同年、サリー・インスティテュート・オブ・アート・アンド・デザイン大学で研究職に就き、『『話の話』の話』を完成させた。なお、この本について、2005年4月16日付のイギリスの新聞『ガーディアン』紙で小説家のA・S・バイアットが好意的な書評を掲載している。
 キッソンがノルシュテインと初めて会ったのは1982年のことらしいが、ノルシュテイン作品の研究のためにロシア語をマスターしたという、その熱意と根気には頭が下がる。現在、世界各地で開催されるアニメーション・フェスティバルの審査員を務める他、British Animation: The Channel 4 Factor という本を準備中とのこと



ジャン・ヴィゴ (1905.4.26-1934.11.5)

 フランスの映画監督。パリ生まれ。敗血症のため29歳の若さで死去する。そのため、長編映画は『アタラント号』のみ、生前に彼が撮影した作品の時間数はすべてを合計しても3時間ほどの長さしかない。しかし、「『アタラント号』は映画史を勉強するために見るべき古典ではない。そんな骨董品とはわけがちがう。いま映画を発見しつつある人、いま映画を創造しつつある人が見るのにふさわしい映画の現在を呼吸するフィルムなのである」(中条省平、p. 208)。この映画を、2005年11月15日、ノルシュテインは東京・吉祥寺にある武蔵野公堂にて解読した。詳細についてはこちらへ
 ただ、ヴィゴ自身の存命中は作品の評価は決して高くなかった。『新学期 操行ゼロ』に至っては、この作品が持つアナーキスト精神が問題視され、フランスでは1945年まで上映が許されなかったほどである。ヴィゴという「早すぎた天才」を正しく評価できなかった反省も込めて、1951年に「ヴィゴ賞」が設立され、実験性の強い作品に賞が与えられることになった。主な受賞作は『夜と霧』(1955年)、『勝手にしやがれ』(1959年)、『ラ・ジュテ』(1962年)など。
 ヴィゴの監督作品は以下の通り。

『ニースについて』(1930)
『競泳選手ジャン・タリス』(1931)
『新学期 操行ゼロ』(1933)
『アタラント号』(1934)


セルゲイ・エイゼンシュテイン (1898.1.22-1948.2.11)

 映画監督。
 「私の芸術の基礎はすべてエイゼンシュテイン」とノルシュテインは語る。エイゼンシュテインの著作を読むことは「映画大学に入った以上の収穫」とも(「ユーリ・ノルシュテインの仕事」、p. 41)。そして、「『アレクサンドル・ネフスキー』を何度も詳細に見、ついにはカット割りを詳しく研究し、映像と音響の相関関係を学んだ」(「ロシア・アニメ館 (4) 『25日、最初の日』」、p. 84)らしい。
 また、1998年11月14日には、「エイゼンシュテインとアニメーション ノルシュテインによるイワン雷帝全分析」と題した講演会を東京・池袋で行っている。
 エイゼンシュテインは、帝政ロシア統治下にあったラトヴィアの首都リガに生まれた。建築技師だった父の跡を継ぐため、サンクトペテルスブルグの土木専門学校で学ぶが、1917年に起こったロシア革命で赤軍に身を投じ、文化工作員として演劇活動や宣伝美術の仕事をする。映画製作を始めるのきっかけは、舞台で使用するための劇中映画を撮ったことだった。1925年の長編第一作『ストライキ』と続く『戦艦ポチョムキン』で、若くして世界の映画史に名を残す映画監督となる。これらの映画でエイゼンシュテインが確立した「モンタージュ理論」(異なる複数の映像をつなぎ合わせることによって、別の意味を生み出す手法)は、現在では映画理論の基礎中の基礎としてあまりに有名。また、早くから日本の文字や漢字にも関心を持ち、歌舞伎のモスクワ公演を見るために映画のロケ地からはるばるモスクワに戻ったこともあったという。1928年からは国立映画技術学校(1938年から全ソ映画大学に改称)の教授に就任し、約20年間に亘って若い監督志望者たちの指導に当たった。
 1929年からソビエトを離れてヨーロッパ各地で講演を行い、1930年にはアメリカに渡ってドライザーの長編小説『アメリカの悲劇』の映画化を企画するも実現しなかった。メキシコで『メキシコ万歳』の撮影を始めるが、結局途中で帰国することになる。が、社会主義リアリズムを尊重するスターリン統治下のソビエトにおいて、エイゼンシュテインの映画企画はなかなか実現しなかった。遺作となる『イワン雷帝』の第二部は、スターリンの怒りを買い、共産党中央委員会の批判を受けて上映は禁止される。ようやく解禁されたのはエイゼンシュテインの死後10年、そしてスターリンの死後5年が経った1958年のことだった。
 エイゼンシュテインの主な監督作品は以下の通り。

『戦艦ポチョムキン』 (1925)
『ストライキ』 (1925)
『十月』 (1828)
『全線』 (1929)
『メキシコの嵐』 (1933)
『アレクサンドル・ネフスキー』 (1938)
『イワン雷帝』 (1944)
『メキシコ万歳』 (1979) 

 1930年から32年にかけてメキシコで撮影されたものの、未完のままネガがアメリカで保存されていたが、1972年にソビエトに返還され、当時の撮影スタッフの一人が資料を基に編集して完成させた。


セルゲイ・コズロフ (1939-)

 ロシアの児童文学者。ノルシュテインは、コズロフの原作を元に短編アニメーション「霧につつまれたハリネズミ」を製作した。
 モスクワ生まれ。1962年に最初の本『おひさまがこわれた』を出版、現在までに童話や詩集など30作以上を発表している。日本でも、『ふかい森のふたりはなかよし』『ハリネズミくんと森のともだち』等が翻訳されているが、とりわけ『ハリネズミくんと森のともだち』の12章「霧の中で」は、「霧につつまれたハリネズミ」の原形と思われる。
 原形である、と断定しないのは、『ハリネズミくんと森のともだち』の奥付をみるとこの本の原作が出版されたのが1987年となっているからだ。「霧につつまれたハリネズミ」が製作されたのは1975年なので、単純に考えると辻褄が合わない。ただ、実際に『ハリネズミくんと森のともだち』を読んでみると、ハリネズミや子グマやロバやウサギといった、コズロフ作品では定番とおぼしきキャラクターが登場する短編を集めて1冊にまとめたような趣もある(実際、日本でも『ハリネズミくんと森のともだち』の1章「やさしいゾウ」だけを抜き出して、『さむがり はりねずみ』というタイトルの絵本が出版されている)ため、「霧の中で」が実際に書かれたのは随分昔だが、1冊の本として他の作品とまとめて出版されたのが1987年だった、という可能性なら十分ある。勿論、推量の域を出ないけれど。
 ノルシュテインによると、「霧につつまれたハリネズミ」誕生のきっかけはコズロフ本人からの思い掛けない電話だったという。

そして、ある日――あらゆる話が“ある日”から始まる……。それは、『アオサギとツル』の仕事をしていた頃だ。とつぜん、ある人が電話してきて言った。「今日は! 私は児童文学者のセルゲイ・コズロフです。私はあなたの映画『キツネとウサギ』を見ました。それで、私の作品を、あなたにお持ちしたいのです」。彼は、4、50篇の作品を持ってきた。なぜだか分からないが私は掌編『霧の中のハリネズミ』を選んでいた。それはこの映画のために根本から作り変えられ、このお話とアニメーションはまったく異なるものになった。お話にあった多くの出来事はそのままだったが、哲学は別のものになった。完成した作品は監督台本とも違っていた。(『フラーニャと私』、pp. 183-184)



ターニャ・ウスヴァイスカヤ 

 『ノルシュテイン氏の優雅な生活』の著者。ノルシュテインからはその才能を「まるでモーツァルトのよう」と評される。
 レニングラード(現在のサンクトペテルスブルグ)生。薬科大学を卒業後、1991年、アニメ美術監督コースに入学、そこではノルシュテインをはじめ、多くのロシア・アニメーション界の巨匠たちが教鞭をとっていた。1995年にモスクワに移り、ノルシュテインの工房に入る。現在、NHKテレビ『ロシア語会話』にエッセイマンガを連載中。


ニコライ・ゴーゴリ (1809-1852)

 ロシアの作家。
 我々は皆ゴーゴリの『外套』から出てきた、というのはドストエフスキーの有名な言葉だが、ノルシュテインは1980年からこの『外套』のアニメーション製作に取り組んでいる。ノルシュテインいわく、「人々の心に『恥』というものの深い感覚を持って欲しいと願って作ったもの」(『ユーリ・ノルシュテインの仕事』、p. 70)であり、「その中に訓戒、掟、信条を含む『外套』は結局、人類への警告として、遺伝子の泉として残されなければならないだろう」(『フラーニャと私』、p. 121)とのこと。
 ゴーゴリは、ウクライナ生まれ。母国語はウクライナ語だが、ほとんどの作品はロシア語で書いている。1828年ペテルブルグに出て、下級官吏として働きつつ詩作に励む。翌年、物語詩『ガンツ・キューヘリガルテン』を自費出版するも酷評され、残部を回収して焼却した。俳優を目指したこともあったがこれもうまくいかず、いくつかの官職を転々とし、1931年に発表した『ディカニカ近郷夜話』でようやく文壇に認められる。その後、『鼻』などいくつかの短編小説を発表するかたわら、1936年に初演された風刺劇『検察官』で大成功を収めた。晩年はロシアを出てローマやウィーンで過ごすことが多くなり、『外套』もローマ滞在中の1840年に執筆された(発表は1842年)。1848年にロシアに戻り、『死せる魂』第二部の執筆を開始するが、聖職者に感化されて神秘主義的傾向が強まり、精神的に追いつめられた末、絶食状態で死去する。第二部の原稿の大半は、死に至る10日前にゴーゴリ自身の手で焼き捨てられた。


ニック・パーク (1958.12.6-)

 『ウォレスとグルミット』シリーズで世界的に有名な、イギリスのアニメーション監督。クレア・キッソン著『『話の話』の話』に、序文を寄せている。「『話の話』と、その前の作品『霧の中のハリネズミ』を一九八〇年代初頭、映画学科の学生だった頃に見て、たちどころに虜になった。多くの人々同様、私も即座に彼が創り出す豊かな聴覚的、視覚的光景の感覚世界にひきこまれた」(p. 1)
 一方、ノルシュテインの側でもニック・パーク作品を高く評価しているらしい。『世界と日本のベストアニメーション150』のアンケート調査で、ノルシュテインが選んだベスト20の中に彼の『ウォレスとグルミット ペンギンに気をつけろ!』が入っている。ノルシュテインいわく、「非常に高度なプロフェッショナリズムで娯楽性を表現できた作品。アニメーションそのものを完璧に自分のものにした」(p. 142)とのこと。
 パークの主な監督作品は以下の通り。

Creature Comforts (1989) 『快適な生活』
A Grand Day Out with Wallace and Gromit (1989) 『チーズ・ホリデー』
Wallace & Gromit in The Wrong Trousers (1993) 『ペンギンに気をつけろ!』
Wallace and Gromit in A Close Shave (1995) 『ウォレスとグルミット、危機一髪!』
Chicken Run (2000) 『チキンラン』
Wallace & Gromit's Cracking Contraptions (2002) 『ウォレスとグルミットのおすすめ生活』
Creature Comforts (2003) 『快適な生活 ぼくらはみんないきている』
Wallace & Gromit in The Curse of the Were-Rabbit (2005) 『ウォレスとグルミット 野菜畑で大ピンチ!』
Shaun the Sheep (2007) 『ひつじのショーン』

 2008年12月24日には、イギリスのBBC1で『ウォレスとグルミット』シリーズの最新作、Wallace and Gromit in 'A Matter of Loaf and Death' が放映された。日本では2009年7月18日より、『ウォレスとグルミット ベーカリー街の悪夢』の邦題でシリーズの他の短編と共に劇場公開される予定とのこと。



ビョーク(1965-)

 アイルランド出身のミュージシャン。ラース・フォン・トリアー監督の映画『ダンサー・イン・ザ・ダーク』でサウンドトラックを手がけると同時に主役を務め、2000年のカンヌ国際映画祭で主演女優賞を受賞したことでも知られる。
 そのビョークのソロ初アルバム『デビュー』に収録されている「ヒューマン・ビヘイヴィアー」のヴィデオ・クリップは、ノルシュテインの『霧につつまれたハリネズミ』をモチーフとしている。1998年に発売されたヴィデオ・クリップ集『ヴォリューメン』(日本版は1999年発売)の一曲目に入っているので、ノルシュテイン・ワールドがパンクでキッチュなビョーク・ワールドにアレンジされている様を、是非ご自分の目と耳でご確認いただきたい。

 ビョークのディスコグラフィーは以下の通り。

Debut (1993)  『デビュー』
Post (1995) 『ポスト』
Homogenic (1997) 『ホモジェニック』
Selmasongs (2000) 『セルマソングス』 映画『ダンサー・イン・ザ・ダーク』のサウンドトラック
Vespertine (2001) 『ヴェスパタイン』
Medulla (2004) 『メダラ』
Volta (2007) 『ヴォルタ』
Biophilia (2011) 『バイオフィリア』
Vulnicura (2015) 『ヴァルニキュラ』


フョードル・ヒートルーク (1917.5.1-)

 ソビエトのアニメーション監督。ノルシュテインは、ヒートルーク監督作品にアニメーターとして参加したことがある。
 トヴェリに生まれ、工芸専門学校等を卒業後、1937年から連邦動画スタジオに所属する。初監督作品『ある犯罪の話』は、これまでのソビエト・アニメーションとは一線を画したモダンな画風や演出で一躍注目を集め、サンフランシスコ国際映画祭金賞など多くの賞を受賞した。映画製作の過程のドタバタを描きつつ検閲制度を痛烈に皮肉った『フィルム、フィルム、フィルム!』や、孤島に取りのこされた男と、その男を一向に救おうとしない「現代文明」を風刺した『にぎやかな無人島』など、精力的に多くの作品を手掛けた。一方、ミルン原作の『くまのプーさん』のアニメ化『ヴィンニー・プーフ』シリーズといった作品もあり、こちらも高く評価されている。ヒートルークが1960年代以降のアニメーターに与えた影響は大きい。
 主な監督作品は以下の通り。

『ある犯罪の話』 (1962)
『トプトィシュカ』 (1964) ヴェネチア国際映画祭銅賞受賞
『ボニファツィの休暇』 (1965) ママイヤ国際アニメ映画祭金賞受賞
『フレームの中の男』 (1965)
『オセロー67』 (1967)
『フィルム、フィルム、フィルム!』(1968) ニューヨーク国際映画祭銀賞受賞
『ヴィンニー=プーフ』 (1969)
『フリードリヒ・エンゲルスの青春』 (1970) 
『ヴィンニー=プーフ、お客に行く』 (1971)
『ヴィンニー=プーフと大忙しの日』 (1972)
『にぎやかな無人島』 (1973) カンヌ国際映画祭短編部門グランプリ受賞
『イカルスと賢者』 (1976) ライプチヒ国際短編映画祭特別賞受賞
『君に星を贈ります』 (1979) カンヌ国際映画祭審査員特別賞受賞
『ライオンと雄牛』 (1983) タンペレ国際短編映画祭特別賞受賞


フランチェスカ・ヤルブーソヴァ (1942-)

 「狐と兎」(1973)以降のすべてのノルシュテイン監督作品で美術監督を務める。
 カザフスタン・アマルティで生まれ、モスクワで育つ。全ソ国立映画大学美術科を卒業、連邦動画撮影所に就職し、「ケルジェネツの戦い」(1971)に美術スタッフとして参加して、後から撮影所に入ったノルシュテインと知り合った。現在はノルシュテインの妻でもある。


ミシェル・ゴンドリー (1963.5.8-)

 フランス人映像作家。自身のバンドのヴィデオ・クリップとして製作した16mmアニメーション、「ラ・ヴィレ」を観たビョークに依頼され、彼女の「ヒューマン・ビヘイヴィアー」(1993年)を手掛ける。このヴィデオ・クリップは、実写とアニメーションを組み合わせて撮影され、イジー・トルンカやヤン・シュヴァンクマイエル、イジー・ヴァルダといったチェコの人形アニメーションを彷彿とさせる仕上がりになっているが、作品の土台はあくまでノルシュテインの『霧につつまれたハリネズミ』である。ともあれ、この作品はゴンドリーの名前を一躍世界に知らしめることとなった。
 その後、ローリング・ストーン、レニー・クラヴィッツ、レディオヘッドら多くのミュージシャンのヴィデオ・クリップを製作。ビョークとのコラボレーションも、「アーミー・オブ・ミー」「イゾベル」「バチェラット」「ハイバーバラッド」「ヨーガ」など数多い。
 また、彼が製作したリーバイスのコマーシャル・フィルムは、カンヌでのライオン・ドール賞を始めCF業界のあらゆる賞を独占、CFの最多賞受賞の世界記録としてギネスに認定されるという快挙を果たす。さらに2001年には、ゴンドリーが初めて監督した映画『ヒューマンネイチュア』が公開された。
 主な監督作品は以下の通り。(* は共同監督作品)

Human Nature (2001) 『ヒューマンネイチュア』
Eternal Sunshine of the Spotless Mind (2004) 『エターナル・サンシャイン』
The Science of Sleep (2005) 『恋愛睡眠のすすめ』
Block Party (2005) 『ブロック・パーティ』
Be Kind Rewind (2008) 『僕らのミライへ逆回転』
Tokyo! (2008)* 『TOKYO!』
The Green Hornet (2010) 『グリーン・ホーネット』
The We and the I (2012) 『ウィ・アンド・アイ』
L'ecume des jours (2013) 『ムード・インディゴ うたかたの日々』
Microbe et Gasoil (2015) 『グッバイ・サマー』


ミハイル・カメネツキー (1924-)

 ソビエトの人形アニメーション監督。ノルシュテインは、カメネツキー監督作品にアニメーターとして参加したことがある。
 1955年に連邦動画スタジオに入り、1969年から単独監督作品を発表。子供向けのコミカルな人形アニメ『船長とオウム』シリーズで人気を博す。代表作『オオカミと子牛』(1984)は、ザグレブ国際アニメ映画祭グランプリを受賞している。


みや こうせい (1937- )

 写真家・エッセイスト。バルカン半島、中でもルーマニアの民俗を中心に取材・研究し、写真集やエッセイを多く発表している。世界各地でも写真展を開催し、またイタリアで出版された写真集にはノルシュテインが序文を付けたとのこと。2006年11月には、写真集『ユーリー・ノルシュテイン』を上梓した。ノルシュテイン来日の際に通訳をされる児島宏子さんの伴侶でもある。
 主な著作は以下の通り(* は写真集)。

『羊の地平線』* 国書刊行会 1986年
『羊と樅の木の歌 ルーマニア農牧民の生活誌』 朝日新聞社 1988年
『西洋温泉事情』(池内紀共著) 鹿島出版会 1989年
『ルーマニアの小さな村から 素顔の生活誌』 日本放送出版協会 1990年
『ルーマニアの赤い薔薇』* 日本ヴオーグ社 1991年
『森のかなたのミューズたち ルーマニア音楽誌』 音楽之友社 1996年
『魔女と出会った たくさんのふしぎ傑作集』 (角野栄子共著) 福音館書店 1998年
『マラムレシュ ルーマニア山村のフォークロア』  未知谷 2000年
『ルーマニア賛歌』* 平凡社 2002年
『ルーマニア 人・酒・歌』 東京書籍 2003年
『メルヘン紀行』 未知谷 2005年
『アレクサンドル・ソクーロフ』* 未知谷 2006年
『ユーリー・ノルシュテイン』* 未知谷 2006年


リュドミーラ・ペトルシェフスカヤ (1938-)

 ロシアの作家。『話の話』の脚本をノルシュテインと共同で執筆した。
 クレア・キッソン著『『話の話』の話』によると、1967年に初めて出会って以来、ノルシュテインとペトルシェフスカヤは親しい友人関係にあったという。当時のソビエトでは、新作アニメーションの脚本は作家として組合に登録されている人間が書くことになっており、そういう意味で自分で脚本を担当することができなかったノルシュテインは、ペトルシェフスカヤがそれまでに書いた作品よりも本人の資質や人柄に期待して共同執筆を依頼したらしい。
 ペトルシェフスカヤは、ノルシュテインと話し合った後、まず制作許可承認のための提案書を書く。『『話の話』の話』にこの提案書の全文が収録されているので読むことができるが、かなり曖昧で抽象的だ。にもかかわらず制作は許可され、1976年夏、ペトルシェフスカヤは準備脚本を書き上げた。

 制作の上で、ペトルシェフスカヤの公的な役割はこれで終わりだ(彼女は絶えず、意見を述べ、励ますことになるのだが)。ノルシュテイン自身、準備稿とは全く違う撮影台本を書き、さらには撮影台本とは、ましてや準備稿とは、全く違う映画を撮影することとなる。それでもペトルシェフスカヤの貢献はきわめて重要だった。何よりも彼の小さなお話を整合的な形に纏めることができる形式を示した点で、“ゴミ”のような記憶で仕事ができるという確信をノルシュテインに与えたという点で。そして、何よりも、この謎めいた、それまで提出されたいかなるものとも似つかない、記憶を呼び起こすようなアニメーション台本と称するものを、きわめて疑い深いゴスキノの検閲官たちに認めさせるような形で提示したという点で(キッソン、pp. 100-101)。

 ペトルシェフスカヤはモスクワ生まれ。1961年にモスクワ大学を卒業し、ラジオ局やテレビ局で働きながら小説や戯曲を書き始め、1972年に最初の短編小説が活字になったが、1974年から1982年までの間は、ソビエト当局によって作品の発表を禁じられていた。1988年になって戯曲の上演が許可されると、作家としてのペトルシェフスカヤの評判は高まり、現在ではロシアでもっとも評価の高い作家の一人となっている。代表作『時は夜』(1991年)は日本語にも翻訳されているが、『話の話』とはまったく異なる作風の小説で、ロシアの文学者イワーノワいわく「読んだあとは首を吊って死にたくなる」(『時は夜』、p. 169)とのこと。が、『時は夜』のような「冷酷派」とも評される小説や戯曲だけでなく、子供向けの絵本等も発表している。

 


レオニード・アマリリク (1905-1997)

 ソビエトのアニメーション監督。ノルシュテインは、アマリリク監督作品にアニメーターとして参加したことがある。
 1928年に国立映画技術学校を卒業、メジラブポムフィルムでイワノフ=ワノと『ブラック・アンド・ホワイト』を制作。『皇帝ドゥランダイ』(1934)などのアニメーションでは美術の仕事をした。1936年には連邦動画スタジオに入り、『船乗りシンドバッド』(1944)では美術を担当する。また、『にぎやかな航海』(1937)では共同監督を務めた。代表作は、V・ポルコブニコフとの共同監督作である『灰色首の野鴨』(1948)。


レオニード・シュワルツマン (1920-)

 アニメーションの美術監督。
 1976年から81年の5年間にかけて製作された『38羽のオウム』シリーズで、シュワルツマンは第2部から美術監督を担当したが、第一部の美術監督だったのが他ならぬノルシュテインだった。シュワルツマンいわく、

シリーズの第一部の監督としてユーリ・ノルシュテイン氏がいたことはとても幸運でした。彼が第一部のスタイルを決め、キャラクターの演技について面白いアイディアをたくさん考え出してくれましたから。子ぞうとおさるのキャラクターはすぐにできましたが、オウムと大蛇はだいぶ骨を折りましたね。(略)オウムの場合、まず大きくて重たいくちばし、頭にとさか、それから赤い制服に金の刺繍、黄色い胸に大きくて派手な尻尾をつけると、それらしくなりましたね。撮影時、アニメーターのノルシュテイン氏がオウムを動かしてみると、ちょっと考えてから「尻尾は邪魔! とりましょう」と言い、気絶寸前のボヤルスキー・ヨシフ氏(パペットアニメーション協会の会長)を横目に、結局尻尾は外されたのでした。やがてオウムは人間のように2本足で歩き、羽で身振りをし始めるとリーダーのような風格が出てきて、これこそレーニンではないか! と私たちは思ったものです。(『チェブラーシカの生みの親 レオニード・シュワルツマン原画集』、p. 60)

 そんなシュワルツマンについて、ノルシュテインは「かれはすてきなジェントルマン」と口癖のように言っていたとか。(同、p. 3)
 シュワルツマンはベラルーシ・ミンスク生まれ。1935年にミンスクに出来た美術学校に入学し、1938年からはレニングラード芸術院付属中等美術学校で学ぶ。1941年に兵役に招集されたためミンスクに戻るも、役所のほうで彼の書類をなくしてしまった(!)という理由で戦役を逃れ、終戦まで工場で働いていた。戦後、国立映画大学に入学、アニメーション映画学科を選択、1948年には連邦動画スタジオのスタッフとなり、美術監督として多くの作品の製作に携わった。その中には、ロシア・アニメーションの傑作『雪の女王』をはじめ、カチャーノフの人気アニメーション・シリーズ、『チェブラーシカ』も含まれている。
 しかし、21世紀に入ってチェブラーシカの人気が日本とロシアで再燃したのをきっかけに、チェブラーシカのデザインを手掛けたシュワルツマンと、原作小説を書いたエドュアルド・ウスペンスキーとの間でチェブラーシカの著作権をめぐる争いも起こった。ウスペンスキーがシュワルツマンに無断でチェブラーシカをオリンピックのロシア応援団のマスコットにした時には、異議申し立ての公開書状を送ったとか。そして「その書状には、フョードル・ヒートルク、ユーリイ・ノルシュテイン、ガリー・バルディン、ニコライ・セレブリャコフ、エドゥアルド・ナザーロフといったロシア・アニメの歴史を担ってきた錚々たる作家たちの名前も連ねられて」(佐藤千登勢、p. 7)いたという。現在ではチェブラーシカの著作権問題にも一応の決着がついたようで、2007年頃からウスペンスキーと共にシュワルツマンの名前も「図像の権利」として載せられるようになったらしい。


レフ・アタマーノフ (1905.2.21-1981)

 ソビエトのアニメーション監督。代表作『雪の女王』(1957)は、ソビエト・アニメーションの最高傑作の一つとして、現在も高く評価されている。
 アタマーノフについて、ノルシュテインはこう語っている。「この人もまた、本当に才能があるだけでなく、信じられないくらい善良な人でした。そればかりか、『話の話』を救ってくれた人です」(『シネマティズム』 第4号、p. 26)。
 アタマーノフが『話の話』を救ったというのは、『話の話』の製作が予定されていた締切にはとても間に合わないと分かった時に、当時アニメーターの長だったアタマーノフが、この特殊な作品を完成させるためにはもっと時間が必要なのだというノルシュテインの言葉を受け入れ、スタジオ側と闘ってくれたことを指す。アタマーノフが口火を切り、イワノフ=ワノら名だたるアニメーターたちがノルシュテイン支持を表明したことにより、スタジオ側は不本意でも引き下がるしかなかった(Kitson, p. 95)。
 アタマーノフはモスクワ生まれ。1926年に国立映画技術学校(クレショフ工房)を卒業するが、実写映画よりアニメーションに興味を持つようになり、1931年に『通りを横切って』でアニメーション監督としてデビューする。1936年にはアルメニア共和国首都エレヴァンに移住し、アルメニア共和国初のアニメーション作品『犬と猫』(1938)を監督している。第二次世界大戦終了後の1940年代末には、再びモスクワに戻って連邦動画スタジオで働くようになり、1950年代には『黄金のかもしか』(1954)や『雪の女王』(1957)といった大作を手掛けた。が、1960年代後半からは作風を一変して、実験的な短編作品に積極的に取り組んでいる。また、晩年には児童向けのアニメーション『ワンという名前の子猫』で人気を得たが、第5話を製作中に死去した。このため、第5話は美術を担当していたレオニード・シュワルツマンが作家のグレゴリー・オステル氏と協力して1982年に完成させている。
 主な監督作品は以下の通り(* は、シュワルツマンが美術を担当した作品)。

『通りを横切って』 (1931)
『犬と猫』 (1938)
『魔法のじゅうたん』 (1948)
『黄金のかもしか』* (1954)
『雪の女王』* (1957)
『花束』 (1966)
『フェンス』 (1967)
『ベンチ』 (1967)
『サイクリスト』 (1968)
『船上のバレリーナ』 (1969)
『ワンという名前の子猫』第1話〜第4話* (1977-1980)


レフ・ミリチン (1920-)

 ソビエトのアニメーション監督。ノルシュテインは、ミリチン監督の『おばあさんの傘』(1969)にアニメーターとして参加したことがある。この時の経験で、「男の子が歩調をとって歩く動きをマスターした」(おかだえみこ、p. 128)という。
 日本で開催された≪ロシア・アニメ映画祭2000≫のシンポジウムでは、ノルシュテインはレフ・ミリチンの人となりについても語った。「列車の中で居眠りしているミリチンの眼鏡にみんなでいたずら描きしたのに(どうせ渦巻きか目玉の絵だろう)本人は一向に気づかず、道ですれ違う人がみな笑うのでふしぎがっていた」「画家としての手の運びの速さ、大きな手の中に隠れるような短い鉛筆で魔法のようにかわいいキュウリを描いてみせたスタジオ付属の美術学校での授業、また文学作品への傾倒と教養の高さは余人の及ぶところでなかった」(同、p. 129)のだとか。
 ミリチンは1938年にモスクワの全ソ映画大学に入学、連邦動画スタジオに入る。『せむしの仔馬』等で美術監督を務めるかたわら、モスフィルムで人形アニメ出身の映画監督アレクサンドル・プトゥシコの実写映画の美術も手掛けた。主な監督作は『おばあさんの子カピルカ』(1963)、『おばあさんの傘』(1969)、『丈夫な鉛の兵隊さん』(1970)など。


ロマン・カチャーノフ (1921-1983)

 ノルシュテインの師匠にあたるアニメーション作家。代表作『チェブラーシカ』シリーズで、ノルシュテインはわにのゲーナを担当したこともある(ちなみに、わにのゲーナの声を担当したのは、やはりアニメーション作家のガリ・バルディンだった)。
 カチャーノフについて、ノルシュテインはこう語る。

 ロマン・カチャーノフは私にとって、本当に素晴らしい監督そして人間として、いつまでも生き続けています。彼は、信じられないくらい喜びに満ちた人で、機知に富んでいました。
 ロマン・カチャーノフの監督としてのすぐれた点で未だに忘れられないのは、とてもディテールに気を配り、必ず細かいことに気がつくことです。なにか面白いことを思いつくと、私のところに来て話してくれるんです。そして、「良いことを思いついただろう」というので、「ううむ、思いつきましたねえ」と私が言うと、今度は皆のところに話しに行くんです。もう、とっても鷹揚で何でも差し出してしまう人。そして、人の嫉妬というものは受け付けなかった。何故かというと、嫉妬のしようがないほど、とても水準が高かったのです。 (『シネマティズム』 第4号、p. 24)

 雪が溶け出すと毎日道は泥んこになるのでオーバーシューズは欠かせません。ミリチンという人は不精で、ドロドロになったオーバーシューズをスタジオの入り口でぬいで仕事場に入り、帰りはまたそのままはいて帰る。毎日全然変わらない。するとある日カチャーノフがそっとその汚いオーバーシューズをとってきれいに洗い、『教えるなよ』と言いながらもとのところへ戻しました。そしたらミリチンは自分のものではないと思って、二、三日も探し回りました。(おかだえみこ、p. 129)

 カチャーノフは、1946年に連邦動画スタジオの監督コースに入り、1947年修了。イワン・イワノフ=ワノらのもとで美術監督を務めた後、アナトーリ・カラノーヴィチと共同製作の『老人と鶴』(1958年)で人形アニメーションの監督としてデビューした。アニメーションの世界に入る前に、ボクサーとして働いていたこともあったとか。
 主な監督作品は以下の通り。

『孫娘は迷子になった』 (1966)
『ミトン』 (1967) アヌシー国際アニメーション映画祭第1賞受賞
『チェブラーシカ こんにちわチェブラーシカ』 (1969)
『レター』 (1970)
『チェブラーシカ ピオネールに入りたい』 (1971)
『ママ』 (1972)
『オーロラ』 (1973)
『チェブラーシカ チェブラーシカと怪盗おばあさん』 (1974)
『チェブラーシカ 学校へ行く』 (1983)
『第三惑星の秘密』 (1983) 長編SF


ワレンチン・オリシェヴァング (1961- )

 『おやすみなさいこどもたち』の美術監督。
 スヴェルドロフスク生。1980年、スヴェルドロフスク美術学校を卒業、続いて1986年には全ソ国立映画大学美術学部を卒業した。在学中の1985年からスヴェルドロフスクの撮影所にて美術監督としての仕事を始める。1997年に短篇『ピンク・ドール』で監督デビュー。