<ロシア・アヴァンギャルドとは>
1910年から1930年ごろまでにかけて、ロシアでジャンルを超えて展開された芸術運動。20世紀に入って以来、ヨーロッパを中心とするさまざまな前衛芸術運動との関連で、ロシアにおいても新しい芸術を目ざす運動が起こり、1910年ごろ、イタリア未来主義の影響下に出発しながら、ロシア固有の芸術的土壌のなかで、既成の芸術に反逆する詩と芸術の運動がはじまった。(『はじめて学ぶロシア文学史』、p. 349)
アヴァンギャルドが第一のスローガンとしたのは「芸術に死を!」であった。このかけ声のもとで、貴族やブルジョワジーの手厚い庇護を受けた芸術のあらゆる約束事が標的となった。彼らを背後から支えていたのは、テクノロジーと物理学の分野でほぼ同時に進行しつつあった巨大な認識革命である。絵画をカンバスの十字架から引きずり下ろし、詩を意味不明なアルファベットの羅列に変え、舞台からフットライトの仕切りを取りはらい、音楽を調性や和声のヒエラルヒーから解き放つこと。二〇世紀の芸術はこうして、貴族やブルジョワジーの目や耳を楽しませるつかのまのセレモニーではなくなり、人類の営みにはじめて模倣という行為が現れて以来、もっとも意識的かつ批評的な芸術へと姿を変えたのである。(『ロシア・アヴァンギャルド』、pp.2-3)
ノルシュテインは、1968年に短編アニメーション「25日、最初の日」を製作するにあたって、ロシア革命と時を同じくして起こったもう一つの芸術上の革命、「ロシア・アヴァンギャルド」の作品を積極的に取り入れようと考えていた。ノルシュテインいわく、「この時代の絵画は信じられないほど映画的なのです。そこには圧縮された時間の形而上学が隠されています」(「ロシア・アニメ館 (4) 『25日、最初の日』」 『NHKテレビ ロシア語会話』 2001年10・11月号、p. 85)
ソビエト政府の検閲を受けて作品からカットされたものもあるが、以下、ノルシュテインが名前を挙げたロシア・アヴァンギャルドの芸術家達を列記する。
ウラジーミル・タトリン (1885-1953)
ロシア・アヴァンギャルドの芸術家。「素材の文化」の理念のもとに、構成主義の礎を築いた。代表作は『第三インターナショナル記念塔モデル』など。
ウラジーミル・マヤコフスキー (1893-1930)
詩人。ノルシュテインがアルカーディー・チューリンと共同製作した「25日、最初の日」のタイトルは、マヤコフスキーの叙事詩『ウラジーミル・イリイチ・レーニン』の一節から取られた。また、アニメーションに登場する資本家の戯画されたイラストも、マヤコフスキーの手によるもの。
グルジアの寒村に生まれる。少年時代から積極的に社会主義の政治活動を行い、何度も逮捕・投獄された。1911年にモスクワの美術学校に入学し、フレーブニコフらとロシア未来派を結成、絵画の理論に基づく視覚性の強い実験詩を書く。1917年の十月革命を「私の革命」と呼び、ロスタ通信社の美術部員として革命を宣伝するポスターを約3000枚も描くなど、プロパガンダ活動にも精を出した。しかし、スターリンの台頭の後は国家政治保安部の関係者に監視され、製作した作品も冷遇されるようになる。私生活でもモスクワ芸術座のヴェロニカ・ポロンスカヤとの恋愛関係に行き詰まり、1930年ピストル自殺した(現在では「自殺」ではなく「他殺」だったと見なす研究者もいる)。
エル・リシツキー (1890-1941)
画家。『プロウン』と呼ばれる独自のスプレマティズム世界を構築した。
カジミール・マレーヴィチ (1878-1935)
画家。絵画と現実世界の関係性を否定し、無対象絵画を目指すスプレマティズムの創始者。代表作は『黒い方形』。ロシア革命後は「アルヒテクトン」とよばれる空想建築にも関わった。
セルゲイ・チェホーニン (1878-1939)
画家。ノルシュテインの『25日、最初の日』に登場する、疾走する赤い集団の絵は、チェホーニンが『世界を揺るがした10日間』(アメリカ人ジャーナリストがロシア革命について書いたルポルタージュ)の表紙に描いたイラストから取られた。
ドミートリー・ショスタコーヴィッチ (1906-1975)
ロシアの作曲家。ノルシュテインの『25日、最初の日』に、交響曲第11番「1905年」と第12番「1917年」が採用されている。
この作品のドラマツルギーは、このショスタコーヴィッチの音楽に込められていました。ですから、この音楽が、必要なドラマツルギーのほうに、私達を押し上げてくれたのです。このショスタコーヴィッチのシンフォニーというのは、音楽という手段で当時の状況を浮き彫りにしており、私たちはこれに沿っていけば作品に到達できたのです。(『ユーリー・ノルシュテインの仕事』、p. 8)
ショスタコーヴィッチはポーランド系の技師の家庭に生まれる。子供の頃から天才ぶりを発揮し、13歳でペトログラード音楽院に入学した。1934年、『ムツェンスク群のマクベス夫人』が爆発的人気を呼ぶも、スターリンにより上演禁止となる。が、1937年に初演された交響曲第5番「革命」で名声を取り戻し、その後も多くの作品を発表した。なお、「25日、最初の日」で使用された交響曲第11番は1957年に、第12番は1961年に作曲されたものである。
ナタン・アリトマン (1889-1970)
画家。構成主義の画家で、ロシア革命後はイゾ彫刻部門長となり、街頭装飾に携わった。国立ユダヤ劇場の舞台美術も担当する。
「25日、最初の日」の製作のため、ノルシュテインはチューリンと共にレニングラードにあるアリトマンの自宅を訪ねた。アリトマンは密やかに私達を迎え入れてました。私達がこうした芸術作品を基盤にして革命を描こうとしている意向を、彼は理解出来なかったようです。アニメーションには関わっていない人でした。でも30分だけ会ってくれました。(『ユーリー・ノルシュテインの仕事』、p. 7)
パーヴェル・フィローノフ (1883-1942)
画家。
ノルシュテインは『25日、最初の日』のフィナーレで、フィローノフの絵画『街への賛歌』『革命の公式』を挿入しようと考えていたが、検閲により断念させられたという。
実際、当時のソビエト政権下ではフィローノフの作品は公開が禁止され、ロシア美術館の地下にしまいこまれていた。ノルシュテインがそれらをこっそり見ることができたのは、コフトンというロシア美術館の学芸員のおかげだった。今、私はこうやって落ち着いてフィローノフの名前を言っていますが、当時コフトンが「君達がこれを秘密にしてくれるんだったら、見せてあげるよ」といって約束させられてから、見せてくれたのです。
そこにはフィローノフの作品が15点あり、私達は生まれて初めて見たのです。コフトンがひとつの扉を指して、「あの向こうにはフィローノフの作品がもっとあって、それは私達学芸員も誰一人見たことはないんだ。扉を開けることは禁止されているんだ」といいました。(『ユーリー・ノルシュテインの仕事』、p. 7)フィローノフは分析主義の創始者で、機械的かつ強烈な感情表現をともなう独自の作風を築く。グロイスいわく、「あらゆる生けるものも死せるものをも全体としてとらえる唯一のエネルギー体系である世界というフィローノフのヴィジョンは、マレーヴィチの芸術に優るとも劣らぬほどラディカルであり、理路整然としている」(『ロシア・アヴァンギャルド』、p. 157)。
勿論、現在のロシア美術館にはフィローノフの絵画も展示されている。
ペトロフ=ヴォトキン (1878-1937)
画家。ノルシュテインの『25日、最初の日』に登場する、幼児を抱く女性の姿はヴォトキンの「1918年のペトログラード」(1920年)から取られた。
マルク・シャガール (1887-1985)
画家。
ノルシュテインは『25日、最初の日』のフィナーレで、シャガールの絵画『婚礼』の天使を登場させようと考えていたが、検閲により断念させられたという。
キュビズムと直観主義を融合した独自の絵画を創作。ロシア革命後、故郷の美術学校長を務めるも、後にこの学校に迎えられたマレーヴィチと合わず、1922年にパリに亡命した。
ユーリー・アンネンコフ (1889-1974)
画家。代表作は『冬宮襲撃』。1924年にパリに亡命した。