You and 42

 
 ダグラス・アダムスや『銀河ヒッチハイク・ガイド』のファン活動や研究活動をしている人たちのエッセイや論文を集めて、アダムスの生涯とその作品を網羅した本。2018年にWho Dares Publishing(『ドクター・フー』関係の本を出しているインディペンデントの出版社)から出版された。アダムスの公式伝記本を書いたジェム・ロバーツが序文を寄せている。

 


 
Table of Contents 

Preface: Learning to Fly What about love and happiness? I sense deep needs for things like that…
 by Jem Roberts

Guide Entry #42: Thursdays
 by Field Researcher Jay Rainha

 木曜日は銀河系全体でボロクソに言われている。この日が一貫して悪いということもないのに、木曜日をうまく乗り切れる人は非常に少ない。それは何故か――?
 アーサー・デントの「木曜日はいつもろくなことがないんだ」(安原訳『銀河ヒッチハイク・ガイド』、p. 34)というセリフに端を発して、ろくなことがないと言われる木曜日の謎に科学的に(?)迫ったミニエッセイ。

Foreword:'It's the interminability of Thursdays that I've always disliked.'
 by J.R. Southall
 お気に入り:『ドクター・フー』 'City of Death'

 「いつだって一番嫌いなのは、ダラダラと続く木曜日」と語る「私」は、ある晴れた木曜の朝、隣家の工事音で目が覚めた。そのまま起き出し、ドレッシングガウンを羽織って歯を磨き、街へと出かける。途中でプラスチックのカップに入った紅茶を買い、バスに乗り、主婦や学生でいっぱいのショッピングセンターへ。その場所で、「私」はカバンから慎重に小さな箱を取り出した。箱の蓋から「ナイジェル」が鼻先を突き出して、辺りの匂いを嗅いでいる。が、誰もまるで気づいていない。それどころかみんな、太陽の光が突然遮られたことに驚いて空を見上げている。「私」は「ナイジェル」の入っている箱を開けた。
 ヴォゴン人による地球破壊とほぼ同じタイミングで密かに行われていた、地球破壊工作についてのミニストーリー。

To Douglas…: A Letter of Thanks
 by Maxwell Beeman 
 お気に入り:ラジオドラマ版『銀河ヒッチハイク・ガイド』

 アメリカ・テキサス在住の若い男性が書いた、今は亡きダグラス・アダムスにあてたファン・レター。何をやっても親の期待に応えられず居場所が見つけられなかった彼は、『銀河ヒッチハイク・ガイド』を読んで世界の見方が変わり、その結果、「親が望んだ通りの人間かどうかではなく、自分本来のままでいいんだ」と思えるようになったという。


Fit the First:'Surely You Know It's Number Four!' (Early Comedy 1972-1977)
Guide Entry #9.6: Monday

 by Field Researcher Jay Rainha

 『銀河ヒッチハイク・ガイド』の「月曜日」という項目のフェイク記事。「月曜日と向き合う時に一番大切なことは……あわてるな」

Douglas Adams The Cambridge Connection
 by David James Haddock
 お気に入り:『これが見納め 絶滅危惧の生きものたち、最後の光景』

 ケンブリッジ在住の筆者が、ケンブリッジでダグラス・アダムスに関係する場所を徹底リサーチした記事。アダムスの両親がケンブリッジで出会った当時、母親のジェネットが看護師として働いていた病院も、アダムスが産まれた産院も、今では移転してしまったが、現在その場所がどうなっているかまで調べ上げている。また、大学生として戻ってきたケンブリッジでアダムスが下宿していた場所やフットライツの活動拠点、さらには1998年にケンブリッジ大学で行われた人工知能に関するカンファレンスでの講演についての言及もある。地元の研究者ならではの、濃い情報が満載だ。

Douglas Adams and Monty Python
 by James Gent
 お気に入り:『長く暗い魂のティータイム』

 筆者は、1987年に11歳で『銀河ヒッチハイク・ガイド』を読んで夢中になり、同じ頃、テレビで再放送された「空飛ぶモンティ・パイソン」を観て大ファンになった。が、当時は「何となく相通じるものがあるな」と薄々感じてはいたものの、両者に直接的なつながりがあるとまでは知らなかったという。学校に通うかたわらモンティ・パイソンの同人誌を手がけるようになり、図書館で関連書籍を漁っていて、初めてダグラス・アダムスが(ほんの一時期にせよ)「7人目のモンティ・パイソン」といってもいい立場だったことを知る。
 もっとも、アダムスが「空飛ぶモンティ・パイソン」最終シリーズに出演したのは瞬きすれば見逃すほどの短い時間であり、グレアム・チャップマンとの共同作業もほとんど日の目を見なかった。ボツになった企画の中でも、リンゴ・スターが出演する予定だった番組には後に『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズに登場するアイディアがいくつも含まれていて、今となって改めてその企画書を読んでみると非常に興味深いものがあるらしい。

Douglas Finds the Target:'The Kamikaze Sketch'from The Burkiss Way, March 1977
 by Stephen Hatcher
 お気に入り:ラジオドラマ『銀河ヒッチハイク・ガイド』第1シリーズ

 1977年3月2日、大学進学に向けてのAレベル試験の勉強に追われてご機嫌斜めだった18歳の筆者は、BBCラジオ4から流れてきたコメディに大爆笑した。それが、他でもない、「The Burkiss Way」というコメディ番組に登場した「The Kamikaze Sketch」。でも、このスケッチを引用したり説明したりしても、「自分も聴いたことがある」という人には出会えず、そのうち自分でも「すごいスケッチを聴いたことがあったんだけど、何だったっけ?」と思うほどに記憶が曖昧になってしまった。2001年、アダムスが急死し、その追悼プログラムがテレビやラジオで報道された時、初めてかつての自分があれほど笑った「The Kamikaze Sketch」がアダムスの作品だったと知ったという。


Fit the Second: 'Is There Any Tea On This Spaceship?' (1978-1980)
A Guide to The Guide

 by Ian Ham
 お気に入り:『これが見納め 絶滅危惧の生きものたち、最後の光景』

 『銀河ヒッチハイク・ガイド』を知っていますか、と質問したら、ある特定の世代の人なら1980年代のテレビドラマのことだと答えるだろうし、もっと若い世代なら映画のことだと答えるだろうし、SFマニアならもともとはラジオドラマとして始まってテキストアドベンチャーのゲームにもなったと答えるだろうし、読書好きなら全5冊(6冊という説もあるが、いや、やっぱり5冊)の三部作を挙げるだろう。どの答えも正しい。ダグラス・アダムスはラジオドラマにも映画にも小説にもコンピュータゲームにもテレビシリーズにも舞台にもオーディオブックスにもLPレコードにもコミックスにもタオルにも関わっていた。が、『銀河ヒッチハイク・ガイド』が新しいメディアに登場するたび、それ以前の作品と矛盾する内容が含まれていたため、人に説明するのが難しい。ざっくり言えば、主人公はごく平凡な紅茶好きのイギリス人で(アーサー・デント)、彼の親友は実はエイリアンで(フォード・プリーフェクト)、地球が破壊される直前にフォードはアーサーを助けて宇宙船にヒッチハイクし、いろいろな冒険が始まる、というもの。ほとんどの箇所が素晴らしくおかしくて、実現まで何年もかかるような先見性のあるアイディアがいっぱい詰まっている(例えばネットで繋がったモバイル機器とか)。
 もし『銀河ヒッチハイク・ガイド』なんて全く知らないという人に出会ったら、まずは全5冊の小説から薦めよう(ただし、アダムスが亡くなった後に彼の公式財団の正式許可の下で2009年に別の作家が出版した6冊目には絶対に手を出させないように)。5冊目を読み終わったと言われたら、次は1980年代のテレビドラマシリーズだ。当時の技術を考えればすごく頑張って作られた作品だが、ただしゼイフォードの二つ目の頭については言及してはいけない。
 テレビドラマシリーズを観終わったら、映画を薦めてみてもいいかもしれない。いろいろ改変されていておかしなトーンになっている箇所もあるけれど、よく出来ているところもあるし、何よりビル・ナイはまさに完璧。
 以上、簡単な『銀河ヒッチハイク・ガイド』へのガイドでした。あなたの親友にもご満足いただけますように。

'Something was moving quietly through the Ionosphere…'The Hitchhiker's Guide to the Galaxy Radio Series One
 by Stephen Hatcher
 お気に入り:ラジオドラマ『銀河ヒッチハイク・ガイド』

 ラジオドラマ『銀河ヒッチハイク・ガイド』第1シリーズが初めて放送された時、私はラジオのコメディとSFが大好きな19歳だった。つまり、『銀河ヒッチハイク・ガイド』の視聴者ターゲットそのものだった。にもかかわらず、初回放送を聴き逃してしまった。1977年9月、シェフィールド・シティ・ポリテクニックの1年生として勉強が忙しく、雑誌「ラジオ・タイムズ」を熟読しておもしろそうな番組をチェックする暇がなかったのだ。初回の放送時から『銀河ヒッチハイク・ガイド』が凄いらしいという噂は耳にしていたし、絶対に自分向きだと思ってもいたが、1978年の後半になってようやく何度目かの再放送で聴くことができた。予想通り、全てが自分の好みであり、かつ、こんな番組はこれまで聴いたことがなかった。
 『銀河ヒッチハイク・ガイド』が他のプログラムと違っていた点は、いくつもある。壮大なSFのコンセプトを用いた大胆なコメディであり、そういったものにもついてこられると視聴者を信頼すると同時に、主要登場人物にゼイフォード・ビーブルブロックスとかスラーティバートファーストといったバカ名前をつけるだけの勇気もあった。良い意味で、「バカになりきる」ことを辞さなかったのだ。そして何より、アダムスの言葉の使い方が素晴らしかった。どの文章も、最後にどう締めくくられるのか予想がつかないから、耳を傾けずにはいられない。
 最近になってまた聴き直してみると、改めていかに全6話のプロットがうまく編み上げられているかに感心した。第1話がアーサーの紹介とフォードとヴォゴン人と地球消滅と『銀河ヒッチハイク・ガイド』という本について、第2話が《黄金の心》号と無限不可能性ドライヴ、それにゼイフォード、トリリアン、うつ病ロボットマーヴィンの紹介、第3話が惑星マグラシアとスラーティバートファーストとハツカネズミ、第4話がディープ・ソートと42と地球誕生秘話、第5話が宇宙の果てのレストランと黒いスタント船、第6話がゴルガフリンチャムの箱舟船団と先史時代の地球。これだけのコンセプトに加え、一度聴いたら忘れられないジョークが大量に挿入されていて、アダムスほどの書き手でなかったなら、詰め込みすぎで訳のわからない作品になっていたにちがいない。でも、アダムスの手にかかれば、我々は何の苦もなく素晴らしいアイディアから次のアイディアへと首尾一貫した旅を続けることができる。示唆に富んだSFであると同時に、最高に愉快なコメディでもある。
 勿論、素晴らしいキャストたちのことも忘れてはならない。アダムスが念頭において書いただけあって、アーサー役のサイモン・ジョーンズはぴったりだし、ゼイフォード役のマーク・ウィング=デイヴィやマーヴィン役のスティーヴン・ムーア、ガイド役のピーター・ジョーンズも素晴らしい。フォードとトリリアンに関しては、テレビドラマでこの役を務めた二人も良かったけれど、私としてはやはり最初のラジオドラマのキャストだったジェフリー・マッギヴァーンスーザン・シェリダンを推す。
 初めてラジオドラマ『銀河ヒッチハイク・ガイド』が放送されてから、アダムスは小説やテレビドラマなどさまざまな『銀河ヒッチハイク・ガイド』を手がけ、そのたびにさまざまな改変や微調整を行った。『銀河ヒッチハイク・ガイド』のファンならそれぞれに好きなヴァージョンがあると思うが、私は最初のラジオドラマが一番好きだ。そのことは、この先どんなヴァージョンが出てこようと、私の中で変わることはないだろう。

Sharing and Enjoying: The Hitchhiker's Guide to the Galaxy Radio Series Two
 by Stephen Hatcher
 お気に入り:ラジオドラマ『銀河ヒッチハイク・ガイド』

 1978年になってようやくラジオドラマ『銀河ヒッチハイク・ガイド』第1シリーズを聴いて大好きになったものの、その先は国外で勉強したり結婚したりしていたため、その後製作された第2シリーズについてはその存在すら長らく知らないままだった。1983年の再放送でようやくそのことに気づいたが、残念ながら第2シリーズは第1シリーズほど画期的でもなければオリジナリティ溢れるものでもなかった。
 ただし、アダムスは、「同じネタの焼き回しをしている」と批判されることが多いけれど、少なくともラジオドラマ第2シリーズについてはこの批判は当たらない。結果として混乱してまとまらないまま終わってしまったにせよ、新しいことに手を伸ばそうとはしている。『ガイド』の編集長ザーニウープ、総合認識渦動化装置、靴の事象の地平線、そして現存するもっとも下品な言葉が「ベルギー」であることも知った。第2シリーズのラストでは小屋の老人だか宇宙の支配者だかが登場し、第1シリーズからこれまでに起こったすべての出来事は、実際の宇宙ではなく、ザーニウープのオフィスで人工的に作られた宇宙で起こったにすぎないと明かされるが、このプロットは他の『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズでは採用されていない。そういうこともあって、アイディアのうちのいくつかは小説『宇宙の果てのレストラン』に取り込まれるものの、全体としてラジオドラマ第2シリーズは「なかったもの」扱いされているし、そうなる理由もわかる。実際、率直に言って第2シリーズは混沌そのものだ。ただし、創意工夫の金塊がゴロゴロしている混沌だけど。

A Glimpse into the World of Adults: The Restaurant at the End of the Universe (second radio series)
 by Michael Seely
 お気に入り:ラジオドラマ『銀河ヒッチハイク・ガイド』第2シリーズ

 年の離れた兄の影響で子供の頃に『銀河ヒッチハイク・ガイド』に触れる機会はあったけれど、もっともインパクトがあったのは、1983年にラジオドラマ『銀河ヒッチハイク・ガイド』第2シリーズをこれまでになくクリアな録音で聴いた時のことだった。それだけに、小説『宇宙の果てのレストラン』がラジオドラマ第2シリーズと異なっていたのが残念だったという。それまで本と言えば『ドクター・フー』のノベライズばかり読んでいたので、ドラマと本の内容が違うこともあるとは思わなかったのだ。ちなみに、『ドクター・フー』のノベライズには渋い顔をしていた学校教師も、ダグラス・アダムスの本には好意的だったそうな。

Excitement, Adventure and Lots of Hitchhiker Things: The Original Novel and other Douglas Adams Merchandise
 by John Chanaud
 お気に入り:テレビドラマ『銀河ヒッチハイク・ガイド』

 8学年の時、退屈な歴史の授業中に隣の席の生徒がこっそり『銀河ヒッチハイク・ガイド』のペーパーバックを読んでいるのが目に入った。ラジオドラマは大好きだったけれど本が出ているとは知らなかった。

 帰宅後、電話帳で近くの書店の電話番号を調べ、片っ端から問い合わせてみた。1981年当時、まだインターネットなるものはなかったからである。幸い、一軒の書店で在庫があると確認できたので取り置きをお願いした。家の近所の書店ではなかっため、母親に車で連れて行ってくれるようお願いしなくてはならなかったが、実際の本(アメリカ版のハードカバー)を手にした時の喜びたるや! その本の裏表紙に載っていた写真で、私は初めてダグラス・アダムスの顔を知った。

 以来、『銀河ヒッチハイク・ガイド』関連グッズが買い集めるのが私の習慣になった。が、ある日、書店でスティーヴン・ムーア朗読の『銀河ヒッチハイク・ガイド』のカセットテープを見つけた時、一緒にいた友人も絶対に買うだろうと思ったら、「よくよく知っている小説の朗読テープなんかどうして買うの?」と言われてショックを受けた。『銀河ヒッチハイク・ガイド』のファンなら、『銀河ヒッチハイク・ガイド』関連の何かを見つけたら即買いするのが当たり前だと思っていたけれど、自分以外の人はそういう風に考えないのか。一度本を読めば、それで気が済むのか。そりゃ、人それぞれだということは頭ではわかっているけれど、どうにも納得できない。何か間違っている――自分ではなく、自分以外の人たちが。

 その後も、私は『銀河ヒッチハイク・ガイド』関連グッズを買い続けた。テレビドラマのビデオテープがイギリスのPAL対応のものしかないとわかった時は、テレビ放送時に自分で録画したテープを持っていたにもかかわらず、『銀河ヒッチハイク・ガイド』を観るためだけにアダプターを購入しようかと検討したりもしたが、幸いなことに数週間後、PALからNTSCにコンバートしたテープを販売している店が家から車で45分の距離にあることを知った。ロンドンに旅行した時も、ビッグベンやバッキンガム宮殿には目をくれず、マークス・アンド・スペンサーでタオルを買った。ドイツ人の友人ができると、ドイツでしか売っていない『銀河ヒッチハイク・ガイド』のドイツ語訳の本やDVDを送ってもらった。e-BayやAmazon.co.ukも利用するようになって、コレクションはどんどん増えていった。

 そしてある日、自分でも『銀河ヒッチハイク・ガイド』のオリジナル小説を書こうと思い立った。その矢先、オーエン・コルファーが公式な『銀河ヒッチハイク・ガイド』の続編を書くことをインターネットで知った。こうなったら、自分とコルファー、どちらが先に続編を書き上げるかの勝負だ、と、私はきっかり二ヶ月で小説を書き上げ「FontBookfarthing」のペンネームでオンライン投稿したところ、かなり好意的な評をもらうことができた。

 それから約1年後、コルファーも自分の小説を書き上げて新作ツアーで私が住むLAにもやってきた。それも、何と私の42歳の誕生日に、自宅から車に乗ってハイウェイの42番の出口を出て、乗車時間ちょうど42分の距離にある書店で。

 トーク会のコルファーは、本気モードの『銀河ヒッチハイク・ガイド』ファンたちの前で、自分が続編を書いたことを恐縮している様子だったが、私自身は『銀河ヒッチハイク・ガイド』の続編は大歓迎だ。コルファーの続編小説や、ガース・ジェニングスの映画や、ダーク・マッグスのラジオドラマなどによって、『銀河ヒッチハイク・ガイド』の新たな歴史が続いていくことに感謝している。

Infinite Improbability and Some Information to Help You Live in it: A Personal Appreciation of the Original The Hitchhiker's Guide to the Galaxy Vinyl Albums
 by Graham Evans
 お気に入り:ありとあらゆるヴァージョンの『銀河ヒッチハイク・ガイド』

 もしエイリアンの宇宙船が地球にやってきて、互いにいがみ合ってばかりいる人間たちのダメさ加減を知り、これ以上人間たちが地球の他の生き物たちに危害を与える前に人間たちを滅ぼそうとしたら、そんなエイリアンに向かってこんな人間たちにも少しはいいところがあるんですと訴えるには、レコード版『銀河ヒッチハイク・ガイド』と『宇宙の果てのレストラン』を差し出すのが一番だと私は思う。エイリアンがちょっとでも興味をそそられたら、『銀河ヒッチハイク・ガイド』との最初の出会いはレコードではなく、1979年のある木曜日、レディングの書店で見つけた小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』だったと言おう。映画館にアニメ『ウォーターシップ・ダウンのうさぎたち』を友達と観に行って、上映までに時間があったから映画館の向かいの書店に入ったところ、ペーパーバックの表紙につられて即買いしたのだと。

 当時の自分は11歳で、「有名なラジオドラマのノベライズ」と言われても全く知らなかったし、ヒッチハイク旅行に憧れこともなかったけれど、それでも『銀河ヒッチハイク・ガイド』というタイトルには惹きつけられるものがあって、映画館で映画が始まるまでの時間に友達と適当にページをめくって読んでみたら、どのページもすごくおもしろくて二人揃って完全に気持ちをもっていかれてしまい、肝心の映画どころではなくなってしまった――後に『ウォーターシップ・ダウンのうさぎたち』を観直してみたら、とてもよくできた作品だったのだけれど。それに考えてみれば、『銀河ヒッチハイク・ガイド』のアーサーと『ウォーターシップ・ダウンのうさぎたち』のうさぎたちは、ある日突然ブルトーザーで家を壊されるという災難に見舞われる点で共通している。ただし、ヒッチハイクできないうさぎたちの世界が残酷で陰鬱なのに対し、ヒッチハイクできるアーサーはひどい目に遭っても軽々と宇宙を渡っていける分だけ救いがある。

 本書に寄稿している人ならみんな同意してくれるだろうが、『銀河ヒッチハイク・ガイド』を読んでいると、まるで自分のこと、あるいは自分たちのことのように思えてならない。かつてジョン・クリーズが「自分以外の誰かがバナナの皮で滑って転ぶのを見て笑うのは、ああ自分じゃなくて良かったとほっとするからだ」と言っていたけれど、本当にそうだろうか。「空飛ぶモンティ・パイソン」だって必ずしもそうじゃなかったし、『銀河ヒッチハイク・ガイド』に至っては全然違う。『銀河ヒッチハイク・ガイド』は、これ以上ないくらい大きな問題、生命や宇宙の究極の答えを取り上げているけれど、的外れな哲学者や預言者や政治家もすべて取り込んだ上で、不条理を丸ごとを受け入れて楽しんでいる。小さな元素からなるミクロの世界も、ほとんど何もない宇宙空間が広がるだけのマクロの世界も、どちらも不条理であり、その二つの間に生きる人間たちはそこに何とかもっともらしい意味や理屈をもたせようとするけれど、それよりこの不条理そのものを受け入れるほうが、この世界はずっと平和で幸せなものになるんじゃないだろうか。

 アダムスはさまざまなヴァージョンの『銀河ヒッチハイク・ガイド』を生み出し、どのヴァージョンの『銀河ヒッチハイク・ガイド』が一番好きかは人それぞれだが、私に言わせればオリジナル・レコードから出たLPレコードがベストである。最初に買ったペーパーバックの最後のページに、レコードの購入申し込み用紙が印刷されていて、買いたい人はそれを切り抜いて郵送することになっていた。届いたレコードを初めて聴いた時の感動ときたら。『銀河ヒッチハイク・ガイド』のペーパーバックは既に私のベスト本になっていたが、『銀河ヒッチハイク・ガイド』のLPは直ちに私のベストレコードになった(が、印象的なテーマ曲「魔術師の旅(Journey of the Sorcerer)」がイーグルスの曲だと知ったのは数年後だった。イマドキの若者には想像もつかないだろうが、当時はインターネットというものがなかったのだ)。

 『銀河ヒッチハイク・ガイド』の最初のペーパーバックと2枚のアルバムのレコード・ジャケットを手がけたのは、ヒプノシスとイアン・ライトだった。1960年代から70年代にかけて、レッド・ツェッペリンやピンク・フロイドなどのレコードジャケットをデザインしていたヒプノシスに依頼したいとアダムスが考えたのは、自然な流れだったろう。現在までいろいろな装丁の『銀河ヒッチハイク・ガイド』が出版されているが、最初のものに勝るデザインはないと私は思う。

 実際のレコードを持っていない人にのために、トラックリストを紹介する。

The Hitchhiker's Guide to the Galaxy

SIDE ONE
‘Journey of the Sorcerer’
‘The Guide Speaks’
‘None at All’
‘Gargleblaster Sonata’
‘I Don't Like Thursday’
‘Vogon Constructor Fleets’
‘The Babel Fish’
‘Micturations of a Vogon’

SIDE TWO
‘A Short History of the Earth’
‘The Big One’
‘Uneasy By The Sea’
‘Heart of Gold’
‘Infinite Probable’
‘Song of the Mindless Jerks’
‘Waveband On The Run’

SIDE THREE
‘Yore Kind of Music’
‘Consolation No. 1’
‘Out To Lunch’
‘Consolation No. 2’
‘Whale Song No. 1’
‘Whale Song No. 2’
‘Pink Planet’
‘Biro Gyro’
‘Double Sunset’
‘The Dolphin’s Farewell’
‘The Factory Floor’

SIDE FOUR ZZ9 Plural Z Alpha
‘The Earth’
‘Tell Us Why’
‘Aubade’
‘The Answer’
‘The Messiah’
‘Is There A Lifestyle After Death?’
‘Arms of the Law’
‘Journey's End (Journey of the Sorcerer)’

 第1作目のレコードが大ヒットしたことを受けて、ラジオドラマ第5・6話目を基に2作目のレコードが製作された。M・J・シンプソンは Pocket Essentials Guide to the Hitchhiker's Guide(素晴らしい本なので、まだ持っていない人はアマゾンでもe-Bayでもいいから探し出して手に入れるように)の中で「2作目は1作目ほど出来が良くないし、長すぎる」と書いていたけれど、私はこれには異を唱えたい。確かに「長すぎる」には反論できないけれど、1作目より出来の良い箇所はいくつもあるからだ。

 2作目のトラックリストは、こちら。

The Restaurant At The End of The Universe

SIDE ONE
‘Journey of the Sorcerer’
‘The Story So Far’
‘Breakfast At Milliways’
‘Disaster Area’
‘Reg Nullify in Concert’
‘Apocalypse When?’
‘Big Black Cars’
‘How Are We For Time?’
‘Ins And Outs of the Universe’

SIDE TWO
‘Is There Life After Lunch?’
‘Empty Vessels’
‘"B" Ark up the Wrong Tree’
‘Poetic Circles’
‘Origin of the Species’

 このレコードのラストで、宇宙規模のドタバタ劇は最高のエンディングを迎える。この物語は、バナナの皮に滑って転んだ一人の不幸な男の話ではなく、そんな男を指差して笑っていた我々みんなの話だったのだ。なぜなら我々は全員、ゴルガフリンチャム箱舟団のB船の乗組員なのだから。『銀河ヒッチハイク・ガイド』の何が素晴らしいって、全く新しいものの見方を我々に与えてくれたことであり、だからこそ私はエイリアンが地球に攻め込んできた暁には『銀河ヒッチハイク・ガイド』のレコードを差し出すつもりなのだ。「試しにちょっと聴いてみてよ、そうすればすぐにこの世界はあなたが思うほど悪い場所ではないと分かるって」

 最後に私の大好きなアダムスの言葉を紹介する。「未来を素敵なものにするための唯一確かな方法は、楽観的になることだ。明るくて楽観的な確たる未来像を抱いているほうが、何か明るくて楽観的で確たる価値のあるものをもたらしてくれると思うから」

 そして、あわてるな!

 『銀河ヒッチハイク・ガイド』のレコードは我々みんなを救ってくれたのだから、きっとエイリアンだって気に入るはずだ。最初はどんなに無限不可能に聞こえたとしても。

Douglas Adams' Doctor Who Masterpiece 'City of Death', which Combines Multiple Mona Lisas, the Origins of the Universe, Conjuring Tricks with Chickens, and the Value of a Solid Punch into Four Action Packed and Witty Episodes
 by Annie Worrall
 お気に入り:'City of Death'

 1979年当時、土曜日は決まって夫と一緒に『ドクター・フー』を観ていた。私はトム・ベイカー扮するドクターの大ファンだったが、夫は少し前のコンパニオン、リーラのことがお気に入りで、当時のコンパニオン、ロマーナにはあまり思い入れがなかった。それでも私と一緒にソファに座って『ドクター・フー』を観てくれたのは、多分私に気を遣ってのことだっただろう。

 'City of Death' のエピソードでジョン・クリーズとエレノア・ブロンが登場した時のことは、今でもはっきりと憶えている。何て頭のいいシーンだろうと感心した。でも、多くの批評家が「アホらしい」と評しているようだから、単に私がのせられやすいだけなのかもしれない。

 私は前に友人とパリを訪れたことがあったが、このエピソードを観て今度は夫と一緒にロマンチックなパリ旅行をしたいものだと思った。4月の優しい雨の中、夫と手を繋いでパリの通りを散歩して、エッフェル塔の下でキスするのだ。確かにその後パリを訪れる機会はあったけれど、修学旅行の引率というロマンチックの欠片もない代物だった。

 あれから長い年月が経ち、'City of Death' を何度も観直しているうちに私の感想は変わっていった。ドクターとロマーナは上から目線で語っているような気がして、むしろ失敗ばかりのダッガンに心惹かれるようになった。多分、私が二人の子供を養子に迎えたことも関係していると思う。完璧に有能な母親でなくても、自分なりに精一杯努力してあきらめない。私はこれを「ダッガンをやる」と呼ぶ。ダグラス・アダムスにその意図があったかどうかは分からないけれど、私にはダッガンこそ、ご立派な方々が支配するこの世界で訳も分からないまま足掻いている我ら負け犬の代表のように思える。一つ目のモンスターが私の愛するものを破壊しようと襲ってきた暁には、願わくばダッガンに倣ってパンチをお見舞いしてやりたいものだ。

How Douglas Adams Made Me Stop Watching Doctor Who, or, How I Acquired A Sense Of Humour: Doctor Who,'The Pirate Planet', & The Hitchhiker's Guide to the Galaxy 1979 novelisation
 by Jonathon Lyttle
 お気に入り:'City of Death'

 子供の頃から『ドクター・フー』が大好きで毎週欠かさず観ていた。が、11歳の時に放送された 'The Pirate Planet' の第1話目のあまりのバカバカしさに、初めて「観るのをやめよう」と思った。次のエピソード 'The Stones of Blood' が始まったらまた観始めたけれど、それでも自分が大好きなテレビ番組を「バカバカしすぎる」という理由で観るのを止めようとした事実には動揺を禁じ得なかった。

 その後、アダムスが 'The Pirate Planet' の脚本を書いたことを知らないまま、小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』と出会い、読み始めるや否や直ちに魅了された。素晴らしい知性と子供のような稚気が見事に融合していて、私の中にあったユーモアのセンスに火をつけた。

 アダムスと『ドクター・フー』の関係について知ったのがいつだったのか分からないけれど、『銀河ヒッチハイク・ガイド』を初めて読んだのは12歳か13歳のことだったと思う。この1年ほどの間に、私は精神的に一気に成熟し、ユーモアのセンスを理解できるようになっていた。今なら 'The Pirate Planet' の脚本がいかによく出来ていたかも分かる。

 アダムスが 'The Pirate Planet' の脚本と同時進行でラジオドラマ『銀河ヒッチハイク・ガイド』の脚本を書いたことは有名だ。その後、『銀河ヒッチハイク・ガイド』は小説になり、テレビドラマになり、映画にもなった。そして私は今、'The Pirate Planet' のノベライズのオーディオブックを聴いている。私とアダムスとの付き合いが、ぐるりと一周してスタート地点に戻ったわけだ。私にとってのダグラス・アダムスは、この世界のことも自分自身のことも深刻に考えすぎるなと教えてくれた人である。

Doctor Who Seasons 17-18: Enter the Anti-Adams Family
 by Tim Gambrell
 お気に入り :『ほとんど無害』

 子供の頃、初めて観た『ドクター・フー』がシーズン17だった。どのエピソードにも夢中になった。約半年後、シーズン18が始まると、前シーズンとの変わりようにびっくりした。音楽が変わり、ドクターの衣装が変わり、始まってほんの数分でK9は爆破された。こういった変化を6歳当時の私は全然好きになれなかったが、それでも番組は嫌いじゃなかったし、観るのを止めようともしなかった。

 大人になった今では、どうしてシーズン17とシーズン18とでこんなにも大きな変化が生じたのか、その理由はよく分かる。シーズン18を手がけた新しいスタッフたちは、前シーズンが嫌いだったからだ。もっとはっきり言えば、シーズン17を形作っていたダグラス・アダムスが嫌いだったからである。

 『ドクター・フー』のファンの間でもシーズン17に否定的な人は多いようだ。ドラマ性に欠けていてストーリーが弱い、ガキっぽい笑いを入れすぎ、トンデモ科学ばっかりで正しい科学に基づいていない、トム・ベイカーが演技過剰、等々。

 だが、それらの批判は本当に的を射ているだろうか。ダグラス・アダムスが新しくてオリジナルなものを作ろうとの決意でシーズン17に参加したことはよく知られている。彼は新しい書き手を熱心に探したが、外でもない彼自身が新しい書き手であることを失念していた。彼が脚本編集者としてシーズン全体の脚本に手を入れた結果、彼としては脚本をよくしようと思っただけだったにせよ、結果としていたるところにアダムスっぽさが貼り付けられてしまった。人によって好き嫌いは分かれるだろうが、少なくとも首尾一貫したシーズンに仕上がってはいる。よく言えば、アダムスがやったことは職人芸としての「脚本編集者」というより、現在で言うところの「ショーランナー」だったのだ。

 シーズン18にはポケットユニバースやエントロピーといった科学原理が登場するけれど、脚本家が自分の頭の良さをひけらかしたり視聴者を煙に巻いたりしているとしか思えない。一方のアダムスは、科学に基づいて全く新しいストーリーを作り出し、「宇宙ってすごいところだと思わない?」と視聴者に呼びかけた。

 シーズン18に入ると、ドクターとロマーナは「会話」はしても「気さくなやりとり」をすることはなくなった。演じていたトム・ベイカーララ・ウォード自身、前シーズンまでのスタッフへの信頼が厚かった分、新しいスタッフとなかなかうまく信頼関係を築けなかったようだ。BBCのストライキで製作が中断してしまった 'Shada' をシーズン18に取り込もうという企画もあったらしいが、私としてはその企画が実現しなくてよかったと思う。

 シーズン17は、ITVが数週間に亘って放送中止になったこともあって高い視聴率を得たが、『ドクター・フー』のファンの間では評価が分かれている(というか、嫌いだという人のほうが多い)。シーズン18は、視聴率は低かったが、ファンの間での評価は高い。今になって改めてシーズン17とシーズン18を客観的に見直してみたところ、どちらもそれぞれにオリジナリティがあってよく出来ていると思った。それでも、もしアダムスがシーズン17以降も『ドクター・フー』に残っていてくれたなら、と天を仰がずにはいられない。ファンダムも新しい製作チームもアダムスが番組にもたらしたものに批判的だったが、アダムス以上のものを番組にもたらした後人はいなかったのだから。アダムスが番組にもたらしたウィットもエネルギーも喜びも、1989年の番組終了まで戻ってくることはなかった――2005年に新シリーズが始まるまでは。

 結局、最後に勝ったのはダグラス・アダムスだったのだ。

'The Shada' Variations
 by Ian McArdell
 お気に入り:'Shada'

 『ドクター・フー』や『銀河ヒッチハイク・ガイド』ファンの家族の影響で、子供の頃からトム・ベイカー演じる『ドクター・フー』にどっぷりハマった。1983年、9歳の時に『ドクター・フー』20周年特別番組を観て幻の企画 'Shada' の存在を知り、以来、'Shada' を追い続けることに。

 最初のうちは、そう遠くない将来、ノベライズとして出版されるだろうと思っていた。が、待てど暮らせど出版される気配はない。地元の『ドクター・フー』や『スター・トレック』ファンからの情報で、1989年、'Shada' のノベライズが『ダーク・ジェントリー全体論的探偵事務所』という形で出版されたと知ったが、この小説はアダムスが 'Shada' のネタの一部を用いて書いただけであって、'Shada' そのもののノベライズではなかった。

 90年代に入ると、'Shada' の非公式同人小説が2作執筆された。1作はニュージーランド在住のファンが手がけたもので手に入れることができなかったが、もう1作、同人誌 Cosmic Masque に6回に亘って連載され1冊の本にまとめられたほうの 'Shada' は読むことができた。上手に話を膨らませていておもしろいと言えばおもしろかったが、とは言え失われた 'Shada' への渇きを癒してくれるほどではなかった。

 1992年、『ドクター・フー』の元プロデューサーだったジョン・ネイサン=ターナーがBBCのビデオ関連のコンサルタントになったことで、当時撮影された映像にトム・ベイカーのナレーションを足して仕上げた 'Shada' のVHSが製作された(アダムスはこのビデオ製作にゴーサインの許可を出した覚えはないと反発したが、最終的に収益をすべてコミック・リリーフに寄付するという形でおさまった)。発売されたVHSには 'Shada' の脚本のペーパーバックも付いていたので、撮影されなかった箇所がどうなっていたのか知ることもできた。

 これで 'Shada' が一件落着するかと思えばさにあらず、アダムスが死去した後の2003年、 'Shada' のフラッシュアニメーション付きオーディオドラマ全6話が製作され、ウェブ公開された。ただし、トム・ベイカーがこの仕事を断ったので、4代目ではなく8代目のポール・マッギャンがドクター役を務めることに。ロマーナとK9役はそのままに、スカグラ役をアンドリュー・サッシュ、クロノティス教授役をジェームズ・フォックスが務めるという豪華キャストで、間違いなくおもしろかったものの、トム・ベイカーのためのセリフをポール・マッギャンが口にしているのを聞くと違和感を禁じ得なかった。加えて、当時はまだブロードバンドが未整備だったため、フラッシュアニメーションがたびたびフリーズするのもつらかった。むしろ後に発売されたCDで聴くほうが、フリーズのストレスと無縁で良かったように思う。

 2011年には、突如として 'Shada' のアニメーション企画が持ち上がる。が、トム・ベイカーが断ったこともあって実現には至らなかった。

 が、2012年、ギャレス・ロバーツによる 'Shada' のノベライズが出版された。残された複数の脚本を参照し、かつ、作家の本能に従って不足と思われる箇所を書き足して仕上げられたこの小説は、確かにアダムス本人が手がけたらこうなっていたであろうと思われるものとは違うかもしれないけれど、でも 'Shada' が本来どんな作品だったのかを見事に描き出していたし、ララ・ウォードの朗読版も素晴らしかった。

 さらに2013年にはかつてVHSで出された 'Shada' がDVD化され、これで 'Shada'をめぐる追っかけも一段落した。私が長年『ドクター・フー』のファンであり続けられたのは、大好きな作家の「失われたエピソード」を探すという情熱に支えられていたのではないかと思えてならない。


'I Very Nearly Died' A Beginner's Guide to Doctor Who, Doctor Who's 'Shada' VHS: 1992
 by Kara Dennison
 お気に入り:『長く暗い魂のティータイム』

 1999年、18歳で初めて『ドクター・フー』を知った。今と違って、当時のアメリカでは知っている人のほうが稀だったのだ。それにしても、最初の出会いは最悪だった。『ドクター・フー』オタクのボーイフレンドの家に行った時のこと、共通の話題を探して私はアダムスの小説『ダーク・ジェントリー』シリーズが好きだというと、彼は知らないという。そこで彼にあらすじを説明していたら、彼が突然「それなら知ってる、それは 'Shada' だ!」と叫んで彼のVHSコレクションの中から 'Shada' を取り出し、上映会が始まった。
 ボーイフレンドは「見ていればそのうち意味がわかるから」と言ったが、私は最後までさっぱり理解できなかった。でも、私の隣に座っているボーイフレンドは、ついに共通の話題が見つかったとすごく幸せそうな顔をしていた。
 それから17年後、私は『ドクター・フー』のコンベンションの共同創設者の一人となった。3人のドクターと、一緒にお酒を飲んだこともある。トム・ベイカーとはスカイプ経由でインタビューした。‘'Shada' について言えば、あの後、ポール・マッギャン主演のオーディオドラマ版を聴いてようやく話の内容を理解することができた。そろそろVHSの 'Shada' を再視聴する潮時かもしれない。


All Snuggled Up But Ready to Run: Doctor Snuggles
 by Paul Driscoll
 お気に入り:『銀河ヒッチハイク・ガイド』三部作

 14歳になっても私は子供向けアニメを観ていた。5歳の幼い妹のお守りをするため、という大義名分はあったけれど、実際のところ、私はそれらのアニメが好きだった。
 木曜の夜、両親は聖書の勉強会で隣の家に行く。そのような折、妹をテレビの前でおとなしくさせておくには、アニメのVHSを流しっぱなしにするのが一番だった。その中の一つ、「Doctor Snuggles」に、ダグラス・アダムスはジョン・ロイドと共同で脚本を書いていた。
 アダムスが関わったのは、'The Remarkable Fidgety River' と 'The Great Disappearing Mystery' の2作。私は『ドクター・フー』と『銀河ヒッチハイク・ガイド』のファンだったので、アダムスの名前には馴染みがあった。そういう目線でみれば、「Doctor Snuggles」は『ドクター・フー』と結構似ているところがある。どちらも主人公は「ドクター」と呼ばれていて、どちらも非常に楽観的だ。 'The Remarkable Fidgety River' には、ネス湖の恐竜にも似た海の怪物が出てくる。が、怖そうに見える怪物も、実は友達を探していただけだった。この番組は、すべての命に等しく価値があること、相手を見た目で判断してはいけないことを私に教えてくれる。また、'The Remarkable Fidgety River' と 'The Great Disappearing Mystery' のどちらにも環境問題への警鐘が含まれている辺りも、後の『これが見納め 絶滅危惧の生きものたち、最後の光景』の著者にふさわしい。
 でも、私がもっとも強く惹きつけられた「Doctor Snuggles」のエピソードは、ドクターが行方不明の友人を探すため、自分自身もわざと迷子になることだった。方向感覚を失い、地球上どころか宇宙規模で迷子になる。この番組を見てからというもの、私はときどき学校から家に帰る途中でわざと遠回りして、自分が今どこにいるのかわからなくなるという感覚を味わうようになった。物理的にも精神的にもいったん自分を見失ってから改めて自分を取り戻した時に感じる、その大いなる喜びたるや。

 迷子になることで、当時、世界がいかに新鮮に見えたかを思い起こすと、ひょっとすると今の私もナビを切って旅に出て道に迷ったほうがいいのかもしれないという気がしてくる。その旅でどんな新しい発見があるか、誰にもわからないのだから。

Guide Entry #900.69: Nature of Existence
 by Field Researcher Jay Rainha

 存在の本質についての問いは数多あり、問いに対する答えも数多ある。が、どれも微妙な差異はあれど似たり寄ったりだ。驚くべきは、似たり寄ったりであることよりも微妙な差異があることのほうに目が向けられ、激しい対立が起こることである。
 たとえば、Xeglominax 2では、青緑色の肌をした6本足の神を信じる人々と、青緑色の肌をした4本足の神を信じる人々との間で神の足の本数をめぐって血みどろの戦闘が勃発した。どちらの宗教でも、自分と異なる人を排除してはいけません親切にしなさいという教えがあったが、自分たちこそより親切な宗教であるとを相手に認めさせるため、神の御名のもとに殺し合ったのだった。
 もし、彼らがもう少し冷静だったら、互いの相違点より相似点のほうが多いことに気づけただろう。さらに言えば、自分たちが惑星だと思っているものが実はスープに浮かんだ豆の一つであり、結局のところすべてが空理空論だったと気づけたかもしれない。


Fit the Third:'Ford, What's This Fish Doing In My Ear?' (1981-1992)
Fit For Purpose? The Original Radio Scripts

 by Christopher Bryant
 お気に入り:'City of Death'

 アーサー・デントとの出会いは、1980年代半ば、私がまだ10歳くらいだった頃、叔母に小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』を貸してもらった時のことだった。私が気に入ったとみてとるや、叔母は残りの3作も貸してくれた。当時から既にオタク心を抱いていた私は、ビデオに録画されたテレビドラマ『銀河ヒッチハイク・ガイド』も繰り返し観て、友人たちとドラマのモノマネをして遊んだりもした。
 1988年には、英語教師のスミス先生が授業の教材としてラジオドラマ『銀河ヒッチハイク・ガイド』のオリジナル脚本を取り上げてくれた。前の学期がシェリダンやシェイクスピアだったと言えば、私の喜びようもご想像いただけるのではないか。私たちは何週にも亘って全12話の脚本を読み、さまざまな役に挑戦した。
 この脚本にすっかり入れ込んだ私と友人たちは、ラジオドラマの続き、「第13話」の脚本を書いたりもした。どうにかダグラス・アダムス本人と連絡をとって、この13話目を出版できないだろうかと本気で話し合ったりしたくらいだ。せっかくだから、仲間を募ってオーディオドラマを録音できないか、とか、いやいやドラマとして撮影できるんじゃないか、とか、いろいろなことを考えたけれど、学校を卒業して何となく仲間と疎遠になるうち、いつの間にか話は立ち消えとなってしまった。
 それから27年の月日が流れ、You and 42 のエッセイを書くため、私は物置部屋を漁って友人たちと書いた「第13話」を引っ張り出してみた。久しぶりに読み返してみたら、ただの1行もこのエッセイに引用できないくらいにお粗末な内容であることに、ショックを受けた。今の私は、英語を教える現役の学校教師であり、副業でライターもやっているというのに。
 かつてのスミス先生に倣い、私も授業の教材にラジオドラマ『銀河ヒッチハイク・ガイド』のオリジナル脚本を使ってみた。主要キャラクターを使って何か脚本を書くよう宿題を出してみたら、少なくとも半数の生徒はかつての私より上手に書いていた。演じさせてみても、かつての私や友人たちよりずっと達者だった。

Fettucini and Kir: How Douglas Encouraged My Writing and Saved a Group of Teenagers from Being Bullied
 by Shirley Rolls
 お気に入り:『銀河ヒッチハイク・ガイド』

 10代の頃、ダグラス・アダムスに自分が書いた原稿を送ったところ、アダムスから返事の手紙がもらった。その手紙を心の支えに、現在まで自分の好きなファンフィクションを書き続けている。
 本職として、イギリスの大規模な総合性中等学校(comprehensive school)のパストラル・サポートという生徒支援業務を担っている。いじめに悩む生徒たちに居場所を提供するため、「42クラブ」という名の昼休みクラブを立ち上げた。倉庫をターディス仕様に作り替えたり、「帽子の日」「ウィッグの日」「ケーキの日」「タオルの日」といったイベントを楽しんでいる。
 ダグラスもきっと誇りに思ってくれるだろう。

The Chameleon of Comedy and the Ostrich of Obsession: The Guide and How to Incorrectly Deal with All of its Very Worthwhile Formats
 by Christopher Payne
 お気に入り:Play Being

 9歳でテレビドラマ版『銀河ヒッチハイク・ガイド』を観て以来、さまざまなヴァージョンの『銀河ヒッチハイク・ガイド』を買い求めたが、コミックス版は買い損ねてしまった。今では買い集めることは止め、自分が持っている本やラジオドラマのCDを楽しむことで満足している。いつか自分の息子たちが、ダグラス・アダムスの魅力と我が家のお宝に気づいてくれることを願う。

'No Transforming Robots? No Spandex Super-teens? Don't Panic!' The Hitchhiker's Guide to the Galaxy - 1981 BBC television adaptation
 by Fred McNamara
 お気に入り:小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』

 子供の頃から『サンダーバード』『トランスフォーマー』『ドクター・フー』といったテレビのSF番組に夢中だった。でも、9歳の時に放送されたテレビドラマ版『銀河ヒッチハイク・ガイド』は、SFはSFでも全く違っていて衝撃を受けた。派手な救出作戦もバトルもなく、SFというより『空飛ぶモンティ・パイソン』に近い。派手なアクションで問題を解決するのではなく、解決できない問題には肩をすくめてやり過ごす。テレビドラマ版『銀河ヒッチハイク・ガイド』ラストの、そんなアーサー・デントの姿は、私の心にいつまでも残っている。

How I First Found Out About The Hitchhiker's Guide to The Galaxy My initial exposure to the book and television series
 by Justin J. Rebbert
 お気に入り:小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』全巻

 アメリカ在住の私が初めて「銀河ヒッチハイク・ガイド」というタイトルを目にしたのは、母親の友人がイギリスに住んでいて送ってくれた、イギリスのテレビ番組を録画したVHSテープに貼られたラベルシールだった。見つけた時は宇宙についての教育番組か何かだろうと思って放置したが、後に図書館でたまたま『宇宙の果てのレストラン』という本を見つけて興味を惹かれて手にとってみたら、それがあの『銀河ヒッチハイク・ガイド』の続編と知って驚いた。その本はほんのちょっと読み出しただけでもとてもおもしろかったが、まずは『銀河ヒッチハイク・ガイド』から始めるべきだろうと思い、家に戻ってVHSテープに倍速で録画されたテレビドラマ『銀河ヒッチハイク・ガイド』を観て、その劣悪な録画状況にもかかわらず、大好きになった。
 その後、母親の友人が豪華な皮装丁の『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズ全1巻本を送ってくれた(ただし当時はまだ『ほとんど無害』は出版されていなかったので、全4作と短編が収録されている)。私はこの本を何度も何度も読み返し、テレビドラマも何度も観てDVDを2セットも買い、劇場映画にも通って、facebookの『銀河ヒッチハイク・ガイド』ファングループにも登録した。私の妹も、『銀河ヒッチハイク・ガイド』のファンである――シリウス人工頭脳会社苦情処理部門のモットー「ともに楽しみましょう」を実践した、という次第。

Share and Enjoy: How The Hitchhiker's Guide Changed My Life, from the TV series to the novels and other versions
 by Daren Carpmail
 お気に入り:テレビドラマ版と小説版『銀河ヒッチハイク・ガイド』

 13歳の時、BBC2で放送されたテレビドラマ『銀河ヒッチハイク・ガイド』を観て、人生観が変わるほどの影響を受けた。当時はテレビ番組を録画して再生する装置は一般家庭に普及していなかったから、もう一度観たいと思っても、テレビ局が再放送してくれるのをひたすら待つしかない。そのため、せめてもの代用品として私は本屋に原作小説を買いに行った。当時の私は、テレビや映画が大好きなオタクだが、本は全く読まなかったのだ。そんな私に、読書という行為の楽しさに初めて気づかせてくれたのが、小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』だった。
 『宇宙の果てのレストラン』、『宇宙クリケット大戦争』と読み進め、16歳の時にはバーミンガムの書店で行われた『さようなら、いままで魚をありがとう』のサイン会でアダムス本人と直接会って言葉を交わす機会すら持てた。自分ではそれなりにイケてるつもりだったけれど、アダムスの目には無教養で無作法な田舎者のガキにしか見えなかったと思う。が、そんな自分にも、アダムスはこの上なく丁寧に対応してくれた。
 ジョージ・オーウェルは、自分のために書かれたとした思えない本との出会いがあるものだとか何とか書いていたが、私にとって『銀河ヒッチハイク・ガイド』はまさにそんな本だった。『銀河ヒッチハイク・ガイド』のおかげで読書の楽しみを知ることができた(もっと若い世代なら、『ハリー・ポッター』が同じ役割を果たしたことだろう)というだけでなく、もはやダグラス・アダムス抜きで私という人間を語ることができないほどの影響を受けている。私は常々、セレブの訃報に大騒ぎする人たちが本気で悲しんでいるかどうか怪しんでいるけれど、ダグラス・アダムスが亡くなった時の多くの人々の悲しみは間違いなく本当だったと思う。

Excitement, Adventure, and Really Wild Things: Douglas Adams related memoirs, or How I became a field researcher for The Hitchhiker's Guide
 by Justin K Prim
 お気に入り:テレビドラマ版『銀河ヒッチハイク・ガイド』

 11歳の時、居間のテレビでSF好きの父親が借りてきたレンタルビデオの『銀河ヒッチハイク・ガイド』を一緒に観て虜になった。翌年の1993年、家族でマックのコンピュータを購入し、コンピュータ・ゲーム版『銀河ヒッチハイク・ガイド』を1年がかりで攻略した(Bureaucracy には挫折したけれど)。両親が勝ってくれた全1巻の The More than Complete Hitchhiker's Guide to the Galaxy はバイブルとなった。
 数年後、ダグラス・アダムスの公式サイトができて、彼の『銀河ヒッチハイク・ガイド』以外の作品、『ダーク・ジェントリー全体論的探偵事務所』 や『これが見納め』の存在を知った。コンピューター・ゲーム『宇宙船タイタニック』については、その進行状況を公式サイトで逐一追うことができた。1999年、ついに『宇宙船タイタニック』が発売されると、その宣伝ツアーとしてダグラス・アダムスが自宅から車で4時間の距離にあるインディアナ大学にやってくることが分かった。
 当時の私は15歳、自力で行くことはできなかったが、幸いなことに私の父もアダムスのファンだった。父から学校に休みの連絡を入れると、学校の教師たちも「教育的」だと認めてくれ、1999年4月12日、私はアダムス本人のすぐそばで講演を聞き、本にサインしてもらうことができた。この本は私の宝物となり、この日以来、私はインターネットの助けを借りてダグラス・アダムスに関するものなら何でも片っ端から購入するようになった。
 それから2年後、私はアダムスの公式サイトで彼の訃報を目にした。他の誰が亡くなった時より、はるかにすごいショックだった。
 とは言え私は17歳、私自身の人生はまだ始まったばかりだった。大学進学を機に親元を離れ、大学をドロップアウトして、アメリカ全土をヒッチハイクで回った。私の人生のモットーは「興奮と冒険と滅茶苦茶にすごいこと」(『宇宙の果てのレストラン』、p. 194)だった。
 カリフォルニア州サンタクルーズまでたどり着いた時のこと、街を歩いていて映画館を見つけた。そこでは、映画版『銀河ヒッチハイク・ガイド』が上映されていた。
 映画を観終わって映画館を出た私は、高揚していた。この映画には、この映画にしかない形でダグラス・アダムスのユーモアや熱意を見て取ることができたからだ。それらは、アダムスが亡くなった後も消えずに息づいていた。
 ヒッチハイクの旅はその後の続いたが、喋るアダムス本人の姿を目にしてから6年が経った頃、私はついに一つ所に落ち着き、結婚した。夫婦で向かう旅行先は、『銀河ヒッチハイク・ガイド』の本拠地、イギリスとオランダ、そしてベルギーだった。初めてのイギリスで、『銀河ヒッチハイク・ガイド』がアダムスの想像力だけに拠るのではなく、いかにイギリスの文化から派生したものだったか、よく分かった。
 その後も、「興奮と冒険と滅茶苦茶にすごいこと」をモットーに、何度もイギリスを訪れた。2015年に渡英した際にはケンブリッジにも行って、ファンクラブ「ZZ9 Plural Z Alpha」の元会長デイヴィッド・ハッドックによるダグラス・アダムス・ツアーに参加することもできた。
 33歳を前に、私は世界中を旅してきた。インスブルックの野原で酔っ払って寝転がったこともある。今はバンコクで、ウェブサイト The Guide のエントリーを書いているところだ。20年以上も前に、『銀河ヒッチハイク・ガイド』が私の魂に種を植え付けた。ありがとう、フォード。ありがとう、アーサー。ありがとう、ダグラス。

The Hitchhiker's Guide to the Galaxy 1984 Infocom Computer Game My Introduction to Douglas Adams
 by Allan Weslowsky
 お気に入り:『銀河ヒッチハイク・ガイド』

 コンピュータ・ゲーム版『銀河ヒッチハイク・ガイド』の解説。1984年にインフォコムから発売されたテキストアドベンチャーとして発売されたゲームは、2005年には20周年記念としてオンラインゲームとして楽しめるようになった(註/現在は30周年記念ヴァージョンを体験することができる https://www.bbc.co.uk/programmes/articles/1g84m0sXpnNCv84GpN2PLZG/the-game-30th-anniversary-edition)。

Four Books, Two Swear Words, A TV Show, An Uncle: Life, The Universe and Everything
 by Andrew Curnow
 お気に入り:1979年の『ドクター・フー』

 1981年、兄に勧められてテレビドラマ版『銀河ヒッチハイク・ガイド』を観たのが始まりだった。第4話まで放送されたところで小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』を読み、小説のラスト5ページ分でどうやって2話分ものテレビドラマを作り出すのだろうと思った。1982年の夏になってようやく小説『宇宙の果てのレストラン』を手に入れて読んだ。当時はインターネットなんてなかったから、10代前半の子供にとっては本屋で偶然見つける以外に存在を知るすべはなかったのだ。
 小説『宇宙クリケット大戦争』を読んだのも、発売から1年遅れの1983年だった。先に観たテレビドラマ版『銀河ヒッチハイク・ガイド』の内容と重複しない、全く新しいストーリー――とは言え、実はボツになった『ドクター・フー』の映画用脚本を転用したものだったと後になって知ったけれど。
 小説『宇宙クリケット大戦争』は、『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズの中でも異色作だ。もともと『ドクター・フー』用に書かれただけに、ストーリーは明解、ヒーローと悪役がはっきり分かれている。が、1983年当時の私はそんなことは気にかけもせず、夢中になって読んだ。
 特に気に入ったのは、アグラジャッグと、空の飛び方(あるいは地面に墜落しない方法)、そして12歳だった私にとって何より重要だったのは、この本を読んで生まれて初めて "fuck" という単語を活字で目にしたことである。「Fワード」なんて今ではしょっちゅうテレビから流れてくるが、当時は滅多に耳にすることがなかったし、1981年に出版された『ドクター・フー』のノベライズの中でドクターがある登場人物のについて "bastard" という言葉を使ったのも衝撃的だった。
 そんなわけで、叔父からこの本を貸してほしいと言われた時は凍りついた。「Fワード」が使われているような本を読んでいることが叔父にバレたら、直ちに私の両親に通告されるのではないだろうか?
 勿論、そんなことにはならなかった。トレヴァー叔父は愉快な人で、哲学に関するベストセラーシリーズを何冊も出版している。子供だった自分は、立派な大人が『銀河ヒッチハイク・ガイド』を読んで楽しめるのだろうかと思ったけれど、今となっては『銀河ヒッチハイク・ガイド』はむしろ大人向けだと思う――正確には、子供には子供の、大人には大人の楽しみ方ができる、万人向けの本というべきだろう。

A Book, Life, and the Hoopiest Galactic Gal who's fun to be with! The Hitchhiker's Guide to the Galaxy
 by Anthony Burdge
 お気に入り:ラジオドラマ版『銀河ヒッチハイク・ガイド』

 ニューヨーク州スタテン島出身の私は、母親のお腹の中でトールキンを教わり、5歳で『スター・ウォーズ』を、7歳で『スター・トレック』を、そして小学6年生で小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』を知った。が、他の人に『銀河ヒッチハイク・ガイド』絡みのジョークを言っても全く通じなかったとのこと。高校に入って、ようやく『スター・トレック』と『銀河ヒッチハイク・ガイド』の話ができる、ブライアンという親友ができた(彼は筋ジストロフィーにかかっていて、車椅子に乗っていた)。
 高校卒業後は、本当は大学に進学したかったがそのお金がなくて、リクルーターの言葉に乗せられてアメリカ海軍に入隊した。折悪しく第一次湾岸戦争が始まり、オマーンの湾で私を乗せた軍艦からミサイルが発射されるのを目にした時は、ミサイルがペチュニアの鉢か何かに変わってしまえばいいのにと思った。
 除隊してからは家族とも不仲となり、また親友のブライアンが亡くなったこともあって、地面が足元から崩れるような気分になった。そこで、私はヒッチハイクの旅を始めることにした。出会った人に旅のコツなどを教わったりもしたけれど、当時の私は深刻な鬱だったと思う。それでも、私は『銀河ヒッチハイク・ガイド』の本だけは手放さなかった。
 2001年にニューヨークに戻って、大型書店バーンズ・アンド・ノーブルに働き口を見つけた。店員として働きながら、大好きな作家、ダグラス・アダムスをダグラス・アダムスたらしめたものが何だったのかを調べていくうち、オカルトから東洋哲学まで、いろいろなことに興味を持てるようになった。アダムスと、それからもう一人の大好きな作家であるトールキンの伝記や書評を読む時には、必ず自分の思ったことなどを書き留めていた。
 そんなある日、バーンズ・アンド・ノーブルのカスタマーサービスで、大きな声でトールキンのマニアックな本について話している女性を見かけた。トールキンの本のことなら私がお役に立てるかも、と、声をかけてみたら、彼女は私より2学年年下の同窓生だった。この偶然の出会いがきっかけで、私は彼女と6年の交際期間を経て結婚し、結婚生活はもう10年になる。ちなみに彼女は、他でもない、この You and 42 の副編集者だ。二人であちこちのファンクラブに出かけ、コスプレをし、共同で本を出したりした。彼女と過ごしたこの16年は、素晴らしい友人にも恵まれ、最高に幸せだった。人生で、共に喜びを分かち合える特別な人がいることに勝るものがあるだろうか。

Life, the Universe, and GCSE English Reading: Writing a Story 'in the style of' Douglas Adams
 by Tim Gambrell
 お気に入り:『ほとんど無害』

 イギリスには、義務教育課程終了のために受ける全国統一試験(GCSE)がある。大学進学を目指す生徒は、だいたい8科目くらい受験するが、学校で英語の試験のための勉強として出された課題の一つが、「『宇宙クリケット大戦争』を読んで、アダムスのような文体でショートストーリーを書く(500字以内)」というものだった。
 当時の私は本を読むのがたいして好きではなかったし、学校の課題本となるようなお堅い小説には眠たくなるだけだった。が、『宇宙の果てのレストラン』は私の中に眠っていた読書熱を呼び覚ましてくれた。読み終わると今度は自分でストーリーを書きたくてたまらなくなり、500字以内という指定を無視して6000字ものストーリー 'The Very Short, but Concise, Adventure of Keith' を先生に提出した。残念ながら先生にはあまり気に入られず、B プラスの評価しかもらえなかったけれど。
 それから4年後、私はバースカレッジでAレベルの試験勉強をすることに。クリエイティヴ・ライティングの課題で煮詰まって、引き出しに入れたままにしてあった 'The Very Short, but Concise, Adventure of Keith' を見つけ、それを13000字の作品に仕立て直し 'Ambition'と改題して提出した。'Ambition' はAレベルには届かなかったけれど、最終学期、「5000字以内のエッセイ」という課題で『銀河ヒッチハイク・ガイド』評を必死で書いて提出した結果、ついにAレベルに合格することができた。
 その後、13000字の'Ambition'は、75000字の 'Where's The Pope?' になった。自分ではよく書けたと思ったし友達もおもしろがってくれたが、出版の日の目を見ることはなかった。
 とは言え、GCSEの課題として『宇宙クリケット大戦争』と出会っていなかったら、何かを読んで自分なりのアイディアを膨らませることは一生なかっただろう。失敗を経て一生懸命勉強し、その結果として良い人間、良い書き手になることもなかっただろう。
 ありがとう、ダグラス――それから、あなたのアイディアを盗もうとしてごめんなさい。

The Name Game: The Meaning of Liff
 by Barnaby Eaton-Jones
 お気に入り:The Meaning of Liff

 人を笑わせるのが好きな子供だった。子供向けのジョークを集めた本を買ってもらって、祖父をたびたび大笑いさせていた。
 ダグラス・アダムスに初めて出会ったのは、録画されていたテレビドラマ『銀河ヒッチハイク・ガイド』第1話。直ちに恋に落ちた。同じ作者の作品を求めて地元のウォーターストーンズ書店に行き、そこの「ユーモア」コーナーで一際小さな装丁の本を見つけた。それが、ダグラス・アダムスとジョン・ロイドの共著、The Meaning of Liffだ。
 『銀河ヒッチハイク・ガイド』以上に読み返した本があるとしたら、それがこの本だ。小さいのでポケットに入れてどこにでも持っていける。私がこの本を一番読んだのは、地元の診療所での待ち時間だと思う。つらい時間をやり過ごすには最適だ。読めば思わずくすっと笑ってしまうから。この本のおかげで、私はこの世のすべてに絶望しないで済む。

Teaching Us How to Fish: An Appreciation of So Long and Thanks for All the Fish
 by Don Klees
 お気に入り:ラジオドラマ『銀河ヒッチハイク・ガイド』

 1984年のクリスマスプレゼントとして、『さようなら、いままで魚をありがとう』をもらった。この年、親に同じプレゼントをねだった同世代の子どもはきっとたくさんいただろう。新年が来る前には読み終えたが、これまでのシリーズ3作と比べると、この4作目は異なるレシピで書かれているように思えた。少なくとも自分が期待していたものとは違う。シリーズの1作目と2作目はその後も何度も読み返したが、この4作目は本棚に置いたままになっていた。
 が、時が流れて大人になってから改めて読み返してみて、ようやく作品の良さを理解することができた。だいたい、10代の子どもだった自分が、はるか遠くまで長い年月をかけて旅した後に故郷に戻ってきた時のアーサーの気持ちに共感できたはずもない。
 4作目がシリーズ最高傑作かどうかは措くとして、でも少なくともダグラス・アダムスはこの作品を書きたくて書いたのだと思う。『さようなら、いままで魚をありがとう』は、読者と共に成長してくれる本だ。

Growing Perspectives: Mostly Harmless
 by David Kitchen
 お気に入り:'City of Death'

 12歳くらいからテレビドラマやラジオドラマの『銀河ヒッチハイク・ガイド』に親しんでいたが、それは家族の影響だった。家族と一緒に観たり家族から貸してもらったりするのではなく、初めて自分のものとして手にしたのが、小説シリーズ5作目の『ほとんど無害』だった。
 その時のことは今でもよく憶えている。全然好きになれなかった。多くの読者同様、あの唐突で寒々しいエンディングもショックだった。
 大人になって読み返してみて、初めていかによく書けているかに気付くことができた。あのエンディングも、シリーズを完結させる上で申し分ないとさえ思うようになった。『ほとんど無害』は、ダグラス・アダムスという作家自身の成長と考え方の変化を反映しているという観点から評価すべきではないだろうか。
 ところで、メルボルン郊外の男子校でダグラス・アダムスの本を持ち歩いていると、ダグラス・アダムス好きの人たちから声をかけてもらえる。数学の教師は、42という数字をちょっとした含みをもたせて口にするし、英語の教師からは『ダーク・ジェントリー』シリーズの存在を教えてもらえたし、生徒同士では、『レッド・ドワーフ号』のノベライズ本や、『スター・ウォーズ』のVHSテープや、『ウォーターシップ・ダウンのうさぎたち』のペーパーバックの貸し借りをした。当時、『ドクター・フー』はもっぱらバカにされていたが、ダグラス・アダムスが関わっている作品もあると伝えると初めて興味を持ってもらえた。さもなくば、彼らは一生 'City of Death'トム・ベイカーを知ることはなかっただろう。
 今のところ、『ほとんど無害』は『さようなら、いままで魚をありがとう』と共に、『銀河ヒッチハイク・ガイド』のファンからあまり愛されていないように思う。でも、私自身、子どもの頃はついていけなかったけれど大人になってから理解することができたのと同様に、いつかこの本ならではの深みや滋味が広く受け入れられるようになりますように。

The Very Last Chance to See?
 by Ian Ham
 お気に入り:『これが見納め 絶滅危惧の生きものたち、最後の光景』

 運の良いことに、昔は私の地元のローカルチェーン日用雑貨店でもダグラス・アダムスの本を売っていた。そのローカルチェーンが、より大規模に展開している別のチェーン店に吸収合併されていくたびに、書籍コーナーは新刊本しか売らなくなっていった。私が新刊として『これが見納め 絶滅危惧の生きものたち、最後の光景』を買った時には、新しく改装された店にダグラス・アダムスの他の本は売っていなかった。
 私がアダムスの新刊に期待していたのは、ロボットとか宇宙船とか探偵だった。が、今回の新刊にはそういったものは出てこない。それでも、ひとたび読み出したら本に釘付けになった。教育的な内容であると同時に、大笑いさせてくれる。この本を読むのは、野生動物の素人であるアダムスと野生動物のプロであるマークと一緒に、旅に出るのと同じことだ。その後、何度も繰り返して読むうち、この本は野生動物や環境問題について教えてくれるだけでなく、ダグラス・アダムスという人についても知ることができると思うようになった。
 2001年にアダムスが亡くなった後も、「ダグラス・アダムス記念講演」が開催されたり、2009年にはこの本の続編企画が行われたりした。
 『これが見納め 絶滅危惧の生きものたち、最後の光景』には、自然淘汰による進化の概念と、自然環境に人類がもたらす深刻な影響のことが書かれている。絶滅危惧種の生きものたちが暮らす場所に人類が干渉すればするほど、将来において絶滅危惧種の生きものたちが私たちを楽しませてくれる可能性が低くなる。
 これって何だか、全国展開のチェーン店に乗っ取られてダグラス・アダムス作品が絶滅に追い込まれた、かつての日用雑貨店の状況と似てません?

The Great Prophet Adams: Hyperland (BBC2 1990)
 by James Gent

 1987年、11歳だった私は、書店でパン・ブックスのペーパーバック『銀河ヒッチハイク・ガイド』をジャケ買いし、たちまちダグラス・アダムスのファンになった。他の小説シリーズを読み、何度も再放送されていたテレビドラマを観、ラジオドラマを聴いた。もともとデイヴィッド・ボウイとモンティ・パイソンと『ドクター・フー』のファンだったから、『銀河ヒッチハイク・ガイド』のファンになる素地は十分あったのだ。
 その後、図書館で『ダーク・ジェントリー全体論的探偵事務所』を借りて読んだ。作品の難易度が高校入試レベルから大学入試レベルに跳ね上がっていた。現代的で、ポスト・ポストモダンで、一直線には進まない語り口。大人のために書かれた大人の小説だった。
 そして1990年、BBC2でドキュメンタリー番組「ハイパーランド」が放送された。
 アダムスは、時代のはるか先をいっていた。よほどのコンピュータ・オタクでなければ自宅にPCなんか所有していなかった時代、所有していたとしてもコードをぽちぽち手打ちするのが当たり前だった時代に、ハイパーテキスト・リンクや検索エンジンやヴァーチャル・リアリティやAIを取り上げていたのだから。『銀河ヒッチハイク・ガイド』に慣れ親しんでいた私ですら、ついていくのがやっとだった。
 誰もがポケットにスマートフォンを入れている今となれば、当時のアダムスの先見性とその正しさがよくわかる。

The Unsummable Dirk Gently
 by Benjamin Hooper
 お気に入り:『ダーク・ジェントリー全体論的探偵事務所』

 アーサー・デントがヘンテコな宇宙に放り出された普通の男なのに対し、ダーク・ジェントリーは自分からカオスを創り出す男だ。ティーンエイジャーだった私が見習いたいと思ったのは、ダーク・ジェントリーのほうだった。ダークに倣って、「行き先をちゃんと分かっているように見える人を尾行」したこともたびたびある。
 『銀河ヒッチハイク・ガイド』のほうが知名度が高いことも手伝って、どちらかというと世間の人はダグラス・アダムスをアーサー・デントみたいな人(背の高いイギリス人で、 BBCで働いたことがあり、静かな生活を好む、等々)と考えがちだけれど、実際のアダムスはむしろダーク・ジェントリーみたいな人(騒々しくて、とっちからっていて、締め切りを守らず、するべきことの優先順位がめちゃくちゃ)だったんじゃないだろうか。

Is There a Place for Theology in the Multiverse? The South Bank Show 5th January 1992
 by Paul Driscoll
 お気に入り:『銀河ヒッチハイク・ガイド』三部作

キリスト教福音主義の家庭に育ち、ロンドン・バイブル・カレッジの学部生だった筆者は、1992年1月5日に放送された「サウス・バンク・ショー」のダグラス・アダムス特集を観る。アダムスもまた信心深い家庭で育ったが、後に「過激な無神論者」となり、『ダーク・ジェントリー全体論的探偵事務所』ではすべてをピンクだと信じる電動修道士を登場させた。筆者は、「サウス・バンク・ショー」をきっかけに、アダムスやドーキンスの著作を読み、彼らが語る「無神論」と、自身の信仰のありようを考える。
 20年以上の年月が経った2016年、筆者の中で、アダムスやドーキンスらの「無神論」の主張と、宗教という「物語」を紡いでいくことの意義とを、矛盾なく共存できるようになったという。

Guide Entry #42.5682: Camps of Thought
 by Field Researcher Jay Rainha

 一部の人たちは、人生の意味など誰にもわからないし、 そんなことを生涯かけて追求するなんて無駄、資産と正気を失くして泣きを見るのがオチだと信じている。
 また別の人たちは、人生の意味は42だと固く信じているが、その理由を説明することはできない。
 さらに別の人たちは、先のように考えている人たちはどちらも道を踏み外しており、それよりルタリアのスパイスが効いたラムとジャンクス・スプリットを混ぜて液体酸素に垂らしたカクテルを飲んで過ごすのが一番、と信じている。
 ちなみに、第三のグループの死亡率が突出して高い。

Guide Entry #42.5684: Education
 by Field Researcher Jay Rainha

 教育には、北風と太陽の二つのやり方がある。
 はるか昔に絶滅したヴレンデルバムの学者たちは、太陽方式を採用し、生徒たちが授業の間に楽しめるような画像をたくさん教科書に入れた。この教科書は今でも再発見が強く望まれているが、アカデミックな理由からというより、ポルノ画像を欲しがる人が多いからである。 
 アクセウィールダー7の戦士たちは、北風方式を採用した。生徒たちをトラール星の貪食獣バグブラッターが入った檻の上に吊るし、生徒が質問に間違った答えをするたび、生徒を吊るした紐を徐々に下げていく、というやり方である。卒業時の成績優秀者の判定は、体の部位がどれだけ残っているかで決まる。
 『銀河ヒッチハイク・ガイド』にも、「教育」に関する項目がある。「必要とされる知識や技術を持ち合わせていない、という状況に陥ったら、そういう知識や技術を必要とされない惑星に引っ越しましょう。それが無理そうなら、近くの亜空間放送局に行き、政治評論家か午後のトークショーのホストとして雇ってもらいましょう」。

Dirk Gently's Holistic Detective Agency: or, Der Elektrische Mönch (1987)
 by Scott Varnham

 オランダのフローニンゲン大学に留学することになった友人と一緒に、パリやケルンを経由してフローニンゲンまで旅行した際、ケルンでドイツ語訳の『ダーク・ジェントリー全体論的探偵事務所』を見つけて買った。


Fit the Fourth: Brushes with Douglas: Rhinos, Rainbows, Robots, a Holistic Detective, & Bloody Martin Smith from Croydon

The Long and the Short of Douglas Adams: Working with Douglas at Cambridge
 by Bloody Martin Smith from Croydon
 お気に入り:小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』第13章(おかげで「マーティン・スミス」という名前がググれるようになった)

 ケンブリッジ大学時代、アダムスと一緒に「アダムス・スミス・アダムス」というトリオを組んでゲリラ・コメディ・レヴューを行っていたマーティン・スミス本人が、当時を振り返って書いたエッセイ。
 アダムスが書くものは極端に短くて、ほんの3行くらいしかなかったけれど間違いなくすごくおもしろかった――でもそのままでは使い物にならなくて、彼とウィル・スミスの二人がどうにかそれをレヴューとして使えるものに肉付けしていったのだとか。ジョン・ロイドも言っていたけれど、アダムスは世にも稀な「書かない書き手」であり、彼が頑張って書こうとすればするほど、文章はどんどんおもしろくなると同時にどんどん短くなっていくらしい。
 また、アダムスは恐れ知らずにもジョン・クリーズと会って堂々と自己紹介し、大学の雑誌に掲載するインタビューを取り付けたり、自分たちのコメディ作品を見てもらう手筈を整えたりもした。その流れで、マーティン・スミスたちもクリーズのオフィスに行き、クリーズの結婚相手にして共同執筆者のコニー・ブースにコーヒーとビスケットを出してもらったという。
 アダムスはとにかく背が高いことで有名だが、大学の寮でスミスの隣の部屋に住んでいた数学専攻の学生はアダムスよりも背が高かった。この学生が何かの用事でスミスの部屋を訪ねてきた時、たまたまそこにいたアダムスは生まれて初めて自分より背の高い人に会い、「人を見上げる」という体験をして、少なからずショックを受けたという。

Me and 42… Or how Douglas Adams Taught Me that the Meaning of Life can be Found in the Fundamental Interconnectedness of All Things
 by Arvind Ethan David
 お気に入り: 『長く暗い魂のティータイム』

 これまで何度もこの話を繰り返し話してきたせいで、今となっては、きちんとした話ではなく単なるネタへと転げ落ちそうになっている。インタビューとかコミコンでのトークとかで披露する、短くも気の利いた情報、というヤツだ。よくできた話だから、いつも大きな拍手してもらったり「おお」と感心してもらったりするが、次の瞬間、さて別の話題に移りましょう、という仕儀になる。

 この点にこそ、何度も同じ話を繰り返すことの危険性がある。最初は極めて個人的な話だったはずなのに、いつの間にかみんなが知っている公の話と化している。自分の人生を変えるような経験が、単なるキャッチフレーズに堕している。

 だが、この本の編集者が私に長いエッセイを書く機会を与えてくれたので、記録として残せるよう、話をきちんと正したいと思う。これが話の全体像、少なくとも私の立場から見た全体像だ。「ダグラス・アダムスがいかにして私の人生を変えたか」についての。

 話は1990年代始め、私がバッキンガムシャーのストウというところにある寄宿学校にいた時分に遡る。実家から遠く離れ、ティーンエイジャーだった私は……

 いや、違うな。話はその数年前、私がまだ自宅にいた時分から始まる。正確には、マレーシアのペタリンジャヤにある祖母の家だ。先に言った通り、イギリスからは遠く離れていた。

 1986年、私は11歳で、祖母のアームチェアに座り、パティオの大きなフレンチ窓から差し込む熱帯の太陽を浴びながら、祖母の果てしない量の、果てしなく実り多い本棚から見つけ出した、新しい本を読み始めようとしていた。

 と言っても、ただの本じゃない。それは「まったく驚くべき本」、『銀河ヒッチハイク・ガイド』だった。

 正確にどのページで私の首筋の毛が逆立ったのかは憶えていない。だが、読んでいる間ずっと、首筋の毛は逆立ったままだった――私は奇妙な興奮状態にあったのだ、この本は他でもない私自身に向かって直接語りかけているのだ、と。タオルから宇宙旅行まで、すべての事柄について不条理かつ不条理なまでによく出来た理論を披露する、ドライで愉快で自信たっぷりだけど同時に人好きのする語り口は、どういうわけか私の頭の中にまっすぐ突き刺さり、私をこれまで以上に利口で、幸せで、イケてる人間にしてくれた。

 1冊の本にこんな力があるなんて。全く想像だにしなかった。

 自分の一生をかけて物語を書こうと決心したのは、この瞬間だったと思う。当時は気付いていなかったけれど。

 5年後、私は自宅を出てイギリスの寄宿学校に入った―祖母の家から9000マイルも離れ、幾夜涙で枕を濡らしたことか。

 学校では楽しいこともたくさんあったが、さまざまな困難もあった。

 授業をさぼって自転車置き場でタバコを吸うようなクールな子どもにならないでいることは難しかった。サッカーもラグビーも下手だというのも厄介だったし、それと同様に、当時は完全に自覚してはいなかったものの、胸の奥底では「白人でない」ということも事を困難にしていると気付いていた。

 寄宿学校に来る前から生まれ育ったマレーシアではイギリスに関する本を何冊も読んでいたし、私が自分を重ねるヒーローと言えば、ジーヴスとかシャーロックとかアーサー・デントとかスミス(註/P・G・ウッドハウスの小説の主人公の一人)だった。そんな自分を、まさかクラスメートたちがモーグリ(註/『ジャングル・ブック』の主人公で、狼に育てられた少年の名前)扱いするなんて夢にも思わなかったのだ。

 セルフイメージと外見との食い違いに葛藤するうち、私はストウにある図書館に逃げ込むようになった。が、そんなある日、いくつかある図書館のうちの一つで私は素晴らしいものを見つけた。ダグラス・アダムスの新刊小説だ。

 何とそれは『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズではなく、『ダーク・ジェントリー全体論的探偵事務所』という全く別のシリーズだった。

 最後まで読むまでもなかった。全体の三分の二ぐらいまで読んだところで、私は担当教員の部屋に行ってこう宣言した。

「僕が次にやる寮の劇を監督します。今度こそ僕の番です。ずっと待っていたんですから。」

「やあ、アルヴィンド。その前に一つ確認したいんだが、どんな芝居をやりたいと思ってるんだ? シェイクスピア? ショウ? 『ヴェニスの商人』ならここしばらく上手に上演されていないんだが……」

「違います。僕がやりたいのはこれです。」

「でもこれは戯曲じゃなくて小説だよね。おまけにサイエンス・フィクション? え、書いたのはダグラス・アダムス? ダグラス・アダムスと言えば、聞かせたい話があってね……」

 それは誰も想像しないような、思いがけない話だった。

 私に劇の監督をさせてくれるよう説得しなくちゃならないこの教師は、アンソニー・G・メレディスという名前だった。学校の流儀に従い、私たちはAGMと呼んでいた。ラテン語と古典ギリシャ語を研究する古典学者で、クリケットと古典音楽に関する百科事典的な知識を持つ、博識でウィットに富んだ人物だった(今、彼の名前をググってみたところ、教師を引退した後にマシュー・アーノルドとW・G・フィールズの伝記の決定版を書いていた)。

 AGMはものすごく忘れっぽくてエキセントリックだった――それこそクロノティス教授並みに。素晴らしい知性の持ち主なのに、あるいはだからこそなのか、話している途中でしょっちゅう自分の思考の脈略を見失ってしまうのだ。彼の心はまるでザルみたいだった。クロノティス教授だって、もしこの単語を思い出すことができたならそう言っただろう。

 だがこの日に限っては、彼は大事なことをきちんと憶えていた。20年くらい前、最初に赴任した学校で教師として働き始めたばかりの頃、まるっきり目立つところはないが背だけはとにかく高い生徒がいて、その生徒のイニシャルがDNAだった、と。

 20年の歳月を経て、私とダグラス・アダムスは同じ教師に教わっていたのだ。またその教師というのがクロノティス教授に激似で、かつ、『ダーク・ジェントリー全体論的探偵事務所』を学校劇で上演したいという私の無謀な企画に対し、今まさに賛同しようとしている。

 すべてのものは繋がっている。

 この偶然のおかげなのか、はたまたこれ以上私と議論するのが面倒だったのかはさておき、AGMは私に許可を出し、かくして私はわずか3週間のうちに『ダーク・ジェントリー全体論的探偵事務所』を脚本化して上演する身となった。脚本など書いたこともなかったから、私は数少ない友人に助けを求めることにした。それが、ジェイムズ・ゴスだ。

 ジェイムズと私が仲良くなったのは、サイエンス・フィクションが好きで何かを書くのが好き、という共通項があったからだが、どこをとってもイギリス人そのものだったにもかかわらず、ストウの学校では彼が私以上にアウトサイダーだったからでもある。彼は素晴らしく頭はいいが、スポーツは絶望的にダメ、キツい皮肉屋で、本人はその当時まだ完全に自覚していなかったけれど、ゲイだった。

 私たちは、自らを「学校のよそ者天才」と公言し、この秘密のミッションに着手した。『ダーク・ジェントリー』を脚本化する――とてつもなく複雑なプロットで、400万年ものの時間の流れがあり、3つの平行宇宙があり、登場人物には全体論的探偵と、エイリアンと、幽霊と、エイリアンの幽霊と、電動修道士が含まれる。私たちは、この小説を自分たちの都合で作り変え、上演することに決めた。私が舞台演出をし、必然、タイトルロールも演じることに。

 だって、小説のどこにも「ダークはブラウンじゃない」とはっきり書かれていないじゃないか。

 16歳だった私たちは、著作権のことなど全く気にせず舞台化した。すごく短くて(1時間しかなかった)、みんなの感想は「おもしろいけど完全に理解不能」だった。予算は40ポンドだった。

 このプロダクションの録画映像は存在している。インターネットに上がっているのを見つけたことがある。どうしてそうなったのかは、謎だけれど。

 だが、どういう訳か、学校のごく一部の間では、この芝居はすごい人気を獲得した。そのおかげで、私たちの学校生活が大きく変わることになった。どうやら『ダーク』の人気が私たち自身をも取り込んだらしく、突如として、思いがけず、私たちまで人気者になっていた。

 と言っても、「以前の私たちと比べて人気者になった」ってことだけど。それでも、まあ、ちょっとしたことではある。

 同時に、私は舞台の魅力を味わってもいた。脚本を書いて演じる楽しさ、というだけでなく――何より、共同作業で生まれる仲間意識とか、「ショウ・マスト・ゴー・オン」精神による気の触れたような陶酔感とか、そういったものを。ドーランの哄笑や、観客の匂いも大好きだった。

 私はすっかりハマった。もっとやりたい、やらねばならない。私の乏しい理解では、演劇界で仕事をするために今の私がなすべきことはただ一つ――オックスフォード大学かケンブリッジ大学に進学し、そこで俳優か、役者か――あるいは劇団長になるのだ!

 18ヶ月後、私はオックスフォード大学で2学期を迎えていた。1歳年上のジェイムズは、私より先に進んでいて、ニキビ面の男の子たちと数多くの情事をこなしていた。この分野に関しては私は奥手だったが、それでも少なくとも女の子とキスしたことがあったから、自分としては大得意だった。

 そしてまた、大学には黒人もアジア人もいた。多くはなかったが、確かにいて、そのうちの何人かはクールで人気者でもあった。人生がこれまでになく素晴らしいものに思えた。

 その頃までに私は3つの芝居の脚本を書いていた。立て続けに3作、ほとんどスケッチと言っていいくらいの短いものだったが、そんなに悪くなかったらしく、演劇部と劇場を運営している先輩の学生から、もっと長い作品を書いてみないかと言われた。オックスフォードで2番目に立派なオールド・ファイア・ステーションという劇場と、巨額とも思える予算が、この私にオファーされたのだ。さあ、どうしよう?

 今回は、今回こそは、絶対に失敗できない。

 今回は、今回こそは……ちゃんと許可を取るべきだな。

 というわけで、私たちはダグラスのエージェントに連絡を取り、『ダーク・ジェントリー全体論的探偵事務所』を脚色させてくださいとお願いしたところ、相手がすごく親切なマギー・フィリップスとエド・ヴィクターだったおかげで、「いいよ」と言ってもらうことができた。

 さらに驚きだったのは、彼らが実際に上演を観に来て、かつ気に入ってくれたことだった。すごく気に入ったからダグラスにも絶対に観なきゃと薦め、楽日の前の日、とうとうご本人がやってきた。

 その夜、私は上演を観ることができなかった。

 私は、ダグラスが上演を観るのを見ていた。

 私はびびりまくっていた。私たちはストーリーを変更し、登場人物をカットし、新しい登場人物を追加し、プロットを書き換えていたからだ。

 最初のうち、彼は静かに座っていたので、ああ彼に嫌われたなと思った。が、10分くらい経ったところで、彼は笑い出した。

 そして、メモを取り始めた。

 その夜遅く、モロッコの羊肉と赤ワインで紅潮しながら、ダグラスは私たちの心を開かせ度肝を抜いてくれた。私たちはショーについて話した。とんでもなく寛大なことに、彼は私たちが彼のプロットを「書き換えた」のではなく「修繕した」と断定してくれた。さらに、彼は『銀河ヒッチハイク・ガイド』の度重なる脚色の仕事にうんざりしていたこともあって、これまでは『ダーク・ジェントリー』のテレビドラマ化や映画化は考えたことがなかったけれど、私たちの作品を観てその気持ちを変えたと言った。私たちは、執筆過活動や、映画作り、コンピュータ・ゲームやウェブサイト(1995年のことである)のビジネスについて、共同作業の楽しさや小説執筆の孤独などについて話をした。私たちは19歳だった。

 生きて夜明けを見る至福
 だが若さこそまさに天国
("Bliss was it in that dawn to be alive. But to be young was very Heaven" は、ワーズワースの詩の一節)

 この時から、ダグラス・アダムスの人生と私の人生がじわじわと結びつくようになっていった。事は段階的に進んでいった。最初の繋がりは、芝居限定だった。彼は、私たちのヴァージョンを「公式」認定することに決め、私たちに永遠の著作権をくれた。私たちは著作権の収益はすべて寄付に流れるよう手配した――実際のところ、寄付金のいく先はサイの保護団体だった(彼は Save the Rhino International の創設出資者で、チャリティのためにサイの着ぐるみを着てキリマンジャロ登山の過程に参加したことでも知られている)。つまり、この芝居はその後も上演され続けた。ジェイムズと私がプロダクションにかかわったものもあるし、かかわっていないものもある。オックスフォードでも、私たちが卒業した後に再演され、場所はオックスフォード・プレイハウス、上演規模は前よりずっと大きく、しかも主演はローリー・キニア――当時21歳だった彼は素晴らしくて将来きっと有名になるだろうと思ったが、実際、ジェイムズ・ボンド・シリーズの映画やテレビドラマ『ナイトメア 〜血塗られた秘密』シリーズ等で素晴らしい演技を披露している。

 ダグラスは友達を連れてこの上演を観に来ることにした。私たちはパーティで一緒にお酒を飲み、私は紳士用トイレでアイリス・マードックを救出する羽目になった。

 しかし、私たちの人生はここからさらに密接に結びつくようになっていった……ますます密接に……。

 ロンドンに住み始めた最初の年、もうオックスフォードにはいないという現実をなかなか受け止められず、自分が何をすべきか決めかねていたが、オックスフォード・ユニオンでのスピーチを依頼されたダグラスは、そんな私を一緒に来るよう誘ってくれた。

 彼のスピーチは秀逸で愉快で軽妙で、私はというと、観客席の一学生ではなく、ゲストとして演壇で彼の横に座っていた。「うん、これぞまさしく自分が望んでいた通りの展開だよな」と思いながら、将来、自分がスピーチを依頼される日のことを妄想し始めた……。

 その夜遅く、ダグラスは私をロンドンまで車で送ってくれ、ドライブの間ずっと彼が今かかわっている仕事のことについて二人で延々と話をした。私が住んでいたベイカー街とメリルボーン・ロードの角で車を止め、別れ際に彼は言った。

「あのさ、僕のプロダクション会社のパートナーに会ってみない? ロビーとイアンとトーマスの三人なんだけど。君ならきっとあの三人とウマが合うだろうし、きっと一緒にいろいろな仕事ができると思うんだ」

 私が実際に口に出して言ったのは、「いいですね、それは素敵だ」

 でも頭の中ではこう叫んでいた。「やったあああ、神様どうかお願いうまくいきますように!」

 それから1年に亘って私はデジタル・ヴィレッジという名のダグラスの会社と仕事をし、弟に協力してもらって新作コンピュータ・ゲーム「宇宙船タイタニック」のテストをし、地球版『銀河ヒッチハイク・ガイド』こと h2g2.com の立ち上げミーティングに参加した。最高にクールなオフィスは、最初はカムデン、後にコベントガーデンに移転した。メンバーはみんなクールで若くておもしろかった。スーツを着ている人なんかいなかったし、誰も彼もが友達みたいだった。

 私は学んだ。これこそがキャリアを向上させ人生を発展させる方法なのだ、と。仲間と一つの部屋に集まってクールなことをやっていれば、お金は転がり込んでくるのだ、と。

 もともと考えていた法律家としてのキャリアを積むよりも、こちらのほうが断然おもしろそうに思えた。で、1991年に私は自分自身の会社を立ち上げ、ダグラスのビジネスパートナーの一人だったイアンとパートナーシップを組むことにした。

 (イアン・チャールズ・スチュワートは、私がこれまでに出会った中でも最高に素晴らしい人なので、彼についても書き添えておかねばなるまい。地球の反対側で活躍するジャーナリストとインドネシア人モデルとの間に生まれ、ビジネススクールに入学する前から旅行写真家として高く評価されており、ルイス・ロゼット、ジェーン・メトカーフと共に雑誌『ワイヤード』創刊に携わった。彼は私に、創造性とビジネスを両立させる方法や、超高級ワインの注文の仕方とその楽しみ方を教えてくれた。)

 会社には親しい友人たちを雇い、一緒になってクールなものを生み出そうとした。自分たちの会社のことは ‘hahabonk’ と呼び、基本的に「ウケるか否か」だけで矢継ぎ早にインターネット用にお笑いのビデオクリップとかアニメーションを作っていたら、しばらくの間はそれだけで大金が転がり込んできた。

 私は、まだ23歳にもなっていない頃から大金持ちのように振る舞うことを余儀なくされ、あちこちからスピーチを依頼され、これといった理由もなくニュースに取り上げられるようになった。

 楽しんではいたけれど、多分、ちっとも健康的ではなかった。

 そして2001年、立て続けに4つのひどい出来事が起こった。

 ダグラスが死んだ。49歳で心臓発作、作家としての一時的なスランプを脱すべくトレッドミルで汗をかいている最中のことだった。

 Hahabonkが倒産した。ブロードバンド以前、56Kの世界では、私たちのオフィスの外にいる人たちは私たちが作るものをクールだと思わなくなり、その結果、次第に私たちにお金を払って仕事を依頼してくれる人もいなくなったという訳だ。

 父の体調がひどく悪化したため、マレーシアに戻って数ヶ月に亘り父の介護をしなければならなくなった。

 おっと、忘れちゃいけない、オサマ・ビン・ラディンがいくつかの飛行機をニューヨークに差し向けたっけ。

 この年のことはよく憶えていない。会社が潰れた。私のキャリアは自滅した。私の師匠は死んだ。実の父親は入院中で、世界は狂気に向かって突き進んでいる。

 私は24歳だった。

 ダグラスの葬儀は一大イベントで、多くの有名人が胸の痛くなるようなスピーチをし、ミュージシャンが演奏した。愚かにも、私は自分も招待されていると気付かず、参列しなかった。代わりにインターネットのライブ中継を見て、空っぽのオフィスで泣いていた。改革者の最期にふさわしく、初めてウェブキャストされた葬儀だった。BBCでウェブキャストのプロデューサーをしていたのは、私の旧友、ジェイムズ・ゴスだった。

 #すべてのものは繋がっている

***

 創造的になれるまで数年かかった。父の容体は次第に良くなっていった。私はビジネススクールに通ったが、「ビジネス」をやりたかったからというより、自分の人生を取り戻し、大人になって自分がやりたいことが何なのかを掴むまで、現実世界から逃避するための時間稼ぎだった。

 セラピーも受診した。すごくたくさん。ランニングもした。すごくたくさん。トレッドミルでも道路でも、何百マイルと走った。私は死ななかった。ゆっくり、少しずつ、心と頭が回復していった。

 私はビジネススクールっぽい仕事を受けるようになった。コンサルタントとか、アナリストとか、ベンチャー・キャピタリストとか。

 そそれられるものもあった。でも、私の中のどこかに「ビジネス的なこと」はやりたくないという気持ちがあった。私は、生前のダグラスがやっていたようなことがしたいのだ。クールな部屋で仲間と集い、クールなものを生み出すことで私と仲間にお金を払ってくれる人を見つけたい。

 そんな折、トーマスと出くわした(「僕のプロダクション会社のパートナーに会ってみない? ロビーとイアンとトーマスの三人なんだけど」)。

(トーマス・C・ホーグについても書き添えておかねばならない。というのも、彼はあまり自分について語らないからだ。彼は、世界一腰の低い大金持ちである。ノルウェーの世界的海運会社の一族に生まれ、彼の祖父が創設し、彼の父親が世界的な企業にまで発展させたにもかかわらず、彼自身は家族経営の会社を引き継ぐことに関心がなかった。彼の関心は、クールな仲間とクールなものを作り出すことだった。そこで彼は演劇学校に行き、クールな劇場で演出の仕事をし、その中にはリレハンメル冬季オリンピック閉会式も含まれていたが、その後ハーバード・ビジネス・スクールに進学し、ヨーロッパで最初にして本物のインターネット・インキュベーター「アーツ・アライアンス」を創設してさまざまなクールな会社の起業を助け、何百万ドルもの値打ちがある刷新を行い、時代に先駆けて世界中の人々にインターネットの有用性とおもしろさを知らしめた。)

 トーマスとは、ダグラスの生前に一度会ったきりだった。でも、ビジネススクールを出た直後にたまたま同じ部屋に居合わせて、お互いに相手を思い出すことができた。どうやら彼は、私のビジネススクールと創造性の混在っぷりを気に入ってくれたらしく、彼や彼のチームの許に招待してくれ、一緒に何かやってみようということになった。

 「次に何をやりたいと思ってる?」

 「クールな人たちと、クールなことをやりたい」

 「OK、よくわかった」

 私はビジネスプランを書き、彼はそれをチェックし、そうして私たちは映画会社スリングショットを立ち上げた。長い時間をかけてビジネススクールに通い、hahabonkでの自分の間違いを徹底検証したおかげで、今回は私も少しは会社経営の何たるかを心得ていたが、私が学んだ一番の教訓は、自分の周りに自分より賢くて自分より経験豊富な人にいてもらうことの重要性だった。

 この件に関しては、私はかつてダグラスと一緒に会社経営をしていたロビー・スタンプ(「ロビーとイアンとトーマス」)にそばにいてもらい、アドバイザーとして私に意見してもらうことにした。今回は、おもしろいだけでなく、私は自分が何をやっているか、多分、わかっていた。

 私たちは何本かの映画を作った。良い作品もあったし、さほど良くない作品もあったが、5年かけても大きなヒットには至らなかった。クールなものを作るビジネスでは、クールなものを作り続けるために必要なのが「ヒット」だった。

 ある日、ロビーが私に言った。

 「私の友人で作家のモルウェンナ・バンクスに会うといい。彼女なら良い映画のアイディアを持っているんじゃないかな。それに、彼女は私が知っている中でもすごく素敵な人で、以前は私も彼女に恋していたしね」

 ダグラスがロビーの言うことに耳を傾けていたくらいだから、私もロビーの言うことには耳を傾けねばならず、そこで私はモルウェンナと会う手はずを整えた。ミーティングは、たまたま、2006年のヴァレンタイン・デーになった。その日だったからか、あるいはロビーに言われたからか、私は赤い薔薇の花束を持っていくことにした。

 さて、みなさんに「おお」と驚いていただける瞬間がやってきました。三度目のダグラス・アダムス・コネクションを通して、私は現在の妻に出会ったのです。ロマンチックでアメイジングで、#全ては繋がっている……ハートの絵文字も添えましょうか。

 ま、他にもいろいろあったんですけどね。

 実際には、ランチ・ミーティングの途中、モルウェンナの長年のボーイフレンドで、コメディアンで作家のデイヴィッド・バディエルがレストランの脇を通り過ぎ、自分の子どもたちの母親がヴァレンタイン・デーに見知らぬ男とランチしているのみならず、その男が彼女に赤い薔薇の花束を捧げようとしているのに気づいて、レストランに飛び込み……

 わだかまりが解けた後、デイヴィッドは私に言った。

 「それなら、僕にもアイディアがある。自分は実は養子で本当の親はユダヤ人だったと知った、イスラム教徒の男性が主人公のコメディなんだけど」

 子どもの頃から人種のアイデンティティという課題に関わり合ってきただけに、この素晴らしいアイディアが私の思考の感情の核に触れた、ということもあるけれど、それと同時に、彼のガールフレンドに薔薇の花束を渡すところを目撃されて動転していた、ということもあって、私はこう言った。

 「うん、それはすごくいい、絶対に一緒にやろう」

 こうして私たちが作り上げた映画 The infidel は私にとって初のヒット作となり、映画が公開された時には、自分を印象付けられるかもと思って、出会ってまもないニンという名の美しい女性をプレミアに誘った。

 私の狙いは的中し、18ヶ月後、デイヴィッドとモルウェンナの間に生まれた12歳の少女ドリーが、私とニンの結婚式で歌を披露してくれたが、彼女が歌う信じがたいほど美しい「ユア・ソング」に参加者全員が涙を流した。

 すべてのものは繋がっている。

 ヒット映画を作ったことで、道が拓けた。ハリウッドが私のドアをノックしてきたのだ。私たちは The infidel のテレビドラマ化権をネットワークに売り、映画をスタジオに売って、大勢の興味深いハリウッド人種とのミーティングを重ねた。ミーティングの大半は全く意味をなさず、白い歯をキラキラさせた笑顔の数々はどこにも行き着かなかった。ハリウッドタイプとのミーティングは初回がベスト、ほとんどの時間は無に等しい。その瞬間は楽しくても、ほとんど無価値で無意味だった。

 でも、この時に出会った二人とだけは良い友達になり、今も変わらず友達でいる。女優のナンダーナ・センと、マックス・ランディスという名の若くてまだ何も作ったことのない脚本家の二人だ。この二人のことは憶えておいてください、この後の話に出てきますから。

 ハリウッドと行ったり来たりするうち、私はロンドンと離れる時が来たと思った。オックスフォードを去った日の朝から私はここで15年間暮らしていて、ここ以外の場所で働いたことがなかった。新しい冒険に飛び込む準備はできていたし、それは私の素晴らしき新妻も同じだったので、ニンと私は荷物をまとめ、天使の街、夢の都であるロサンジェルスへと引っ越した。

 この街でなら、誰だって仕事を見つけられるはず。

 私は自分のキャリアにおいて初めて、「繋がっていない」と感じた。学生時代から今に至るまで私が築き上げてきた人間関係の深い網の目、中でももっとも決定的だった、ダグラスの友人や同僚という素晴らしいサポートのネットワークは、今や5000マイルもの彼方だった。

 私はハリウッドのシステムについてわかっていなかった。私はそのシステムの中で地歩を築くことができず、素晴らしいけれどまったく無意味な初回のミーティングをただ重ねるだけで、ほとんど何もできなかった。

 この10年というもの常に忙しく活動的だったのに、突如として私は行き詰まってしまった。私はもう3年も映画製作をしておらず、資金は底を尽きかけ、これは新しい国で暮らし始めた新婚夫婦にとってよろしくない状況だった。

 hahabonkの失敗と悲惨だった2001年の最悪の記憶が甦って、私は鬱に陥りかけており、共に働くパートナーとしてはあまり望ましい人間ではなくなっていった。哀れな私の妻は、飛ぶ鳥を落とす勢いの作家兼プロデューサーと結婚し、LAでのグラマラスで充実した生活を保証されて自分の友人や家族から遠く離れた場所までやってきたというのに、気がついてみたらとんだ地獄に足を突っ込んでいた……。

 そんな折、私の友人ナンダーナ・センが、私が知らないジョンとかいう男との結婚式に招待してくれた。結婚式はニューヨークのハンプトンで挙げるから、私たちにそこまで来て欲しいという。

 結婚式は素晴らしかった。ナンダナの家族が、インドの文学や芸術や学問の世界に名を連ねる名家だった――彼女の父親はノーベル賞経済学賞を受賞したアマルティア・センで、母親はベンガル語の著名な詩人のナバニータ・デーウ・センだ――というだけでなく、彼女が結婚したジョン・マッキンソンという少しばかり年上の男性のほうも、随分前にすごい文学界の一族の出身者と結婚していたことがあった。彼はイギリス人だったから、結婚式には大勢のインド人に混じってたくさんのイギリス人が来ていて、私としては故郷に戻ったような気分だった。

 その上さらに、私は自分のテーブルに随分と年配で髭をたくわえた男性がいるのに気が付いた。エド・ヴィクター――ダグラスのエージェントで、オックスフォードにいた時期に会ったことがある。彼が私たちの舞台を観て、ダグラスにも観るよう薦めてくれたのだ。

 「エド、アルヴィンド・デイヴィッドです。あなたは憶えていらっしゃらないかもしれませんが……」

 「アルヴィンド・デイヴィッドだって! 『ダーク・ジェントリー全体論的探偵事務所』の?! もちろん覚えているとも! 久しぶりだね、最近はどうしているんだい?」

 私が彼に、目下の行き詰まりには触れずに、映画やテレビドラマを製作しています、とだけ話すと……

 「そう言えば、『ダーク・ジェントリー』の映像化権がアダムスの財団に戻ってきているんだが、君はあの小説が好きだったね。今でもそう?」

 「もちろんですとも!」

***

 その夜遅く、私は花婿のジョンがたった一人で崖の淵に立ち、暗い海を見下ろしているのに気が付いた。ほんの数時間前、感動的で夢のような結婚式で生涯をかけて愛する女性と結ばれたばかりの男にしては、びっくりするくらい悲しげだった。ジョンとはこの日初めて会ったばかりだったけれど、私の親友と結婚したんだし、エド・ヴィクターとの再会で心が浮き立っていたこともあって、私は彼のほうに向かって行った。

 「やあジョン、大丈夫?」

 「あ、ごめん、ちょっと親友のことを思い出していてね。その親友は、30年前に僕が結婚式を挙げた時の付添人(ベストマン)だったんだけど、今日ここに彼がいないのが辛くてね」

 「それって誰? どうして来られなかったの?」

 「心臓発作で死んだんだ。まだそんな年齢でもなかったのに。もう12年も前のことだ。ダグラス・アダムスって人なんだけど」

 すべてのものは繋がっている

***

 かくして2017年2月現在、私はハリウッド・ヒルズにある自宅の書斎でこの文章を書いているわけだが、現状は以下の通りだ。

 私のオフィスは街の反対側にあり、BBCアメリカとNetflixに向けて私が製作しているテレビドラマ『私立探偵ダーク・ジェントリー』第2シーズンのために多くの人たちが忙しく働いている。数週間以内にバンクーバーでの撮影が開始されるが、そこではさらに200人もの人が現在のチームに加わることになっていて、番組の製作には年内いっぱいかかる予定だ。

 それもこれも第1シーズンが素晴らしい結果に終わったからであり、私たちはダグラスが生み出した探偵を、22もの言語で192もの国のご家庭に届けることができた。探偵役を演じたのは、イギリスの素晴らしい俳優サミュエル・バーネットで、彼の最新作のテレビドラマ『ナイトメア 〜血塗られた秘密』シリーズには、その敵役でローリー・キニアというイギリス人俳優も出演している――そう、1996年にオックスフォード・ユニオンでダークを演じた、あの彼だ。
 
 この番組でメイン・ライターを務め、私の犯罪の片棒を担いでいるのが、マックス・ランディスであり、彼もいまやハリウッドでもっとも注目を集める脚本家だが、私が初めて会ったのは彼が23歳の時であり、彼に言わせれば、「靴紐を結び損ねていた」。

 私と同様に、マックスもかつては周囲にうまく溶け込めない不器用で孤独なティーンエイジャーであり、これまた私と同様に、小説『ダーク・ジェントリー』シリーズを読んでぶっ飛び、人生が変わった、という共通点が、私たちの友情を強固なものにしてくれた。だからこそ私は映像権を手に入れると真っ先に彼に連絡して脚本の執筆を依頼したし、私たち二人のプロフェッショナルな仕事で、世界中のオタクだったり仲間はずれだったりする子どもたちに「君たちは一人じゃない」というメッセージを番組に吹き込むことができて、最高に幸せだった。

 私のコミック・ブック・シリーズ、Dirk Gently: The Salmon of Doubt は毎月発売で、良い評価をいただいている。これは、ダグラスが亡くなる直前まで書いていた未完の『ダーク・ジェントリー』シリーズを、私たちのテレビドラマと融合させ、まったく新しいストーリーを作り出そうとしたものだ。

 16歳の時に初めて書いた、ジェイムズと私の舞台脚本は、サミュエル・フレンチ社から出版され、今も世界中で上演が行われている。いくつかの言語に翻訳もされていて、あまたの野心あふれる生徒たちにあまたの喜びと苦痛をもたらしているようだ。

 ジェイムズは人気小説家となったが、よく知られているのは『ドクター・フー』シリーズのノベライズで、その中でも最新の2作品がダグラス・アダムス脚本に基づく The Pirate PlanetThe City of Death だ。

 番組を製作している私の会社 Ideate Media は、今では2つの国にオフィスがあり、多くの映画やテレビドラマといったエンターテイメント番組の製作に携わっている。

 私は、エド・ヴィクターやアダムス財団と、ダグラスの作品を新しいフォーマットでより多くの視聴者に届けるべく、今なお親密に仕事をしている。

 今や私の兄貴分となったデイヴィッド・バディエルとは、一緒に The Infidel を4回も作ることになった。最初の映画、ボリウッドでのリメイク、舞台のミュージカル、そして今はテレビドラマの製作で奮闘中だ。

 舞台版とコミックス版からの著作権からくる収益は、今なお Save the Rhino に寄付している。ダグラスが就任記念のディナーの席でスピーチしてから20年経った昨年、私も年次総会のディナーの席でスピーチをした。

 私の話から得られる教訓は? 夢をあきらめるな、とか、一夜にしての成功には20年かかる、とか、とりあえずファンレターは書いておけ、とか、憧れの人にはありとあらゆる手段を講じて会え、とか? どれも多分正解だろう。あるいは、もっと別のことかも。

 ダグラスと同様に、私も揺るぎなき「過激な」無神論者であり、死後の世界も超自然の神も信じていない。この世で手に入るものがすべてだと思うが、輝かしく、素晴らしく、かつ、限りあるものだからこそ、すべての瞬間、すべての時間を大切にし、好奇心を持ち、高められる唯一のものを探し求めて大事にしなければならない――つまり、互いの人間関係を、だ。

 たまたま、偶然に、選ばれ、運命付けられ、宿命と化した繋がり、私たちが出くわし、探し求め、生まれつき、持ち合わせた繋がりこそが、私たちを前へと推し進める。大事なのはこの繋がりだけだ。

 私が手にした成功はすべてこの繋がり、多くの人が織りなす強固な網の目のおかげである。私のインド人の祖母、ジェイムズ・ゴス、AGM、エド・ヴィクター、ダグラス・アダムス、イアン・チャールズ・スチュワート、トーマス・ホーグ、デイヴィッド・バディエル、妻のニン、ナンダーナ・セン、マックス・ランディス、そして再びダグラス・アダムス。

 すべてのものは繋がっている。

 私がこのイカれた実話を書き上げ、締めの言葉で飾ろうとしていたら、私の美しい黒白ネコが机に飛び乗ってきた。

 子猫の時と変わらず好奇心旺盛で、どこにでも鼻をつっこみ、あらゆるワイヤーを追いかけ、動くカーソルに手を伸ばす。昨年の誕生日に妻が私にくれた。

 ネコの名前はダークという。

 あと数週間で、また私の誕生日が巡ってくる。今年で私は42歳だ。

The Movie That Didn't Move: The Illustrated Hitchhiker's Guide To The Galaxy (1994)
 by Kevin Jon Davies
 お気に入り:テレビドラマ版『銀河ヒッチハイク・ガイド』

 1994年に出版されたヴィジュアル・ブック版『銀河ヒッチハイク・ガイド』のメイキング。ビジュアル・ブックを製作するにあたって、アダムスはテレビドラマ版『銀河ヒッチハイク・ガイド』のメイキング・ドキュメンタリーを担当したケヴィン・デイヴィスを指名した。1993年の夏、出版社 Weidenfeld and Nicolson の編集者エマ・ウェイから電話を受けたデイヴィスにとっては、まさに寝耳に水だったとのこと。
 このビジュアル・ブックは「動かない映画('the movie doesn't move')」と宣伝されたが、実際の製作過程はまさにその通りだった。俳優をキャスティングし、衣装とメイクと小道具を用意し、セットを組み立てた。エイリアン用の衣装の一部は、『ドクター・フー』の倉庫から借りたりもしたらしい。
 ケヴィン・デイヴィスは、コンセプト・アーティストとしてアダムスと相談しながら42枚のイラストレーションを作成した。テレビやコミックスなど、『銀河ヒッチハイク・ガイド』はそれまでにも何度か視覚化されていたが、それらとの整合性は考えなくていいと言われていたという。
 デイヴィスの美術学校時代の友人でプロの小道具製作者、ジョナサン・サヴィルには、デイヴィスが描いたスケッチをもとに、ヴォゴン人やマーヴィンの撮影用モデルを作ってもらった。特にマーヴィンに関しては、アダムスから自身のイメージにもっとも近いとのお墨付きをもらうことができた。
 撮影を担当したマイケル・ジョセフは、ローリング・ストーンズのアルバム「ベガーズ・バンケット」(1968年)の内側の見開きジャケットを撮影したことでも知られるベテラン写真家。1994年2月、寒いサウスエンドの埠頭での撮影を終え、小さなカフェに逃げ込んでみんなでフィッシュ・アンド・チップスを楽しんでいたところ、日が暮れかけた頃になって突然マイケル・ジョセフが「今からもう一度撮り直す!」と叫んだ――彼だけが、このタイミングの光を使って撮影したほうが良くなるとわかっていたのだ。実際、彼の言う通り、二度目の撮影のほうが素晴らしい出来だった。
 二つ頭のゼイフォードについては、ゼイフォード役のフランシス・ジョンソンの身体の形をもとに、ジョナサン・サヴィルに背骨がY字型になっているという設定でダミー人形を作ってもらい、そのダミーに合わせてアダムスからの要望に従って「ゴルチェのバッタもん」っぽい衣装を着せ、マイケル・ジョセフがダミーとフランシス・ジョンソンを撮影し、最後にコンピュータで合成して完成させた。
 今では誰でも自分のPCを使ってフォトショップで簡単に加工できるけれど、1993年当時は大変な技術と高額なコンピュータが必要だった。撮影されたすべての素材は、写真加工のベテラン、フィルム・クリエイティヴ・サービスのコリン・ハーズのもとに送られ、彼のコンピュータ上でバラバラの素材がジグゾー・パズルのように組み立てられた。ただし、「42」の箇所だけはアダムスが自分でデザインし、自分のマックで作成したものである。
 銀色のホログラフィックな表紙は、編集者のエマ・ウェイが、マドンナの写真集『SFX』にインスパイアされて選んだ。が、エマ自身は完成する前に退職してしまい、彼女のアシスタントだったリチャード・アトキンソンが最終的に校了した。出来上がった大きくて銀色の本は、運びにくい上に傷つきやすく、多くが倉庫送りになってしまった。続編が製作されなかったのも無理はない。

Walking with Douglas: How Doug Helped the 1994 African Rhino Climb to Save Endangered Species
 by William Todd-Jones
 お気に入り: 『これが見納め 絶滅危惧の生きものたち、最後の光景』&『銀河ヒッチハイク・ガイド』

 1994年、野生のサイの保護活動団体 Save the Rhino International は、支援運動としてサイのコスチュームを着てキリマンジャロに登るというイベントを企画した。が、世間の注目を集めるためには、スポークスマンとなる人がいなければならない。そこで、団体の創設者であるデイヴ・スターリングとジョニー・ロバーツ、そして団体の支援者ウィリアム・トッド=ジョーンズの3人は、アダムスの妹で熱心な自然保護活動家だったジェーンのツテを頼りにアダムスに手紙を渡すことにした――それも、ウィリアム・トッド=ジョーンズがイズリントンにあるアダムスの自宅を訪ねるという形で。
 夜間、ヘルメットに革ジャン姿でバイクにまたがり、アダムス宅の玄関をノックすると、最初に出てきたのは妻のジェーンだった。続いて出てきたアダムスに手紙を渡すと、アダムスはその場で読んで、「ちょっと考えさせてほしい」と言った。
 数ヶ月後、ウィリアム・トッド=ジョーンズたち Save the Rhino の一行は、旅の始まりであるケニアの港町、モンバサに着いた。アダムスと妹のジェーンは、ツァボ国立公園あたりで遅れて合流した。アダムスも何時間かサイのコスプレをして歩いたが、その姿は本人の言葉を借りれば「巨大なエビの天ぷら」。暑くて重くて大変だったはずだが、アダムスいわく「書かなきゃいけない原稿を仕上げるよりずっとラク」とのことだった。
 キリマンジャロに向けての行進中、ウィリアム・トッド=ジョーンズはアダムスと話をする時間はたっぷりあったが、「二人で話をした」というより、もっぱらアダムスの話を聞かされていた。一番よく憶えているのは、アダムスが関心を持っていた「水生類人猿説」の話(『ポップ・カルチャー発掘 考古学とサイエンス・フィクション』参照)。
 夜になると、テントを張って火を起こした。20000年前と変わらぬ世界がそこにはあった。唯一の違いは、アダムスが持参したギターでビートルズやピンク・フロイドプロコル・ホルムなどを演奏してくれたことだった。
 数日後、アダムスとジェーンは一足先に帰国した。残された一行は、無事、キリマンジャロ登頂に成功した。
 この旅の仲間のうち、既に3人が鬼籍に入っている。ケニアの環境保護活動家でサイの保護に尽力したことで知られるマイケル・ウェリへ(Micheal Werikhe)、イギリスの環境保護活動家ジャイルズ・ソーントン(Giles Thornton)、そしてダグラス・アダムス。彼が雑誌『エスクワィア』に寄稿した、この旅についてのエッセイ「The Rhino Club」は、彼の死後に出版された遺稿集 The Salmon of Doubt に収録されている。

The Four Ages of Douglas
 by Lillian Todd-Jones
 お気に入り:『これが見納め 絶滅危惧の生きものたち、最後の光景』&『銀河ヒッチハイク・ガイド』

 ダグラス・アダムスには、人類の歴史は「4つの砂時代」に区分けして語れる、という持論があった。1つ目は、「砂を溶かしてガラスのレンズに加工し、望遠鏡を作ってマクロな世界を理解した時代」。2つ目は、「レンズを顕微鏡用に作り直してミクロの世界を理解した時代」。3つ目は、「砂の成分を抽出してシリコン・コンピュータ・チップを作り、とてつもない量の数字を把握し、宇宙の始まりから元素の組成まで、あらゆるものを数値モデル化して理解した時代」。そして、今、我々が向き合っているのは最後の4つ目の時代、すなわち「光ファイバーケーブルがインターネットで人の何生涯分にも当たる理解(情報)を届ける時代」。
 ダグラスの言葉にならって、私は自分自身の「理解」の過程を「4つのダグラス時代」に分類したいと思う。

 第1のダグラス時代:パパはサイの保護で出張中

 私が5歳の時、はサイの保護活動の一環として「サイのコスプレをしてキリマンジャロに登る」プロジェクトのため、長期にわたって家を離れていた。そのプロジェクトにかかわっていた一人が、ダグラス・アダムスだった。
 子供の頃の私は、馬とかペガサスとかユニコーンの絵を描くのが大好きだった。そんな私に、Save the Rhino International に関わっていた父と父の友人たちは、サイは馬の近い親戚であること、でもサイのツノだけを目当てにサイを殺す人が後を絶たないせいでサイが絶滅する危険にあることを教えてくれた。ユニコーンの親戚を絶滅に追いやるとは、人類は何を考えているのだ?! こんな愚行は止めねばならぬ、ということで、人に話を聞かせるのが上手なダグラス・アダムスという友人と一緒にサイの格好でキリマンジャロに行く、と、父は言った。そういうことなら、父がいなくなるのは寂しくても、受け入れるしかなかった。あと、「やる価値のあることならば、どんなにバカなことでもやる価値はある」ということも学んだ。

 第2のダグラス時代:科学こそ本当の魔法、あるいは『銀河ヒッチハイク・ガイド』の日々

 読書が嫌いだった私にとって、ラジオドラマ版『銀河ヒッチハイク・ガイド』は天の恵みだった。オーディオテープを何度も何度も聴くうち、アーサーとフォードが銀河系を旅する冒険譚に潜んでいる物理学や生物学といった科学についてもっと知りたいという気持ちが湧いてきた。
 科学という魔法を学ぶために最適な場所と言えば、オックスブリッジじゃないか、自分はそこを目指すべきなんじゃないだろうか。たとえどんなに無謀に思えても、やってみる価値があるならやるしかない、ということを、私は先のサイのプロジェクトで学んでいた――とは言え、志望動機の作文なんてどう書けばいいんだろう?
 そう言えば、ダグラスはこうも言ってたっけ。「想像もしないことを想像してみよう。できそうもないことをやってみよう。言葉にできないものがあればそれと取っ組み合ってみて、本当に言葉にできないかどうか試してみよう」
 で、そうしてみた。結果、私は合格した。

 第3のダグラス時代:思いがけないライオンの睾丸

 『これが見納め 絶滅危惧の生きものたち、最後の光景』は、私が地球上で一番好きな本だ。慌ただしい日常生活に追われてスルーしている問題を目ざとく見つける方法を、ダグラスは教えてくれた。それが普通だと思っているかもしれないが、よくよく考えると実はすごくヘン、ということを、ダグラスは指摘してくれる。そして、ひとたび教われば自分でも気づけるようになるのだ。
 学位取得の一環として、ジンバブエで野生のライオンのデータ集めに参加した時のこと。作業の大半は、ウシ科の動物、クーズーを撮影しようと悪戦苦闘することだった。父やダグラスが旅したこのアフリカを自分も探検する、というのは、わくわくするような体験だった。
 そんなある日、場所を変えて撮影しようとしてたら、追跡装置付きの野生の雄ライオンが近くにいるとの情報が入った。2時間ほど待機してすっかり日が暮れた頃、そのライオンは現れた。
 麻酔銃で眠らされたライオンの身体を、私たちは測定した。体長207センチ、尻尾も入れれば3メートルを超えていただろう。肉球だけで、私の手のひらくらいの大きさだった。塩っぽくて土っぽい匂いがした
 麻酔がちゃんと効いていることを常に機械で測定しながらの作業だったのだけれど、それでも突然動き出し襲いかかりやしないかとドキドキした。ダグラスが言っていた「期待できないことを期待する」が、私自身に起こった……まさか生きている野生のライオンの睾丸を測定する日が来るなんて! ちなみにサイズは7.5センチ×5.5センチだった。

 第4のダグラス時代

 ダグラスが教えてくれたことは、私たちのありようを変えてくれた。第4のダグラス時代がどんなものになるか、私は大いに期待している。
 人生はたくさんのストーリーでできている。そのことに気づきさえすれば。
 宇宙は筆舌につくしがたい。でも、言語化しようと試すことはできる。
 世界は驚異に満ちている。それを大切にすることが私たちの使命だ。


Rhinos, Rainbows, & Robots: Waking with Douglas
 by William Todd-Jones
 お気に入り:『これが見納め 絶滅危惧の生きものたち、最後の光景』&『銀河ヒッチハイク・ガイド』

 ダグラスが突然の死に見舞われる1年前、私は彼に会って Save the Rhino International のチャリティ活動について相談した。世界の多様性と進化についての歌やダンスや映像を交えた、Spirit of the Rhino Drum というショーをイギリスで巡回上演したが、今度はそれを世界のあちこちと繋いで世界中の人が同時に歌ったり踊ったりする映像番組を作れないだろうか、と。
 2000年当時のダグラスの返事は、今はまだネット回線が十分ではないからタイムラグが生じて無理だろう、でも回線の技術が進むのは時間の問題だから、じきに可能になるだろう、その頃にはみんなが常にネットで繋がる小さなデバイスを持ち歩いているだろう、とのことだった。また、こうした機器をみんなが持つことへの懸念も口にした。この機器が提供する相互交流は、私たちを自由にするのか、あるいはむしろ私たちを囚人にするのか。さらに言うと、このデバイスだかネットワークだかは、私たちに影響を与えていることを自覚するだろうか。世界中どこにいてもリアルタイムで繋がることにも、私たちのポケットの中で常にアップデートされることにも、当たり前すぎて私たちが意識しなくなる頃に、もしこのデバイスが独自の意識を持つようになったら、どうなるだろう?
 2007年、アップル社は最初の iPhone を発売し、600万もの人々がこの「革命的な電話」を購入した。が、2013年には初代 iPhone は早くも骨董品になった。IBMが開発した「ジル・ワトソン」はオンラインで人と感情的なやりとりができるプログラムを開発したが、「本当の人とやりとりしている」と思って実験参加した生徒たちに実はジル・ワトソンはプログラムなんですよと明かしたところ、多くの生徒は実際の人だろうとプログラムだろうと気にしない、と回答した。
 (パペット使いという)仕事柄、私は人工知能内蔵のロボット役を何度も務めてきた。そのたびに、私はダグラスの問いが頭に浮かんだ。「意識があるとはどういうことか、あるいは、意識の有無はどこで線引きできるのか?」
 幸せなことに、私はラジオドラマ版のオリジナルキャストが出演した舞台版『銀河ヒッチハイク・ガイド』でマーヴィンを操作したことがある。マーヴィンは、惑星サイズの頭脳を持ちながら、何かを楽しんだり没入したりすることができない。AIと人間の違いは、この辺りにあるのではないだろうか。すさまじい量の計算を瞬時にこなすAIにとって、暑いか寒いかも、遠いか近いかも、深いか浅いかも、小さいか大きいかも、たいした違いではない。つまり、すべてが退屈、ということだ。
 AIを研究している団体や企業からの依頼で、一般の人々にロボットと話をさせる実験に参加したこともある。人間の感情や行動を真似るよう注意深くプログラムされたアルゴリズムに対して、生身の人間はどんな反応を示すのか。結果、機械に感情があると人々に思い込ませるなんて楽勝だとわかった。
 では、私たち「毛なしのサル」と「学習機能つき」AIの違いはどこにあるのだろう?

 ダグラスが亡くなったと知った日の夜、眠れずにいた私はテレビをつけた。放送していたのはオープン大学用の教育番組で、カーディガンにコーデュロイのパンツ姿のプレゼンターがホワイトボードの前に立ち、虹を数学的に解説していた。プレゼンターいわく、実は虹は見る人によってその姿が違ってくる、とのこと。たとえ二人並んで一緒に見ていたとしても違っていて、それは数学的に証明できるのだという。
 ひょっとすると、これこそが「生身の脳みそを持つ毛なしのサルによるとっちらかった感情」と「コンピュータのアルゴリズムによる冷静な判断」の差ではないだろうかと私は思う。
 どこからが奇妙で、どこからが予想外で、どこからが狂っていて、どこからが非論理的か、なんて、具体的な線引きはできない。だからこそロボットのプログラミングは難しいのだし、言い換えると、私たちの存在意義はまさにこの点にこそある。
 私が住んでいるダートムアでは雨がよく降るので、たくさんの虹を見ることができる。おかげで、私はたびたびダグラスのことを思い出す。

 ネット環境も整ったことだし、サイのダンスについて再考する時期かもしれない。


Fit the Fifth: 2001-2016
A Life in the Hard-drive: The Salmon of Doubt
 by Russell Cook
 お気に入り:『これが見納め 絶滅危惧の生きものたち、最後の光景』

 ダグラス・アダムスの突然の訃報はショックだった。生前の彼と知り合いだったわけではないけれど、オックスフォードの書店でサイン会をしている彼を見かけたことはあって、その時どうして自分もサインしてもらわなかったのだろうと後悔している。
 訃報から数ヶ月後、ダグラスのハードディスクドライブに保存されていた「ダーク・ジェントリー・シリーズ」の3作目 The Salmon of Doubt の遺稿が出版されるとの情報が流れた。さらなる追加情報によると、生前未発売に終わった小説だけでなく、他のエッセイ等も収録されるらしい。
 2002年5月、The Salmon of Doubt: Hitchhiking the Galaxy one Last Time が出版された。私が密かに想像していたような、ハリー・ポッターの新刊が発売される時のようなお祭り騒ぎは起こらなかった。
 保育園に預けていた息子を迎えに行ってから書店によって本を買い、息子が寝静まってから本を開いた。まずは「ダーク・ジェントリー・シリーズ」の3作目にあたる箇所から読み始めたが、ただの断片の寄せ集めにすぎず、作者の魂が入っているとは思えなかった。はっきり言って、期待はずれだった。
 が、未完の小説以外の部分は素晴らしかった。魂がない、とか思った私が間違っていた。この本を読めば、著者が子供の頃からどのように成長し、見識を広げていったかよくわかる。ウッドハウスについて書いたエッセイも最高だが、彼が世界を旅して考えたことをまとめたエッセイも素晴らしい。ダグラスはドーキンスの『盲目の時計職人』を絶賛していて、実際ダグラスとドーキンスは親しい友人同士でもあったけれど、彼のエッセイはドーキンスに匹敵していると思う。ただし、ドーキンスとは決定的な違いが一つあって、それは彼があくまで「素人目線」で書いていることだ。そのため、すべてが驚きと喜びに満ちていて、そして何よりおもしろい!
 編集者ピーター・ガザーディは、この本の序文の中で、ダグラスは娘のポリーと一緒に海辺を散歩している時が一番幸せそうだった、と書いていた。この本が出た当時、まだ幼児だった私の息子は、今では16歳になっている。息子の成長を見守ることができた私と違い、ダグラスは娘を見守ることができなかった。生命と宇宙は必ずしもすべてが望み通りになるとは限らないのだなと思わずにはいられない。

Comic Notes on a Failure of the Imagination Doctor Who: 'Shada' BBCi 2003
 by Tom Marshall
お気に入り:'City of Death'

 'Shada'に登場する悪いエイリアン科学者スカグラは、他人の心を盗む。他人の身体を盗むエイリアンならこれまでにも『ドクター・フー』に何度も登場していたが、心を盗むのはスカグラが初めてだ。これは、反対意見も、多様性も、表現の自由も、すべてが消えることを意味する。'City of Death' が私たちのアートに対する思い込みについての話だとしたら、'Shada' は知性に対する思い込みについての話だ。スカグラは、誰よりも知性的な自分が自分以外の全員を飲み込んでしまったほうが世界のためになると思っている。他者の意見や視点など、全く眼中にない。それというのも、想像力が欠如しているせいだ。
 'Shada' の舞台背景が、いかにも古き良きといった風情のケンブリッジ大学であることも興味深い。オックスブリッジ卒のエリートたちは、一度ならずエリート至上主義に陥ったタイムロードたちの姿に重ね合わされてきた。私自身、現在オックスフォード大学でドイツ文学を研究している身なので「エリート主義」との批判は他人事ではないけれど、でも私が 'Shada' を賞賛するのはまさにこの点においてなのだ。知性とは、学校教育に限定することなく、もっと広い範囲で考えるべきではないか。ドクターもスカグラと同じ科学者だけど、彼は研究施設に籠っているタイプではない。研究施設の外に出て、社会の正義に関心を寄せる。科学者たちが研究と分析の末にろくでもない計画をぶちあげるのと違って、ドクターは発言する声を持たない者たちの側に立つ。彼は相手を心をかけ、物事を正そうとするのだ。
 どんなに素晴らしい研究や分析も、想像力や共感や思いやりの心がなくては、ひどいものになってしまう。このような主張に、ダグラス・アダムスほどふさわしい人がいるだろうか。ケンブリッジ大卒で、環境活動家で、エッセイストで、小説家で、オールラウンドな想像力の持ち主である彼ほどに。
 愉快で、知的で、おもしろいアイディアがいっぱい――そんな 'Shada' が、2003年、ゲイリー・ラッセルの手でアニメーションとオーディオドラマを組み合わせる形で新しく作り直された。あらゆる点で素晴らしく良く出来た作品だと思う。アダムスにならって、どうか私たちも想像力を発揮し続けられますように。

Tying Up Loose Plot'Ends'And Another Thing…
 by Jared McLaughlin
 お気に入り:Hyperland

 ダグラス・アダムスの死後、ダグラス・アダムス財団の指名によりオーエン・コルファーが発表した『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズ6作目、『新・銀河ヒッチハイク・ガイド』については、ファンの間でも否定的な声がある。否定的な意見は大きく分けて3種類。では、反論してみせよう。

オーエン・コルファーが書いた作品も、所詮ファンフィクションの一つにすぎない」
 でも、彼はファンタジーやヤングアダルトのベストセラー作家であり、素人の書き手ではない。さらに、ダグラス・アダムス財団の許可を得て、一般人が目にすることのできないアダムスのアーカイヴに直接アクセスし、かつ、ダグラス・アダムス財団の希望に沿う形で作品に仕上げた。それは紛れもない事実。

「『新・銀河ヒッチハイク・ガイド』はアダムス本人が書いたものではない。故に正典扱いできない」
 でも、アダムス本人が残したノートや記録に基づいて書かれている以上、完全に別人の作とは言えない。未完だからと人目に触れることなくしまい込まれるより、別の書き手の力を借りてでも日の目を見るほうが嬉しい。

「『新・銀河ヒッチハイク・ガイド』では、おなじみの登場人物たちがまるで別物になっている」
 そんなことはない。シリーズ全体をちゃんと読み返せば納得できるはず。

 ということで、『新・銀河ヒッチハイク・ガイド』も『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズ全6冊の1作として正典扱いされるべき、というのが私の結論だ。 


Hearing 'Shada' : 2003 Big Finish/BBCi 'Shada'
 by Matthew Kresal
 お気に入り:『これが見納め 絶滅危惧の生きものたち、最後の光景』

 この文章を書いているちょうど10年前の2007年、私はBBCアメリカの放送で初めて『ドクター・フー』を知った。が、本格的に好きになったのは、地元の公立図書館でクラシック・シリーズを観た時だった。その中の1本が 'The Pirate Planet' で、この作品がダグラス・アダムスとの最初の出会いだった。『銀河ヒッチハイク・ガイド』のことは知っていたけれど、ちゃんと読んだことはなかったのだ。
 どういうきっかけで未完の 'Shada' のことを知ったのかは憶えていないけれど、2003年に製作されたオーディオドラマ版がBBCの公式サイト上にあるとの情報を得た。当時の私はアラバマの小さな町で暮らす高校3年生で、自宅のインターネットは未だダイヤル回線のまま、(比較的)高速のインターネットを利用するなら高校しかない。
 当時の私は高校のアルバム委員だったから、学校のコンピュータの前で長時間作業する必要があった。私は、PC上でアルバム編集をしながらオーディオドラマ版 'Shada' を聴いた。一度聴いたくらいでは飽き足らず、アマゾンのサイトからイギリスのCDを購入した。こうして私は、テレビドラマとそのノベライズだけでない、Big Finish Production のオーディオドラマ版『ドクター・フー』の世界を知った。
 アルバム委員を務めていた上に、みんなからも頭がいいと思われていたにもかかわらず、私は数学の成績が悪すぎて高校を卒業できなかった。さらに、両親の関係が急速に悪化し、私はファーストフード店でフルタイムで働かざるを得なくなり、精神的にも肉体的にも追い詰められることになった。
 そんな時に救いになったのが、Big Finish Production のオーディオドラマ版『ドクター・フー』だった。自殺したいとまで思った時も、「注文したノベライズ本がまだ届いてない、あれを読むまでは死ねない」と踏みとどまることができた。つらい仕事の後も、オーディオドラマ版『ドクター・フー』を聴けば、地獄のような現実から抜け出してポジティブな気持ちになれた。中でも 'Shada' は、私の気持ちを速攻で前向きにしてくれる一作だった。
 あれから10年、私を取り巻く状況はずっと良くなった。新しい職場に就職し、ライターの仕事も始めた。全米で開催されるコンベンションに参加して、 Big Finish の役者さんや作家さんと会うこともできた。ポッドキャストの司会の補助役をしたこともある。2012年に地元アラバマで開催されたコンベンションでは、主催者側として尽力した。
 2015年のコンベンションでは、ゲストとして呼ばれた Jason Haigh-Ellery とコンベ終了後に話す機会があった。自分の人生において、オーディオドラマ版『ドクター・フー』がいかに重要な意味を持っているか、お伝えしたところ、彼は興味深い話を聞かせてくれた。2003年のオーディオドラマ版 'Shada' は、危うく製作できなくなるところだった、というのだ。なぜなら、当時はディズニーが映画『銀河ヒッチハイク・ガイド』を製作中で、映画化に向けてアダムスのすべての遺作の著作権を一時的に保持していたから。'Shada' はたまたま未完だったため、この軛を逃れることができたそうだ。
 もしオーディオドラマ版 'Shada' が製作されていなかったら、私の人生は一体どうなっていただろう……?

Froody Hollywood Dreams: The Hitchhiker's Guide to the Galaxy Movie
 by Jared McLaughlin
 お気に入り:Hyperland

 映画館で映画を観るのが好きなAVオタク。『銀河ヒッチハイク・ガイド』のことは全く知らず、たまたまショッピングモールのシネコンで期待値ゼロのままに観た映画版『銀河ヒッチハイク・ガイド』がすごく気に入った、とのこと。原作通りではないかもしれないけれど、映画は映画としてこれでいいのではないか?

Opening My Mind, or How I Learned to Stop Nitpicking and Love the 2005 Hitchhiker’s Guide to the Galaxy Film
 by Chris Casino
 お気に入り:ラジオドラマ版『銀河ヒッチハイク・ガイド』全シリーズ

 1993年、叔母が13歳の私に『銀河ヒッチハイク・ガイド』の本を貸してくれたのがきっかけで、ダグラス・アダムスの大ファンになった。 後にVHPテープのテレビドラマ版『銀河ヒッチハイク・ガイド』を見つけ、チープな特撮にもかかわらずおもしろくて夢中で観た。
 翌年、フロリダでの休暇中に、今度はラジオドラマのオーディオテープを見つけて大喜びした。今でも私はラジオドラマが『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズの中でも最高だと思っている。同じ頃、新聞記事で『銀河ヒッチハイク・ガイド』の映画化が進んでいると知り、有頂天になった。実際には、映画版を観るまでそれから10年ばかり待たなければならなかったのだけれど。
 2003年の秋頃から、映画版『銀河ヒッチハイク・ガイド』の具体的な内容が報道されるようになった。監督はガース・ジェニングスで、ジェイ・ローチロジャー・バーンバウム、そしてアダムスの盟友ロビー・スタンプが監修にあたるとのこと。私は嬉々として映画公開までのさまざまなイベントをチェックしていた。
 フォード役をモス・デフが務めると知った時は、エイリアンなんだからニューヨーク出身のアフリカ系アメリカ人が演じたって問題ないと頭ではわかっていても、何となくしっくりこない気がした。ゼイフォード役にサム・ロックウェルが起用されたことには全く違和感がなかっただけに、どうしてモス・デフだと納得できないのか自分でもよくわからない。アーサー役のマーティン・フリーマンについては、魅力的な俳優だとは思うけれど、サイモン・ジョーンズと全然似ていなかったこともあって、自分としては「なし」だと思った――実際の映画を観るまでは。
 映画の製作過程についても逐一追いかけていたが、流れてくるのは関係者一同の幸せそうな様子だけで、そういうことならこちらは何を気に病むことがある? それでも、映画『銀河ヒッチハイク・ガイド』を、モス・デフのファンだが『銀河ヒッチハイク・ガイド』については全く知らない友人と一緒に観に行った時、私がかなりナーバスになっていたことは言うまでもない。
 フタを開けてみれば、私は映画を楽しむことができた。確かに、『銀河ヒッチハイク・ガイド』の大事なフレーズがカットされていたりもしたけれど、総じて原作に忠実だったし、映画としての構成も出来ていたと思う。一緒に行った友人も、映画をとても気に入ってくれた。
 『銀河ヒッチハイク・ガイド』のファンの中には、原作から変更されているから2005年の映画版が気に入らないという人がいるが、そういう人たちには、ダグラス・アダムス自身、新しいヴァージョンを生み出すたびに内容を変更していたではないかと言いたい。マーティン・フリーマンモス・デフサム・ロックウェルもみんな良かったし、とりわけゾーイー・デシャネルのトリリアンは予測不能で素晴らしかった。確かに、カットすべきでないセリフがカットされていたりもしたけれど、全てを盛り込もうとしたら映画は3時間以上の長さになっただろうし、残念ながらアメリカの観客は3時間超えのSF大作には途中で退屈してしまうのだ。
 私は、ダグラス・アダムスのファンサークルのメンバー、デイヴィッド・ハドックがくれた、1987年2月にアビー・バーンスタインが書いた映画版『銀河ヒッチハイク・ガイド』の脚本草稿を読んだことがある。2005年の映画版に文句を言う人は、このアビー・バーンスタイン版を読むといい。原作と同じセリフを使っているシーンですら、ユーモアの要素が見事に奪われているから。原作の重要箇所を削除した上で新しく追加されたキャラクターやシーンに至っては、全くの意味不明。2005年の映画版でも、ハマー・カヴーラとか銀河副大統領といった新しいキャラクターは追加されていたけれど、少なくともそれらはアダムス本人が考案したものだ。この先、2005年の映画版に「原作と違う」と文句を言う輩に会ったら、私はアビー・バーンスタイン脚本草稿を突きつけてやるつもりでいる。
 しかしながら、このエッセイを締めくくるにあたって、私はBBCに対して2017年の今こそテレビドラマ版『銀河ヒッチハイク・ガイド』をリメイクすべきだと言いたい。それも全5シリーズで。今ではアメリカの視聴者も『ドクター・フー』を知っているし(2005年当時は1996年のテレビ映画版しか観られなかった)、テレビドラマ『私立探偵ダーク・ジェントリー』という例もある。1987年当時は技術不足でできなかったSFXだって、今ならできるはずだ。
 そりゃまあ、どんなリメイクをしても『銀河ヒッチハイク・ガイド』の原作マニアは何かしら不満の種を見つけ出すだろうけど。でも、BBCさん、試してみる価値はあるんじゃない?


'Come On, You Beautiful Bitch!' The 2010-12 BBC4 Dirk Gently TV Series
 by Rachel Redhead
 お気に入り:『さようなら、いままで魚をありがとう』

 2010年から2012年にかけてBBC 4で製作された、スティーヴン・マンガン主演のテレビドラマ版『ダーク・ジェントリー全体論的探偵事務所』は素晴らしかった。なのに、どうして、第2シリーズの製作が見送られてしまったのだろう? 第2シリーズを作ったら人類が滅亡するとでも思った? テレビ業界のお偉いさんたちが常に番組の値打ちを正しく判断しているわけではない、ということは、歴史が証明しているのだが。
 ダーク・ジェントリーは、『銀河ヒッチハイク・ガイド』に比べると、労働者階級の色が濃い。とは言え、ダーク・ジェントリーもリチャード・マクダフもケンブリッジ大学に在学していたことがあり、真の労働者階級というにはお上品すぎる。ただし、1970年代くらいまでは、イギリス人はせいぜい中産階級の下どまりの姿でしか描かれず、オックスブリッッジ卒がデイリー・メイルを読んでいるという描写にも、アイロニーの意味合いはなかったのだけれど。
 では、労働者階級出身のコミュニストであるこの私は、ダーク・ジェントリーのどこに惹かれたのだろう? まずは、「全てのものは繋がっている」という考え方だと思う。私は大学で環境科学を専攻したが、この学問領域ではまさしく「すべてのエコシステムは繋がっている」だった。食物連鎖という言葉は間違っている。正しくは「食物網」だ。
 それにしても、どうして第2シリーズが製作されないんだろう。噂によるとBBCはアメリカに映像化権を譲ったらしいけれど、本当かなあ?
 最後にもう一言。このテレビドラマ・シリーズのオープニング・クレジットは最高だった。

Maintaining the Interconnectedness of All Things, now with handy Time Travel! IDW Comicbook Dirk Gently's Holistic Detective Agency and TV series by BBC America
 by Jared McLaughlin
 お気に入り:どれか一つを選べって?! 今日のところは 'Shada' だな。

 ダグラス・アダムスのことを調べれば調べるほど、彼自身がクリエイティヴだっただけでなく、彼の周りにもたくさんのクリエイティヴな人たちがいたことが分かってくる。その中の一人がアルヴィンド・イーサン・デイヴィッドであり、さらに彼を通じてマックス・ランディスやロバート・クーパーという人たちへと広がっていった。
 ダーク・ジェントリー・シリーズは、『ドクター・フー』の未完のエピソード 'Shada' に端を発する。これを基にアダムスは2冊半の本を書き(「半」とは未完に終わった The Salmon of Doubt のこと)、アルヴィンドは舞台版 Dirk を作った。アルヴィンドの舞台版を気に入ったアダムスは彼にダーク・ジェントリー・シリーズの舞台版の許可を与えた。アダムスの死後、2015年にコミックス版の第1作目が出版され、2016年には出版社のIDWはアメリカのケーブルテレビ会社AMCとBBCアメリカと手を組んでテレビドラマ版の製作に乗り出した。そして2017年3月現在、シリーズ2作目が製作中である。
 テレビドラマなら以前BBC4でも製作されたが、こちらが極力原作小説に忠実だったのに対し、IDW版では登場人物の設定を用いつつも、既存の素材を転用させたり新規のキャラクターを投入したりして、全く新しいストーリーになっている。コミックス版のダーク・ジェントリーや『銀河ヒッチハイク・ガイド』といった別のアダムス作品から拝借したものもある。何しろ「全ては繋がっている」だ。
 これまでのところ、コミックス版ダーク・ジェントリーは第3シリーズまで出ている。そのうちの最後の1作は、テレビドラマ『私立探偵ダーク・ジェントリー』とコラボしている。
 原作絶対主義の人は、いきなり『私立探偵ダーク・ジェントリー』を観る前に、まずはコミック版「ダーク・ジェントリー」を読んだほうがいいかもしれない。コミックス版のスタイルやテイストはテレビドラマ版と似ているので、そのほうがテレビドラマの世界にスムーズに入っていけると思う。コミックスにもテレビドラマにもダグラス・アダムスに関する小ネタがあちこちに散りばめられているので、それらを見つけ出すのも楽しい。
 テレビドラマ『私立探偵ダーク・ジェントリー』の登場人物は実に多彩だ。主人公ダークは素晴らしくナイーヴで、元気一杯だ。そして勿論サイキックでもある。そしてフロド、じゃなかった、イライジャ・ウッドが探偵のアシスタント役で、突拍子もない事件が起こった時には視聴者のリアクションを代弁してくれる。雇い主が行方不明になったボディガードや悪いヒッピーなど、いろいろな新規の登場人物はたくさん出てくるが、特筆すべきは全体論的暗殺者のバートとハッカーのケン、この二人のコンビだろうか。タイムトラベルも出てくるし、兵器と化した子猫も出てくる。人間の生気を吸って生きている連中なんてのもいる。
 おまけに、BBC4のテレビドラマ版に比べて、ロケ撮影も小道具も特殊効果も格段に派手になった。勿論、BBC4版には独自の魅力があるし、これがたった4話しか製作されずに終わったことを残念に思う。良い原作小説と良いテレビドラマ版が両立することは稀なのだ。幸い、『私立探偵ダーク・ジェントリー』のほうは順調に新しいシリーズが製作されているようだけれど。
 では、そろそろジェイムズ・ゴスがノベライズした The Pirate Planet に戻ろうか。そうそう、この人もアルヴィンドと繋がっているんだったっけ。

Second Chances: The Pirate Planet novelisation
 by Nick Mellish
 お気に入り:テレビドラマ版『銀河ヒッチハイク・ガイド』

  詩集のサイン会で、ジェイムズ・ゴスに会ったことがある。サインをもらいながら、彼に「あなたの書いた『ドクター・フー』のノベライズThe Pirate Planetは素晴らしいです」と話した。私の本心を正確に伝えられたかどうかは怪しいけれど、The Pirate Planet『ドクター・フー』の数あるノベライズ本の中でも最高作であるという私の言葉と気持ちに偽りはない。
  ダグラス・アダムスの『ドクター・フー』デビュー作となった 'The Pirate Planet' は、たいして出来が良くない。少ない時間で脚本を書き上げなければならなかったから、とか、書き上げた脚本が容赦なく書き直されたから、とか、監督が脚本の意図をきちんと理解してなかったから、とか、いろいろな理由があるにせよ、もともとの脚本も 'City of Death''Shada' に比べれば見劣りする。
 だが、テレビドラマの 'The Pirate Planet' がイマイチだったからこそ、小説版 The Pirate Planet は、(テレビドラマという制約で)手足を縛られていた著者が自由に羽を伸ばして書くことができていたらどんなに素晴らしい作品になっていたかを示してくれた。
 このノベライズの成功には、大きな二つの理由がある。一つは、ジェイムズ・ゴスが素晴らしい書き手で、彼の文章は原作者であるアダムスの語り口にぴったりだったこと。もう一つは、アダムスの初稿を参照したことで、もともとアダムスが語りたかったストーリーがよみがえったこと。
 小説版を読めば、本来の 'The Pirate Planet' が、その当時、いかに時代を先取りしていたかがわかる。なのに、そうとは知らない『ドクター・フー』のファンが多いのが悔しくてならない。
 『ドクター・フー』のノベライズ本は150作を越えるが、その中でも The Pirate Planet は出色の出来だ――ということを、ジェイムズ・ゴスに会った時にちゃんと話せればよかったんだが、少なくともこの文章を発表することはできた。
 アダムスとゴスの共作 The Pirate Planet。是非、ご自分でお買い求めの上、ご一読あれ。


Fit the 42nd
Fandom

Don and Douglas: Fan Communities
 by John Chanaud
 お気に入り:テレビドラマ版『銀河ヒッチハイク・ガイド』

 友達のいない高校生だった私は、『銀河ヒッチハイク・ガイド』を通じてドンと仲良くなった。私と同じくらい『銀河ヒッチハイク・ガイド』にハマったドンと一緒に、サンティエゴで開催されたコミコンに行き、ダグラス・アダムス本人からサインをもらったこともある。
 その後、ドンもアダムスもサンタバーバラに引っ越していった。ある日ドンから電話があって、ピザ屋の配達人経由の情報でアダムスの自宅住所がわかったという。だからと言って、結局何もしなかったけれど。
 アダムスの訃報を伝えてくれたのもドンだった。そんなドンも、42歳の時に心臓発作で亡くなった。
 ダグラス・アダムスのおかげでドンと友達になり、ドンのおかげで現在の妻と知り合うことができた。また、ドンが紹介してくれた友人のウィルが私にラジオの仕事をくれた。ドンは死去してしまったけれど、私が行きている限り、ドンもまだ一緒にいる。

Galactic Hitchhiker's: A Douglas Adams Fan Community
 by Zaxley Nash
 お気に入り:『宇宙の果てのレストラン』

 フェイスブック上で「Galactic Hitchhiker's」というコミュニティを主催するようになったきっかけは、2011年、フェイスブックで行われた「タオル・デイ大使コンテスト」で優勝したことだった。このコンテストを通じて知り合った人たちと繋がりを持ち続けたくて、「Galactic Hitchhiker's」を立ち上げたという。
 最初は少人数で『銀河ヒッチハイク・ガイド』に関することを書き込むだけだったけれど、次第に人数が増え、『銀河ヒッチハイク・ガイド』だけでなく他のSFやポップカルチャーの話も出てくるようになった。
 「Galactic Hitchhiker's」は、多様性を重視し、お互いへの敬意を持つことが大前提になっている。常に親切であること、理性をなくさないこと。「Galactic Hitchhiker's」とは、単に『銀河ヒッチハイク・ガイド』やダグラス・アダムスについて追求する場ではない。どちらかというと、もしアダムスが生きていたら喜んで参加してくれたであろうコミュニティであることを目指している。
 だから、基本的に誰でも歓迎するけれど、敵対的なひどい書き込みをする人には出ていってもらう。いわば「平和維持活動」だ。私たちは素敵なものを素敵な人たちと分かち合いたいだけなのだから。
 「Galactic Hitchhiker's」のメンバーは、今では8000人を超える。ジェム・ロバーツもメンバーの一人だ。でも、今でも私たちが一番気にかけているのは、今この文章を読んでいるそこのあなた。もしまだ乗船していないなら、ぜひ親指をあげてほしい。他でもないあなたご自身の参加を、心よりお待ちしています。

The Wonderful World of Marvinism: Marvin and his View of the World
by Demetria Blacksmith

 お気に入り:『銀河ヒッチハイク・ガイド』

 子供の頃からずっと生きていることが無意味に思えてならなかった。私の希望や夢がブルトーザーで潰されるだけの毎日だった。この先の人生もきっと、悲しくて寂しくて無価値なのだろう。それが当たり前すぎて、どうにかしなきゃと考えることもなかった。
 が、14歳の時、図書館で偶然見つけた『銀河ヒッチハイク・ガイド』という本に出会った。もっと言うと、この本に出てくるあるキャラクターが私の世界を一変させた。
 そう、マーヴィンだ。

「わたしがいまとても落ち込んでいるのがおわかりになればいいんですがね」(風見訳『銀河ヒッチハイク・ガイド』、p. 118)

 これだ、と、私は思った。これこそ、私がずっと感じ続けてきたことだ。
 今までずっと自分を変人だと思っていた。どんなに頑張っても周囲に溶け込むことができなかった。誰も、幼い頃から私の中で悲しい気持ちがつきまとって離れないことをわかってくれなかった。
 私の新しい師匠は、ちょっとした仕事を命じられると、「おもしろくないなあ」と意思表明する。これって、読んだり書いたりしている時に家事を手伝うよう言いつけられた時の私と同じじゃないか。
 さらに彼は、自分が周りの誰よりも頭がいいと分かっている。私も同じ――というと何だかすごく偉そうだが、でもどう考えても論理的でもなければ善良でもない振る舞いをしている人たちを目にして、それって変じゃないの、と私が指摘しても、誰も聞く耳を持ってくれない、となると、自分が無価値な人間扱いされていると思わずにはいられない。
 私はこれまで自分が悲しんでいることを他の人に知られてはいけないと考えていた。そのため、自分の感情はなるべく隠そうとしていたが、そんなことをずっと続けるのは不可能だ。
 マーヴィンは、そんな私に、落ち込んでいる時は落ち込んでいると口にしていいのだと教えてくれた。年齢を重ねるうち、バカな人間にマウントをかけられた時にはマーヴィンのように皮肉で対応するのが一番有効らしい、ということもわかってきた。
 私はマーヴィニストでありたいと思う。マーヴィンとマーヴィンの教えを信じ、常に悲観的であり、権威に懐疑的で、他の人より私のほうがよくわかっていることだってある、と信じる。落ち込むことも、落ち込んでいると他の人に知らせることもアリだ、と信じる。他の人だってそのほうが私を上手く扱えるだろうから。
 落ち込んでいるだけの登場人物なら他のフィクションにもいくらでも出てくるが、マーヴィンが別格なのは彼が反逆者であることだ。周りの人がどう思おうと関係なく、彼は自分の心にあることを言葉にする。空気を悪くすることを恐れず、自分自身であろうとする。
 みんな、マーヴィンを見習ったほうがいいんじゃない? そのほうが、世界はもっとよくなると思うよ。

'Survival, Inquiry, & Sophistication', or Finding Douglas Adams
 by Jessica Burke
 お気に入り:『銀河ヒッチハイク・ガイド』

 子供の頃からずっと「『銀河ヒッチハイク・ガイド』は私向きではない」と思い込んでいた。ファンタジーやホラーは大好きだったのに。父は大のSFファンで、自宅にはSF小説のコレクションがあったのに、父は兄にアシモフやブラッドベリを薦めても私には薦めなかった。そんな兄は大のダグラス・アダムス・ファンで、彼の本をコレクションしていたけれど、妹の私には絶対に触るなと言っていた。
 それでも、病気で学校を休んでいる日にこっそりと『銀河ヒッチハイク・ガイド』を取り出して読んでみた。おもしろい文章なのに、なぜか「私向きではない」という思いが強くて途中で本を置いてしまった。どんなにつまらない本でも、読み出したら最後まで読むのが私の常だったのだが。
 モンティ・パイソンは好き。『ドクター・フー』も好き。なのに、『銀河ヒッチハイク・ガイド』のおもしろさに気づくまで、随分と時間がかかった。どうして「私向きではない」と思い込んでいたのだろう? 後年、父に訊いたところ、父はそんなことを言った覚えはないという。そもそも父は1970年代以降のSFを読んだことがない――『銀河ヒッチハイク・ガイド』を読んだことすらなかったのだ。
 今になって思えば、私の『銀河ヒッチハイク・ガイド』に対して感じていた気後れは、私がものを書こうとする時に感じる気後れに似ている。そういった気後れに負けず、私は自由に読んだり書いたりする勇気を持つべきだったのだ。
 アダムスがその後のSFに与えた影響は大きい。「SFとはこういうもの」というステレオタイプを吹き飛ばし、もっと言うといわゆるストーリーテリングなるものまで吹き飛ばした。『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズの最初の2作品はストーリーが不完全だという人もいるけれど、私に言わせれば、だからこそ画期的なのだ。
 どうして『銀河ヒッチハイク・ガイド』が私向けじゃないと思い込んでしまったのか、その理由は定かではないけれど、ともあれ最終的にアダムスにたどり着くことができてよかった。まだ幼い私の姪がタオルの重要性を理解できる年頃になったら、『銀河ヒッチハイク・ガイド』の本を手渡すつもりだ。子供の頃の私にも、そうしてくれる大人がいればよかったのに。

Guide Entry #5.25: Towel Day by Field Researcher
 Jay Rainha

 『銀河大百科事典』と『銀河ヒッチハイク・ガイド』、それぞれの本に載っている「タオル・デー」の項目を紹介。

My Towel: A Review
 by Ian Ham
 お気に入り:『これが見納め 絶滅危惧の生きものたち、最後の光景』

  著者が所有する、1995年にパン・ブックスが『銀河ヒッチハイク・ガイド』とのコラボとして発売したタオルの紹介。

A Bizarrely Improbable Coincidence: 2017 Intergalactic Towel Day Ambassador
 by Hillary Block
 お気に入り:『銀河ヒッチハイク・ガイド』以外で、ということなら『これが見納め 絶滅危惧の生きものたち、最後の光景』

 うんと小さかった頃のこと。友だちの家族が乗る車に一緒に乗せてもらっていたら、突然友だちが時計を指差して「ほら見て!」と大声をあげた。友だちの家族は時計の数字を見て笑い声をあげ、つられて私も笑ったものの、当時の私にはジョークの意味がわからなかった。
 その時、『銀河ヒッチハイク・ガイド』という固有名詞が出てきたかどうかは覚えていないが、42がすべての答えだということだけは知った。が、そんなこともほとんど忘れかけていた。
 13歳の夏休みに、学校から課題として読書リストを渡された。私はSFが好きだったので、リストにあったSF作品、ロバート・ジョーダンの『時の車輪』を読むことにしたが、あまりのつまらなさに20ページで脱落した。で、もっと他のSFはないものかと読書リストを再チェックし、『銀河ヒッチハイク・ガイド』を見つけた。
 初めて『銀河ヒッチハイク・ガイド』を読んだ時は、ほとんどのジョークを拾い損ねていた。でも、この本は私の人生を変えた。そもそも私が生まれた時刻は0:42であり、祖父母が買ってくれて子供の頃から愛用しているタオルにはイルカの絵が描いてある。私はこのタオルをいつも持ち歩いていたが、これらは私が『銀河ヒッチハイク・ガイド』でタオルの重要性を知るずっと前から続いていることだ。
 そして現在の私は、タオル・デーの大使に就任したが、これは私がこれまでに行ったことの中でもっとも大変なことだった。私は『銀河ヒッチハイク・ガイド』のファンではあったけど、ファンサイトで知名度があるほうではなかったけれど、何とか最終選考まで残り、42票くらい集まればいいな、と思っていたら何と142票も獲得し、当選することができた。私の全人生は、この瞬間のためにあったんだ。

Towel Day
 by Drew Meyer
 お気に入り:『銀河ヒッチハイク・ガイド』

 2004年から2016年までのタオル・デーの思い出。この日だけタオルを肩にかけて屋根の修理の仕事をしたり、学校で小さい子供たちの相手をしたりしていると、「どうしてタオルを持っているの?」と質問される。バカっぽく見られるかもしれないが、そこからさまざまな交流も生まれる。
 タオル・デーのおかげで、ダグラス・アダムスの死を悼む人が世界中にたくさんいることを知った。生前のアダムスに直接会ったことはないけれど、タオル・デーに参加することで、私自身もダグラス・アダムスに近づけるような気がする。

Don't Panic
 by Allan Weslowsky
 お気に入り:『銀河ヒッチハイク・ガイド』

 1980年代からのダグラス・アダムス・ファンである著者の、ニール・ゲイマン版ダグラス・アダムス伝の紹介。「ダグラス・アダムスについて詳しく知りたいと思う人に、私は迷わずこの本を薦める」。

ILOVEYOU Douglas Adams! Interviewing Douglas Adams when he promoted the 'hg2g' website in Berlin (2000)
 by Alexander Pawlak
 お気に入り:小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』と『宇宙の果てのレストラン』

 2000年5月8日、ダグラス・アダムスはベルリンで「仮想現実で生きる(Living in a Virtual World)」という演題で講演を行った。これは、当時彼が推進していたデジタル・ヴィレッジの「h2g2.com」プロジェクトの宣伝を兼ねたものだった。
 当時、私はベルリンの週刊新聞 Die Zeit のインターンだった。もともと、Die Zeit の新規メディア開発の担当者がアダムスに取材する予定だったが、取材の3日前になって社内コンピュータがウイルス感染し、その対応に追われることになったため、急遽私にお鉢が回ってきた。
 取材の場所は、ベルリンの高級ホテル、アドロン。ホテルのロビーでアダムスをベルリンに招待したクリストフ・ライズナーと待ち合わせをし、彼に連れられてアドロンの美しいアトリウム・ガーデンに向かうと、そこにアダムスを始めとするデジタル・ヴィレッジの面々が揃っていた。
 私はガチガチに緊張していたが、アダムスはそんな私をあっという間にときほぐしてくれた。朝からインタビュー続きでお疲れの様子はあったものの、不慣れなインタビュアーの質問に前向きに答えてくれた。
 当時、続々と立ち上がりつつあるウェブ上のコミュニティーについては、「自分の子供の頃にもそういうものがあったのにと思う。そうすれば、共通の趣味の友達を見つけられたのに。家庭の都合で何度も転校したせいで、なかなか話の合う友達ができなかったんだ」。
 h2g2.comの収益については、「インターネットで物を売るのと違って、なかなか説明が難しい。一人一人の支払額はものすごく少なくても、全世界レベルで集めれば大金になると思うのだけれど」。
 結果としては、h2g2.comの方針は間違っていなかったものの、ユーザーの利便性という点において、グーグルやウィキペディアやフェイスブックには敵わなかった。h2g2.comは収益を上げられず、デジタル・ヴィレッジは倒産した。が、この時のインタビューがきっかけで、私はこれまでドイツ語ではあまり紹介されていなかったアダムスの活動や文章について積極的に学ぶようになり、2008年にはドイツ語訳『銀河ヒッチハイク・ガイドの科学』の出版へと繋がった。
 なお、私のアダムスへのインタビュー記事は、こちら(ただし、ドイツ語)。

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