あまり知られていないが、『銀河ヒッチハイク・ガイド』はコミックスになっている。
1991年、アダムスは大手のアメリカン・コミックの出版社、DCコミックスと『銀河ヒッチハイク・ガイド』のコミックス化について契約を交わした。小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズの最初の3作をコミックスとして製作するというもので、第一作『銀河ヒッチハイク・ガイド』に発売されたのは1993年の10月。続いて『宇宙の果てのレストラン』が1994年に、『宇宙クリケット大戦争』が1996年に発売された。
アダムスが自作のコミックス化について、どの程度熱心だったのかはよく分からない。発売から数年後、ネット上での質問に「DCから何が出ているかも知らない」(Simpson,
p.60)と答えるなど、まるで無関係・無関心を装っている。実際、彼のそっけない反応も無理からぬことのようにさえ思える――ケンブリッジ大学で英文学を専攻し、毒の効いたモンティ・パイソンの笑いを好むアダムスと、典型的スーパーヒーローが正義のために超人的パワーで闘うアメリカン・コミックスとは、あまりにも結びつかない。
が、実はアダムスは隠れアメコミファンだったのではないかという証拠がある。1987年にBBCのStart the week
という番組に出演したとき、番組の天気予報官が「Justice League of America と言えばスパイダーマン……」とコメントしたのに対して、アダムスはその言葉の先を遮るように、「スパイダーマンはマーヴル・コミックス。Justice
League of America はスーパーマンやバットマンやフラッシュや……」と、タイトルを立て板に水の勢いで列挙した、というのだ。そして、その場で子供の頃にコミックスのコレクションをしていたこと、一番のお気に入りは「フラッシュ」だったということも白状したらしい(Hitchhiker,
p. 272)。
故に、『銀河ヒッチハイク・ガイド』のコミックス化についても、単に権利をDCコミックスに売っただけではなく、少なくとも製作開始当初はかなり積極的に関わっていた。アメリカン・コミックスは日本のマンガと違い分業制度が徹底しており、コミックス『銀河ヒッチハイク・ガイド』の編集者となった
Howard Zimmerman は、脚色にJohn Carnell を、画家に Steve Lealoha を起用することにするが、コミックス化の契約に際してアダムスは原作に基づいてきちんとした脚色がなされているかを確認する権利を保持し、作品をアメリカナイズすることについては一切認めず(Zimmmerman
の、デジタル時計を携帯電話に変更したいという申し出も却下された)、またマーヴィンのキャラクター・デザインについては何度も画家に描き直させたという。
とは言え、こうして原作を忠実に再現したことが却って裏目となり、ファンを失望させるだけの結果となった。アメリカン・コミックスという媒体を通じて新しい可能性を見つけるどころか、これでは単に小説に挿し絵をつけただけじゃないか、と。
アダムスのコミックスに対する熱意はその後すっかり冷めたようだが、それでも契約通りシリーズ3作分のコミックスは出版された。1997年には、シリーズ1作目がグラフィック・ノベルとして再出版され、この'the
authorized collection' には編集者Zimmerman の序文と、アダムスの紹介文("A Guide
to the Guide" とほぼ同じだが、一部を省略して短くまとめたもの)が冒頭に付けられている。
コミックス版『銀河ヒッチハイク・ガイド』
Executive Editor/Byron Preiss
Editor/Howard Zimmerman
Adapter/John Carnell
Illustrator/Steve Leialoha
Inker/Stephen Baskerville, Art Nichols, Denis Rodier and Steve Leialoha
Colorist/Lovern Kindzierski
Letterer/Tod Klein※ アメリカンコミックスの分業制度では、イラストレーターは下絵を描き、インカーが下絵にペン入れをし、カラーリストが彩色を施し、レタラーが文字を書き入れる。