ともに楽しみましょう
更新履歴・裏ヴァージョン(2004年)

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2004.2.14. ネットの上にも3年
2004.2.21. 私の超・整理法
2004.2.28. 家庭の事情
2004.3.6. 献辞をめぐる謎
2004.3.13 ケン・フォレットの小説
2004.3.20. キャストについて
2004.3.27. スタッフについて
2004.4.3. ホームページ上で他者の作品を批判すること
2004.4.10. ライフ・アクチュアリー
2004.4.17. 2004年度ロシア語会話
2004.4.24. 追従、それとも挑発?
2004.5.1. ショスタコーヴィッチを聴きながら
2004.5.8. ドーキンスを読みながら
2004.5.15. 三回忌を記念して
2004.5.22. 'Don't Panic' と言えば
2004.5.29. 祝・音楽DVDレンタル一部解禁
2004.6.5. シャイノーラと言われても
2004.6.12. コラボレーションという才能
2004.6.19. 映画を観るか、それとも撮るか
2004.6.26. 売れる本=良い本?
2004.9.4. 夏休みに届いた3通のメール
2004.9.11. テクノロジーの進歩と共に
2004.9.18. 511後の世界
2004.9.25. 第3シリーズ放送開始!
2004.10.2. ヒアリング・マラソン、あるいは中距離走者の孤独
2004.10.9. 文学カルトクイズ
2004.10.16. グランマ?
2004.10.23. 第3シリーズ、いよいよ佳境へ
2004.10.30. アダムス好きの二人の作家
2004.11.6. 神の所業と悪魔の貢献
2004.11.13. 愛読者のゲーム
2004.11.20. バトル・オブ・ブックス
2004.11.27. 図書館行政に物申す
2004.12.4. 映画『銀河ヒッチハイク・ガイド』の予告編
2004.12.11. ギリシャ土産と言えば


2004.2.14.  ネットの上にも3年

 石ならぬネットの上に貼り付いて、とうとう丸3年が経過した。
 その割にはまだまだ穴だらけで不首尾なサイトで、今回の更新でようやく追加したダグラス・アダムスの年譜もこれまた穴だらけで不首尾なことこの上ない出来ではありますが、さらなる内容の充実を目指して今年も地道に邁進したいと思いますので、引き続きお付き合いくださいますよう何とぞよろしくお願い申し上げます。

 と、毎度変わらぬ新年の口上に続き、これまた新春恒例の、「My Profile」コーナーに掲げる「2003年のマイベスト」について。
 小説と映画のマイベストを選んで載せるのも、今年で3回目となる。くどいようだが、これはあくまで私的な選出であって、作品の出来を公正に判断したものでは決してない。ない、のだけれど、それでも2003年の映画の第1位をこの作品に決定するにあたっては少しばかり抵抗があった。
 私に言わせれば、映画は、その映画を観ただけで楽しめるものでなくてはならない。あらかじめ知るべきことを知っていなければチンプンカンプンに終わってしまう映画は、私が考えるところの「良い」映画ではない。――と言うと、どんなバカでも分かるように作られたハリウッド娯楽大作以外は良い映画ではないのかと誤解されるかもしれないが、そういう意味ではない。例えば、ヌーベルバーグのことなんか聞いたこともないという人が観てもゴダールの『勝手にしやがれ』やトリュフォーの『大人は判ってくれない』は楽しめるし、タルコフスキーの『惑星ソラリス』やジェーン・カンピオンの『ピアノ・レッスン』を観るのに、あらかじめ勉強して知っておかねばならないことなど何もない。
 そういった、映画そのもので独立し完結している作品と比べて、第一作目を見ていなければ訳が分からない続編映画とか、先に製作されたテレビドラマを観ていなければ意味を成さない映画とか、オマージュだかパスティーシュだか知らないが引用をやたらと多用した映画は、私の中では下位に置かれる。勿論、そういう映画を作ってはいけないとまでは言わないし、その手の映画にも優れた作品があることを素直に認めもする。かくいう私自身、「マトリックス・リローデッド」も「踊る大捜査線2」も「キル・ビル vol.1」も楽しく拝見させていただいた。が、優劣をつけるとなれば話は別だ。
 で、話は2003年の第1位に選んだ映画に戻る。これは、続編ではない。テレビドラマやコミックスの映画化でもない。オマージュやパスティーシュというのとも違う。監督のスティーヴン・ダルドリーは、知らない人が観ても「映画が楽しめることに変わりはない」と言う。けれども、本当にこの映画を「ダロウェイ夫人って誰?」と首をかしげる人が観ても理解できるものだろうか。
 幸い、私はこの映画を観る前に小説『ダロウェイ夫人』だけは読んでおかないと困ったことになるぞと気づくだけの、映画についての前知識を持っていた。でも、そうと知ってすかさず予習しておいた人が、この映画を私と一緒に渋谷の映画館で観た観客の中に一体何人いたことだろう。
 そう考えると、この映画を第2位ならともかく第1位に挙げるのはいかがなものかと随分迷った。迷ったけれど、2003年に公開された作品の中で、この映画を凌ぐ興奮を私に与えてくれたものはなかったのだから仕方がない、主義を曲げてこれを推す。でも皆様、この映画を観る前に必ず『ダロウェイ夫人』を読むか、あるいは既に読んだ人にあらすじを説明してもらっておきましょう。

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2004.2.21.  私の超・整理法

 私は整理整頓が苦手だ。
 2004年に入って早々に、見た目のかわいらしさにつられてハリネズミ型ランプを買った。買ったものの、置き場にあぐねて未だにランプとしてもインテリアとしても何の意味もなさない床の上に置かれたままになっている。で、せめてもの慰めにとデジタルカメラで撮影して、「My Profile」コーナーに画像を貼り付けてみた。
 ランプに限らず、私にとって自分のホームページは、何よりもまず情報の整理整頓場所として重宝しているフシがある。現実の私の部屋は、アダムスとノルシュテインとガデスの関連資料が、友達から借りている本だの映画のパンフレットだのパソコンのマニュアルだのと入り乱れてごちゃごちゃだ。面倒くさくてもきちんとファイリングしたほうが効率がいいということくらい、頭では分かっている。分かっていても、気がつくと図書館で取った本のコピーやら、劇場で貰った映画や公演のチラシやらが部屋のあちらこちらに散らばり、ひどい時には「ええと、英和辞書はどこに消えた?」と床の上の紙切れを拾って探すことさえある。辞書すらさっと取り出せない混沌の中で、「ええと、ドーキンスはどの本でアダムスについてコメントしてたんだっけ?」となると、本当に藁の山から針を探すのたとえを地でいくことになりかねない。が、一度ホームページの形で記載しておけば、少なくともその手の検索はうんと容易になる。
 故に、情報整理という点では、前回の更新で追加したアダムスの年譜は、「これだけは作らねば」の最たるものであった。そう思いつつ、丸3年も手つかずのままだったのは、手間がかかる割に仕上がりが地味になることがわかっていたから。
 私には、自分のホームページへのアクセス数を少しでも増やしたい一心で、アダムスにもノルシュテインにもガデスにも何の関心もない友人たちにまで「更新したから見て」とせがむという、実に他人迷惑な悪癖がある。当然のことながら彼らからの反応はとても鈍い。それでもまだ、地図とか写真を追加した時にはかろうじて好意的な返信メールを受け取ることもあるが、ただの年譜なんぞを追加した日には総スカンを食らうこと間違いなしだ。とは言え、私の本意は友人からのウケを取ることではないはず、と思い直し、遅まきながら年譜製作に奮起してみることにした。
 結果、出来上がったものは、どうでもいいような細かいことまで載っている割には大きな出来事が抜けていたりと、年譜としては情報にムラがありすぎ、かつ正確な日付が不明のためどちらが先に起こった出来事なのかよくわからないまま適当に作ってしまった箇所もあったりして不完全もいいところな代物となった。にもかかわらず、あからさまな間違いがあることを承知の上で前回の更新でアップロードに踏み切ったのは、不正確さに怯えるなら私のホームページの他の箇所だって同様じゃないかと開き直ったからに他ならない。
 不完全なまま公開しても、少しずつ手直ししていける。それが、出版物と違うホームページの良いところ。実際、私のホームページも今日までそうやって少しずつ膨らんできた訳だし。
 という訳で、この「年譜」は完全版ではなく、現在進行形だとお考えいただければ幸いである。

 そして今週の更新は、年譜に続いてアダムスの家系図を追加。こちらは、これで完全版だと思いたいが。

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2004.2.28.  家庭の事情

 家系図というものは基本的に縦長になるものだと思っていたが、私の作った家系図はひたすら横に長い。おかげで何かちょっとヘンな感じ。仕方ないけど。

 アダムスの自伝本を読んでいると、彼の一家は誰と誰がどう繋がっているのか咄嗟に頭の中で把握しかねるくらいややこしかった。そこで、自分の頭の整理用にと簡単に走り書きしてみたところ、この複雑さはホームページに掲載するに値すると思い、フォトショップで(フォトショップはこういう図を描くためのソフトではない、という問題はさておき)作り直してみたのがこの結果。
 どうです、すごくわかりにくいでしょう?
 アダムスの年譜はともかく、家系図まで作るのはちょっとやりすぎかなと、さすがの私も思わないでもなかった。でも、この家系図の内容は既に公式自伝本で公にされている事柄ばかりだから、今さらプライバシーの侵害ということもないはず。それに自伝によると、アダムスは数多い異母兄弟・異父姉妹とも割と懇意にしていたようだし、ならば参考までに私のホームページにも添えてもいいのではと考え直した。
 しかし、いくら「仲よき事は美しき哉」とは言え、両親の離婚後、母方に引き取られたアダムスが、父親と父親の再婚相手の間に出来た子供とも親しく交流していた、というのは少々不思議な気もする。それとも、それを不思議に思う私のほうが間違っていて「イギリスではよくあること」なのかと思いきや、ニック・ウェブの書いた公式自伝本を読むと、どうやらイギリス人の目にもアダムスとアダムスの父方の家族との関係は少々不可思議に写ったようだ。いや実際、この公式自伝本は、アダムスの家族の問題に絡んで私がかねてより秘かに疑問に思っていたこともいくつか解き明かしてくれたので、この辺りの事情その他については今後、アダムスの生い立ちの記とでも称してまとめて書いてみたいと思う。

 いくら有名作家とは言え、個人の私生活に踏み込むような真似はよろしくないし、そもそも作家と作品は切り離して考えるべきだ、という主張を前にした時、私は一言も反論できない。まったくもっておっしゃる通りです、と引き下がるしかない。
 そう分かっていながら、それでもこうして年譜だの家系図だのを嬉々として作成するのは、単に私の中の下世話な好奇心を満足させんがためである。煎じ詰めれば、ただそれだけのこと。
 と、自覚しつつ、今日も今日とて下世話な好奇心を満たすために、インターネットや図書館を一人走り回っている。ま、要するにヒマなんですな。今さら否定もいたしません。
 そして今週の更新は、1980年にアダムスの前に突然姿を現した、一人のイギリス人女性作家、サリー・エマソンについて。ともあれ、家系図云々よりも、こちらのほうがはるかにスキャンダラスなのは間違いない。

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2004.3.6.  献辞をめぐる謎

 アダムスとサリー・エマソンの不倫騒動は、当時のイギリスのゴシップ新聞にも掲載されたそうな。だから、アダムス・ファンのイギリス人なら別に耳新しい話ではないのだろうが、私はアダムスの伝記、Hitchhiker を読んで初めて知った。イマドキの表現を使うなら、「72へぇ」くらいのものか。
 しかし、1988年に出版されたニール・ゲイマンの Don't Panic: The Official Hitchhiker's Guide to the Galaxy Companion の該当個所を改めて開いてみると、固有名詞は避けて「ガールフレンド」としか書かれていないものの、注意深く読めば彼の「ガールフレンド」が実は既婚者であったことがきちんと記されていた。つまり、この本を読んだ時の私がちゃんと英文の意味を理解できていなかっただけのこと。あーあ。
 それとは逆に、きちんと記載されていないのは、日本語訳『宇宙クリケット大戦争』の献辞。原典にある、'for Sally' の文字が、新潮文庫版ではどこにも見あたらない。他の日本語訳、『銀河ヒッチハイク・ガイド』にも『宇宙の果てのレストラン』にも、ちゃんと原典同様の献辞が添えられているのに、これは一体どうしたことか――と、文句を付ける気には私はなれない。いえいえ別に、不倫の恋を非難したいからではなくて、そもそも日本語訳をするに際して翻訳家が利用したと思われる、パン・ブックスから出版されたペーパーバックの献辞のほうが、見過ごされてしまったとしても仕方がないような場所に掲げられているからである。アメリカ版のペーパーバックやその他のヴァージョンの出版物では、他の本の献辞と同様にちゃんと献辞用の1ページがこの2語のためにあてがわれているが、パン・ブックスのペーパーバックは著者の作品リストの上部に、申し訳程度に書き添えられているだけなのだ。これじゃ、翻訳家や編集者が気づかなくても無理はない。
 さて、このような献辞の取り扱われ方に対して、どこまで深読みして考えるべきだろう。不倫騒動を思い起こさせずにはおかない 'for Sally' の文字を、パン・ブックス側としては極力目立たないようにしたかったのか、はたまた単なるページ数の加減なのか。
 ……って、そんなことをダラダラと考えている私は、相当のヒマ人だけれども。
 ともあれ、ヒマ人としては、ついでにサリー・エマソン本人の小説作品も是非読んでみたいところではある。が、一冊の翻訳も出ていないし、アダムスと知り合うきっかけとなった、そして絶対アダムス自身も読んだはずの彼女の処女作 Second Sight はとっくに絶版になっているではないか。ま、今度イギリスに行く機会があったら、その時本屋に並んでいる彼女のペーパーバック本の、冒頭だけでも拾い読みしてみよう。私にも読めるレベルの英文かどうか、かつ何となくおもしろそうな話だと思うかどうか、それを確認してから購入したって遅くはあるまい。どうせ、はりきって買ったもののまるきり手つかず洋書なら、既に何冊も自室の本棚に並んでいるのだから。

 そして今週の更新は、エマソンと違って日本でも知名度抜群のイギリス人作家、ケン・フォレットについて。意外な人が、意外なところでアダムスと関わっていた。

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2004.3.13.  ケン・フォレットの小説

 ケン・フォレットの小説で私が真っ先に思い出すのは、『針の眼』と『レベッカの鍵』である。と言ってもどちらも読んだことはなく、前者は映画、後者はテレビ・ドラマで観ただけ。
 今回の更新で改めて著作一覧リストを作ってみて初めて、フォレットにはこの2作以外にもまだまだたくさんの著作があり、しかもそのほとんどが翻訳されていることを知った。が、そのタイトルを並べてみると、私が映像で観て何となくイメージしていた硬派な歴史サスペンスものと違って、何というか、要するにその……ものすごく安易に大量生産された、大衆小説ならぬ大衆迎合小説っぽいではないか。それも、近年に発表された作品になればなるほど、ますます軽くて安いタイトルになっているような気がするし。
 それとも単に、最近の日本の出版社がセンスの悪い日本語タイトルをつけただけかもしれない、と思って、中でも私が一番安っぽいタイトルだと思った『第三双生児』と『自由の地を求めて』を読んでみたところ、何のことはない小説の質もタイトルの出来といい勝負だった。という訳で、新潮社のみなさま、不当な非難をお許しください。
 あ、いや、この手のジェットコースター・ノベルには存在価値がないとか、読むだけ時間の、ひいては人生の無駄だ、などと言うつもりは全くない。それどころか、元来私はジャンク・フィクション好きを公言する身である。作者が、読者が退屈しないよう波瀾万丈はあっても破綻はない物語をきっちりお膳立てしてくれていて、読者は余計な深読みも伏線を憶えておく必要もなく、ただひたすら物語の流れに乗って先へ先へと読み進めていけばいい、そういう読書のスタイルは、私だって好きだ。少なくとも、教養と言う名の世間体で、ネコも杓子な夏目漱石を愛読書に掲げるよりはずっといい。
 が、読み出したら止められないジャンク・フィクションにも、「読み出したら止められない度数」とは別の基準の出来不出来はある。そこのところで、作品が一流となるか、はたまた三流に墜ちるかが決まる。そして、私は『自由の地を求めて』を読んで迷うことなく三級とした。というのに、勝手なもので私自身その判断基準が何なのか、一番肝心なそこのところがよく分かっていなかったりする。うーん、困ったものだ。
 が、同じ悩みを抱えているのは私だけではなかった。何のことはない、ケン・フォレット自身もインタビューに答えて「わたしは、自分を偉大な古典の作家と比べていたい。例えば、ジェーン・オースチンと比べうるかもしれない時に、何故ル・カレと比較しなければならないのだろう。わたしはつねにディケンズ、トマス・ハーディ、ジョージ・エリオットといったイギリスの大作家たちと自分を比べて、どうしてあんなに上手くゆかないのだろうと考えている」(『世界作家事典1』日外アソシエーツ)と話しているではないか。要するに作者も私と同じで、違いは分かるが理由が分からなくて困っているということらしい。
 しかし、フォレットが自分の著作をよりにもよってハーディやエリオットと比していたとは。それなら私が「スティーヴン・キングと比べても安っぽく思えるのは何故だろう」と首を傾げていたことなんざ、フォレット本人には口が裂けても言えないな。まあ、言う機会も英語力もないから気にすることはないんだけれども。

 さて、2004年に入ってこのかた、私がひたすらダグラス・アダムスの過去をほじくり返している間に、私のあずかり知らぬところで既に未来に向けての新しいプロジェクトが始動していたのであった。
 という訳で今週の更新は、私自身はまだ半信半疑なのだけれど、でもどうやら今度の今度こそ本当に実現するらしい、『銀河ヒッチハイク・ガイド』の映画化について。

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2004.3.20.  キャストについて

 ダグラス・アダムス公式サイトなるものがある。私のような立場の者なら何をさておいても日々こまめにチェックするべきサイトなのだが、著者が亡くなったからには新情報も期待できないし、たいしておもしろくないし、おまけに英語だし、と滅多に見ない。でもたまには覗いてみようか、と立ち寄ってみて、たまげた。い、一体いつの間に、映画『銀河ヒッチハイク・ガイド』の主要キャストが発表になっていたんだ!
 不覚である。まったくもって不覚である。そして大いに反省している。

 という訳で、主要キャストでついて。
 正直言って、私にはあまり馴染みのない名前ばかりだった。ほんの数週間前に映画『ラブ・アクチュアリー』を観ていたおかげで、スラーティバートファスト役のビル・ナイだけはすぐぴんと来た(この配役はちょっと期待が持てる)が、同じくこの映画に出ていたというアーサー・デント役のマーティン・フリーマンについては、「『ラブ・アクチュアリー』のジョン役」と言われても、ジョンって誰?てなくらいに印象がない。映画のパンフレットを開いてみて、あのラブシーンの代役係か、と分かったものの、善良な、おとなしい感じのイギリス人青年だった、くらいの印象で、顔なんかまるで憶えちゃいない。
 ああ、マメにアダムスの公式サイトをチェックしておけば、あらかじめもっとこの役者に注意して映画を観たのに、と嘆いてみても後の祭りだ。確かにこの映画、私はとても気に入ったけれど、だからと言って二度も映画館で観るほどではないし、大体もうあらかたの映画館でロードショー上映も終わっているではないか。かくなる上はおとなしく、レンタルDVDが出るのを待つことにしよう。
 ザフォド役のサム・ロックウェルは、名前だけは聞き覚えがあるものの、彼の出ている映画はほとんど観ていなくて、今の時点では顔が全然浮かんでこない。リドリー・スコット監督の『マッチスティック・メン』を観ていれば話は違ったのだろうけれど、迷った末に「わざわざスクリーンで観るほどでもないか」と止めてしまった。そうそう、日本でこの映画が上映される少し前に『アダプテーション』という映画を観て、ニコラス・ケイジに食傷していたせいもあって余計食指が動かなかったんだっけ。ロックウェルが脇役で出ている『グリーン・マイル』と『ギャラクシー・クエスト』なら観たのだが、そしてどちらも映画自体は気に入ったのだが、やっぱりロックウェルのことは全然記憶に残っていない。すみません。
 フォード役のモス・デフについてもしかりで、『ミニミニ大作戦』を観ていれば「あ、あの役者か」と思えたかもしれないが、観ていないんだからどうにもならない。この映画、友人からさんざん薦められたにもかかわらず、主役のエドワード・ノートンがあまり好きではないという理由でとうとう観そびれてしまった(あ、でも『25時』のノートンは良かったな。彼が才能ある役者だということは私もおとなしく認めはするが、それと好き嫌いはまた別の話なんだよな)。モス・デフが脇役で出ている『チョコレート』は観たのだが、この映画も気に入ったのだが、それでもやっぱり脇役のモス・デフのことはまるで記憶にない。すみませんねえ、本当に。
 ともあれ、老人役スラーティバートファストを除けば、役者はみんなとても若い。いや、アーサーやフォードの小説内年齢を考えれば当たり前の配役なのだが、サイモン・ジョーンズが年を取りすぎたのなら代わりにヒュー・ローリーを、などというアダムスの発言を思い起こすと、まさに「世代交代」という言葉がぴったりくる布陣ではないか。おまけに、フォード役をヒップホップ・アーティスト出身の黒人俳優が演じることになるだなんて、初めて『銀河ヒッチハイク・ガイド』の映画化企画が持ち上がった1980年代半ばには考えられないことだったろう。それを思えば、いい世の中になったものだ――勿論、出来上がった作品を観てみるまでは楽観は許されないけれど。
 というか、本当に作品が出来上がるのか、やっぱり私はまだ半信半疑なのだけれど。

 そして今週の更新は、キャストに続いてスタッフについて。今の時点で、調べられるだけ調べてみた結果が、こちら

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2004.3.27.  スタッフについて

 どうやら映画『銀河ヒッチハイク・ガイド』は、スパイグラス・エンターテイメントという映画製作会社が手がけることになったらしい。
 製作スタッフの顔ぶれで、そのことだけは分かった。で、スパイグラス・エンターテイメントの公式サイトにアクセスしてみたところ、「Movies In Production(製作中)」の項目の中に、ちゃんと『銀河ヒッチハイク・ガイド』も挙がっているではないか。その前段階にあたる「Movies In Developement(準備中)」という項目もあるくらいだから、とりあえず今のところ、『銀河ヒッチハイク・ガイド』の映画化企画は順調に進行中と考えていいのだろう。かくなる上は、次の段階である「Recent Release(近日公開)」に進むのを待つばかり。ああ、ドキドキするなあ。
 ちなみにこの公式サイトからは、スパイグラス・エンターテイメントの宣伝映像もダウンロードできる。製作会社の宣伝なので別段見て楽しいものではないが、プロデューサーとして名を連ねているゲイリー・バーバーとロジャー・バーンバウムの二人が登場していて、つい数日前まではまるっきり知ったことではないお二方だったのに、『銀河ヒッチハイク・ガイド』のプロデューサーと知った途端、「おっ、ゲイリーとロジャーのツーショットじゃないか」と色めきたった自分がちょっと情けなかった。
 それはさておき、映画『銀河ヒッチハイク・ガイド』の予算規模は一体どのくらいなんだろう。超大作扱いじゃなくても構わないけれど、ある程度の製作規模は確保したい――と、私ごときがこんなことを言うのもヘンな具合だが、あまりに低予算でマニアックすぎる仕上がりになると、せっかく映画化されても日本での配給が見送られかねないではないか。そんなことになった日には、泣くに泣けない。
 一応、これまでのスパイグラス・エンターテイメント作品のリストを見る限り、極端な低予算映画は製作されていない。日本未公開扱いになった作品も、ないと思う。が、監督候補だったはずのジェイ・ローチが製作に回ったり、スパイグラス・エンターテイメント作品の中で今までは副プロデューサー格だったデレク・エヴァンスが製作総指揮になっていたり、私はハリウッド映画製作事情などまったく知らないので、この動きが吉なのか凶なのかよく分からないものの、それでも何となくあまり芳しい印象は受けない。『スター・ウォーズ』級なんて私も望まない、でもせめて『ギャラクシー・クエスト』級の作品であって欲しいとは思う。そして、『ギャラクシー・クエスト』のように観客から好かれる映画になってくれれば、私としても一番嬉しいのだけれど――って、それでも充分すぎるほど高望みか?

 ところで、映画化においては一番肝心の、監督ガース・ジェニングスという人の正体が今のところ私にはまったく分からない。『銀河ヒッチハイク・ガイド』が映画監督デビューになるらしいが、彼は目下私にとって最大の謎である。知っている、という方がいらっしゃったら、どうかご一報くださいませ。よろしくお願いいたします。

 そして今週の更新は、本当は2週間前の3月13日に追加更新する予定だった、かつて『銀河ヒッチハイク・ガイド』の映画化を志したことがあるプロデューサー、ジョー・メドジャックについて。

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2004.4.3.  ホームページ上で他者の作品を批判すること

 ジョー・メドジャックが製作した映画について私が語るとすれば、それはもう非難がましい口調にならざるを得ないのだが、それでも中には幸福な例外もある。1993年の映画『デーヴ』、これは好き。
 今にして思えばこの映画、脚本を書いたのがゲイリー・『シービスケット』・ロスで、この脚本に救われるところ大だったのだろう。そう思ってインターネットでロスの脚本作品を検索してみたら、『ビッグ』も彼の作品だったのか。『ビッグ』『デーヴ』『シービスケット』、言われてみれば何となく共通のテイストがある。もっとも良心的な形のアメリカ賛歌、とでも言おうか。アメリカの善意や正義に昨今鼻白むことの多い私でさえ、上記3作を観ると「アメリカもアメリカ人も捨てたもんじゃないかも」と思ってしまう(それはそれで失礼な言いぐさだが)。

 話はそれるが、私はここ2週間ばかり、「ホームページ上で他者の作品を批判すること」についてぐずぐずと考え続けていた。発端は、2004年3月17日付朝日新聞夕刊の11頁に掲載された、三谷幸喜氏のエッセイ。三谷氏は現在NHKで放映中の大河ドラマ「新選組!」の脚本を書いているが、このドラマについて、やはり新選組を題材に現在も連載中の漫画家が自身のホームページ上で厳しい批評を寄せているのを読んだ、という。「自分の作品と比べると『新選組!』は同人誌レベルだとバッサリ。めまいがした。お前は素人だと言われたようなものである。」
 そこまですごい批評なら是非とも全文を読んでみたいものだ、とくだらない好奇心にかられ、三谷氏にならってインターネット検索してみたところ、該当ホームページでは既に批評文は削除されていた。「生トーク」ということで、新しい文章をアップロードするたびに、前の文章は削除してしまうらしいのだ。が、そこはネット世界の恐ろしさ、サイトを見た別の人が著者が削除する前に文章を丸ごとコピーして、別サイトに保存している!
 という訳で、私も遅まきながら批評文を読むことができた。なるほど、こりゃ確かにすさまじいまでの貶しっぷり。読み終わって不快感だけが残った。わざわざ捜して読んで腹を立てているのだから、まさに自業自得以外の何物でもない、ということはさておき、しかし何故こんなにも不快に感じるのか、その理由が自分でもよく分からない。というのも私は漫画版にも大河版にも、さらに言えば史実としての新選組にも等しく何の思い入れもなく、『燃えよ剣』や『幕末純情伝』といった他の新選組関連作品も楽しく読んだり観たりはしたが、それはただその時限りの話で、だから新選組を巡るさまざまな解釈やアレンジを誰がどう褒めようと貶そうと、私の知ったことではない――はずなのに、何故こんなにも不快なのだろう?
 批評の文章そのものが、厳しすぎる、と言うか、ひどすぎるから? いやいや、私が日頃楽しく愛読している映画批評の個人サイトでも、負けず劣らずの激しい言葉で多くの映画が切り捨てられている。が、それを読んでも腹は立たない。たとえ私の好きな映画がけんもほろろな扱いを受けていたとしても、「ふん、わかってないのはあんたの方だ」と勝手に決めつけるのみである。書くのが自由なら、読むのも自由。そこはお互いさまというものだから。
 じゃあ一体私は何が気に入らないのだろうとさんざん頭を悩ませた末、ようやくたどり着いた結論は、「批評そのものが気に入らないのではなく、批評を自分のホームページからさっさと削除してしまったことが気に入らない」。
 一つの作品を褒めるにしても貶すにしても、そこで是非を問われるのは批評された作品よりも、実は批評した書き手のほうだと私は思う。映画の批評サイトを例にあげれば、批評する映画の数が増えれば増えるほど、書き手がどういう映画を褒め、またどういう映画を貶すかで、おのずと書き手の好みや力量が見えてくる。映画批評サイトを読むおもしろさは、実は書き手を裁く、この一点にこそあると言ってもいい。私が毎年「My Profile」のコーナーで、映画ベスト3を公表しているのも同じ理屈だ。私が映画ベスト3を選ぶのではなく、私のサイトを訪れた人に、そういう映画を選んだ私自身を裁いてほしい、そう思って載せている。
 勿論、前に自分が書いた文章を残すか削除するかは、書き手自身が決めることだ。だが、自分が書いた批評で、自分自身もまた批評に晒されることを自覚するなら、最低限の期間は掲載し続けるべきだろう。それがイヤなら、最初からアップロードしなければいい。
 一度は正論と信じてアップロードしたが、後から考え直して訂正する、ということはある。思慮が足りなくて、不用意に人を傷つける文章を掲載してしまったとか、そういうことも起こり得る。それを、いつまでも無訂正のまま掲載すべきだとは私も思わない。だが、全文を削除しなければならない程の文章を書いてしまったのなら、せめて削除した事実と理由だけは明記すべきだ。インターネットのおかげで外の世界に自分の文章を発表することを憶えたばかりの人ならまだしも、この漫画家は「25年のキャリアを持つ」「<プロフェッショナルなエンターティナー>」を自認し、まがりなりにも自分の公式ホームページに発表したのだから。
 印刷物と違って、ホームページ上では自分の書いた文章をいとも簡単に「初めからなかったこと」にできる。言い捨てて、逃げることができる。でもそれは、あまりに卑怯だ。誰に対して、というよりもまず、自分自身の文章に対して。

 ……とまあ、柄にもなくご大層なことを書いてはみたが、煎じ詰めれば「私だってこのコーナーでケン・フォレットの小説を「安っぽい」と一刀両断した時にはそれなりに心臓に悪い思いをしたんだぞ」ということである。ついでに、「今回敢えてメドジャックの映画をボロクソに書かなかったのは、以前アイヴァン・ライトマンについて書いた時と内容が重複するだけだからで、そして私は他者の作品を批判した文章を、安易に削除したりはしていないぞ」ということでもある。ライトマンについて以前私が何を書いたか知りたい方はこちらへ。どうぞ遠慮なく、私を裁いてください。

 そして今週の更新は、メドジャックの盟友?の映画プロデューサー、マイケル・C・グロスと、それからこちらは私も手放しで絶賛したい脚本家、リチャード・カーティスについて。

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2004.4.10.  ライフ・アクチュアリー

 まずは、4月3日付の同コーナーについての補足させていただく。
 3日にアップロードした後、念のためにその漫画家の公式ホームページをもう一度チェックしたところ、前日の2日夜に更新されていたことが判明。そしてその内容の一部は、件の大河ドラマ批判文に対して届いた質問に答える、というものだったのだが、それを読んで私は思わず「えっ」と声を出して驚いてしまった。

たった3日で消した(内容がキツイのは自覚してるからさ。掲載期間にはすごく気を使ってんのよこれでも。/笑)

 「生トーク」という設定だから上書きして削除したのではなく、「言い捨てて、逃げる」の確信犯だったとは。
 どうやらこの漫画家は、プロの脚本家の作品を「同人誌レベル」とまでこき下ろしておきながら、三谷氏本人に読まれることは回避したかったらしい。そして、誰もが自由に入れる公式ホームページに文章を発表しておきながら、3日で削除すれば「初めからなかったこと」にできるとタカを括っていらっしゃるらしい。故に、「無断転載なんて違法行為を平気でする」と憤っていらっしゃるらしい。そのくせ、今回の更新でも公式ホームページに本人が書いた批判文そのものは復活しておらず、批判文と今回の説明との間の夥しい齟齬を読み取るには、「無断転載」を利用しなければ不可能ときたもんだ。
 いやはや、ここまで卑怯だとは思わなかった。あきれ果てて開いた口がふさがらない。

 ……気を取り直して。
 リチャード・カーティスの経歴をみれば、アダムスと交友関係にあったとしてもおかしくはない。が、そこはあくまで推測の域、どこかに決定的な証拠となるアダムスの発言はないものかと探していたところ、あった、ありました、1987年3月27日付のインタビューの中で、アダムスは確かに'A good friend of mine, Richard Curtis' とコメントしている。
 ネット・サーフィンでこのインタビューを見つけたのは実は随分前のことで、その時はかなりの長文だから画面で読むのはツライとわざわざ印刷までしたのに、プリンターから出力された紙をファイルに綴じただけですっかり満足してしまい、ろくに読みもしなかったらしい。ともあれ、無事証拠を発見できてよかった。
 しかし、何故ここにきて急にアダムスとカーティスの交友関係が気になり出したのかと言えば答えは簡単、カーティスの監督・脚本による映画『ラブ・アクチュアリー』を観たから。
 私はこの映画を観ている間中、とても良い気分だった。もともと、カーティスの作品は『ミスター・ビーン』シリーズを除けばどれも大好きだ。が、中でもとりわけ『ラブ・アクチュアリー』は、本当に一歩間違えれば甘ったるいか白々しいかのどちらかになりかねない内容なのに、彼の手にかかると、けたけた笑わされたりほろりと泣かされたり、そして最後には「この世には、愛に満ち溢れている」というメッセージがすとんと胸に落ちてくる。
 が、すこぶる幸せな気持ちでエンドクレジットを観ていた時、私はふと思い出した。カーティスが「愛に満ち溢れた場所」として描き出した空港という場所を、かつて 'ugly' (醜い)と書いた作家がいたことを。
 カーティスの目に映る空港が、「素晴らしい眺めだった。出迎える人を待っているあいだは退屈そうに見えた普通の人々の顔に、待ち人が現れたとたん、愛と親愛の情が溢れかえる」だったのに対して、この作家には同じ場所が「この醜さは、空港には疲れて不機嫌な人が一杯いることに起因する」(The Long Dark Tea-Time of the Soul, p. 1)と思われたことを。
 カーティスが1990年以降も作品を発表し、着々とキャリアを伸ばして、今回この映画でついに監督デビューを果たしたのに対して、この作家は1992年以降は新しい本を出版することもなく、自作の映画化に向けて奮闘するも、結局実現しないままにこの世を去ったことを。
 思い出して、胸が刺すように痛くなった。映画館の暗闇をいいことに、しくしく泣いた。
 カーティスは、この映画の脚本を書いている時、ほんの一瞬でもアダムスの文章を思い出しただろうか。あるいは、イギリスやアメリカの観客の中で、私と同じようなことを考えた人はいただろうか。
 人生ってヤツは、本当にもう。

 ……再度、気を取り直して。
 今週の更新は、久しぶりにアダムス関連ではなくノルシュテイン関連の話。ノルシュテインの朗読CD付き絵本『金の魚』の発売を記念して、ロシアを代表する二人の文豪、プーシキンゴーゴリについて。

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2004.4.17.  2004年度ロシア語会話

 NHK教育テレビでは、4月からまた新たにロシア語会話の番組が始まった。
 私は既に過去3年分のテキストを購入し、丸2年間放送を(ビデオ録画して、ところどころ早送りしながらとは言え)見続けてきた。しかし、それでもまだキリル文字をきちんと全部憶えていないというていたらくである。我ながらひどいものだ。
 が、それでも少しずつ目には馴染んではいるようで、ノルシュテインが朗読するプーシキンの『金の魚』を聴きながら、キリル文字のテキストを必死で目で追える程度にはなっていた。勿論、意味はさっぱりわからないし、音の響きの美しさを感じる余裕はどこにもないが、それでも最初から最後まで「今どこを読んでいるのか」が分かるだけでも大した進歩じゃないかと悦に入る。ちょっとしたことですぐ自己満足に浸るのは、私の欠点の一つだ。
 ともあれ、2004年度はどうしたものかと、先月下旬頃から書店に並び始めたロシア語会話のテキストを立ち読みした。すると意外なことに、今年度の生徒役は私ですら名前を知っている有名タレント、さとう珠緒さんが務めている。NHKとしては、出演料の高そうなタレントさんを起用してでもロシア語会話の視聴率を上げたいのだろうか。NHKの意図はよくわからないが、ともあれ私としては、今年度のテキストには児島宏子さんのエッセイは掲載されていないからという理由で、今年度の購入は見送ることにした。
 そして、4月6日(火)午前0時30分からの初回放送分を、ビデオ録画して見た。
 見た、のだが。
 冒頭の1分間だけで、失神しそうになった。
 この番組、キャスティングと演出の方向性を完全に間違っていると私は思う。出演者個々人が悪いとか嫌いとかいうのではなく、この番組の、この設定で、このタレントを起用するのは、あまりに意味がないじゃないか、という、ただそれだけのこと。どう考えても彼らの出演料の総額は2年前のあんじ一人の比ではないと思うが、少なくとも私はあんじのモスクワ一人旅のほうが、今回の派手派手しい設定よりもはるかに好感も共感も持てたんだけどな。
 どう考えても予算が多いとは思えないロシア語会話でこの状態なのだから、他の語学は一体どうなっているのかと、また書店で片端から立ち読みしたところ、テキストから判断する限りではよそははるかに理性的に作られているような気がした。特にイタリア語会話では、今年は映画『ピノッキオ』から会話素材を取り上げるらしい。日本ではあまり当たらなかったけれど、実は私はこの映画が結構好きなので、羨ましくて目眩がした。
 あああ、ロシア語会話も有名タレントを起用する金があるなら、「『チェブラーシカ』で学ぶロシア語会話」とか、そういうのにすればいいのに。そうしたら私も直ちにHDD&DVD購入の検討に入るのに。
 とりあえず、一種の怖いもの見たさで4月12日放送分も見た。少なくとも、ダチョウ倶楽部はレギュラーではなく、第一回放送分のみの出演だったことが分かって少しほっとした(ひょっとして、第一回のみ出演というのが実は「つかみはOK」という深淵なるネタだったのか? だとしたら、NHK恐るべし、だが)。惰性で、あと数回は今年度もロシア語会話を録画し続けるつもりだが、そのうちあの強烈な色彩設定のセットにも目が慣れるのかしらん。

 そして今回の更新は、ロシアの二大文豪に続いて、ロシア・アヴァンギャルドの芸術家の特集。
 プーシキンとゴーゴリについては、さすがに前からある程度は知っていた。でもゴーゴリが「痔疾」とか「不能、または同性愛者」の疑いをかけられていることまでは知らなかった。ごく一般的な文学事典に書かれているくらいだから、それなりに根拠のある説なのだろうが。
 一方、ロシア・アヴァンギャルドについては、「25日、最初の日」がなければ私は一生全く何も知らないままだったに違いない。

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2004.4.24.  追従、それとも挑発?

 「25日、最初の日」を初めて観たのは、「霧に包まれたハリネズミ」や「話の話」を観てノルシュテインのファンになってから何年も経ってからのことだった。
 この作品のテーマがロシア革命だということは知っていた。が、他の作品とのテイストの違いに、まず面食らった記憶がある。今にして思えば、絵柄が違うのはこの作品の美術担当がフランチェスカ・ヤルブーソヴァでなかったから当然なのだが、露骨なまでの革命賛歌にも驚いた。とは言え、「卒業制作だから、革命万歳・ソビエト万歳なのは当然だよな。卒業後の就職の問題もあるし、ひょっとしたら学校のほうで最初からテーマを決められていたのかもしれないし」と勝手に憶測し、勝手に納得した。
 だから、後にノルシュテインのインタビュー記事等を読んで、あの作品が当時のソビエト体制へのご機嫌取りどころか、政治的検閲に自由を阻まれて希望通りに仕上げることができなかったと知った時は、驚いたというよりは頭の中が疑問符で一杯になった。こんなにも自国の芸術家を持ち上げ、自国の革命を褒め称えた作品の一体どこが、ソビエト政府のお気に召さなかったというのだろう?
 前回の更新のために、ロシア・アヴァンギャルドの芸術家たちを調べてみた時も、やはり同じ疑問にぶつかった。ジャンルや方法論はともかく、ブルジョワ芸術の打倒を掲げて革命に与し、帝政ロシアでは監獄入りになった芸術家のみなさんも、自分たちで御輿を担いだ他ならぬソビエト政権下でも弾圧され、強制収容所送りになっている。わかっちゃいない後世の外国人である私の目には、政治性が強すぎていささか芸術性に欠けるようにすら思える作品群の一体何が、ソビエト政府の逆鱗に触れたのだろう?
 という訳で、亀井郁夫著『磔のロシア』を読んでみたところ、これがおもしろいの何の。へええ、へええ、スターリンが自分を正当なレーニンの後継者と見なされることを過剰なまでに求めたのは、実は正当な後継者としての資格に欠けているという劣等感から来るもので、だから革命万歳レーニン万歳を言い過ぎるのは彼のコンプレックスを刺激しかねなかったのか。そのくせ、スターリン万歳を言い過ぎても、今度は彼の猜疑心をかき立てかねなかったのか。そんなこんなで、私の中ではロシア・アヴァンギャルドな画家たちよりももっと革命万歳一辺倒なイメージだった(読んだことないけど)ゴーリキーですら、強制収容所送りになりかねないところだったのか。おかげで(聴いたことないけど)ショスタコーヴィッチも、時代の趨勢を見極めながら命がけの綱渡りな作曲をする羽目になったのか。とりあえず革命万歳、レーニン万歳と言っておけば当たり障りがなくて大丈夫だろう、などという安易な考えではあっという間に強制収容所行きだったとは、知らなかったなあ。
 スターリン時代の大粛正を経て、その後のソビエト政権も、基本的にはスターリンが確立した一党独裁を踏まえつつ、でも国民の不満は「あれはスターリン個人の問題」で適当にそらしつつ、とは言えあまりスターリンを批判しすぎると自分たちの首を絞めることになりかねないから困る、という微妙すぎる舵取りを維持していく。こんな状態じゃ、1968年当時のロシア美術館の学芸員たちが、スターリンが公開を禁じたフィローノフ作品について「観ないふり」を決め込んだのも無理はない。そもそもの禁止命令が「スターリン個人の見解」か「ソビエト政権の見解」のどちらに見なされるか判然としない以上、公開禁止の解除を求めるのは確かに危険すぎる。その一方で、卒業制作の資料を求めてやってきた学生に、死蔵されているフィローノフ作品をこっそりと見せてあげる辺り、見事な「二枚舌」だと褒めてつかわそう。

 その後、ソビエト政権が崩壊し、多くのソビエト時代の極秘内部資料が明るみになった昨今では、どの時代のどの人の発言がどの程度の「二枚舌」なのかを憶測するのが可能にもなったし、より複雑にもなった。
 という訳で今週の更新は、きっとこれからさらなる作品研究が進められるであろう、ソビエト時代の二人のロシア・アヴァンギャルド芸術家、マヤコフスキーとショスタコーヴィチを追加。研究者のみなさまを、陰ながら応援しています。

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2004.5.1.  ショスタコーヴィッチを聴きながら

 現在、この文章を書きながらBGMとしてショスタコーヴィッチの交響曲第5番「革命」を流している。
 ノルシュテインの「25日、最初の日」に使われたのは11番と12番で、5番は出てこないと分かってはいるが、前述の『磔のロシア』を読んだら聴いてみたくなって買ってみた。キーロフ歌劇場管弦楽団の演奏で指揮はワレリー・ゲルギエフという、今クラシック売り場でやたらと平積みされている、ある意味一番ミーハーなヤツ。音の良し悪しなんか、演奏の出来不出来という点でも録音状態という点でも私の耳では分かりゃしないのだから、もっとお安く売られている廉価盤でも良かったのだけれど、ここのところ仕事が忙しくて珍しく残業代なぞをせしめたため、2548円をぽんと払う気になったのだった。
 で、聴いてみて、案の定何がどう「革命」なのか、さっぱり分からない。中の解説文を読んでも、『金の魚』のロシア語文と同じくらい分からない。でも、とりあえずBGMとして流す分には差し障りはなさそうなので、当分CDプレイヤーに入れたままにしてみよう――って、そんな聴かれ方はショスタコーヴィッチにとってもゲルギエフにとっても全然嬉しくないのだろうけれど、お二方にはこれが資本主義の恐ろしさとあきらめていただくことにする。

 話は変わるが、この1週間のうちに私のホームページを見た3人の方から、新たなメールをお寄せいただいた。
 これまでも、数ヶ月に一度くらいの割でメールを送ってくださる方が現れたけれど、大抵はノルシュテイン関連だった。それが、今回の3名の方は揃ってアダムス関連でお立ち寄りくださり、そしてお二人からはアダムスに関する新情報を、そしてもう1人の方からは私がこれまで垂れ流していた誤りをご指摘いただいた。返信メールも送ったが、この場でも改めて御礼申し上げます。どうもありがとうございました。
 それから、私の個人的な友人からも、私の長たらしい文章の中から誤字を発見したとの通知をいただいた。その友人は、アダムスにもノルシュテインにもガデスにもたいして興味は持っていないのに、私が少しでもアクセス数を上げたい一心で読め読めと強制しているだけであるにもかかわらず、丹念に読んで見つけ出してくれたのだ。本当に、ありがたくて頭が下がる。
 勿論、私は私なりに極力間違いのないように気をつけてはいる。が、それでも私の能力不足からくる誤字脱字誤訳誤読は避けられないとも思っている。それらを100パーセント取り除かなければアップロードできない、となれば、私は半永久的にホームページを開くことができないだろう。だから、他人から間違いを指摘してもらえるのは私にとって、恥であると同時に、ほんの少し光栄なことでもある。
 という訳で、誠に手前勝手な言い草とは存じますが、みなさま、何とぞ今後もよろしくお付き合いくださいませ。重ねてお願い申し上げます。

 そして今週の更新は、『銀河ヒッチハイク・ガイド』視覚化企画のうちの一つ、コミックス版について。プラス、思いがけない新刊情報も追加。

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2004.5.8.  ドーキンスを読みながら

 コミックス版『銀河ヒッチハイク・ガイド』、持ってはいるが読んではいない。
 ちゃんと読もうと、何度となく挑戦した。特に前回の更新でコミックス版を追加するからには、無理にでも頑張って最後まで目を通そうと努力した。でも、どうにもこうにもかったるくて、ペラペラとページをめくって、「ふーん」と思って、やっぱりそれでおしまい。普通の英語の文章を読む時よりも根気が続かないから不思議なものだ。日本語でなら、私も文章よりマンガのほうがとっつきやすいと思うタチなのだが、やはりアメコミの絵柄に馴染めないせいか。
 とは言え、アメリカン・コミックスの映画化作品については、モノによっては偏愛しているため、時々友人からあらぬ誤解を受けたりする。先日も、ケーブルテレビに入っている友人から、「アニメ『スパイダーマン』、よかったら録画してあげるよ?」という、親切だけれど大勘違いなメールをいただいた。確かに、私はまもなく公開の映画『スパイダーマン2』を指折り数える勢いで楽しみにしている希有な日本人の一人ではあるが、私の目当てはあくまで主演男優にある。故に、原作のアメコミ自体は私の知ったことではない(あ、でも、アメコミ作家を主人公にしたマイケル・シェイボンの小説『カヴァリエ&クレイの驚くべき冒険』はおもしろかった。アメコミに興味がないくせに何故この小説を読んだかと言えば、同じ著者による『ワンダー・ボーイズ』が気に入っていたからで……よそう)。

 一方、知ったことではない、と言い切れないのがアダムスのお友達、リチャード・ドーキンスの新作エッセイ集。書店で目次を立ち読みしただけで、この新作にアダムスへの追悼が2種類も収録されていることはわかり、直ちにレジに持っていって購入した。で、取り急ぎ先週「最新ニュース」として掲載したが、あれから念のため(?)本文を最初から最後までちゃんと読んでみたところ、それ以外の箇所でもあちこちでアダムスの発言や文章が顔を出しているではないか。
 それだけドーキンスとアダムスは親しかった、ということでもあり、かつイギリスではアダムスの知名度は高い、ということでもあるのだろう。それにひきかえ、日本じゃ相当のドーキンス・マニアでなければ、アダムスのことまでは知らないだろうな。というか、私がアダムスを通じてドーキンスの著作を読んだように、ドーキンスに心酔する余り『銀河ヒッチハイク・ガイド』にまで手を伸ばした人は、果たして日本に一人でもいるのかしらん。
 ちなみに、『悪魔に仕える牧師』の訳者は、アダムスのことをどこまでご存じだったのだろう。あとがきをみても、「僚友ハミルトンやダグラス・アダムスら親しい人の死に寄せた弔辞」(p. 441)とさらりと流しているあたり、たいして関心を持っているような印象は受けない。おまけに、289ページ10行目及び296ページ15行目の「某博士」というのは、これはどう考えてもテレビ番組の『ドクター・フー』のことじゃないかと思う。インターネットでも公開されていた前者はともかく、後者のほうは英語のオリジナル・テキストを持っていないので断言はできないが、その他にもアダムスの言葉がたくさん引用されていることだし、この際原書の A Devil's Chaplain も買って自分でちゃんと確認しようか。
 とは言え、考えてみれば後者の箇所を含む、ドーキンスのセント・マーティン・イン・ザ・フィールズ教会での弔辞は、BBCのサイトに行けば今なおネットを通じて聴けるのだった。私は言うまでもなくさっぱり聴き取れなかったので、おとなしく尻尾を巻いてアマゾン・コムでペーパーバック版を購入することにするが、英語のリスニングに自信のある方は是非お試しあれ。
 それにしても、BBCはれっきとした公営放送なのだから、聴覚障害者のために全文テキストにしてサイトに掲載する、というサービスを始めてくれればいいのにな。ま、よその国の人間に言われる筋合いはない、と言われればそれまでだけどな。

 そして今週の更新は、BBCがきちんとテキストで掲載してくれた、The Big Read という読書キャンペーンについて。BBC並びに、この情報をメールで私に教えてくれた方、どうもありがとうございました。

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2004.5.15.  三回忌を記念して

 2004年5月11日は、アダムスの三回忌である。何か、三回忌にふさわしい更新ネタはないものかと思いあぐねていたところに、The Big Read の話がメールで飛び込んできた。
 イギリスの愛読書アンケートで、古今東西のあらゆる小説の中から第4位に選出されるとは、いやはやたいしたものじゃないか。小説版が初めて出版されたのはもう25年も前のことで、映画化も(現時点では)実現していないにもかかわらず、である。しかも、かの『ハリー・ポッター』を抑えた上での第4位なのだから凄い快挙だ。まあ、『ハリー・ポッター』に関しては、シリーズ物はそれぞれ一冊ずつに投票するというシステムだったため票が割れた、という理由もあるのだが、それを言うなら『銀河ヒッチハイク・ガイド』だって『ハリー・ポッター』と同じ計5冊のシリーズ物だ。極めて公平な勝負と言えよう。
 このアンケートで1位になった『指輪物語』と2位の『高慢と偏見』については、前者は映画化で話題沸騰中のことでもあるし、後者は数年前のBBCでのテレビドラマ以降久しくブームが続いている名作中の名作でもあるし、順当な結果だと私も思う。が、しかし、3位については個人的にはちょっと承服しかねるものがある。シリーズ物は1冊ずつ集計、というお約束なのに、「ライラの冒険」シリーズだけは『黄金の羅針盤』『神秘の短剣』『琥珀の望遠鏡』3冊まとめて1冊の扱いって、それはないんじゃないの? そりゃ確かにれっきとした続き物ではあるけれど、もし本当に3冊で一つの長編だというのなら、『黄金の羅針盤』の1冊が出版された1995年に、早くもカーネギー賞やらガーディアン賞を受賞するのは絶対おかしい。誰が何と言おうと、おかしいったらおかしい。ああもう、この本さえ「シリーズ物」扱いされていれば、間違いなく『銀河ヒッチハイク・ガイド』が第3位になったのに。
 正直に告白しよう。随分前に「ライラの冒険」シリーズを読んで、私個人としてはまるきりツボを外してしまっただけに、よりにもよってこのファンタジー小説に負けたことが実はかなり悔しいのだ。『ハリー・ポッター』に負けたならあきらめもつく。単純に、私もおもしろいと思うから。でも、この小説のどこがそんなにおもしろいというのだろう。そりゃあ、ダイモンの設定は良かった、スケールも設定も壮大だった、だがとてつもない大風呂敷を広げた割には3冊目を読み終わっても未消化なネタがやたら多くて、ひどい肩すかしだと思ったのは私だけか?
 ああ、悔しい。

 気を取り直して、残る5〜21位の作品については、読んではいなくても知っている作品ばかりだったが、唯一13位の『よみがえる鳥の歌』だけは著者も本のタイトルもまるっきりの初耳だった。
 第一次世界大戦を背景に描かれた、愛と戦争の文芸大作らしい。翻訳は扶桑社文庫から上下2巻で出版されていて、幸いまだ絶版になっていないから、近いうちに探し出して読んでみようと思う。13位だから、少々ツボをハズしたとしても悔しい思いをすることもないし(え、何か違う?)。

 そして今週の更新は、三回忌企画の第二弾、ダグラス・アダムスと『銀河ヒッチハイク・ガイド』の解説本の解説と、そのコレクション自慢。
 それから、ついにクランクインしたらしい映画『銀河ヒッチハイク・ガイド』についても、新情報を追加する。

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2004.5.22.  'Don't Panic' と言えば

 私のサイトのあちこちで顔を出す、ニール・ゲイマンの『銀河ヒッチハイク・ガイド』解説本は、彼が1988年に出した版、Don't Panic: The Official Hitchhiker's Guide to the Galaxy Companion からの引用である。
 前回の更新でコレクションをご披露した通り、私はその後ゲイマンが出した改訂版もすべて手に入れてきた。にもかかわらず、今のところその時々の最新情報が付け加えられた改訂版からの直接の引用は行っていない。
 そうまでして頑なに1988年版にこだわるのは、不合理極まりないと私も分かっている。分かっているのに、それでも2003年版を使用しない理由はただ一つ、1988年版と2003年版とではページ番号が大幅に変わっているため、もし2003年版に切り替えるなら、これまでに私が引用した箇所のページ番号をすべて訂正しなくてはならないからだ。しかも、2003年版が未来永劫最終改訂版となるかどうかの保証もないのに。
 が、言い換えれば、私が自分の英語力に自信を持てないが故に、読者の方には必要に応じてオリジナルのテキストに当たっていただけるよう、こまめに引用箇所のページ番号を振っていても、ゲイマンの解説本に関しては1988年版がとっくに絶版になっている現状ではほとんど何の意味もないということでもある。だから、せめてもの言い逃れとして、私のサイトからゲイマンの解説本でオリジナルの文章を確認しようと考えた方に対し、「私の引用は、あくまで1988年版です」と明記したほうがいいだろう、と思った。
 かくして、「伝記・解説本」コーナーの追加と相成った次第。我ながら、実に姑息な理由だこと。

 ともあれ、私の中で 'Don't Panic' と言えば『銀河ヒッチハイク・ガイド』の専売特許状態にあった。が、無論これは私の勝手な思いこみである。ゲイマンの著作をアマゾン・コムで検索するときに、深く考えず著者ではなく書名から 'Don't Panic' で検索したら、パニック障害関連の本がどっさりリストアップされてきた。それを見て、自分の中の「常識」がいかに偏っているかを改めて痛感する羽目に。
 また、2003年に出版された岩波新書『イギリス式生活術』の目次をみると「ドント・パニック」という章があった。イギリスの、生活術の、「ドント・パニック」である。これはもう絶対確実と色めき立ったのに、ここでもアダムスも『銀河ヒッチハイク・ガイド』も全く触れられることはなかった。代わりに、「ドント・パニック」の例として登場するのはマーガレット・サッチャーとナポレオン。多分、この二人を偉大な人物として尊敬していらっしゃるのであろう著者の黒岩徹氏と、この二人の所行をたいして尊敬する気になれない私とでは、根本的にライフスタイルの好みが異なるのであろう。万が一に備えて全部読み通してはみたものの、アダムスのみならずモンティ・パイソンもミスター・ビーンも一切出てこなかったし、著者が使う「紳士・淑女」という言葉が私には最後までぴんとこなかった――と言うか、黒岩氏に言わせればそんなものにうつつを抜かした時点で既に、紳士・淑女失格なのかもしれない。

 そして今週の更新は、いよいよ撮影の始まった映画『銀河ヒッチハイク・ガイド』のキャストとスタッフの、プロフィール情報の追加。完成が、待ち遠しいような怖いような。
 それから、ノルシュテイン関連の最新ニュースも追加。私も行けるかな?

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2004.5.29.  祝・音楽DVDレンタル一部解禁

 音楽DVDの一部がレンタル解禁になったらしい。おかげで、ほんの数百円のレンタル料金でガース・ジェニングスが監督したミュージック・クリップのうちの一つ、ブラーの「カフェ& TV」を観ることができた。
 誰に感謝したらいいのか分からないけれど、有難いったらありゃしない。そりゃ、私がブラーのファンだったら、レンタルなどとセコいことは言わず、セルDVDも喜んで買わせていただく。が、哀しいかな私は、ブラーというのがイギリスのバンドらしい、ということくらいしか知らない、街を行く一般人よりもはるかに音楽への興味と一般常識に欠ける人間である。映画『銀河ヒッチハイク・ガイド』を監督することになったガース・ジェニングスがどういう作品を撮る人なのか知りたいというだけのために、聴いたこともないバンドのミュージック・クリップ集に何千円も払うのは、さすがにためらうものがある。そんな折も折、久しぶりに近所のTSUTAYAに行ってみれば、今まで見たこともなかった洋楽DVDレンタルのコーナーなるものが出来ていて、そのコーナーのわずかばかりのレンタル商品の中に、私がここ数日アマゾン・コムのセルDVDコーナーを検索しては買うべきか買わざるべきかと思案の溜息をついていた、ブラーの「ザ・ベスト・オブ」が並んでいるではないか。
 嬉々として家に帰るや否や、全22曲収録されているうちの肝心要の1曲を選択して、再生した。こういう時、ビデオと違ってDVDって本当に便利だ。まず、シングルCDのジャケットが映り、そして始まった。
 開始10秒で、思わず声が出た。
 か、かわいい。
 それは私が今までに観た、どのミュージック・クリップよりもかわいかった。デザインも動きも、それはそれはかわいかった。
 この世で星の数ほど製作されたであろうミュージック・クリップのうち、私がちゃんと見たことのある作品はほんのわずかに過ぎない。それも、せいぜいテレビCM等で放映される有名どころの作品くらいのものだが、そういう作品群から私が抱いていた「ミュージック・クリップ」の作品イメージは、前衛芸術っぽくてさっぱり訳がわからないものか、大げさで派手な映像を躁病患者よろしくがちゃがちゃと繋いだものか、あるいは当該アーティストをひたすら格好良く撮影したもの、だった。実際、一応お付き合いとして観たブラーの「ザ・ベスト・オブ」の残りの21曲も、私が抱いていた従来のイメージを裏切るものでは決してなかった。
 それが悪い、というのではない。あくまでCDの宣伝のために作られるものなのだから、一発勝負のインパクト重視に仕上がっていたとしても、またやたらミーハー路線全開だったりしたとしても、当然のことだと思う。ただ、これまでそういう短い映像作品を作っていた人が、後に長編映画の監督としてデビューして、その結果出来上がった作品がいわゆる「MTV調」に落ち着きなくがちゃがちゃしていたり(マイケル・ベイとか)、これみよがしな才気を振りかざしていたり(スパイク・ジョーンズとか)しているのは、私の好みではない、というだけの話。故に、『銀河ヒッチハイク・ガイド』の監督がミュージック・クリップ畑出身と知って実は秘かに怯えていたのだが、「カフェ& TV」の幸せなラストを観る頃にはそんな不安は一掃されていた。
 「カフェ& TV」では、単に牛乳パックのキャラクターがかわいいだけでなく、一つの短編映画としてきちんと成立していた。映像は、映像そのものを見せびらかすためではなく、ストーリーを的確に語るためにあった。音楽の歌詞が、このストーリーと合っているのかどうかは私は知らない。が、歌詞は分からなくてもストーリーは完璧に分かるし、「音」と合っていることも分かった。私の嫌いな、余計なこけおどしやハッタリは微塵もなかった。
 ひょっとしたら、「カフェ& TV」はガース・ジェニングス作品の中でも異色なのかもしれない。他の作品は、私のこれまでのイメージ通りの「ミュージック・クリップ」っぽい作品なのかもしれない。その点は考慮しなくてはいけないと分かっていても、それでも私の中で突如として猛烈な勢いで膨らみ始めた映画版『銀河ヒッチハイク・ガイド』への期待を抑えることは、できそうにない。

 そして今週も先週に引き続き、更に明らかになった、映画『銀河ヒッチハイク・ガイド』のキャスト&スタッフのプロフィールを追加。

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2004.6.5.  シャイノーラと言われても

 3月27日付の同コーナーで、映画『銀河ヒッチハイク・ガイド』の監督ガース・ジェニングスのことを「正体がまったくわからない」と書いた私に、親切にもメールで教えてくださった方がいる。その方のおかげで、先頃めでたく監督のプロフィールを作成することができたのだが、その時にジェニングスが所属する映像製作集団、Hammer & Tongs について、「イギリスではシャイノーラというグループとともに有名」と説明されていた。
 シャイノーラと言われても、無論私にはまるで聞き覚えのない固有名詞である。ご教示はご教示として有難くいただくとして、でも多分私は一生シャイノーラとやらとは縁がないだろうなあ、と思っていたら、その数週間後に海外の映画検索サイトの『銀河ヒッチハイク・ガイド』で追加されたスタッフリストの中に、他ならぬ 'Shynola' の名前が挙がっている……。
 という訳で、改めて読みの深いご教示に感謝します。どうもありがとうございました。
 残念ながら、シャイノーラのミュージック・クリップは近所のTSUTAYAのレンタル音楽DVDのコーナーには見つからなかった。そのうちこちらも観られるといいな。

 話は変わって、前回の更新で新たに追加したキャストの中で、マーヴィン役のウォーウィック・デイビスという役者が元『スター・ウォーズ』のウィケット役だったと知って驚いた。
 ウィケット、つまりクマのぬいぐるみのような、あのキャラクターである。今ならCGで描くことも可能だが、当時の技術では着ぐるみ戦術で撮影するしかなかったため、身長の低い役者が採用された訳だが、デイビスが背の低さだけでなく演技力も備わった役者であることは、その後の彼のキャリアが証明している。が、しかし、今回の役はロボットである。わざわざマーヴィン役に彼が抜擢されたということは、演技力よりも背丈の低さが買われたと考えたほうがいいのだろうか。つまり、映画『銀河ヒッチハイク・ガイド』のマーヴィンは、CGもしくは電気じかけの機械ではなく、『スター・ウォーズ』のR2D2同様、中に人が入って動かすやり方で撮影するということ……?
 まあ、あまり先走って考えるのはよそう。
 トリリアン役のズーイー・デシャネルについては、しまった、彼女がトリリアンをやると分かっていたら、彼女が出ていた映画『グッド・ガール』を絶対観に行ったのに、とほぞを噛んでいる。この間劇場公開されたばかりだから、ビデオ化まであと半年くらいは待たされるだろう。あーあ、失敗した。
 レンタルビデオが出るまでの間に、せめて彼女のちょっと変わった名前の由来となったサリンジャーの小説『フラニーとゾーイー』(発音的には「ゾーイー」と「ズーイー」のどちらのほうが正しいのかどうか、私には不明)でも繙いてみようか、とも考えている。過去に何度となく挑戦しては最初の3ページほどで挫折してきたこの作品、でも世の中には自分の子供に名前を付けるほどに愛読している人がいることも事実で、とは言え娘にフラニーならまだしもわざわざ男性の名前であるズーイーという名前をつけようと考えるなんて、やっぱりあんまり普通じゃない。でも、普通じゃないと言うなら、読んだだけで生きているのがすっかりイヤになってしまいそうなトマス・ハーディの小説『日陰者ジュード』の主人公にちなんで息子をジュードと名付ける親も世の中にはいらっしゃる訳で、一体どっちの親のほうが変わっているかを考えながら読むとすれば、『フラニーとゾーイー』、今度こそ最後まで読み通せるかもしれない。

 そして今週の更新もまた、映画化関連の話。脚本家カレイ・カークパトリックが語る、『銀河ヒッチハイク・ガイド』映画化決定までの紆余曲折について。

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2004.6.12.  コラボレーションという才能

 脚本家カレイ・カークパトリックの、本音ぶっちゃけモード全開の自問自答インタビューを一読して、私は彼に好感を持った。
 もともと『銀河ヒッチハイク・ガイド』を読んではいなかったことや、ダグラス・アダムスよりもジェイ・ローチの名前に引かれてプロジェクトに参加したことについては、私も数多の『銀河ヒッチハイク・ガイド』ファン同様に「何だって!」と思いはした。でも、かくも率直に打ち明けられてはそれ以上には腹は立たない。ハリウッド業界においてジェイ・ローチに向けられる注目の高さに、そういうものなのかと感心するばかりである。そりゃまあローチの監督作品と言えば、『オースティン・パワーズ』とか『オースティン・パワーズ:デラックス』とか『オースティン・パワーズ ゴールドメンバー』とか、そうそうたる大ヒット作が並んでいるのだから当然なのかもしれないが。
 逆に、ジェイ・ローチ側にしても、『チキンラン』の脚本家とはなかなか良いところに目をつけたなとも思った。私はもともと短編アニメーションのファンとして『ウォレスとグルミット』シリーズは大好きだったし、このシリーズの監督ニック・パークが初めて手がけた長編アニメーション『チキンラン』については、それこそ企画段階の頃から出来上がるのを楽しみにしていた。作品が完成してめでたく英米で大ヒットしたのは良かったが、一時は日本での配給が危ぶまれたことがあって、無事一般公開が決定した時にはほっとした記憶がある。何しろ、ちょうどこの映画がイギリスで公開されていた時期に私はロンドンを旅行していたので、観ようと思えばその時に観られたのだが、どうせ近いうちに日本でも上映するだろうし、観るなら日本語字幕付きのほうがいいや、と敢えて映画館の前を素通りしていたのだ。その挙げ句、日本での公開が見送られた日には、悔いても悔い切れないというものである。だからこそ余計に感無量だった日本でのロードショー公開に、喜び勇んで渋谷の映画館に駆けつけたところ、公開第1週目だったにもかかわらず映画館はガラ空きで、ちょっと切なかった。
 映画『チキンラン』でのカークパトリックの貢献が、どの程度のものだったのかについては私にはよく分からない。確かに『チキンラン』は楽しかったけれど、残念ながら私は『ウォレスとグルミット』ほどには夢中になれなかったので、メイキング本を手に取るまでには至らなかったのだ。今度、都心の大型書店に行った時に、今さらながら一応探してみようか。
 ともあれ、カレイ・カークパトリックとジェイ・ローチの二人に共通するのは、強烈な才能の持ち主と上手にコラボレーションする能力の高さではないかと私は思う。彼らには、ひょっとするとダグラス・アダムスやニック・パークやマイク・マイヤーズに匹敵する独創性はないかもしれない。が、独創しすぎて独走しかねない才人たちの意を十二分に汲み取りつつ、かつそれを活かしてうまく一つの作品としてまとめ上げる力もまた、企画を机上の空論で終わらせないためには欠かせないものであるはずだ。
 願わくば、映画『銀河ヒッチハイク・ガイド』が多くの人の才能をうまく一つにまとめた、幸せな作品となりますように。
 そう祈りつつ、今週の更新もまた、映画のキャスト&スタッフ・プロフィールの追加。映画製作って、本当に多くの人の手がかかっている。

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2004.6.19.  映画を観るか、それとも撮るか

 私にとって、映画は「撮る」ものではなく「観る」ものである。今まで、自主製作や自主上映の類に参加したことはおろか、家庭用ビデオカメラ一つ手に持って回したことがない。愛用のマックにあらかじめインストールされている映像編集ソフト iMovie すら、一度も起動しないまま今日に至る。
 映画に限らず、私はアニメーションは好きだが自分で描こうとしたことはないし、フラメンコは好きだが自分で踊ろうと思ったことはない。製作現場の裏話には興味を持てど、そこに直接自分も参加したいとは、考えたこともなかった。どちかと言えば、私の中には創作の喜びよりも創作できない劣等感のほうが強くて、体育と音楽と美術の実技で学年最下位を喰らった高校生活終了を機に、二度と人から創作を強いられない立場を保つことを心がけていたようにさえ思う。
 が、そんな私も大学の最終学年になって、就職活動なるものを始めた頃には、本当にほんの少しだけ、「映画業界」に参加できないものかと夢想したことがある。ただし、これは「志望」よりももっと安易な「夢想」の域で、その証拠に実際に業界で働いていらっしゃる方の就職希望者に向けた文章やインタビュー等を流し読みしただけで、とても自分には務まらないとあっさり挫折してしまった。
 かくして今の私は、このホームページの内容とはまったく何の関係もない事務仕事で禄を食んでいる訳だが、そのことは別に後悔していない。私が仕事をするのはあくまで衣食住を自分でまかなうためであって、仕事に自己実現だのアイデンティティだのを見出したいとは思っていないからである。それどころか、私としては経済的には職場に依存しても、精神的には独立していたいという気すらあるため、仕事と趣味が一致しないのは却って好都合なのだ。映画製作や出版が自分の仕事や収益とまったく関係がないからこそ、心おきなくつまらないものはつまらないと言える。各種のしがらみとも一切無縁。気楽の極みだ。
 とは言え、このたび映画『銀河ヒッチハイク・ガイド』の多種多様なスタッフ一覧を作っていて、これまで自分がいかに「映画スタッフ」なるものを狭い視点でしか捉えていなかったかを思い知り、気持ちが少しばかり揺れた。
 私がこれまで映画を観る時にスタッフの名前で注目するとしたら、せいぜい監督と製作と撮影と美術、作品によってはそれに音楽と衣装が加わる程度だった。その他に思い付くのは、製作ではなく配給の仕事くらいのものか。そりゃ、映画製作にはもっと多くの人が参加していることは分かっている。でも、衣装担当の人たちが大勢で衣装をちくちく縫っているとか、CG担当の人たちが大勢で特殊効果をちまちま作っているとか、そういう意味での「多くの人」というイメージであって、製作の段取りと司る人や、ロケ現場の采配を振るう人といった、アーティスト、あるいはパブリストといった肩書きとは無縁の、もっともっと地味な事務仕事がたくさんあるということにまでは思い至らなかった。
 そのことを知った時、そういう種類の裏方事務仕事ならひょっとしたら私にもできたかもしれないと、本当にほんの少しだけとは言え夢想してしまったことを、素直に認めます。
 現実にはそんな度胸も根性もないくせに、いやはやお恥ずかしい。

 ……気を取り直して今週の更新は、映画化に先駆けて実現した『銀河ヒッチハイク・ガイド』の、別のビジュアル化企画について。やっぱり、ものを創るのは難しい。

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2004.6.26.  売れる本=良い本?

 売れる本が、良い本だとは限らない。
 当たり前である。何をわざわざ主張する必要がある、てなくらいに当たり前である。もし売れる本イコール良い本ならば、すべての書評家・批評家は筆を折り、ベストセラー・リストに道を譲ればいい。かくして、2003年の日本文学最高の収穫は『世界の中心で、愛をさけぶ』と『バカの壁』で決まりである。ちなみに私は前者は読んでいないが、後者を職場の先輩から借りて読み、本を持つ手が怒りで震えた。どうして私以外の多くの読者がこの本に「納得」できるのか、私にはさっぱり分からない。
 勿論、『バカの壁』に納得する人が存在するのと同様に、売れる本=良い本と考える人は確かにいる。そりゃ世の中にいろんな考えを持つ人がいるし、一般読者が「よく売れている本だから、きっとおもしろんだろう」と判断してベストセラー本を手に取るのは間違ったことではない、というより私自身もよくやることだ。が、文芸評論家のような仕事をしている人までが笙野頼子が言うところの「売り上げ文学論」に走るというのは、私には不思議でならない。おいおい、自分で自分の存在理由を潰してどうするよ? 
 が、「売れなくても、良い本」があるのと同様に「売れてこそ、良い本」もある、とも私は思う。すべてではないが大半のタレント本、テレビドラマや映画のノベライズ本、人気ゲームの攻略本、または前述の「セカチュウ」に代表される、作家と編集者が手に手を取ってひたすら販売部数を伸ばすべく腐心して作られた本。語るに値しないくだらない本、という意味ではない。小手先のマーケティングとプロモーションでベストセラーが出来るはずがないことくらい、私にだって想像できる。だから、『バカの壁』の内容に猛り狂いはしても、私はこの本の編集者には内心の悔しさを噛み殺して賞賛の拍手を送る。
 さて、以上を踏まえて、前回の更新で追加したビジュアル・ブック版『銀河ヒッチハイク・ガイド』についてだが、この本は明らかに「売れてこそ、良い本」に分類されると思う。そして、「売れてこそ」なのに売れなかった、よろしくない本だとも思う。売れ線を狙って売れなかったのなら、いくら批評家やファンの評価が高かろうと失敗は失敗だ。と、この本を2冊もバカ高い定価で買った私が言うのもおかしな具合だけども。
 1995年3月10日付の「オブザーバー」紙に掲載されたという、返本にうずもれたアダムスのオフィスの写真を私はまだ見ていない。世界的ベストセラー作家のアダムスのことだから、この程度の失敗は笑って済ませることができる程度のもので、記事や写真も存外明るいトーンなのかもしれない。だが、アダムス本人がどう思っていたとしても、返本の山と直接向き合う羽目になった著者の姿を見るのは愛読者としてはちょっとつらくて、つい先延ばしにしている。「失敗は失敗」と勝手に断言しているくせに、我ながら矛盾しているとは思う。

 そして今週の更新は、「主要登場人物」コーナーではなく「関連人物一覧」コーナーに、アーサー・デントと彼の著作の写真を追加。彼は、印税収入が期待できなかった代わりに、返本の恐怖を味わうこともなかったんだろうな、多分。
 また、残念ながらあまり楽しい内容ではないけれど、久しぶりに「Topics」コーナーにもささやかながら1項目を追加したので、参考までにご覧あれ。

 そしてそして、今年もまた二ヶ月の夏休みを取らせていただきます。という訳で、次回の更新は9月4日(土)の予定。
 それではみなさま、よい夏を。

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2004.9.4.  夏休みに届いた3通のメール

 私の許に届いたアントニオ・ガデス死去の第一報は、スペイン在住の方からのメールだった。
 この方からは、以前にも何度かメールを受け取っていた。そのたびにいつもガデスに関する丁寧なご指摘や情報をいただいていたから、今度は一体どんな最新ニュースだろうとわくわくしながら開いた。そして、我が目を疑った。
 私がそのメールを読んだのは、実は自宅ではなく職場だった。私は出勤するとまず真っ先にパソコンを起動し、仕事時間開始前にメールチェックをする。仕事用のと、それからプライベート用のと。
 2004年7月21日の朝、私は初めてその習慣を呪った。
 瞬間、思わず泣きそうになったけれど、かろうじて踏みとどまって強引に頭を職場モードに切り替えた。幸い、私は職場の人にこういうホームページを作っていることを一切口外していない。さらに、今の職場にはアントニオ・ガデスという名前を知っている人さえいない。だから、その日の昼過ぎに Yahoo! のニュース速報でガデスの訃報が流れた時も、職場でその話題が出ることはなく、おかげで終業時間まで持ちこたえることができた。
 終業時間と同時に一直線に帰宅し、ホームページ更新の準備をしながらぐじぐじ泣いた。アダムスの三周忌が済んだばかりだというのに、どうしてまたこんな哀しいニュースを載せねばならないのか。どうしてまた新聞各紙の訃報集めなんかしなくちゃならないのか。私がこのホームページを始めたほんの3,4年前まではアダムスもガデスもノルシュテインも普通に現役だったのに、今ではもう三人のうちの二人までもが故人になってしまったなんて!

 哀しいお知らせもあれば、勿論、嬉しいお知らせもある。
 『銀河ヒッチハイク・ガイド』のラジオ・ドラマ新シリーズ製作決定のニュースもまた、私のホームページを見た方から送られてきたメールで初めて知った。BBCのサイトもそれなりにチェックしていたつもりだったけれど、完璧に見過ごしていたことは、我ながら実に情けないと思う。が、そのメールをくださった方とはその後も何度かメールのやりとりをし、このホームページの内容と少しばかり関係のある美術展の情報をいただいたり、またホームページの内容とはほとんど何の関係もない『スパイダーマン2』の主演男優の話で盛り上がれたのは思いがけない僥倖だった。重ねて御礼申し上げます。

 さらに8月半ばには、今度はイギリスからメールが届いた。差し出し人は、やはり以前にも私にメールをくださったことのあるダグラス・アダムスの伝記作家、M・J・シンプソン。前にもらったメールのことは、2002年2月16日付の同コーナーに書いた通りだが、此度もらったメールには、ダグラス・アダムスの一ファンとして思わずイスから飛び上がるくらい嬉しい言葉が寄せられていた。
 私は日頃、「英語がよくわからない」という最大級の負い目を感じながらこのホームページを更新している。アダムスの大ファンであることは自認していても、何となく手に取って読んだだけの英語の達者な方々と比べて自分の理解力がその人たちの上だという自信はまったくない、というよりほぼ間違いなく私のほうが下だろう。だったらもっと勉強しろよ、と言われれば一言もないが、とにかく私の中には「英語のわからない私にはこんなホームページを作る資格はないんじゃないか」という不安が常にあって、その不安と「営利目的じゃないんだから、構うもんか」という開き直りとの間を日々行ったり来たりしている。それだけに、シンプソン氏からのメールは本当に嬉しかった。「私なんかが、おこがましくて」と後ろに引っ込んでいるのを止め、恥をかくのを覚悟の上で思い切って前に出て、本当に良かったと思う。
 どうもありがとうございました。

 そんなこんなで二ヶ月が過ぎて、二ヶ月ぶりの更新はというと、ガデスの訃報記事に加えて、アダムス・ガデス関連の Collection コーナーの整理・追加。地味と言えば地味だけど、整理ギライな私にはひたすら面倒な作業であった。

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2004.9.11.  テクノロジーの進歩と共に

 前回の更新ではダグラス・アダムスのコレクション・コーナーを大幅に整理した、と言ってもどこがどう変わったのかは、残念ながら私以外の人には分かりにくいだろうな、とも思う。レイアウトそのものはほとんど変更していないし。
 実際には、これまで自分の気の向くままに適当に追加していたものをジャンル別に作り直したり、デジタルカメラで適当に撮影した写真の大半をスキャナで取り込んだものに差し替えたり、またそれらを今後も更新しやすいようにフォルダごとに仕分けたりしていて、それなりに時間がかかった。こういう頭を使わないダラダラ作業が暑くて思考停止な夏向きだったのは確かだが、ただ何がつまらないって、どんなに時間がかかったとしても、所詮新しいものを追加する訳ではなく、単に前の不備を訂正しているだけだということ。これはかなり気分的に盛り上がらない。
 しかも、思い出してみればこのホームページを立ち上げたばかりの頃は、デジタルカメラも買ったばかりだった。そして撮った写真をそのままホームページに貼り付けられることにとても感動したというのに、たった3年ばかりの月日でそれらの写真を次から次へと削除している自分がいる。ということは、あと3年経ったら、何のことはないこのたび私がアップした写真もまた、自らの手で次から次へと削除される憂き目に遭うのだろうか……などと暗いことをふと考えてしまったのは、先日発表になった新しい iMac G5 のデザインと価格があまりに魅力的だったせい。現在愛用している iBook のことを心から気に入っているはずなのに、思わず目移りしてしまったことでちょっと自己嫌悪に陥ったのだ。愛機を安易に見限るなんて、この私としたことが。
 勿論、テクノロジーとデザインの進歩は喜ばしいことではあるけれど、その一方で取りのこされた過去の遺物の取り扱いに困ることもある。たとえば、カセットテープ。アダムスが自分で朗読しているテープなら後にCDの形でごまんと発売されているから、以前に買ったカセットテープ型のものがダメになってもあまり気にする必要はないが、カセットテープでしか発売されていないし今後もCD化されそうにないもの、たとえば前回の更新でコレクションに新規追加したスティーヴン・「マーヴィン」・ムーアによる朗読テープ『銀河ヒッチハイク・ガイド』みたいなものについては、テープが劣化するのを手をこまねいて見ているのも忍びない。
 ――え、誰もそんなものに興味はないって? でもこの朗読テープでなら、ムーアが機械処理されない普通の声で、マーヴィンの得意文句、'I think you ought to know I'm felling very depressed" を言っているのも聴けるんだけどな。とは言え、そんなものを自分の手元に残すためだけに、カセットテープをデジタルデータに変換する装置の購入を本気で検討している私って、やっぱり単なるバカかしらん。

 そして今週の更新は、こちらは最初からCD発売がお約束済みの『銀河ヒッチハイク・ガイド』ラジオ・ドラマ第3シリーズについて。いよいよ放送開始まで、残すところあと数日だ。

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2004.9.18.  511後の世界

 ここ1、2週間というもの、世はおしなべて「911後の世界」についての論議で喧しいが、私としては「511後の世界」のほうがはるかに気になる――というのはさすがにウソ。さすがの私も、たとえ私一個人の感想に限ったとしても、アメリカ同時多発テロとダグラス・アダムス死去とを「世界を変えた衝撃的な出来事」として比した時に後者に軍配を上げる、とまでは申せません。私とて、そこまで現実世界から乖離して生きている訳ではない。
 ただし、このホームページ上では話はもっぱら「511後の世界」のことに限定しますがね。考えただけで気が滅入る「911後の世界」と違って、少なくともこちらは映画のクランクインだの、ラジオ・ドラマ新シリーズ製作開始だの、25周年記念本発売だの、楽しい話題に事欠かないし。
 が、そういった最新ニュースを嬉々としてアップロードする一方で、私は最近ひどく悲観的な考えから抜け出せないでいる。一ファンとしてそれを言ったらおしまいよ、と思いつつも、どうしても見ないふり、気づかないふりをすることができないでいる。
 次から次へと新しい企画が進行していく楽しい「511後の世界」は、実は考えただけで気が滅入る、ある恐ろしい事実を証明しているのではないか。すなわち、『銀河ヒッチハイク・ガイド』映画化やラジオ・ドラマ新シリーズ製作の最大の妨げとなっていたのは、他ならぬダグラス・アダムスその人だった、という事実を。
 生前のアダムスが映画化やラジオ・ドラマ新シリーズ製作に反対していたから、というのならまだ救われる。だが、知っての通り事実はその逆で、アダムスはそれらの実現を切望していた。にもかかわらず、彼が死んでいなくなってからのほうがすいすいと企画が通ってしまう「511後の世界」が現実として、ある。
 私とてこんなことは考えたくもない。でも、前回の更新で追加した、ラジオ・ドラマ第3シリーズ製作が決定するまでの10年以上に長き亘る過程を見る時、そういう一面も確かにある、と断腸の思いで認めざるを得ない。
 勿論、アダムスが2001年5月11日に死なずに今も元気に生きていたとしても、それでも映画やその他諸々の企画が実現していた、という可能性はある。そのほうがはるかに良いものが出来ていただろう、と言うこともできる。だが、それらはすべて仮定の話だ。それに、仮定の話としても、アダムスが生きていたらガース・ジェニングスやダーク・マッグスらに『銀河ヒッチハイク・ガイド』を委ねる決定をしていたかどうか。私には、彼らに「Yes」の返事をするアダムスをどうしても想像できないし、そしてまた同時に、たとえ時間がかかろうともいつかきっとアダムス自身が本当に自分で納得のいく形で脚本を仕上げたであろう、と考えることもできないでいる。
 アダムスの死後3年、次々と明らかになる事実を前に、いつの間にか作家としてのアダムスに対する信頼をなくしていることが、何にもましてすごく悲しい。

 とは言え、私がくよくよ落ち込んでいても仕方がない。'Always look on the bright side of life'、ということで、気を取り直して今は素直にラジオ・ドラマ新シリーズ放送開始までのカウントダウンを祝おう。
 そして今週の更新は、この新シリーズのキャスト一覧と、それから前回のラジオ・ドラマに出演していた3名、ピーター・ジョーンズリチャード・ヴァーノンスーザン・シェリダンのプロフィールを追加。

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2004.9.25.  第3シリーズ放送開始!

 ついに、ラジオ・ドラマ『銀河ヒッチハイク・ガイド』第3シリーズ放送開始!
 とは言え、最初にこの新シリーズのことを知った時には、イギリスのラジオ放送なんか日本でどうやって聴けばいいのやら、と思った。が、BBC Radio4のホームページを覗いてみれば、インターネット経由でいとも簡単にライブ放送を聴くことができるではないか。おおこれはいける!と色めき立ったのもつかの間、火曜日の午後6時半放送といってもそれはイギリスの現地時間のことで日本時間に直せば午前2時半だと気付いて項垂れた。
 そりゃ、世の中には先日行われたオリンピックの生中継を毎夜の如く観た後に、ほんの3,4時間ばかり睡眠を取ってそのまま翌日の出勤に向かった勤め人がたくさんいたことは知っている。でも、残念ながら私はそれを真似できない。そんなことをした暁には、次の日に職場で眠くなるだけならまだしも気分が悪くなること受け合いだから。たいした持病もない代わり、何につけても「無理をする」ということができない体質で、実際、これまで徹夜らしい徹夜をしたことは、勉学だろうと遊びだろうと仕事だろうと、理由はどうあれ両手で数えるほどしかない。根性なし、と言われれば、全くもってその通り。つまらない人生、と言われても全くもってその通り。今さら否定もいたしません。
 ともあれ、第3シリーズについてはすぐにCDも発売になることだし慌てなくてもまあいいや、と思っていた。が、気を取り直したところで、改めてBBC Radio4のホームページをよくよく眺めてみると、な、なんと、「Listen Again」なるコーナーがあるではないか。再放送が終わってから、次の再放送が始まるまでの7日間に限って、前回放送分を聴けるとな、そりゃ本当か?!
 ――はい、本当でしたね。かくして日本で、自宅で、いともあっさり聴けてしまいましたね。BBC Radio4の『銀河ヒッチハイク・ガイド』コーナーのアドレスはこちら、インターネット常時接続環境の方はどうか一度お試しください。
 かつてはドーナツ盤のレコードやカセットテープを手に入れることさえ限りなく不可能だった。そして、その頃の記憶は私にとってそんなに昔のこととは思えないのに、それでも、これが、この技術の進歩こそが、1978年の第1シリーズ放送開始から既に25年もの歳月が過ぎたことの証なのだろう、きっと。

 歳月が流れたことのもう一つの証としては、『銀河ヒッチハイク・ガイド』ラジオ・ドラマ第1・第2シリーズに出演しているキャストの中で、前回の更新で新たにプロフィールを追加した3名のうち、ピーター・ジョーンズリチャード・ヴァーノンの2人が既に鬼籍に入っているため、新シリーズでは彼らが演じたナレーターとスラーティバートファーストの役は別の人が担当していることが挙げられる。
 という訳で今回の更新は、新シリーズでナレーターとスラーティバートファーストを演じることになったウィリアム・フランクリンリチャード・グリフィスのプロフィールを追加。それから、先日ようやく私の手元にも届けられた待望のCD-BOX、Douglas Adams at the BBC の内容を取り急ぎ簡単に紹介する。

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2004.10.2.  ヒアリング・マラソン、あるいは中距離走者の孤独

 この2週間というもの、空き時間の大半を英語のリスニングに費やした気がする。
 しかし、何だってラジオ・ドラマ新シリーズの放送開始と、Douglas Adams at the BBC 販売開始を重ね合わせたりするのだろう――って、そりゃ話題性を高めるために決まっているか。それに、イギリスでのDouglas Adams at the BBC の発売日は2004年9月6日だから、こんなマニアックな代物を欲しがるファンなら発売日当日に購入して、ラジオ・ドラマ第3シリーズが始まった9月21日までにCD3枚を聴き終えることくらい、たいした手間でもなかったはずだし。
 つまるところ、この2週間ばかりの目がうつろになる程の労苦は、全く私個人の理由によるものなのだ。すなわち 

1・Douglas Adams at the BBC がようよう日本の私の許に配達されたのが、発売日からちょうど10日遅れの9月16日だった(発売から3ヶ月待ちは当たり前だったほんの10年ばかり昔のことを思い出せば文句を言えた義理じゃないけれど、いっそ3ヶ月待ちになってくれたほうがラジオ・ドラマの放送時期とずれて有難かったかも――って、それを言っちゃあおしまいだってことは一応自分でも分かっているつもりなんですけどね、はい)。

2・3時間45分の3枚組CDと、30分のラジオ・ドラマ第1話分、合わせて4時間15分の英語を聴き終えるだけでもかなりの難行苦行だってのに、一度聴いたくらいでは何が何だか分かりゃしないため、その結果、普通に英語の分かる人なら4時間15分で済むところが、私に限ってはそれが8時間30分になり、12時間45分と化していく。

 そしてまた何が悲しいって、12時間45分を費やした今でもやっぱりよく分からないってこと。嗚呼。
 ちなみに、巷で時々目にする「ヒアリングマラソン」というヤツはどのくらいの時間をかけて達成するものなのだろう、と思ってネット検索してみたところ、一般に出回っていると思われる教材例では1年で1000時間、とある。そして、1日約3時間が目安、とも。
 なるほど、こりゃ私のリスニング能力が一向に上がらないのも無理はない。2週間で12時間45分も聴いた私ってエライ!と一人で勝手にうぬぼれた私が悪うございましたとも。ふん。
 とは言え、1日に3時間も聴けと言うこの通信講座、申し込むと毎月テキストと一緒にリスニング用CDが送られてくるそうだが、そのCDの中身たるや全部で約2時間分くらいなんだそうな。目標設定時間に比していくら何でも短すぎるんじゃ、と思いきや、サイトのQ&Aコーナーいわく、そういう時はテレビ・ラジオの英会話や映画等を利用できますよ、とのこと。
 おいおい、そりゃないぜ、と反射的にツッコんでしまったのは私だけ?

 ともあれ、私はいろんな意味で件のヒアリングマラソンには一生縁がなさそうだけれど、気を取り直して今週の更新は、無手勝流の中距離走者として手にした限りの成果を披露――要するに先週に引き続いて Douglas Adams at the BBC の説明の追加。ただし、どこまで正確な記述になっているかは知れたものではない、ということだけはくれぐれもお忘れなく。

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2004.10.9.  文学カルトクイズ

 Douglas Adams at the BBC の「Q」コーナーでは、アダムスが出演したラジオのクイズ番組 Quote, Unquote が収録されている。
 そういう番組にアダムスが出演していたこと自体は私も知っていた。が、実際に聴いてみると、この番組はタイトルから想像された通り文学作品のタイトルが何から引用して付けられたのかを答えるというクイズとゲストのおもしろトーク(?)だけで成り立っているようで、よくクイズのネタが尽きないものだと感心する。
 アダムスが出演している回はアガサ・クリスティー特集で、取り上げられた作品は『NかMか』(N or M)『ねずみとり』(Mousetrap)『春にして君を離れ』(Absent in the Spring)だった。ちなみに、私は『ねずみとり』は日本で上演された舞台を見たことがあり、『春にして君を離れ』は読んだことがある。どちらもそれなりにおもしろかったけれど、でも勿論、引用元など知るよしもなかった。参考までに、『ねずみとり』は、『ハムレット』第3幕第2場からの引用。ハムレットが役者たちに「王妃が王の耳に毒を流し込んで殺害する」という芝居をさせて、王と王妃の様子を伺う場面で、この芝居のタイトルはと王に訊かれたハムレットが「『ねずみとり』」と答えている。また、クリスティーがメアリ・ウィスマコット名義で発表『春にして君を離れ』のほうは、シェイクスピアのソネットからの引用なんだそうだ。
 ふーん、そうですか。
 私にとってクリスティーは、「嫌いじゃないがハマる程でもない」の域に留まっていて、引用元への関心も低いが、未読の作品に対する興味も薄い。『オリエント急行殺人事件』や『そして誰もいなくなった』を読んで、クリスティーが仕掛けたトリックにまんまと引っかかって「やられた!」と驚くのは楽しかったけれど、驚くことそのものに私はすぐ飽きてしまい、続けて何冊も読む気になれないのだ。多分、クリスティーがどうというより、私は本格ミステリーそのものが苦手なのだろう。ついでに言うと、名探偵ポワロも悪くないが、シャーロック・ホームズのほうがずっと好きだし。
 ともあれ、クリスティーならイギリスでも人気・知名度ともに高い上に作品数も多いから、こういう引用クイズも作りやすいだろうと思う。でも、そんな都合のいい作家がそんなに大勢いる訳でなし、かと言っていくら文学性が高くても一般人はほとんど誰も知らない作家を特集しても、引用どころか「本のタイトル自体きいたことがない」で終わってしまいそうなものだ。それとも、日本ではほとんど潰えてしまったこの手の「教養」が、イギリスのような階級社会では、自らの階級をさりげなく示すために常に身に付けておかねばならない身分証明書として今なお機能しているのだろうか。
 ちなみに、Quote, Unquote もまた、ラジオ・ドラマ『銀河ヒッチハイク・ガイド』第3シリーズ同様にBBCのサイトから前回放送分をダウンロードして聴くことができる。で、私もおもしろ半分に試したところ、私がダウンロードした回では文学のタイトルからの引用ではなくて、有名な一文を取り出してその出典を問うクイズになっていた。そりゃそうだ、タイトル当て限定じゃいくら何でも20年もネタは続くまい。また、この回のゲスト解答者の一人はミネット・ウォルターズで、彼女の生の声を聴けたのはちょっと嬉しかった。案の定、私には何を言っているのかはよく分からないものの、そんなにクセのない、聴きやすい英語を話していると思う――って、我ながら何の説得力もないコメントだ、すみません。

 そして今週の更新は、久しぶりにアダムスを離れて、アントニオ・ガデスの関連人物コーナーに、キューバの有名人3人(アリシア・アロンソチェ・ゲバラフィデル・カストロ)を追加。さて、これで予習もできたことだし、今日から上映が始まった映画、『モーターサイクル・ダイアリーズ』を早いところ観に行こうっと。

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2004.10.16.  グランマ?

 以前から、インターネットで検索しても英語で書かれたアントニオ・ガデスに関する記事はあまり見つからなかった。アメリカ嫌いなガデスのことだから、それも当然だろうと私も思い、これまで特に「antonio gades」でネット検索する習慣もなかったが、さすがにガデスの訃報が飛び込んで来た時だけは、海外のメディアでの取り扱いを知りたくて「ググって」みた。
 イギリスのメディアでは、それなりに取り上げられていた。中でも、「ガーディアン」や「テレグラフ」の訃報記事は、質・量ともになかなかのもの。取材情報の多さに至っては、情感過多な日本の新聞記事の比ではない。もっとも、この時の検索で同時に見つけた、2003年のスペイン国立バレエ団「アンダルシアの嵐」ロンドン公演の批評は、かなり手厳しかったけれど。
 それに対して、アメリカのメディアではガデスに関するニュースはものの見事に見つからなかった。勿論、あくまでネット上のことだし、それにたとえネット上に限ったとしても単に私の探し方が悪かっただけという可能性も否定し切れないが、それでもやはりアメリカではガデス死去のニュースはほとんど無視されたと考えるほうが自然だろう。
 その一方で、イギリスでもアメリカでもないところから発信されている、英語で書かれた訃報記事も見つかった。そのサイトのアドレスが 'cu' で終わっていることから考えて、どうやらキューバから発信されているらしい。しかも、実際の記事を読んでみるともものすごく「政府官報」っぽくて、キューバの一介の民間人が勝手にネットで情報を流しているサイトとは思えない、ということはこの「グランマ・インターナショナル」という名前のサイトは、かつての旧ソビエト政権下における「プラウダ」のような、キューバの共産党機関紙のインターネット版なのだろうか。しかし、だとしたら、何故に「グランマ(おばあちゃん)」?
 ――勿論、ほんの少しでもキューバ革命について知識のある方なら、その理由は明々白々ですね。実際、前回の更新でフィドル・カストロチェ・ゲバラを追加するために生まれて初めてキューバ革命に関する本を読んでその記述に出くわした時は、思わず一人で赤面してしまった。
 「グランマ」とは、1956年11月25日未明、革命を志したカストロやゲバラが、メキシコからキューバに向けて出航したヨットの名前である。そして、この出航こそがキューバ革命の始まりなのだ。そりゃ、党機関紙の名前として採用されて当然、というより、「グランマ」という名前を見た瞬間にキューバの党機関紙じゃないかと勘付かないほうが悪い。さらに恥を上塗りするなら、さっきからずっとカタカナ書きしている党機関紙名にして名誉あるヨットの名前「グランマ」のスペルは 'Granma'、そして「おばあちゃん」を意味する「グランマ」のスペルは 'Grandma'。
 重ね重ね失礼いたしました。

 余談ながら、ヨット「グランマ」は現在もハバナの革命記念博物館に展示されているらしい。大海の荒波を越えてゲリラ82名と武器弾薬を運んだとは思えないほど小さなヨットのようで、三好徹著『チェ・ゲバラ伝』まで読んだ今の私としては、実物を拝めるものなら拝んでみたい気もする。もし、万が一にもキューバにあるガデスの墓参りが叶う日が来たら、忘れずその博物館にも立ち寄ろうか――って、真面目な共産主義者だったガデスが知ったら、あまりのミーハー根性ぶりに憤然とするかな、やっぱり?

 そして今週の更新は、いよいよアグラジャグ登場で佳境に入ってきたラジオ・ドラマ『銀河ヒッチハイク・ガイド』第3シリーズの、キャスト3名(クリス・ランガムジョアンナ・ラムレイフレッド・トルーマン)のプロフィールを追加。さらに、映画版の音楽を担当をした作曲家、ジョビー・タルボットも新たにご紹介する。

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2004.10.23.  第3シリーズ、いよいよ佳境へ

 ラジオ・ドラマ『銀河ヒッチハイク・ガイド』第3シリーズも、現在既に第5話目が放送済みで、あとは最終話を残すのみ。始まってしまえば、あっという間だ。
 内容は基本的に小説『宇宙クリケット大戦争』と同じなので、英語のリスニング能力に問題ありな私でも翻訳本片手に聴いていれば何とかなる。ラジオ・ドラマを聴きながら、'The Campaign for Real Time' ときたら、ああ「真時間キャンペーン」のことね、はいはい……と翻訳本の該当ページをすばやく繰って探せばよい。我ながらなかなか器用なことをやっている、とも言えるし、最初から英語で聴き取る努力を放棄している、とも言えるが、ともあれかくも邪道な一リスナーの現時点での感想を述べると、

1・アーサー役のサイモン・ジョーンズの声は、昔とほとんど変わっていない。
2・アグラジャグ役のアダムスの声は、いつもとかなり違う気がする。
3・何はともあれマットレスはかわいい。

 マットレスほどじゃないけれど、前回の更新で追加した第3シリーズのキャスト3人のうち、ジョアンナ・ラムレイが演じた「゛シドニィ・オペラ・ハウス″をのせているみたいな生き物」も、ちょい役ながらかわいらしくておもしろかった。マットレスにしても、゛シドニィ・オペラ・ハウス″にしても、活字や音声だからこそ楽しい、小説やラジオ・ドラマならではのキャラクターである。フロロップするマットレスなど、CGで映像化されたら興ざめもいいところだ。
 それから、ある意味で第3シリーズ最大の聴きどころであった、惑星クリキットでクリキット星人が歌う「甘くてロマンチティックなバラードで、マッカートニィが歌ったら、ケント州やサセックス州をすべて買い占めることができ、ハンプシャー州についても買い取りの申し出ができるほどの歌」については、私にはほどほどに「それっぽい」仕上がりに聴こえた。とは言え、所詮ポール・マッカートニィとジョン・レノンの声の区別もつかない私の意見である。さて世間の評価や如何に?

 音楽と言えば、前回の更新で追加した、映画版『銀河ヒッチハイク・ガイド』の音楽担当、ジョビー・タルボット。彼の経歴に出てくる「ディヴァイン・コメディ」という名前のバンドのCDも、モノは試しでレンタルCD屋で探してみた。
 本当は、タルボットが共同作曲に名を連ねた『ファン・ドゥ・シクエル』がベストなのだろうが、見つかったのは『リジェネレーション―新生―』のみ。でも一応このアルバムでもタルボットもピアノとか指揮を担当しているからいいや、と思って借りて聴いたのだが、わざわざクラシックの作曲家が参加しているにしては「すごく普通のギター・ポップ」。ううむ、やっぱり私には音楽を聴く耳がないんだと思いつつ、ネットでもう一度調べてみたら、よりにもよって『リジェネレーション―新生―』はディヴァイン・コメディの作品の中でも例外的にオーケストレーションを控えてギターのバンド・アレンジをメインに据えた作品だったらしい。何だ、そういうことか。
 と、納得したので、多分『ファン・ドゥ・シクエル』は購入してまでは聴かない。本当は、彼と同じストーカーすれすれの『銀河ヒッチハイク・ガイド』マニアの一人として大いに肩入れしてあげたいところなのだけれども、でも映画版『銀河ヒッチハイク・ガイド』のサウンドトラックが発売された日には、そっちはたとえどんなに理解不能な仕上がりだったとしても絶対購入するので、どうか勘弁してくださいね。

 そして今週の更新は、こちらもまたタルボットと同様に『銀河ヒッチハイク・ガイド』マニアと判明した二人の作家、クリストファー・ブルックマイアE・アニー・プルーについて。海の向こうには、まだまだこういう人がいらっしゃるんだな。

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2004.10.30.  アダムス好きの二人の作家

 E・アニー・プルーという作家のことは、前から知っていた。2001年に映画化されたのを機に、『港湾ニュース』を読んでいたから。
 『港湾ニュース』という小説は全米図書賞、ピュリッツァー賞をダブル受賞しており、またラッセ・ハルストレム監督による映画化作品(こちらの邦題は『シッピング・ニュース』)にはハリウッドの有名俳優が群をなして出演している。が、そういう事前の情報を仕入れてから読んだせいだろうか、私の率直な感想は「どこがそんなに良いのかよくわからん」。
 加えて、私があまり作品に好印象を抱けなかったのは、主人公クオイルの外見のせいもある。原作のクオイルは大食らいの百貫デブという設定で、彼の顔の皮膚の状態についての描写を読んでいるだけで、私はいささか気分が悪くなってしまった。いや別に、健康な食べ過ぎ・太り過ぎなら構わない。だが、クオイルは明らかにストレスからくる過食症であり、精神的にも肉体的にもあまりに不健康そうなのだ。そのため、彼の苦しみに感情移入して胸を痛めるより先に「誰か彼に的確な栄養指導をしてやれ」と叫びたくなった。
 そういう意味で、原作小説と比べて巷の決して評判の良いとは思えない映画『シッピング・ニュース』のほうが、私は素直に楽しむことができた。原作の設定に忠実なキャスティングをしなかったハルストレム監督と、クオイルの外見まで再現しようとしなかったケヴィン・スペイシーのおかげである。全然太っていないケヴィン・スペイシーのクオイルを観たアニー・プルーの感想は知らないけれど、私としては大満足だ。
 だから、ハルストレム監督の新作映画は観るとしても、アニー・プルーの新作小説を手に取ることはもうないだろうと思っていた。それがまさか、『銀河ヒッチハイク・ガイド』関連で彼女の名前を自分のホームページに載せる日が来ようとは。どこでどんな縁があるか分からないものだなあ、と勝手な感慨に耽りながら、一応のお付き合いで最近出たばかりの新作『オールド・エース』も読んでみたのだけれど、やっぱりあんまりおもしろく思えなかった上、今度は養豚場の描写で気分が悪くなってしまった。我ながら、ちょっと空しい。

 一方、クリストファー・ブルックマイアという作家のことは、全然知らなかった。BBCラジオ4のホームページで彼の名前を見つけた時も、この作家の本はどうせ日本語に翻訳されてないだろうと勝手に決めつけた。
 が、念のため調べてみたら昨年1冊出版されているではないか。『楽園占拠』とかいうタイトルの本、残念ながらフォードをモデルに作ったというキャラクターは登場していないようだが、こちらも一応のお付き合いで読んでみるか、と思ってとりあえず第一章を読んだところ、あまりにグロテスクで暴力的な展開にすっかり気分が悪くなってしまい、この先どうなることかと思ったけれど、意外や意外、先に進めば進む程おもしろかった。おまけに、『銀河ヒッチハイク・ガイド』に直接言及する箇所が二カ所もある。第一章で放り出さなくて、良かった。
 確かに、笑うより先に気分が悪くなるシモネタ系ドタバタシーンは多い。万が一この小説が映画化されても、私は絶対観ないだろう。が、それでも小説として、ストーリーもキャラクターも良く出来ていると思う。イギリス人によるイギリス人のための理想の「楽園」として建設されたリゾート施設の設定も、実に皮肉が利いていて秀逸なのだが、この辺りは作者がスコットランド人であるが故か。
 また、文章そのものもおもしろくて笑えるものの、箇所によってはアダムスにかぶれ過ぎてその影響が露骨に出ているような気もした。が、ひょっとするとこれはむしろ、アダムスのファンを標榜する作家として確信犯的にやっていると考えたほうがいいのかもしれない。たとえば、こんな文章。

 マットは一瞬、ギャビンに感心した。妻が手にしているショットガンを無視するだけでなく、いまやデイヴィ・マードックに食ってかかっているのだから。これはヴィクトリア十字勲章に価する勇気のあらわれか、フォード・プリーフェクト(『銀河ヒッチハイク・ガイド』に登場する記者)に匹敵する無謀さなのか、どちらかだった。マットは?ミスタ・コメディアン″で、デイヴィは?ミスタ・異常者″だった。あと三十秒もこれがつづけば、ギャビンが?ミスタ・血を流してゆっくりと死んでいく″になっている可能性はかなり高かった。
 したがって、このとき、あとからきたヴェールとマグレガーが姿をあらわしたのは、じつにいいタイミングといえた。(『楽園占拠』、p. 467)

 かくて――アーサーは頭を切り開かれようとしている。トリリアンになすすべはなく、フォードとザフォドは徒手空拳で鋭い兇器をもった暴徒に叩きのめされそうになっている。
 全体として見た場合、そのとき突然、惑星中をゆるがす警報が鳴り渡ったのは、まことに幸運であった。(『銀河ヒッチハイク・ガイド』、pp. 261-262)。

 というか翻訳された文章だけで比較するのは無意味だろう、という(至極もっともな)ツッコミには、この際聴く耳を持ちませんのであしからず。

 そして今週の更新は、イギリス・BBCに続き、ドイツのテレビ局ZDFが行った愛読書アンケートについて。さらに、ノルシュテインガデスに関する新刊情報も追加した。

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2004.11.6.  神の所業と悪魔の貢献

 このホームページでは、SFベスト25だの、ラドクリフ大学のベスト100だの、BBCベスト21だの、いろいろなリストをアップロードしてきたが、前回のZDFベスト50の作成はかつてない難物だった。何たって、ドイツ語だもの。
 私はこれまでドイツ語のドの字も学んだことがない。ドイツ語文法の基礎の基礎も、まるで分かっちゃいない。ドイツ語辞書だって持ってはいないが、幸いウェブ検索できるドイツ語辞書が見つかったので、無理矢理の力づくで使ってみることにした。別にドイツ語の文章を理解したいのではない、要はドイツ語で列挙された本のタイトルの、その日本語タイトルさえ分かればそれでいいのだからと開き直って。
 もっとも、作品によっては作家の名前で推理できるものもある。たとえば第6位、作者がトーマス・マンでドイツ語タイトルが Buddenbrooks とくれば、これはもう調べるまでもなく『ブッデンブローク家の人びと』に決まっている。同じくトーマス・マンが書いたという22位の Der Zauberberg は、きっと『魔の山』にちがいないと当て推量して(私が知っているトーマス・マン作品は『ブッデンブローク家の人びと』と『魔の山』と『トニオ・クレーゲル』と『ベニスに死す』しかない。そして、Der Zauberberg は絶対『トニオ・クレーゲル』でも『ベニスに死す』でもない)、上巻で挫折したまま本棚に並んでいる岩波文庫を数年ぶりに取り出して確認したところ、私の予想通りだった。
 このようないい加減な勘に頼らなくても、トーマス・マンやヘルマン・ヘッセのようなコテコテのドイツ文学なら、オリジナルのドイツ語タイトルと日本語タイトルを併記したサイトは簡単に見つかる。だから、たとえ私が知らなかった作品、へええそんな小説もあったんだ、くらいに全く知らなかった第46位の『ヨセフとその兄弟』のような作品であっても調べるのはそう難しくない。それよりもっと厄介なのは、もともとドイツ語で書かれていない作品のほう。
 それでも、たとえばジェーン・オースティンが書いたという第17位、Stolz und Vorurteil の、「Stolz」をドイツ語ウェブ辞書で調べてそれが「高慢」という意味だと分かれば、残りの単語を調べるまでもなくこの本の邦題は『高慢と偏見』だと分かる。第18位、著者がウンベルト・エーコでドイツ語タイトルが Der Name der Rose ときた日には、もうドイツ語辞書なぞ繙く必要すらない。が、原題からいささか離れたドイツ語タイトルを付けられた日には……。
 中でも意外に手こずったのが、第19位の Illuminati。ダン・ブラウンの著作は2冊しかなくて、『ダ・ヴィンチ・コード』か『天使と悪魔』かのどちらかで間違いないというのに、そのどちらなのかが分からない。Illuminati をドイツ語辞書で引いても「当てはまる単語はありません」と返答されるし、ドイツ語版アマゾン・コムのサイトにドイツ語で書かれた Illuminatiのストーリー解説らしきコーナーはあれど、そもそも私は『ダ・ヴィンチ・コード』も『天使と悪魔』も読んでいないので登場人物の固有名詞等から類推することも不可能だ。結局、あちらこちらのサイトをさまよって、『天使と悪魔』の英語のあらすじ紹介のところにIlluminati という単語を発見し、ようやく肩の荷を下ろしたのだが、でも正直なところ今も少し不安が残る。本当は『ダ・ヴィンチ・コード』が正解なのかも、もしご存じの方がいらっしゃいましたらどうかお知らせくださいませ。
 ダン・ブラウンの場合と逆の形で頭を抱えたのが、ジョン・アーヴィングが書いた第42位のGottes Werk und Teufels Beitrag。私は彼の小説はほとんど全部読んでいる程のファンなので、同じくアーヴィング作の第37位、Owen Meany は迷うまでもなく『オウエンのために祈りを』だと分かった。ではこの Gottes Werk und Teufels Beitrag とは何だ、見たこともない単語の羅列だからタイトルに固有名詞を含む『ガープの世界』や『ホテル・ニューハンプシャー』ということはありえない、とすると『熊を放つ』か『未亡人の一年』、はたまた『サーカスの息子』か、と勘ぐりつつ一語一語をドイツ語ウェブ辞書で調べてみたところ――「神の所業と悪魔の貢献」?
 何だそりゃ。
 はて、神だ悪魔だなんて小説、アーヴィングにあったっけ? 内容的に神の御業云々に一番近そうなのは『オウエンのために祈りを』だけど、この作品は既に37位に入っているし、ひょっとして私が適当にドイツ語辞書を使ったせいで、よく似た全く別の単語と意味を取り違えたんだろうか。ドイツ語の活用なんて全然知らないから、そういうことは大いにありうる。首をかしげつつ、とりあえず Gottes Werk und Teufels Beitrag をドイツ語版アマゾン・コムで検索してみたところ、ペーパーバック版の表紙に大きな赤いリンゴのイラストが描かれている、ということはつまり、この本の正体は『サイダーハウス・ルール』か!
 なるほど、「神の所業と悪魔の貢献」とはそういう意味だったか。言われてみれば確かに納得、ではある。「そういう意味」ってどういう意味よとおっしゃる方はこれを機に是非小説『サイダーハウス・ルール』をお読みください。そんなヒマはないがとりあえず答えだけ知りたいという方は、こちらへどうぞ
 しかし、読者としてはたとえ本文は同じだとしても、『サイダーハウス・ルール』というタイトルで読むのと『神の所業と悪魔の貢献』というタイトルで読むのとでは、読後の感想が少々変わってしまいそうな気がする。それでも、小説はまだいい。小説では、「神の所業と悪魔の貢献」がアーヴィング流にこってりと描写されているから。が、ラッセ・ハルストレム監督が爽やかに仕上げた映画『サイダーハウス・ルール』のドイツでの公開タイトルが『神の所業と悪魔の貢献』になってしまったのは、関係者一同にとってちょっと計算外だったのでは、とか何とか思いつつ久しぶりにアーヴィングのエッセイ『マイ・ムービー・ビジネス』を本棚から取り出してみたら、冒頭の23ページに、それはいきなり出てきた。

 ドイツ語のタイトル、『神の業と悪魔の痛悔』(Gottes Werk und Teufels Beitrag)は、看護婦たちに向かっていつもドクター・ラーチが口にする台詞をまねたもので、フランスでも同じようなタイトルが付けられている(L'Oeuvre de Dieu, la Part du Diable)。

 ネット世界の三千里を駆けずり回るまでもなく、答えは自室にあったんだ。
 何てこったい。

 ……気を取り直して、今週の更新もまた性懲りもなく新しいベスト100の追加。もう10年以上も前に選出されたものだけれど、私は最近ようやく発見した。

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2004.11.13.  愛読者のゲーム

 まずは先週、同コーナーで書いたダン・ブラウンの著作について、ドイツ語訳 Illuminati の日本語タイトルは『天使と悪魔』で間違いないとのメールをいただく。ご指摘、有難うございました。

 前回の更新で追加した、1999年にモダン・ライブラリーが募った「20世紀の英語で書かれた小説ベスト100」は、一般投票は一般投票でもイギリスの「The Big Read」やドイツの「ZDF」と比べて、いささか組織票の匂いがする。そりゃアメリカではアイン・ランドやロン・ハバードは大人気なのかもしれないけれど、ここまで票が集中すると却って胡散臭いでしょ。
 しかし、サイエントロジーなロン・ハバードは分かるとしても、アイン・ランドという作家に何故かくも票が集まるのか。また、こんなに人気のある作家なのに、どうしてつい最近までその著作が未訳のままだったのか。最近になってようやく翻訳が出た彼女の『水源』か『肩をすくめたアトラス』を読めば、その答えの一端は分かるだろう。そう思って、書店で『水源』を手に取ってはみたものの、どうにも気が進まない。基本的に長い小説は好きなので、本の分厚さに怯むことはないのだが、本につけられた帯の宣伝文句に、あとがきの文章のトーンに、微妙な抵抗を感じる。そこで、まずはとりあえずネット検索して、彼女について書かれた説明文の数々を読んでみたが、抵抗感はいや増すばかり。
 何故って――アイン・ランドの作品は、単なる小説というより政治思想の啓蒙書みたいじゃないか。そんなことはない、『水源』も『肩をすくめたアトラス』も立派な小説作品であり、また彼女の提唱する「リバタリアニズム」とかいう政治思想は真のアメリカ保守思想であって、昨今の安易なネオコンとは一線を画すものである、読まずに勝手に決めつけるのはよろしくない、という建前は建前として、分かる。でも、どう考えてもブッシュ落選を祈っていた私好みの政治思想ではなさそうだし、またそんな彼女の思想に同調する人々が取った行動、すなわち今回の組織的投票に至っては論外だ。組織票とて善意のファンの努力の賜、と言えなくもないが、あくまで一種の遊びなんだから勝ち負けに拘泥せずゲームとして興じてもらいたい。
 愛読者の行動から本そのものを類推することの無茶苦茶さは承知の上で、敢えて言う。ゲームを楽しむ心の余裕もなく、あくまで数字上の勝ち負けを優先して憚らない人の愛読書なんて、絶対私の趣味じゃないね。いや、自分の趣味じゃなくても、「こういう考え方の人が、アメリカにはたくさんいる」ということを知っておくために一読するのは悪いことではないが、今イラクで起こっていることとブッシュの再選とを考えると、私は私であまり心に余裕がないので、やはり少なくとも当分の間はご遠慮させていただくことにする。
 そういう意味では、この投票で『銀河ヒッチハイク・ガイド』が51位なのはとてももっともらしくて、私としては気分がいいぞ。

 そして今週の更新もまた、新たな愛読書投票ゲームの話。こういう「バトル」なら、私も諸手を上げて大歓迎だ。

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2004.11.20.  バトル・オブ・ブックス

 「The BBC Big Read Battle of Books」は、私にはとてもおもしろかった。その得票結果については、「私も納得」なものもあれば「納得できん」なものもある。でも、贔屓作が勝とうと負けようと、どちらにしてもものすごく興味深いことに変わりはない。
 という訳で、全20対決について私の率直な感想は以下の通り。

『ブリジット・ジョーンズの日記』対『高慢と偏見』
 『ブリジット・ジョーンズの日記』の作品構成がもともと『高慢と偏見』をベースになっている以上、『ブリジット』に勝ち目はない。これはちょっと気の毒な対決だと思う。

『ブライヅヘッドふたたび』対『華麗なるギャツビー』
 イギリス人のプライドで、『ブライヅヘッド』を勝たせるかと思ったらそうでもなかった。最良の意味で「意外な結果」。

『不思議の国のアリス』対『ハリー・ポッターと賢者の石』
 ……え、『ハリー・ポッター』が勝ったの?

『ユリシーズ』対『アルケミスト』
 『アルケミスト』、読んでいないから何も言えない。でも、かの『ユリシーズ』と引き分けるとは凄い。あ、でも『ユリシーズ』も読んでないんだった、私。

『蝿の王』対『動物農場』
 どうして『蝿の王』が負けるんだ、納得できん。

『ライ麦畑でつかまえて』対『路上』
 この結果には納得、大いに納得。なお、私は『ライ麦畑でつかまえて』は読んだけれど村上春樹訳は読んでいないので、日本語タイトルは『キャッチャー・イン・ザ・ライ』にはしません。

『レベッカ』対『ジェーン・エア』
 いい勝負だ。私も僅差で『ジェーン・エア』に軍配を挙げる。

『真夜中の子供たち』対『百年の孤独』
 『百年の孤独』は、タイトルだけでもかっこいい。絶対タイトルで得をしていると思う。

『銀河ヒッチハイク・ガイド』対『ディスクワールド騒動記』
 勝ち負けの問題ではないと言いつつも、やっぱり『銀河ヒッチハイク・ガイド』が勝つと嬉しい。

『よみがえる鳥の歌』対『コレリ大尉のマンドリン』
 一応両方とも読んだことはあるが、どっちが勝とうとあまり興味なし。

『宝島』対『指輪物語』
 『宝島』、対戦相手が悪すぎた。

『ゴッドファーザー』対『罪と罰』
 この組み合わせ、少々強引すぎやしないか?

『怒りの葡萄』対『アラバマ物語』
 個人的には『怒りの葡萄』のほうが好きなんだけどな、と言っても『アラバマ物語』は映画で観ただけなんだけどな。

『風と共に去りぬ』対『嵐が丘』
 私なら、『風と共に去りぬ』は長編歴史小説という括りで『戦争と平和』と対戦させる。

『スータブル・ボーイ』対『ミドルマーチ』
 新旧の、ものすごく長い小説対決、ということらしい。ふうん。

「ライラの冒険シリーズ」対『ゴーメンガースト』
 「ライラ」62%対『ゴーメンガースト』58%って、数字が間違っているのでは……?

『白衣の女』対『荒涼館』
 ウィルキー・コリンズ好きの私としては、この結果には胸が空く。

『シークレット・ヒストリー』対『香水―ある人殺しの物語』
 『シークレット・ヒストリー』は読んだことないけど、本当にかの『香水』を凌ぐほどおもしろいのかしらん。

『キャッチ22』対『戦争と平和』
 私なら、『戦争と平和』は長編歴史小説という括りで『風と共に去りぬ』と対戦させる。

『たのしい川べ』対『ツバメ号とアマゾン号』
 「大人の楽園」対「子供の楽園」ってところか。ちなみに私は前者のほうが断然好き。

 そして今週の更新は、そもそもこれらの対戦が組まれることになった、元のベスト100リストを追加。さて、この中から勝手に『嵐が丘』と『キャッチ22』にふさわしい対戦相手を探そうっと。

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2004.11.27.  図書館行政に物申す

 前回の更新追加した「ベスト100」の中で私が未訳扱いしていた何冊かの本のうち、本当はとっくに翻訳され出版されているとのお知らせメールが届いたので、急ぎ訂正した。丁寧なご指摘、どうもありがとう。毎度のことながら、いたみいります。

 話は変わって、私が現在暮らしている神奈川県川崎市では、ほんの1、2年前から市立図書館の蔵書をネット検索・予約することができるようになった。
 実を言うと、私が育った地方都市は図書館運営にとても力が入れられていて、今から15年くらい前でも図書館内に置かれた端末を使えば県内の公立図書館の蔵書を検索することができた。さすがに端末で予約まではできなかったが、本の貸し出し番号を控えてカウンターで予約手続きをすれば、自分にとって都合の良い最寄りの図書館まで取り寄せることも可能。そのため、「県内の図書館すべてが私の本棚」という感覚の高校生活を過ごした(というとまるで私がものすごい読書家のようだが、実際にそのシステムを利用して他の図書館の書庫から取り寄せたのは後にも先にも1回だけ。つまりは単なる気分の問題)後に上京し、東京の区立図書館でさえ紙の図書カードで本の貸し出しをしていたことにえらくびっくりした記憶がある。
 ともあれ、21世紀になってようやく川崎にも導入された新システムのおかげで、絶版になって久しいテリー・プラチェットの『ディスクワールド騒動記1』を読むことができた。
 有難いことである。大量の新刊本が出版される昨今、1冊の本が絶版になって一般書店から姿を消すまでの期間がどんどん短くなり、うかうかしているとすぐ入手困難になってしまうだけに、図書館同士がネットワークで繋がって本の在庫管理してくれるのは本当に有難い。願わくばこのネットワークが、川崎市内と言わず神奈川県内にまで広がってくれんことを。一つの図書館で本を購入し独占するよりも、複数の図書館で本を共有するほうが一図書館あたりのコストは下がり利用者の利便性は上がり、いいことづくめだと思うんだけど、また、県内全域となると話が大ごとすぎるようならとりあえずお隣の横浜市と連携してみるというのも一つの手だと思うんだけど、それもこれも所詮素人の寝言だったらすみません。
 川崎市の図書館行政問題はさておき、『ディスクワールド騒動記1』に続いて、テリー・プラチェットの他のディスクワールド・シリーズも近いうちに借り出すつもりでいる。正直なところ、『ディスクワールド騒動記1』は読んでみてあまりおもしろくなかったのだけれど、プラチェットはイギリスでは本当にとても人気のある作家のようで、前回追加した「The BBC Big Read」ベスト100にはニール・ゲイマンとの共著も含めプラチェット作品は何と5作も入っていることだし、せめて翻訳の出ている『死神の館』だけでも読んでから最終的に「好きか嫌いか」の判断を下そうと思う。何たって『死神の館』には、『ディスクワールド騒動記1』で私をもっとも興ざめさせたマンガタッチのイラストはついていないようだから(『ディスクワールド騒動記2』がとうとう発売されることなく終わったのは、あの表紙イラストにも一因があると思うのは私だけか?)、この一事だけでも楽しく読める可能性はいくばくか高くなるというものだ。

 そして今週は、いよいよ全米の映画館で予告編公開の始まった映画『銀河ヒッチハイク・ガイド』に関する最新ニュースと、テリー・プラチェットのプロフィールの更新、それからラジオ・ドラマ『銀河ヒッチハイク・ガイド』第3シリーズのCD発売を記念して、第1から第3シリーズまでのCD目次を追加。
 事前に予約しておいたものの、私の手元に第3シリーズのCDが届いたのは発売から数週間経った後のことだった。やっぱり、日本でこんなCDを買いたいと思う人はまだまだ少ないのだろうか。日本での映画公開実現に向けて、少しでも盛り上がって欲しいところなんだが。

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2004.12.4.  映画『銀河ヒッチハイク・ガイド』の予告編

 ラジオ・ドラマ第3シリーズのCDがようやく手元に届いたと思ったら、既に第4・5シリーズの放送日まで決定したという。脚本も完成して読み合わせも始まったというし、実際2005年3月なんて、もうほんの目と鼻の先じゃないか。
 しかもこの番組が8週間放送された3日後の2005年5月6日には、ついに映画『銀河ヒッチハイク・ガイド』が公開される!
 今はとりあえず「きゃーーーーーーー」とでも叫んで走り回りたい気分。願わくばこの喜びを、日本国内のどなたかと共有できますことを。

 先日、映画館に『ハウルの動く城』を観に行ったら、『スター・ウォーズ エピソード3』の予告編が流れていて、ちょっとドキリとした。日本での『エピソード3』の公開は2005年7月の予定らしいが、全米での公開は5月19日、つまり映画『銀河ヒッチハイク・ガイド』が公開される2週間後なのだ。当然、全米の映画館では既に『銀河ヒッチハイク・ガイド』の予告編も上映されている。なのに、日本では映画『銀河ヒッチハイク・ガイド』はまだ影も形もないってのはどういうこと――というか、単に『銀河ヒッチハイク・ガイド』の日本公開はまだ未定ってことなんだろうな、どうせ。
 ファンの僻みはさておき、『銀河ヒッチハイク・ガイド』と『スター・ウォーズ エピソード3』の全米公開開始の2週間のズレって、とても微妙な感じがする。
 『銀河ヒッチハイク・ガイド』の製作規模がどの程度のものなのか、どの程度の興行収入を見込んだ映画なのか、私は知らない。でも、天下の『スター・ウォーズ』と真っ向勝負できる規模でないことだけは、疑問の余地なくはっきりしている。だから、2005年夏に公開するなら『スター・ウォーズ エピソード3』と同じタイミング、あるいは少し遅れたタイミングで公開して、SF映画として露骨に比較されて見劣りすると思われるのは絶対避けたいところだろう。そのためにも『スター・ウォーズ』に先駆けて公開するほうがいい、でもあまり『スター・ウォーズ』の公開直前だと、そっちの盛り上がりに吸収されてしまいかねないから、そのために2週間の時間差を置いたのだと私は踏んだが、はて真相は如何に。
 素人の邪推はさておき、さすがの私も『銀河ヒッチハイク・ガイド』の予告編見たさでアメリカに行くということはないけれど、もしたまたま今の時期に私がアメリカを旅行していたとしたら、観光そっちのけで映画館に駆け込んでいるだろうか、駆け込んでいるだろうな、やっぱり。『銀河ヒッチハイク・ガイド』の予告が観られるのは映画『ナショナル・トレジャー』を上映している映画館だそうで、本編の映画そのものにはまったく興味がないんだけど、でも私なら「これも何かの縁だ」とか何とか訳の分からんことを叫んで行くに違いない。
 え、予告映像なら公式サイトからダウンロードして観られるじゃないか、って? そりゃ確かに観るだけなら観られるし、実際とっくに観ているけれど、でも私は映画館でこの予告編が流れて、The Hitchhiker's Guide to the Galaxy のタイトルが大きくスクリーンに現れた時に、アメリカやイギリスの観客がどんな反応を示すのか、そこのところにも興味があるのだ。そして願わくば、「ついに来た!」という喜びを他の観客たちと分かち合いたい。
 こればっかりは、日本国内の映画館では決して叶わぬ夢だから。

 そして今週の更新は、新たに発表された映画キャストの面々と、ラジオ・ドラマ第3シリーズのスタッフの方々のご紹介。それから、「Topics」コーナーにも久しぶりに3項目(第1話レチナ・ワイントール)を追加した。
 さらに、ノルシュテイン来日情報についても大急ぎでお知らせ。もうちょっと早く気づけば良かったんだが、ギリギリのタイミングになってしまった。

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2004.12.11.  ギリシャ土産と言えば

 今を遡ること約15年前、トルコからイタリアへと抜ける旅の途中で、3日間だけギリシャ・アテネに滞在したことがある。
 もし今の私がギリシャに行くとしたらお土産に買うのは絶対レチナ・ワインだが、当時の私がアテネのスーパーで探し求めたのはオリーブ・オイルの缶詰だった。オリーブ・オイルと言えば、今でこそ我が家の台所にもサラダ油やゴマ油と一緒に普通に常備されているけれど、当時はまだまだとても「ハイカラ」な食材というイメージがあって、それ故『宇宙クリケット大戦争』にオリーブ・オイルの缶が出てきた時に私が受けた印象も強かった。だから、ギリシャ土産と言えば絶対オリーブ・オイルの缶、と妙に凝り固まっていたのだが、瓶ならともかく缶のオイルは土産用ではなく家庭で使うような大型サイズしかなくて、小さく、かつオリーブの絵のついたデザイン的にもかわいらしい缶を見つけるのに意外に手こずった記憶がある。
 手こずった分だけ愛着も出て、この時買ったオリーブ・オイルの缶は「観賞用」の名の下に長い年月に亘って台所の流しの下で大切に保存されていた。が、ふと気づくと缶が錆びて油が染み出て目もあてられない姿と化しており、「だからとっとと開けて使ってしまえば良かったのに」という家族の冷たい視線を背中に感じつつ泣く泣く缶ごと捨ててしまった。これもまた、切ない旅の後日談である。
 アーサーが買ったオリーブ・オイルの缶は、彼の旅行鞄の中で無事だったのだろうか。油の缶詰を何年も後生大事にとっておく人はあまりいないだろうから(賞味期限だってあるだろうし)アダムスが気にしなかったとしても無理はないが、旅行鞄に入れられたまま何十年も時空間をさまよっていた缶は、絶対錆びてひどいことになっていたと思うぞ。
 一方、オリーブ・オイルと一緒に小説に出てきたレチナ・ワインのことはまったく憶えておらず、せっかく現地でギリシャ料理を食べたのにレストランで試し飲みすることすらなかった。いや実際、ラジオ・ドラマ第3シリーズを聴かなければ、『宇宙クリケット大戦争』でレチナ・ワインが果たした役割など今でも気づかないままだったかもしれない。昨今、日本でもワインに詳しい人が増えてきたけれど、私はアルコールには紅茶に対する思い入れの四分の一も抱いていないので、これまでずっと単に「そういう名前のワイン」と受け流していた。
 前回の更新のために改めて調べてみて初めて松ヤニ入りワインと知り、知ったからには一度くらい味見をしてみたいと思った。いつか、ワイン専門店に立ち寄ることがあったら、あるいはギリシャ料理の店に行くことがあったら、忘れずレチナ・ワインを探してみよう。とは言え、自宅で飲むのはもっぱら発泡酒、おまけに外食嫌いの私のことだから、レチナ・ワインの松ヤニの香りとやらを体験するのは一体いつになることやら。

 そんなこんなで今年の更新も今日がラストである。2004年最後の更新は、コンピュータ・ゲーム『宇宙船タイタニック』の攻略本にアダムスがつけた序文の追加。
 という訳で、これからまた例年通り二ヶ月間の冬休みに突入するけれども、もし映画『銀河ヒッチハイク・ガイド』やラジオ・ドラマに新たな進展があった場合には、最新ニュースだけはなるべく頻繁に更新しようと考えている。急いで更新したくなるようなめでたいニュースが続々入ってくることを祈りつつ、次回更新予定の2005年2月19日にまたこのコーナーでお会いしましょう。

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