ダグラス・アダムス年譜 前半(1952年-1976年)

 この年譜は、あくまで参考資料とお考え下さい。最大限の注意を払って作成したつもりですが、入力ミスその他の誤りがまだまだ含まれているはずです。
 日付のはっきりしている事柄については、大小を問わず掲載しました。また、日付のはっきりしていない事柄については、表の掲載順に誤りがある可能性が高いので、くれぐれも鵜呑みにしないで下さい。

年譜 後半へ
参考用・関連年譜へ
家系図

出 来 事
1952 3 11 ダグラス・ノエル・アダムス、父 Christopher、母 Janet の間に生まれる。
1957 - - 両親が離婚。アダムスと妹のスーザンは母親に引き取られ、母方の祖母と共にエセックス州ブレントウッドで暮らすことに。
1959 9 - ブレントウッド・スクールに入学(最初の4年間はプレパラトリー・スクール)
1960 - - 父 Christopher、再婚。
1961 - - Remove ?に進級。
1961 - - 教師のFrank Halford と出会う。
1962 3 7 Halford の授業で書いたエッセイで、10点満点を取る。
1962 9 - 校内誌 The Brentwoodian に短文が掲載される。
1963 7 - スピーチ・デーに上演された、プレップ・スクール演劇部の公演 Five Who Pass While the Lentils Boil に出演。
1963 - - Junior Remove B に進級。(プレップ・スクールに区分されるが、ジュニア・スクールからの新入生と一緒になる)
1964 3 13 プレップ・スクール演劇部の公演 On The Golden Hind に軍人役で出演。
1964 3 20 ビートルズの'Can't Buy Me Love'/'You Can't Do That' 発売、学校を抜け出して買いに行く。
1964 7 - 母Jan、ドーセットの獣医、Ron Thriftと再婚。
1964 - - メイン(ジュニア)・スクールの、Form Upper ?に進級。祖母の家から、学校の寮(Barnards)に移る。寮生は14人で、舎監はAlan Brooks。
1964 12 - 寮のクリスマス・パーティに、ドクター・フーならぬ'Doctor Which'という寸劇を書く。
1965 1 23 雑誌 Eagle に投稿した手紙が掲載される。
1965 2 27 雑誌 Eagle に投稿したショートストーリーが掲載される。
1965 - - 学内劇 The Insect Play で主役と務め、The Brentwoodianで絶賛される。
1965 - - Barnards 寮が廃止になったため、夏休み中にOtway House に移る。舎監は前の寮の時と同じAlan Brooks。
1965 - - ブレントウッドにポール・サイモンが招かれ、学内で演奏会をする。アダムスはそれを見て、ファンになった。
1965 12 9 ディベート部の討論会で、スピーカーになる。
1965 12 - 学期の最終日、「ロミオとジュリエット」の端役で、ブレントウッドの学内劇のハイライト、Winter Theatrical の舞台に立つ。The Brentwoodian でも好評だった。
1966 2 2 'Hat Night' という自由演説会でスピーチをし、投票の結果第2位になる。
1966 - - Speech Day に、チャペルでの活動を理由に特別賞を受賞する。
1966 - - Upper ?に進級、School という名前の寮に移る。舎監はMickey Hall。
1966 3 10 テレビ番組 The Frost Report の第一シリーズが放映開始となる。この番組に出ていたジョン・クリーズを見て、アダムスは彼のようになりたいと考えるようになった。
1966 - - Winter Theatrical で上演された「テンペスト」に出演。
1967 10 21 Upper ?に進級。
1967 - - チャペルの祭具係(Sacristan、またはChapel Praepostorとも呼ばれた)になる。1969年のイースターまで18ヶ月間務めた。
1967 12 - Winter Theatrical で上演された「マクベス」に端役で出演。
1968 - - Sixth Form, Lower ? Arts に進級。A-Level のために、中世史・近代史・英文学を選択する。
1968 - - 英文学で、Lower ? Arts の優秀賞を受賞。同賞を受けたもう一人の生徒が、P. N. M. Jonestone だった。
1968 12 - Winter Theatrical で上演された「ジュリアス・シーザー」にシーザー役で出演。
1969 - - Sixth Formという名称が、Upper ?に変更され、自動的にアダムスもUpper ?になる。
1969 9 - Chapel Choir Report を書く。アダムスはチャペル・コーラスの秘書の仕事もしており、またSchool House に合唱コンクールの優勝をもたらした。
1969 10 5 「空飛ぶモンティ・パイソン」放映開始。アダムスは寮の仲間と毎週この番組を夢中になって見ていた。
1970 1 20 校長が主催する超排他的クラブ、Candlesticks に招かれる。このクラブに招かれた時は、キャンドルについての詩を持参する決まりになっており、彼の詩は機関誌 Greenwood に掲載された。
1970 - - ケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジに進学することが決まる。専攻は英文学。
1970 12 - ブレントウッド・スクールを卒業。大学に入学するまで、アルバイトをし、ヨーロッパ・ヒッチハイク旅行を敢行。アダムスにとって初めての海外旅行だった。
1971 10 - ケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジに入学。ジョン・クリーズのようなライター・パフォーマーになるべく、彼の所属していたフットライツに参加を希望するも、なかなかメンバーになれない。
1971 - - フットライツの代わりに、チャリティ目的の団体 Cambridge University Light Entertainment Society (CULES) に参加。が、アダムスとしては、あくまでフットライツに参加するまでの通過点のつもりだった。
1971 11 15-16 フットライツのスモーカーの舞台に、ルームメートで友人Keith Jeffery と共に初めて立つ。この時、サイモン・ジョーンズと知り合った。
1971 - - スー・リム演出の舞台「セツアンの善人」(ADCシアター)に出演。
1972 5 5 フットライツのスモーカー・コンサート、Prepare to Drop Them Nowに、Dave Robinson が書いた'Cyril Fletcher's Last Stand' のモノローグで出演。
1972 5 12 スモーカー・コンサートの場として使用されていたFalcon Yard の取り壊しを偲んでOld Library で開催されたディナーに参加。後に徒党を組むことになるウィル・アダムス、マーティン・スミスを含む37人が集まった。
1972 6 5 May Weeks Review Norman Ruins が上演される。フットライツのレビューとしては珍しく作品中に映画が挿入されており、この映画にアダムスも出演していた(脚本について意見したが、そちらについては却下されたとか)。
1972 - - スー・リム演出の舞台「恋がたき」(ADCシアター)に Sir Lucius O'Trigger 役で出演。
1972 11 17 スー・リムの誘いでスモーカーに出演。
1972 11 25 Varsity に、ジョン・クリーズへのインタビュー記事が掲載される。
1973 2 8 ジョン・ロイド、Mary Allen 主催のスモーカーに出演。自作の歌 'A Song for Stupid People' を披露した。
1973 3 1 スモーカーで、ウィル・アダムス、マーティン・スミスの共作' The Heel-Fire Club' に、アダムスも出演した。
1973 3 5 Cambridge Union Society の討論会に招かれる。アダムスはKeith Jeffrey が組み、ウィル・アダムスとマーティン・スミスに対抗した。
1973 5 17 スモーカーで、初めて自作のスケッチ 'Point Taken' を発表。
1973 6 - May Weeks Review が開催されるも、アダムスは全く参加できないままに終わる。
1973 6 14-16 ウィル・アダムス、マーティン・スミスと共にチームを結成(アダムス・スミス・アダムス)、セント・ジョンズ・カレッジが所有する古い建物、School of Pythagoras を無料で借りて、'Several Poor Players Strutting and Fretting' というショーを行う。
1973 10 25 スモーカーで、3つのスケッチを発表。そのうちの一つは、やっと見つけた理想の家を、高速道路建設のために壊されてしまう男の話だった。
1973 11 8 スモーカーで、'Song of Tiny Minds' を発表。
1973 11 15-17 アダムス・スミス・アダムスでレビュー The Patter of Tiny Minds(School of Pythagoras)を行う。
1973 11 24 フットライツのメンバーの中の数人で Stortford に行き、Cambridge Footlights Revue を行う。アダムスは12作を執筆、または共同執筆し、14作に出演した。
1973 11 24 フットライツ・パントマイム Cinderella に、王子の父親 King Groovy 役で出演(12月8日まで)。
1974 1 13 The Patter of Tiny Minds を、ロンドンの Bush Theatre にて1日限りの再演を行う。
1974 1 31 スモーカーで、アダムス・スミス・アダムスの4作が採用される。
1974 2 26 スモーカーで、アダムス・スミス・アダムスの6作が採用される。
1974 3 28 コベントリーの the Belgrade Theatre での公演 A Room with a Revue に、アダムス・スミス・アダムスの作品も採用される(4月6日まで)。
1974 4 25 スモーカーで、アダムス・スミス・アダムスの2作が採用される。
1974 6 3 May Weeks Review Chox が上演される。アダムスは作家として名前は載せられたものの、ウィル・アダムスともども役から外された。
1974 7 15 Chox、ロンドンの Comedy Theatre で4週間上演される。初日の公演にフットライツの卒業生として観に来ていたグレアム・チャップマンに、アダムスは初めて会った。
1974 8 16 ロンドンに続いて、エジンバラのSt. Mary Hall で一ヶ月間上演される。
1974 8 26 BBC2で、Chox のハイライト(50分)が放映される。
1974 - - ケンブリッジ大学を卒業。ウィル・アダムス、マーティン・スミスと共に、エージェントのジル・フォスターと契約した。
1974 11 6-9 アダムス・スミス・アダムスでレビュー Cerberus (The Amazing three-Headed Revue) を行う (the Arts Theatre)。
1974 12 5 「空飛ぶモンティ・パイソン」最終話が放映された。アダムスはチャップマンに頼まれて「世界で一番アブナイ医者」のスケッチを手直しして、番組の終わりに 'Silly Word' 担当として名前をクレジットされる。
1975 7 5 second Knebworth Rock Festival にて、コメディ要因として友人と一緒に'Gumbies' の格好でステージに上がる。
1975 11 6-8 アダムス・スミス・アダムスとして最後のレビューとなる So You Think You Feel Haddocky... を行う(the Little Theatre Club)。この公演以降、他の二人との共同作業は自然消滅した。
1975 - - グレアム・チャップマンとの共同執筆生活を、ほとんど何も実現しないままに終える。無一文状態で家賃も払えなくなり、アラブ王族のボディガードのアルバイトなどもした。
1976 1 13 フットライツで次回のMay Week Revue の演出家探しが始まり、何人もの候補者に断られた後、アダムスに依頼することに。アダムスは承諾する。
1976 2 - Cambridge Evening News に、レビューの準備を始めたアダムスと部長のChris Keightley へのインタビュー記事が掲載される。
1976 6 7 May Weeks Review Kick in the Stallが2週間の予定で上演される。
1976 6 8 Cambridge Evening News で、Kick in the Stall が酷評される。4日後の Financial Times にも同様の記事が載った。
1976 6 - ケンブリッジに続いてオックスフォードの Oxford Playhouse でも1週間上演するが、こちらでも酷評された。
1976 6 29 サザンプトンの the Nuffeld Theatre 、Averham の the Robin Hood Theatre でも上演したが、やはり酷評。
1976 8 - エジンバラで3週間上演する。この頃には、冗長だという批判を受けて最初の約半分の長さにまでカットされており、批評もだいぶ改善されたが、この時期にはアダムスは既にフットライツの演出家の座を離れていた。
1976 - - ジョン・ロイド、David Renwick、アンドリュー・マーシャルの計4人が中心になって、The Unpleasantness at Brodie's Closeを上演する。
1976 10 27 BBCからアダムスのエージェント宛で The Burkiss Way 第2シリーズ第1話分10分の脚本依頼が届く。
1976 12 20 The Burkiss Way 用の脚本を、当初の締切11月5日から遅れて、それも5分間分のみをどうにか書き上げる。

年譜 後半へ
参考用・関連年譜へ

Top に戻る