目次
2001.4.28. 能書きに引き続き、ロード・クリケット場のことなど 2001.5.5. 私がタオルにこだわる理由 2001.5.12. なかなか離陸しない飛行機の話 2001.5.19. no chance to see... 2001.5.26. そして人生はつづく 2001.6.2. いきなり「2」 2001.6.9. クレームすら待ちわびる日々 2001.6.16. サイモンを探せ 2001.6.23. ハリネズミか狐か 2001.6.30. 二十日鼠かハツカネズミか 2001.9.1. 2ヶ月の成果 2001.9.8. ビョークとソクーロフ、よく知らない二人について 2001.9.15. 神の在/不在をめぐって 2001.9.22. お宝自慢 2001.9.29. 史上最強のビスケット描写 2001.10.6. チェイシング・スミス 2001.10.13. 更なる無駄遣いの記録 2001.10.20. 文学と映画 2001.10.27. ささやかに、心が痛むこと 2001.11.3. ドクターに会いたい 2001.11.10. 最低限の基礎知識 2001.11.17. 自分で読んで確かめてみて 2001.11.24. 自分で観て確かめてみて 2001.12.1. お宝自慢2、あるいは友達自慢 2001.12.8. ミュージカルあれこれ 2001.12.15. ではよいお年を、そして来年もよろしく
先週、最近翻訳の出たロバート・ゴダードの小説『永遠に去りぬ』(創元推理文庫)を読んでいたら、ロード・クリケット場が出てきた。
「ヒューはクリケットが好きだった。ぼくの憶えているかぎりでは、<ローズ>でのテスト・マッチに行かなかったことは、一度もない」(P.65)
「ロード」じゃなくて、「ローズ」ですか。
クリケットの出てくる小説なんて滅多に読まないし、この本もクリケットが出てくるから手に取ったわけじゃなくて、単にゴダートの小説は割と好きだから買って読んだだけで、そうしたらロード・クリケット場がどうしたこうしたとごちゃごちゃ書いているまさにその時に、こうした記述に出会った。素敵な偶然の一致だなあと一人ごちる。
<ローズ>の件を別にしても、ゴダードの小説の中でも本書は割とおもしろかった。一番好きな『蒼穹の彼方へ』には及ばないけれど、悪くない悪くない(ちなみに私の中でゴダードのワースト本は断然『日輪の果て』)。しかし、本当はこんな小説本を読んでいる暇があったらドーキンスの『虹の解体』の続きを読むべきなのだ(そう、実は最後まで読み切ってすらいない本をホームページで引用していたりする。ひどい)。今、88頁。しかし、ここで挫折してしまったら、この本はおろか、まとめて一緒に買って勿論未だに開いてすらいない『延長された表現型』なんて絶対読まずに終わってしまう!
などと恐れつつ、なのに昨日は最近重版された『プリンセス・ブライド』(ハヤカワ文庫)なぞを買う。切実に読みたいと思っていた訳ではないけれど、何年も前にこの小説が原作の映画『プリンセス・ブライド・ストーリー』を友達に勧められて半信半疑でビデオをレンタルして観たら存外におもしろくて、"As you wish (御心のままに)"というフレーズを何故か今でも憶えているくらいだし、それに何と言っても例のSF&Fベスト25作品の中に選ばれているくらいだし、そして手に入るうちに買っておかないとまたすぐ店頭から姿を消してしまいそうだし、あれやこれやでやはり買うしかないのだが、しかしこれでまたドーキンスが遠のくことも確実なのであった。
ともあれ、今週はタオルの話。タオルに対して私の思い入れている理由が、少しでもご理解いただけることを願いつつ。
ガーディアン紙のタオルの話を初めて読んだ時の私の感想は、「何て羨ましい」だった。
死の床でタオルのありか云々と言って、相手にちゃんと意味が通じて二人してにやりと笑うことができるということが、羨ましい。私がこの日本で同じような立場でタオルがどうしたと口にしようものなら、ついに意味不明な譫言が始まったかと正気の程を疑われるのがオチであろう。
日本ではほとんど誰も『銀河ヒッチハイク・ガイド』を知らないから、ましてやタオルの話など知る由もないから、分かってもらえなくて当然である。実際、留学や結婚等の理由で異国に旅立つことになった友人たちに、私は何かというとタオルをプレゼントするので訝しがられている(一人よがりは承知の上だが、でもタオルは何枚あっても貰って困るものではなかろう?)。
だが、たとえ相手が知識としてタオルの話を知っていたとしても、日本ではそれをジョークとして受け取ってもらえるだろうか。イギリスのあの女性がタオルの話を持ち出したのは、『銀河ヒッチハイク・ガイド』のカルトなファンでその世界にはまりすぎていて現実と虚構の区別がつかなくなっていてアダムスの言うことなら何でも間に受けた結果、「タオルがあれば大丈夫」と本気で信じ込んでしまったせいではない。「タオルがあれば大丈夫」は、「ちっとも大丈夫じゃない」状況の、ものの見方をひっくり返すジョークとして用いられただけである。しかし、もし私が、たとえ『銀河ヒッチハイク・ガイド』を読んだことのある相手に向かって言ったとしても、その人はそれをジョークと思ってくれるだろうか。「これだからマニアは困る、ついに現実と虚構の区別もつかなくなったか」と陰で嘆息されるくらいが関の山ではないだろうか。
これは、『銀河ヒッチハイク・ガイド』が知られているか知られていないかだけの問題ではない。結局のところ、切羽詰まった状況をジョークで軽くいなしてしまえ、という発想そのものが受け入れられるか、受け入れられないかの問題であるように思う。そしてこの考え方の違いこそが、ある意味では『銀河ヒッチハイク・ガイド』が受け入れられるか受け入れられないかの一つの試金石になりはしないかと考えたりもするのだが、そんな試金石、受け入れる人を募るのも空しい。
ともあれ、初めてイギリスに旅行することになった時に心に決めた旅の第一目的が、「マークス・アンド・スペンサー製のタオルを買うこと」だった私には、みんなから「これだからマニアは」と呆れられても文句が言えないのもこれまた事実ではある。言うまでもなくその第一目的はあっさり果たされ、深緑色のエクストララージのバスタオルは今も未使用のまま、自室の押し入れに後生大事に仕舞われている。とは言え、バカげたマニアの思い込みもたまには役に立つことがある。そのおかげでもって、どうにかドーキンスの『虹の解体』も読破に成功したのだから。読んでみればそれなりにおもしろいのだけれど、アダムスとの関連がなければ、誰が何と薦めてもきっと一生読まなかっただろう。
さて、これで明日から心おきなく、友人に借りた宮部みゆき著『模倣犯』が読める(って、何か違う?)。そして、今週はラジオ・ドラマ版『銀河ヒッチハイク・ガイド』の配役一覧の追加と、なかなか離陸しない宇宙船の話。
飛行機がなかなか離陸してくれない、というトラブルなら私にも経験がある。
今を遡ること約15年、1985年8月のことである。場所はシベリア。現在ではロシア共和国だが、当時はソビエト社会主義共和国連邦と呼ばれていた。今ひとつぴんとこない方のために付け加えると、あの頃はまだ東西冷戦真っ盛り、ブレジネフ書記長は死去していたが、ゴルバチョフ書記長は登場しておらず、ペレストロイカもグラスノスチもなかったが、ベルリンの壁なら立派に存在していた。核戦争で人類が滅びることは想定しても、ベルリンの壁が平和裡に壊される日が来るなんて、どんな政治評論家も予想だにしていなかった、そういう時代。
さて、そんな時代になぜ私はシベリアに行ったのか。答えは簡単、近所のおばさんがロシア語の通訳をしていて、そのおばさんが添乗員をするというシベリアツアーに参加しただけのことである。別にソビエトに何の思い入れもなかったが、ロシア文学は嫌いじゃなかったし、英米のスパイ小説の類に出てくる冷血非道のソビエト軍人というキャラクターはもっと好きだったし、それにヨーロッパ旅行といえば片道50万円は当たり前の時代に、このシベリアツアーは3食付きで22万と大層安かった。シベリアをヨーロッパと見なすかどうかは、また別問題だが。
そのツアーでは、まず新潟空港(当時、日本とソビエトの間で出入国を許されていたのはこの空港だった)を出て極東最大の都市ハバロフスクに着き、ハバロフスクから今度はソビエトのほぼ中央に位置する世界最大の淡水湖、バイカル湖の湖畔の街イルクーツクに飛び、またハバロフスクに戻る、というスケジュールだった。しかし、8月にもかかわらずそこはシベリア、天候は大荒れで飛行機は遅れに遅れ、遅れすぎて最初のハバロフスク以降のスケジュールはぐじゃぐじゃになり、しかもそこはやはりソビエト、遅れるったって「どのくらい遅れるのか」は本当に誰にもわからない、乗り過ごしたくなければただもうひたすら空港で待機し続けるしかない。
詳しいことは憶えていないが、ある時は離陸までたっぷり半日以上は待ったと思う。しかし、いくらお役人国家のソビエトとは言え、外国人旅行者をここまで放置するのはさすがにマズイと考えて、彼らなりに急げるだけ急いだのだろう。急いでくださった結果、素晴らしい機内食が回ってきた。パンとゆで卵。以上。
出された食事にケチをつけるのは、大人げないというものである。私たちも、乗務員一同の努力に頭を下げつつ有難くいただいた。しかし、ゆで卵が配られた後、座席前方から乗客たちがリレーのバトンよろしく後ろの席に妙なビニール袋を回してくるではないか。
私の手元までやってきて、ようやくその正体がわかった。ビニール袋に入っていたのは、塩とスプーン。各自、自分の必要な分の塩をスプーンで皿に取り、そして次の人に回すというシステムだったのだ。
確かに、小袋に入った塩を配るよりも環境に優しいと言えなくはない、か?
残念ながら、後方に座っていた私はそのビニール袋がたどり着く前にゆで卵を食べ終えていたので、塩には手を付けずそのまま次の人に回してしまった。それもこれも、今となっては懐かしい。核戦争の脅威や軍拡競争は困りものだが、こうしてあの時の旅のことを思い出すと、「今はもう存在しない国家」にほんの少しだけ切ない気持ちになる。ロクな動機じゃなかったけれど、行っておいて良かった。
多分、この妙な郷愁感は、つい先日『スターリングラード』(原題はEnemy at the Gate)という映画を観たせいもある。ナチス・ドイツとスターリン・ソビエトがスターリングラードにおいて泥沼の市街戦を、ジュード・ロウ扮するソビエトの狙撃手とエド・ハリス扮するドイツの狙撃手との攻防に焦点を絞った戦争映画で、台詞はすべて英語、そのせいか全体としてあまりロシアっぽくもソビエトっぽくもドイツっぽくもなかったけれど、とにかくジュード・ロウがかっこいい。それだけですべて許す(って、そういう問題?)。そんな訳で、今回の更新ネタは時代をさらに遡り、帝政ロシア時代に書かれた一冊の長編小説の話に決めた。
以下の文章は、5月19日付の更新用にと5月12日に書いたものである。この時点は無論アダムスが亡くなったことなど知らなかった。
『復活』の件は、『銀河ヒッチハイク・ガイド』20周年を記念して製作された、The Guide to the Hitch-Hiker's Guide to the Galaxy というインタビューに出てきたものである。
このインタビューを、私は1999年に発売されたカセットブックという形で手にした。アマゾン・コム・UKを通じて簡単に購入できたが、さて問題はここからだ。テープは2本組、1本目はアダムスの関係者らのコメントやインタビュー、2本目がアダムス本人へのインタビュー、どちらもイギリス人がイギリス人相手に普通の速さで普通に喋っている。当然、私の英語能力では何言ってんだか分かりゃしない。
しかし、作者が自作について語る、超A級一次資料である。聞き取れないので無視します、で済ますことは断じてできない。そこで、とにかく理解できないままに通勤のウォークマンに仕込んでひたすら繰り返し聴くことにした。
英語のリスニング能力不足を補う私の唯一の強みは、インタビューに出てくる事実関係をある程度知っていることである。アダムスの言うフットライツだのパイソンだのが何なのか、サイモンとかジョンとかグレアムが一体誰なのか、聞き取るまでもなく私はあらかじめ知っている。だから、ところどころでどうにか拾えた固有名詞をつなげば、大体何の話をしているのかが推測できる。というより、そうやって推測するしかないのだが。
しかし、中には正体不明の固有名詞もある。アダムスが『銀河ヒッチハイク・ガイド』にことよせて、ある小説を何度も何度も引用するが、そのタイトルが私の耳にはこう聞こえる。「トイ・ストーリーのレザレクション」。
何のことやら。
本来、そういう全く初耳の話こそ、わざわざイギリスから取り寄せてテープを購入した甲斐もあったと喜ぶべきなのだが、素直に喜べないところが情けない。不幸中の幸い、インタビュアーもその小説を読んでいなかったので、アダムスが作品の解説をしてくれている。聞き取れる単語をつないでみると、70年代のカルトブックだとか、その頃IRAみたいなテロリストがある意味ファッショナブルでかっこいいと思われていて、そういう時代向きだったとか、ストーリーはシンプルで、one noble man (ある貴族)が、duty of justice (陪審員か?)で、女性と会う。その女性は、かつて のhousemaid で、彼はseduce her(彼女を誘惑)で、pregnant(妊娠)で、prostitution(売春)。日本では翻訳されていない、ファンタジー小説か何かだろうか? でもこのストーリー、どこかで聞いたことのあるような??。
ウォークマンにテープを入れっ放しにして約1ヶ月が経過、少なくとも50回は繰り返して聴いただろうか。ある瞬間、目からウロコが落ちた。これって、ひょっとして、「トイ・ストーリー」じゃなくて「トルストイ」か? そして「レザレクション」てのは『復活』じゃないのか?
まさにまさしく「ユリイカ!」な一瞬。思わず、叫びそうになった。
が、正気に返ればそこは出勤途上のJR代々木駅。かろうじて声を出さず、ガッツポーズもしなかったが、私のことだから顔には絶対出ていたにちがいない。という訳で今回の更新ネタは、これさえあればこんな苦労もせず要らぬ恥もかかずに済んだ、あの素晴らしいお魚のお話。
------- と、ここまでが、12日に書いて保存しておいた分。
そしてこの先は、アダムスの訃報に接した後に追加して書いた。
------- 「レザレクション」の正体がわかった後も、私はテープをまだウォークマンに入れていた。現時点では既に100回以上は聴いている。相変わらず、分かるところは分かるが分からないところはさっぱり分からないが、意味は分からないなりに耳は音を憶えてしまった。音、つまりアダムスの声を。
おかげで、今となってはテープを再生するまでもなく、インタビューに答える彼の声が私の頭の中で甦る。
何度か人生をやり直せるなら一度は絶対動物学者になる、あるいはコンピュータ・サイエンティスト、その他には??と言いかけてちょっと口ごもりながら「ミュージシャン、とか?」と照れたように話していましたね。いい歳をして今更何を照れているのやら、と思わずこっちも苦笑いしました。元々はジョン・クリーズのようなライター兼パフォーマー志望だったあなたは、作家になった後でもできることなら人前に立ちたかったのでしょうか。そう言えば、ケンブリッジ大学でフットライツに入った時に、自分の書いたスケッチなのに配役から外されたことは思い出すと腹が立つ、とも言っていましたっけ。後にアルメイダ劇場で朗読会をしたり、BBCのテレビ番組でホスト役を務めたりして、少しは溜飲を下げることができましたか?
「僕は人生の時間を無駄遣いした」とも言っていましたね。次に何をしたらいいのか分からなくて多くの時間を無為にした、と。そしてそのことに気づいたのは40歳を過ぎた時だった、と。あのインタビューを受けた時、あなた自身まさか自分が50歳を迎える前に死んでしまう運命にあるとは夢にも思っていなかったでしょう。私だって、想像だにしなかった。それだけに、今となってはあなたのあの何気なく話された言葉を思い出すのがとても辛い。
またあなたは、神を信じていない、徹底した無神論者だとも言っていました(自分の小説にはあんなにたくさんの神を登場させているくせに)。あなたの死因は心臓発作だと報道されていましたが、実際のご自分の死に際してもその考えに変わりはありませんでしたか? だとしたら、そんなあなたにこういう言い方をするのはひどく見当違いのような気もするけれど、他に思いつく言葉もないので敢えて言わせてください。
ご冥福をお祈りします。こんなことになる前に、一度でもいいからお会いしたかった。
ダグラス・アダムス逝去の衝撃的なニュースからはや10日以上が過ぎて、さすがの私もだいぶ正気を取り戻しつつある。
ただし、まだあまり元気ではない。
実は今回の件で生まれて初めて「ショックで寝込む」というのを体験した。そういうことって本当にあるのか、と正直なところ自分でも驚いた。もっとも、会ったこともない一イギリス人の存在が私にとってどんなに大切だったかの証とも言えるし、あるいはこの程度の衝撃ですぐへたってしまう根性なしのくせに、一度も「ショックで寝込む」ことがなかったとは、本人は自覚していなかっただけでこれまでの私の人生はえらく幸運だったとも言える。さて、どっちが前向きな考え方だろう?
ともあれ、熱はあまりひどくなかったので仕事に差し支えることはなかった。ただ、今もって咳が消えない。おかげで映画館には行けないし、いきおい自宅に閉じ籠もる羽目になる。
という訳で、時間的余裕はあったはずなのに、その割にはホームページ更新準備はいつまでも手つかずだった。何しろ、アダムスの訃報記事特集である。気が進まないこと夥しい。それでも、インターネット検索で記事を集めるまでは良かった。しかし、いざそれを読もうとすると、出るはため息ばかりなり。いやはや。
それでもどうにか気持ちを奮い立たせて辞書を片手に読んでみると、意外に新しい発見もあった。スティーヴン・フライがアダムスの友達だなんて、これまで全然知らなかった。とすると、これはやはり「ブラック・アダー」シリーズもレンタルビデオ屋でチェックしてみるしかないか、何てったってプロデューサーはジョン・ロイドだもんなあ??とか何とか考えていて、アダムス亡き後一時はもうホームページの更新も止めようかとまで思い詰めたくせに、やっぱりまだまだ足は洗えない。
という訳で、早速借りた。「ブラックアダー2」。
「ブラックアダー」は、番外編を除き、現時点で4シリーズが製作されている。主人公はシリーズを通じてローワン・「ミスター・ビーン」・アトキンソン扮する悪党ブラックアダーなのだが、1作目では薔薇戦争の時代、2作目ではエリザベス1世の時代、と、シリーズごとに時代背景が異なっている。つまり、歴史の秘められた(あるいは忘れ去られた)裏話として、「ブラックアダー」と呼ばれる悪党が暗躍する、という設定らしい。そして、日本で発売されているビデオは、1シリーズごとに前・後編の2巻、4シリーズ全部で計8巻になっている。そのうち、私が借りたのは2作目の前編と後編の2本。
たかがビデオレンタルである。「借りた」と宣言するほどのものではない。しかし、案の定この手のビデオは家の近所の店には置いていなくて(私の大嫌いな「ミスター・ビーン」なら揃えているくせに)、結局、都内になる大型店まで足を延ばしてようやく発見、わざわざその店に新規会員登録の手続きを取った末のことなのだ。しかも、「ブラックアダー」は棚の最上段に並んでいて、私の身長では脚立なしでは手が届かなかった。おまけに、このシリーズの背ラベルには日本語版製作スタッフがつけたとおぼしきサブタイトルはあれど、1から4のうちの何シリーズ目なのかが書かれていない。そのため、不安定な姿勢で脚立に上がり、8本のビデオをいちいち手に取っては裏カバーに書かれた解説とスタッフ名に目をこらすという手間までかかったのだ。表カバーは、ブラックアダー扮するアトキンソンのアホ面。そんなものを、眉間に皺を寄せて見つめている私。傍目には滑稽を通り越して不気味な光景だったにちがいない。
おまけに、そうまでして観ようとしている自分を振り返ると、何だか妙な気もする。何しろ主役はローワン・アトキンソン。くどいようだが私は「ミスター・ビーン」が大嫌いだ。映画『ビーン』のキャンペーンで来日したアトキンソンのインタビューをテレビで見て以来、ビーン=アトキンソンでないことは承知した。素顔の彼は、とてもまっとうで好感の持てる英国紳士である。私が不快なのは、ビーン役を演じている時の彼だけなのだ。罪を憎んで人を憎まず、という格言を思い出させてくれたことに一応感謝するが、だからと言って敢えて彼の他のコメディ作品を観たいと思うか?
勿論、思わない。
ここで話は、唐突ながら約1年前のイギリス旅行に遡る。2000年7月、私は友人と共にロンドンに行った。ロンドンにはそれ以前にも何度か旅行したことがあって、たいていの観光名所には既に行ったことがあったので、じゃあ今回はどうしようかという話になった時、その友人が言うに「ミレニアム・ドームに行きたい」。
正直なところ、私はとても気乗り薄だった。入場料も高い。おもしろいという評判も聞かない。おもしろいどころか「つまらない」という話ならある。『イングリッシュ・ジャーナル 2000年5月号』掲載の、カズコ・ホーキのエッセイ。「全然期待しないで行ったのだが、ああ期待しないでよかったと思って帰ってきた」(p. 110)、「Mr. Bean (ミスター・ビーン)で有名なRowan Atkinson (ローワン・アトキンソン)が出ているテレビ番組 Blackadder (ブラックアダー)の新作も、期待したのにつまらなかった」(p. 111)。ここまで書かれて、それでも行きたいと思うか?
勿論、思わない。
にもかかわらず、9日間の日程のうちの1日を費やしてまで友人と一緒にのこのこ出かけていったのは、その友人が「ひょっとしたらダグラス・アダムス関係のネタが拾えるかもよ」という、最後の切り札を切ったからだった。さすがに長年私の友人をやっているだけのことはあって、殺し文句は心得ている。そう言われては、私としては背中を見せる訳にはいかない。おまけに相手はミレニアム限定のミレニアム・ドーム、今行かないで後悔してもこればっかりは取り返しがつかない、となるともう行くしかないではないか。
結論から言えば、ドームの中にはアダムスのアの字もなかった。でも、少なくとも私の中には万事を尽くしたという清々しさは残った(ということにしておこう)。時刻は午後2時を回ったところ。時間は早いけれどもう帰ろうかとドームの外に出ると、ドームと会場出口の間に「Skyscape」というパビリオンがあって、私たちが通りかかったちょうどそのタイミングで、次のアトラクションが始まるという呼び込みをやっている。演目は「Blackadder」。時間もあるし、せっかくここまで来たのだから(せっかく高い入場料を払ったのだから)入ってみようか、くらいの気分で観てみたら、意外や意外これが結構おもしろかったのだ。
英語オンリー、字幕なし。ブラックアダーに関する前知識ゼロ。あるのはアトキンソンに対するマイナスイメージだけという不利な状況にもかかわらず、それでもおもしろかった。会場を出る時、「ミスター・ビーン」なんかを日本に入れるくらいならこっちを入れてくれればいいのに、と友人に話した記憶がある。とは言えその後、日本でもビデオが発売されたことは知っていたが、わざわざ借りてまで観ようとは思わなかった。スティーブン・フライがアダムスの友人だと知るまでは。それにしてもなぜ、「1」ではなくいきなり「2」なのか。その理由は3つある。
まず第一に、1を観ないで2を観ても分かる話だということを、1年前のミレニアム・ドームで体験済みだから。
第二に、1にスティーブン・フライは出てこないし、ジョン・ロイドがプロデューサーでもない。従って、私には用はない。
第三に、1の前・後編は貸し出し中だった。7泊8日のレンタルをいいことに、今の時点ではまだ全然観ていない。この更新が済んだら、観てみるつもり。
自分のホームページを開いてこのかた、私の最大の悩みはアクセス数がまるで増えないことだった。
いや、正しくは「増えない」ではなく「全然ない」。世間に己の書いたものを晒す前に私が一番心配していたのは「クレームのメールが殺到したらどうしよう」だったが、フタを開けてみればそれは杞憂もいいところ、最初のアップロードを済ませて数ヶ月が経過した現在、「どんな迷惑メールでもいいから」と思い始めるようにさえなってしまった。
それだけに先月、私のホームページを見た他人様から初めてメールをいただいた時は、小躍りして喜んだ。ちなみに、その方のお気に入りの話は前回追加した「靴の事象の地平線」だとか。その方がネット上で「ダグラス・アダムス」を検索するきっかけが、彼本人の死亡のニュースだったというのが玉に瑕だが、まあ仕方がない。口さがない友人には「ニホンオオカミ(絶滅種の意味)の目撃談」呼ばわりされたものの、私のホームページがいつの日か新潟のトキ保護センターくらいの役割を果たせることを信じてせいぜい地道に更新を続けよう(ただし、私個人としてはグリーンピースのやり方には必ずしも賛同していないので、WWFには寄付してもグリーンピースには寄付しない)。しかし、前回の更新履歴・裏ヴァージョンにて、たとえクレームのメールが殺到しても申し開きのできないミスを犯してしまった。
いきなり「2」を借りた理由の2点目、「1にスティーヴン・フライは出てこないし、ジョン・ロイドがプロデューサーでもない」は大間違い。確かにスティーヴン・フライは出てこないが、ジョン・ロイドはシリーズ4作を通してプロデューサーを務めている。私としたことが詰めが甘かった。現時点でただの一件のクレーム・メールも届いていないけれど(言うまでもないか)、猛反省している。かくなる上は四の五の言わず全シリーズ借りて観るしかない。いやそんなゴタクはどうあれ私は全シリーズ観る。なぜって、滅茶苦茶おもしろかったからだ!
いやー、笑った笑った。よもや、アトキンソンにここまで笑わせていただけるとは。
おまけに、「2」の全6話のうちの第3話(ビデオでは前編に収録されている)には、かのサイモン・ジョーンズまで出ているではないか。なのに、第3話をけたけた笑いながら観て、最後のクレジットでその名前を読むまでまるで気付きもしなかった。慌ててビデオを巻き戻し改めて耳を澄ましてみると、それは確かにかのアーサー・デントの声。
二重三重の不覚を挽回すべく、今週はアダムスのベストフレンド、ジョン・ロイドとサイモン・ジョーンズ特集。
前回更新したサイモン・ジョーンズの履歴は、たいしたネタでもないくせに実はえらく時間がかかっている。
インターネットのおかげで、ある役者や監督の履歴を調べるのは簡単だ。全洋画オンラインや、The Internet Movie Database といったサイトで人名検索すればいい。実際、スティーヴン・フライの場合はそれでおしまいだった。しかし、それは彼が『ピーターズ・フレンズ』のピーター役や『オスカー・ワイルド』のオスカー・ワイルド役だからこそである。サイモン・ジョーンズの場合、『12モンキーズ』の動物学者役と言われても動物学者なんて役があったっけと首をかしげてしまう。そこで、彼の出番をビデオで確認する羽目になる。『デビル』のハリー・スローン役もしかり。
何の役か分かっていた上で観ていても、それでもサイモン・ジョーンズを探し出すのは大変だった。一番簡単だったのは『華麗なる貴族』(ひどい邦題。イーヴリン・ウォー原作通り『ブライヅヘッドふたたび』にしておけばいいのに。かつてWOWOWで放映された時はおとなしく『ブライズヘッド再び』だった)で、一番難しかったのが『12モンキーズ』。6人の学者のうちの誰がサイモン・ジョーンズなのか分からなくて、何度テープを巻き戻したことか。動物学者というふれこみだって、最後のエンド・クレジットに出ていなければ分かりゃしない。ちなみに、私はこの映画のノベライズ『12モンキーズ』(ハヤカワ文庫)まで持っているが、エリザベス・ハンドが書いたこの小説、わざわざ読む甲斐がないくらい映画の内容に忠実であるにもかかわらず、サイモン・ジョーンズ扮する動物学者だけはなぜか女性という設定に変えられている。「蜘蛛のときの判断はよかったと思うわよ、コール」(p. 103)
万に一つもエリザベス・ハンドと直接お話しする機会があったら、何はさておきこの変更の理由を訊いてみたいものだ。
また、今回は力尽きて探し出せなかったが、『未来世紀ブラジル』では逮捕された事務官役を、『グリーン・カード』ではパーティのゲスト役を務めているらしい。端役を通り越してほとんどエキストラのような気もするが。
なお、全洋画オンラインで「サイモン・ジョーンズ」と検索すると『復讐の処刑コップ』という、タイトルからして駄作の匂いがぷんぷんする作品もリストアップされている。いくらサイモン・ジョーンズ探しのためとは言えビデオを探して借りてまで誰が観るもんかと頭から無視していたのだが、偶然とは恐ろしい、よりにもよってこんなマイナーなB級映画が、よりにもよって先週の更新日の午後1時25分からWOWOWで放映されたではないか!
ええ、観ましたよ。観ましたとも。
そして、この映画の「サイモン・ジョーンズ」は、確かにSimon Jones とクレジットされているものの、John Simon Jonesと表記されることもある全くの別人であることを確認させていただきましたとも。やれやれ。こうして何週間かに亘ってアダムスの友達の活動を追ってみると、特に映像関係では彼らの関係がクロスオーバーしているのがよく分かる。イギリスのコメディ番組についてジョン・ロイドやジェフリー・パーキンスといったプロデューサーに着目して追ったものを、私はこれまで目にしたことがないけれど、『ブラックアダー』『ノット・ザ・ナイン・オクロック・ニュース』『スピッティング・イメージ』『シン・ブルー・ライン』といった有名な作品は、すべて彼らの手によるものだ。そして、この二人にダグラス・アダムスを加えた計3人、当時は全く無名の若者だったこの3人が今から約25年前に知恵を絞って製作したラジオ・ドラマが『銀河ヒッチハイク・ガイド』なのだから、そりゃおもしろいに決まっているというもの(お願い、誰か聞いてる?)。
という訳で、今週はアダムスの友人関連の映像作品の一覧を追加。
関連映像作品一覧を作るためという名目で、この2、3週間というものレンタルビデオ屋に足繁く通っている。
普段、私はあまりビデオを借りない。絶対観る、と思う映画なら映画館で観てしまうし、ヒマつぶしという意味で観るなら、WOWOWに加入しているのでその分を消化するだけでも時間が足りないくらいだからだ。だが、さすがに『ブラックアダー』は借りないことには観られない。おまけに、私が入っているレンタルビデオ・チェーンで期間限定オンライン・クーポンによる半額サービスまで始まって、根がセコい私としては今を逃す訳にはいかない。おかげでますますビデオ漬けになり、ふと気がつくとテーマ曲を鼻歌で歌っている有様。
これはマズイ。
そこで、少しは頭を切り替えるために、買ったはいいが数ヶ月間ほったらかしたままの、お堅い本を読み始めることにした。岩波文庫の青ラベル、アイザー・バーリン著『ハリネズミと狐』。
ギリシアの詩作に、「狐はたくさんのことを知っているが、ハリネズミはでかいことを一つだけ知っている」という一行がある。その詩の真意のほどはさておき、作家や思想家は「狐型」(「しばしば無関係でときには互いに矛盾している多くの目的」を追求するタイプ)と「ハリネズミ型」(「ただ一つの普遍的な組織原理によってのみ、彼らの存在と彼らのいっていることがはじめて意味を持つ」ようなタイプ)に大別することができる。著者バーリンによれば、「狐型」の典型がシェイクスピア、ゲーテ、プーシキン、バルザック、ジョイスで、「ハリネズミ型」はドストエフスキー、ニーチェ、イプセン、プルーストになる(なるほど確かにそんな感じかも)。そして、バーリンいわくトルストイは「本来は狐であったが、自分はハリネズミであると信じていた」人であり、この本はそれを『戦争と平和』を歴史哲学として読み解くことで明らかにしようと試みている。
どうせなら『戦争と平和』ではなく『復活』で試みてくれていれば、私にとっては一石二鳥だったのに。残念ながら世の中は、そこまで私に都合良く出来てはいなかった。
しかし、トルストイはさておいても、ハリネズミと狐という分類法はおもしろい。ディケンズは? ポーは? 夏目漱石は? 有名作家をリストアップして、それぞれ思いつくままに分けてみるのも楽しそう。
ちなみに私の尊敬する3人はどちらに分けられるか。ユーリ・ノルシュテインとアントニオ・ガデスは、もう間違いなくハリネズミだろう。でも、ダグラス・アダムスは?
現時点の私の意見としては、「本来はハリネズミであったが、自分は狐であると信じていた」。とは言え、確たる根拠はないのでまた考えが変わる可能性は高し。そして今回は、ハリネズミならぬハツカネズミの話。
『銀河ヒッチハイク・ガイド』では、mice はひらがなで「はつかねずみ」を訳されている。これはこれで一番だと私も思う。
しかし、ジョン・スタインベックの小説、of mice and men はあくまで『二十日鼠と人間』と訳すべきだとも思う。私が思うも何も、それはそういうものだろう、と別段気にもしていなかったが、ある日何気なく本屋で新潮文庫の棚に目を走らせて、『ハツカネズミと人間』という背表紙を見つけて驚いた。
『二十日鼠と人間』を『ハツカネズミと人間』に変えたところで、どうせ読まないヤツは読まないよ、と思うのは私だけか?
この小説を初めて読んだ時は、泣けたの何の。本を読んで涙を流すこと自体は恥ではないが、それが電車に乗っている最中だったとなると話は変わる。ともあれ、そんなことがあったせいで私にとってこの一冊にはますます余計な思い入れが出来てしまった。そのため今回のタイトル変更については、新潮社、よくもやってくれたな、という恨みが7割、「ハツカネズミ」に変えることで絶版の憂き目から救われるなら許すべきか、という迷いが3割。新潮社という出版社に対しては、よくも『銀河ヒッチハイク・ガイド』を絶版にしてくれたな、という恨みと、それでもともかく翻訳を出版してくれてありがとう、という感謝もあって、私の心中はますます複雑になる。
ともあれ、『二十日鼠と人間』は短いしわかりやすい小説なので、読んで貰えるととても嬉しい。ねずみもいいが、うさぎが好きな方には特におすすめ。
ちなみに私はうさぎも好き。そしてうさぎの出てくる小説と言えば『ウォーターシップ・ダウンのうさぎたち』(評論社)。長くてそんなにわかりやすくもない小説だけど、こちらも読んで貰えるととても嬉しい。英米では有名な動物文学だが、日本ではなぜかブレイクし損ねている。おもしろさという点だけに限れば、『指輪物語』なんか目じゃないと思う。そこでことあるごとに私は人にこの小説を薦めるものの、皆なかなか私の「おもしろいよ」という言葉を信じてくれない。理由は簡単。作者の名前がリチャード・アダムスだから。
アダムスという名前のイギリス人の書いたものなら何でもいいのか、と皆一様に私に訊く。
そんなことはない、単なる偶然の一致だ、と私は答える。でも、なかなか疑いを解いてもらえない。日頃の自分の言動を考えれば、まあ無理もないか。今回の更新は動物シリーズ第二弾、マッコウクジラの話。
------- と、今日まで基本的に週に1度の更新を続けてきたが、来週からは一足お先に夏休みに入る。次回の更新予定日は2ヶ月先の9月1日。
ここで毎週更新に挫折するのは悔しいけれど、海外旅行等の予定もあってどのみちその間は更新できないし、それより何よりデスクトップ型の私の愛機が置かれた部屋はクーラーがなくて、夏は地獄の暑さなのだった。だったらいっそ、と思い切っての長いお休み。
勿論、その間に更新用コンテンツを準備したりレイアウトの刷新を計画したりするつもりなので、9月1日乞うご期待。というより、2ヶ月先も忘れないでいてね。
マッコウクジラの話をアップロードし、「やれやれこれで毎週の締め切りを気にすることなく、レイアウトの改造や下調べに時間のかかりそうなネタにも着手できるぞ」と思ったのもつかの間、そのほんの数日後にラピュタ阿佐谷で今年もアニメーション・フェスティバルを開催するとの情報を入手した。
7月20日から始まるフェスティバルの情報を7月に入ってから知るのを「入手」と言うもおこがましいが、とにかく知ったからにはロシア・アニメーション祭のページを即刻更新しなくてはならない。私のホームページを見て初めてノルシュテインの来日を知った、という人が現実にいるのかどうかという問題はさておき、この件についてだけは9月1日の次回更新予定日を待たず、新しい情報が入り次第、適宜こまめに更新を重ねていた。
しかし、9月1日現在ではそれらのプログラムは終了してしまったため、今回の更新ですべて削除した。と言っても、開催場所と日時のお知らせ程度の代物だからたいしたことはない。おまけに、私はそれらのプログラムに参加できなかった。8月11日(土)午後2時から東京・竹橋にある科学技術館のサイエンス・ホールで開催された「ユーリー・ノルシュテイン監督と話そう」という映画上映兼ディスカッションにも、8月14日(火)午後3時からラピュタ阿佐谷で開催されたシンポジウム「日本と世界のアニメーションの現状とこれから」(出席者はノルシュテイン、川本喜八郎、高畑勲の3人)にも行けなかった。土曜日とお盆で、世間の多くの社会人はお休みだったかもしれないが、私は両日とも夕方まで出勤だったのだ。涙を飲んであきらめるより他なかった。
勿論、ノルシュテインのシンポジウムの類にはこれまで何度も行ったことがある。初めてノルシュテインのお姿を生で拝見したのは今から10年以上前のサイエンス・ホールだったし、昨年ラピュタ阿佐谷で開催された時のトークショーにもちゃんと行った。いやはや、あの時の大混乱は生涯忘れられない思い出の一つだ。2000年8月5日、あの日あの時あの場所に並んだノルシュテイン・ファンならみんな同意してくれるだろう。まるで旧ソビエト官僚の一団が興業を打ったかのような、恐ろしいまでの段取りと手際の悪さ(同じ質問をしても、スタッフが違えば返ってくる返事もいちいち異なる、なんてことはほんの序の口)で、現場は次々と襲いかかる不条理と不合理の嵐だった。それでもあの日あの時あの場所にいたほとんどの人が怒声を発することもなくひたすら辛抱強く耐え続けたのは、やはりこの程度の不条理と不合理に根をあげるようでは、そもそも「ザムザ」などと命名されたホールでのイベントに参加する資格はないと考えていたせいかもしれない。実際、炎天下で足を棒にして待たされていたにしては、あの場に漂う空気は怒りよりもあきらめとか苦笑に近いものがあったと私は思う。
あれからはや1年。ラピュタ阿佐谷の段取りと手際は、少しは改善されたのだろうか。あーあ、是非とも自分で体験したかったのに。そんなこんなで2ヶ月はあっという間に過ぎ、「レイアウトの刷新」など結局ほとんど手つかずのまま今日に至る。それでも一応、ノルシュテインのコーナーだけは(自称)大幅更新。
2001.9.8. ビョークとソクーロフ、よく知らない二人について
2ヶ月も前に次回更新日を予告し、その2日前にはリンクその他の確認も全部済ませ、あとは9月1日当日にアップロードするのみ、というところまで完璧に準備していたにもかかわらず、更新時間が9月1日から2日に変わるぎりぎりのタイミングになってしまったのは、ひとえにその日の帰宅が午後11時55分だったせいである。家に帰るのが遅くなることは分かっていたが、ここまで遅くなるとは予想外。調布の東京スタジアムは、我が家から意外に遠かった。
それはさておき、前回の更新内容についてまずは一言お礼を言わせていただきたい。ノルシュテイン・コーナーの中で書いたように、ビョークの「ヒューマン・ビヘイビア」という曲のビデオ・クリップが「霧につつまれたハリネズミ」をモチーフにしていることを知ったのは、私のホームページを見てメールを書いてくださった方の情報による。有難うございました。『ダンサー・イン・ザ・ダーク』のセルマとしてしかビョークという歌手を知らなかった私は、この方に教えていただかなかったら一生気付かなかっただろう。当時の音楽雑誌の記事を丹念に探せば、あのビデオ・クリップについてのビョークのインタビューか何かが見つかるかもしれない、とは思ったけれど、今のところ全く手つかずである。もしビョークが「霧につつまれたハリネズミ」について直接コメントしていたらそれはとても興味深いので、いつか億劫がらずに探してみよう(とは言え一体いつになることやら)。
しかし、そんなあるかどうかも分からない記事を探すより先に、しなくちゃいけないことがある。
アレクサンドル・ソクーロフ。現代ロシアを代表する映画監督。ノルシュテインとソクーロフは、映像作家として尊敬し合うのみならず、互いに「ユーラ」「サーシャ」と呼び合う親密な間柄だとか。にもかかわらず、私はソクーロフ監督の映画を寝ないで耐える自信がなくてただの一本も観たことがない。観たこともないくせに、ノルシュテイン・コーナーを刷新するにあたって対談集だけ先に読んだ。我ながら邪道もいいところだが、読んでみて改めて「寝てしまいそうだから観ていない」で放っておく訳にはいかない、ということがよく分かった。分かったけれど、現時点ではまだ観ていない。
こういう時に限って絶好のタイミングで、ソクーロフ作品が東京・千石の三百人劇場で開催中の「ロシア映画の全貌2001」でスクリーン上映されるときた。今度こそ腹を括って観に行こうか。映画館まで足をのばすまでもなく渋谷のレンタルビデオ屋にどっさり揃っていることは確認済みだけれど、「映写室からスクリーンに届く光は、空気を突き抜けているのです! この空気そのものは、神によって作られた謎めいたものなのです! (略)スクリーンに映写室の穴から光が届きます。その間の客席には観客が座っています。この観客はみんなオーラを発しているのです。このオーラが、高く高く昇っていって、この映画館全体を覆います。観客のオーラを通過しなければ映写室からの光はスクリーンに届くことはできないのです! そして私たちは映画を見る。観客も、この映画を現実化するのに参加しているのです。」(『ソクーロフとの対話』、p. 26)とまで言われてしまったら、おとなしく映画館まで出かけていくしかないか、やっぱり。そのくせ、今回の更新は無神論の話。
ダグラス・アダムスが無神論者だからと言って、私自身が彼の主張を鵜呑みにする必要はない。確かに私がマックユーザーなのは彼の存在に負うところ大だが、すべての発言を無批判に受け入れるほど盲目的に信望している訳ではない。
だから、American Atheist の記事を読んでの私個人の判定は「アウト」。ただ、インタビュアーがアメリカ人で、「無神論者を標榜することで、仕事上に支障はないですか」とか「周りの人はあなたを改宗させようとはしませんか」といった、イギリス人のインタビュアーだったら多分しないだろう質問に、思わずアダムスが口を滑らせてしまった、ということは考えられると思う。もっとも私がアメリカ国民とイギリス国民の宗教観の違いについて何を知っているのかと問われれば、たいして知りはしないので断言はできないけれど。
神の在/不在について、八百万の神が温泉旅館に骨休みにやってくるという映画を何の違和感も抵抗感もなく楽しめる国に生まれ育った者としては、「どっちでもいい」が正直なところだ。子供の頃に親に諭されたキリスト教の教えを思い出して自殺を踏みとどまることができた、というならそれはそれで大変結構なことだし、泥酔して妻子を殴ってばかりいた男がイスラム教に目覚めてアルコールを断てた、というならそれもそれでめでたいことである。そういう人たちに向かって「神なぞ存在しない、だからあなたがたが神を理由に自殺やアルコールを止めたのは論理的ではない」と言うのは大人げないだろう、というのが私の論理。宗教は人生の目的ではなく、あくまで隣人と仲良くやっていくための一つの方法論であってほしい。だから、人間関係や国際関係を壊してまで貫かねばならぬ宗教というのには反対。方法が目的にすり替わっているから。
しかし、アダムスの「無神論」についての記事を読み、インタビューテープを聴き、大意をつかんである程度の長さの文章にまとめようとする時には、たとえ私の本音がどうあろうと、あたかも私がアダムス本人になったかのようなつもりで無神論について考え、日本語に置き換えなくてはならない。自分なりにアダムスの意図を最大限汲み取ろうと思ったら、私程度の英語力と翻訳力ではそうでもしなくてはとても書けない(その結果出来上がったものが誤訳と誤読のかたまりであったとしても、それはまた別の問題)。とえらそうなことを言っても普通はねずみだのくじらだのの話ばかりだからそう深刻に構える必要もないのだが、今回はテーマがテーマなだけにきつかった。
ドーキンスの『虹の解体』とAmerican Atheistの二重奏で頭の中がすっかり無神論一色になり、ああくたびれたと何も考えず気分転換に手に取ったのが他でもない、前回の更新履歴・裏ヴァージョンでも引用したノルシュテイン関連本、『ソクーロフとの対話』。「映写室からスクリーンに届く光は、空気を突き抜けているのです! この空気そのものは、神によって作られた謎めいたものなのです!」(p. 26)
一瞬、自分が人格分離を引き起こしたかと思った。まったく、何て両極端な。
気を取り直して今回の更新は、ニューヨークであんな事件が起こった直後でもあるし、ややこしい宗教談義は抜きにして、買ったばかりのデジタルカメラを使って私のコレクションの(ほんの)一部を公開。
前回の更新で公開した私のささやかなコレクションは、所詮お金を出せば誰でも買える程度の代物である。エラそうに掲載するようなものか、とは言われてしまえばそれまでだが、たとえ単なるペーパーバッグ本でも、カバーデザインが変わった今ではあの表紙の版を手に入れるのは難しいだろうと思う。そんなものを欲しいと思う人がいると仮定しての話だけれど。
それに、個人的なことを言わせていただければ、インターネットで簡単に検索・注文できる今と違って、洋書を取り扱う特定の大型書店に発注し、その大型書店から入荷のお知らせハガキが届くまで3ヶ月以上待つのは当たり前、という時代(と言ってもほんの数年前のことだ)に購入したものだから、手に入れた時の喜びはひとしおだった。実際、その頃はたとえイギリスでアダムスの新作小説が発売されても、発売されたという情報すら得られなかったのだ。丸善や紀伊国屋書店の洋書コーナーに貼られる、ニューヨーク・タイムズのベストセラー・リストを1ヶ月に一度くらいの頻度でチェックするくらいしか術のなかった情けない日々が、今は昔の物語と化したことは本当に有難い。
ちなみに、あのコーナーに載せた3冊のうち、最初のペーパーバック版は日本国内の大型書店のペーパーバック・コーナーの回転棚で普通に見つけた。2冊目の、後にアダムスがアルメイダ劇場での朗読会で使用した版は、初めてのイギリス旅行の折にロンドンの書店で見つけて購入。あんな分厚くて重たい本を、嬉々としてスーツケースに詰めて帰国した(ついでに言うと、その時スーツケースに詰められた本はその1冊だけではなかった)。3冊目の、ご大層な革張り金箔付きの豪華本は、天下の日本橋丸善で注文して船便で取り寄せた。手元に届くまで3,4ヶ月は待たされたことは言うまでもない。注文したことも忘れた頃に入荷の知らせを受け、喜色満面で引き取りに行った時、私に本を手渡してくれた丸善の店員の、「何だこの本は?」と一瞬ぎょっとした様子がちょっとおもしろかった。
しかし、私が本当に自慢したいコレクションは、あの3冊とは別にある。お金を出せば買えるというものではない、いわゆる非売品というヤツ。本当は、それをデジタルカメラで撮影してインターネット上で威張りたかったのだが、すぐに実現できない理由があった。
つまりそのお宝は、ダグラス・アダムス関連でもユーリ・ノルシュテイン関連でもなく、アップロード開始当時のまま放置しているアントニオ・ガデス関連のものだから。そんな写真を撮る前に、まずはあのページの体裁をせめてもう少し何とかしないことには、せっかくのお宝自慢もできやしない。
と思いつつ、結局今週もガデスのページは手つかずのまま。追加更新はやっぱりアダムス関連の、ビスケットの話。
リッチ・ティー・ビスケットとは如何なるものかを説明するのに最適な文章を、私は知っている。本文中に挿入したものか随分迷ったけれどやっぱり止めて、こちらで引用することにした。
ビスケットには固さと、軽さと、適度の薄さが、絶対に必要であって、また、噛むとカッチリ固いくせに脆く、細かな雲母状の粉が散って、胸や膝にこぼれるようでなくてはならない。そうして、味は、上等の粉の味の中に、牛乳と牛酪の香いが仄かに漂わなくてはいけない。また彫刻のように彫られている羅馬字や、ポツポツの穴が、規則正しく整然と並んでいて、いささかの乱れもなく、ポツポツの穴は深く、綺麗に、カッキリ開いていなくてはならないのである。(p. 31)
これぞまさしくリッチ・ティー・ビスケット。これ以上の描写はあり得ない。
筆者は、森茉莉。森鴎外の娘の、と冠されることが多いが、教科書に載らない分だけ知名度は低いものの、21世紀の現時点での愛読者の数と質なら実は父親にひけを取らないんじゃないかと私は踏んでいる。かくいう私も大ファンで、私が全集を購入したただ一人の作家である(そりゃあ、The Complete Works of Douglas Adams が発売されれば別だけれど)。
引用したのはエッセイ集『私の美の世界』(新潮文庫)の中の、タイトルもずばり「ビスケット」。今を遡ること10年以上前、私が「布教活動」と称して『銀河ヒッチハイク・ガイド』を貸して読ませた友人のうちの一人が、お返しとばかりに「タオルと紅茶とビスケットが好きならきっと気に入るよ」と言って手渡してくれたのが、この本だった。そして、ミイラ取りがミイラとなった。
森茉莉と言えば、普通はフランス贔屓の耽美派作家として知られる。でも、私の中では秘かに「史上最強のタオルと紅茶とビスケット描写」の作家として、某英国お笑いSF作家と繋がっていたりする。読者なんて本当に勝手、最近発売された『幽界森娘異聞』(講談社)の中で著者の笙野頼子が、森茉莉を「単なる男色専一」(p. 162)扱いしたと中島梓を糾弾されていたけれど、「単なるビスケット作家」扱いしているバカまでいるとは夢にも思われまい。
森茉莉の作品を大別すると、ホモセクシュアルな恋愛を題材としていることの多い耽美派小説の群と、『私の美の世界』や『贅沢貧乏』に代表される随筆の群とがあって、「単なる男色専一」はどちらかと言えば前者、「単なるビスケット作家」は明らかに後者だ。森茉莉のファンを自称する人の中でも、後者は好きだが前者は(高く評価はするが)よくわからん、と言う人は多い。ちなみに私は、「ビスケット作家」呼ばわりしておきながらも彼女の作品は前者も後者も基本的に全部好き。他の作家のやおい系小説にさほど関心はないけれど、でもそれを言うなら他の作家の食に関するエッセイにだってさほど関心はない訳で、結局のところ、食べ物描写だろうが寝台描写だろうが、私は森茉莉の文章そのものに病み付きなのだ。
なお、くだんの引用箇所のうち、「胸や膝にこぼれる」の中の「こぼれる」は原文では漢字だが、通常の漢字変換では出てこなかったので平仮名で書かせてもらった。そう、森茉莉の文章が好き、というなら、引用時の漢字と句読点の扱いには、深く注意しなくては、いけない。そして今週は、これまたダグラス・アダムスと何の関係もなさそうな、アメリカ人映画監督ケヴィン・スミスを関連人物に追加。
ケヴィン・スミスという映画監督が、『ドグマ』という映画のエンドクレジットに、ダグラス・アダムスの名前を挙げているらしい。
と知って、早速ビデオを借りて観た。キリスト教を茶化したコメディ。聖書に詳しい人ならきっと細部ににやりとするのだろうけれど、私の知識では表面的なギャグに笑うくらいが精一杯。それなりに最後までおもしろおかしく観たものの、宗教感といい笑いのセンスといい、一体どこがアダムスに通じるのかについてはどうにもピンとこなかった。
それでも、エンドクレジットにアダムスの名前が出ているというだけで、私はインターネット書店を通じてこの映画の脚本を買った。エンドクレジット代わりに書かれた、わずか2ページ分の序文を除けば、多分一生読まないと思う。
しかし、たとえ2ページでも、チェックに値する箇所のある本はまだマシだ。Kevin Smith の著者名で検索して見つけて、迷った末に購入してしまった、Chasing Dogma (チェイシング・ドグマ、直訳すれば「ドグマを追いかけて」)なる本に比べれば。
タイトルからして、てっきり映画『ドグマ』のメイキング本だと思った。ひょっとして、ひょっとしたら、この本の中でケヴィン・スミスがアダムスについて何かコメントしているかもしれない。万に一つ、いや億に一つの可能性がある限り、買えるものは買っておいたほうがいいんじゃないか。この手の本はどうせすぐに絶版・在庫切れになるだろうし、そうなってから泣いても手遅れだ。
果たして、脚本ともども届けられたその本は、『ドグマ』にも出てくる「ジェイとサイレント・ボブ」というおとぼけコンビを主役にした、オリジナル・ストーリーのアメリカン・コミックだった。
ただでさえアメコミの絵柄はもともと嫌いだってのに。
誰が読むか、こんなもん。とは言え、人の好みは十人十色。
そこで、もしこの文章をお読みの方の中で、アメコミが好きで「ジェイとサイレント・ボブ」が好き、とおっしゃる方がいらっしゃいましたら、当方までメールでお知らせ下さい。1名様に限り、Chasing Dogma をプレゼントいたします。締め切りは2001年10月31日まで。
よろしく。そして今週は、私の無駄遣いの歴史を更に追加公開するのに加えて、結局今に至るも一本も観ていない(ロシア映画祭の日程を勘違いしていて、気が付いたら上映が終わっていた)アレクサンドル・ソクーロフのフィルモグラィーを付け足す。今度こそ、絶対観ようと心に誓いつつ。
『銀河ヒッチハイク・ガイド』コレクションのために、これまで総額いくらのお金を費やしたのか、なんてまともに計算すると気が遠くなるから、日頃は一切考えないようにしている。
それにしても、前回の更新で追加したコレクションのうちの、銀色の2冊は本当に高くついた。写真では分かりづらいが、あの本はページ数こそ少ないものの縦36センチ、横28センチとかなりの大判で、本の表紙に書かれた値段は、イギリス版は25ポンド、アメリカ版は42ドル。それぞれを現地で原価で買ったとしても、日本円にして4500円くらいするのに、私はどちらも日本で買ったから、送料をさらに上乗せした金額を支払った。貧乏性な私は、この2冊に自分がいくら支払ったのかを思い出しただけで気が遠くなる。
2冊のうち、最初に買ったのはイギリス版だった。ある日、銀座に出る用事があったので、ついでに銀座の洋書店イエナに寄った。そこで、新刊コーナーに平積みで山積みされた、デカくて銀色の本が目に飛び込んだが、銀色にてらてらと光が反射してタイトルが読めない。何だこのいかがわしい装丁の本は、と思って近づいて目をこらすとそれが The Illustrated Hitch Hiker's Guide to the Galaxy だった。
レジで財布の中身のありったけを排出しながら、「こんな本をこんなにたくさん日本に輸入しても、買うのは私一人くらいじゃないか」と思った。フルカラーでレイアウトは凝っているけれど、本としては読みにくいこと夥しいし、おまけに高い。この本が日本で何冊も売れるくらいなら、新潮文庫だって絶版にはなってない。日本在住のイギリス人を狙うにしても、売りさばくのは難しいんじゃないか。
案の定、私の不安は的中した。
私が原価プラス送料込みのご大層な金額をはたいて購入してから半年くらい経つと、あちこちの書店の「洋書バーゲン」コーナーで、やたら人目を引くデカくて銀色の本が並ぶようになった。バーゲンコーナーでありながら、相変わらず平積みの山積み状態。恐る恐るバーゲン価格を確認すると、大体3000円、しまいには2000円まで下がっていた。
日本で、送料込みの定価で買ったのは、やっぱり私一人だけだったのだろうか。それから数年後。
インターネットで、当時デジタル・ヴィレッジが管理していたアダムスの公式サイトにアクセスしてみたら、インターネット販売のコーナーが設けてある。ほとんどがコンピュータ・ゲーム『スターシップ・タイタニック』関連の商品だったが、その中に何とアダムスのサイン本まで売られているではないか。
こ、これは欲しいぞ、とクリックして本の画像を開いたところ、出てきたのはただのペーパーバッグでもハードカバーでもなく、例のデカくて銀色のヤツだった??。
サインが欲しけりゃ一番高い本を買え、と言いたいのか。あるいは、サインを付けてでも売らないことにはどうしようもないくらい、日本のみならず世界中にこの本の在庫が溢れているのか?
さすがに、迷った。バーゲンで買えたものを定価で買っただけでも、セコい私としてはかなり損をした気分なのに、この上さらに同じ本を買うか? しかも、イギリスから日本までの送料がきっちりくっついてくるというのに。ヒマをもてあましたデジタル・ヴィレッジの社員じゃなく、本当の本当にアダムス本人がサインしたかどうかだって、分かりゃしないというのに。
さんざん迷って、でも結局買うことにして、ドキドキしながらクレジット・カードの番号を入力して、さらにドキドキしながら待つこと約2週間、届いた本には確かにそれらしいサインが書き殴られていた。この殴り書きのためだけに費やした数千円は、本当の本当にアダムス本人がサインしたかどうかすら分かりゃしないことを考えると、しみじみ高い。
せめてもの慰めは、イギリスに注文したのに届いたのはなぜかアメリカ版、表紙のデザインが微妙に違うので、「全く同じ本を2冊」持つ羽目にならずに済んだこと。と、無理矢理自分を納得させてみても、我ながらあまり説得力がないんですけど。気を取り直して、今回は20世紀の英語文学ベスト100のリストを追加。
前回の更新で載せた20世紀の英語文学ベスト100は、あくまで学生たちが選出したものだけれども、それとは別にプロの編集者、ランダム・ハウス社の一部門であるモダン・ライブラリーの編集部が選出したベスト100というのもあった。このプロ選出ベスト100には『銀河ヒッチハイク・ガイド』は影も形もなかったので割愛したが、取り上げられた作品の違いを比べてみるとおもしろかったので、そう遠くないうちにこのリストも追加したいと思う。ちなみにプロ版には、先日ノーベル文学賞を受賞したV・S・ナイポールの作品もちゃんと2点も挙げられていて、その辺りはさすがにプロの慧眼というべきか。
ともあれ、この2つのリストを最初にざっと流し読みしてみた時、「読んだことがない」はともかく「聞いたこともない」作品や作家がゾロゾロ出てくるのに落ち込んだ。大体、アマ版の第4位、To Kill a Mockingbird からして分からない。何となくどこかで聞いたような気もするが、読んだことがないのは間違いなし、作家の名前にはまったく憶えがないのだから、単なる知ったかぶりと言われれば全くもってその通り、返す言葉もございません。
文学事典を引けば、さすがは第4位、すぐに分かった。『アラバマ物語』。これなら知っている、聞いたことがある。と言っても小説としてではなく、映画としてだけれども。
そこで、またまたオンラインクーポン半額セール中のレンタルビデオ屋で借りて観た。観て、へええ、こういう話だったのか、と納得して、納得した後で納得したことに疑問が湧いた。おいおい、映画を観たからって、原作小説の内容を理解したことになるのか?
なるはずがない。いくら原作に忠実で作られた映画であったとしても、活字から読み取るものと映像から読み取るものが完全にイコールであるはずがないのだ。勿論、私が原作と映画の両方をチェックして、その結果私が両方から同じ主張なり感性なりを感じる、ということは大いにありうるけれど、それは自分で両方を確認した上で初めて言えることである。原作に忠実に映画化、の宣伝文句を鵜呑みにして、映画を観ただけであたかも原作小説をも読んだような気分になるのは勘違いも甚だしい。
と、頭では分かっていても、現実には自分も『アラバマ物語』探しで、書店でも図書館でもなくレンタルビデオ屋に直行しているんだからしようがない。それに、アマ版のリストに出ている作品の中で私が「知っている」と思った本も、実は「映画で観た」だけ、あるいは「映画を観てから原作を読んだ」ものがいかに多いか。そりゃ観てから読んだって、全く読まないよりはマシだけれど、私の場合は本当にきちんと読んだというより単に映画を活字で追体験するだけに終わっているような気がする。あのリストの中のE・M・フォースターの作品なんて、4作とも全部そう。でも、フォースターには申し訳ないけれど、ヘレナ・ボナム・カーターのふくれっつらとジュリアン・サンズの金髪を完全に頭から締め出して『眺めのいい部屋』を読むことなんて、今の私にはもはや絶対に不可能だ。という訳で(どういう訳だか)、今回の更新は無限不可能性駆動装置の創作秘話を追加。
無限不可能性駆動装置の創作秘話の中で、私が「パジャマを着た日本人」と訳した部分は、原典では 'Jap in pyjamas' と書かれている。
この箇所を初めて読んだ時、一日本人のアダムス・ファンとして、私の胸はずきりと痛んだ。
アダムスの真意のほどは分からない。この箇所はアダムスの直接の言葉ではなく、番組の解説者の言葉として書いているので、イギリスの柔道番組で、Japaneseの略称として他意なくJap、Japと言っているのを、アダムスは単に引き写しただけなのかもしれない。その証拠に、この文章の最後に、番組解説者ではなくアダムス自身の言葉として書いているところでは、ちゃんと'Japanese men in pyjamas' と表記されている。
とは言え、アダムスがBBCラジオのプロデューサー、サイモン・ブレットの目に留まるきっかけとなったスケッチのタイトルは、"Kamikaze"。これはもう、どこからどう読んでも大日本帝国空軍を茶化した作品で、別にそのこと自体は構わないのだけれど、"Kamikaze"と'Jap in pyjamas' が合わさると、やっぱり私の心は痛む。親日家であってくれとは言わないけれど、日本やアジア蔑視、というより蔑視していることにすら気付いていないらしい様子を垣間見せられるのは、辛い。
その点、ユーリ・ノルシュテインとアントニオ・ガデスの二人については何の心配もしていない。二人とも公演や講演で何度も来日しているし、性格的にイヤならどんなに金を積まれても来ないだろうし(アダムスも旅行でなら来日したことがあるらしいが)。勿論、二人とも現在の日本のありようについて疑問視したり憂いたりしているだろうが、その底にあるのは差別意識ではなく同胞意識だと思う。ま、それもこれもみんな私の勝手な推測にすぎないけれども。話はズレるが、前回の同コーナーで書いた映画『アラバマ物語』(1962年製作)は、1932年という時代背景で、白人女性暴行容疑のかかった黒人青年をグレゴリー・ペック扮する正義派の弁護士が弁護するという物語である。村人たちが使う言葉を真似て、弁護士の子供たちが「ニガー」と言った時、父親としてグレゴリー・ペックが「ニガーという言葉を使ってはいけない、『ニグロ』と言いなさい」と説いたのには、観ていて思わずイスから転げ落ちそうになった。1962年って、まだまだそういう時代だったのか。ちなみにグレゴリー・ペックは、この「ニグロと言え」と説いた人種差別撤廃主義者役でアカデミー主演男優賞を受賞している。
そして今週の更新は、差別問題ともアカデミー賞とも何の関係もない、『ドクター・フー』コーナーを新規追加。
かつてアダムスが『ドクター・フー』の脚本を書いた、という事実だけなら、新潮文庫の『銀河ヒッチハイク・ガイド』のあとがきにも書かれている。ただし、それを読んだ当時の私は思った。「でも、『ドクター・フー』自体を観る術がないじゃないか」
アダムスが脚本を担当したエピソードでなくてもいいから、一体どんなものなのか観てみたい。映画化された作品が日本でもビデオ発売されたことがあるようだが、そんじょそこらのレンタルビデオ屋でおいそれと見つかるはずもない。しかし、思いがけず図書館で全5冊のノベライズが見つかった。ハヤカワ文庫、エライ、エラすぎる。おかげで、大体のストーリーは分かった。ついでに、敢えて日本でテレビ放映されない理由も分かった。何故って、たいしておもしろくないから。
そのくせ、私は「資料」と称してシリーズ5冊のうち3冊を現在も所有している。とっくに絶版になっていて普通の書店では取り扱っていなかったが、友人と3人で石垣島に旅行している時にふと入った古本屋で見つけたものだ(なぜ石垣島で古本屋かって? 通りすがりに古本屋を見つけた場合、極力店に立ち寄るのが私の習慣、それと言うのも絶版になって久しい『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズを見つけたら、すかさず買い込むためである。なぜ何冊も欲しいのかというと、親しくなった人に「読んでね」と貸したいから。気に入ってもらえればそのままプレゼントするし、気に入ってもらえなかった場合、今度は最後まで読み通せないという理由から、なかなか返却してもらえなくなる。という訳で、ためらわず人に貸すために、私としては『銀河ヒッチハイク・ガイド』は在庫は何冊あっても多すぎるということはない)。その店に『銀河ヒッチハイク・ガイド』はなかったけれど、私としては思いがけない収穫に嬉々として購入した。その時一緒にいた友人たちの視線の冷たかったこと。何たってシリーズ1作目のタイトルは『時空大血闘!』、こんな題の薄汚い文庫本を喜び勇んでレジに運ぶ気持ちは、確かになかなか共感してもらえまい。
でも、活字は活字。観られるものなら、テレビ番組そのものを観てみたい気持ちは残る。その希望は、後に初めてイギリスに旅行した時にあっさり叶えられた。1987年当時、決まった時間にごく普通に放映されていたのだから、当然と言えば当然である。テレビ番組表をチェックして、5分前からテレビの前に座って、高まる期待に胸をふくらませて、そしていざ番組が始まると――
あまりにお粗末な特撮に、開いた口がふさがらなかった。
『ドクター・フー』を観た後には、テレビ版『スター・トレック』が、映画『スター・ウォーズ 特別編』級に見える。全体として、ウルトラマンよりもタケちゃんマンを彷彿とさせる。英語が聞き取れなくてストーリーがわからないとか、そういうレベルの問題じゃない。そ、それでもダグラス・アダムスは、脚本編集者として『ドクター・フー』の特撮技術者の仕事ぶりを見て、自作のテレビ化にゴーサインを出したとか何とか言ってなかったっけ? テレビ版『銀河ヒッチハイク・ガイド』がかくも悲惨な出来なのも、無理はない。
さらにその後、NHKの衛星放送が始まったばかりのほんの一時期に、『ドクター・フー』が衛星放送で放映されたことがあった。まだ自宅に受信チューナーもアンテナもなかったので、友人に頼んで一度録画してもらって改めて観たが、記憶たがわず特撮技術はサイテーだった。日本語吹き替えだったから話も分かったけれど、やっぱりたいしておもしろくない。所詮は子供向けの番組だから、大人が観てそうそう楽しめるものじゃないのだろう、と思ったら、好きな人はとことんお好きなようで、SF作家のハーラン・エリスンはこれを「最高のSF」と言い切っているそうな。
私は、ハーラン・エリスンが書いたSF小説『世界の中心で愛を叫んだけもの』もあまり楽しめなかったクチなので、彼とは本当に趣味が合わないのだろう、きっと。そして今週は、ドクター・フー・コーナーに出てきた「コミック・リリーフ」の説明を追加すると共に、映像世界から活字世界に戻って、アダムスの未訳の小説シリーズ、ダーク・ジェントリー・コーナーを改訂。
ダーク・ジェントリー・シリーズの2冊を読むための最低限の基礎知識として、コールリッジと北欧神話を挙げたのは、私自身が「Coleridege って何?」「Thor と Odin ってどっちのほうが偉いんだっけ?」状態で読んで、ただでさえ分かりにくい話をさらに分からなくしてしまった実体験に基づく。普通のイギリス人、いや少しでも西欧文学に関心のある人なら日本人でもそのくらい知っているのが当然なのかもしれないけれど、どうせ私は知りませんでしたよ。ふん。
一英国詩人はともかく、ギリシャ・ローマ神話やゲルマン神話、北欧神話、ケルト神話といった西欧の神話の知識がないと、英米の小説を読んだり映画を観たりした時に理解できない事柄は多い。だから、最低限の基礎知識はちゃんと持っていたほうがいい、と私も頭では分かっている。ただ、一向に実行に移せない。いや、何度もトライしたのだが、何度読んでも読んだそばから忘れてしまう。この手の知識はディテールが勝負。誰が何の神さまで、何という名の怪物を倒し、誰と結ばれて何という名前の子供が生まれたか。固有名詞をきちんと憶えないことには始まらないというのに、30ページと読み進まないうちにもう登場人物の半分がごたまぜになっている。特に、神話学好きで知られるテリー・ギリアムの大ファンだった一時期(今でも嫌いじゃないけれど、『12モンキーズ』で熱が冷めた)は、神話のどこがおもしろいのかさっぱり分からなくて、「フィッシャー・キングって何?」と思う自分が心底情けなかった。
つくづく、「神話に興味があります」と言える人が羨ましい。
それでも、好き嫌いの問題ではなく最低限の基礎知識を手っ取り早く手に入れるなら、私の推薦は岩波少年文庫。神話の類を知るのに一番厄介な問題はディテールやヴァリエーションが豊富すぎて憶え切れないことだが、これはさすがに子供向け、複雑な枝葉を切り落としてポイントだけを残してくれている。枝葉が命の神話でその枝葉を切り落とすことは、ヘタな書き手にかかると解釈が勝手で一元的になる可能性が出てくるけれど、こういう時だけは「岩波」の権威を盲信しよう。
私は『北欧神話』のみならず『アーサー王物語』でもお世話になった。しかし、たかが小中学生向けの岩波少年文庫版ですら、途中で何度も「この人誰だっけ?」と思った事実を付け加えておく。そして今週は、『銀河ヒッチハイク・ガイド』映画化企画の現状を付け加えるとともに、世界文学における最低限の基礎知識、ホルヘ・ルイス・ボルヘスの有名な短編小説が登場。と言っても、どうせ私はこれまでただの一字も読んだことがありませんでしたとも。ふん。
ボルヘスの短編小説「『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール」についてのアダムスのコメントは、P・G・ウッドハウスの未完の遺作 Sunset at Blandings にアダムスが寄せた序文に書かれていたものである。
いつかこの序文の内容も簡単にまとめて記載したいと思ってはいるが、予定は未定、一体いつになることやら。序文自体はたいした長さではないけれど、ボルヘスどころかもっと正体不明な固有名詞が他にもぞろぞろ登場しているのだ。アダムスとしては腐ってもケンブリッジ大学英文学修士の面目躍如なのかもしれないが、私としてはそれを確認するだけでも面倒なことになりそう。
しかし、英国のユーモア作家について書いた文章の中に、よりにもよってどうしてボルヘスが出てくるのか? その理由について、アダムスは「ここでは敢えて書かないから、自分で(あの短編を)読んで確かめてみて」程度で流している。だから私も敢えてここでは書かない、どうぞみなさんで読んで確かめてください――というのは、半分ウソ。アダムスに言われた通り、「『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール」を読んでみたけれど、ボルヘスの言わんとするところもアダムスの言わんとするところも私にはよくわからなかったというのが、みじめな真相である(要するに、今私がこのサイトでアダムスに対してやっていることの究極行き着く先、という意味か? え、全然違うって?)ただ、この短編が収録された『伝奇集』という本のその他の短編のうちの何本かはとてもおもしろかったし、よくわからなかった「『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール」にしても、私が知らなかっただけで実はとっても有名な小説のようだから、みなさまもよろしければお試しください。読んで損はないでしょう。もっとも、「薦めてくれてありがとう」のメールが私に届くかどうかは大いに疑問。
私としては、どうせ薦めるならボルヘスよりもウッドハウス。こっちのほうが、読んで単純に楽しい。ただ問題は、現在簡単に手に入る翻訳がほとんどないこと。ウッドハウスの代表作ジーヴス・シリーズは、本当に本当に本当におもしろいと思うのに、白水社の『笑いの遊歩道』に短編一本が収録されている程度の翻訳しかないのはどうしてだろう。イギリスでは1990年からグラナダTVでテレビ・ドラマ化され、あのスティーヴン・フライがスーパー有能従僕のジーヴスを、ヒュー・ローリーがアホなご主人のバーティを演じて人気を博したそうで、観られるものならこれも(日本語字幕付きで)観てみたい。そして今週は、前回加筆した「映画化?」コーナーに登場した、かつて映画『銀河ヒッチハイク・ガイド』監督候補だったことがあり、今ちょうど最新監督作品の『エボリューション』がロードショー上映中の、アイヴァン・ライトマンについて。
アイヴァン・ライトマン最新作『エボリューション』を観た。
予告編を観た時、「何てつまらなそうな映画だろう」と思った。アリゾナに落下した隕石に付着していた謎の地球外生命体が、わずか数日で単細胞生物から植物、恐竜、哺乳類へと進化する。このままでは地球の生命体のほうが彼らに駆逐されてしまうかも? この大いなる地球の存亡の危機に、たまたま落下付近に居合わせた若い教授連と政府の科学者が徒手空拳で立ち上がる、という設定のコメディなのだが、これみよがしなCGのクリーチャーが目障りで、役者のわざとらしいドタバタ演技も鼻につく。こんな映画を誰が観るんだ、と思った矢先、ライトマンが監督と知って目の前が暗くなった。誰が観るって、そりゃ他でもないこの私じゃないか。つまらなそうだろうが何だろうが、ライトマンが監督でしかもタイトルが『エボリューション』(進化)ときた日には、観ないで済ます訳にはいかない。
ライトマン映画は、好きじゃない。大ヒット作の『ゴーストバスターズ』すら、ちっとも楽しめなかった。『ツインズ』や『ジュニア』も同様。『6デイズ/7ナイツ』なんて、我が目を疑うくらいつまらない映画だった。でも、『夜霧のマンハッタン』と『デーブ』はおもしろかった。SF的な設定で派手な特撮を駆使して仕上げるコメディよりも、日常的な設定でドタバタ度数が低くて特撮が裏方に徹した作品のほうが、ずっといい――「好きじゃない」映画監督の一人と言っておきながら、実は彼の監督作品は、映画館ではなくテレビでだけど、ほとんど全部観ている。そしてその理由は、ただもう彼の映画監督人生のある一時期がダグラス・アダムスとクロスしているから、この一事に尽きる。
ライトマンとアダムスが意気投合したというならまだしも、まさに「物別れ」な関係であるのに、それでも1984年以降のライトマンの動静が気になるのは、我ながらかなり偏執的だ。でも、「SFコメディ」という素材に対してアダムスと対極的なアプローチをする人の作品というのは、逆説的にアダムスの作品の性質を探るための、格好の素材となり得るのではないかと思う。ましてや、今回の映画の主題がアダムスの大好きな「生物進化論」ときた日には。
そんなこんなで、映画館まで赴き、パンフレットまで購入した次第だけれども。
最初から、映画作品としてのおもしろさはほとんど期待していなかったので、とりあえず何とか最後まで座って観ていられただけでも敢えて「上出来」と言いたい。おまけにこの映画には、これまで私がライトマンのコメディ映画を観て「これのどこがおもしろいの?」と思った、すべての要素が含まれている。アメリカのアホな大学生の悪ふざけがすべてを救うという展開(『アニマル・ハウス』)、かわいくて実は怖いモンスターを派手な特撮で何体か登場させればとりあえずOKという発想(『ゴーストバスターズ』)、そして中学生レベルの知識しかない私をして遺伝学や生物学の基本中の基本を踏み外しているとしか思えない物語の骨子(『ツインズ』)。ほらね。
パンフレットによれば、ライトマンはクリーチャー製作にあたって「科学的な誤りがあってはダメ」とのたもうたそうな。グールドの『ワンダフル・ライフ』(早川文庫)の表紙に描かれた生物そっくりなのを作っておけば、それで最新の生物学を盛り込んだも同然とでも考えたのだろうか。もしグールドとドーキンスがこの映画を観たなら、仲が悪い、もとい生物進化論に関して見解を異とすることで知られる二人の生物学者も、この映画の生物進化論が根本的に大間違いであるということだけには意見を一致させるのではないかと私は思う。そして今回の更新は、世界進出の方法はハリウッドでの映画化のみにあらずということで、『銀河ヒッチハイク・ガイド』の各国語への翻訳状況について。
追伸・東京では夏からずっとロングラン上映されていた映画『チェブラーシカ』が、いよいよ11月30日(金)で終了するとのこと。まだ観ていない方は、お急ぎあれ。
世界30カ国語以上に翻訳されている小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』。そのうち、現在私は、フランス語訳とドイツ語訳とイタリア語訳とスペイン語訳とスウェーデン語訳を持っている(あ、日本語訳もあったか)。
一番最初に手に入れたのは、フランス語訳だった。友人と二人でヨーロッパを旅行中、パリに3日間滞在した時に見つけたものだ。『銀河ヒッチハイク・ガイド』がフランス語に翻訳されていることは知っていたから、パリが3度目だった私の友人はともかく、私自身は花のパリを初めて訪れたというのに、ルーブルにもモンマルトルにもシャネルにもルイ・ヴィトンにも寄らず、本屋のSFコーナーばかりを探索していた。パリならきっとまた来るだろうから、普通の観光はその時でいいや、と当時の私は考えていたけれど、結局それ以来一度もパリには行っていない。
次に手にいれたのは、ドイツ語訳。これは家族で、成田空港集合解散の、ほとんど三食付きの、町中で半日自由行動がついている類の、南ドイツ周遊ツアーに参加した際に購入した。ドイツ語訳があることも知っていたから、ほんのわずかの自由時間のすきに、ドイツ語なんざ一言半句理解できないくせに、本屋という本屋に片端から駆け込む私の姿が他のツアー客の目にどう映っていたにしろ、幸いドイツでは『銀河ヒッチハイク・ガイド』は本当に人気があるようで(空港の狭いペーパーバックの棚にすら置かれていたくらい)、8日ばかりの短い旅程の間にシリーズ4作を簡単に手に入れることができた。
続いてスウェーデン語訳も、やはりパックツアーで母と一緒にスウェーデンを訪れた時に見つけた。この時のツアーは北欧三カ国(スウェーデン・ノルウェー・デンマーク)を8日間でめぐる旅で、この時点ではそれぞれの言語の訳が出版されているかどうか知らなかったから、「見つかったらいいな」くらいの気分だったけれど、一番最初に着いたストックホルムの大きな本屋でウィンドウに飾られた、シリーズ全5作収録のスウェーデン語訳のハードカバーをあっけなく発見。いくら荷物の持ち運びの楽なツアー旅行だからって旅の最初からそんなものを買って持ち歩くことに抵抗がなかったと言えば嘘になるけれど、だからって買わずにいられましょうか? もっとも、この先ノルウェー語訳やデンマーク語訳が見つかったどうしよう、スーツケースに入るかな、などといった楽しい心配はすべて杞憂に終わった。出版されていることを知っていたなら、もっと目の色を変えて探したかもしれないけれど、逆に知らなかったおかげで普通の観光に精を出すことができたとも言える。
残るイタリア語とスペイン語は、私の友人がミラノとバルセロナを訪れた時に探し出しくれた。私がパリやミュンヘンやストックホルムの本屋で買った時のように、店の棚に並んでいるのをただ見つけてレジに持って行っただけではなく、本屋の店員に話して、まさに「探し出してくれた」。友人は海外旅行慣れしているが、イタリア語とスペイン語はほとんど話せない。想像してほしい。バルセロナの本屋で、決して流暢とは言えない英語で、「原語(英語)の『銀河ヒッチハイク・ガイド』ではなく、スペイン語に訳された『銀河ヒッチハイク・ガイド』が欲しい」と、スペイン人の店員に伝える苦労を。スペイン語なんか全然できないくせに、なぜスペイン語の『銀河ヒッチハイク・ガイド』なんかが欲しいのかを、日本人に日本語で説明することだって難しいというのに!
げに、持つべきものは友である。
願わくば、我が友が次はフィンランドかイスラエル辺りを旅行してくれますように(え、何か違う?)。そして今回の更新は、かくして手に入れたコレクション5点の追加と、何とこの12月4日から銀座で上演されるらしい、『神の言葉』というお芝居について。
現在銀座で上演中のミュージカル、『ゴッドスペル』。迷って迷って迷った末に、今日になってチケットを買った。実際に観るのは今度の週末。
ミュージカルは結構好きだ。観光でロンドンに3回、ニューヨークに1回旅行した時は、タイトな日程の合間に2、3本は観た。日本でも何だかんだで年に1本くらいは観ている。そう、思いおこせば今年は8月に『フォッシー』を観たっけ。
なのに『ゴッドスペル』に関しては、腰が重かった。キリストの半生をコミカルに描いたオフ・ブロードウェイのロック・ミュージカル、といわれても、キリスト教にもロックにも思い入れのない私は食指が動かない。大体、どちらかと言えばシックなオフ・ブロードウェイよりも、ごってり金のかかったロンドンのウェストエンド・ミュージカルのほうが好きだ。何たって、これまで観たミュージカルの中で私が一番好きなのは、ロンドンはハー・マジェスティック劇場の『オペラ座の怪人』ときている(ニューヨークでも観たけれど、劇場はロンドンのほうがずっと「それっぽい」)。多分『ゴッドスペル』は、私がニューヨークで観たもののあまりピンとこなかった、『RENT』あたりが好きな人向きの作品なんだろうと思うと、ますます気乗りがしなかった。
でも、観てもいないくせにあれこれ言うのは間違っている。何か言いたいなら、たとえ見当はずれなコメントであろうとも、せめて観てから言うべきである。おまけに日本初演だというし、ここで6800円というチケット代に腰がひけたままに終わっては、『銀河ヒッチハイク・ガイド』マニアの名がすたる。我ながら、相当ヘンな意地だと思わないでもないけれど。
ちなみにフォードが脚本を持っていたというもう一つのミュージカル、『ジョセフと素敵な総天然色の夢衣』のほうは、舞台を観たことはないけれどCDは買った。アンドリュー・ロイド・ウェバーらしいわかりやすい音楽と、ティム・ライスらしいわかりやすい歌詞。でも劇団四季あたりで上演されることに決まっても、観に行くかどうかは微妙なところだ。チケット代と、その時のスケジュール次第か。
個人的には、ロイド・ウェバーがP・G・ウッドハウスの世界をミュージカルにした、By Jeeves をものすごく観てみたいのだけれど、日本での上演を期待するにはマイナーすぎる?そして今回の更新は、ロンドンでもニューヨークでもなく、もっとマイナーな地名を集めた辞典の話。
2001.12.15. ではよいお年を、そして来年もよろしく
私の友人は、ミュージカル『RENT』の大ファンである。ニューヨークに行った時に一緒にブロードウェイでも観たが、友人はとりわけ日本で上演された日本語版が大好きで、既に計4回も観に行っている。そして、いかにこれまでの輸入ミュージカルと違って役者が巧くて素晴らしいかを何度も熱く語ってくれたが、ブロードウェイ版でも乗り切れなかった(というか筋もよく分からなかった)私はへー、そうなんだと右から左に聞き流すだけで、敢えて日本語版をご相伴しようとは思わなかった。
さて、このたびの『ゴッドスペル』で、チケットを買うか買わないかでさんざん悩んでいた時のこと。新聞で、このミュージカルの主役が日本語版『RENT』に出ていた役者であることを読み、早速友人にお伺いを立ててみた。「山本耕史って役者、知ってる?」
すると友人いわく、「山本耕史が出るなら、ハズレじゃない」。さらに続けて、「山本耕史が出るなら、一緒に行ってもいいよ」。
そして昨日、二人揃って観たのだけれど。
友よ、あなたの言葉は正しかった。
あの芝居で、もしキリスト役が山本耕史でなかったなら、およそ観ちゃいられない代物になっていた可能性はあまりに高い。他の役者がヘタだったという意味ではない。いくら明るくコミカルなトーンで描かれていても、芝居の内容はあくまでキリスト教の説教そのもので、それを当然の倫理と受け留めているキリスト教徒ならともかく、無神論者も同然の私にとっては宗教臭さと説教臭さ、それにキリスト教万歳の排他主義が加わっておよそ鼻持ちならない、とミュージカルの善し悪し以前に拒絶反応を起こしていても不思議はなかったからである。本当に、宗教臭と説教臭の大嫌いなこの私が、素直に楽しめたことのほうがよっぽど不思議なのだ。そしてその奇跡を起こしたのが、ひとえに山本耕史という役者の良さだった。
という訳で、劇場を出るなり友人に言った。「今度日本語版『RENT』の再演が決まって彼も出演するのなら、私も行くから絶対誘って」
我ながら、とってもとっても現金だと思う。ところで、前回追加更新した『新・地名辞典』は、実はきちんと読んだことがない。ホームページに載せるにあたって、パラパラっとめくって、読めそうなものだけを読んで、辞書を引くまでもなく簡単に訳せそうなものを3つばかり見つけて、それでおしまい。もともと、最初から最後まで丹念に読むというよりは、おもしろそうな箇所を拾い読みしていく類の本だとも思うけれど、もう少しきちんと読んで具体例をあと何点か訳出したいと考えている。まあ、これも他の企画と一緒でいつになったら実行に移すのか、我ながら甚だ怪しいのだけれど。
それから、先月末でとうとう都内ロードショー上映が終わってしまったアニメーション映画『チェブラーシカ』が、12月29日から吉祥寺の映画館でレイトショー上映されることが決定したらしい。吉祥寺近辺にお住まいの方でまだ観ていないという方は、この機に是非ともご覧あれ。かわいくてやさしくてやがてじんわり切なくて、2001年の締めくくりにも2002年の幕開けにもふさわしい一本だと思う。
そして今週の更新は、ネタに詰まった時のためにとっておいた、トピックス3本(「わたしの前で生命のことは言わないでください」、ヴォゴン人、電話消毒係)を一挙放出。
と、すっかり手持ちの在庫が切れたところで、来週からまたまた一足お先に冬休みに突入します。次回の更新は、ちょうどこのホームページの一周年にもあたる、約2ヶ月後の2月15日(土)で、今度こそ大幅リニューアルを敢行する予定。
それではみなさま、よいお年を。
そして、2002年もよろしく。