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更新履歴・裏ヴァージョン(2003年)

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目次


2003.2.15. 2003年を始める前に
2003.2.22. スキャナが我が家にやってきた
2003.3.1. ハイド・パークを選んだ理由
2003.3.8. 考古学とサイエンス・フィクション?
2003.3.15. SF入門
2003.3.22. ロシア語入門
2003.3.29. この憂鬱な日々
2003.4.5. 私は捨てられない
2003.4.12. エイゼンシュテインとアニメーション
2003.4.19. 締め切りとの闘い
2003.4.26. 最後の晩餐
2003.5.3. クリケットと階級問題
2003.5.10. 分かる/分からない
2003.5.17. 幻の6作目
2003.5.24. お宝自慢4、あるいは更なる無駄遣いの記録
2003.5.31. ドン・キホーテを手放した男
2003.6.7. 君は80パーセントの空席に耐えられるか?
2003.6.14. ラジオ・ドラマを舞台化
2003.6.21. アイマックス・シアターの思い出
2003.6.28. 紅茶の話
2003.9.6. お引っ越し
2003.9.13. イズリントンの地図を作るには
2003.9.20. フィレンツェ・イスタンブール・ニューヨーク
2003.9.27. ハネムーン・アイランド?
2003.10.4. 南仏プロヴァンスで数か年
2003.10.11. 前略 ピンカー殿
2003.10.18. 新刊ラッシュ
2003.10.25. ジョナサン・プライスについて
2003.11.1. スペイン国立バレエ団ヴァージョン
2003.11.8. 最新ニュースがいっぱい
2003.11.15. 宇宙船タイタニックの悲劇
2003.11.22. 宇宙船タイタニックの悲劇ふたたび
2003.11.29. プリーストの「魔法」
2003.12.6. ノルシュテインを追いかけて
2003.12.13. 「冬の日」に想う


2003.2.15.  2003年を始める前に

 早いもので、このホームページもいよいよ3年目に突入。
 今年も毎週土曜日更新を目指して奮闘いたしますので、何とぞよろしくお願いします。

 さて、いよいよ2003年の更新を始めるにあたっては、まず昨年1年を振り返る必要があった。というのも、ちょうど1年前に「My Profile」コーナーを新設した時に「2001年のマイベスト」なるものを載せたからで、となると当然今回の更新では「2002年のマイベスト」を選出しなければならない。
 ホームページで公表という形をとったのは2001年が初めてだが、私の頭の中や友人との会話の中では以前から「今年公開の映画ベスト3」を自主的に選んではいた。映画の出来不出来はともかく、私個人が気に入ったか気に入らなかったかだけを重視して決める、とびきり私的な作品選択。どんなに立派な映画でも自分が気に入らなかったら零点をつける、という観賞態度は、プロの映画評論家は原則としてやってはいけないことだと私は思うが、言い換えればそれができることこそが、映画評論でお金もうけをしていない一介の映画好きであることの醍醐味だとも思う。そういう訳で、昨年末から今年にかけて、2002年公開の映画ベスト3は何にしようかさんざん楽しく悩んだ末に出した結論は、「My Profile」コーナーの通り。第1位と第2位は、どちらを上にしようかで迷い、第3位は私が昨年映画館で観た唯一の日本映画『ピンポン』とどちらにしようかギリギリまで考えた(なお、『ロード・オブ・ザ・リング』は三部作で一本と考え、選外と見なす)。
 映画のベスト3に頭を抱えたのに対して、小説のベスト1を選ぶのにはほとんど迷いはなかった。そもそも、観たいと思う新作映画はたいていロードショー館に足を運ぶけれど、新作の小説は必ずしも発売と同時に買って読む訳ではない――と言うより、私が一年間に読む本のほとんどは2002年に発売された新刊本ではない。2002年発売の本で、私が2002年内に読んだ本、となると既にその時点で冊数は限られてくる。J・G・バラードの『コカイン・ナイト』(新潮社)がいかにおもしろかろうとも、実際に私が読んだのが2002年の1月だろうとも、本の発売が2001年12月である以上は、候補に入れることはできない。できないも何も、そもそもルールを決めるのは私なんだから入れたってかまいはしないのだが、その線引きを緩めると際限がなくなりそうなので、ここは厳密に法を遵守することにする。
 それでも、2002年も終わりに近づいて、いかにも私が気に入りそうな新刊小説が何冊も出版され、中でも12月に発売されたマーガレット・アトウッド著『昏き目の暗殺者』(早川書房)は本当におもしろかったのだが(さすが、2001年のマイベスト小説、カズオ・イシグロ著『わたしたちが孤児だった頃』を蹴落としてブッカー賞を取っただけのことはある)、ベスト1の座を奪い取るには至らなかった。
 さて、2003年は一体どんな新作に出会えるだろう。映画なら、勿論『ロード・オブ・ザ・リング』の続きや『マトリックス』の続きも人並みに気になるけれど、でもやっぱり今の私が一番気になるのは、ダグラス・アダムスの「最新ニュース」コーナーにも書いた、『宇宙船レッド・ドワーフ号』の映画化の行方である(『銀河ヒッチハイク・ガイド』の映画化の行方については、もう考えないことにする)。いやはや、1月25日に発売されたテレビ版のDVD-BOXのおかげで、この数週間というもの一日最低1時間はテレビの前で笑い転げていた。我ながら、幸せな人生である。公式サイトのニュースによると、製作予定は遅れに遅れて現時点では公開予定は2003年12月にまで延期されたとのことだが、何とか今年中には完成しますように。
 そして、さらに肝心なことだが、どうかこの映画版が日本でも(2004年になってからでもいいからちゃんと日本語字幕のついた状態で)劇場公開されますように。

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2003.2.22.  スキャナが我が家にやってきた

 昨年末も押し迫った頃、年賀状制作の必要にかられて新しいプリンタを購入した。
 これまで使っていたプリンタは友人からタダで貰ったもので、何の支障もなく動いていたがいかんせん型が古く、USB接続ではないので私の新しいiBookに繋ぐことができない。幸い、別の友人がそのプリンタを欲しいと名乗り出てくれたため、渡りに船とばかりにそれを差し上げて、心おきなく自分用の新しいプリンタを買いにパソコンショップへ出かけていくことにした。
 私が自宅にパソコンとプリンタを持つようになって、はや7年になる。が、パソコンは買ったことがあっても、プリンタを買うのは実はこれが初めてだった。要するに、プリンタに関しては人様から譲り受けてばかりいたという次第。そのため、パソコンショップに着いて初めて、自分がプリンタの相場や機能にまったく無知であることに気が付いた。
 私が新しいプリンタに望むことは、USB接続であることと、ハガキ印刷ができること、とりあえずその二点である。が、そんなことなら、今どきのパソコンショップに置かれているすべてのプリンタで実行できる。ならば、一番安いのにすればがいいかというと、あまり安いのもそれはそれで何か思いがけない落とし穴がありそうで不安が残るし、かと言ってどうせたいした印刷もしないのに高画質・高価格のプリンタを買っても勿体ないだけだ。おまけに、どれも基本的にパソコンに繋いで印刷するしか能のないマシンなのに、本体のサイズにかくも違いがあるのはなぜだ? しかし、年賀状発送の期日は迫っており、いつまでもぐずぐず迷っている時間はない。さて、どうしたものか。
 結局私が購入したのは、プリンタのみならずスキャナとコピー機能までついた、ヒューレット・パッカード社の新製品だった。スキャナ機能なんてこれっぽっちも考えてもいなかったくせに、唐突に購入を決めた理由の一つは、年賀状シーズンのため店頭に営業に来ていた本社派遣のおねえさんの熱心さにほだされたから。私はテレビショッピングや訪問販売には冷淡だし、セールスマン相手に義理買いをすることも滅多にない(いや、滅多と言わず、いまだかつて一度もない)が、電気屋で熱心に商品説明してくれる人にはちょっと弱い。これはやはり、日頃電気屋でつれなくあしらわれている反動であろう(2002年9月21日付の同コーナー参照)。
 ともあれ、こうして思いがけず(?)我が家にやってきたスキャナとコピー機能は、いざ使ってみるととても便利で重宝している。これまでデジタルカメラで撮影して加工・掲載してきたコレクション・コーナーの画像も、スキャナを使えばもっとスムーズに、かつきれいに仕上がるに違いない。さらなるコレクションの追加のみならず、今アップロードしているみっともないコレクション画像も、そのうちまとめて差し替えるつもり。
 また、前回の更新でノルシュテイン・コーナーを大幅リニューアルするにあたっては、スキャナで取り込んだ画像を、著作権問題に対するささやかな言い訳として、誰かが他で転用するには不向きなくらいまで縮小した形で使用させていただくことにした。その結果、何が何だかよくわからない写真になってしまったような気もするけれど、ノルシュテインのアニメーションを全く見たことのない人にも、何となく作品の雰囲気は伝わるのではないかと思う。

 そして今週の更新は、やはり前回の更新で追加したアダムスの関連地図(これを作るにあたっても、やっぱりスキャナにお世話になった)に登場する地名、UK Map のブレントウッドと、London Map のフェンチャーチ・ストリート駅についての説明を追加。

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2003.3.1.  ハイド・パークを選んだ理由

 フェンチャーチは、「どうすれば世界が幸せで立派な場所になるか、ついに悟った」(『銀河ヒッチハイク・ガイド』、p. 6)、あの少女である。破壊されなかったもう一つの地球に戻ったアーサーが一目で恋に落ちる、『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズ4作目の要となるキャラクターである。そのフェンチャーチが、なぜ「主要キャラクター紹介」のコーナーではなく、ただの「Topics」コーナー扱いなのか?
 私も、多少迷った。
 最終的に「Topics」コーナー扱いに決断した理由は二つある。一つは単純に、フェンチャーチについて私に書くネタがあまりなかったから。それからもう一つは、続くシリーズ5作目では、彼女は登場する機会すら与えられていないから。フェンチャーチについて、膨らませて書きたくても書くネタがない、と思ったのはどうやら私一人ではないようだ。
 ともあれ、少なくとも4作目ではアーサーとフェンチャーチは恋人同士である。そして、London Map の「ハイド・パーク」欄でも書いたように、二人はハイド・パークでデートする。未訳の4作目を読破された方ならご存じの通り、二人はイズリントンにあるフェンチャーチの家を出て公園に向かう。
 しかし、イズリントンから行くとすれば、距離的にはハイド・パークではなくリージェンツ・パークのほうがずっと近い。地図で見る限り、歩いて行こうと思えば行けるくらいだ。実際、登場人物の大半がイズリントン住まいという設定の小説(あるいは映画の)『アバウト・ア・ボーイ』では、遠足の行き先はリージェンツ・パークになっていた。そのほうが自然だと私も思う。なのに、なぜアーサーとフェンチャーチはわざわざハイド・パークまで遠出をしたのだろうか。
 何年か前に、私は両方の公園に実際に行ったことがある。日本人の私の目には、どちらもカップルがそぞろ歩きをするには申し分のない、大変結構な場所に見えた。数年前のすこぶる怪しい記憶を頼りに、敢えて二つの公園の違いを述べるなら、ハイド・パークが大樹に囲まれただだっぴろい芝生一辺倒だったのに対し、リージェンツ・パークのほうは薔薇の垣根や花壇や動物園やらがあって、もう少し変化に富んでいたような気がする。個人的な好みではリージェンツ・パークに軍配を上げるが、アダムスの意見は反対らしい。
 ハイド・パークにあってリージェンツ・パークにないものは何だろう。正直に言って、私にはよく分からない。ちなみにアヒルのいる池ならば、どちらの公園にもある。
 ――と、ここまで書いた数時間後、次週以降の更新ネタの準備をしていて、思いがけずアダムスがあの小説の中でハイド・パークを選んだ理由とおぼしきものが見つかった。絶対、とは言い切れないけれど、ものすごくもっともらしい。でも、本当にこれがその理由だったとしたら、知らないほうが良かったかも、という気がしないでもない。
 という訳で、何であろうと真実をこそ見据えるべし、とお考えの方だけ、下記の「答え」をクリックしてください。宇宙には知らないほうが良いこともある、とお考えの方は、決してクリックなさいませんように。

答え ←後悔しても知らないよ。

 気を取り直して、今週の更新内容は、UK Map のほうに登場する地名「ボーンマス」に関連している。
 UK Map を作るに際して、「ボーンマス」という町の様子や歴史が書かれたガイドブックはないかとあれこれ探してみたものの、さっぱり見つからなかった(ボーンマスのご近所で、名前の響きもよく似ている「ポーツマス」ならば、どのガイドブックにも町の地図付きで説明されているというのに)。ということは、ボーンマスはそこらのガイドブックには取り上げてもらえないような、何の変哲もない地味な町なのかと思ったら、実はこんな大学があってこんなイベントが行われていたとは。

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2003.3.8.  考古学とサイエンス・フィクション?

 考古学とサイエンス・フィクション。何とも奇妙な取り合わせだが、『ポップ・カルチャー発掘 考古学とサイエンス・フィクション』という本をインターネット書店で取り寄せたおかげで、「理論考古学」というこれまた何だかよく分からない学問領域の一端ではこういうのもアリなんだ、ということだけは分かった。が、この本にアダムスが寄せた序文だけ読んでも、どうして考古学とサイエンス・フィクションなのかはよく分からない(単なる私の英語力の問題だったらごめんなさい)。
 勿論、この本に収録された論文をちゃんと全部読み通せば分かるのだろう。問題は、今の私にそんな根性がないというだけのことである。一応、編集者のマイク・ラッセルが本の冒頭につけたイントロダクションにだけは目を通したものの、やっぱり分かったような分からないような。
 読まないまでも本をパラパラめくってみると、映画『インディ・ジョーンズ』の写真やらUFO目撃写真やらに混ざって、1930年代から1960年代のアメリカで未来をイメージしてデザインされた、実用的というよりはSF映画のセットのような建築物の写真も出ている。ケネディ空港の写真の下につけられた「モス・アイズリー、それとも国際空港?」というキャプションも楽しい(モス・アイズリーとは、『スター・ウォーズ』に出てくる宇宙港のこと。ルークとオビ・ワンが初めてハン・ソロの宇宙船ミレニアム・ファルコン号に乗り込む、あの宇宙港である。『スター・ウォーズ』は私も好きだ)。このように、過去において「来るべき未来(21世紀)」と考えられていたものと現実の21世紀とのズレを探るのだとしたら、「世界が衝突するとき――考古学とサイエンス・フィクション」というセッションは確かにおもしろい試みかもしれない。
 この手の建築物の写真を見ると、私は反射的にSF作家ウィリアム・ギブスンの短篇小説「ガーンズバック連続体」("The Gernsback Continuum", 1981)を思い出す。ギブスンは私でも読める数少ないSF作家のうちの一人で、この短篇小説は彼の作品の中でも私がとりわけ気に入っているものの一つである。白状すれば、私はこれを読んでちょっと泣けた。短編集『クローム襲撃』(ハヤカワ文庫)に収録されているので、興味のある方は本屋で拾い読みでもしてみてください――もっとも、『ポップ・カルチャー発掘 考古学とサイエンス・フィクション』の巻末についている参考文献一覧に「ガーンズバック連続体」が載っていないことを思えば、この学会と短篇小説の内容はまるで別物だという可能性は高いが、だとしたら私が誤読しているのは『ポップ・カルチャー発掘』か、それとも「ガーンズバック連続体」のほうか?
 ちなみに、「ガーンズバック連続体」を読んで泣いた、という人を、私は今のところきいたことがない。

 そして今週の更新は、私の嫌いなSF作家、ブライアン・W・オールディスデイヴィッド・ウィングローブについて。なぜ嫌いなのかは、お読みいただければすぐにご納得いただけることでありましょう。

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2003.3.15.  SF入門

 週に一度の更新内容の中には、この「更新履歴・裏ヴァージョン」ばかりか「更新履歴」にもいちいち記載しないような、些末な更新がある。たいていは「参考文献」の追加とか「関連人物一覧」に出ている映画監督の新作映画の追加といった類のもので、そんなものまでいちいち「更新」と記していたら煩雑で仕方がないから省略していた。
 その手の省略された更新内容の一つに、アダムス・コーナーの「Who is Douglas Adams?」に『銀河ヒッチハイク・ガイド』が『SF入門』(早川書房)という本の中で、日本SF作家クラブが選ぶSF小説「オールタイム・オールジャンル・ベスト一覧」海外篇の第34位に選出された旨のお知らせもある。本当ならアダムス・コーナーの先頭ページ、「最新ニュース」コーナーにでも載せて大々的に宣伝したかったのだが、私がこの本の存在に気づくのがあまりに遅かったため「ニュース」と呼べる時期を逸してしまった。そういう本が出ていたことは知っていたが、付録のタイトル名索引にも作家名索引にも出ていなかったため、友人に指摘されるまで見過ごしていたのである。まったく何という不覚。
 この『SF入門』が出版されたのは2001年12月で、ということは当時はまだ邦訳の『銀河ヒッチハイク・ガイド』は絶版になったままだったはず。にもかかわらず、34位に入るというのはなかなかたいしたものではないか。なお、『SF入門』は今でも普通に書店で購入できる本なので、第1位から第40位までのリストをつけるのも著作権云々を考えるとあまり好ましいことではないのかなと考え、私のホームページでは現時点では敢えて記載しないことにした。気になる方は、どうかご自分で実物の本を手にとってご確認ください。
 ちなみに、第1位は例によって例のごとく、ロバート・A・ハインラインの『夏への扉』。相変わらずこの小説のどこがいいのか私にはさっぱり分からない。主人公が逆恨みをするのは勝手だが、せめてそれに猫を巻き込むのはやめていただきたいというものだ。「SFが好きだっていう人間で、『夏への扉』を読んだけど、気に入らなかった人ってのは、ちょっと思いつかないな。」(p. 150)だって? だとしたら『夏への扉』が嫌いな私は、やっぱりSFなんか大嫌いだ。
 さらに『夏への扉』に次いで第2位に輝いたのは、他でもない私の宿敵、ブライアン・W・オールディスの『地球の長い午後』。やれやれ。
 私がこの小説を手に取ったのは、『一兆年の宴』を知る前だったので、一応余計な偏見なしに読んだけれど、何が気にくわないんだか自分でもよくわからないが何とはなしに気にくわないな、というのが正直な感想だった。後に『一兆年の宴』を読んで、逆にその直感的な不愉快の理由がわかった。何だ、オールディスも「SF愛好家」畑の住人だったんじゃないか。出来の善し悪しは別として、SF愛好家がSF愛好家に向けて書く「内輪ウケ」ジャンル小説に、ジャンルSF嫌いの私が不快感を感じたのは当然である。
 そして、逆に『ポップ・カルチャー発掘』に寄せたアダムスの序文を読むと、オールディスがアダムスを嫌悪した理由がよくわかる。「サイエンス・フィクションのどこが好きかと言えば、まあ私が知っているのはほんの一角だけだけれど、お馴染みの事物を馴染みのない視点で見ることで、事物に対する新たな認識をもたらしてくれるところである」「異星人やロボットや宇宙船は、そのために利用される一連のフィクション上の道具立てに過ぎない。これらフィクション上の道具立てを、文字通りに捉えるようになるのは危険だ」。オールディスに言わせれば、SFというジャンルが培ってきた異星人やロボットや宇宙船というアイディアに対して、愛も敬意も抱かずただの「道具」扱いし、そのくせ美味しいところ取りをして金儲けをするとは何事だ、というところだろう。まあ、その気持ちもわからなくもない。
 かつて、バリントン・J・ベイリーというSF作家は「世界にはSFを理解できる者と、どうしてもできない者とがいる」と言った。SF的、という言い回しすら死語同然となった「未来」の21世紀に生きる人間として、私はベイリーの言葉を「世界にはSFというジャンルに愛と敬意を抱く者と、どうしても抱けない者がいる」と言い換えたい。電話がハイテクノロジーでないのと同じレベルでコンピューターも単なる家電と化してしまった現在、その作品がSFかどうかを問うのはもはやあまり意味がないように思えるかもしれないが、それでも頑として「SFっぽい普通小説」と「SF小説」の違いがあるとすれば、それはもう書き手にSFというジャンルに対する愛と敬意があるか否かの差だと思う。オールディスやベイリーにはそれがあるし、アダムスや私にはほとんどない。
 もっとも、「『銀河ヒッチハイク・ガイド』考」を書いた当時の私に比べて、今の私はジャンルSFに対する反感は随分と和らいだ。また、私の気持ちの変化以上に、この10年ばかりの間にかつてのような確固としたジャンルSFのほうが自然消滅しつつあるようにも見える。詳しい事情は知るよしもないが、SF作家大原まり子のエッセイ「SFの呪縛から解き放たれて」(巽孝之編『日本SF論争史』収録)には大賛成。「わたしにとって、SFとは、まず一番に、『世界のあり方の認識を変更させるもの』」(p. 366)。何のことはない、アダムスの「お馴染みの事物を馴染みのない視点で見ることで、事物に対する新たな認識をもたらしてくれる」とまったく同じじゃないか。さらに、「反省を込めて書くが、いちど、SFファンを自認する人は、「仲間」と「仲間でない者」を、SF的トピックスによって分別していないかどうか、確認してみた方がいいのではないか」(p. 367)。ほらね。
 なお、大原まり子の小説は、随分前に『ハイブリッド・チャイルド』を読んで、意味がよくわからないながら話の展開と文章のかっこよさにクラクラした記憶だけがある。せっかくだから、近い内に今度は『戦争を演じた神々たち』を読んでみよう。

 SFなんか嫌いだ嫌いだと言っている割にはSF小説や評論のタイトルだらけの文章になってしまったけれど、気を取り直して今週の更新は、アダムスではなくノルシュテインの「読書のすすめ」(ノルシュテインはレムの『ソラリスの陽の下で』を読んだことはあるのかな?)。それから、ノルシュテインの最近の作品の解説も追加。

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2003.3.22.  ロシア語入門

 前回の更新で新設した「ノルシュテイン語録」のコーナーは、単にノルシュテインの言葉を列記しただけで、他のどのコーナーにもまして加工度の少ない、言い換えれば「芸のない」コーナーだけれど、せめて記載するにあたっては、普通の人があまり持っていない、わざわざそのためだけに買ったりしないと思われる雑誌媒体から引用することにした。という訳で、2001年度版『NHKテレビ ロシア語会話』のご登場である。
 もう一つの、『ロシア語会話』に輪をかけてマイナーな『映画テレビ技術』という雑誌は、たまたま私が社団法人日本映画テレビ技術協会の準会員である(と言っても、私は映画やテレビの仕事なぞまったくしていない。準会員は年会費さえ払えば誰でもなれる)ため毎月自動的に送られてくるもの。雑誌の内容の大半は、タイトルから想像される通りカメラだのレンズだのといった技術的な事柄なので、私にも読めるところはほとんどないが、そんな雑誌にラピュタアニメーションフェスティバルの取材記事を見つけた時は、まさに「準会員をやってて良かった!」な瞬間だった。

 2002年から見始めたNHKテレビのロシア語会話も、残すところあと2回。1年間続けて見ていればそのうち憶えるだろうと思ったロシア文字は、結局今日に至るもまだきちんと憶えていない。仕事とは言え、ちゃんとロシア語の筆記体やスペルや動詞の活用まで憶えている生徒役のあんじはエライ。あんじが毎週披露するロシア語手作り小物シリーズも、出来上がった作品そのものより、ヘンなロシア語のフレーズをもとに何かもっともらしい小物をひねり出さねばならない大変さのほうに、週に一度のホームページ更新を旨とする身としてはとても共感できて興味深かった。
 あんじがいなくなるのはさみしいが、それでも『NHKテレビ ロシア語会話』の番組自体は、単なるロシア語学習のためだけでなく、ノルシュテイン絡みの情報が出てこないかチェックする必要性からも、4月になったらまた一から見始めるつもりでいる。ただ、テキストはまた買い直したものかどうか。2001年度分と2002年度分、会話の中身はまったく同じなのに、収録されているコラムの類を目当てに丸2年分買ったけれど、3年分も買い揃えるのほどのものか、と思いつつ、でも買ってしまうんだろうなあ、きっと。他の外国語のテキストと違って、ロシア語のテキストは書店に置かれる量が極端に少なくてうかうかしていると手に入らなくなってしまうし、2003年度は会話の内容も一新されるみたいだし(それはそれで嬉しいんだか哀しいんだか)、それより何より、また思いがけないところで、思いがけないネタが見つかりそうだし。

 そして今週の更新は、前回の「ノルシュテイン語録・読書について」に続いて「ロシアについて」。それから、ノルシュテインが一緒に仕事をしたことのあるロマン・カチャーノフと、レオニード・シュワルツマンについての解説を追加。

 追伸・3月6日発売のダグラス・アダムスの自伝は、先日ようやく私の手元に届いた。パラパラとめくってみただけでも、著者M・J・シンプソンの気合いのほどが感じられる。前作 The Pocket Essential Hitchhiker's Guide のブックレット状態とはえらい違いだ。その分、解析にはかなり時間がかかりそうなので、今しばらくのご猶予を。

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2003.3.29.  この憂鬱な日々

 本当なら、この数日は辞書を片手に、ついに発売されたダグラス・アダムスの自伝と首っ引きになっているはずだった。勿論、どんなに頑張ったところで、私の英語力ではあれだけの長さのものを日本語で理解して整理するには少なく見積もっても数週間はかかるだろうし、絶対途中で根気が尽きて気分転換したくなるだろうが、その時には3月21日に発売されたDVD-BOX、『宇宙船レッド・ドワーフ号 vol. 2』が救ってくれるはずだった。そして、言うまでもなく今日以降のホームページの更新内容は、アダムスや『銀河ヒッチハイク・ガイド』一色になるはずだった。
 が、現実にはもう何日も、アダムスの自伝には手も触れていない。
 アダムスへの関心が薄れた訳でも、冒頭だけ読んでイヤになった訳でもない。それどころか、ざっと流して読んでみた最初の「プレリュード」の部分だけでも、著者の真面目で緻密な調査ぶりがよく分かって、私の好奇心をかき立てるのに充分すぎるほどの出来だった。にもかかわらず、どうしても先を読み進める気分になれない。何度トライしても、英文を読んで理解しようと奮起することができない。アダムスに限らず、あんなに楽しみだった『レッド・ドワーフ』すら、まだビニールのパッケージを外してさえいない。
 何故か?
 それはただもうひたすら、イラクへの「武力行使」という名の戦争のせいである。考えようによってはこれほど卑怯な戦争も珍しい。「武力解除」の名目で他国の軍事力を丸裸にし、集められる情報を集めまくった挙げ句、「いや、絶対他にも武器を隠し持っているはずだ」と決めつけていきなり攻撃する。圧倒的な力の差があるから短期決戦でケリがつくだろう、だからイラクの民間人への被害も最低限で済むだろう――って、それは国連の査察のおかげでイラクの軍事力がそんなにたいしたものじゃないことが分かっているからこそ言える台詞であって、たいしたもんじゃないと分かっているのなら空爆する必要なんてないはずで、既にその時点で論理的に破綻しまくっているとしか私には思えない。イラクの自由だの民主化の推進だのとおっしゃる方もいらっしゃるようだが、ほんの数十年前にイランのイスラム革命を倒すために、イラクのフセイン政権に資金援助したのは当のアメリカだったし、またその資金を元にフセインがイラク国内に圧制を敷いているのを見て見ぬふりをしていた、と言うよりイラク国民がフセインの独裁によりイランとの戦争に追いやられることこそ、アメリカにとっては願ったり叶ったりだったんじゃなかったか? ついでに言うとアメリカが体を張ってお守りくださっているクウェートやサウジアラビアは、いつから真の民主主義国家とやらになったんだ? テロが怖い、という気持ちだけは分からないでもないけれど、テロが怖いのは単純に国家の形で敵対してくれないからこそで、たとえイラクを破壊するだけ破壊して、ついでにイラク国民全員を殺したとしても、その恐怖は消えるどころかいや増すのがオチなんじゃないの?
 私は歴史も政治もたいして知らない。でも、政治にしても歴史にしても、複雑な事情がややこしく絡み合って積み重なっていくものだから、何事につけても端的な答えなどあり得ない、ということだけは分かる。だからこそ私は歴史や政治を理解しようとする時にはいつもその煩雑さに途方に暮れてしまう訳で、そういう意味では今「何故アメリカ・イギリス・スペインはイラクを攻撃しているのか」について、端的な答えを求めること自体が間違いなのかもしれない。が、少しでも状況を把握したいと思ってテレビをつけると、映し出される無神経な空爆シーンとしたり顔のコメンテイターに気が滅入ってすぐ消してしまう。かと言って、世界の情勢はさておいてアダムスの自伝を読んでみようとしても、イギリスもこの戦争に賛同している以上、そこに書かれているイギリスの教育制度について真剣に理解しようという気にはどうしてもなれない。
 私はアメリカの映画もイギリスのお笑いも大好きである。だからこそ、それらを屈託なく楽しませてくれない現在の政治と戦争を、心から憎む。

 という訳で、今回の更新もユーリ・ノルシュテイン関連でいくことにした。長年ファンをやっているうちに少しずつ溜まった、ささやかなコレクションの自慢と、関連人物一覧のささやかな追加。
 この世界には、美しいものはある。美しいものを創り出す人がいる。そのことだけは、私にもまだ信じられる。

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2003.4.5.  私は捨てられない

 私は、「捨てられない」体質である。自分でもよく分かっている。だから、後に残るようなモノは極力買わない。買う時は、恐ろしく慎重だ。長年に亘って愛用してきた腕時計がとうとう本格的にイカれてしまい、何度となく電池交換と修理をお願いしてきた時計屋でも今度ばかりは修理不可能とサジを投げられ、早々に新しいものを買う必要があるのだが、何軒もの店を回ってそれでもなかなか決められず、今日も今日とて時には進みがちで時には遅れがちな、付けていてもたえず他の時計と見比べてやらねばならない腕時計を付けて家を出る羽目になる。
 その一方で、後に残らないモノを買う時の私は、極端に金離れがいい。後に残らないモノとは、外食嫌いな私の場合たいていコンサートや芝居のチケットのことを指すが、2003年以降、つまりこの3ヶ月ばかりの期間にそれらに費やした総額は、私が逡巡に逡巡を重ねて買いあぐねている腕時計の予算額をはるかに越える。単に、自分が興味のある対象には惜しげもなく金も払うというだけのことのようだが、それだけでもない。というのも、人に誘われれば「ま、いいか」とたいして興味のない公演にも自腹を払ってついていき、それが案の定「ハズレ」だったとしてもあまり気にしないくせに、コンサートのチケット代を思えばはるかに安いはずの、たった一枚のCDを買う時ですら逡巡に逡巡を重ねてしまうのだから。
 多分、私にとって私の所有物とは、私の身体の一部なのだ。自分の身体の中に取り込んでしまうからこそ、新しいものを買う時には過剰なまでに慎重になるし、捨てる時には切られるような痛みを伴う。実際、新しい腕時計を買った暁には、古い、というか壊れて修理不能な現在の腕時計は捨てるしかないのだが、私してはゴミとして処分するのではなくできることなら土に埋めて弔いたいとまで思う。
 我ながら、絶対どこか間違っている。
 「捨てられない」と言えば、とりわけ私は印刷された紙の類に弱い。普通の本は言うに及ばず、友人が買って数ヶ月遅れでタダで私に譲ってくれる映画雑誌も処分できずに既に三年分ばかり部屋の床に積み上げられているし、映画館でタダで貰ってくる宣伝チラシもクローゼットにしまい込んでいる。そればかりか、観終わったコンサートや映画の半券まで捨てずに、いや捨てられずに取ってある。きれいにまとめてアルバムにでも貼っておくのならそれもいいのだろうが、あいにく整理整頓は私のもっとも苦手とするところである。本当にただ「取ってある」だけ。
 前回の更新で、その中の一枚をユーリ・ノルシュテインのコレクションと称して写真付きで公開したが、1987年8月29日のこの講演会で、私は初めてノルシュテイン本人にお目にかかることができた。私がノルシュテイン作品に初めて接したのが「ソビエト映画の全貌 ’87」というソビエト映画の特別上映会でのことで、世の中にはこんな凄いアニメーションがあるのかと驚嘆していたら、そのほんの数ヶ月後には今度は監督本人が来日して講演会を開くと知り、当時田舎から上京してきたばかりの田舎者だった私は今度は「東京って凄い」といたく感動したことを、今でも鮮明に憶えている。
 勿論、「ソビエト映画の全貌 ’87」のほうの半券もちゃんと残っている。ほらね

 そして今週の更新は、ソビエト映画と言えばやっぱりこの人、セルゲイ・エイゼンシュテインについて。

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2003.4.12.  エイゼンシュテインとアニメーション

 今を去ること約4年半前、ユーリ・ノルシュテインは東京で講演会を行った。お題は「エイゼンシュテインとアニメーション ノルシュテインによるイワン雷帝全分析」。
 私はこの講演会にも行きそびれた。理由は忘れたけれど、多分仕事のせいだと思う。
 でも、講演会の案内チラシだけは、例によって未練たらしくクリアファイルにはさんで保管してある。そのチラシによれば「ノルシュテイン氏はエイゼンシュテインの代表作のひとつである『イワン雷帝』をアニメーションとしてとらえており、この例会では、『イワン雷帝』のもつアニメーション的手法と技法を分析解説します」とのこと。
 映画『イワン雷帝』なら、私もこの講演会のことを知るよりもはるか以前に観たことがあった。イワン雷帝が何世紀の人物か思い出せないほどに歴史のディテールは忘れてしまったが、映画のどのシーンを切り取ってスチール写真にしても「絵になる」映画だな、と思った記憶だけはある。いわゆる美しい映像、というのではなくて、映画の全編を通して四角い画面の中の構図が一つ一つ全部計算されていてびしっと決まっている、そんな感じ。
 講演会に行けなかった私には、勿論、ノルシュテインが何をもってエイゼンシュテインをアニメーター呼ばわりしたのか知るよしもない。ただ、私が『イワン雷帝』を観て漠然と感じたものはまんざら的はずれでもなかったんだなあとチラシを読んで勝手に納得した。そして、それきりエイゼンシュテインのことなど忘れていた。
 前回の更新にあたり、改めてエイゼンシュテインについて調べたついでに、図書館の棚に並ぶエイゼンシュテインが書いた、あるいはエイゼンシュテインについて書かれた本の中で一番活字が大きくて一番ページ数が少なくて一番わかりやすそうな一冊を借りて読んでみた。それが、エイゼンシュテインが全ソ国立映画大学とやらで映画監督志望の学生相手に行った講義というか演習の授業の速記録をまとめた、『エイゼンシュテイン映画演出法講義』。
 エイゼンシュテインが、学生たちに例題を出す。たとえば、『罪と罰』でラスコーリニコフが金貸しの老婆を殺害するシーンを演出してみよう、と。殺害は老婆の家の中である。まず最初に考えなくてはいけないのは、部屋とカメラの位置関係。部屋のどこにカメラを固定するか。ラスコーリニコフが入ってくるドアは、部屋のどの場所にあるべきか。ストーリーを語る上で、観客に見せねばならないものは何か。逆に、見せる必要のないものは何か。殺害に使う斧はどのタイミングで、どういうかたちで見せるのが一番効果的か。
 学生たちはさまざまな意見を出すが、最終的にエイゼンシュテインに導かれて「こうでなくてはならぬ」ただ一つの演出法を探り出していく。殺害シーンの演出なら人の数だけ答えがありそうなものだが、それが違うのだ。カメラの位置、俳優の動き、小道具の配置、無限に近い演出法の中で、正しい答えは一つしかない。実際の撮影を始める前に、すべてが正しい位置にぴたりと収まる、たった一つの正解にたどりつくまで、頭をふりしぼって考えねばならない。エイゼンシュテインに言わせれば、それこそが映画監督の仕事である。
 なるほど、これなら確かにアニメーターと変わりない。というより、何台ものデジタルカメラを持っていろんなアングルで撮影しておいて後で編集すればいい、という今どきの映画製作方法と比べた時、学生と話しながら一シーンごとに絵コンテを完成させていくエイゼンシュテインの姿は、私の目にはアニメーターそのものに見える。
 あらかじめ徹底的に計算されて作られた映画だけが良い映画である、とは言わない。出たとこ勝負で撮りまくって後から「さて、どうしよう?」とお考えになっているとしか思えないウォン・カーウァイ作品(『ブエノスアイレス』とか『花様年華』とか)も、私は大好きだ。撮影技術の向上により、映画の製作方法がかくも多様になったから今だからこそ、逆に「アニメーターとしてのエイゼンシュテイン」の特異性が際立つのだろう。特撮などありえない100パーセント実写映画の『イワン雷帝』をアニメーション呼ばわりする一方、デジタルカメラで撮影してCG合成をかけた作品を実写呼ばわりするのも、それはそれで何だかおかしな話だが。

 そして今週の更新は、とことん出たとこ勝負で書かれたラジオ・ドラマを基に、締め切りに追われて大慌てで書き上げられた小説の話。

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2003.4.19.  締め切りとの闘い

 前回の更新で、小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』の解説を追加するために自分のアダムス・コーナーを開いた時、何だかとても久しぶりで、新鮮な感じさえした。
 2001年2月にこのホームページを立ち上げてこのかた、これほどまでに徹底して頭の中からダグラス・アダムスのことを閉め出していた一ヶ月はなかったように思う。また逆に、たった一ヶ月でこんなに「新鮮」に感じるなんて、この2年間というもの、いかに自分がひっきりなしにアダムスのことばかり考えていたかを改めて思い知らされた気がする。アダムスとノルシュテインとガデスの3人についてのホームページ、と謳ってはいるものの、私に取り扱える情報量の圧倒的な差でもっぱらアダムス関連の更新が中心で、「更新履歴」コーナーで確認してみても、4週に亘ってアダムス関連の更新をしていないことは今まで一度もなかった。
 とは言え、一ヶ月の封印を破って話をノルシュテインからアダムスに移したのは、イラクへの戦争行為が一段落したから、というよりも、ノルシュテイン関連の手持ちのネタが尽きた、という身もフタもない理由による。ノルシュテインに関しても、まだまだ書き加えたいことはあるけれど、私が今勤めている職場は4月が仕事のピークなので、ゆっくり時間をかけてそれらを準備する余裕がない。勿論、前回追加した解説にもかなりの時間がかかっているのだが、白状すれば実はあの文章、4月の繁忙期に備えて冬の間にあらかじめ用意しておいたものなのだ。
 私はものすごくせっかちである。待ち合わせ場所には、待ち合わせ時間の10分前には着いていないと遅刻したような気分になる。どういう種類の締め切りであれ、最低でも1日前には準備が完全に終わっていないと気が気じゃなくなるので、1日前に完全に準備を終わらせるために3日前には完全に準備を終わらせておこうと考える(せっかちな分だけ正確さには欠けるので、私のいう「完全」は多くの「不首尾」を孕んでいるが、それはまた別の問題)。だから、今の私には自分で自分に課している週に一度の締め切りですら、「何が何でも守らねば」という気持ちが強く働きすぎて、土曜日更新のための準備が木曜日になってもまだ完了していないと落ち着かない。前から繁忙期だとわかっている4月の一ヶ月分のための更新内容の準備が出来上がっていないと、冬の間から既に落ち着かない。
 という訳で、繁忙期真っ只中の本日4月19日に追加する更新内容も、当然冬の間に用意しておいたものである。前回に引き続き、今回は『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズ2冊目の小説の話。
 もっとも、それらを書いたアダムス本人が締め切り破りの常習犯だったことはつとに有名で、実際、小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』のラストは、単に予定通り本を出すための最後のぎりぎりのタイミングまでに書き上げられていた原稿を編集者が持って行って出版したからそうなった、というていたらくだった。だが、たとえ作者の本意ではなかったにしても、私はあの最後の一行は大好きである。本来あるべきラストシーン、ラジオ・ドラマ第6話の終わり方よりも気に入っているくらいだ。だって、あのくらいかろやかに、誘われてみたいものじゃないか――遙か彼方の、宇宙の果てのレストランとやらまで。

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2003.4.26.  最後の晩餐

 かつてテレビのニュース番組で、著名人に「最後の晩餐に何を食べたいか」という質問をするコーナーがあった。
 インタビューされた人が番組の中で何を食べたいと言っていたかについてはすっかり忘れてしまったけれど、ただ今でも時々「私だったら何を食べたいと言うだろう」と考えることはある。よく映画などで死刑囚に向かって、「最後の夕食は何がいい?」と訊く場面があるけれど、そう訊かれた時、私なら何をリクエストするだろうか?
 いや、勿論、死刑囚になるつもりは金輪際ないのだけれど。
 いつ、どんな形で自分の命が尽きるのか分からないのが人生で、だから自分の意志で最後の晩餐を選ぶことは不可能だし不可能であってほしいとも思うけれど、でもとびきり元気に脳天気に「最後の晩餐」を楽しむことのできる場所が、この世にただ一カ所だけ存在する――そう、それこそがあの<宇宙の果てのレストラン、ミリウェイズ>
 宇宙の果てのレストランとは、宇宙が終末を迎えるその瞬間、万物が爆発するのを眺めながら食事ができるというレストランのこと。あらかじめ予約しなくても、レストランで食事した後で自分の時間に帰った時に遡及的に予約すれば大丈夫だとか、自分の時代に一ペニイだけ預金しておけば、時の果てにたどりつく頃にはその利子で高価な食事代がまかなえるとか、実現不可能なバカバカしい項目を6つ挙げて、アダムスはこう結ぶ。「あなたが今朝、六つの不可能事をなしとげたというのなら、朝食は<宇宙の果てのレストラン、ミリウェイズ>でとるのがいちばん」(『宇宙の果てのレストラン』、p. 134)。
 ミリウェイズが宇宙の最後の瞬間に存在するレストランだとしたら、そこでの食事は誰にとっても一応「最後の晩餐」になるはずである。勿論、宇宙の終末と同時に客たちは自分たちの時間に戻されるしくみになっているようだから、おのおのの人生がそこで終わる訳ではないにしろ、時系列的には「最後」であるのは間違いない。なのに、小説『宇宙の果てのレストラン』において、レストランの内装やらバンドやらについてあれこれ書かれているのに比べて、肝心の料理の描写ときたらせいぜい「豪勢な」(p. 133)とか「贅沢な」(p. 156)どまり、「本日の料理」はジョークとしても、結局アーサーたちが食べることになるご馳走とは「レアのステーキを四人分」(p. 155)なのだ。まったく、時の果てにあるというミリウェイズというレストランの特性を駆使すれば、自分の人生の「最後の晩餐」を祝って、宇宙のどんな美味をも堪能できるはずなのに!
 文法の時勢だの利子だのには頭が回っても、食事の内容にはまるっきり想像力が向かわなかった辺り、やっぱり作者はイギリス人だと私は思う。
 え、じゃあ、私なら「最後の晩餐」に何をオーダーするかって? 
 すみません、やっぱりもう少し、考える時間を下さい。

 そして今週の更新は、先週に引き続き本当に仕事が忙しく、更新準備の時間もあまりなくて、従ってやはり繁忙期に備えて冬の間にあらかじめ用意しておいた、シリーズ3冊目の小説『宇宙クリケット大戦争』の解説を追加。

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2003.5.3.  クリケットと階級問題

 小説『宇宙クリケット大戦争』を読むなら、やっぱりクリケットのルールくらいは知っていたほうがいい。そう思って、かつて何度かインターネットで検索して調べてみたりもしたけれど、スポーツのルールを文章で読んだところで、実際のゲームのおもしろさが分かるはずもない。それでなくてもクリケットは、実際の試合を見た人からさえ「どこがおもしろいのかさっぱり分からない」という声が続出しているスポーツである。イギリス産のスポーツが世界中で愛好され、既にもともとはイギリスから始まったということすら忘れられているようなものも多いのと対照的に、クリケットの普及だけは何世紀経とうがあくまで大英帝国圏内にとどまっている、という事実がクリケットのつまらなさ、もとい分かりにくさをもっとも端的に物語っていると思う。
 ゲームのルールに輪をかけてさらに日本人の私によく分からないのは、クリケットがどの程度イギリスの一般人、つまり上流・中流でない階級の人たちに親しまれているのか、ということ。クリケットに関する説明書きを読むと、「イギリスではサッカーと人気を二分するスポーツです」とか何とか書かれているが、クリケットとサッカー(イギリス英語ではフットボールだけど)の両方を楽しむ人がそんなに多いとは思えない。
 何しろ、イギリスは今なお厳然たる階級社会が残る国である。クリケットは基本的に中・上流階級のスポーツとみなされ、労働階級はもっぱらサッカーを好むと言われている。たとえば映画『トレインスポッティング』で、男たちがガールフレンドに「何を話していたの?」と訊かれてとっさに答えるのは「サッカー!」だし、『フル・モンティ』でダンスの振付の比喩に使われるのもサッカーだった。そうそう、『宇宙船レッド・ドワーフ号』の主人公も、自分の息子に無重力サッカーの選手の名前をつけていたっけ。これらの作品で、サッカーをクリケットに置き換えることは絶対にできない。イギリス人作曲家マイケル・ナイマンが、サッカーをモチーフにした音楽、After Extra Time を作曲したことについて、音楽評論家の柿沼敏江氏は「ナイマン自身、知的なイメージとは裏腹に、熱烈なサッカー・ファンである」と書いていたが、要するに「まともなイギリスの知識階級なら、サッカーが好きだなんてあり得ない」という訳で、これこそまさしくイギリス階級社会の本音だろう。
 『銀河ヒッチハイク・ガイド』の主人公アーサー・デントは、確かにロード・クリケット場に立つことに憧れていたようだが、学生時代にはサッカーもやっていたようである。「うまくはなかったが、よくサッカーの試合にでたものだ。彼の得意技は、大事な試合にかぎって、味方のゴールにボールを蹴こむというものだった」(『宇宙の果てのレストラン』、p. 23)というくらいだから。
 アダムスが『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズ3作目で、サッカーではなくクリケットを取り上げたのは、単にこの小説の原案がボツになったドクター・フー用の脚本、'Doctor Who and the Krikkitmen' だったからである。このストーリーの展開上、アーサーもクリケットのファンにならざるを得なかった、とさえ言えるかもしれない。だとすれば、アダムスやアーサーの階級意識をクリケットという競技から推測するのは早計というものである。が、それでもクリケットの楽しみ方を知っているという時点で既に、アダムスとアーサーは紛れもなく大学卒のインテリなのだろう。

 そして今週の更新は、と改めて書くまでもなく、シリーズ4作目の小説 So Long, and Thanks for All the Fish について。いつかこの作品も、日本語に翻訳される日が来ますように。

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2003.5.10.  分かる/分からない

 イラク戦争は一応終結したらしい。勿論、気楽な観光客がバグダッドを闊歩できるようになるのはまだまだ先のことだろうけれど、とりあえず空爆が止んだだけでも良かった。
 そこで私も気を取り直して、少しは真面目にイギリスやら英語やらと向かい合おうか、と思い、でもまずは頭ならしにと図書館で借りた小林章夫著『イギリス紳士のユーモア』(講談社現代新書)を斜め読みしていたら、次のような記述に出くわした。

確かにパブリック・スクールでは知育と並んで、体育、それも戸外のスポーツに重きが置かれていたようだ。特にクリケット(あの何が面白いのか、そしていくらルールを説明してもらってもよくわからないスポーツ)やサッカー、ラグビー、ボートやクロスカントリーなどは、パブリック・スクールの生徒たちが大いにやったものだった。この伝統は今でも残っていて、午前中の授業が終わると、午後はもっぱらスポーツを行うところが少なくない。(p. 39)

 前回の同欄で書いたように、私はてっきり、サッカーなんて下々なスポーツは私立の学校ではやらないのかと思っていた。でも小林氏の記述によれば、アーサーがパブリック・スクールでクリケットとサッカーの両方をやっていたとしても何の不思議もない訳だ。ああ、やっぱり私は分かっちゃいない。

 イギリスについて分かっちゃいない上に、英語の読解力も甚だ怪しいままに So Long, and Thanks for All the Fish を無理矢理読んでみたが、それでも地球が舞台になっている箇所はまだ分かりやすい。訳がわからないのはもっぱらフォードが宇宙のどこかで活躍しているらしい場面で、ええい、白状しよう、中でも10章と19章は最初から最後まで何が何やらさっぱり理解できなかった。
  ちなみに、So Long, and Thanks for All the Fish は、アダムスの未訳の小説の中でも私が一番繰り返して読んだ本である。と言っても、計3回。ファンとしてあるまじき回数ですね、すみません。
 初めて読んだのは高校3年生の秋で、というのも高校3年の夏に新潮文庫の『銀河ヒッチハイク・ガイド』に初めて出会って、直ちに翻訳の出ていた2,3作目もすぐ読んで、早く4作目が翻訳されないかなあ、と思っていた矢先、京都市内の比較的大きな本屋で偶然見つけて買ったから。「洋書コーナー」とは名ばかりの、くるくる回る回転ラックにほんの数十冊ばかり申し訳程度に置かれていたペーパーバックのうちの一冊で、見つけた時には驚きもしたし、すごく嬉しかったことも今でもよく憶えている。そして言うまでもなく、私が洋書を買ったのはその時が初めてだった。
 当時はまがりなりにも受験生だったくせに、「ま、これも英語の勉強のうちだから」と受験勉強そっちのけで辞書を引きまくって読んではみたが、場面の大半はまるっきり分からなかったし、そればかりか当時は分かったつもりだった箇所さえも、数ヶ月前に今回の更新のために改めて読み返してみて、ストーリーも意味もまるで違っていたことに気が付いた。ということは、どれほど歩みが遅かろうとも、私の英語力も高校3年の頃から比べればそれなりに進歩しているということで、そう考えるととっても気分がいい――と、こうやってすぐ悦に入っているから、進歩が止まってばかりなのだけれど。更に言えば、今回読み直して分かったつもりの「ストーリー」が正解かどうかも、これまた怪しい限りだったりするのだけれどね。

 そして今回の更新は、いよいよシリーズ最後となった、Mostly Harmless。お願いだから、誰か翻訳してください。

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2003.5.17.  幻の6作目

 1992年に出版された『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズ5作目、Mostly Harmless を読んだ時、この時点のアダムスが何と言おうと絶対いつかシリーズ6作目が出るに違いないと思った。
 小説自体は、続編を示唆するどころか徹底的に完結している。にもかかわらず、何故「絶対出るはず」と確信して明るい期待に胸を躍らせたのかと言えば、一つにはこの作品がアダムスにとってのブレイクスルーのように私には思えたからだが、その一方で、1984年に4作目を出してから8年も経った頃になってシリーズ新作を出したのか、その理由がはっきりしなかったからでもある。
 5週間に亘って、『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズ5冊の小説の解説をアップロードしてきたが、その内容は、さまざまな新聞・雑誌記事も参考にしたけれども、何よりニール・ゲイマンとM・J・シンプソンの著作に負うところが大きい。二人の本には、それぞれの小説をアダムスが書くことになったいきさつや経緯が細かく紹介されている。ところが、Mostly Harmless に限っては、その手の説明がほとんどなくて作品のストーリー紹介に終始するばかり。今読みかけの自伝の中にはひょっとしたらもう少し具体的な説明があるのかもしれないけれど、何故アダムスが5作目に手を染めたか、その理由がはっきりしているのならゲイマンもシンプソンもさっさと書いているはず。書いていないのは、書けるようなことがなかったからにちがいない。
 でも、理由がはっきりしないからこそ、実は私は秘かに邪推している――アダムスの中で何か大きな心境の変化が起こった時、彼はシリーズの新作に手を染めたくなるのではないか。
 小説を読む時に、作者と主人公を同一視して解釈するのは間違いの元だ。作者の実人生と主人公の人生とが似ている場合、とりわけ「私小説」というジャンルの作品の場合にはついつい作者の顔を思い浮かべながら読んでしまいがちだが、たいていそれは作者の罠にひっかかっただけか、あるいは作者の意図を完全に踏み外したかのどちらかである。
 『銀河ヒッチハイク・ガイド』はその手の私小説とは似ても似つかない。アダムスの人生とアーサーの人生で、重なり合う部分などほとんどない。黒髪で長身で大学卒、というところは同じだけれど、アーサーは自分の分身ではない、とアダムスはさまざまなインタビューで答えてもいた。だが、後にアダムスはその発言を撤回する。アーサーはやっぱり自分自身だ、と。
 隠していた訳でも嘘をついていた訳でもなく、自分でも後になって気が付いた、というのが本心だろうと私は思う。でも、後になってそのことに気が付いたからには、自分自身が変わったと感じた時、あるいは自分の世界観が変わったと思った時、アダムスの矛先がかつての自分自身=アーサー・デントに向けられるのは時間の問題ではなかったか。
 だからこそ、私が5作目を読んで6作目が出ることを確信した。アダムスの人生に再度大きな変化が訪れた時、彼は再びアーサーと相対せずにはいられないはずだ、と。
 でも、私のそんな安易な期待も、アダムスの訃報で一瞬にしてぺしゃんこになった。
 アダムスが2001年5月11日に亡くなって、早くも丸2年になる。

 そして今週の更新は、作者の死後も次々と新しい装丁で出版されている、小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』のコレクションの一部を紹介。それから、久しぶりにアントニオ・ガデス・コーナーの最新ニュースを更新した。
 やっぱり、生きていればこそ新しい可能性もある。49歳の若さで、死んじゃダメだよ。

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2003.5.24.  お宝自慢4、あるいは更なる無駄遣いの記録

 これまで買い集めた『銀河ヒッチハイク・ガイド』本を並べてみると、あまりの金の浪費ぶりに我ながら目眩がする。本の装丁が違うというだけの理由で、同じ中身の本を一体何冊買ったら気が済むのか。せめて、新しく改装されて出た本が以前のものよりオシャレな造りだったら救いもあるのだが、1985年にイギリスで発売されたハードカバー版のダサいことったら。同じ本屋の別の棚に行けば、同じ本がもっとマシな装丁のペーパーバックで4ポンド50で買えるのに、わざわざ7ポンド95も払ってこんなダサい本を買う人が本当にいるのか? この私ですら、かなり二の足を踏んだというのに。
 いや、たとえどんなにダサかろうとも、少なくとも装丁や出版社が違う、という意味ではコレクションに追加する価値は一応ある。が、前回追加した9冊のうちの2冊は、装丁が違ってさえいない。印刷の加減でカバーの色に違いはあるけれど、デザインはまったく同じ、勿論出版社も同じ。そんなものを2冊も買ってどうする?!
 と、自分で自分にツッコミたいところだが、実はこの2冊は自分では買ったものではない。確かに1冊は私が買ったが、もう一冊はアメリカに旅行した友人が親切に買ってきてくれたものである。アメリカ版のペーパーバック、どうもありがとう、とその場は感謝して頂戴したものの、内心(そんなもん、とっくに持っとるわい)と思っていた。が、家に持ち帰ってよくよく見れば、表紙に書かれたアダムス本の売り上げ冊数が、100万冊も違っているではないか。つまり、私が持っていた1冊目が出版されてから、友人がくれた2冊目が出版されるまでの数年間に、全世界でアダムス本が100万冊も売れたということになる。そのことに気づいて、ほほう、こりゃ貴重な参考資料かもしれん、持つべき者はアメリカ帰りの友だねえ、と、手のひらを返して喜んだ私は、絶対どこか間違っているよな、やっぱり。

 浪費と言えば、2003年になってこのかた、何だかやけにバレエづいている。たいして熱心なファンではないし、見る目も知識もほとんどないが、ふと我に返ると今年だけで意識が遠のきそうなくらいの金額をチケット代に費やしている。なのに、こういう時に限って、「これだけは絶対に外せない」公演がまた新たにやってきた。
 そう、言わずとしれたスペイン国立バレエ団の、「アンダルシアの嵐」。
 勿論、迷わずチケットは購入した。それも、少しでもいい席を確保したい一心で、わざわざ電車に乗って東京地区の公演会場である Bunkamura のチケットカウンターまで出かけて買った。普段はとことん出不精なのに、こういう時のフットワークだけはやたらと軽い。そして、私の財布もまた一段と軽くなる。
 まあ、こういう時のために日々働いているようなものだから、いいんだけど。それに、舞台だけは見逃してしまうと、もう後がない。近い内にまた来日公演があるさ、などとタカをくくっていてはいけない、ということを、私は1990年のアントニオ・ガデス引退宣言で骨身に叩き込まれたので、同じ過ちは二度と繰り返しません。

 そして今週の更新は、「アンダルシアの嵐」の解説。これを読んでいるあなたも、この奇跡のように美しい舞台を是非ご自分で体験してください。

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2003.5.31.  ドン・キホーテを手放した男

 『ロスト・イン・ラ・マンチャ』というドキュメンタリー映画を観た。
 映画監督テリー・ギリアムが新作『ドン・キホーテを殺した男』の撮影を始めるも、未曾有の大雨やら主演俳優の病気やら、次から次からふりかかる冗談のような災難に、クランクインわずか6日で撮影中止に追い込まれる、という未完成映画のメイキング映画である。難航する資金調達のメドがどうにか立って、衣装やらセットやらが出来上がってきて、それでも撮影直前になってもまだ主要キャストの一人が正式契約にサインしていなかったり、素人の私でも「え、それはいくら何でもマズいんじゃないの?」と思うような不首尾はあるものの、それでもとうとう撮影が始まって、すると案の定と言うべきか、天災とも人災ともとれるトラブルが続発して、最初はみんなを鼓舞するように元気に振る舞っていたギリアムも、最後には本当に意気消沈してしまう姿が何とも痛々しい。
 私の勝手な言いぐさだが、ギリアムには前作『ラスベガスをやっつけろ!』なんぞを撮るヒマと金があったのなら、『ドン・キホーテを殺した男』の企画に専念してほしかった。『ラスベガスをやっつけろ!』がつまらなかったからではない。何しろ、私は未だにこの映画をを観ていない。観ていないのに「作らなければいいのに」とまで言うのはあまりに酷い話だが、でもこの映画に限っては、ジャンキーの話には元々関心が薄い上に、食欲のなくなるようなエグいシーンが多いときいたので、どうしても観る気になれないのだ(おまけに、巷の評判もちっとも良くないし)。という訳で『ラスベガスをやっつけろ!』は、監督も好きなら主演男優も好きなのに、それでもどうにも観たくないという、私にとってはもっとも心中穏やかならざる未見映画である。それに比べて、未完に終わった『ドン・キホーテを殺した男』なら、私の好きな『バンデッドQ』や『バロン』系列の作品だから、間違いなく喜び勇んで映画館に行ったはずだと思われるだけに、いらだたしさは募るばかり。
 とは言え、ギリアムに限らず、ドン・キホーテの映画化は「呪われた」企画だそうで、かのオーソン・ウェルズも長年に亘って制作費を集めていたものの、結局未完のままに終わったとか。そう言えば、かつてアントニオ・ガデスも「いつかドン・キホーテを」と言っていなかったっけ? 残念ながらそれを実現しないまま1990年に引退宣言をしてしまったが、ドン・キホーテに執着しすぎることなく後に気を変えて、ロペ・デ・ベガの戯曲『フエンテオベフーナ』の舞台化にとりかかることで復帰してくれて本当に良かった。そりゃあ、ガデスが「ドン・キホーテ」をどう解釈するのかについてはものすごく興味があるけれど、それに拘泥していて舞台『アンダルシアの嵐』が作られなかったとしたら、それはあまりに勿体ないというものである。
 ドン・キホーテを手放した男、という意味ではギリアムとガデスは似ている。でも、その結果は見事に正反対だ、と言ったらいくら何でもギリアムに気の毒か?

 そして今週の更新は、舞台化は舞台化でも、ガデスではなく『銀河ヒッチハイク・ガイド』の舞台化について。

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2003.6.7.  君は80パーセントの空席に耐えられるか?

 『銀河ヒッチハイク・ガイド』の舞台化は数あれど、私が一番観たいと思うのは1979年に初めて舞台化された時のもの。あのホバークラフトとやらには、乗れるものなら是非乗りたい。
 逆に一番観たくないのは、そりゃもう勿論、1980年の再演版である。初演が失敗で、再演で成功したというならまだ分かりやすいが、再演でかくも見事に大コケするとは、いやはや舞台とは実に恐ろしい。
 私は芝居もダンスも好きで、日常生活の中で観劇することのできる都心部近郊に住む日本人の平均(くどい言い方だとは思うけれど、劇場というところにたどりつくのに片道2時間以上かかるところに住んでいる人にとっては、観劇は宿泊先のホテルまで確保した上での一大イベントである。田舎の実家に戻れば、私だって年に一本も観られるかどうか怪しいものだ。だからこそ、私は単純に「日本人が劇場に行く回数」と言いたくない)と比べても、はるかに劇場に行く回数は多いと思う。でも、基本的に私はミーハーなので、私が行きたいと思うような公演やコンサートはたいてい大入りである。幸いにして、客席の20パーセントしか埋まっていないような公演には行ったことがない。
 空席だらけの劇場というのは、興行主や出演者にとっては悪夢だろうが、ガラガラの客席にぽつんと座っている観客にとっても身も凍るような体験だと思う。無名の小劇団ならともかく、それなりに大きい劇場で、それなりの宣伝費が投じられていて、それでも辺りを見回すと明らかに空席のほうが多い、となると、私などは想像しただけで直ちにその場から逃げ出したくなる。そりゃ、実際の公演を観てみれば素晴らしい出来で、「どうして客が入らないのだろう」と首を傾げる、という可能性とてないではない。が、そんなのはごくごくごく稀で、たいていの場合は出演者が精一杯の熱演すればするほど空回りとなり、客である私のほうまでいたたまれなくなるのがオチだ。だから、タイムマシンに乗って1980年7月のロンドンに行ったとしても、さすがの私もレインボー・シアターに足を踏み入れる気にはなれない、あ、でもやっぱり毒を食らわば皿までの覚悟で、ホームページのネタを拾いに行くだろうか……?
 行くだろうな、きっと。
 かつての日本には、バブル景気と呼ばれた時代があった。そして、数々のイベントや興行が多額の企業献金を集めて行われていた。私企業も文化面で社会に貢献する、それが企業のイメージ戦略でありステイタスシンボルだと、大声で謳われていた時代だったのだ(それを「メセナ活動」というのだが、この言葉を今でも堂々と使うことのできる幸せな人は一体どれほど残っているのだろう)。そしてその手の公演では、劇場内の一番良い席は、必死の電話攻勢をかけてチケットを自分で購入した人のものではなく、公演に金を出した企業の重役か、あるいはその重役から貰いうけてしまった不運な部下とそのお得意先のためのものであった。おかげで、劇場は満席でも一等席では妙な寒々しさが漂っていた。その時代の寒々しさを思えば、いっそ80パーセントの空席のほうがまだしも健全な気がする。

 今週も前回に引き続き、『銀河ヒッチハイク・ガイド』の舞台化の話だが、今回はアマチュアによる公演について。それから、ノルシュテイン・コーナーの最新ニュースを追加。

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2003.6.14.  ラジオ・ドラマを舞台化

 前回の更新で追加した、アマチュアによる『銀河ヒッチハイク・ガイド』舞台化の一覧は、同コーナーでも断り書きを入れた通り、M・J・シンプソンの著作というか小冊子、A Completely and Utterly Unauthorised Guide to Hitchhiker's Guide を引き写したものである。アダムス本人に上演許可を得て行われるようなプロの舞台ならともかく、世界各地で素人が勝手に上演した舞台の情報をよくもこれだけ集めたものだと、著者の気合いと根性には感服する。
 そしてまた、みんなよくもまああの手この手の演出法をよく思い付くものだと、そういう意味でも私は大いに感心した。一人芝居、という着想もなかなか強烈だけれども、私が一番気に入ったのは1996年に上演された、ラジオ・ドラマ『銀河ヒッチハイク・ガイド』の録音風景を再現する、というスタイルのもの。実際の舞台の出来は知るよしもないが、でもなかなか素敵なアイディアだと思う。
 ラジオ・ドラマの製作過程を舞台に載せる、という発想は三谷幸喜の『ラヂオの時間』(初演は1993年)と少し似ている。でも、The Strathclyde Theatre Company とやらがそれを知っていたとは思えない、と言うより舞台のほうは知らないが映画『ラヂオの時間』(1997年)を観た限りでは今ひとつ私の好みではなかったので、敢えて「へへん、あなたは知らなかったとしても日本で既にそのアイディアは先取りされていたのだよ」と肩入れする気にはなれなかったりする。
 話題作は一通り押さえておきたいミーハーな私は、WOWOW等でテレビ放送される三谷作品は必ず観るようにしているけれど、なぜだろう、テレビドラマ作品はともかく、肝心の舞台作品のほうは、どれもとても良く出来ているとは思っても、のめり込むとかツボにハマるという気分にさせてもらったことがない。もっともその「ほどほど感」こそが、三谷幸喜が目指すところのウェルメイドな芝居であることの証と言ってしまえばそれまでなのだろうが、私個人としては、完全主義者の美意識で一分の隙もなく練り上げられ、観客を息苦しくさせるほど水ももらさぬ完璧な舞台(要するにアントニオ・ガデスの舞台のことなんですけどね、はい)であるか、あるいは逆に、作品全体としては少しばかり破綻していたりやたらと長かったりしてもクライマックスには力づくででも盛り上げてくれるような舞台(歌舞伎の通し狂言とか)のほうが好きである。家でテレビを観るのではなくて、わざわざ劇場くんだりまで足を運ぶからには、こんな不埒な私の中にも一応残っているらしい魂とかいう代物が、ぐらりと揺れるような体験をしたいじゃないか。
 ――って、あ、いやそのあの、舞台を観ての感想は人それぞれだし、三谷作品は魂に届かないなどと断言する資格は、そもそもお笑いSFで人生を変えた私にはまったくない。ないったらない。そこのところは一応自覚しているつもりですので、日本全国(推定)5000万人の三谷幸喜ファンのみなさま、どうか怒らないでくださいね。

 そして今週の更新は、ラピュタ阿佐ヶ谷で開催中の「世界と日本のアニメーション ベストオブベスト」でも作品が上映されていた、ノルシュテインの弟子のアレクサンドル・ペトロフについて。

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2003.6.21.  アイマックス・シアターの思い出

 アレクサンドル・ペトロフのアカデミー賞短篇アニメーション賞受賞作『老人と海』を、私は今は亡き東京アイマックス・シアターで観た。
 作品そのものは残念ながらあまり私の好みではなかった(そもそも私はヘミングウェイがたいして好きではないから仕方がない。私がこれまでに読んだのは『老人と海』と『武器よさらば』だけで、前者を読んで「ふーん」、後者を読んで「けっ」と思い、それきりヘミングウェイとは絶縁状態のまま今日に至っている)が、この映画館自体はかなり好きだった。視界からはみ出す程の巨大スクリーンと、その割には意外と少ない客席数、無意味なくらい広々としたロビーから眺める東京・新宿の眺望も、そして狭いながらなかなかに豪勢な作りのトイレも。
 東京アイマックス・シアターには、4回行ったことがあった。いわゆる3D映像の作品は一度も体験しなかったが、あの大きなスクリーンだけでも毎回新鮮に感嘆するに足りた。残念なのは、せっかくの巨大スクリーンなのに観たいと思うような作品がなかなか上映されなかったこと。ちなみに、私がこの映画館で観た作品は『老人と海』の他には、『ファンタジア2000』、『ドルフィン』、そして『パンダ・アドベンチャー』。どれもこれも、「好きな人は好きなんだろうな」としか言いようのない代物であった。
 ああいうスクリーンに映写するには普通の映画で使われる35ミリフィルムとは違うフィルムが必要になるので、単純に他の映画館と同じ作品を上映する訳にはいかないそうだ。東京アイマックス・シアターが閉館した後に、改装されて新しくオープンしたテアトルタイムズスクエアという名前の映画館に「WATARIDORI」というドキュメンタリー映画を観に行ったところ、客席とトイレは前と同じだったが、恐れていた通りスクリーンとロビーの大きさが半減していて哀しかった。それでも普通の映画館よりはずっとスクリーンは大きくて見やすいから、文句を言う筋合いはないのだが。
 ごく一部の野生動物マニアやエクストリーム・スポーツファン以外の興味を引きそうにもない中途半端なアイマックス・シアター用オリジナル作品を撮影するくらいなら、上映作品の10本に1本くらい、普通の映画作品のフィルムを作り直して集客力強化を狙えばよかったのに、と考えたのは私一人ではなかったらしく、品川に新しく出来たアイマックス・シアターでは、今ちょうど『マトリックス・リローデッド』を上映しているらしい。おっ、それはちょっとおもしろそう、と思ったがよくよく調べてみると字幕版ではなく日本語吹き替え版になっていたのでやっぱり観に行くのは止めておくことにする。

 そして今週の更新は、一応野生動物マニアの一人だったはずのダグラス・アダムスが語る、紅茶の魅力と、私は食べたことはないけれど紅茶と一緒に味わうにはいささか不適切のような気がする英国製菓子について。それから、つい先日まで開催されていた「世界と日本のアニメーション ベストオブベスト」が終わったと思ったら、また新たに開催されるノルシュテイン・アニメーション上映会の情報も追加。

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2003.6.28.  紅茶の話

 アダムスの言うことなら何でも鵜呑みにしかねない私は、次にイギリスに行くことがあったら迷わずマークス・アンド・スペンサーのアール・グレイのティーパックを買う。ついでに絶対ファッジとかいう、どう考えてもたいしておいしくなさそうなお菓子も買う。
 だが、紅茶が先かミルクが先かの問題に関しては、私は絶対に紅茶が先である。アダムスが何と言おうと、これだけは譲れない。
 紅茶は、茶葉の種類やお湯の水質の加減により、その時々で濃さが微妙に異なる。ガラスのポットならともかく、陶器のポットを使用するのなら、実際にティーカップに注いでみるまで紅茶の濃さは分からない。私は紅茶の濃さに応じてミルクの量を加減したいので、先にカップに一定量のミルクを入れるなんざ論外である。「熱い紅茶の中にミルクを入れると、ミルクが煮立ってしまいます」だと? 冷たいミルクに熱い紅茶を入れたって、やっぱりミルクは煮立ってしまうじゃないか!
 参考までに、ジョージ・オーウェルは私とまったく同じ意見である。「紅茶を先に注いでおいて後からミルクを注ぎながらかきまわしていればその量を正確にかげんできるのに、逆の順でやったのではついミルクを入れすぎるではないか」(『一杯のおいしい紅茶』、朔北社)。また、私やオーウェルとはまったく逆の理由で、林望氏はミルクを先に入れるという。紅茶の濃さにかかわらず、どんな時でも一定量のミルクを入れたいから、と。
 みんな、それぞれに好みの流儀がある。お互いに「あんたが絶対間違っている」と頑固に自説にこだわるだけだとしても、基本的にこの手の論争は平和で楽しい。そのため、私も自分の流儀を曲げるつもりは全くないくせに、他人の流儀には興味津々で、いろんな人の紅茶談義を楽しく読ませてもらっている(変わった流儀と言えば、私がもっとも解せないのは、ティーカップに入った紅茶をわざわざ受け皿にこぼして飲むというスタイル。あれは一体何故なんだ? ノルシュテインのアニメーション、『外套』でもアカーキー・アカキエヴィッチはそうやって飲んでいたけれど)。
 私の座右の銘(のうちの一つ)は、大島弓子のエッセイマンガに出てきた「お茶を飲むにはキバはいらない」(『大島弓子選集8 四月怪談』、朝日ソノラマ)である。どんな流儀だろうと、どんな種類だろうと、お茶は人の心を和ませるもの。コーヒーはコーヒーで美味しいけれど、お茶を飲んだ時のような「ほっとする」感覚はなかなか得がたいと思う。
 ちなみに、私が普段飲んでいる紅茶は、フォートナム・アンド・メイソンのロイヤル・ブレンドである。勿論、ティーパックではなくて茶葉のほう。時々浮気して別の銘柄を買うことはあるが、結局私にはこのブレンドが一番飲みやすい。確かに私のケチくさい、もとい、つましい普段の食生活からすればかなり割高な品だが、紅茶にだけは少々の贅沢を自分に許している。 

 さて、今年の夏もこのホームページはまた二ヶ月の夏休みに突入させていただく。という訳で次回の更新予定は2003年9月6日。さて、今度はどんなリニューアルになるか、乞うご期待――でもその前に、今回のささやかな更新は、アダムスが何かにつけておすすめしているデパートを含む、アダムス関連の Topics を3点(アーセナルファッジマークス・アンド・スペンサー)を追加。

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2003.9.6.  お引っ越し

 夏休みの二ヶ月を利用して、新しいホームページ・アドレスに引っ越した。
 私としてはアドレスの変更などしたくなかったが、プロバイダーのサーバ移転に伴い、前のアドレスは2004年3月末に停止すると脅されては仕方がない。しかし、これは私の自己都合ではなくあくまでプロバイダー側の問題なのだから、「新しいアカウント取得」だの「メールの設定」だのもさぞや手取り足取り説明してくれるのだろうと思いきや、意外にそっけない通知が届いただけで面食らった。本当に、世間の人はみんなこんな簡単な説明だけで迷いもせず設定できるのだろうか。それに、何かにつけて「詳細につきましては弊社ホームページをご覧ください」と書かれている割には、弊社ホームページの中から該当の説明ページにたどり着くまでがまたややこしい。私はADSL接続だからまだいいようなものの、普通のダイヤル回線で接続していたとしたらたまらないぞ。
 言われた通り弊社ホームページ上でもさんざん調べた挙げ句、それでもやっぱり自分では解決できなくて、結局サービスセンターだのテクノロジーセンターだのにも電話する羽目になったし、本当にもう、どうしてこんなにややこしいんだろう。え、これってまさかひょっとして、加入者を減らすための迂遠な計画だったりするのか、イッツコム!?
 ……私の被害妄想はさておき、無事この新しいアドレスまでたどり着いてくださったみなさま、本当にどうもありがとう。
 今後、ブックマークはこちらのアドレスでお願いします。

http://home.u08.itscom.net/hedgehog

 正直なところ、この新しいホームページ・アドレス名はややこしすぎて、自分でもまだ憶えていなかったりする。
 私のコンピューターの師匠でもある友人は、私と同じプロバイダーに契約していたが、今回のサーバ移転騒動を機についに独自ドメインを取得してしまった。そして、新しいホームページ・アドレスが憶えられないとグチる私に、それなら自分も取得すればいいじゃないかと唆す。
 確かに、「独自ドメインを持てば、プロバイダーの都合でアドレスをコロコロ変更させられずに済む」し「アドレスもシンプルでわかりやすい」というのはものすごく魅力的だ。でも、日頃 PHP だか asp だかいうプログラム言語を駆使して仕事をしている友人と違って、JAVA Script一つ使ったことがなく、今回の引っ越し手続きでも「ところで、アカウントって何だっけ?」という低レベルの疑問で固まってしまうような人間が、いきなり独自ドメインに手を出してどうするんだという気もする。それとも、私が知らないだけで、今ではみんなもっと気楽に独自ドメインを取得しているのだろうか。

 と、ホームページの中身の充実とはまったく関係のないことで足掻いているうちに、2ヶ月の夏休みは過ぎ去ってしまったけれど、引っ越し以外の更新としては、メインページのリニューアルに加えて、アダムス関連の地図を3枚を追加。イズリントンの地図なら、この私におまかせください。

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2003.9.13.  イズリントンの地図を作るには

 イズリントン地区の詳細な地図を作成しようと思って、日本で普通に販売されているロンドンのガイドブックをチェックしてみても、そこに挟まれている地図のほとんどはキングス・クロス・ステーション辺りで終わっている。一般の日本人旅行者にそれより先の地図は必要ない、ということだろう。実際、行く用事も観光スポットもないし。
 そこで、前回の更新に向けて私がDNA関連イズリントン地図なるマニアックな代物をこしらえるに際しては、主に3枚の地図のお世話になった。
 一つは、近所の旅行代理店に置かれていた無料配布のロンドン地図。ガイドブックに挟まっているものに比べればわずかながら広域の地図で、かろうじてアッパー・ストリートまで収まっている。それに、ガイドブックの間に入っているのと違ってこちらは1枚モノだからガバっと広げて見ることもできるし(え、ガイドブックに入っている地図なんか切り取って見ればいいじゃないかって? 残念ながら、私はどんな形であれ本を傷つけるのは嫌いなのだ)、また英語表記と日本語表記が並んでいるので、ストリート名の日本語表記については参考にさせてもらった。ただし、大まかすぎて細かいストリート名が省略されているから、この地図だけでは分からないことは多い。
 2枚目の地図は、イギリス製の「London A-Z」。さすがにイギリス製だけあって、この地図はイズリントンなんざまだまだロンドンの中心部、と思わせてくれるほど、かなり広域をカバーしている。そして、とにかく詳しい。どんなにちっぽけな通りや公園も、あまさず載せられている。しかも、アルファベット順の索引が付いているので、ロンドンの一体どの辺りにあるのかまるで見当がつかない場合でも即座に探し出すことができる。素晴らしい。
 が、残念なことに、この地図にも欠点はある。細かいストリート名まで全部記載しようとすると、人の目が読めるもっとも小さい活字を使ったとしても、実際の通りの縮尺よりも、地図上の通りのほうが太くなってしまうのだ。つまり、この地図だけを見ていると、ロンドンには建物が建つ余地などないんじゃないかと思ってしまうほど、地図の上は道だらけになっている。方向とか位置関係がいくら正確でも、これでは何というかあまり現実の「街」のイメージが湧いてこない。
 そして、3枚目の地図の登場である。イズリントン・カウンシル発行の、その名もずばり、「Islington -A tourist Guide」。しかも、副題が「The Real London」ときたもんだ。
 私はこの地図を、大学3年生の春休みに友人と二人でロンドンを旅した時に泊まった、ヴィクトリア・ステーション近くの安いB&Bの受付で見つけて狂喜乱舞した。今から10年以上も前のことである。イズリントン地区に近いキングス・クロス・ステーション近辺のB&Bならまだしも、ヴィクトリア・ステーション近辺からわざわざイズリントンくんだりまで出かけていく観光客がどれほどいるだろう。実際、この地図に書かれたイズリントン・カウンシルご自慢の観光スポットはどれもあまりにマイナーでマニアックで、たまたま地図を手に取った観光客の心をつかむようなものはほとんどない。当時、あの格安B&Bで、「イズリントン」という地名に色めき立った外国人観光客は私以外には誰もいなかったんじゃないかと思う。
 だが、私にとってはこの地図はまさにお宝情報満載だった。さすがはイズリントン・カウンシル製作、単なる道案内にとどまらず、観光スポットの説明文もちゃんと写真入りで添えられている。実際、この地図がなかったら、ロイヤル・アグリカルチュラル・ホールコリンズ・ミュージック・ホール跡も、私にその場所や史実を調べ出すことができたかどうかすこぶる怪しい。ただし、何事にも一長一短があって、デザイン製を優先された地図そのものは少々正確さに欠けるところがあり、道の位置や数については「London A-Z」と付き合わせる必要はあったが。

 正直なところ、2ヶ月の夏休みを決め込んでいると、夏休み明けから始まる週に一度のホームページ更新が気鬱に感じられてくる。金儲けのためでもなく、特定の誰かのためでもなく、どうして私はこんな面倒なことをやっているのか。でも、とりあえず夏休み明けの更新の目玉(?)として、イズリントン地区の地図を作ることに決めて、イズリントン・カウンシル製の古い地図を久しぶりに取り出した時、かつての私がこの地図を片手に、観光客なんか誰もいないリージェンツ運河沿いのしょぼい小道を夢見心地で歩いたことを思い出した――アダムスが書いた小説の舞台に、今この自分が実際に立っているのだ、と鼻息も荒く興奮すると同時に、ロンドンに数多ある立派な美術館や建築物をそっちのけにして、小汚い運河の写真を撮りまくっていることのバカバカしさに自分でも笑ってしまった、あの時の私を。
 何てこった、今の私がやっていることも考えていることも、あの頃からちっとも変わっていないじゃないか。
 良いも悪いも、それが私。だとしたら、私の手元に更新できる情報があるうちは、たとえ面倒でも無意味でも更新を続けるしかないね、やっぱり。

 という訳で、気を取り直して今週も来週もさ来週も更新は続けるつもり。そして今週の更新内容は、ロンドンの片隅の地図から一転して、アダムス関連の世界地図を追加。

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2003.9.20.  フィレンツェ・イスタンブール・ニューヨーク

 アダムス関連の世界地図に載せた9つの地名のうち、私が実際に行ったことがあるのはフィレンツェイスタンブールニューヨークだけである。
 フィレンツェとイスタンブールには、アダムス同様、私も貧乏な学生時代に旅をした。そしてこの二つの都市は、これまでに私が行ったことのある海外の街の中でも、その美しさと美味くて安い食事という2つの面で、ベスト1とベスト2に輝いている。どちらが1位でどちらが2位かについては、未だに決めかねているくらい。
 でも、そんなに気に入っているくせにどちらの都市も10年以上前に一度訪れたきり、機会がなくて再訪していない。だから、これまたアダムス同様、私が愛しているのは私の記憶の中にある、空想上のフィレンツェでありイスタンブールである。フィレンツェで初めて知った、カプチーノという種類のコーヒーに漂うシナモンの匂いも、イスタンブールで出会った、丸いガラスの器に入れられたトロトロのプリンの舌触りも、無知で貧乏で始終腹を空かせていたあの頃の私には天にも昇る美味だったけれど、今の私が同じものを口にして、同じように感動するかどうかは怪しい。勿論、そうであってほしいとは願っているが。
 ニューヨークには、今を遡ること6年前に、友人2人と旅行した。ちょうどニューヨークの治安が良くなってきたというニュースが流れていた時期で、特にニューヨークで何がしたいという訳でもなかったけれど、一生に一度はあの街を体験してみたいし、ならば今は好機かも、と、友人たちと不意に思い立ってかなり衝動的に計画を立てたことを記憶している。
 6年前のニューヨークでは、私が想像していた以上にのんびりしていて気さくな街、という印象を受けた。カルヴァン・クライン本店では、私が買おうとしたバッグに値札がついておらず、しかもそれがバーゲン品で最後の一点モノだったため、他の品の値札をみることもできなくて店員たちがよってたかって台帳をひっくり返するも10分経っても20分経っても一向に値段が判明せず、私と友人はイスをすすめられ、しまいにはドリンクまで提供された。日本円に換算してたかだか3万円かそこらのバーゲン品を買っただけで、カルヴァン・クライン本店でコーラをご馳走になった日本人観光客は私たちくらいのものだろう。
 また、ロンドンに比べてニューヨークの大型書店はどこも「どこが大型?」と首を傾げたくなる程度の広さしかない上に、どの店でも同じようなベストセラー本ばかりが大量に並べられていたのも印象的だった。そうそう、ニューヨークの書店と言えば、先日WOWOWで放映されたニューヨークが舞台のテレビ・ドラマ「SEX AND THE CITY」(第5シリーズ「魅惑のカバーガール」)を観ていた時のこと、珍しく主人公とその友人が書店を歩き回るシーンがあって、その時、ほんの一瞬ながら、平積みになった本の中にハードカバーの The Salomon of Doubt が写っていて、思わずビデオを巻き戻して確認してしまった。ピントは人物に合わせてあるため(当たり前だ)はっきりとは見えないけれど、あれは絶対そうだったと思う。あのドラマの撮影時には、ニューヨーク中の大型書店で The Salomon of Doubt がどーんとディスプレイされていたんだろうな、きっと。
 一つの街にほんの数日間、観光客として滞在したところで、その街のことなどたいして分かるはずもない。たまたま入った店の店員に親切にされれば「外国人に優しい街」になり、つっけんどんに応対されれば「感じの悪い街」になるのがオチだ。が、それでも実際にその街の空気吸って、道を歩いてみれば、街の距離感や匂いを実感することができるし、日本に戻って後に本やテレビでその街をみれば、行く前よりもずっと親近感を持つことができる。2001年9月11日以降のニューヨークが、私にとってお気楽な物見遊山で遊びに行けるところではなくなってしまったことを思えば、そういう意味でも行ける時に行っておいて本当によかった。

 そして今週は、世界地図のグレート・バリア・リーフ地区の、拡大地図を追加。アダムス一押しのサンタフェもいいが、私にはこちらの島のほうが魅力的だ。

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2003.9.27.  ハネムーン・アイランド?

 運動は嫌いだし苦手だが泳ぐのだけは好きなので、スキューバダイビングを体験してみたいと思ったことがある。が、初心者はまず船酔いプラス波酔いを乗り越えるのに一苦労、という体験者の話を聞いて、瞬時に熱が冷めてしまった。
 ダイビングに興味がなくなったのを境に、いわゆる「マリンリゾート」にもぱったり関心がなくなった。そのため、かの有名なグレード・バリア・リーフでさえ、いざ地図を作る段になってそもそもオーストラリアのどの地域なのかというレベルから確認しなくてはならない有様。勿論、マリンリゾート云々の問題ではなく、世界最大の珊瑚礁の場所くらいは一般常識として知っていてしかるべきと言われれば、反論の余地もございませんが。
 という訳で、グレート・バリア・リーフの中にあるヘイマン島など、島の名前すら聞いたことがなかったが、イトマキエイなんかが出没するくらいだからどうせマイナーな島なんだろうと勝手に決めつけていたら、アダムスのエッセイによると日本人新婚旅行客で一杯だという。ならば、グレート・バリア・リーフの拡大地図を作る参考資料は、書店で売られている普通のガイドブックよりも、駅前に大量に並べられている旅行代理店の無料パンフレットの中にあるはず、と、オーストラリアの、それもハネムーン旅行者向けのを片端から集めて持ち帰ったところ、どのパンフレットにも出てくる出てくる、オーストラリア・ハネムーン旅行のワンランク上のツアーとして、どこの代理店でも設置されているではないか。説明文をよく読むと、何とまあヘイマン島唯一のホテル、ヘイマンアイランドリゾートには、日本語で応対してくれるリゾートスタッフまで待機しているらしい。何だか「英国王室御用達」というよりも「日本人専用」の趣だが、ヨーロッパから遠路はるばるオーストラリアまでやってくる客を募るよりも、手近な日本人観光客を誘致するほうが、ホテルの経営としては正しい判断と言うべきなのだろう。
 とは言え、ホテル料金が格段にお高いヘイマン島に、この私が行く日が来るとはあまり思えないけれど、でも今もなお私の部屋の床に散らかっている大量のオーストラリア旅行のパンフレットを眺めていると、グレート・バリア・リーフに日帰り旅行が可能なケアンズ辺りには一度行ってみたい気はする。ダイビングをする技術や体力や根性がなくても、近頃では「ヘルメットをかぶるだけでお手軽に水中散歩を楽しめます」というのが売り文句の、シーウォーカーなる装置も開発されているようで、これなら私にも何とかなりそうだ。そうそう、コアラはどうでもいいがカンガルーとかワラビーは好きだし(あれ、ケアンズにカンガルーはいなかったっけ? オーストラリア大陸ならいつでもどこでもカンガルーが飛び跳ねていると決めつけているのは、きっとひどい偏見なんだろうな)。
 まあ、機会があったらそのうちいつか。

 そして今週の更新は、これまた世界地図に載せてある高級マリンリゾートの話。ただし今度は地図ではなく、南フランスのジュアン・レ・パンにて、アダムスが書いたエッセイを追加。

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2003.10.4.  南仏プロヴァンスで数か年

 アダムスが『銀河ヒッチハイク・ガイド』10周年記念のエッセイを書いた、ジュアン・レ・パンという場所が地球上のどこにあるのか分かったのは、インターネットの検索機能のおかげである。でなければ、見当のつけようもなかった。
 ジュアン・レ・パンが南フランスのニースから電車で30分ばかり行ったところにあるリゾート地、と分かってしまえば、1993年に発売されたペーパーバック版 Mostly Harmless の著者紹介欄で、"He lives partly in Islington, London, partly in Provence, France" と書かれていたのも納得できる。ジュアン・レ・パンはコート・ダジュールで、プロヴァンスではないのでは、と一瞬疑ったけれど、大丈夫、コート・ダジュールもプロヴァンス地方の一部だった。
 プロヴァンス地方と言われて、ミーハーな私が真っ先に思い出すのは、勿論ピーター・メイルの『南仏プロヴァンスの12か月』である。この本に書かれていたプロヴァンスは、フランス嗜好のまったくなかった私をして「行ってみたい!」と思わせる程に魅力的だった。実際、この本がきっかけで英米及び日本の観光客がどっと彼の地に押し寄せることになったとも聞く。そして、あっという間に観光客で一杯になったプロヴァンスを、当のメイル自身が見放してロスアンジェルスに引っ越してしまった、という話も。
 この本が日本で出版されたのは1993年のこと(蛇足ながら、私の持っている本の奥付をみると、「1993年1月22日 初版発行/1992年4月28日 13版発行」となっていて、たった数ヶ月で13版とはたいした売れ行きだ、と思ったら、よく見ると13版発行が何と1992年になっているではないか。これは1993年、それとも1994年の間違い?)。が、イギリスで出版されたのは1989年のことで、同じ年にイギリス紀行文学賞を受賞した。つまり、『南仏プロヴァンスの12か月』が大ベストセラーとなった時期と、アダムスがプロヴァンスに滞在していた時期はほぼ重なる、ということになる。
 アダムスが引っ越しを決めるタイミングのほうが、この本の出版よりも微妙に早そうだから、「これを読んで南仏への移転を決めた」ということはさすがになさそうだけれど、ではジュアン・レ・パン滞在中のアダムスは、『南仏プロヴァンスの12か月』を読んだのだろうか? もし読んでいたとしたら、一体どんな感想を持ったのだろう?
 ピーター・メイルとダグラス・アダムス。まるで重ならない二人の作家。でも、実は二人の共通点はたまたま同時期にプロヴァンスに目を向けた、というだけにとどまらない。二人とも結局プロヴァンスを去ってアメリカに住むことになった、というだけでもない。1990年にアダムスが絶滅寸前の稀少動物をテーマに、 Last Chance to See を発表しているのに対し、メイルは1981年に絶滅してしまった動物をテーマに、As Dead as A Dodo (『ドードーを知っていますか』 ベネッセ)という絵本を出しているのである。しかも、アダムスが動物学者マーク・カーワディンとの共著なら、メイルもポール・ライスと共著、というより「『ドードー』を書くにあたってはポールがアイディアを提供し、文の仕上げはピーター・メイルが担当したらしい」(p. 17)。
 勿論、すべては単なる偶然の一致、あるいは私のこじつけにすぎないのだろうけれど、ちょっと不思議な関係じゃないか。

 そして今週の更新は、言語学者スティーブン・ピンカーについて。ピンカーの著作は、アダムスも間違いなく読んでいる、はず。

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2003.10.11.  前略 ピンカー殿

 前回の更新で追加した、アダムスおすすめの言語学者スティーブン・ピンカーについての説明書きはほんの数行しかないけれど、あれだけ書くにも私には塗炭の苦しみだった。
 進化心理学といわれても何が何だかさっぱり分からないので、ピンカーの著作のうち、日本語に翻訳された2作品『言語を生みだす本能』と『心の仕組み』については図書館で借りて読むことにしたのだが、これがまた読みづらいの何の。
 『言語を生みだす本能』については、英語の構文を例に挙げて、文章の構図を説明しているものを、日本語に翻訳して書かれているため実にわかりにくかった。「文法的には正しくても実際に読んでみると違和感のある文章」と、「文法的には難アリかもしれないが、読み手としては意味を理解しやすい文章」という例文を、英語とその日本語訳で並べられても、皮膚感覚で英語を理解できない私にとっては「はあ、そうですか」と呟くしかないではないし。と言っても、ちゃんと英語と日本語が併記されている以上、翻訳者や編集者に文句を言う筋合いはないのだが、あ、でも一つだけ少しは正当性があって建設的なクレームをつけるとすれば、「この本は、縦書きではなく横書きで出版したほうが良かったのでは?」。
 『心の仕組み』の方はと言うと、第1章はともかく、第2章で早くも絶望的な気分になった。心的ソフトウェアのモジュール化だの、コンピューターを使っての論理ゲートだの、コンピューターのプログラミングを手がけたことのある人にはお馴染みの用語や考え方なのかもしれないが、これだけでも私には意味不明で読み進めるのが苦痛だというのに、この論理式を具体的に説明するために持ち出された例文がよりにもよって、「 The baby ate the slug.(赤ちゃんがナメクジを食べた)」(pp. 178-179)。
 想像しただけで吐き気を催す、と思ったのは私だけか?
 不幸中の幸い、第2章以降はもう少し読みやすくなったけれど(とりわけ第3章はリチャード・ドーキンスの説をそっくり引いているだけなので、『利己的な遺伝子』と『ブラインド・ウォッチメイカー』を読破済みの私にはとりわけ簡単)、意味が分かれば分かったで、今度は書かれている内容そのものに反発したくなってきて困った。

ヤノマモ族の村と村は、たえず襲撃しあう。四〇歳以上の成人の七〇パーセントが暴力で家族を失う。(略)原始的な戦争は動員が徹底的で、交戦頻度も高く、戦死者が多くて捕虜は少なく、武器は大きな殺傷力をもっていた。(略)狩猟採集社会では、男が女を手に入れるため、あるいはとどめておくために戦争をするのだ。(略)西洋社会の戦争は多くの面で原始的な戦争とは違うが、少なくとも一つ、似ているところがある。侵略者が女をレイプあるいは誘拐するところだ。(略)戦時のレイプが顕著でないときでも、私たちはヤノマモ族と同じように戦争の指導者に大きな名声を与えている。そして、もうおわかりだろうが、名声は男の性的魅力に影響をおよぼし、また最近までは繁殖成功度に影響をおよぼしていたのである(『心の仕組み(下)』pp. 130-134)

 生物学的に正しいご説をどうもありがとう。では人類に平和な未来はあり得ないのかと言うと、そういう訳でもないらしい。

恐ろしい物事がときには長年の流血の末に、ときには煙のようにあっけなく、完全に消滅してきた。奴隷制、ハーレムをもつ独裁者、植民地制服、血讐、財産扱いされる女性、制度化された人種差別、反ユダヤ主義、年少者就労、アパルトヘイト、ファシズム、スターリン主義、レーニン主義、それに戦争が、何十年も何百年も何千年もそれに悩まされてきた広範囲な地域から消えた。アメリカでもっとも堕落した都会のジャングルでも、殺人事件の発生率は、おおかたの狩猟採取社会のそれの二〇分の一以下だし、現代のイングランド人が殺人の被害者になる見込みも、中世の先祖の二〇分の一以下である。
 脳が大昔から変わっていないとすれば、なぜ状況が改善されたのだろうか? 識字能力や知識や思想のやりとりによってある種の搾取が徐々に減ってきたことが要因の一つだと私は思う。(略)搾取者を偽善者あるいは愚者に見せるような情報の組み立て方が可能だということである。私たちは利己的な本能の一つ(利益や競争を口実にした権限の主張)をうまくほかの人に向けることができる。生々しい苦しみをありありと表現したものをあらゆる人が目にする時代に、被害はないと主張することはできない。(同、pp. 141-142)

 インターネットの研究者業績一覧サイトに載せられた彼の個人情報をみると、ピンカーはカナダに生まれ、アメリカに移住し、1980年にアメリカ国籍を取得、ついでに宗教はユダヤ教だそうな。
 そのピンカーに言わせれば、反ユダヤ主義は完全に消滅したらしく、それならそれでめでたい限りと私も思うが、では改めてお伺いしたい。アメリカのイラクへの攻撃について、あるいは現在のイスラエルとパレスチナの泥沼状態について、あなたはどう考えていますか? あなたの言う、戦争がなくなった「広範囲な地域」とは、地球上のいつの時代のどの地域のことですか? 「中国における漢・唐・宋・明・清の諸王朝の時代、あるいは中東におけるアッバース朝やオスマン朝・ムガール朝の時代など、広大な地域に二、三百年程度の天下泰平がつづいた時代は、ざらにありました」(三木亘著『世界史の第二ラウンドは可能か』、p. 17)よね? それに比べて、二十世紀以降の人間は、至るところで戦争や民族虐殺ばっかりやっているとは思いませんか? アメリカ国内におけるアメリカ人同士の殺し合いは、あなたの言う「原始的な部族」(同、p. 130)よりも少ないのかもしれませんが、紛争解決という名のもとにアメリカ人がアメリカ国外で殺した外国人の数は一体どのくらいの数になるのか、考えたことはありますか?
 研究業績と個人の信仰は無関係であるべき、と私は思う。だから大真面目な研究業績サイトの個人業績欄に宗教を記載するのは、「好きな色」を挙げるのと同じくらい意味がない、とも思う。だが、知ってしまえば読み手である私もつい余計なことを考えて、立ち止まらずにはいられない。あなたが言う「改善」って一体何なんだ、と。

 ともあれ、これ以上生半可な知識と先入観で政治や歴史について語る愚を犯すのはやめにして、今週の更新はアダムスが考えるところの「宇宙の支配者」について。それから、続々と入ってきたノルシュテインに関する最新ニュースも追加。
 進化よりも改善よりも、やっぱり平和が一番でしょ。

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2003.10.18.  新刊ラッシュ

 先週更新分の同コーナーで、私がスティーブン・ピンカーの著作『心の仕組み』にいちゃもんをつけまくった翌日、朝日新聞朝刊の書評面にこの本が取り上げられていて驚いた。

高度な内容なのに文章は平明でユーモアたっぷり。しかも前人未踏のスケールなのにアプローチは実に正当で骨太なのも驚き。読後もしばらく脳が火花を散らす名著だ。(2003年10月12日朝刊、p. 13)

 だそうな。
 おっしゃる通り、私の脳にも確かに火花は散ったけれども、それは難解さと憤りで回線がショートしかけたせいだった。きっと、私には余計な先入観はあれどまっとうな知識がないせいで、ピンカーの文章を正しく理解できなかったのだろう。という訳でみなさま、どうか私の罵詈雑言は無視して是非ご自分でお読みくださいませ。
 しかし、この本が出版されたのは、上巻・中巻が6月、下巻が7月で、もう2ヶ月以上も前のことである。新刊書の紹介コーナーというからには、せいぜい出版後1ヶ月かそこらで取り上げられるのかと思いきや、随分のんびりしている。今頃になって掲載されても、ほとんどの書店の新刊書コーナーからとっくに追い出されてしまっているのでは?
 が、考えてみれば、普段私が新聞で新刊書情報を得るのは書評欄ではなく、もっぱら各出版社の広告欄のほうで、書評欄で見つけるのは書店で実物をためすすがめつした後、というパターンのほうが多い。夥しい数の新刊書が次から次へと出版される時代だからこそ、出版とほぼ同時の素早い書評が求められるようでいて、逆にどうせ間に合わないんだからとゆっくり、もとい、じっくりと読んでから書けばいい、という考えなのだろうか。せっかちな私としては、書評は発売からせいぜい2週間以内、映画評・劇評なら上映・公開開始から5日以内には出揃ってほしいと思うのだが、執筆者のみなさんはそれだけ書いて生活している訳でなし、無茶な注文なんだろうなあ、きっと。

 新刊情報、と言えば、前回の更新で一気にノルシュテイン・コーナーの最新ニュースを追加したのだが、やはりこれは11月のラピュタ・アニメーション・フェスティバル開催に向けての流れなのだろうか。いやはや、お金がいくらあっても足りません、てなことになりそうで、有難いったらありゃしない。
 今年8月に発売された雑誌「エスクァイア日本版」の別冊、『アート&アニメーション』によれば、連句アニメーション『冬の日』は、東京・渋谷のユーロスペースで上映予定じゃなかったっけ? それがいきなりDVD-BOX発売に切り替わるなんて、そりゃ嬉しいことは嬉しいし、しかもその製作過程を追ったメイキングまで付いて発売されるなんて、ファン冥利に尽きると言えば尽きるのだけれど、しかしそれにしても、定価36000円ですか……。
 更に、今なお発売日不明の謎の豪華本、『ジ・アート・オブ・ノルシュテイン』には、一体いくらの定価がつくのやら。ジブリ美術館ホームページによれば、どうやら発売は11月中旬になるみたいだけれど、早く出て欲しいような、でも私の財政事情を鑑みるともうしばらく遅れてくれてもいいような、複雑な気分。
 でも、どっちにしろ買うことだけは間違いない。『冬の日』のDVD-BOXはもう予約済みだし、豪華本も詳細が分かればすぐ予約するだろうし、11月からジブリ美術館で始まる展示会でも散財するだろう、きっと。
 高度資本主義社会においては、迷わず懐を叩くことだけがファンとしての心意気を発揮する唯一最大の手段だと、自分勝手な屁理屈をつけて。

 そして、今週もまだまだ新刊ラッシュは続く。ノルシュテイン関連本の更なる新刊情報に加えて、今度はアダムスの公式伝記本もついに発売!
 その他の更新としては、前回アダムス・コーナーで追加した宇宙の支配者役を、演じ損ねた役者、ジョナサン・プライスについて。

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2003.10.25.  ジョナサン・プライスについて

 ジョナサン・プライスと言えば、真っ先に浮かぶのはテリー・ギリアム監督のカルト映画『未来世紀ブラジル』だろう。それなりに体制に適応しながら生きていた一役人が、ほんの些細なほころびから、悪夢のような現実と、現実のような悪夢に振り回されていく話。
 私はこの映画を、名画座で二本立てのうちの一本として観た。ちなみに併映されたもう一本の映画は『蜘蛛女のキス』。どちらも素晴らしい映画だし今でも大好きだが、しかしこの組み合わせはちょっと凄い。「南米つながり」ということでいいのかしらん。
 ともあれ『未来世紀ブラジル』は、日本人としては「?」な場面もあるけれど、それでもあの映像とストーリーは強烈で、私はいっぺんにギリアムの大ファンになった。プライスも勿論良かったけれど、でも私としては彼の役者としての素晴らしさに瞠目したのは、主役を務めた『未来世紀ブラジル』ではなく、ギリアムの次の作品で、ほんの脇役として登場するだけの『バロン』のほうだった。
 この映画でプライスは、『未来世紀ブラジル』で演じた役をきれいに反転させて、形式を整えることだけに腐心する、絵に描いたような「役人」をコミカルに演じる。コミカルと言っても、大げさだったりおふざけだったりする訳ではない。それどころか、プライスはあくまで大真面目である。真面目にやっているからこそ、逆に形式一辺倒のお役所仕事ぶりが強調され、観ていて実に笑える。もっともギリアムに言わせれば、「僕はジョナサンに下品に演じさせすぎた。もっと抑えた威圧感のある演技にしていたら、あの役はさらに興味深いものになっただろう」(『映像作家が自作を語る テリー・ギリアム』、p. 247)とのことだが。
 今となって改めてプライスの出演映画リストを眺めると、やはり基本的にシリアスな役柄が多い。『キャリントン』とか『エビータ』とか、どの映画でも彼にしかできないと思わせるような演技を見せてくれてはいるが、私個人の趣味としては、『バロン』で見せてくれたような資質を生かしたコメディ作品がもっとあってほしかった。『ジャンピン・ジャック・フラッシュ』はコメディだけど、彼はそういう役では出ていない。どういう役かを説明すると映画の楽しさが激減するので、是非ご自分でご確認あれ。数あるウーピー・ゴールドバークのコメディ映画の中でも、これはかなりおもしろい作品だと思う。
 最新作『パイレーツ・オブ・カリビアン』では、総督役とは言え好々爺一歩手前のお父さんも同然で、せっかくジョニー・デップ扮する海賊があんなに魅力的なのに、相打つはずのプライスがこんなに「普通」ではもったいない、と内心憤慨したが、まあ「立派な総督だが、大事な一人娘の前ではただの父親」という役柄である以上は、プライスの演技で正解なのだろう。
 ま、プライスについては次の新作にこそ期待できる。何てったって次回作は、プライス3度目のギリアム映画だ。一作目、二作目とも、映画製作過程はそれぞれ1冊ずつ本が出版されてしまうほどの泥沼だった(『未来世紀ブラジル』についての『バトル・オブ・ブラジル』に続いて、『バロン』についての本、Losing the Light も誰か翻訳してくれればいいのに)ようだが、この映画は無事撮影・編集終了、配給・上映決定、と、トントン拍子に進んでくれますように。
 
 そして今週は、プライスに引き続きイギリスの大物俳優、ジム・ブロードベントを紹介。アカデミー賞受賞歴のある彼も、25年ほど前はまだ無名の役者だったらしい。

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2003.11.1.  スペイン国立バレエ団ヴァージョン

 ジム・ブロードベントが一躍その名を知られるようになったのは、やはりアカデミー賞助演男優賞を受賞した、映画『アイリス』でのアイリス・マードックの夫、ジョン・ベイリー役だろう。というか、私はこの映画でようやく彼の顔と名前を憶えることができた。
 ちなみに、『アイリス』を監督したリチャード・エアは、『アイリス』を含めこれまでに3本の映画を監督しているが、どちらかと言えば主に舞台演出を中心に手がけている。ケンブリッジ大学卒で、在学中は他でもないフットライツのメンバーだった。フットライツでは、演出よりも役者として活動していたようで、1963年頃には、後のモンティ・パイソンのメンバーの一人、エリック・アイドルと一緒に舞台に立ったこともある。それがどうした、と言われればそれまでだが、ほんのマメ知識ということで。

 ところで、舞台と言えば先週末、東京・Bunkamuraオーチャードホールで、スペイン国立バレエ団の公演を観てきた。演目は、このバレエ団の有名なレパートリーの一つである「ダンサ・イ・トロニオ」と、それから待ってましたの「アンダルシアの嵐」。 
 1995年1月に、アントニオ・ガデス舞踊団が新作「アンダルシアの嵐」を上演したのを初めて観た時は、一時は引退を宣言していたガデスが復帰した嬉しさと、引退宣言を撤回して新たに創り上げた作品のあまりの美しさに、上演中ひっきりなしにボロボロ泣いた。ここは泣くようなところではないだろうと頭では分かっていても、洗濯の場面は特に泣けた。それから、あのアンコールではあまりの、あまりの美意識と見識の高さに、歓声というより悲鳴に近い声を上げた記憶がある。
 今回のスペイン国立バレエ団ヴァージョンでも、ガデス自らが振りうつしをしただけのことはあって、ガデス舞踊団の時ときっちり同じ演出が行われていた。多少の変更はあったのかもしれないが、少なくとも私には違いを見つけられなかった。そして、案の定私は洗濯の場面でまた泣いた。なぜあの場面で泣くのか、自分でも理由はよく分からない。それから、あのアンコールのスタイルもまったく同じに再現されていたのも嬉しかった。
 「あのアンコール」が具体的にどういうものなのか、知らない人には知らないままに観てびっくりしてほしいのでここでは書かないけれど、でも分かっていて観てもやっぱり凄い、素晴らしい。ただ、このアンコールに対して、ガデス舞踊団の時は私自身が発したのと同じような「うおおおおおおおお」という声が会場全体から湧き上がったのに対して、今回のスペイン国立バレエ団の時には、私の周囲から「わはははははは」という明るい笑い声が上がったのに驚いた。いや、別にバカにしているとか、つまらないと思ったとかいうことではなく、どうもとても感動した結果としてそういう反応になったらしいのだが(幕が下りた時に、明るく笑った人たちが心から感激した旨を話しているのが聞こえたし)、要するに「ウケた」ということでいいのかな……?

 という訳で、今週の更新は、スペイン国立バレエ団と、同バレエ団の現在の芸術監督エルビラ・アンドレアスについて。残念ながら、この文章を追加する頃には日本での公演はすべて終了してしまっているのだけれども。
 それから、直接の関係あまりないけれど、ノルシュテイン関連新刊ラッシュの中で、こういう本まで出たので一応ご紹介。勿論私は買いましたとも。

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2003.11.8.  最新ニュースがいっぱい

 先週の更新と今日の更新の間の11月3日に、ノルシュテイン・コーナーの最新ニュースを急遽追加した。
 夏休みや冬休みの長期休暇中に、ニュースだけを追加することは時々あったけれど、毎週更新の合間に追加するのはこれが初めてかもしれない。そりゃダグラス・アダムス死去のニュースはあったけれど、あれは例外中の例外。
 あくまで私個人の趣味のサイトなのだから、そこまで火急を要して更新する必要などなくて当然だが、今回ばかりは11月下旬のノルシュテイン来日に向けて、にわかに続々と新情報ならびに情報の訂正が伝わってきて、こりゃ8日の定例更新日を待っていられないぞと思った。些末なこととは言え、徳間書店から発売される本のタイトルはどうやら『ジ・アート・オブ・ノルシュテイン』とは似ても似つかないものになったみたいだし、ジブリ美術館で開催される展示会の名称も微妙に変更になっていて、変更になったのを知っていながら前の名称のまま放置しておくのは気に障る。
 ちなみに、11月1日付で追加したノルシュテイン・コーナー最新ニュースというのは、絵本『ミトン』発売のこと。ノルシュテインの絵本『きつねとうさぎ』の発売決定のニュースに比べれば、関連性もインパクトも薄いけれど、これはこれで素敵な絵本だとは思う。基になったカチャーノフのアニメーションは、随分前に『手袋』のタイトルで上映された時に観たが、これまた涙腺と琴線に触れる作品だった。12月からは東京・ユーロスペースにて、『手袋』ではなく『ミトン』のタイトルでレイトショー上映されるとのこと、『ミトン』自体は10分ほどの短篇作品だからきっと何か他の作品と併せて上映されるのだろうが、どういう組み合わせになるのか、そちらのほうも楽しみだ。

 ……と、新しいことが次々と始まる一方で、終わりを迎えるものもある。2001年末から日本で大ブレイクしたカチャーノフのアニメーション、『チェブラーシカ』の日本での配給を手がけたチェブラーシカジャパンが経営していた喫茶店、チェブカフェが2004年1月に店じまいをすることになったそうな。
 そういうこととは露知らず、つい先日チェブラーシカ好きの友人と二人で初めてカフェを訪問した。直接ノルシュテインとは関係がないからという理由で、私のサイトではこれまで一度もチェブラーシカジャパンのこともチェブカフェのことも記載したことはなかったが、一ロシア・アニメーションファンとして前々から気になっていて、公式サイトに掲載されているカフェ日記のコーナー等も読んでいた。読んでいて、どうやら開店当初はえらく混雑しているようなので、もう少し客足が減って落ち着いたところで行ってみよう、と友人と話していて、ようやく実行に移した、のだけれど。
 公式サイトに掲載されていた、店の内装の写真はあらかじめ見ていた。あくまでチェブラーシカを愛する人が集まる場を設けたい、という気持ちで、喫茶店経営には素人の方が始めた店だということも知っていた。が、いざ実際に行って自分の目で見てみると、喫茶店経営についてエラそうにコメントできる立場にはない、というのを重々に自覚した上でそれでもなお「オープンして丸1年以上経つんだから、もうちょっと何とか体裁を整えられないものか」と思わずにはいられなかった。ともあれ、もうじき店じまいということなら、話は別だ。スタッフのみなさま、おつかれさまでした。
 私がチェブカフェを訪れたのとちょうど時を同じくして、2003年10月28日付の朝日新聞19面に、「さまようチェブラーシカ」のタイトルで、チェブラーシカの著作権にまつわる泥沼訴訟が紹介されていた。今回の店じまいがその訴訟沙汰と関係しているのかどうかは知らない。新聞記事を読んだ限りでは、私には原作者のウスペンスキーが少々強欲にも思えたのだが、ウスペンスキーに言わせれば単なる金の問題ではないのかもしれないし、よく分からない。分かったのは、「好きだから」でビジネスを始めることが、いかに思いがけない危険を伴うか、ということ。誠意と熱意だけでは済まされない、それが現実。
 勿論、そう割り切ることは寂しいことでもあるのだけれど。

 そして今週の更新は、このホームページを立ち上げてこのかたずっと事実上の「工事中」状態だった、アダムス・コーナーの「宇宙船タイタニック」を、ものすごく重い腰を上げてようやく更新。こちらもある意味、「好きだから」でビジネスを始めることへの警鐘と言えるかもしれない。

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2003.11.15.  宇宙船タイタニックの悲劇

 鳴り物入りで製作されたコンピューター・ゲーム『宇宙船タイタニック』が、何故かくも見事に売れなかったのか。
 私に言わせれば、その理由は至って簡単。発売のタイミングが悪すぎた、この一事に尽きる。ゲームの出来が今一つだとか、コンピューターでプレイするゲーム自体が既に下火だったとか、そういう問題はおまけにすぎない、とさえ言い切ってしまおう。
 1998年4月。ちょうどこの時期、ある映画が史上空前の大ヒットを記録していた。そう、言わずと知れたあの映画、ジェイムズ・キャメロン監督の『タイタニック』である。タイタニック、と言えば、好き嫌いを問わずみんなの頭の中に反射的に My Heart Will Go On が流れた、あのブームの真っ最中に、タイタニックの悲劇をパロディ化したようなゲームなど売れるはずがないではないか。
 映画『タイタニック』があんなにヒットすることなど、1997年夏の時点では誰も予想していなかった。それどころか、大コケするのがオチだとささやかれていた。だから、当初の予定通り『宇宙船タイタニック』が1997年6月に発売されていたら、誰もこのゲームを映画『タイタニック』の便乗商品だと思わなかっただろうし、売り上げについてももっとマシな結果になったにちがいないと私は思う。1997年12月のクリスマス・シーズン前でも、まだ間に合ったかもしれない。が、1998年4月は最悪。救いようがない。
 それでも、たとえば私のように、ゲームの発売を何年も待ち続けていたアダムスのファンは大勢いたはずで、そういう人間は巷が映画『タイタニック』に沸き返っていようとも頑なに『宇宙船タイタニック』を買い求めるはず、だった。が、そういうコアでディープなファンは、いよいよ今度こそ発売開始という直前になって裏切られることになる。何故なら、最初に1998年4月に発売されたのは、ウィンドウズ版だけだったから。――全く、マック版だけ先行発売、というのならまだ納得できるというものだ!
 ちなみに私は、1997年12月にアダムスの新作ゲームがいよいよ発売、と知るや否や、それまで使っていた、モデムすら内蔵されていなくてワープロ代わりにしか使えない、友人からタダで譲り受けた古い古いマックをお払い箱にして、急遽新しいマックを購入したという、筋金入りのバカである。だからこそ、毎日のように公式サイトの情報をチェックし、12月の発売が延期になったのに「や、やっぱり」と思い、今度こそ発売、の4月になっていきなり「ウィンドウズ版のみ発売」のお知らせを見て我が目を疑った。
 結局私の手元にマック版『宇宙船タイタニック』がやってきたのは、1999年の夏だったように思う。マック版の発売は1999年3月なのに、どうしてそんなに日数がかかったのかと言えば、アメリカでようやく発売になったからと早速オンライン・ショップで注文してみたところ、「国内販売のみ」ということで日本からの購入ができなかったから。
 本当に、手に入れるだけでもやたらと弊害の多いゲームであったが、とどめの弊害はいざゲームを実行しようとマックにCD-ROMを入れた時に起こった。私が1997年11月の時点で購入したマックのOSは7.5で、実際にゲームが発売になった1999年のマックOSの主流は8.0、マック版『宇宙船タイタニック』は一応「7.5以上推奨」となってはいるものの、さまざまなソフトのヴァージョンが古いためか、そのままではゲームが作動しなかったのだ。システムフォルダの設定をおっかなびっくりいじってようやくゲームを開始できた、と思ったら、今度は内臓モデムが起動しなくなってネット接続ができなくなった。何故そうなったか、理由なんか今でも分かりゃしない。
 あれやこれやのトラブル続きで、マック本体まで購入して待っていたにしては私のゲーム熱はすっかり冷めてしまった。そして結局、今に至るもほとんどプレイしていない。英語ができなければ始まらない、というのもネックだったし、それにそもそも私はコンピューター・ゲームは不得手なのだ。
 そしてあの時買ったマック、Macintosh Performa 5440も、今では友人に譲ってしまった。新しく購入したマックでも支障なくゲームが作動することだけは確認したけれど、やはりそれきり手つかずのまま。あーあ。

 そして今週の更新は、宇宙船タイタニック関連のコレクションを公開。本当に、こんなものにお金を遣う前にゲームをするべきなんだろうけれど。

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2003.11.22.  宇宙船タイタニックの悲劇ふたたび

 アダムスの新作コンピューター・ゲームが発売になると知り、ただそれだけの理由でいきなり20万円ほどの金を投じてデスクトップ型のマックを買った、というのは先週の同コーナーで書いた通りだが、ゲーム購入に先駆けて買ったのはマックばかりではない。ゲームの発売が遅れたため、ゲームに先行して発売されることになったテリー・ジョーンズによるノベライズも、アメリカ版ハードカバーイギリス版ペーパーバックの両方を購入したし、それを読んで予習もした。
 さらに、1998年4月に発売されるのはウィンドウズ版のみ、マック版の発売日は未定、と知って、泣く泣くウィンドウズ・マシンも買った、というのはウソ。さすがにそこまではしていない。でも、ゲームの発売とほぼ同時に売り出されたゲームの攻略本は一足お先に購入することにした。
 とは言え、200ページ以上もある立派な攻略本を一応パラパラとめくってはみたものの、それっきり。ノベライズはともかく、英語で書かれた攻略本まで真面目に読む根性も語学力も、そして「コンピューター・ゲームをプレイすることの基礎知識」も私にはなかった。
 私はいわゆる「ゲーム機」を持っていない。ファミコンもプレステも Xbox も、ほとんどやったことがない。興味がないから、とか嫌いだから、ではなく、やれば絶対ハマって抜けられなくなると分かっているから、手を出さないだけである。それでなくても徹底したインドア派で身体を動かすのが嫌いで外に出るのが億劫なのに、これ以上家に引きこもりたくなる要因を増やすのは危険極まりないからである。幸い、私はもう小・中学生ではないので、ゲームの話題についてなくてクラスの仲間はずれになることを恐れる必要はない(大人になるって素敵なことね)。
 さんざん待たされた挙げ句、1999年の夏になってようやく私の手元にマック版『宇宙船タイタニック』が届き、いそいそと箱を開けると、私が先に購入したのとまったく同じ攻略本が入っているのに気づいた時は思わずコケそうになった。なるほど、ゲームの箱をよくみると、印刷された箱の上に「20ドル相当の攻略本も無料でお付けします」という意味の英語のシールが貼られているではないか。なのに、攻略本だけ先に買って、しかもロクに中身も見ないままほったらかしにしておいた私って一体……。
 ともあれ、このゲームの肝は、コンピューターと英語でインタラクティブに対話することにある。英語だけでも手に負えないのに、そもそもアドベンチャー・ゲームとはいかにして進めていくものなのかの見当もつかない、となると、もうどうしていいのか本当に分からない。それでもたかがゲーム、適当に動かしていればそのうち何とかなるだろうとナメてゲームを始めてみたが、宇宙船タイタニックに乗り込んだところで先に進めず完全に立ち往生してしまった。こういう時こそ、何故か手元に2冊も揃ってしまった攻略本の出番なのだが、日本語の攻略本にも不慣れな身には、英語の攻略本にもやはり馴染めないのであった。嗚呼。
 かくして、今度は日本語訳の攻略本が欲しい一心で、日本で発売されたウィンドウズ版『宇宙船タイタニック』を購入した。発売元のホームページに掲載された写真をみると、アメリカで発売されているのとまったく同じデザインの箱に、日本語で堂々「日本語マニュアル&完全日本語版へのアップグレードサービス付」のシールが貼られていて、発売元いわく、結局日本語版へのアップグレードはなくなったそうだけれど、日本語マニュアルは間違いなく入っているとのこと。もし、本当にコンピューター・ゲーム『宇宙船タイタニック』の完全日本語版がウィンドウズ版でのみ発売されるとしたら、その時こそ本気でウィンドウズ・マシンの購入を検討しなけねばならない私としては、そのサービスがなくなったのはある意味めでたいかも、とくだらないことを考えつつ注文した。
 が、そうまでして手に入れた日本語訳の攻略本は、私が期待したような英語の攻略本の全訳ではなく、薄っぺらなリーフレットでしかなかった。そりゃ、それでも確かに「日本語マニュアル」には違いないし、ゲームを注文した際には発売元から「英語がわからないとプレイできないけれど問題ないか」というご丁寧な確認メールまで送られてきたし、英語もゲームもわからないくせにとりあえず金で問題を解決しようとした私が一番悪いんですけどね、はい。

 気を取り直して今週の更新は、アダムスと意外なところで接点があった、イギリスのSF作家、クリストファー・プリーストについて。それから、ノルシュテイン・コーナーの最新ニュースも随時追加更新しておりますので是非ご確認あれ。

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2003.11.29.  プリーストの「魔法」

 私にとってクリストファー・プリーストと言えば、小説『魔法』(1984年)の作家だった。ぶっ飛んだ設定と、計算された構成と、地に足のついた人間像が三つ巴になった、一筋縄ではいかない現代イギリス小説。凄い小説なのは分かったけれど、内容は半分も理解できていないんだろうなあ、というのが読後の正直な感想だった。
 だから、1979年から1980年にかけて『ドクター・フー』の脚本編集者に就任したアダムスが、番組の新しい脚本家を見つけるために当時評価の高いSF作品をあれこれ物色し、プリーストに白羽の矢を立てた、というのも意外なら、プリーストがそれを引き受けたのも意外だった。例えて言えば、いくら作品にSFのテイストがあるからと、純文学作家の笙野頼子にテレビ・アニメ『ドラえもん』の脚本を依頼するような、そんな感じ(それはそれで面白そうだけれど)。
 が、今回の更新を機に、試しにプリーストの初期のSF小説『逆転世界』(1974年)を読んでみて、その印象ががらりと変わった。奇想天外な設定についての長ったらしい説明と、ペラペラに薄い登場人物、とどめに、これは翻訳のせいなのかもしれないが、敢えて狙って書いたかと疑いたくなるほどに月並みな文章――とてもその10年後に、『魔法』のような小説を書く作家に大化け、もとい成長するとは想像できない(これがホントの「魔法」ですか?などとしょうもないツッコミをしている場合ではない)。ただし、少なくとも「奇想天外な設定」の大仕掛けは立派なものだし、最後まで読み通せばきっちりとしたオチがついていることも認める。ともあれ、この『逆転世界』を読んだおかげで、プリーストが『ドクター・フー』の脚本家にはうってつけだとアダムスが考えたことに納得できた。
 納得できたので、プリーストの同類SF小説『スペース・マシン』や『ドリーム・マシン』は読んでいないし、当分手を出す予定もないが、1999年に書かれた『イグジステンズ』は少し気になる。クローネンバーグが撮った映画のほうはWOWOWで放映された時に観て、場面場面ではそれなりにおもしろかったものの、結末にあきれて開いた口がふさがらなかった。何でもクローネンバーグ監督は、この映画の撮影前に主要キャストに実存主義の本を読ませたそうだが、私にはそのこと自体がほとんど冗談にしか思えない。それとも、実存主義の何たるかを知れば、この映画の真価を再発見できるとでもいうのだろうか。だとしても、哲学書にも哲学の解説書にも小説『ソフィーの世界』にすらも見事なまでに無縁の私が、今さらサルトル(だったっけ?)を繙く気になるはずもなく、とりあえずプリーストの小説版も映画と同じ構成なのか、そこのところだけ知りたいと思う。
 また、プリーストが1995年に発表した小説 The Prestige の翻訳が、2004年2月に早川書房から出版される予定とのこと、こちらは今から心待ちにしている。

 そして今週の更新は、ノルシュテインの n 回目の来日を記念して、ノルシュテイン関連人物をまとめて4人(エドゥアールド・ナザーロフターニャ・ウスヴァイスカヤみや こうせいワレンチン・オリシェヴァング)を追加した。ついに発売されたノルシュテインの新作『冬の日』については、やけに詳しい公式サイトがあるので、まずはそちらをご覧あれ。
 それから、現在公開中の映画『サロメ』に主演しているアイーダ・ゴメスを、アントニオ・ガデスのコーナーにて紹介。

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2003.12.6.  ノルシュテインを追いかけて

 11月下旬の2週間というもの、ノルシュテイン・ファンのみなさま同様、インターネットで仕入れた情報を元に来日中のノルシュテインを追いかけて東京都内のあちらこちらをほっつき歩いていた。
 そしてめでたく、ラピュタ阿佐ヶ谷ではノルシュテインの弟子のウスヴァイスカヤ嬢に『ノルシュテインの優雅な生活』にサインしてもらい、青山ブックセンター本店では勿論ノルシュテイン本人から『フラーニャと私』と『きつねとうさぎ』にサインしてもらった。HMV渋谷店か紀伊国屋書店でDVD『冬の日』にサインを貰う、という手もあったけれど、私は哀しいかなサイン会の情報を得るはるか前にアマゾン・コムでDVD-BOXセットを注文済みだったためあきらめた。さすがの私も、サイン欲しさにDVDを2枚も買う程お金に余裕はございません――が、その代わりにまもなく発売予定の『ユーリ・ノルシュテインの仕事』のほうは、当然ノルシュテインのサイン入りリトグラフのついたお高い方をきっちり予約させていただく。配送はきっと来年になるんだろうなあ。
 講演会・展示会の類では、ウスヴァイスカヤ嬢のサイン&トーク会に参加して楽しい時間を過ごした(ラピュタ阿佐ヶ谷も年々段取りがよくなっていくぞ、と感心していたら、やはり当日ちょっとした手順の悪さが露呈して、それはそれで「らしいじゃないか」と感じてしまった自分が怖い)他は、渋谷・ロゴスギャラリーでの『きつねとうさぎ』の展示会にも行った。きつねもうさぎもやっぱりかわいい。そこで発売されていた一枚数万円の原画が、私が行った時にはすべて売約済みになっていたのに驚きつつ、つつましく絵はがきを購入した。
 11月24日の夕方からジブリ美術館で開催されたノルシュテインの講演会には、定員70名じゃいくら何でも競争率が高いんじゃないかと恐れていた通り、私は選に漏れてしまい涙を飲んだ。気休めまでに敢えてローソンのポストから投函したけれど、何の意味もなかったようだ。講演会とは別に、来年5月まで開催されている展示会のほうは、残念ながら今の時点ではまだ未見。知っての通りジブリ美術館は完全予約制で、かつ休日の予約はほぼ完売状態だから、ウィークデイ勤務の身としては行きにくいのだ。それでも遅くとも年内には、有給休暇を取って行こうと秘かに画策してはいるが。
 矢継ぎ早に出される新刊本や関連イベント、それから勿論アニメーションの上映会等にいそいそと出かけていくたびに、日本では確実にノルシュテインのファンは増えつつあると感じずにはいられない。それも、年期の入ったファンのみならず、学生然とした若い人たちが多いのが嬉しい(と書いた時点で自分はもう若くないと宣言しているようなもので、そこのところはちょっと不本意)。確かにまだまだマイナーだけれども、世界初のノルシュテイン画文集が、ロシア語でも英語でもフランス語でもなく日本語で発売されたのだって、日本国内だけでもある程度の売り上げが見込めたからこそだし、『きつねとうさぎ』で3冊目となる絵本にしても、『きりのなかのはりねずみ』がそれなりに売れたからこそ出版にこぎつけることができたはず。これこそまさに正しい資本主義経済のあり方ってものじゃないかと、一日本人として誇らしく思う。

 そして今週の更新は、ノルシュテインの作品リストに連句アニメーション「冬の日」を追加。計35名のアニメーターが一同に介して競作すると、やはり出来不出来、じゃなかった好き嫌いがはっきりしておもしろい。
 それから、ダグラス・アダムス関連で二人のイギリス人作家、イアン・バンクスブルース・チャトウィンを新たにご紹介。

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2003.12.13.  「冬の日」に想う

 連句アニメーション「冬の日」を観た。
 ノルシュテインが担当したのが一番最初の発句、というのが有難い。おかげで、ノルシュテインのところだけを繰り返し観ることができる(あ、いや、他のアニメーターのみなさま、すみません)。
 他の人の作品と比べて云々するつもりはないが、ノルシュテイン作品はとにかく細かい。今までのノルシュテイン作品は、DVDで観る前に既に何度も映画館の大きなスクリーンで観ていたため気にしたことはなかったけれど、今回初めての作品を最初からテレビ画面で観てみて、我が家の21インチかそこらサイズでは彼の作品の細かさを捉えきれないことがよく分かった。枯れ葉なんざ、ほとんど砂粒同然だ。
 『冬の日』のメイキング映像で、ノルシュテインの製作現場を見ると、実際の作業も気の遠くなるような細かさだった。美術担当のフランチェスカ・ヤルブーソヴァが竹斎の顔のパーツを作る様は、手慣れてもいるし素早くもある一方、恐ろしいまでに根気強いというのか粘り強いというのか、細かい細かい細かい細かいところまでいつまでもいつまでもいつまでもこまこまこまこまと直して直して直し続け、正直言って82分に亘るメイキング映像の、ほんの数分間のその場面だけで、見ている私のほうが根を上げてしまったくらい。
 いやはや。
 たとえ私にどれほどの画才があろうとも、アニメーターにだけはなれないね。アニメーションは、人が作ってくれたものを観るに限る。とは言え、わざわざDVDで買ったのに、ノルシュテインが担当したほんの数十秒分をスクリーンサイズで観たいからと、本物の木枯らしが吹きすさぶ中を遠路はるばるラピュタ阿佐ヶ谷まで足を伸ばす根性があるかと言えば……すいません、その根性もありません。
 でも、その代わりと言うのも何だが、渋谷・ユーロスペースで上映されるロマン・カチャーノフの『ミトン』は観るつもり。上映に先立って購入した『ミトン フィルムブック』によれば、ノルシュテインはこの作品にもアニメーターとして参加していたそうで、『ミトン』といい『チェブラーシカ』といい、この手の手作り感溢れるソビエト製短編アニメーションは、監督とごくわずかの撮影スタッフのみで製作されているものと私はこれまで勝手に思っていたけれど、実際にはカチャーノフ一人ではなく撮影所の多くの才能やアイディアを集結して作られた、と考えたほうがいいのかもしれない。たかだか10分かそこらの、編みぐるみやらぬいぐるみやらを使った、子供向けのアニメーション1本なのに。
 いやはや。
 やっぱりアニメーションは、人が作ってくれたものを観るに限る。だから、観られる機会を逃してはいけない。でも、勿論映画館に出向いて大きなスクリーンで観るのもいいけれど、『ミトン』もそのうちDVDで発売されるといいのにな。
 そうそう、12月2日放映の「NHKロシア語会話」で、番組の生徒役、金田美香のおすすめ作品、ということで唐突に『ミトン』の映像が流れてびっくりした。ちなみに今年の「ロシア語会話」は、なぜか去年と比べてやたら進行が早くて文法が多く、私はさっぱりついていけないのだが、金田さんはよほどきちんと復習されているらしく、いつも感心して見ている。個人的には、真面目な現役高校生の金田さんより、酒もタバコもOKでお世辞にも優等生とは言い難かった去年の生徒役のあんじのほうに共感を覚えるのだが、それはまた別の話。
 そして続く12月9日には、今度はいきなりノルシュテイン本人へのインタビューが放映されたではないか。つくづく、油断ならない番組である。9日の番組を見て、大急ぎでノルシュテイン・コーナーの最新ニュースを更新しておいたけれど、気がついてくれた人はいるかなあ?
 しかし、この調子じゃまた来年4月からもこの番組を見続けねばならない。その割に、ロシア語自体はさっぱり身につかないのがこれまた情けないところだが、五カ年計画ということでまあいいか。

 話は変わって、前回の更新でアダムス・コーナーに追加した二人の作家、イアン・バンクスブルース・チャトウィンについては、一応私も翻訳を数冊読んではみた。
 アダムスも「読んでいない」と言い切るバンクス作品の中で、私が読んだ『秘密』は案の定(?)イマイチだったが、チャトウィンのほうはイケる。私が読んだのは、『パタゴニア』と『ソングライン』の2冊で、どちらもいい、すごくいい。内容も文章も、ついでに作者の容姿までもが格好良い。愛読書は、の質問に、「ブルース・チャトウィンの『ソングライン』です」と答えられたらどんなに格好良いだろう、とくだらない想像までしてしまう類の格好良さ。
 ――いや、別に私もそう答えたって構わないのだが、私は「愛読書」という言葉を「この本が私の人生または世界観を変えた」くらいの衝撃を伴わないままに使うことに冒濤を感じるタチなのだ。本当はこういう本を座右の書にするような、そういう人間になりたかったけれど、そんなことを考える時点で私は既に「そういう人間」ではないのであった。残念。

 気を取り直して今回の更新は、ラジオ・ドラマ『銀河ヒッチハイク・ガイド』に出演した俳優アラン・フォードと、彼が演じた端役ルースタについて。

 さて、今年も年内の更新はこれにて終了。例年通り、また2ヶ月間の冬休みに入らせていただきます。次の更新は、2004年2月14日の予定。
 来年もまた、よろしくお願いします。

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