ユーリ・ノルシュテイン語録

ノルシュテインの考えをよく表している文章や言葉を集めてみました。

<読書について>

児島宏子著 「ロシア・アニメ館 (4) 『25日、最初の日』」 『NHKテレビ ロシア語会話』 2001年10・11月号、p. 84

 偶然、ソ連邦アニメ・スタジオの入社試験に合格し、アニメーターとして働きながら、彼は美術大学受験の準備をしていた。何とかアニメ界から抜け出して画家になりたいと思っていた。彼は映画というジャンルを高く評価できず、美術や文学をより高度で映画以上だと考えていた(現在でも、その考えは変わらず、芸術ジャンルの最高峰を成すのは文学であると断言している)。
   (略)
 その後のノルシュテインは、アニメーションを何とか芸術作品に近づける努力をする。彼にとって芸術作品とは、観客に楽しみや気晴らしばかりでなく、≪生きる意味、生きる力を与え、感じさせ、考えさせる≫ものである。最近も彼のワークショップに参加した人たちに、「もっと読書し、もっと考える人が増えてほしい、それが私の願い」と訴えていた。


三木宮彦「第2回ラピュタアニメーションフェスティバルから 〜日本アニメの新しい未来を考える〜」 『映画テレビ技術』 2001年10月号(No. 590)、pp. 28-32

「しかし一つ、危険なことがあります。多くの作者の考え方がとても閉鎖的であることです。おそらくその原因の一つはコンピューター的な考え方、絶えずコンピューターとだけ交流していることからきているのではないかというのが私の考えです。コンピューターとの交流で得られる答えというのは、あなた方が出した答えではないのです。
 第二の危険性、それは作者たちのほとんどが読書していないのではないか、ということです。なぜこんな大胆なことを言うのかと言うと、多くの作品のストーリーはこちらに語りかけてこないからです。私もアヴァンギャルドが大好きで、新しく出てくるものにはとても興味があります。しかし、この際不可欠なのは、人と人が出会わなくてはならない、ということです。人と人が交流することです。そして語ることを学ぶことです。語ることを学ぶには、やっぱり人と人が出会わなければならない。でも、どういう交流をしていない、考えていない。それが原因で、数秒の普通の空間の中でのモンタージュができてこないのです」
   (略)
孤高独歩のイメージが強い彼が観客とコミュニケートすることと読書の必要とを力説しているのは意外のような気がしないでもないが、考えてみれば表現というものは、理解されたいとの欲求を満足させるための手段なのだから、感覚の閉鎖性を彼が心配するのは当然であろう。


『NHKテレビ ロシア語会話』 2002年10・11月号、p. 68

 例えば、映像作家ノルシュテインは言う―「プーシキン作品に親しんだことのない人はノーマルなロシア人とは言えない。幼い頃から今にいたるまでプーシキンを手放したことがなく、未だに新発見がある… 彼の文章の一行一行には、抽象的な意味でも“音”が集約されている…」

<映画について>

「ユーリ・ノルシュテインの仕事」 p. 41

 '93年10月、エイゼンシュテイン生誕95周年記念の国際シンポジウムに、ロシアからユーリー・ノルシュテインがやって来た。エイゼンシュテインのシンポになぜ彼が?そんな疑問がノルシュテインを敬愛する日本のアニメ研究家から出された。記者会見でノルシュテインは答えた。「私の芸術の基礎はすべてエイゼンシュテインなんですよ」と。

小野耕世著 『世界のアニメーション作家たち』 p. 191

チャップリンの映画が好きです。どの作品もいいですが、私は気がめいったときは、『街の灯』('31)をくり返し見ることにしています。すると、雷が落ちたあとのあのさわやかな風が吹いているような気分になる。(略)
(好きなロシア映画について訊かれて)アンドレイ・タルコフスキーの映画にとても惹かれます。彼の『アンドレイ・ルブリョフ』('69)は四回くらい見ました。『ストーカー』('79)もいい。

「ユーリ・ノルシュテインに聞く ペレジヴァーニエがあってこそ作品はできる」 『映画芸術』 2006年冬号 第414号 p. 65

テーマや内容によってモンタージュ・カットを最小限に止めた方が表現にぴったりするというものもあるんですね。(略)デイヴィッド・リンチの『ストレイト・ストーリー』。とても人間的な作品です。話は実に単純で、老人がトラクターで旅を続け、兄のところへたどりつくというものです。ここでは、たとえばトランプをさーっと切っていくようなモンタージュ・カットは使われていない。でも、人生にとってもっとも大切なことについて、彼は語っているんです。
 彼はずっと血にまみれたような映画を撮っていましたが、本当はああいう映画を撮りたいのだと思います。でも、彼はこういう作品を作ることは許されないんです。そんな作品には誰もお金を出さないからです。

「特集 ロシア・アニメ映画祭2000」 『シネマティズム』 第4号 p. 38

 仮に、あなたたちがレストランに行ってスープを注文して、そのスープの中に入っているものが人間に害になり、具合が悪くなったりしたら、誰も二度とスープを頼んだりしません。でも、ひどい映画をやっても、みんな黙って、こういう顔をして観ているだけ(注・ここでノルシュテイン監督、口をぽかんと開いた馬鹿面をしてみせる。会場爆笑)。そして、映画を観ているときと同じ顔をして、通りを歩くんです。しかも、とても重要なことは、喜んでそういう映画を観に行くという現実です。この八年間ぐらい、ロシアのテレビ上で行われた殺人の数は、おそらく第二次世界大戦の戦死者の二倍になることでしょう。

「ロシア的なるもの、野蛮性と信じがたい美のハーモニー」 『ユーリ・ノルシュテインの仕事』 p. 63

 今、スクリーンに安手の作品がどんどん出ていく。(略)お金が、或いは賄賂が非常に大きな役割を果たしている。だからスクリーンやテレビに流れる時間を、金で解決して、売っているのです。過去に創られた、いい作品がテレビで放映されるのは夜中です。おかげであまり沢山見られない。いい時間帯にいいものが放映されることはめったにありません。たまにゴールデンアワーにいい作品が放映されると、今度は三、四回コマーシャルがぶった切ります。(略)コマーシャルを本物の芸術作品の間に差し込むことに反対するのはノーマルなことです。レンブラントの絵の中に何か広告をはめ込むなんていうことは、無理でしょう。

<ロシアについて>

「ユーリ・ノルシュテイン 絵本とアニメを語る」 『母の友』 2000年12月号、p. 66-73

 私の子ども時代は、伸びやかなものではなくて、緊張感に満ちていました。私の出身民族が私の人生、私の運命にとても反映しているのです。ユダヤ人だということで私を侮蔑する同年輩の少年たちは大人たちに対して、私はいつも怒り、悲しんでいました。しかしそのとき私が思っていたのは、「でも太陽はぼくのために輝いているし、木々も僕のために育っている。冬になれば僕のために雪が降ってくる」。世界はいつも新鮮に変化するという感覚に、私は支えられて生きてきました。
(略)
 家々に明かりがつくと、だれかが手回しの蓄音機を持ってきてダンス曲を鳴らした。すると、大人たちが出てきて、ダンスを始めたんです。薄暗くてはっきり見えない中で、その人たちのすてきな踊りを見ながら、昼間、この人たちは、ちょっとしたことで自分をユダヤ人呼ばわりする。それが、こういうたそがれの中では何て善良な人に見えることだろう、と思って立ちつくしていたことも忘れられません。

 
「ロシア的なるもの、野蛮性と信じがたい美のハーモニー」 『ユーリ・ノルシュテインの仕事』 pp. 62-65

ロシアにおいて、国家に対する関係も、人間と人間の内面の関係も、大変矛盾に満ちています。それは何かといいますと、上着から最後のシャツまで脱いで、質に入れても人を助けるということと、自分がグデングデンに酔っぱらうためにお金を使い果たすという両方が同時に存在するからです。また、非常に自分を苦しめている深い問題に何とか答えを見いだそうとする試みや願いがあると同時に、非常に簡単な気分で隣の人を騙してしまうという両方のものが存在します。
(略)
お互いに酔っぱらって、面を殴り合う様な人達も、翌日には悔恨の念を抱くような、何か人々を救うような、そんな調和というものがこの国にはあるように思えます。それは何かを批判したりするのではなくて、共鳴するとか哀れみを抱くといったようなものではないでしょうか。調和を持ったそのような一つの存在というもの、これは、つまりその人の目が、絶えず子供に注がれているということです。そしてその人自身が子供のような純真さと真実を持っていて、子供との関わりでその純粋さ、純粋さというものを人々に示そうとしているのかもしれません。
 このように野蛮性と、信じがたい美のハーモニー、この組み合わせなのです。それがロシア的なるものなのです。

「痛みについて」(アヌシー映画祭のパンフレットより) 『ユーリ・ノルシュテインの仕事』 pp. 70-71

(「ロシアの人々と我々は、宗教では絶対的な違いのもとで暮らしています。トルストイ、あるいはタルコフスキー、ソルジェニツィンですら、欧州の人々をしばしば苛立たせますが、それは彼らだけが持っていて、世界の他の人が知らない一種の秘密に対して、彼らが祈り続けているからではないですか?」という質問に対して)
 その秘密の名前は「痛み」です。ロシア文化の中心で起きているものごとは、フロイトがいうところの、痛みと経験による「魂を病ませるもの」に相当すると思われます。我々は魂を病ませるものの代わりに別のものを見て暮らすべきです。

<ペレジヴァーニエ>

小野耕世著 『世界のアニメーション作家たち』

ペレジヴァーニエ(perejivanie)というロシア語には、辞書では「追憶すること」と訳されているが、もっと複雑な深い意味がある。追憶するなかでひとのこころの痛みを共有すること。その人が悲しいときにその思いを共に生きること。相手の痛みがわかること。ロシアの作家やアーティスト、創作者にとって、ペレジヴァーニエという言葉は重要な意味をもつ。自分の作品が読者や見る者にペレジヴァーニエされるかどうか、共感されるかどうか、つねに心をくだくのである。(p. 197)

いつも、何度も何度も父のことを思います。思い出し、反芻し、苦しみ、追憶をかみしめます。いつも父への想いが私を追ってくるのですよ。(p. 196)

「対談 川本喜八郎×ユーリー・ノルシュテイン 共感するということ」 『暮しの手帖』 2006年2・3月号 p. 89

散文でも、詩、短歌、俳句、絵画でも、いろんな表現があるでしょう。強烈な表現がある。そこから相手の喜びや悲しみ苦しみを生きる、自分のものにする、一種の強烈な共感ですね。それこそが、いろんな意見を繋ぐと思うし、それなりの真実です。

「ユーリ・ノルシュテインに聞く ペレジヴァーニエがあってこそ作品はできる」 『映画芸術』 2006年冬号 第414号 p. 64

(エイゼンシュテインの著作集から受けた影響について訊かれて)映画における文化的コンテクストというものについても学びました。さまざまな映画作品の間に結びつき、それから歴史の奥深くに宝物のように隠れているペレジヴァーニエ(「再び生きること」、追体験の意。通訳の児島氏によると、これはロシア独特のことばで、英語でもこれに相当する語はないとのこと)、これがあってこそ作品ができるという考え方です。
――それは古典といわれる作品に多く含まれているものですね。ペレジヴァーニエする力を高めるために、若いアニメーターにこれだけは観てほしいという作品を三つ挙げるとしたら?
レンブラントの『放蕩息子の帰還』、ヴェラスケスの『侍女たち』、それからチェーホフの短編『大学生』を挙げましょう。