目次
2006.2.18. この5年 2006.2.25. 新作を追え 2006.3.4. 私の死角 2006.3.11. アカデミー賞雑感 2006.3.18. ノルシュテイン研究の必須要件 2006.3.25. 思いがけない届き物 2006.4.1. タイプライターの思い出 2006.4.8. スーパーヒューマン? 2006.4.15. 『死者の書』/『ナイト・ウォッチ』 2006.4.22. こぐまさん、いらっしゃい 2006.4.29. あなたはこのジョークで笑えますか? 2006.5.6. アントニオ・ガデス舞踊団、来日公演日程決定! 2006.5.13. 銀河インターン・ガイド 2006.5.20. 5年目の、そして初めての「タオル・デー」 2006.5.27. 「禅」と「ゼン」 2006.6.3. お宝自慢5 〜みなさまのおかげです〜 2006.6.10. 奇跡の1冊 2006.6.17. ロンドンの書店と言えば 2006.6.24. 今読んでもおもしろい本、あるいは今読んだらおもしろい本 2006.9.2. 最上級の栄誉 2006.9.9. 読んでから観るか、観てから読むか 2006.9.16. 『イルカ』 2006.9.23. 過酷な読書 2006.9.30. 食欲の秋? 2006.10.7. 日陰者ジュード、時空を彷徨う 2006.10.14. 文体の問題 2006.10.21. 『フル・モンティ』、『ブラス!』、そして 2006.10.28. 自分の価値観を変えた本 2006.11.4. 『宇宙の果てのアンソロジー』を振り返って 2006.11.11. 英語で数学を学ぶということ 2006.11.18. 私のないものねだり 2006.11.25. 次世代DVD問題 2006.12.2. 私の堂々巡り 2006.12.9. オーストラリアに行きたい
この5年間、基本的に自宅と職場を往復するだけの日々だった気がする。何の成長も、何の変化もなかった気がする。
それでも、実は今回の冬休みを利用して総索引作成を含むかなり大がかりなリンクの貼り直し作業を行ったのだが、その際に過去5年分の同コーナーをざっと読み直すことになり、そうだすっかり忘れていたけれど、5年前はまだ自宅パソコンは常時接続じゃなかったしDVDプレイヤーもなかった、そう考えるとどんなに何の変哲もない毎日のようであっても、やっぱり少しずつ変化しているじゃないかと思った。
もっとも、ダグラス・アダムスとユーリ・ノルシュテインとアントニオ・ガデスの3人に関しては、私個人のしょぼい変化とは比較にならないくらい、大激動な5年間だった。単純に、アダムスとガデスの二人が逝去してしまったからということもあるが、何より3人とも2001年の時点では想像もつかない程に日本での知名度が上がった。特にダグラス・アダムスに関しては、新潮文庫版『銀河ヒッチハイク・ガイド』が永らく絶版状態、再版の見込みも限りなくゼロに近い有様だったのに、5年後の今日では河出文庫の新訳を誰もが簡単に購入することができ、さらにこれまで一度も日本語に翻訳されたことのなかったシリーズ4作目、5作目までもがまもなく出版される。昨年秋に劇場公開された映画も、まもなくDVDが発売になる。ほとんど奇蹟の域である。
当然のことながら、この変化は一ファンとして跳ね回りたいくらいに嬉しい。でも、5年前に自分がこのホームページを立ち上げた頃は、日本語で「銀河ヒッチハイク・ガイド」と検索しても該当するサイトなどほとんどなくて、だからこそ思い切って自分でアップしようと決意することができたというのも事実。もし、あの頃から今と同じくらい一般に知られるようになっていたとしたら、多分このような形でのホームページを手掛ける勇気は持てなかったに違いない。ちょっとネット検索しただけで、あちこちの匿名掲示板やブログに、どう考えても私よりはるかに情報通ではるかにプロっぽい人たちが放つ的確なコメントや注釈を読むことができる今のような状況下では、とても私のような素人に出る幕はないと及び腰になって、それっきりだっただろう。そう考えると、5年前のあのタイミングでこのサイトを立ち上げることのできた私は、とてもついていた。
今だって私は素人だし、情報入手の速さでも文章の質でもプロには太刀打ちできないけれども、少なくとも今の私のサイトには、5年かけて貯めに貯め込んだ情報がある。まだまだ情報に漏れやムラはあるけれど、それどころかあからさまな間違いだってあるだろうけれど、特定の作家や作品をここまでしつこく追い続ければ、それはそれで一つの強みになりうるのではないか。少なくとも忙しいプロに、こんなヒマ人の真似はできまい。
という訳で、ついに6年目に突入した今年もまだまだ地道に更新を続けるつもりでおりますので、何とぞよろしく――と言うか、正直なところせいぜい丸3年も更新すれば、手持ちの情報なんかあらかた放出して何のネタも残らないんじゃないかと思っていたのに、現実には5年経っても穴ぼこだらけで、これは一応嬉しい誤算と言っていいのだろうか、それとも?
お気づきにならなかった方も多いと思うが、前回の更新では「Topics」コーナーの「ヴォゴン人」欄に画像を一つ追加している。ドイツ語圏スイスに住む友人から送られてきた新聞広告の写真だ。いやはや、かの地ではこういう広告が作られる程にヴォゴン人は有名らしい。羨ましい限りだ。
と思っていたら、昨日(2006年2月24日)の朝日新聞夕刊6ページに掲載されたエッセイ「洗濯機 知らなかった私が悪いのか」を読んでぶっ飛んだ。いやはや、日本でも本当にヴォゴン人の知名度は上がってきているらしい。凄い時代になったものだ。
ちなみに、2006年1月20日付朝日新聞夕刊の全く同じコーナーでも別の書き手がちらっと『銀河ヒッチハイク・ガイド』について触れている。この2つの記事のおかげで私の中では朝日新聞社は『銀河ヒッチハイク・ガイド』ファンの巣窟みたいなイメージになりつつあるが、これは私の希望的観測、というより単なる妄想なんだろうな、やっぱり。話は変わって、前回の冬休み明け第一回目の更新で、例年同様に「My Profile」コーナーに「2005年のマイベスト」を追加するにあたっては、例年になく悩んだ。
悩んで出した結果はご覧の通りだが、我ながら保守的というのか新味のないこと夥しい。いくら日本語で出版されたのは去年だからとは言え、ウッドハウスの小説を今さら選んでどうする。いや、そもそも2005年4月23日の同コーナーで「どんなに気に入ったとしても「2005年のマイ・ベスト」には入れない」と断言しておきながら、素知らぬ顔で映画『銀河ヒッチハイク・ガイド』を第1位にするとは何事ぞ?
……盗人にも三分の理、ということでせいぜい言い訳させていただくならば、去年の前半は京極堂シリーズにハマったせいでいつもの年より読んだ新刊小説の冊数自体が少なかったとか、去年の秋は『銀河ヒッチハイク・ガイド』ばっかり観ていたせいでいつもの年より観た新作映画の本数自体が少なかったとか、そういう事情がありはしたのだけれども、自分でも言い訳にすらなってないと思う。
新しい本、新しい映画を追いかけるばかりが脳じゃない、その場その場の流行よりも己の趣味嗜好を深めることに重点を置いて何が悪い、という考え方もある。こんなサイトを5年以上やっている時点で、どちらかと言えば私もそういう考え方の人間に分類されてしかるべき、というか事実そうなのだけれども、ただその一方で、深めると言えば聞こえはいいが実際には歳を取れば取るほど自分の好みが偏狭になり、新しいものを受け入れる精神の柔軟さを失っているだけに過ぎないとしたら、それはいささか看過し難いとも思っている。
ただでさえ私は何かにつけて好き嫌いがはっきりして、知識も興味も偏っている。だから、むしろ積極的に流行を追うくらい気持ちでいて、ようやく世間とのバランスも取れるのかもしれない。新刊小説、新作映画は私の好奇心をかなり無条件に刺激してくれる数少ない貴重なモノなのに、それらにすら手を伸ばさなくなってしまったら、精神的にどっと老け込んでしまうんじゃないか。それでなくても実年齢ではもう決して「若い」とは言えないのに。
そういう意味でも「2005年のマイベスト」の超保守的な結果はものすごく不本意なのだが、今さらグチっても仕方がない、2006年はせいぜい新しいものに目を向けるようにしよう。ちなみに最近の流行モノの中では、友人に借りて読んだ東野圭吾著『容疑者χの献身』が大層おもしろかった。
もっとも、本当はもっと違う種類の「流行」に目を向けたほうが、よりまっとうな社会人像に近づけるのだろうけれど、残念ながら興味のないことには徹底して興味がないもので(気が付けばトリノ・オリンピックも全然観ていない。例外は女子フィギュアだけ)、こればっかりは致し方ない。そして今回の更新は、前回追加した『銀河ヒッチハイク・ガイド』についてのアンソロジー、『宇宙の果てのアンソロジー』の二つ目のエッセイ、"That About Wraps it Up for Oolon Colluphid" の概要を追加。来週以降も順次概要を追加していく予定だが、最後の一編に無事たどり着くのは一体いつになることやら。
『宇宙の果てのアンソロジー』は、一応最後まで一通り目を通してある。
18篇のエッセイと1篇のインタビューのうち、ざっと読んだだけで大体意味が分かるものもあれば、目の前が暗くなるほど分からないものもある。同じダグラス・アダムス関連の洋書でも、ダグラス・アダムスの伝記を読んだ時とはややこしさの種類がまるで違う。伝記はあくまで事実の羅列、作者は読者を煙に巻こうとは考えない。が、このエッセイ集では、集められた書き手たちはそれぞれの手法なり視点なりで『銀河ヒッチハイク・ガイド』に挑戦している訳だから、当然ながら一筋縄な書き方をしないし、また読み手は『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズに関するそれ相応の基礎知識を持っていることが前提条件とされる――翻訳の出ている3冊だけではなく、シリーズ全5冊に関する知識を、だ。
恥を忍んで正直に告白しよう。今の私には『銀河ヒッチハイク・ガイド』に関して大きな死角がある。それが、シリーズ5作目にあたる小説 Mostly Harmless だ。
確かにちゃんと最初から最後まで読みはした。それなりに気持ちを揺さぶられもした。が、要点を日本語でメモしながら何度か繰り返し精読した So Long, and Thanks for All the Fish と違って、何年も前に二度ばかり流し読みしただけの Mostly Harmless に関しては、私の記憶の中ではおおまかなストーリーすら既にかなりあやふやになっている。この小説を基にしたラジオ・ドラマの第5シリーズは二度聴いたものの、ただでさえややこしく入り組んだ設定を耳で聴いて理解できるだけのリスニング能力があるなら最初から誰も苦労はしない。そうそう、小説の朗読版も一通り聴いたことがあったっけ。もはや聴いたことすらすっかり忘れていたけれど。
そんな私にとって、前回の更新で追加することになったエッセイ、"That About Wraps it Up for Oolon Colluphid" は、相当の難物だった。何たって、単純に5作目を引き合いに出すだけではなく、それを踏まえてとてつもないホラ話をまことしやかに紡いでみせ、読み手の混乱と笑いを引き出そうとしているらしいのだ。まったく、このアンソロジーに収録された19篇のうち、確実にワースト3位に入るわかりにくさである。勿論、それもこれもこの期に及んで Mostly Harmless をちゃんと読んでいない私が全部悪いのだが、M・J・シンプソンやニック・ウェブの著作を片づけるのが先でつい後回しにしているうち、このたびめでたく翻訳が出版されることになって、だったら今さら慌てて読まなくても何なら翻訳を読んでから改めて原著にトライすればいいや、と今ではすっかり開き直っている始末。
河出書房新社様、こんな私のためにもどうか一日も早く Mostly Harmless の翻訳を出版してください。それを読めば、私にもこのエッセイのおもしろさがきちんと理解できることと思います(そして恐らく誤訳・誤読の山も見つかることでしょう)。そして今回の更新もまた、『宇宙の果てのアンソロジー』の3本目のエッセイを追加。今回のはまだ分かりやすかった。
それからノルシュテイン関連の、ものすごく遅まきながらな最新ニュースも追加した。製作の資金集めをされていたのがついこの間のことのような気がするのに、もう作品は完成して一般公開もされていたとは。誰かさんと違って、仕事が早いぞ。
アカデミー賞授賞式のテレビ中継を、私は毎年興味深く観ている。アカデミー賞の受賞基準に全幅の信頼を置いているから、ではなくて、むしろ発表を待つ当事者たちの胸の内を勝手に推し量りつつ、ハリウッドの映画業界は今年は何を選ぶつもりだろうと腕組みしながら見物するのが楽しい。そして、その楽しみを最大限に味わうにはリアルタイムで観るのが一番と、日本での生中継放時間にあたる月曜日は秘かに有給休暇の取得を画策したりもする。
しかし、今年の授賞式に関しては、例年になく私の関心は薄かった。理由は簡単、3月6日に休みを取ることができなかったから、ではなくて、映画『銀河ヒッチハイク・ガイド』が、脚色賞は仕方ないとしても、オリジナル歌曲賞にすらノミネートされなかったから。この賞は例年4,5曲はノミネートされていたのに、今年は何故か3曲しか選ばれていなくて、だったら "So Long, and Thanks for All the Fish" も入れてくれたっていいじゃないか、受賞までは期待しないが会場でニール・ハノンに歌ってもらえたらそれで私は十分満足なのに、とか一人でぶつぶつ憤っていた――って、我ながら本当に度し難いバカだこと。
それでも結局、今年も授賞式はちゃんと録画して、最初から最後まで早送りもせず全部観た。録画ではなく生中継で観ていたら、作品賞が発表された時にはさぞ驚いたにちがいない。『クラッシュ』も確かに悪くない、去年の『ミリオンダラー・ベイビー』より私はずっと好きだけれど、でもオリジナル脚本賞と編集賞で十分、作品賞は『ブロークバック・マウンテン』で決まりだろうと思っていたのに。もっとも、『ブロークバック・マウンテン』はまだ未見なので、アカデミー会員たちの審美眼にいちゃもんをつけるのならまず自分で観てからにしなくてはいけないが、もともとアン・リー監督作品は(『ハルク』を除けば)どれも大好きだし、というか『ブロークバック・マウンテン』はこんなに持ち上げるくせにどうして1999年の『楽園をください』にはまるっきり注目してくれなかったんだ、大体トビー・マグワイアをさしおいてヒース・レジャーとジェイク・ギレンホールがアカデミー賞にノミネートされる日が来ようとは夢にも思わなかった――って、我ながらやっぱり救い難いバカだこと。気を取り直して今回の更新は、3週連続で更新した『宇宙の果てのアンソロジー』をちょっとお休みして、代わりに川本喜八郎監督『死者の書』公開記念、ということでノルシュテインがアニメーターとして製作に参加した作品リストを作成した。改めてリストを眺めてみて、当時のソビエトの名だたるアニメーターほとんど全員と知り合いだったんだなあと思う(え、連邦動画スタジオに所属していればそうなって当たり前だって?)。
ところでこの『死者の書』、来年のアカデミー賞の長編アニメーション部門にノミネートされたらいいな、とは思うけれど、それはさすがに難しいか。そうそう、今回のアカデミー賞の全部門の中で、私に言わせればノミネート作についても受賞作についても一番納得できたのがこの長編アニメーション部門だった。『ハウルの動く城』の映像も素晴らしかったけれど、『千と千尋の神隠し』で受賞したばかりだから仕方ない。そして、今年この部門で受賞した『ウォレスとグルミット/野菜畑で大ピンチ!』は、思い起こせば昨年、ロンドンの映画館で初めて予告映像を観たのだった。勿論、来週からの日本公開が始まったら、通い慣れた川崎の映画館に馳せ参じるつもりでいる。
ついに、映画『銀河ヒッチハイク・ガイド』の日本語字幕付きDVDが発売!
と同時にレンタルも開始されたので、まだ観ていない方でお近くのレンタル店でどうぞ。買ってくれとまでは申しません、観て楽しんでいただければ何よりです。
そして、もし映画を気に入っていただけましたなら、河出書房新社より文庫で発売中の小説版『銀河ヒッチハイク・ガイド』および『宇宙の果てのレストラン』も是非お読みください。まもなく、そう、あとほんの3週間がそこらで、3作目の『宇宙クリケット大戦争』も発売になりますので、こちらもよろしく。
ああ、我が世の春だ。ところで、先週追加したノルシュテインの参加作品一覧を作るにあたっては、Clare Kitson という人が英語で書いたノルシュテイン研究書を大いに参考にさせてもらった、というか情報をそっくりそのままいただいた。この方は、ミュージアムやフェスティバルを通じて多くのアニメーションの発掘をしたり、アニメーション番組の編集に携わったり、若手アニメーターの育成に尽力したりする仕事をなさっていたようだが、1980年に初めてノルシュテインの『話の話』を観て、この作品を理解・研究するためにロシア語の勉強までされたらしい。同じようなことを考えて「NHKテレビ・ロシア語会話」を2年間観たもののとうとうキリル文字すら全部憶えなかったどこかの誰かとはえらい違いである。やっぱりプロの研究者は気合いが違う。
という訳で、Yuri Norstein and Tale of Tales: An Animator's Journey の参考文献にはロシア語で書かれていると思われるものが多数含まれている。何故「ロシア語の文献」と断言しないのかというと、この本はロシア語にまったく縁のない人をも対象としているため、参考文献リストはロシア語をソフト翻訳、つまりロシア語の音をそのままに、ただし表記をキリル文字ではなく普通の英語のアルファベットに適宜置き換えるという荒技で書かれているためである。おかげで、元々何語で書かれた文献なのかイマイチはっきりしない。多分ロシア語だろうとは思うけれど、ドイツ語だったりポーランド語だったり、あるいはひょっとすると日本語という可能性すらある――たとえば、Franya i ya (catalogue for exhibition of work of Norstein and Yarbusova), Studio Ghibli, Tokyo 2003、とか。
これって、徳間書店から発売された『フラーニャと私』のロシア語訳か何かなんだろうか。でも、この本を「展示会のカタログ」とは呼ばないだろう。だとしたら、ジブリ美術館で行われた企画展示「ノルシュテイン展〜ノルシュテインとヤールブソワの仕事〜」のパンフレットか何かか? その可能性のほうが高そうだけど、だったらどうしてタイトルが Franya i ya (i はロシア語の 'and' で、ya は 'I' 、つまり「フラーニャと私」。「NHKテレビ・ロシア語会話」2年間の、ささやかすぎる成果である)になっているのやら。
ちなみに、この本の冒頭の「謝辞」には多くの大学関係者・ロシアアニメ関係者に混じってスタジオジブリの「ミキコ・タケダ」の名前も挙がっている。みやこうせいの名前もある。ということは、今の日本でノルシュテイン関連の書籍がたくさん出ていることは当然著者の耳にも届いていると思われるが、参考文献の中で日本産とおぼしきものは Franya i ya のみ。スタジオジブリの方に謝辞を捧げているからには、日本を代表するアニメーション監督、イサオ・タカハタが書いた Hanashi no Hanashi くらいは挙がっていて然るべきなのに、これが見あたらないということはつまり、ノルシュテイン研究者としては甚だお気の毒ながら Clare Kitson は日本語には堪能でないとみた。
……まあ、ロシアのアニメーションを研究するのに何が哀しくて日本語をマスターしなくちゃならん、というのは確かだけれども、現時点でノルシュテインに関する文献が一番豊富な言語が(ロシア語を除けば)日本語なのもほぼ間違いないことで、日頃ダグラス・アダムス関連で英語に悪戦苦闘している身としては、しばしひどく歪んだ優越感に浸らせてもらうことにする。
ぐふふふふふ。そして今週の更新は、ノルシュテイン参加作品リストに登場するソビエト・アニメーター5人(フルジャノフスキー、クルチェフスキー、ヒートルーク、カメネツキー、アマリリク)を紹介。いや本当に、今の日本ではノルシュテインを始め彼らの作品を簡単にDVDで観られるというだけでも、十分以上の優越感に浸れるぞ。
つい先日、私宛に小さな小包が宅急便で届いた。送り主は、ある雑誌の編集部。こ、これはもしや、と鼻息荒く開封すると、果たして中にはマーヴィンのキーホルダーが入っていた。「発送が遅くなりましてまことに申し訳ございませんでした」の手紙つきで。
やったーーーーーーーーーーーーーーー!
この非売品キーホルダー、いろんな雑誌社やらホームページやらに山ほど応募したにもかかわらず、これまでただの1個も当たらなかった。こんなにいっぱい応募して、2個も3個も当たったら他のファンの人たちに申し訳ないな、などと考えてへらへら笑っていた自分が恥ずかしいったらありゃしない。
勿論、どうしても手に入れたいと思うならインターネット・オークションで買うことができるのは知っていた。けれど、こういうものをお金を出して買うのも個人的にはあまり気がすすまなくて、見ないふり気づかないふりをしていた。そして、結局私とは縁がなかったと考えてあきらめよう、と思ったことさえ忘れかけていた時期になって、とうとう私の許にやってきてくれた、となれば嬉しさも倍増というものである。
まずは、私にこの雑誌のことをメールで教えてくださった、ポレポレ様に感謝を。教えていただかなかったら自ら手に取ることは100パーセントなかった雑誌だった(だからこそきっと、他の懸賞賞品と比べてマーヴィンのキーホルダーの競争率は私にも当たるくらい低かったんじゃないかと思う)だけに、有難さもひとしおである。本当にどうもありがとう。
かくして私の自慢のコレクションに加わったキーホルダーの写真はこちら。ロンドンで高い金を出して買ったフィギュアより、こっちのほうが余程もっともらしくきれいに仕上がっているんじゃないか――って、それも情けない話だが。
なお、これを実用のキーホルダーとして日々持ち歩きたい気持ちと、もったいなくてこのまま大事にとっておきたい気持ちとの間で、今の私は揺れている。予想外のキーホルダー到着に比べれば、アマゾン・コムから映画『銀河ヒッチハイク・ガイド』のDVDが届いたのは想定内もいいところだが、それでも初回限定で「『銀河ヒッチハイク・ガイド』ガイド」が封入されていたのは完全に予想外だった。おまけに、あのみうらじゅん氏が解説を書いていらっしゃるとは。
みうら氏については、平均的日本人が知っている程度には私も知っている。が、それだけ。「ガイド」の解説文から察するに、みうら氏は映画版で初めて『銀河ヒッチハイク・ガイド』のことをお知りになったようだけれども(違っていたら失礼)、それでも話の運び方というかまとめ方が本当に上手くてしみじみ感心した。やっぱりプロは、それも人気のあるプロは違う。
そして今週の更新は、まずは取り急ぎ映画『銀河ヒッチハイク・ガイド』のDVDの説明と、English version のコレクションに写真を追加。それから、インターネットで検索していて見つけたニュースを、「Topics」の1項目として紹介する(何と、アダムス所有だったタイプライターがオークションにかけられたそうな)。自分でも気づくのが遅すぎるとは思うけれど、気づかないままよりはマシ、ということでご容赦あれ。
2005年11月30日、クリスティーズのオークションでダグラス・アダムス所有のタイプライターが出品された、と知ったのはほんの数週間前のこと。アダムスの公式サイトでも事前に発表されていたのに、まるで気づいていなかった。
しまった、オークション前に情報を掴んでいたなら私だってネット経由でオークションに参加したのに――というのはさすがにウソ。熱心なファンの一人として、そりゃ生前のアダムス個人の所有物に触手が動かないはずもないが、私はそこまでお金持ちじゃない。それに、いくら何でも英文タイプライターなんざ、使い道がない上に置き場に困る。これがもし、アダムス本人が所有していたドーキンスの The Blindwatchmaker とかだったら、金額次第では考えてもいいけど(あ、いや、使い道のなさでは英文タイプライターとどっこいどっこいだが、少なくとも本1冊ならかさばらない)。
ともあれ、古いタイプライターに気前よくぽんと2000ポンドも出す人がいたのは、アダムス人気いまだ衰えずという点からも、サイの保護活動推進という点からも、まずはめでたい。実際、2000ドルならまだしも、2000ポンドだもんなあ。最新のマックだって余裕で買える、最新のiPodをつけてもまだお釣りが来る。まったく、世の中にはお金持ちがいるもんだ。
ただ、これだけパソコンが一般化した現在でも、日本でワープロを愛用している人がいるように、英米では今でも実際にタイプライターを使用している人は結構いるのかもしれない。思い起こせば私もかつて、ハリウッド映画に出てくる敏腕記者(『フロント・ページ』のジャック・レモンのイメージ)がタイプライターのキーボードを猛烈な勢いで叩く時の、バシバシバシッという音や、ページの端まで来た時に鳴る、チン!という音に秘かに憧れて、ご近所の方から古くて重くて使われなくなったタイプライターを譲り受け、楽しくタイプの練習をしたことがある。これがまた、キーを叩くと金属の活字が直接カーボンテープにぶつかって紙に印字するという、本当に本当の古式ゆかしいタイプライターで、今どきの電子タイプライターとは違い、均一の力でキーを叩かないと印字の濃さがまちまちになるわ、隣同士のキーを続けざまに早く打つと金属の活字同士が途中でひっかかるわと、使い勝手の悪さはハンパじゃなかった。とは言え、実際に勉強や仕事として使っていたのではなく、単なるごっこ遊びのようなものだったから、あまり気にせず音の風情だけを楽しんでいたら、1週間で腱鞘炎になった。
それもこれも、腱鞘炎がすっかり癒えた今となっては良い思い出である。と言うか、昔の私も今と変わらず本当にヒマだったんだなあ。そして今週の更新は、ダグラス・アダムス記念講演で講演した二人のロバート、ロバート・スワンとロバート・ウィンストンを紹介。先日、3月23日に開催されたウィンストンの講演は盛況だったんだろうか。
また、先週に引き続き今頃になってようやく知った、第78回アカデミー賞絡みの情報も追加する。一応、ノミネートのノミネートには選出されていたんだね。
ついに出た、新訳『宇宙クリケット大戦争』!
……でもその前に。前回の更新でロバート・スワンとロバート・ウィンストンの2人を追加するにあたり、とりあえず翻訳の出ていたウィンストンの『スーパーヒューマン 人体に潜む驚異のパワー』は読んでみた。
この本が出版されたのも、基になったBBCのドキュメンタリーが最初に放映されたのも共に2000年10月、アダムスは1999年には既にアメリカ・カリフォルニア州サンタバーバラに引っ越していたから、この本を読んだか番組を観たかした可能性については何とも言えない。言えないけれど、もし読んだか観たかしていたら結構気に入ったんじゃないかとは思う。この本で言うところの「スーパーヒューマン」とは、「自己回復機能の秘密を解明し、それを医学的技術と合体させて活用する」(p. 7)ことで、「寿命を延ばし、進化が取り残したさまざまな欠陥を克服」(p. 8)したヒトのこと。その結果、「女性は、閉経後も子供を産めるようになるだろう。神経細胞を損傷した人も、自己再生の力で回復できるようになるだろう」(p. 13)、というのだが。
「自己回復機能の秘密」なんてそんなの医学の基本じゃないのかと思ったら、20世紀に入ってDNAなるものが発見されたことで、今まで気づかなかったことが次々と明らかになっていったようだ。分子生物学の発達が医学に大きな影響を与えるとは、私はこれまで考えもしなかったけれど、単に遺伝病の解明云々だけの問題ではないらしい。
例えば、外傷によって大量の血液を失った場合、これまで救命士は直ちに患者に輸血をし、血圧を維持することに務めてきた。が、進化の過程から考えると、生物としての人体は「出血したら輸血される」ことを前提に作られてはいない。むしろ、大量に出血しても何とか生き延びる形を模索して進化してきたのであり、だからそういう視点で改めて人体の仕組みを検証してみた結果、大量出血後に起こる危険なショック症状も、実は身体の「自己回復機能」としてはそれなりに理にかなっていることが分かってきた。故に、出血したからと無闇に静脈に輸血して強引に血圧の維持に務めるのは、人体が身体を守ろうとする機能に反する行為であり、「ときには致死的なものにさえなりかねない」(p. 40)とまで言うのだ。
まったく、目からウロコな話である。この本には、他にもこの手の話がゴロゴロ転がっている。ま、この方面で研究が進んで、我々がみんな「スーパーヒューマン」になるなら、それは勿論めでたい限りだが、しかし最先端で実験段階な医学とは別に日々の医療現場はとりあえず従来通りに動かざるをえないのもまた事実、なのにこういう番組が大々的に報道されたり出版されたりすると、一般病院の看護師さんや救急車の救命士さんたちは少し困惑するんじゃないかなとも思った――あ、いや、私自身は医師でも看護師でも薬剤師でもレントゲン技師でもないが、たまたま今の配属先では看護師さんと話す機会が多いもので、つい。そして今週の更新は、とうとう昨日で岩波ホールでの上映が終わってしまったアニメーション映画『死者の書』の監督、川本喜八郎氏に加え、ノルシュテインと親交の篤いアニメーション監督4人(イワノフ=ワノ、デクチャリョフ、アタマーノフ、ミリチン)を追加。
アニメーション監督といえば、アート・アニメーション監督育成のための学校が新設されるようなので、一応ノルシュテイン関連の最新ニュースに載せておいた。美術のセンスがなさすぎて、こういう学校に行きたいという野心のカケラすら持てない私は、さて幸せなのか不幸せなのか。
先月下旬、上映も終了間際になってようやく川本喜八郎監督の『死者の書』を観に岩波ホールに行った。
もっと早く観に行っても良かったのだが、というより行くべきだったのだが、映画ファンの一人として観客動員数は伸びて欲しいと願う一方で混雑している映画館はイヤ、特に通い慣れた川崎のシネコンと違って、旧来の「前の席に人が座るとスクリーンの一部が見えなくなる」ような、床の平らな映画館ではなるべく空いている日を狙いたい、という理由で、敢えて観客が減ってくる頃合いを伺っていたのだ。そして上映開始から何週間も過ぎ、さすがにもう観るつもりの人は大抵観に行っただろうと踏んで、その上わざわざ平日に休みを取って出かけた。おまけに上映開始20分前には岩波ホールがある神保町に着いていて、こりゃ私が一番最初の客かもしれんと思って中に入ったら――その時点で場内ほぼ満席。
正直言って、驚いたの何のって。
ついでに、観客の平均年齢が優に60歳を越えていたのにも驚いた。この方々が、川本アニメーションのファンなのか、原作者・折口信夫の愛読者なのか、はたまた岩波ホールの愛好家なのかは謎だけど。
余談だが、岩波ホールのパンフレットではどうしていつも普通の句読点、「、」や「。」の代わりに「,」や「.」が使われるのだろう。これも知る人ぞ知る岩波ホールの伝統の一つなのかもしれないが、個人的には読みにくくてあまり嬉しくない。『死者の書』とは何もかも対照的に、現在公開中のロシア映画『ナイト・ウォッチ』は公開初日の4月1日に川崎のシネコンで観た。
公開初日で、おまけに映画ファンサービスデーとあっては混雑必須、いつもなら絶対に避けるところだが、4月は私の仕事が一年で一番忙しい季節、この日を逃すとゴールデンウィークまで映画館にはとても行けそうもない、そして『ナイト・ウォッチ』が4週間以上上映される保証はどこにもない、という理由で、わざわざインターネットで事前にチケット予約までして観に行ったのだが、フタを空けてみれば客の入りはせいぜい7割程度。
それなりに巷の話題になっているかと思ったんだけどな。やはり私の興味と世間の興味は微妙にずれているらしい。
ちなみに、私はこの映画を(うっとうしい英語字幕と謎の英語ナレーションを除けば)かなり楽しんだのだが、帰宅して巷のネット映画評をみるとどこでもボロクソに貶されていて、ちょっと驚く。確かにあまり一般向きではないし、原作を読んでいないとわかりにくいところも多々あるし(私はがっちり読んでから観た)、この映画の監督を掴まえて「次世代を担う新感覚映像作家」呼ばわりは大げさ過ぎるとも思うけれど、それでもそもそもの話の設定や映像の美意識は、『ナルニア国物語/第1章ライオンと魔女』よりも私は好き。ついでに、映画に出てきたパラパラマンガ形式のアニメーションも存外かわいらしくて好き――とは言え、映画パンフレットで「ユーリ・ノルシュテインの切り絵アニメに見られる素朴さとユーモアに通じるものがある」(尾崎一男)と書かれているのを読んだ時には、いくら何でも言い過ぎだろうと思ったけれど。そして今週の更新は、6週間ぶりに『宇宙の果てのアンソロジー』の4本目のエッセイを追加する。今回のは私にも割と読みやすくて、助かった。
それから、ノルシュテイン関連の新商品が発売になったので、そのお知らせも追加。
ノルシュテインの『きりのなかのはりねずみ』に出てくるこぐまのぬいぐるみが発売されると知るや否や、私は直ちにアマゾン・コムに予約を入れた。
私にはもともと、人形とかぬいぐるみとかフィギィアを集めたり並べたりする趣味はないのだが、さすがにこればっかりは話が別である。ついでに告白すると、こぐまの前に発売されたはりねずみのぬいぐるみは、「実物を店頭で確認してから買えばいいや」と悠長なことを考えていて気づいた時には売り切れになっていたという苦い経験がある(考えてみれば、普段の私の行動範囲にそういうマニアックなぬいぐるみを取り扱う店はないのだ)。という訳で、今回は迷わず予約購入に踏み切った。
はりねずみ抜きでこぐまだけ、というのは少々さみしいが、でもアニメーションの中のこぐま同様、はりねずみが霧を抜けて自分の許にきてくれるのを待っている状態なんだと考えればそれもまた悪くない、と強引にこじつけることにする。そして、こぐまが我が家にやってくる前までに、こぐまの住処となるようなスペースを確保すべく少しは部屋を片づけなくてはいけない、と分かっちゃいるが、片付くどころか日に日に散らかっていくのは何故だろう?
ちなみに、3月26日付の同コーナーで紹介したマーヴィンのキーホルダーも、まだビニール袋ごと私の机の上に鎮座している。嗚呼。話は変わって、前回の更新で追加したブルース・ベスキのエッセイだが、なーんだ世界の名だたる科学者たちも考えることは私とたいして変わらないじゃないかと親しみを抱く一方、NASAの研究者にハインライン好きが多いというのはちっとも微笑ましい話じゃないぞとも思った。そりゃまあ、ハインラインの小説から宇宙に興味を抱くようになってNASAに就職した、という道筋はとてもよく分かるんだけれども、『宇宙の戦士』の愛読者がアメリカでロケットやら何やらを設計しているのかと考えると、正直言ってちょっとおっかない。
翻って現在日本の名だたる科学者たちは、果たしてアダムスとかハインラインで盛り上がったりするのだろうか。今どきの若い科学者なら、どっちかと言えば『ガンダム』とかで盛り上がるのだろうか(私は現時点で1話たりとも観たことがないのでよく分からないが)。しかし、実際問題として、コンピュータ関連の国際会議のパーティ会場等で「42」がどうしたと言われてぴんとくる科学者が、一体今の日本にどのくらいいらっしゃるのやら。
私には縁もゆかりもない世界の話なので確かめようもないけれど、せっかく今、河出書房新社から『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズの新訳が続々と発売されているのだから、これを機に日本のそういう世界の方々にも手に取っていただけたらいいのになと勝手に思う――あ、国際会議に出席できるような人ならアダムス作品くらい読もうと思えば原書で読める、ということでしたらごめんなさい。そして今回の更新も、引き続き『宇宙の果てのアンソロジー』より、5本目のエッセイを紹介。こちらは、少々難物だった。
マーティン・フリーマンが朗読する小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズのCDが発売になると知った時、私が一番最初に思ったのは「うっ、そう言えば約1年前にロンドンで買ったスティーヴン・フライ版もまだ聴いてなかった」だった。我ながら最低だ。
という訳で、大急ぎで開封して聴いてみた。聴きやすい。スティーヴン・フライの朗読なら前に映画のナレーター役で耳にしているけれど、その時よりも、何というか、一語一語がものすごく丁寧に発音され、読み上げられている感じがする。さすがはプロ、アダムスの朗読よりずっと分かりやすい――が、ひょっとするとフライの英語が分かりやすいんじゃなくて、私のリスニング能力のほうがじわじわと上がってきた結果「分かりやすい」と感じる、という可能性もなくはないので、改めてアダムス版も聴き直してみてもいいかもしれない。
しかし、「ほとんどノーカット」(Mostly Unabridged) なフライ版を最後まで聴くのに約5時間もかかるから、アダムス版にたどり着く頃には間違いなく新しいフリーマン版が発売になっているだろう。何しろ今の私は通勤時間がとても短いので、通勤中に聴くという手が使えない。ま、だからと言って自宅と離れたところに異動になってもちっとも嬉しくないけれど。ところで、前回追加したアダム・ロバーツのエッセイは、正直言って意味が分かるような分からないような内容だったが、この中でロバーツが紹介していた「とっておきのジョーク」の意味なら、映画『ブラジルから来た少年』を観たことのある私には直ちに分かった。分かったけれど、私の書いた概略にはわざと省いた。何故って、そのジョークが下品なだけでちっとも笑えない上に、『ブラジルから来た少年』のネタバレにもなってしまうから。あんなしょーもないジョークを説明するために、これからあの映画を観る人の楽しみを半減させてしまうのはあまりに勿体ないというものだ。
とは言え、あのエッセイの文脈では、このジョークが本当に大ウケ間違いなしの最高傑作であるというより、どんなジョークもウケるかウケないかはそのジョークが話される時の状況に左右されるということの一例だったので、おもしろくないとロバーツに文句を言うのは筋違いだという理屈は分かる。しかし、この程度のジョークで大爆笑が取れるガーデンパーティって一体どんな代物なんだよ!
え、それでもやっぱり『ブラジルから来た少年』絡みの下ネタって何か知りたい? そういう方は是非ご自分で『宇宙の果てのアンソロジー』本編を買って読んでお確かめください、と言いたいところだが、そこまで勿体ぶる程のものでもないと思うので、一応こっそりこちらで紹介しておく。興味のある方はどうそ、ただしくどいようですがたいしておもしろくないですよ。笑えました?
気を取り直して、今回の更新もまた『宇宙の果てのアンソロジー』より。編集者が意図して読みやすいものと読みにくいものを交互に並べているということもないのだろうが、6本目はまた少し読みやすかった。
2006.5.6. アントニオ・ガデス舞踊団、来日公演日程決定!
先週の土曜日、ホームページの更新を終えた後、夕方から家を出てパリ・オペラ座バレエ団の『パキータ』を観に行った。
年に1回か2回くらいの割でクラシック・バレエなるものを観るようになって、かれこれ7,8年になる。それまではいわゆるミュージカルばかり、一番バレエに近いものでアントニオ・ガデス舞踊団の公演、もしくはフラメンコの舞台くらいだったから、初めてバレエの公演を観た時にはダンサー全員が最初から最後まで一言も声を発しないことにものすごい違和感を憶えたりした。本当に、我ながら「論外」な観客だ。さすがに今では無言なのにもすっかり慣れた(当たり前だ)ものの、鑑賞眼そのものはちっとも成長しておらず、仕事が忙しかったり地方在住だったりして観たくても観られない真性のバレエ・ファンには申し訳なくて合わせる顔もないのだが、でも毎回心から楽しんで観ていることだけは確かなのでお許しください。
ともあれ、いつしかすっかり私にもお馴染みとなった上野の東京文化会館では、いつものように入り口のところで公演チラシの束が配られていた。こういうチラシは紙ゴミになるだけと嫌う人もいるけれど、私は結構好き。幕開きまで楽しく拝見し、公演後もきっちり自宅に持って帰って……結局そのままゴミ箱行きになるのだが、そうと分かっていてもやっぱり有難く頂く。この日もいつもの通り座席のところでパラパラと眺めていて、一瞬息を呑んだ。
アントニオ・ガデス舞踊団だとーーーーーーー!
という訳で、この時私がゲットしたチラシはこちら。来年日本で公演する、という情報だけは入手済みだったけれど、まだまだ先のことだと思っていたら、うわあ、もうこの7月にはチケットが発売されるのか。私が見逃してしまった『血の婚礼』も上演されるのか、あの『カルメン』も復活するのか、そりゃガデス本人は出ないけれど(当たり前だ)、あの舞台演出をもう一度堪能するために万難を排して観に行きますとも、チケット発売日の7月16日は今からスケジュール帳に記入しておきますとも、そしてこのチラシは公演が始まるその日まで壁に貼っておきますとも!
念のため書き添えておくと、『パキータ』の公演自体も素晴らしくおもしろかった。いつかまたパリ・オペラ座が来日公演を行うことがあったら、金と時間に折り合いがつく限り観に行きたいと思う。そりゃできることなら次はパリ・オペラ座の本拠地での公演を観たいものだが、気安くそういうことを考える前に、上演直前に演目のあらすじを頭に入れるため大急ぎでパンフレットを貪り読む以外に、もう少し真面目にバレエの知識を蓄えるべきなんだろうな、多分。そして今週の更新だが、アントニオ・ガデス舞踊団の来日公演に関する最新ニュースは、『パキータ』を観た翌日のうちに更新しておいたのだが、それとは別の新しい情報が入ったので追加しておく。それから勿論ダグラス・アダムス関連の、まだまだ続く『宇宙の果てのアンソロジー』の7本目も。
ところで、前回追加した6本目に出てくる「宇宙一最悪な詩」だが、地球人の好みは人それぞれ、誰に何を朗読されるのが一番キツイかについても当然意見は分かれるところだろうけれど、今の私にとってもっとも拷問に近い朗読は、辻仁成氏による『情熱と冷静のあいだ―Blu』だな――って、あ、いや、別にこの著者と著作が「宇宙一最悪」というのではなく、あくまで個人的な趣味の問題ですのでどうか誤解なきよう。
5月1日にNHKのBS2で放送されたドラマ、『ER緊急救命室』第11シリーズ第228話「インターンの苦悩」を録画して観た。
私もかつては熱心にこのシリーズを観ていたものだが、小児科医のダグ先生がいなくなってから興味が薄れ、いつしか観るのを止めていた。にもかかわらず、何年かぶりにいきなり第228話だけを唐突に観たのは、「インターンの苦悩」という副題の原タイトルが、"An Intern's Guide to the Galaxy" だったから。そうと知った以上、観ずばなるまい。
一応、事前にNHKの公式番組宣伝ページで登場人物や設定を予習してはみたのだが、私が観ないうちにERでは代替わりが進んでいて、誰が誰やらさっぱりわからないし、ましてや人間関係の経緯などまるでつかめない。私でも知っているキャラクターはカーターだけで、その彼にしても私の記憶ではぺーぺーの研修医だったのに、今では随分立派になってERの陣頭指揮を執っていたりする。いやはや、時の流れを感じるなあ。
と、こんなにも知識のない状態でいきなり第228話だけ観て話についていけるのだろうかという不安もあったが、観始めた途端にそんな杞憂は吹っ飛んだ。このシリーズの良いところ(?)は、とにもかくにも次から次へと重症患者が運ばれてきて、一つ一つの治療やトラブルにいちいち拘泥しないところにある。普通の医療ドラマならたっぷり20分は使って語られるような深刻な問題が起こったとしても、『ER』では新しい重症患者が怒濤の勢いでやってくるので、ぐずぐず考えるヒマもなくすべてがあっという間に通り過ぎていってしまうのだ。そのあまりの慌ただしさに圧倒され目を白黒しているうちに、50分かそこらの番組はあっさり終了し、観終わってから、「ああ、そう言えば『ER』ってこういう気ぜわしいドラマだったなあ」とひとりごちるのみ。
久しぶりに観ても退屈しなかった、というレベルでは十分おもしろかったのだけれども、でも残念ながら私にとって一番肝心な問題である、"An Intern's Guide to the Galaxy" については、『銀河ヒッチハイク・ガイド』を直接示唆するようなものは何も見つからなかった。せいぜい、このエピソードの監督の名前が「アーサー」だということくらい。ひょっとして、日本語吹き替えの脚本が書かれた際に、意味不明な台詞だからと切り捨てられたとか? 確かにその可能性もなくはないが、それを言うなら主要登場人物もまともに把握していない私が、せっかく脚本家および翻訳家が仕込んでくれたほのめかしをまんまと見過ごした可能性だってある。なので、もし第228話をご覧になって『銀河ヒッチハイク・ガイド』との関連を発見された方がいらっしゃいましたら、何とぞご教示くださいませ。
ちなみに、翌週の5月8日に放送された第229話は観ていないし、過去のシリーズを振り返って観る予定もないが、もしこれから先のエピソードで、"An Intern at the End of the Universe" とか何とかいう副題がつけられた日には、性懲りもなくその回だけをいそいそと観るんだろうな、きっと。そして今週の更新はまたしても『宇宙の果てのアンソロジー』、ではなくて、2001年5月11日にアダムスが突然死去してからとうとう丸5年が過ぎたことへの追悼を込めて、私の小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』のコレクションを9点ばかり追加する。探せば、まだまだいろいろあった――って、そりゃ単に私の整理が悪いだけの話か、やっぱり。
それから、ノルシュテイン関連の最新ニュースも追加。今度こそ、本当に開催されますように。
2006.5.20. 5年目の、そして初めての「タオル・デー」
2001年5月11日に亡くなったダグラス・アダムスの追悼のため、2001年から毎年5月25日を「タオル・デー」と称し、ファンはそれぞれ一日中タオルを持って過ごす。
そんな草の根イベントがあったなんて、恥ずかしながらつい先日初めて知った。教えてくださったのは、去年ロンドンで開催された『銀河ヒッチハイク・ガイド』特別展をレポートしサイトにアップされている方。いやーー、やっぱりカネにまかせてコレクションを増やしているだけじゃダメだわ、と反省しつつも、間一髪で5年目の「タオル・デー」に間に合ったことに感謝する。本当にどうもありがとう!
それにしても「タオル・デー」とは、何とも『銀河ヒッチハイク・ガイド』にふさわしい素敵なイベントだと思う。どこかに群れ集ったりすることなく、一人一人がそれぞれの場所で実行できる。コスプレ等に比べればはるかにお手軽だし、また特定のキャラクター商品を強制的に買う羽目にならない。え、タオル業界が少しは潤うんじゃないかって? いやいや、この日のためにわざわざタオルを新調する人は、ほとんどいないはず。どちらかと言えば、こういう時は普段から使い慣れたタオルをこそ持ち歩きたいじゃないか。
という訳で、5日後の2006年5月25日は私も終日首からタオルをぶら下げていますのでよろしく――と言い切りたいところだが、いかんせん私は小心者で根性なしの勤め人、こっそりポケットにタオルハンカチを忍ばせる程度でお茶を濁してしまいそうな気もする。でも、それなら日頃からどちらかと言うとアイロンの必要がなくて吸収性の良いタオルハンカチを愛用している私としては、普段の生活とほとんど変わらないことになるし、さて、どうしたものやら。話は変わって、今年は「ロシア文化フェスティバル2006 IN JAPAN」が開催される、というのかされている、そうな。何でも、日ロ国交回復50周年を記念してのこととか。
「イタリア年」とか「ドイツ年」とか、気のせいかここ数年そういうイベントをしょっちゅう目にしているような気がするけれど、誰が何をどう決めた結果そういうことになるのか、そこらへんのシステムが私にはイマイチよく分からない。「ロシア文化フェスティバル2006 IN JAPAN」の公式サイトには、両国の最高責任者と思われる二人が極めて形骸化されたごあいさつ文を載せていらっしゃるが、こういうのも一応外務省のお仕事の一環なんだろうか?
何はともあれ、なかなか観ることのできない映画がフィルム上映されたり、美術展やらコンサートが行われるならそのこと自体は無論めでたい。そして、今度こそちひろ美術館でノルシュテイン展が開かれることになるのなら、ますますもってめでたい。
正直なところ、公式サイトに上がっているさまざまな催し物の中で、「これだけは行かねば」と心に決めているものはノルシュテイン展を除けば実はそんなにないのだけれど(ごめんなさい)、できれば7月4日〜30日に東京・東京国立近代美術館フィルムセンターで上映されるロシア・ソビエト映画祭には一度くらい参加したいなと思っている。そりゃあ、この映画祭で上映される作品の多くはその気になればレンタルDVDでも観ることができるかもしれないが、映画館の大画面で観る迫力は他に代え難いものがあるし、それより何より私は今まで一度も東京国立近代美術館フィルムセンターで映画を観たことがないので、たまにはそういう場所で知的ミーハー気分を満喫するのも悪くない。そして今週の更新は、再び『宇宙の果てのアンソロジー』より、8本目のエッセイを追加。
私と禅との接点と言えば、せいぜい京極夏彦著『鉄鼠の檻』を読んだことくらいである。私が禅について知っている二、三の事項は、すべて京極堂こと中禅寺秋彦氏に教わったといっても過言ではない。そういえば昔、バリントン・J・ベイリーの『禅銃』なんてSF小説も読んだけれど、内容なんか1ミリグラムも憶えちゃいない。
こんな私に比べれば、前回追加した『宇宙の果てのアンソロジー』8本目のエッセイ、"The Zen of 42" の著者ははるかに禅に通じている、に決まっている。そしてエッセイ自体、『銀河ヒッチハイク・ガイド』への愛に溢れた、とても素敵なものだとも思う。にもかかわらず、私はこのエッセイの概略を日本語で書くにあたり、敢えて「禅」ではなく「ゼン」と表記した。
我ながら、すごくイヤミったらしい。日本語も分からない外人なんかに禅が理解できるものかとせせら笑う、器量の狭さがモロに出ている。しかも、自分の無知を棚に上げて、だ。実に誠にタチが悪い――と、そう自覚しつつ、でも「禅」と「ゼン」では同じ「Zen」でも意味合いがまるで違ってくる、という日本語の特性を知らない人が、ただでさえ分かったような分からないような公案に「ぴんとくる」なんてことができるのだろうかと疑わずにはいられないんだよなあ。だってほら、私の師匠である京極堂もこう言っているではないか。「禅は、印度で生まれ中国で育ったが、真実花開いたのは日本でのことだ。僕は、これは偶然ではないと思う」
「何故だ」
「言葉だ。禅は言葉では表せない。だが日本語は、その表し難いものを表すのに比較的適していたのではないだろうか。それに高度な抽象化を日常的に行っている日本の文化も、禅を受け入れるのに相応しいものだったのだろう。だから――例えば西洋人は禅的なことは理解できても表現することは下手だ。(略)西洋人は悟る上で生物学的支障は勿論ないが、文化的支障は非常に多いだろう」(『文庫版 鉄鼠の檻』、p. 820)もっとも、そこまで日本語を母語としていることの優位性を鼻にかけるのなら、師匠の言葉を丸写しするのではなく自分の言葉で「禅」の何たるかをきちんと説明してみせるべきなんだが。さらに言えば、「禅カリグラフィー」なるものにまで手を染めている著者ならば、私の英会話より遙かに巧みに日本語会話をこなし漢字だってちゃんと読めて書ける、という可能性だってとても高い訳で、そうと分かった暁にはもはやぐうの音も出ないのだが。何せ、著者は「ゼン」(まだ書くか!)への造詣が深いばかりか、私が大学で第二外国語として学んでまったく身につかないままに終わった、フランス語の翻訳家でもあらせられるのだから。
まったく、弱い犬ほどよく吠える、とはまさに私のことである。そして今週追加する『宇宙の果てのアンソロジー』9本目のエッセイは、これまた私にはほとんど禅問答のようだった。いやもう本当に、分かったような分からないような。
今から約1年前の2005年5月28日から、ロンドン・科学博物館で『銀河ヒッチハイク・ガイド』特別展が開催された。私自身は行けずじまいだったのだけれど、先日、私のサイトを見てくださった方からこの特別展のチラシやポストカード等が送られてきた。
AMさま、本当にどうもありがとう。どれもこれも想像していた以上にかわいらしい上に、単なる宣伝用のポストカード一枚にしても細部まで意外なくらい手がこんでいる。また、同封してもらった2005年4月24日発売の The Sunday Times に付いていた映画の宣伝DVDについては、そういうものがある、ということだけは別の方にメールで教えていただいたものの、イギリス在住の友人・知人がいない私には手に入れる術はないとあきらめていただけに、喜びもひとしおであった。
という訳で、本当は今週の更新も先週に引き続き『宇宙の果てのアンソロジー』のエッセイの10本目を載せるつもりだったけれど、あまりの嬉しさに急遽予定を変更し、映画『銀河ヒッチハイク・ガイド』関連のコレクションを追加することにする。
これら映画コレクションのうち、イギリス・アメリカ版映画DVDと、ロンドンの映画館に置かれていた無料小冊子とは、私が自力で手に入れたもの。本当はイギリス版DVDまで手に入れるつもりはなかったのだけれど、イギリス版にしか入っていないメイキング映像、"Don't Crash Making Of" があると知った以上、買わずにいられなかった。まったく、いい商売をしてくれるよ。ただ、イギリス、アメリカ、日本、とそれぞれのDVDを眺めてみると、パッケージもディスクもデザイン的にはイギリスのと日本のはほとんど同じなのだが、日本版にはついていない2枚目のディスクに描かれたマーヴィンのデザインがとてもかわいらしくて、このためだけでもイギリス版をわざわざ買った甲斐がある、と強引に思い込むことにする。
マーヴィンのデザインと言えば、AMさまからいただいた特別展関連のチラシ等にもマーヴィンが多く使われていて、やっぱり私を含めマーヴィンのファンは多いのだろう。しかし、せいぜい頭の角度が違うくらいなのに、それでも何故かそれぞれに表情が異なって見えるから不思議だよなあ(え、そう見えるのは私だけ?)。
なお、ドイツ語で書かれたパンフレットは、現在ドイツ語圏スイスに在住している私の友人が送ってくれた。独特にシブイ色遣いが、何となくドイツっぽくって何となく楽しい。ただ、私はドイツ語はからきしダメなので、送ってもらった当初は中の文章を読もうと言う気にまではならなかったのだが、実はこの4月からふとした出来心でNHKテレビのドイツ語講座を見るようになり、以前に比べれば少しはドイツ語に馴染みが出てきたため、今回の更新を機に試しにドイツ語の文章を目で追ってみたところ――おっ、英語と『銀河ヒッチハイク・ガイド』の知識も総動員すれば、読めるところは読めるじゃないか。せいぜい週に15分程度テレビを眺めるだけ(30分番組なのに15分くらいしかかからないのは、サッカー情報のコーナーとかドイツ語で歌おうコーナーとか、興味の持てないところはがんがん早送りするから)、まともに外国語を「マスターする」ための勉強とはおよそ程遠い有様とは言え、それでも全く何もやらないよりはマシなんだ、と改めて思うと共に、始めて二ヶ月で早くも挫折しかかっていたところにおかげで少しはモチベーションも上がって、めでたしめでたし。
私が向かっているマックの隣には、2006年6月6日に発売された河出文庫『さようなら、いままで魚をありがとう』が置かれている。
この本を手に入れた日は、帰宅するや否や、石鹸できれいに手を洗い、腰を落ち着けて深呼吸して、最初から最後までイッキ読みした。
今、改めて本を手にとって、ページをぱらぱらとめくってみる。それは、紛れもなく『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズ4作目、So Long, and Thanks for All the Fish の日本語訳である。この4作目に関しては4,5回くらい原書を精読しているから、英文で馴染んでいる箇所も多いのだけれど、それがきちんと訳出されて、活字になって、製本されて、私の目の前にある。しかも、私は既に読み終えている。それでも、この期に及んでなお、嬉しいを通り越して「信じられない、ウソみたい」と思う。
奇跡だ。誰が何と言おうと、これは奇跡だ。
新潮文庫版『宇宙クリケット大戦争』が発売されたのが、1985年3月。今から20年以上昔のことである。それから数年後には、続編の出版どころかシリーズ3部作丸ごと絶版になり、そこらへんの古本屋の店頭で投げ売りされる日々が続き、ついにはそこらへんの古本屋からも姿を消した。そりゃ勿論、私同様に『銀河ヒッチハイク・ガイド』を愛読書と公言してはばからない日本人は他にもいらっしゃっただろうけれど、少なくとも表面的には『銀河ヒッチハイク・ガイド』は日本ではほぼ完全に死に絶えた、と言っても過言ではない。それだけに、4作目が日本語に翻訳される可能性なんて、それこそ「ありえない」の一語に尽きたのだが、1980年代後半に風見潤訳の新潮文庫で『銀河ヒッチハイク・ガイド』ファンになった方なら、私の言わんとするところをご理解くださることと思う。
それが、2005年の映画『銀河ヒッチハイク・ガイド』日本公開を機に、シリーズ1作目と2作目が新訳で出版されて順調に版を重ね、このたびついに『さようなら、いままで魚をありがとう』がこの世に現実のものとして誕生した、となれば、たとえこの手に本を掴んでいたとしても、やっぱり何度も我が目を疑わずにはいられない。でも、これは夢でも詐欺でも妄想でもない、本当の本当に翻訳されたんだ。だって、こんな会話、他のどんな小説に出てくるというのか。「いま買ってるとこだ。それから、ビスケットを買った」
「種類は?」
「リッチティー」
「あれ、おいしいわよね」 (p. 143)ばんざーーーーーーーい!!!
今日まで生きてて良かった。大げさでなく、心からそう思う。この世の中、何が起こるか誰にも分からないのだから、勝手に結論を出して勝手にあきらめたりしてはいけないんだ。
そして、2ヶ月後にはいよいよシリーズ最終巻、『ほとんど無害(仮)』が発売される。つまり、この奇跡にはまだ続きがあるということだ。いやもう本当、私なんざ考えただけで思わず知らず顔がほころんじゃうね。そして今週の更新は、『宇宙の果てのアンソロジー』の10本目のエッセイ。ラストの1文を、是非ご堪能ください。
それから、このコーナーをお読みになっている方にはほとんど関係ないと思うけれど、「English Version」に『さようなら、いままで魚をありがとう』をアップした。日本語の読めない外国の方が私のサイトに実際どのくらいアクセスしてくださっているかは不明だが、そういう方々に向かって「日本でもついにここまで普及しました」と胸を張って報告できるというのも、これまた嬉しいったらないね。
ジャクリーン・ケアリーが働いていたというフェンチャーチ・ストリートの書店には残念ながら行ったことはないけれど、生まれて初めてロンドンに行った時は、書店の多さにまず目を引かれた。とりわけ、トッテナム・コート・ロード界隈からレスター・スクエアに向かうチャリング・クロス・ロード沿いときたら書店に次ぐ書店といった状態で、どの店もいちいち嬉々として見て回った記憶がある。どうせろくすっぽ読めないし買わないんだけれども、翻訳で読んだ作品の原書を冒頭部分だけ斜め読みしたり、装丁に感心したり辟易したり、本の展示方法や並べ方に感じ入ったりと、私にとっては娯楽の殿堂同然だった。インターネット書店なんて想像だにできない時代のことだから、洋書が簡単に手に取って見られることのありがたみも今と違って格段に大きかったし。
チャリング・クロス・ロードにある書店の中でも、フォイルズという老舗書店のことは今でもよく憶えている。古いビル丸ごと書店になっているのは当時のロンドンでは他になかった(と思う)から、というだけでなく、それなりに広い店内がそれぞれのコーナーごとに妙に仕切られていたりするせいで店舗の中が迷路のようになっていて、出口を探すにしてもものすごく分かりにくかったから、それだけ印象も強かった。さらに、そのややこしい店内の奥の奥に設置された「コメディ」コーナーで、ハードカバー版『銀河ヒッチハイク・ガイド』を見つけたとあってはなおさらのこと。
この時購入したのが、こちら。正直に言って、この本を見つけた時は「やった!」という喜びより「海賊版じゃないの?」という疑念のほうが勝っていた。表紙のデザインはどうしようもなくダサいし、奥付を見れば1985年出版と書かれているのが尚更怪しい。1979年に最初からペーパーバックで出て、以来ずっと版を重ねている本を、わざわざ高い価格のハードカバー版で出版し直したところでどう考えても売れる訳がないじゃないか。実際、フォイルズでももっと人目に触れる一般小説コーナーで、Pan Books のペーパーバック版が普通に売られているし。怪しい、ものすごく怪しい。
にもかかわらず、さんざん迷った末に買ったのは、イギリスが誇る天下のフォイルズでインチキ海賊版が売られることはまずないだろうと判断したためである。と、とりあえず盲目的な信頼で7.95ポンドを支払ったものの、根本的な疑念が晴れることはなかった――2003年にM・J・シンプソンが出版したアダムスの伝記、Hitchhiker - A Biography of Douglas Adams の、131ページを読むまでは。Hardback rights were sold to Arthur Barker Ltd, who published the book a few month after Pan in February 1980, aimed largely at libraries and therefore now very rare indeed.
なるほど、図書館向けだったのか。
にしても、「今では大変稀少」ということは、ひょっとして今では古書として高値で取引されているのでは、と早速ネット検索してみると、ある古書オークションサイトでは何と700ポンド以上の値段がついている! すわ一攫千金のチャンス到来かと一瞬色めき立ったものの、よく考えてみれば私が持っているのは1985年に再版された版。おまけにこれまでのぞんざいな扱いが災いして保存状態はちっとも良くないし、ということでやはりあぶく銭獲得は束の間の夢と消えたのであった。そして今週の更新も、引き続き『宇宙の果てのアンソロジー』。11本目の今回のエッセイは超劇辛なので、どなたさまも覚悟してお読み下さい。
2006.6.24. 今読んでもおもしろい本、あるいは今読んだらおもしろい本
数日前、アマゾン・コムからようやくマーティン・フリーマン朗読のCD『宇宙の果てのレストラン』が届いた。6月2日発売で、通常7日〜10日発送と表示されているにもかかわらず、発売日の随分前から予約していた私の許に届くのにどうして2週間以上かかるのだ、と文句の一つも言いたいところだが、2006年4月29日付の同コーナーにも書いた通り、手持ちの朗読CDすら全部聴いていない我が身を振り返ると、やっぱり何も言えやしない。
ともあれ、早速CDプレイヤーに入れて聴いてみた。フリーマンの朗読は、スティーヴン・フライに比べると私の耳にはほんの少しだけ早く感じるんだが、気のせいか。でも、会話シーンではきっちり声を替えて読んでくれるので、楽しい。そして勿論、アーサーの台詞でもきっちり芝居している感じがあって、それもまた楽しい。
興味のある方は、ぜひお試しあれ。前回の更新で追加した『宇宙の果てのアンソロジー』11本目のエッセイの著者、スーザン・サイズモアに対して私が言いたいことはただ一つ、「だったら仕事を断れよ!」に尽きるのだが、この手のアンソロジーで執筆者全員が手放しの賞賛を送っているだけではおもしろくない、たまには反論する人もいたほうがいい、というのが編集者の意図だったのだろうか。それとも、送られてきた原稿を読んでぎょっとしたけれど、結局そのまま収録せざるを得なかったのか。編集者に訊いてみたいような、訊きたくないような。
それはさておき(実際、さておくより他にあのエッセイへの対処法があるだろうか)、私にもサイズモアのように「昔は大好きだったけれど、今になって読むとくだらないとしか思えない本」はあるだろうか、とここ数日頭をひねってみたものの、なかなか思い浮かばない。単純に、私が中高生の頃は原則として本は買うのではなく図書館で借りて読むものだったから、当時読み散らした本が今手元になくて確認のしようがない、という問題もある。中学生時代に貪り読んだ赤川次郎のミステリー小説を、もし今改めて読み返したとしたら、やっぱりそれなりにおもしろいと感じるだろうか、それともあんなにも大好きだった三毛猫ホームズすら「つ、つまらん」と放り出してしまうだろうか。あるいは、テキストそのものの良し悪しよりも、夢中で読んだその時の記憶が甦って「懐かしい」と思うだけだろうか。
逆に、「昔は何がおもしろいのかさっぱり分からなかったけれど、今読んでみたらおもしろさが分かった本」なら、私の場合、その筆頭はジェーン・オースティンの『高慢と偏見』である。初めて読んだのは高校生の時だが、登場人物の大半が不愉快で退屈(特に主人公の母親、ありゃ一体何なんだ?)、読み進めるのがつらくて往生したものだが、今ではオースティンの徹頭徹尾意地悪目線で綴られた皮肉だらけの文章につい笑わされてしまうくらい好き。ただし、私もついにオースティンのおもしろさに目覚めたか、と思って調子に乗って読んだ『マンスフィールド・パーク』であっさり玉砕したことは付け加えておかねばなるまい――登場人物の大半が不愉快で退屈な上に、中でも一番不愉快で退屈なのは主人公のファニー、あの陰気臭さと説教臭さは如何ともしがたい、と思ったのだけれど、今から数年後にこの感想を撤回できる日が来ることを祈っている(一応)。そして今週の更新はまた、『宇宙の果てのアンソロジー』。12本目のエッセイ、ともなればいい加減ネタも切り口もなくなりそうなものだけれど、なるほどこういう視点で読む人もいるのかと感心した。言われてみれば確かに『銀河ヒッチハイク・ガイド』は、前代未聞の経済SF小説かも。
ともあれ、当サイトは来週から例年通り2ヶ月の夏休みに入る。勿論、8月上旬の『銀河ヒッチハイク・ガイド』5作目の発売などの最新ニュースは随時アップするが、それを除けば基本的に次の更新は9月2日。
素敵な読書の夏を、ともに楽しみましょう。
先月早々に河出書房新社から発売された、小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズ最終巻、『ほとんど無害』はもうお読みになりましたか? そして、お読みになった方は、気付かれましたか? 巻末の大森望氏の「解説」で、このサイトのURLが記載されていることに。
私は、文字通り椅子から飛び上がりましたね。
よりにもよって、『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズの文庫本に活字として刻まれるとは、純然たる一ファンにとって何たる栄誉、何たる幸せ。そりゃM・J・シンプソンの解説本、 The Pocket Essential Hitchhiker's Guide (2005)に載せてもらえた時も嬉しかったけれど、今回は日本語で、しかも小説の文庫本そのものに載せてもらったのだから、嬉しさも晴れがましさも倍増するというもの。大森様、本当に有難うございました。いやはや、かくなる上は今のURLを何が何でも死守しなくてはなるまい。と、改めて深く決意したところで、折良く(?)プロバイダーからの新たな挑発が待っていた。
URLからご推察の通り、私はこれまでイッツコムというプロバイダーでADSL契約をしていたのだが、イッツコムではまもなく、ADSLでのサービスを止めるというのである。光ケーブルとかケーブルテレビに移行するのではなく、ADSLを使って今後も今のメールアドレスやホームページアドレスを維持したいなら、他社のサービスとイッツコムのアカウントを組み合わせるほかないというのである。全く、何て面倒臭い。どういう事情があるのか知らないが、顧客サービスどころか顧客の足下を見すぎじゃないの?
でも、どれほどあからさまに足下を見られようと、今の私にURLを変更するという選択はありえないからには、おとなしく従う他ない。顧客の無理を押し通しすぎて、イッツコムの会社そのものが倒産とか合併とかになった日にはそれこそ目も当てられないし。
という訳で、あれやこれやの末に8月上旬に無事ほとんどすべての変更処理が片付き、今はNTT東日本のフレッツADSL経由でホームページを管理運営している。しかし、この変更手続きのために、私は一体何度イッツコムとNTT東日本に長電話したことか。勿論、通話時間が長くなるのは私の知識が足りないせいなので、毎回電話を切る頃には自分のバカさ加減がほとほとイヤになる始末。それでも、最後の最後でまたしてもパソコンの設定がうまくできず、泣く泣くNTT東日本に電話した時だけは、私の無知のせいではなかったことが判明し、ちょっとだけ気分が向上したことは付け加えておきたい。夏休み中の出来事をもう一つ。7月16日、新生アントニオ・ガデス舞踊団の2007年公演チケットが発売開始になり、私も発売初日に電話をかけてチケットを手に入れた。そして、今ではわざわざチケットぴあの窓口まで行かなくても、ファミリー・マートで手続きして購入できることを初めて知った。なるほど、だからチケットぴあの店舗がどんどん減っているんだな――って、気付くのが遅すぎるか、やっぱり。
夏休み中の出来事をさらにもう一つ。夏休みに入った直後の6月末に、ブックレット『アニメの詩人 ノルシュテイン』が発売された。作者は、私に言わせれば「あなたが書かなくて誰が書く」の、児島宏子さん。まさに、「よっ、待ってました!」な1冊である。
ただし、短い。あまりに短い。まだまだ山のようにネタをお持ちでいらっしゃるであろう御方に、これだけの長さでノルシュテインの全作品を網羅させるとは、私に言わせれば不届き千万もいいところである。せめて、一作品につき1冊で依頼してくれればいいものを。
いや、今からでも遅くはない。ノルシュテインやソクーロフの通訳に加えて(そうそう、映画『太陽』を観られたのもこの夏の収穫の一つだった)、チェーホフ作品の翻訳等々、お忙しいのはよく分かるけれど、この本はノルシュテイン入門編としておいて、改めて1冊1作品で書いていただけないものか。あ、ブックレットと言わず、もっとがっちりした集大成な本に仕上げていただけるなら、ますますもって大歓迎です、はい。かくして2ヶ月の夏休みは楽しく過ぎ去り、今日からまた毎週更新の日々が始まる。今回の更新で新規に追加した、私の独断と偏見に凝り固まった映画『銀河ヒッチハイク・ガイド』評については軽ーく読み流していただいて、これからもどうかお付き合いください。
世界的に評価が高くて有名な原作小説が、初めて映画化される。そういう時、原作が難解すぎてとても私の手には負えないだろうと判断し、映画で「概説」してもらおうと不埒なことを考えることもあるが、そうでなければなるべく観るより先に原作を読もうと心がけている。
出来上がった映画そのものは、原作があろうとなかろうと、映画それ自体で独立した作品として成立していなければならない。先に原作を読んでいなければ理解不能な映画というのは、到底褒められたものじゃない。だから、どんなに原作が有名だろうと、まったく知らない人が観ても十分理解できる作品に仕上げる、ということは(私に言わせれば)大前提だが、その一方で、原作が有名であればあるほど、観客の多くがあらかじめ原作を読んでいることを考慮した上で製作する必要も出てくる。
私が観る前に読んでおこうと考えるのは、有名な原作に対して映画の脚本家や監督が仕掛けてくるアレンジを、できるだけきちんと見定めたいからである。それが、映画化のために頭をひねり知恵を絞った製作サイドに対する敬意だと思うからである――と書くと、何だかえらく立派で殊勝な心がけのようだが、その裏にとびきり挑発的な態度が潜んでいることは言うまでもない。さあ、あなたがたがこの原作をどう料理したのか、とくと拝見させてもらおうじゃないの。
勿論、愚直なまでに原作に忠実に映画化、という手はある。それならそれで構わない。とは言え、文章を映像に転化した時点で否応なしにアレンジは起こるものだし、私としてはせっかく映画化するからには、「原作通りだから文句を言わないでください」よりも、もう少し積極的に踏み込んだアレンジを加えて、監督あるいは脚本家なりの原作解釈を示してくれたほうがおもしろいと思う。ただ、前者の場合ならとりあえず最低限の評価は確保できるのに対し、後者の場合は一つ間違えれば(私を含む)既読者の大ブーイングを浴びるリスクが高くなることは覚悟しなければならないけれど。
さて、映画『銀河ヒッチハイク・ガイド』の話である。ガース・ジェニングス監督による映画は、有名な原作をかなりアレンジして作られているため、気に入らない人は気に入るまい。でも私はとても気に入った。たとえ私の勘違いにすぎなかったとしても、私なりにこのアレンジの意図が読みとれたからである。詳しくは前回の更新で追加した映画評コーナーでぐだぐだと書いた通りだが、「そんなマニアックなこと、ほとんどの観客には分からない」というのも確か。そしてまた実際、書いた私が言うのもヘンだけれど、ごく一部のマニアを除いては分かる必要もないと思う。分からなくても、知らなくても、映画を映画として楽しめればいい、というか、原作を知らなければ楽しめない映画なんて、前述の通りおよそ褒められたものじゃないのだ。
そういう意味では、『銀河ヒッチハイク・ガイド』の知名度が徹底的に低いこの日本で、たまたま映画を観ておもしろいと感じ、河出書房文庫の新訳を手に取ってくれた人が少なからずいたからこそ、本が版を重ね、映画の日本公開から約1年経った後にシリーズ最終巻『ほとんど無害』が発売されるに至った訳で、それもこれも、つまりはそれだけ映画『銀河ヒッチハイク・ガイド』の出来が良かったということで、善哉。そして今回の更新は、日本同様に原作の知名度が低いであろうと思われる国々(ポーランド、スペイン、ポルトガル、トルコ、アラブ首長国連邦)での、映画興行収入を追加。これらの国々でも、映画公開を機にそれぞれの言語の翻訳本が売れていたらいいなあ。
それから、ノルシュテイン関連の最新ニュースも追加した。すっかりカモにされているような気もするが、私もキーチェーンは予約注文済みである。
先日、よしもとばななの妊娠・出産小説、『イルカ』を読んだ。
気分良く前半の三分の一辺りまで読み進めたところ、まだ妊娠を自覚していない主人公の夢の中で、小説のタイトルにもなっているイルカが出てきた。私はなぜかそこの岩場の上の、大きな木の枝にぶらさがっているタイヤにつかまって海の上で勢いよくブランコをこいでいるような感じで遊んでいる。(略)イルカたちがやってきて、楽しそうにいっしょにジャンプして遊びはじめた。(略)
よく見ると岩の下の水の底にも黄色や青の魚がたくさん泳いでいるのが見える。青と、珊瑚のピンクや赤やオレンジや白などの不思議な色あいは、まるで宇宙から地球を見下ろしているようなすばらしさだった。胸がひやっとするような、しかしすっとするような気分だった。
イルカは私をからかうようにブランコの速さに合わせてジャンプする。水がはねたり、イルカの体に触りそうになってどきどきしたりする。イルカは声をたてて笑っているように見える。(pp. 96-97)このくだりを読んだ途端、私の頭の中でほとんど脊髄反射的に、映画『銀河ヒッチハイク・ガイド』のテーマ曲、「イルカの歌」こと"So Long & Thanks for All the Fish" が鳴り響き、我に返ったところで著者にひたすら申し訳なく思った。ひとたび書き上げられてしまえば後は書き手から読み手に全面的に委ねられるものだとか何だとか理屈をこねることはできるけれど、こんな読み方はいくら何でもあんまりだろう。
と、反省しつつも――でも、先に進めば進むほど、やっぱり、何となく、イメージが重なってくる。何たって「イルカの歌」には、"We thought that most of you were sweet/Especially tiny tots/and your pregnant women" という歌詞まであるのだ。
恐る恐るこの本の奥付を確認してみると、「2006年3月31日第一刷」とある。書き下ろし作品、とも明記されている。ということは、時期的には著者が映画『銀河ヒッチハイク・ガイド』を観てから書いたという可能性は、まったくないとは言えない。ひょっとしてひょっとすると――いやいやいや、さすがにそれはないよなあ。私が知らないだけで、そっちの世界(どっちの世界だ?)ではイルカは妊婦の定番癒しキャラ扱いなんだろう、きっと。
ま、私のバカげた妄想はともかく、興味のある方はご一読あれ。私はあまり熱心なよしもとばななファンではないし、著者の作品に多数登場する霊感体質の方々については虚構・現実ともにどちらかと言うと避けて通りたい、もとい敬して遠ざけたいと思うほうだけれど、それでもこの小説は割と気に入った。そして今週の更新は、『宇宙の果てのアンソロジー』の13本目。本当は、よしもとばなな作品に逃避しているヒマがあるなら、ステープルドンの『スターメイカー』でも読むべきなんだろうが、図書館で本を手に取ってほんのさわりを目で追っただけで、あえなく玉砕してしまった。
『宇宙の果てのアンソロジー』13本目のエッセイの概略を載せるにあたっては、多分、著者であるSF作家スティーヴン・バクスターの小説を1冊くらいは読んでしかるべきだろう。でも、全然読んでいない。
それでもせめて、バクスターがこのエッセイで引用した、アシモフの短編小説「最後の質問」くらいは目を通すべきだろう。ま、さすがにこれは、訳出する都合もあって読み通したけれど、でもこの短編が収録されている『停滞空間』という本そのものは、「最後の質問」を除いて全然読んでいない。それでも、一応読んでみようかなとページをめくってはみたのだが、どうにも活字の上を目が滑るばかりであきらめてしまった(ちなみに、やはりこのエッセイの中で引用されている物理学者ワインバーグのエッセイ『宇宙創成はじめの三分間』については、引用箇所を探し出しただけ。はなから、きちんと読む気はまったくなし。我ながら非道いもんだ)。
私は元々SFは苦手だったが、何だか年々苦手の度数が上がっている。そんな気がする。以前の私なら、SFは嫌いでもアシモフくらいまでなら何とかなったのに。それどころか、『鋼鉄都市』とか、かなり好きだったのに。やはり、歳を重ねるうちにすっかり頭が固くなってしまったのか。
とは言え、実際のところ、アシモフごときで躓いている場合ではない。何たってこの後には、普通のSFファンにとってさえ最重量級と言われる、かのグレッグ・イーガンの『万物理論』が鎮座しているのだ。『ほとんど無害』の解説で、大森望氏が『万物理論』の中に『銀河ヒッチハイク・ガイド』のジョークが「さりげなく登場する」(p. 366)と書かれているからには、たとえどんなに気が向かなくても無視する訳にはいかないではないか。ああ、こういう本があると教えてもらえるのは嬉しいのだけれど、やっぱり哀しい。
この他にも、実は前々からこれだけは読めねばと思いつつどうしても読む気になれないまま丸1年が経過してしまったアーサー・C・クラークの長編SFがあって、さらについ最近、SFではないものの、アダムスとの関連がなかったら絶対に読まないであろうリチャード・ドーキンスの新作『祖先の物語』が、図版多数とは言えかなり分厚い上下2巻で発売され、これまた翻訳されて嬉しいのだけれど、やっぱり哀しいのであった。
今年の「読書の秋」は、かなり過酷なものになりそうだ。今週の更新も、引き続き『宇宙の果てのアンソロジー』より。14本目のエッセイを書いたA・M・デラモニカの著作は、とりあえず現時点では翻訳されていないようで安心した――って、それはそれで非道い言い草だこと。
それから、ものすごく気の早い話だが、2007年のダグラス・アダムス記念講演についてのニュースも追加。どのくらい盛り上がっている講演会なのかは知らないけれど、5年間連続して開催し続けられるというだけでも、十分素晴らしい。
A・M・デラモニカが書いた『宇宙の果てのアンソロジー』14本目のエッセイを読むと、つられて私も甘いお菓子を口にしたくなる。
美味しいお茶やお菓子は、私を単純に幸せな気分にさせる。が、その一方で私は、嬉しいことであれ哀しいことであれ、テンションが上がると食欲が吹っ飛んでしまうという、少々面倒な摂食障害系の病を抱えてもいる。病と言っても、痩せこけたり貧血になったりする程のものではないし、むしろそうした症状を日々自覚して暮らしている分、たとえ休日であろうとあまり朝寝坊せず三食きちんと摂ることを心がけたりしているため、むしろ激務に追われる同年齢の人たちよりずっと健康的な食生活を送っているかもしれない。
だが、それでも病は病である。私としては、いつでもどこでももっと無頓着に食べられるようになれたらいいのにと思うが、近頃では多分このまま一生ひきずる課題になるのだろうと半ばあきらめてもいる。そして、かくなる上は、いつまたテンションが上がって食欲が吹っ飛んでも(比較的)大丈夫なように、平穏無事な精神状態のうちにもう少しばかり太っておこうと画策しているのだが、とかくこの世は痩せたい人のためのダイエット本は溢れていても太りたい人のためのハウツー本にはなかなかお目にかかれない。かと言って、本当の摂食障害患者の闘病記などを不用意に読もうものなら、たちまち胸が悪くなって食欲がなくなるから困ったものだ――が、ならば逆に、食欲の出るような、読んだだけで生唾が湧いてくるような本を読めばいいのでは?
という訳で、私が贔屓にしている食欲増進本を思い付くまま挙げてみると、まずは森茉莉のエッセイ。言葉の使い方の巧さ、美しさについては言うまでもないが、ややもすると説教臭くなりがちな「食に関するエッセイ」が、この著者に限ってはたとえ本人が説教のつもりで書いていたとしても全然説教臭くないところが素晴らしい。それから『シラノ・ド・ベルシュラック』、第二幕のラグノオの店や、ラグノオがロクサーヌを連れて前線に登場するシーンも実に良い感じだった。あとは宮部みゆきの『初ものがたり』とか、そうそうそれから山田詠美の『風味絶佳』に収録された短編小説「夕餉」も素晴らしかったっけ。「夕餉」に限らず、山田詠美の小説やエッセイには思わず舌なめずりしてしまう文章がたくさんあるものの、一瞬にして食欲がゼロになる描写(『蝶々の纏足』の冒頭部分とか。小説自体には何の文句はないんだけれど)もあるので、私の中では「取り扱い注意」作家の一人である。
これらの文章に書かれている料理を実際に口にしたとして、私が「美味しい」と思うかどうかは怪しいものだ。でも、活字から想像する「美味」ならば揺るがない。
食欲の秋なんだか読書の秋なんだか、書いている私もだんだん分からなくなってきたけれど、つまりはそういうことだ、と強引に開き直ったところで、さあ今度こそパソコンの前から立ち上がって美味しい紅茶を入れてビスケットでも抓もうか。でもその前に今週の更新を。ちなみに、今回追加した『宇宙の果てのアンソロジー』15本目のエッセイの執筆者マルゲリーテ・クラウスは、11本目のエッセイでアダムスをボロクソに貶した、あのスーザン・サイズモアのお友達である。
私が加入しているプロバイダーのイッツコムでは、自分のホームページのアクセスログを解析した結果を教えてくれる。
内容が内容なだけに、もともと私のホームページはアクセス数は多くない。というか、とても少ない。それでも、映画『銀河ヒッチハイク・ガイド』公開やDVD発売などの折には微妙に数字が上がったりして、内心ほくほくしたりもする。が、ここ数週間というもの特定の画像にアクセスが集中していて、これは一体どうした訳だろうと思ったら、どうやら外国語で書かれたブログにその画像へのリンクが貼られていたせいらしい。なるほど、巷で人気の高いホームページは、こうしてアクセス数を飛躍的に増やしていくのだろう、と今さらながら納得した。
その画像とは別に、近頃アクセス数を地道に伸ばしているのがダグラス・アダムス・コーナーの「ドクター・フー」のページである。理由は簡単、先週からNHK衛星第2放送で『ドクター・フー』新シリーズの放映が始まったからだ。検索してたどりついた人の期待に応える内容になっているかどうかはさておき、「ドクター・フー」で検索して見つかる日本語サイトはまだまだ数少ないから、私の許にまで流れ着く方がいらっしゃるということだろう。
で、その『ドクター・フー』新シリーズだが、私も観ている。観ているだけでなく、結構ハマっていたりする。そして、2001年11月3日付の同コーナーでさんざんクサしておきながら何てことだ、と頭を抱えていたりもする。
しかし、言い訳にもならない言い訳をさせてもらうなら、現在放映している新シリーズは2005年に製作されたものだけあって、特撮映像の質は格段に良くなっている。このレベルなら、私だって文句はない。が、映像の質より重要なのは、ドクター役をあのクリストファー・エクルストンが務めていることにある。私がどっぷりハマってしまったのは、ひとえにこの役者のせいだ。
え、そんなにエクルストンのファンなのかって? いえいえ、そうではありません。私にとってクリストファー・エクルストンと言えば、映画『日蔭のふたり』(1996年)で彼が演じた英文学史上屈指の救われない男、ジュード・フォーリーである。陰気臭いストーリーがお約束のトマス・ハーディ作品の中でも群を抜いてヒサンな人生を歩まされる役柄を、彼があまりに見事に体現していたため、申し訳ないことに私の中ではエクルストン=ジュードになってしまった。『日蔭のふたり』以外にも、彼の出演作品として『エリザベス』とか『アザーズ』も観ているが、どちらも暗くて怖い役で、またそれが良く合っていたように思う。
それだけに、どちらかと言うとコミカルな要素も強いドクター役を、どちらかと言えば強面の彼が一体どう演じるのだろうと好奇心を膨らませることになり、その挙げ句プロの役者の見事な豹変ぶりを楽しむことにもなったのだった。そしてまた、シリアスなシーンでは過剰なまでにシリアスになり、時折かつてのジュードっぷりを彷彿とさせてくれることにも。
なお、エクルストンは、役者としてのイメージの固定化を恐れ、ドクター役はこのシリーズのみで降板するらしい。その気持ちはよく分かるけれど、私個人に関して言えば「イメージの固定化」は完全に手遅れだった。ごめんなさい。そして今回の更新もまた、『宇宙の果てのアンソロジー』より、16本目のエッセイを追加。
それから、ノルシュテインの企画展情報も少しだけ加筆。何となくまだ先の話だと思っていたけれど、開催まで残り2ヶ月を切っているんだよなあ。それなのに、NHKロシア語会話のテキストに連載中のターニャ・ウスヴァイスカヤのマンガエッセイを本屋で立ち読みしたら、いつのまにか手術&入院をされていたようで、本当に大丈夫なのかしらん。
今年の2月からダラダラと更新を重ねてきた『宇宙の果てのアンソロジー』も、今回追加した17本目のエッセイを除けば残っているのはあと2本、そろそろ終わりが見えてきた。
いかんせんシロートがテキトーにまとめて書いているものだから、どこまで原文の内容を正しく反映しているか怪しいものだ。それでも、私にわかる/できる範囲でなるべく忠実に、忠実が無理ならせいぜい当たり障りなく日本語に置き換えようと務めてきたが、8本目のエッセイ "The Zen of 42" ではわざと「ですます調」に、また前回追加した16本目のエッセイ "Douglas Adams and the Wisdom of Madness" で宇宙人が地球人についてコメントする部分ではかなりくだけた口調にしてみた。
してみたものの、今でもかなり不安が残っている。理由は二つ。まずは、こういう文体が原文のテイストやニュアンスをそれなりに正しく伝えていればいいのだが、私が勝手に脳内補完してしまっただけで実はとんだ勘違いだったとしたらどうしよう、という英語読解力の問題。それから、普段自分が使わない文体や口調で無理して書いた結果、読んだ人がしらじらしさやわざとらしさを感じたとしたらどうしよう、という日本語文章力の問題。えーー、何分にもシロートがやってますので、そこのところはなるべく大目に見てやってください、でも「明らかに違うだろう」という点がございましたら、ご一報いただければ急いで訂正いたします。
という訳で、日々小説本を読み散らかしている時はほとんど意識しないくせに、いざ自分で書き出してみると、フィクションの翻訳や執筆を手掛けているプロの書き手たちが、年寄りの繰り言だろうと若者の戯れ言だろうと、話者や状況にきちんと応じて(最良の意味での)もっともらしい言葉を遣っていることに改めて感じ入る。あらゆる他人の声や言葉を掬い取って映し出すって、凄いことだ。いやもう本当に、頭が下がる。それとは逆に、例えば私のホームページの中のこのコーナーとか、(私はやっていないが)ブログで日記を公開するとか、そういった「私について私が語る文章」を書く際、どういう文体を選ぶかによって、読み手が受ける「私」の印象は変わってくる。「私について私が語る文章」だからといって、本当に普段の言葉遣いをそっくりそのままアップする必要はない、というより大抵の場合は意識的にしろ無意識的にしろ「こう見られたい私」を演出して書いているものだ。そして、「こう見られたい私」と「素顔の私」の間のギャップが少なければ演出という名の化粧は簡単だが、乖離が大きければ大きいほど化粧の技術が問われることになる――つまり、化粧がヘタだと「こう見られたい私」の裏にある「素顔の私」が却って露わになるってこと。
ネットで日記の類を公開すること自体、所詮「ごっこ遊び」の域なのだから、楽しく遊んだ者の勝ちである。とは言うものの、そこらへんをきっちり自覚した上で演じているならともかく、不用意に用いた板についていない言葉遣いのせいで無意識の願望が垂れ流しになり、しかもそれに気付いていないのは自分だけ、という事態は十分起こりうる。バカでもビンボーでもそのこと自体はたいして恥ずかしいことではないけれど、バカのくせに利口ぶっているとかビンボーなくせにセレブぶっているとか、他人に見透かされるのは猛烈に恥ずかしいではないか。なのに、今では私自身、こういう文章を深く考えずに人目に晒すことにすっかり慣れてしまっている訳で、よくよく考えてみるとちょっと怖い。
2006.10.21. 『フル・モンティ』、『ブラス!』、そして 2006.10.28.
先日、イギリス映画『キンキーブーツ』を観た。
と言っても、私の地元・川崎に新しく出来た商業施設、ラゾーナ川崎を見物しに行って、その商業施設に入っている109シネマズ川崎というシネコンでたまたま上映していたからついでに観たまでである。当然、この映画に寄せる私の期待値はそんなに高くなかったし、そういう意味では期待を裏切らない、まずまずの出来であった――と書くと、何だか随分つまらない作品のように聞こえるが、いやいやどうして、観ている間はそれなりにおもしろかったのは確か。ただ、同種のイギリス映画、『フル・モンティ』とか『ブラス!』に比べると、脚本に少々疵があるように私には思えた。観客をハラハラさせたい気持ちは分かるが、ストーリーへのトラブルのねじ込み方がいささか強引すぎる。あれじゃ主人公が破滅願望に苛まれているようにしか見えないぞ。
などと考えつつ、家に帰ってパンフレットを開いて驚いた。プロダクション・ノーツのコーナーで書かれていた文章だが、最近のイギリス映画の主役といえばちょっと気弱で情けない男たちというのが相場だ。さびれた製鉄業の町シェフィールドの元鉄鋼マン(『フル・モンティ』)、廃業に追い込まれた炭鉱町の失業者(『ブラス!』)、彼女をデートに誘いそこねているうちに地球が破壊され宇宙をさまようことになる青年(『銀河ヒッチハイク・ガイド』)。現実の生活に不満を抱きながら一歩が踏み出せないでいる男たちが、何かをきっかけに自分を解放し、再生していく、という筋書きが多い。
うひゃあ、この日本で、『フル・モンティ』や『ブラス!』と並んで、平然と『銀河ヒッチハイク・ガイド』が語られる日が来ようとは!
残念ながらこの文章を書いたライターの名前は挙がっていなかったが、いやはや『銀河ヒッチハイク・ガイド』の知名度も上がったものよ。が、よくよくこのパンフレットの確認してみると、「発行権者/ブエナ ビスタ インターナショナル(ジャパン) 編集/久保田朋子」とある。な、なんだ、映画『銀河ヒッチハイク・ガイド』のパンフレットと、まっく同じ人たちが手掛けていたのか。なるほどね、それなら納得、そして脱力。そして今週の更新は、『宇宙の果てのアンソロジー』の18本目。このエッセイの筆者のように、世の中にはごく普通に『銀河ヒッチハイク・ガイド』を愛読している親子がいらっしゃるようだけれど、ちなみに私の親は読んだことがありません。
それから、11月29日からいわさきちひろ美術館で開催される予定の、「ノルシュテインの絵本づくり展」についての最新ニュースについても、少しだけ補足。ノルシュテイン自身、いわさきちひろのファンだったとは、知らなかった。
1冊の本が、人生を変えることもある。
そういうことは、起こりうる。何たって、私の人生がそうだから。「『銀河ヒッチハイク・ガイド』と出会っていない私」なぞ、想像するも恐ろしい。ただし、「出会っていない私」のほうが世間的にははるかにまっとうな人生を歩んでいた可能性は高いが、それはまた別の問題である。
とは言え、現実には1冊の本で人生を変えてしまうような人はごく稀にしかいないし、愛読書らしい愛読書を持っている人さえ決して多くない。それどころか、私の周りを見回しても、実用書や雑誌以外の本をほとんど持っていない人のほうが多数派だったりする。本来の私は、喜国雅彦氏が提唱するところの「本棚にはすべてが詰まっている」理論に心からの賛同しているのだが(詳しくは『本棚探偵の冒険』の中の「他人家の本棚(後篇)」をご参照あれ。私は本棚探偵シリーズの大ファンで、『冒険』『回想』のシリーズ2冊を初版で購入したのみならず、日々の愛読用にと『冒険』の文庫本まで持っている)、今では知人宅に招かれて、そこに小さな本棚一つなかったとしても驚いたりしなくなった。
そのことの是非を問うつもりは私にはまったくない。たとえばこれが本ではなく音楽だったとすれば、ある音楽との出会いで人生が変わった人、日々の暮らしの中で音楽なしにはいられない人はたくさんいらっしゃって、そういう方々からみれば「No music, No problem」な私は人生の楽しみを知らない不幸な人間に見えるかもしれないけれど、また実際その通りなのかもしれないけれど、だからと言って音楽を聴くことや、ましてや音楽で感動することを強要させられるのは真っ平御免だと思うからである。音楽に限らず、スポーツ観戦やファッションに置き換えてもらってもいい。だったら、読書だって同じこと。
などと常日頃の私は考えているが、先日たまたまインターネットでオリコンの読書アンケートのニュースを目にした。それも、単なる愛読書調査ではない。タイトルはずばり、「自分の価値観を変えた本ランキング」とある。え、『銀河ヒッチハイク・ガイド』で自分の価値観を変えた私が言うのも何だけど、本を読んで価値観を変えた人なんてそもそもそんなにいないんじゃないの、という根本的な疑問を抱きつつも、ランキング表に目をやると、そこには衝撃の事実が待っていた。
何てことだ、私は1位から4位までの本をどれも読んでいないじゃないか。
その記事を見る限り、一体どういう調査方法を採ったのかよく分からないが、これじゃ私の価値観と世間の価値観が日々ずれていくのもむべなるかなである。特に1位と2位は、日本人の誰もが知る大ベストセラー本なのに。まったく、前回の更新で追加した、『宇宙の果てのアンソロジー』でエイミー・バーナーが書いた18本目のエッセイを読んで、涙を流さんばかりに感動している場合ではないね。そして今週の更新で、ついに『宇宙の果てのアンソロジー』最後のエッセイを追加する。このエッセイを読んだ時も、私はつられてほろりとした。
2006.11.4. 『宇宙の果てのアンソロジー』を振り返って
前回の更新で追加した、マリア・アレクサンダーのエッセイをもって、2006年2月18日から続けてきた『宇宙の果てのアンソロジー』全19本の概要がようやく揃ったことになる。正確には、この他にジョン・シャーリイによるアダムスへのインタビューも含まれているのだが、これはまた別の形で取り上げたいと思う。
振り返ってみれば、ほとんど丸1年がかりだった。自分でもこんなに日数がかかるとは思っていなかった、というより全部揃ったところで先ほど最初から読み直してみたところ、『宇宙の果てのアンソロジー』の更新を始めた当初はまだ『さようなら、いままで魚をありがとう』を原題 So Long, and Thanks for All the Fish と書いていたのに気付き、そうか当時はまだ翻訳されていなかったんだと改めて驚く。『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズ全5作を日本語で読める状態が今ではすっかり当たり前になっているけれど、考えてみれば5作目の『ほとんど無害』が出て私が色めき立ったのは、ほんの3,4ヶ月前のことなのだ。我ながら、既成事実というヤツに馴染むのが早すぎる。
それはさておき、『宇宙の果てのアンソロジー』を通読して、読んで一番意味が分からなかったのが、セリーナ・ローゼンの "The Holy Trilogy"。私の英語力の問題だったら申し訳ないが、ちょっとごり押しすぎるんじゃないか。一方、こういう切り口もあるのかと一番感心したのが、ヴォックス・デイの "The Subversive Dismal Scientist"。『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズを「リバタリアン文学」と見なすとは意外も意外、でも筋は通っている。また、読んで一番納得できたのがローレンス・ワット=エヴァンズの "A Consideration of Certain Aspects of Vogon Poetry"。指摘されて初めて、詩の良し悪しの判定基準の問題と、それからヴォゴン人の詩が持つ真の危険性に気付かされた。
それから、私に一番役に立つ実際的な知識をくれたのが、コリイ・ドクトロウの "Wikipedia: A Genuine H2G2 - Minus the Editors" だった。ウィキペディアは、これまでも何だか分からないままにインターネット検索で私も時々参考にしてはいたけれど、このエッセイを読むとその仕組みが実によく分かる。その上で、なるほど、これは確かによく出来たネット版百科全書だと素直に感心する一方で、こういうものが出来て多くの人が知恵や知識を寄せ合えるとすれば、私一人で更新しているこのホームページなど、ウィキペディア上のダグラス・アダムスや『銀河ヒッチハイク・ガイド』の項目に到底太刀打ちできないのではないかという不安が芽生えたこともまた確か。
勿論、私がそういう不安を抱くことは、『銀河ヒッチハイク・ガイド』が日本で少しでも知られるようになって欲しいという私の積年の願望と大いに矛盾している。本当なら、私のホームページがすっかりお払い箱になってしまう程にウィキペディアの記述が充実し、関連書籍の翻訳が進むことを手放しで喜ぶべきなのだ。と、十分自覚しているつもりでも、時々日本語版ウィキペディアをチェックしては「追われている」気分になったりする辺り、私って何て心が狭いんだろう!ええい、まだまだウィキペディアに負けてなるものか、という訳で今週の更新は、数学者イアン・スチュアートについて。でも、よくよく考えてみると、たとえこの先どんなにウィキペディアの内容が充実したとしても、万人向けの百科全書ではイアン・スチュアートのことをこんな形で紹介したりはしないだろうから、ウィキペディアとて恐れるに足らず、と安心していていいのかも?
群馬の教育特区には、英語で算数や理科を教えている小学校があるらしい。なかなか人気があって、競争率も高いらしい。
その話を友人から聞いた時、正直に言って私にはその利点がよく分からなかった。そりゃ、学校生活の中で英語に接する時間が長ければ、英会話もそれなりに達者になるだろうし、英語のテキストもそれなりに読めるようになるだろう。でも、その小学校を出た後、そのまま英語圏の外国に進学し、そのままそこでで暮らし続けるのでもなければ、結局は英語で習った算数用語を日本語に置き換えなくてはならなくて、余計な手間がかかるだけではないか。生粋の日本生まれ、日本育ちのくせして、ホウテイシキって何かしら、ああ 'equation form' のことね、などとのたまう輩に好意的な気持ちを持てそうにないのはそりゃ確かに私一人の僻み根性のせいかもしれないが、少なくとも九九なら英語より日本語のほうが憶えやすいって、絶対。
いやいや、そういう目先の便不便ではなく国際的な人材を育成するためなんだ、と言われても、英語が話せる=国際人という発想が私の僻み根性をますます助長するばかりである。そんなに国際的な人間に育てたいなら、英語よりも世界史のほうがはるかに大事だろう、いくら英語でぺらぺら話せたとしても、無知から来る失言で相手を怒らせるくらいなら、相手の文化的バックボーンをきちんと心得た通訳者を介して話したほうがずっと世界平和に貢献できるというものだ、違う?
が、そんな僻み根性全開の私も、前回の更新のために数学者イアン・スチュアートの本を繙いてみて、生まれて初めて英語で算数を学ぶことの利点を発見した。なるほど、読めるものなら、翻訳の『数学の冒険』でなく原著の The Problems of Mathematics で読むほうが断然おもしろいに違いない。
この手の本は、数学の分かる人が訳さないことには始まらないため、どうしても翻訳者や編集者が限定されるし、文芸書のようなこなれた翻訳文は期待できない、という理屈は私も分かる。だからって「生命と宇宙と万物についての究極の答え」を計算するのにかかった時間を、七百五十万年ではなく七百五十年と間違えて訳すのは困ったものだが、問題はそういう単純な誤訳だけに留まらない。たとえば第9章「結び目騒ぎ」、これは決して誤訳ではないのだけれど、「結び目騒ぎ」から原文の 'Much ado about knotting' を想像し、これが'Much ado about nothing' 、つまりシェイクスピアの『から騒ぎ』との語呂合わせになっていることまで推理するのは至難の業であろう。もっと単純な例を挙げれば、第11章「負数の平方根」、こんなのちっともおもしろそうじゃないけれど、原文の 'Squarerooting the unsquarerootable' なら、数学オンチの私でさえ何やらすごく興味をそそられるではないか。
という訳で、現在英語で算数を学んでいる小学生諸君は、もう少し大きくなったら是非イアン・スチュアートの本を原書で読んで、『銀河ヒッチハイク・ガイド』に関する正しい知識を身につけてください。それこそが、今わざわざ英語で九九を唱えさせられる不便に耐えて得られる貴重な利点の一つです――って、ま、諸君の親御さんに言わせれば、「そんなことのために英語で学ばせているんじゃない」の一語に尽きるでしょうが、それはまた別の問題。そして今週の更新もまた、数学者の話。ただし今度はアメリカの学者、スペンサー・ブロックについて。それからイアン・スチュアートについても、先週更新した後になって見つけた本のことを加筆している。
この間の日曜日から、東京・ラピュタ阿佐ヶ谷にて第7回ラピュタアニメーションフェスティバルが始まった。
去年はお流れになったから、2年ぶりである。めでたいことである。が、その割に、私はあまり色めき立っていない。勿論、ノルシュテイン作品の上映はいつだって喜ばしいことではあるけれど、阿佐ヶ谷は遠いし自宅のDVDでも観られるし。そりゃノルシュテイン作品に限らず他にも気になる作品は上映されそうだけれど、何故か私のマックではこの公式サイトが表示されないのも困ったものだ。おかげで、仕事の休み時間中にこそこそ職場のウィンドウズマシンでチェックしているのだが、こういうサイトはあくまで宣伝用なんだから、デザインを優先するんじゃなく、マックや旧式OSや旧式ブラウザや電話回線を使っている人にも優しい作りであってくれないものか。
が、実を申せばそんなことは本当のところは些末な問題であって、私の最大の不満は別のところにある。何のことはない、今回私がいまいち盛り上がらないのは、きっと上映されるにちがいないと勝手に秘かに期待していた、今年8月の広島国際アニメーションフェスティバルで日本初公開されたばかりの二作品が入っていなかったせいなのだ。グランプリを受賞した『ミルク』は上映するのに、どうしてこの二作品はやらないのだろう。そりゃ配給とか何とか、いろんな大人の事情があるんだろうけどさ、ちぇっ。
と、私がないものねだりしている二作品とは、まず一本目が、アレクサンドル・ペトロフの最新作『マイラブ初恋』。観客賞と国際審査員特別賞をダブル受賞したっていうんだから、ね、ものすごく観たいでしょ?
それからもう一本は、『マギア・ルシカ』というイスラエル・ロシア合作のドキュメンタリー映画。これは、かつてのソビエト連邦動画スタジオについて、フョードル・ヒートルークの語りを中心に紹介したもので、中には、ナザーロフやガリ・バルディン、そしてノルシュテインのインタビューも入っているらしい。彼らはソビエト時代,国家による検閲と戦いながらも,理想的な環境で名作を作り続けられた。しかし自由化以降は,スタジオの経営も自分で行わねばならず,ロシアアニメ界は次第に衰退していき,最後は日本から来たモンスター(『ポケモン』のこと)が,とどめの一撃を与えるという哀しい結末を向かえる。(『映画テレビ技術』2006年10月号、p. 28)
ね、おもしろそうでしょう? ね、ね、ね、あなたも是非、観てみたいと思うでしょう?
……誰かお願い、そうだと言って!気を取り直して今週の更新は、『映画テレビ技術』2006年10月号や、やはり最近発売された小野耕世著『世界のアニメーション作家たち』を元に、「ノルシュテイン語録」に<映画について>と<ペレジヴァーニエ>を追加。何たって、今の世の中、私自身も含めて、<ペレジヴァーニエ>(追体験)がとことん不足していることだし、
それから、映画『銀河ヒッチハイク・ガイド』にまた新しい波が、ということで最新ニュースも追加する。私はこの波にはまだまったく乗れていないんだが、それでも強引に買うべき?
映画『銀河ヒッチハイク・ガイド』のブルーレイ・ディスク版がまもなく発売になる。
DVDプレイヤーを買ったのもほんの数年前のことなのに、もう次世代DVD? いくら何でも早すぎじゃないか、大体ブルーレイ・ディスクを再生するプレイヤー自体ほとんど巷に出回ってないだろうに、と言いたいところだが、これもきっと去る11月11日に発売されたプレイステーション3にブルーレイが搭載されているからなんだろう。せっかく最新機能の次世代DVDが付いていても、再生できるソフトがなくちゃ始まらないからな。
それにしてもこのブルーレイとやら、姿形は今のDVDとそっくり同じでも、ブルーレイのプレイヤーでは今のDVDは再生できないそうで、そりゃないぜとちょっと思う。機械の分かる人に言わせれば「そういう問題じゃない」なんだろうけれど、でも今のDVDプレイヤーなら音楽CDも再生できるのに、ブルーレイ全盛の世が来れば今自分の手元にあるDVDコレクションが丸ごと全部、使い物にならない過去の遺物と化すなんて、あんまりじゃないか。
もっとも、ブルーレイと対抗するもう一つの次世代DVD、「HD DVD」(何て紛らわしい名前だ)では今までのDVDも再生できるらしい。とは言え『銀河ヒッチハイク・ガイド』を発売しているブエナビスタはブルーレイ陣営だしねえ。そりゃ、PS3の重圧をはねのけてHD DVDが次世代のシェアを獲得することができたなら、その時はブエナビスタも腹を括ってHD DVD版『銀河ヒッチハイク・ガイド』を出すかもしれないけれど、いろいろ儚い望みだなあ。
思い起こせば、これまでにも数々の技術が淘汰されて消えていった。レーザーディスク、ベータのビデオテープ、そしてVHSもそろそろ店頭から姿を消しつつある。でも、それらが保った寿命は少なくともDVDよりは長かった気がするし、それに素人にも明らかに目に見える技術の進歩を伴っていたとも思う。でも、DVDから次世代DVDへの移行は、それほど劇的な変化を伴わない(ように見える)だけに、どうにも盛り上がりに欠けるというか納得しかねるというか。でも、ぐずぐずしていて自分がブルーレイ・プレイヤーを手に入れる頃に『銀河ヒッチハイク・ガイド』のソフトが絶版になっていたら目も当てられないから、やはり先に買うだけ買っておいたほうがいいんだろうか。定番すぎて絶版になんかなるはずないじゃん、とタカを括っていたガデスの映画『カルメン』のDVDすら入手困難になっている現状を考えれば、本当に油断大敵なんだよな。
ちなみに今、定価で買えるガデス出演作品のDVDは、株式会社パセオが出している『バルセロナ物語』だけ。この映画に出ている若き日のガデスの踊りはまさに垂涎モノなので、まだ買っていない方は是非お早めに――ただし、近い将来、次世代DVD市場をブルーレイが席巻した暁には、再生することもできなくなるかもしれないけどさ、ふん。そして今週の更新は、ダグラス・アダムス関連人物としてアメリカのSF作家のデイヴィッド・ブリンと、イギリスの理論物理学者、スティーヴン・ホーキングを追加。この二人ならきっと、DVDの原理もブルーレイの原理もきちんと把握しているに違いない。
それから、ダグラス・アダムス関連の最新ニュースも二つばかり付け加えたので、ご確認あれ。
数学者イアン・スチュアートがテリー・プラチェットのディスクワールド研究本なんぞを出版しているかと思えば、前回の更新で追加した物理学者スティーヴン・ホーキングは『スター・トレック』関連本に序文を書いたりしている。『ホーキング、未来を語る』の中でも『スター・トレック』の話がたびたび登場しているくらいだから、かなり気に入っているのだろう。
同じような調子で、ホーキングがどこかの著書に『銀河ヒッチハイク・ガイド』も引用してくれていないか探してみたが、私の探し方が不徹底なせいか見つからなかった。でもきっと、どこかで書いているか、あるいはインタビューで答えているかしていると思うのだが――そうでなければ、一体どこの誰が、あのホーキング博士に向かってディープ・ソート役なんぞ依頼できるだろう。さすがはBBC、実にいい度胸をしている、というべきか、あるいは実にいいコネクションを持っている、というべきか。
それから、やはり前回の更新で追加したSF作家デイヴィッド・ブリンについても、The Hitchhiker's Guide to the Galaxy: 25th Anniversary Edition を除けば、アダムスに関する直接の記述やインタビューを見つけることはできなかった、というか、正直に告白しよう、この期に及んで私はブリンの小説をまだ1冊も読んでいない。利口なイルカが活躍するらしい『知性化戦争』など、『銀河ヒッチハイク・ガイド』への目配せが内包されていてもおかしくない感じの作品もあるのに、それに同じSFでもグレッグ・イーガンとかに比べれば格段に読みやすそうなのに、それでもこのていたらく。せめて、年内には何とかしたいものよ。などと思いつつ、気分転換という名の現実逃避で映画『プラダを着た悪魔』を観に行く。そんなに期待していなかったけれど、観てみると意外に楽しい、おもしろい。気分転換にはうってつけの作品で、これは拾いモノだったなとしみじみしながらエンドクレジットを眺めていた時、思いもかけない名前を見つけて目が点になった。
Head Seamstress Trillian トリリアンって、まさか本名? こんな人名、本当にあったの? それともペンネームというか芸名? だとしたら、やっぱりあの「トリリアン」から取ったのか、それとも単なる偶然か???
'Seamstress' とは「裁縫師」のことで、'Head Seamstress' なら縫製担当の責任者とでもいったところか。まさに『プラダを着た悪魔』のような作品で活躍するにふさわしい職種だが、でもあの「トリリアン」とはあまり関係のない職種でもあるし、真相がものすごく気になるけれど、それにしてもそんなことで頭が一杯になっている時点で、もはやこのホームページ作成からの気分転換に全くなっていないのもまた事実。まさに自業自得な堂々巡りで、あーあ、何をやっているんだか、私。そんなこんなの末に今週の更新は、先週に引き続きダグラス・アダムス関連人物を二人追加する。二人ともアメリカ人で、コラムニストのデイヴ・バリーと、SF研究家のゲイリー・ウェストファール。謎の「トリリアン」についても、いつかご紹介できるといいのだが、誰かご存知の方がいらっしゃいましたら是非ご一報くださいませ。
それから、ノルシュテイン関連の最新ニュースとして、今日これから行われる対談の情報を追加しておく。残念ながら、私がこの情報を掴んだ時には既に定員オーバーであった(会場の広さの都合なのだろうが、この二人の対談で定員80人はあまりに少ないって!)。
ダグラス・アダムスの最新ニュースのコーナーにも追加したが、先頃マーティン・フリーマンによる朗読CD、小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズの最後の1巻『ほとんど無害』が発売された。ええっと、前作の『さようなら、いままで魚をありがとう』CDも、買っただけでまだ封を切ってもいないのに、もう新しいのが出たんだ? 嬉しいけど、困ったなあ……。
それに比べて新刊が出て迷わず嬉しいのが、P・G・ウッドハウスのジーヴス・シリーズ。シリーズ6巻目にして最新刊の『サンキュー、ジーヴス』が先月末ついに発売され、勿論私も尻尾を振って購入した。あとがきに、ダグラス・アダムスと『銀河ヒッチハイク・ガイド』の名前が出ているのもまた嬉しい(訳者の森村たまきさんも、『銀河ヒッチハイク・ガイド』を読むか観るかしてくれたんだよね、きっと?)。この際、読んでも読んでもちっとも終わりが見えてこないドーキンスの『祖先の物語』はとりあえず脇に置いて、先にこっちを楽しもうっと。
さらに、先月15日に写真集『ユーリー・ノルシュテイン』が発売されていたことに今頃になってようやく気付き、ノルシュテイン関連の最新ニュースに追加した。たまたま見つけられたから良かったようなものの、未知谷という出版社はあまり宣伝しない割に時々ノルシュテイン絡みの凄い本を出してくれるから、油断大敵である。ところでこのホームページの更新は、基本的に年内はこれが最後。例年通り、来週から約2ヶ月の冬休みに入る。
ということで、2006年の最後に何を追加したものかと考えた末に、約2年前に発表されたオーストラリアの愛読書調査の結果をお届けすることにした。随分前に準備していながらアップし損ねていたもので、ちっとも今年の話じゃないけれど、これ以上先延ばしする理由もないし、かと言って『銀河ヒッチハイク・ガイド』を第8位に選んでくれているものを、このままなかったことにするのはしのびないし。
このアンケート結果が公表された2004年12月と言えば、そろそろ英米の映画館で映画『銀河ヒッチハイク・ガイド』の予告編が流され始めた時期にあたる。英米と同じタイミングで封切られたオーストラリアの映画館でも、予告編はきっと流されていたはずだ。とは言え、投票そのものが行われたタイミングでは、熱心で耳ざといファンを除けば、映画化の話題が人口に膾炙していたとは思えない。むしろ、原作小説の発売から20年以上、原作者の死から3年以上経ってもなお人気が落ちていなかったのだと、素直に受けとめていいだろう。そして、原作の人気がそのまま翌年公開の映画の興行収入にも反映して、なかなかの好成績を収めた、と。
生前のアダムスは、オーストラリアを愛し、新刊キャンペーンの仕事を精力的にこなしただけでなく、プライベートの旅行でもたびたび訪れていた。イギリスからだと、オーストラリアはちょうど地球の裏側にあたり、行き来しやすいとはとても思えないのだが、シドニー近郊のパームビーチに別荘を借りてイギリスの友人たちを招いたりもしている。
そういう記述を読むと、私も一度はオーストラリアに行ってみたいものだと思う。幸い、イギリスからと違って、日本からなら行きやすくて時差もない。おまけに、今のような寒い季節には、これから夏に向かうという南半球の気候はたまらなく魅力的に映る――が、思い立ったが吉日で海外に旅立てる程には私のフットワークは軽くない。「そのうちいつか」と思っているだけではいつまで経っても行けないぞ、と頭では分かっていても、今の時期のオーストラリア行きの飛行機代はやっぱりきっちり高くて、結局いつもその値段に腰が引けて企画倒れに終わるのであった。
でも本当に、そのうちいつか、行きたいものだ。さて、来年からはいよいよ7年目に突入する。次回更新予定は2007年2月17日。
来年もまた、よろしくお願いします。