映画『銀河ヒッチハイク・ガイド』評


 以下の文章は、私独自の勝手な解釈に基づく映画『銀河ヒッチハイク・ガイド』評である。映画だけでなく、小説版全5作を始めいろいろな「ネタバレ」が含まれているので、ご注意ください。


 ガース・ジェニングス監督による映画『銀河ヒッチハイク・ガイド』が、かつてのラジオ・ドラマや小説の忠実な映像化でないということについては、どこからも異存の声は出ないだろう。残る問題は、このアレンジを是とするか非とするか、である。
 一般公開前のジャーナリスト用の試写会で観たM・J・シンプソンは"Really bad" と切って捨てたし、彼に限らずこの映画に最低評価をつけた評論家はいる。だが、私はそれらの酷評に異を唱えたい。それらは単に、監督・脚本家の意図を汲み取り損ねているだけなんじゃないか、と。
 無論、ここで私が言う「監督・脚本家の意図」とて、単なる私個人の思い込みにすぎない。万が一にもガース・ジェニングスの耳に入ったら、ひっくり返って笑われるかもしれない。そのことを重々自覚した上で、映画『銀河ヒッチハイク・ガイド』を検証していきたいと思う。

 『銀河ヒッチハイク・ガイド』を映画化するにあたってまず厄介なのは、たとえ原作に忠実たらんとしたとしても、そもそもどれを「原作」と見なすかによって答えが変わってくるところにある。1978年のラジオ・ドラマ第1シリーズを指すのか、1979年の小説第1作目を指すのか。前者なら、「宇宙の果てのレストラン」は出てくるけれど、「タオル」は出てこないし、後者なら「タオル」はあっても「レストラン」はない。あるいは、ラジオ・ドラマ第1・第2シリーズと小説の最初の2作を使って、適当にブレンドする? 
 恐らく、原作に忠実という意味では、1981年放送のテレビ・ドラマの脚本がもっとも穏当な答えだろう。予算や技術の問題で、(私に言わせれば)映像として到底見るに耐えない代物に仕上がってはいるが、少なくとも脚本が「原作と異なっている」と非難されることだけはあるまい。映画版を批判する人々の多くが、テレビ・ドラマ版を高く評価しているのも当然のことだ。
 映画化に際しても、テレビ・ドラマと同じ手を使うことはできた。だが、果たして本当にそれが正解だろうか。テレビ・ドラマの企画が最初に持ち上がったのは、1979年10月、小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』が出版された直後のことだった。撮影が始まったのが翌年の3月で、同年10月になってようやく第2作目の小説『宇宙の果てのレストラン』が出版されている。つまり、脚本作成段階で「原作」として考えるべき素材は、当時はまだラジオ・ドラマの第1・第2シリーズと小説第1作目しかなかったのだ。それにひきかえ、2001年5月にアダムスが死去し、ジェニングスが監督を引き受けた時には、『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズは小説だけでも全5冊もあり、その上でアダムス自身の手による未完成の映画脚本まで残っていた。にもかかわらず、それらをすべて無視して、20年以上前のテレビ・ドラマと同じことをやる?
 勿論、長大なシリーズものをすべてまとめて2時間の映画に仕立て直す必要はない。映画が好評なら、続編を作ることとて可能である。だが、ジェニングスはそうはしなかった。ブーイングを恐れず断言しよう。映画『銀河ヒッチハイク・ガイド』は、1978年・79年当時の『銀河ヒッチハイク・ガイド』の単純な映像化でもなければ、21世紀仕様のアップデート版でもない。この映画は、『銀河ヒッチハイク・ガイド』全シリーズのみならず、ダグラス・アダムス全作品に対するオマージュである。「僕たちは原作に忠実なるスピリットでこの映画化に携わり、これまで『銀河ヒッチハイク・ガイド』が辿った歴史も忠実に描き、そしてこの映画にも祝杯を挙げるという感じも込めているんだ」(『ファンタジー・ワールド日本版 volume 6』、p. 81)――すなわち、"So long, and thanks for all the books."。

 映画は、鳥のさえずりのような自然音を背景にスパイグラス・エンターテイメントのロゴが出て、続いてイルカショーの模様を映すビデオ映像になる。そこに、スティーヴン・フライのナレーションが入る。"It is an important and popular fact that things are not always what they seem." (p. 119)。日本語字幕では、「よく知られた事実だが、物事は外見どおりとは限らない」。
 これは、ラジオ・ドラマでは第3話の終了間際に、小説では、第1作目の23章に出てくるフレーズである。確かに『銀河ヒッチハイク・ガイド』のファンにはお馴染みのフレーズの一つに違いないが、敢えてこれを冒頭にもってきた理由は、1999年にBBCのラジオ番組として放送され、Douglas Adams's guide to The Hitchhiker's Guide to the Galaxy というタイトルでCD化もされたインタビューの中にある。『銀河ヒッチハイク・ガイド』20周年を記念して製作されたこの番組で、アダムスは他でもない "Things are not what they seem" こそ、自分が常に意識していることだと語っているのだ。同じ一つの世界でも、視点が変わればその様相は大きく変わる。物語の冒頭で、バイパス工事のためにアーサーの家が壊され、続いてまったく同じ理由で地球が壊されたのもその一例だという。監督や脚本家がこのインタビューを十二分に意識していたことは、疑いの余地がない。
 そして映画は、ラジオ・ドラマ、小説と同じように、実はイルカのほうが人間よりも賢くて地球崩壊の危険にも気づいていた、と続く。人間にもその危険を知らせようとしたのに、人間のほうはイルカが芸をしているだけだと思っていた、と。そして、イルカが泳ぐプールの中から THE HITCHHIKER'S GUIDE TO THE GALAXYのタイトルロゴが浮かび上がり、映画のテーマ曲、"So Long & Thanks for All the Fish" に繋がっていく。
 『銀河ヒッチハイク・ガイド』というタイトルからすれば、随分奇妙なオープニングと言わざるを得ない。銀河をイメージするような夜空でもなければ、主人公アーサー・デントを想起させるようなイギリスのありふれた田園風景(=ありふれた日常生活)でもない。いきなりプール、そしてイルカである。おまけに、流れてくるのは『銀河ヒッチハイク・ガイド』のテーマとしてファンの間で定着している感のある "Journey Of The Sorcerer" ではなく(ただし、地球がヴォゴン人に破壊された後にこの曲が流れ、同時にまるでタイトルクレジットを出し直すかのように、宇宙を背景にして「ガイド」の背表紙の文字、THE HITCHHIKER'S GUIDE TO THE GALAXY がスクリーンを横切る)、ジョビィ・タルボットによるまったく新しくて陽気な曲、しかもガース・ジェニングスが自ら書いた歌詞まで付いている。

So long, and thanks for all the fish
So sad that it should come to this
We tried to warn you all
but oh dear
You may not share out intellect
Which might explain your disrespect
For all the natural wonders that
grow around you

(略)

If we could just change one thing
We would all have lungs to sing
Come one and all
Man and mammal
Side by side in
Life's great gene pool

 "natural wonders" (自然界の不思議)、"lungs to sing" (歌うための肺――ただし日本語字幕では誤訳とも意訳ともつかぬ「私たち 歌を習っていたでしょう」になっている)、 "gene pool" (遺伝子プール)。これらの少し風変わりな歌詞は、ジェニングス版『銀河ヒッチハイク・ガイド』の方向性を明瞭に指し示している。もしこの映画を1978年のラジオ・ドラマ、1979年の小説第1作目に準じて作るつもりなら、このような歌詞はありえない。「遺伝子プール」などという単語を持ち出すとしたら、それはアダムスがリチャード・ドーキンスの『盲目の時計職人』を読んで感銘を受けて以降のこと、言い換えればジェニングスが歌詞を書くにあたって念頭に置いたのは、『盲目の時計職人』が出版された1986年以降のアダムスだということになる。
 ドーキンスとの出会いは、アダムスに多大な影響を与えた。ドーキンスは、アダムスを分子生物学の分野に導いただけでなく、神の存在に疑問を抱きながら、でも完全に否定することもできずにいた彼を「過激な無神論者」(The Salmon of Doubt, p. 95)に変えもした。アダムスとドーキンスの交友関係が、どの程度イギリスやアメリカの『銀河ヒッチハイク・ガイド』ファンの間で知られていたのかは分からない。が、二人の関係を誰もが肯定的に受けとめていたとは考えにくい。それどころか、自身が無神論者であると標榜するだけならまだしも、まともな教育を受けさえすれば神を信じる者などいない、といった不用意な発言まで口にするアダムスをみて、アダムスとはケンブリッジ大学時代からの友人であるジョニー・ブロックを始めとして、「ドーキンスに踊らされている」と苦々しく感じる人は少なからずいただろう(Hitchhiker, p. 242)。
 アダムスの死後に『銀河ヒッチハイク・ガイド』を映画化するにあたっては、このような変化を一切無視することもできた。そして、それを望む「原作」ファンも多かったはずだ。余計なものは付け加えず、「原作」に忠実に、ただ最新技術を駆使して映像化してくれればいい、と。それに対し、ジェニングスは映画のオープニングで、早くも目指す方向を鮮明に示してみせた。"Things are not always what they seem" ――『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズの核は把握しているけれど、"So Long & Thanks for All the Fish" ――1980年以前のアダムスだけに固執するつもりはないよ。

 その傾向は、トリシア・マクミランの登場シーンでさらにはっきりと打ち出される。アーサーの回想という形で描かれる、アーサーとトリシアが初めて出会った仮装パーティのシーンにおいて、トリシアはチャールズ・ダーウィンの仮装をし、「(ダーウィンの扮装だと)正解した人 初めてよ」とアーサーに語る。映像では分かりづらいが、その時アーサーが部屋の隅っこで読んでいた本は、ドーキンスの『利己的な遺伝子』である。意気投合した二人は屋根に上がり、トリシアはアーサーに「マダガスカルに行こう」と誘うのだが、マダガスカルと言えば、1986年にアダムスが「オブザーバー」紙の依頼で絶滅危惧種のアイアイを探すために訪れた場所であり、この旅がきっかけで動物学や生物進化論に興味を抱くようになったことを忘れる訳にはいかない。
 映画のアーサーは、トリシアからの唐突なマダガスカルへの誘いにおじけづいてしまい、その隙にゼイフォードに彼女を奪われてしまう。そしてそれきり彼女から返信メールが届かないことを、ラジオ・ドラマや小説から受ける印象以上に気にかけている。
 ここにもまた、「原作」改変の一例が潜んでいる。映画のアーサーは、わずかな例外を除けば、冒頭の地球上のシーンだけでなく映画全体を通して、彼女のことをトリリアンではなくトリシアと呼び続ける、あるいはトリシアと言いかけてトリリアンと言い直すのだ。これは、<黄金の心>号で再会した時にアーサーが "Good God, it's her! Tricia McMillan, what are you doing here?" (Original Radio Scripts, p. 49)と叫ぶのを最後に、トリシアという名前が誰からも口にされることないラジオ・ドラマや小説とは対照的ではないか。
 実のところ、ラジオ・ドラマ、小説、テレビ・ドラマを通して、トリリアンというキャラクターは焦点が定まらぬまま迷走し続ける。1980年前後までに書かれたトリリアンは、女性を書くことに苦手意識を持っていたアダムスのせいで、印象の薄い、あたりさわりのない女性キャラクターに終わった。テレビ・ドラマでは、サンドラ・ディッキンスンが演じることで、設定や台詞は同じだがトリリアンの持つ「イングリッシュ・ローズ」(Gaiman, p. 81)な印象をがらりと変えた。1982年の小説第3作目『宇宙クリケット大戦争』では、トリリアンはもう少し前に出て積極的に事態の解決に乗り出すが、知的で洞察力のある魅力的な女性として売り出すには遅きに失した感は否めない。挙げ句、小説第4作目『さようなら、いままで魚をありがとう』(1984年)では、ヒロインの座をいきなり登場したフェンチャーチという女性に奪われることになるが、そのフェンチャーチも第5作目『ほとんど無害』(1992年)では扱いあぐねた作者にあっさり放逐され、代わってトリリアン/トリシア・マクミランの二重奏となる。
 かくも『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズ唯一人の女性キャラクター像が定まらなかった背景には、先にも述べた通り、アダムスが女性を書くことに自信を持てなかったという事情があった。「どうしてトリリアンはあんなに目立たないキャラクターなんだい、って。それは僕が彼女のことを本当に分かっていなかったからだろう。僕にとって女性はいずれにしろとても謎めいていて、彼女たちが何を望んでいるのかさっぱり分からない。それで僕は女性を書くときにはひどく神経質になるんだ、何かとんでもない間違いを書いているんじゃないかという気がしてね。男性が女性について書いたものを読むと、『この人、女ってものが全然分かってない』と思われがちだし、僕もこの分野に踏み込む時には緊張する」(Gaiman, pp. 165-166)。だが、下世話を承知でもう一歩踏み込むなら、アーサーとであれゼイフォードとであれ、トリリアンが親密な関係を持っているという印象を受けないのは、あるいは、アーサーもゼイフォードもたいしてトリリアンに執着していないように見えるのは、むしろ1978年当時のアダムスの女性との付き合い方が如実に反映した結果に思われてならない。
 学生時代から、アダムスは何人もの女性と付き合っていた。決してハンサムではなかったが、ロマンチックで話上手で気前のいい彼は、多くの女友達を持ち、場合によって「友達以上」になることにも多かったようだ。だが、それらの関係はどれも、長続きさせることを前提としていたというより、たとえその瞬間は恋に目がくらんでいたとしても、あくまでその時限りの楽しい遊びの域にとどまっていたと思われる。『銀河ヒッチハイク・ガイド』で一躍時の人になってからの彼について、かつてアダムスのエージェントを務めていたジル・フォスターはこう語る。「若くして大金を掴み、知名度も高く、高級車に乗って、そして若い女の子たちに囲まれていたことは間違いない」(Hitchhiker, p. 137)。1977年にアダムスがラジオ・ドラマ『銀河ヒッチハイク・ガイド』を書いていた時、アーサーがイズリントンの仮装パーティで魅力的な女性と出会って感じた恋愛感情をどの程度のレベルに想定していたかは、その女性と再会した後のアーサーの執着心のなさを見ても明らかだろう。
 しかし、1981年に作家サリー・エマソンと不倫関係に陥った時には、単なる一時のお遊びではすまされない感情がアダムスの中に芽生えた。同年9月、エマソンは夫との家を出てアダムスと同棲を始める。この時期、アダムスは小説第3作目『宇宙クリケット大戦争』執筆中であり、エマソンはアダムスの助言者兼見張り役を務める羽目になった。アダムスとしてはエマソンが夫と離婚して自分と再婚することを望んでおり、アダムスの家族も二人の関係を前向きに受けとめていたようだが、二人の関係は長続きせず、その年のクリスマス前、『宇宙クリケット大戦争』が完成する前に、彼女は夫の待つ家に戻る。
 結局、小説『宇宙クリケット大戦争』は当初の予定より1年遅れの1982年8月に出版され、冒頭には「サリーへ」という献辞が付けられた。が、実際にサリーとの関係を反映しているのは小説第4作目『さようなら、いままで魚をありがとう』のほうだろう。ただし、この小説に出てくるフェンチャーチという女性のモデルについて、アダムスが「特定の人をモデルに書いてはいない」(同、p. 205)と語る一方、サリー・エマソンは「この小説はアーサーが恋に落ちたことについて書かれているけれど、相手の女性のことについては全然書かれていない」(Webb, p. 241)とコメントしている。
 ともあれ、エマソンとの出会いと別れによってアダムスの恋愛観が変貌したことは間違いない。そして今度は、エマソンとの破局に落ち込むアダムスを慰めるためのルームメートとして紹介されたジェーン・ベルソンと、長きに亘る友情、恋愛、そして喧嘩と破局を繰り返した後、1991年11月25日に二人は結婚することになる。それはちょうど、アダムスが小説『さようなら、いままで魚をありがとう』と『ほとんど無害』の執筆、より正確に言えば執筆できないことに苦しんでいる期間でもあった。
 以上を踏まえた上で改めて映画のトリシア・マクミランを振り返ると、このキャラクターが『銀河ヒッチハイク・ガイド』の迷走するヒロイン像を一つにまとめたものに見えてこないだろうか。いや、それだけでない。あらゆる「原作」と異なり、映画の中でアーサーとトリシア・マクミランがめでたく結ばれて終わることを考えると、小説第1作から第5作までのトリリアンと第4作のフェンチャーチのみならず、さらにサリー・エマソンとジェーン・ベルソンの要素をも加えられたとは考えられないだろうか。その証拠として、旺盛な好奇心と理系の知性を持つ、可愛いがちょっと風変わりな女性、という設定は同じでも、映画のトリシア・マクミランは、「原作」のトリリアン、ファンの間で「半分異星人」と言われることもあるトリリアンとはある一点で決定的に異なっている。小説第1作で地球が破壊されたと知らされて、「ふたたびあの惑星を目にする日があるとは思っていなかったが、それが破壊されたと聞いてなんの感慨も起きないのが気にかかった。自分とは無縁の非現実的な話に思えて、どう考えていいのかわからない」(安原訳『銀河ヒッチハイク・ガイド』、p. 149)トリリアンと違い、映画のトリリアンは、地球破壊の指令書にサインをしたと知るやゼイフォードに殴りかかるのだ。地球人離れしたトリリアンが、真性の地球人トリシア・マクミランに戻る瞬間であり、『ほとんど無害』ですらこのような場面は出てこない。

 出てこないと言えば、映画『銀河ヒッチハイク・ガイド』にはそもそも「原作」には一切出てこない、映画だけの新しいキャラクターも登場している。その代表格は、ゼイフォードと大統領選を競い合って敗れた宣教師のハーマ・カヴーラと、副大統領のケストゥラー・ロントックで、どちらもアダムスが残した未完成の映画用脚本に書かれていたものだ。実際にこれらの新しいキャラクターが映画の中で巧く機能していたかについてはとりあえず脇に置くとして、アダムスの死後、脚本を任されたキャリー・カークパトリックの中に、生前のアダムスの意思をなるべく尊重したいという気持ちが働いていたのは確かだろう。アダムスによる未完の映画脚本そのものや、カークパトリックが参考にしたというアダムスがパソコンの中に残していた文書などと直接比較することができないため、推測の域を出ないにしても。
 もしカークパトリックがそれらの遺稿を切り捨て「原作」のみで脚本を仕上げていたとしたら、我々はアダムスが映画のために秘かに作り出したキャラクターを目にすることはできなかった。2001年5月11に突然訪れた死の瞬間まで、アダムスが書いたものすべてに関心がある者としては、この点だけでもカークパトリックやジェニングスの判断に感謝すべきかもしれない。勿論、これら新しいキャラクターやアイディアの出来の良し悪しは、また別の問題である。ただ、ここではそれらを積極的に取り入れようとした姿勢を買いたい。
 それとは逆に、M・J・シンプソンはウェブ上で公表した映画『銀河ヒッチハイク・ガイド』批判の中で、「アダムスが実際に書いたかどうかは関係ない。アダムスが本当に書いたっぽく聞こえるかどうかが問題なのだ」と書いた。しかし、たとえアダムス本人が書いたものであってもアダムスっぽくないからダメ、という考え方には首を傾げざるを得ない。何がアダムスっぽくて何がアダムスっぽくないか、一体誰が何を基準に決めるのか。その判断は個々人に委ねるというにしても、何だかあまりにも懐古趣味、先細りの末に行きつく先は同好の士のみが集う袋小路ではないか。
 たとえば、価値観転換銃。一連のストーリーの中で、いささか強引に挿入された感は否めないが、冒頭の "It is an important and popular fact that things are not always what they seem." を具現化した、アダムスがもっとも強く望む装置だったに違いない。それを、宗教の布教活動に利用されてはたまらない、という気持ちと共に。
 ここにもまた、アダムスの無神論者としての側面が出ている。1986年以降のアダムスにとって、神の在/不在などもはや論じるに価する事柄ですらなくなっていた。映画で、「バベル魚による神の不在証明」のシーンがカットされてしまったのもむべなるかなである。アダムスに言わせれば、問題はむしろこの期に及んでなお布教活動を止めない宣教師のような人がいることのほうだっただろう。1990年に出版された『最後の光景』を読めば、アダムスの宣教師についての見解がよく分かる。「私は宣教師の考え方が嫌いだ。彼らの仕事を考えただけでも、ぞっとして警戒したくなる」(Last Chance to See, p. 50)。
 1977年のラジオ・ドラマ執筆当時のアダムスと比べて、20年以上の月日が流れた後のアダムスの考え方に変化があって当たり前だ。映画『銀河ヒッチハイク・ガイド』の脚本は、これらの変化を積極的に組み込み、随所に反映させようとした。カークパトリック自身、脚本を仕上げるために『銀河ヒッチハイク・ガイド』だけでなく、アダムスの他の著作や伝記、ドキュメンタリーに目を通したと語っている。(Film Tie-in Edition, p. 305)。実際、それは「原作」を大切にするあまりその後のアダムスの全作品/全人生を否定するよりも、はるかに好ましいやり方ではなかったか。

 それから、この映画の映像としての側面にも注目しておきたい。始まりがラジオ・ドラマだっただけに、どれほど「忠実」を意図したとしても、万人が納得する視覚化が極めて困難であることは言うまでもないが、この映画はその期待にどの程度応えられただろうか。
 とは言え、この議論は結局のところ「好みの問題」で終わってしまう。たとえばマーヴィン。私個人としては、公式サイトで初めてその姿を見た時はあまりの頭のデカさにぎょっとしたものだが、今ではあのデザイン以外考えられないくらい気に入っている。テレビ・ドラマ版の、段ボール製とみまごうばかりのマーヴィンなぞ論外である。だがこれもあくまで私の好みの問題であって、全く逆の意見があったとしてもおかしくない。
 毀誉褒貶ある中でも、マグラシアの惑星製造工場のシーンは、比較的誰からも高く評価されたようだ。映画を貶す人でも、このシーンに限って好意的に見る人は多い。もっとも、このシーンとて決して原作に出てくる「エアカー」の描写、「たぶん小型のホバークラフトだろうとアーサーは思った。それが周囲にぼんやりと光の球を投げている」(安原訳『銀河ヒッチハイク・ガイド』、p. 204)に忠実ではないのだが。
 それらとは異なり、映画のゼイフォードに関しては、単なる個人の趣向として片づける訳にはいかない、はっきりとした「原作」改変が行われた。二つの頭と三本の腕の問題である。映画では、ゼイフォードの二つの頭が左右並んででははなく上下にくっついていて、普段は喉の下に引っ込んでいることになっている。これは、生前のアダムス自身が提唱した案だったのだが、M・J・シンプソンにとっては到底受け入れがたい変更だったようだ。
 しかし、実際のところ、ゼイフォードが左右に並んだ二つの頭同士で会話することは原作でもほとんどない。どちらかと言うと、アダムス自身が率直に認める通り、ラジオ・ドラマという目に見えない媒体の特性をうまく使った、ちょっとしたジョークにすぎなかった。「頭が二つで腕が3本という設定は、ラジオ・ドラマでその場限りのジョークのつもりだった。これが後々どんな厄介を引き起こすことになるか分かっていたらと思うと??僕は、この余分な頭と余分な腕が一体何なのかについて山程説明したけれど、その説明はどれも互いに矛盾するものになってしまった」(Gaiman, p. 167)
 ラジオ・ドラマや小説でゼイフォードを知っている人に彼の絵を描いてくれと頼んだら、みな迷わず左右に二つの頭が並んだ姿で描くだろう。だがその一方で、ラジオ・ドラマを聴いたり小説を読んだりしている最中は、ゼイフォードの二つ頭のことはあまり具体的に想像してはいないものだ。そこが、ラジオや活字といった、目に見えない媒体の強みである。だが、テレビや映画となるとそうはいかない。
 1980年に製作されたテレビ・ドラマでは、役者の肩に人造の頭を乗せて撮影したが、その出来映えたるや惨憺たるものである。21世紀のCG技術を使えば、映画のゼイフォードに左右二つの頭を並べてつけることも、さらにもう一本の腕もつけることもできただろうが、だからと言って身体のバランスが崩れ、ひどく見苦しい大統領に仕上がることだけは避けられない。二つの頭同士でずっと言い合いでもしているならまだしも、実際のところしゃべるのも考えているのもほとんどの時間は片一方の頭だけなのに、である。よりリアルな二つ頭を実現するために、背骨の途中から二つに分けて作ったとしても同じことだ。そんなことはない、と言い張る人は、ヴィルドヴォードル第六惑星にいた五つ頭の日本人女子高生を思い出してみるといい。あれを見れば、映画版ゼイフォードの二つ頭の並べ方が「できない」ではなく「やりたくない」に基づく判断だったと分かるはずだ。(話はそれるが、監督はかなりの日本好きなのだろうか。惑星マグラシアでも、アーサーが「地球だ」に気づく一番印象的な場面は、日本の上空になっていた)。
 ラジオ・ドラマや小説で、必要な時だけ二つ目の頭、三本目の腕が登場したように、映画でも必要な時だけ出てくればいい。これはこれで、合理的かつ「原作に忠実」な判断ではないか。なお、三本目の腕に関しては、アーサーと喧嘩する時や汎銀河ウガイ薬バクダンを作る時に出てくるだけでなく、無限不可能性ドライヴでゼイフォードとトリリアンの服が入れ替わった時にも、トリリアンの着ていたゼイフォードのシャツにはちゃんと三本目の腕のための袖がついていた。
 そう、こだわるところはちゃんと「原作」にこだわって映像化されているのだ。たとえばヴォゴン・ジェルツが座る背骨が折れ曲がったシカの形の椅子は、小説の中の「優美なガゼルに似た生物は絹糸のような毛並みと優しい目をしていたが、ヴォゴン人はそれをつかまえてまたがった。背骨がすぐ折れてしまうので輸送手段としては役に立たないのに、それでもヴォゴン人はまたがった」(安原訳『銀河ヒッチハイク・ガイド』、p. 63)を踏まえている。ヒマつぶしにカニを釣り上げては叩き殺しているのも、「きらめく宝石をちりばめたハシリガニが生まれたが、ヴォゴン人は金槌でその甲羅を割って食べた」(同、p. 63)に由来する。
 先に『銀河ヒッチハイク・ガイド』の映像化に取り組んだテレビ・ドラマのことも、映画は決して無視していない。アーサー・デントがパジャマにガウンを羽織った姿のまま旅を続けるという設定はテレビ・ドラマの功績であり、映画もこれを踏襲している。
 だが、何と言っても最大のオマージュは、テレビ・ドラマのマーヴィンを映画の中にカメオ出演させたことである。テレビ・ドラマ版マーヴィンは、トリシア・マクミランを救出すべく訪れたヴォゴン人の惑星ヴォグスフィアのオフィスで、長い行列を作って順番待ちをしているさまざまな異星人に混ざって立っている。アダムスが手掛けたコンピュータ・ゲーム、Bureaucracy を思い起こさせる場面だが、ここに登場する異星人たちはどれもCG合成のクリーチャーでなく、着ぐるみや特殊メイクアップで対処された。M・J・シンプソンに言わせれば「予算が尽きたんだろう」とのことだが、このシーンに限らず映画『銀河ヒッチハイク・ガイド』の異星人はヴォゴン人を筆頭にCGではないし、大体あのテレビ・ドラマ版マーヴィンを最新CGクリーチャーの中に立たせたら違和感がありすぎるというものだ。むしろ、少しチープなくらいで釣り合いがとれる。ついでに言うと、このシーンでテレビ・ドラマ版マーヴィンと映画版マーヴィンを鉢合わせさせない心遣いも良かった――何しろ、「自分自身と出くわすと、たいてい決まりの悪いことになるから」(安原訳『宇宙の果てのレストラン』、pp. 140-141)。
 また、映画では、無限不可能性ドライヴを作動させると<黄金の心>号はぽんぽんぽんとテンポよくいろんなモノに変身していくが、そこにはゴムのアヒルやソファなど、思わずにやりとさせられるものが含まれている。ただし、無限不可能性ドライヴの見せ方自体は映画オリジナルである。この改変に憤る人がいたとしても無理はないとは思うが、私個人的な意見としてはとても利口なやり方だと思った。今の技術をもってすれば、

「うわあああああああ……」アーサーは言った。身体がふにゃふにゃになって、ふだんなら考えられない角度に曲がっていく。「サウスエンドが溶けて消えていく……星がぐるぐるまわってる……砂嵐だ……ぼくの脚が二本とも、夕陽に向かって飛んでいく……左腕もはずれちまった」そのとき恐ろしいことを思いついた。「わあ、デジタル時計をどうやって操作すればいいんだ?」うろたえてフォードのほうに目をまわした。
「フォード、きみペンギンになりかけてるぞ。なんとかしろよ」(安原訳『銀河ヒッチハイク・ガイド』、p. 113)

 を、忠実に厳密に映像化することは十分可能だろうが、たいしておもしろくもない。出来上がる映像も分かり切っているし、セリフも分かり切っている。無限不可能性ドライヴがもたらす突拍子もなさを映画の観客に感じさせるなら、毛糸アニメーションに仕立てたほうがインパクトはずっと強烈だ。
 映画のラストで「宇宙の果てのレストラン」に行くために無限不可能性ドライヴを作動させると、最後の最後にアダムス本人の顔が映し出されて幕を閉じる。この時のアダムスの画像は、1998年発売のコンピュータ・ゲーム『宇宙船タイタニック』から借用したもの。1996年、アダムスと共にデジタル・メディア会社デジタル・ヴィレッジを旗揚げし、『宇宙船タイタニック』製作に奔走したのが、他の誰でもないこの映画の製作総指揮を務めるロビー・スタンプである以上、これもまた当然すぎる程当然の選択だった。

 

 もしアダムスが2001年に没することなく、映画『銀河ヒッチハイク・ガイド』を完成させていたなら、それは形はどうあれ間違いなく『銀河ヒッチハイク・ガイド』の21世紀アップデート版になっていただろう。それに比べて、今DVDという形で我々の手元にあるガース・ジェニングス監督作品は、単なるアップデートにとどまらない、アダムスへのオマージュ作品に仕上がった。アダムスの親族たちがこの映画にカメオ出演しているのも頷ける。
 そういう意味で、初代ナレーター役のピーター・ジョーンズ亡き後、映画『銀河ヒッチハイク・ガイド』のナレーションをアダムスの親しい友人だったスティーヴン・フライに依頼したのも、筋の通った判断だった。日頃からフライの声に馴染み過ぎているイギリス人には抵抗があったかもしれないが(私も日本語吹き替え版『ウォレスとグルミット』で、萩本欽一氏がウォレス役をやっているのを聞くのはちょっとつらいから気持ちは分かる)、『サンデー・タイムズ』の Cosmo Landersman は、2005年5月1日付の紙面において、映画そのものには星2つの辛口評価をつけておきながらも、「いかにも英国人」なフライの口調が、主要キャスト3名がアメリカ人だったにもかかわらず作品全体を「英国的」なものに保つことにも繋がったと認めている。
 そう、『銀河ヒッチハイク・ガイド』がハリウッドで映画化される時に一番恐れねばならない事態――安易なアメリカナイズを見事に避け得たこともまた、特筆しておかねばならない。同じく2005年5月1日付の『オブザーバー』紙でフィリップ・フレンチは、『スペースボール』よりはおもしろいが『ギャラクシー・クエスト』程の出来ではないとしながらも、「フォード・プリーフェクトが、フォード・ムスタングに変更されるようなことはなかった」と書いた。これは、アメリカ人キャスト、アメリカ人脚本家にとって、十分な褒め言葉ではないだろうか。とりわけ、「この脚本を読んだ人、中でもアダムス本人を知っていて内容にも精通している人が読んで、僕が書いたところとアダムスの書いたところの区別がつかなかったとしたら、成功だ」(Film Tie-In Edition, p. 305)という、脚本家カークパトリックにとっては。
 最後に、アダムスの旧友サイモン・ジョーンズが演じた惑星マグラシアのアナウンサー役は、これ以上ない最高の適役だったと付け加えておきたい。何しろ、かつてのアーサー・デントが、新しいアーサー・デントに向けてミサイルを発射するのだから!

 


 本当のことを言えば、映画『銀河ヒッチハイク・ガイド』を楽しむためには、ここまで私が長々と書いてきたようなことなど何一つ知っている必要はない。それどころか、何も知らないままタイトルに惹かれて映画を観て「おもしろい!」と思った人こそ、もっとも幸せな観客だと思う。ブログ等を検索してみた限りでも、日本にはそういう感想を持ち、タイミングよく新訳で出版された原作小説にも手を伸ばした方がたくさんいらっしゃったようで、長年のアダムス・ファンである私にとってはそのことが何より一番嬉しい。

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