以下の文章は、『銀河ヒッチハイク・ガイド』映画化に向けてアダムスが約20年もの長きに亘り悪戦苦闘した、その記録である。夢を果たせぬまま、2001年5月11日にアダムスは死去してしまったけれど、その後ロビー・スタンプらの尽力により映画『銀河ヒッチハイク・ガイド』は完成し、2005年4月20日、ロンドンのレスター・スクエアにある映画館、UCI
Cinema でワールドプレミアが開かれた。
なお、この文章を書くにあたって、主に Don't Panic: Douglas Adams & The Hitchhiker's
Guide to the Galaxy, Hitchhiker: A Biography of Douglas Adams,
Wish you were here: the Official Biography of Douglas Adams,
The Hitchhiker's Guide to the Galaxy: Film Tie-In Edition の4冊を参考にした。文章中に煩いくらい註を入れたのは、私の読解不足のせいで事実関係に間違いがあった時に備えてである。という訳で、以下の文章はあくまで参考程度にとどめておいて、より正確な情報をお望みの方はどうか原典にあたってくださるようお願いしたい。
1 夢の始まり |
2 映画化企画、始動 |
3 ハリウッド入り |
4 白紙に戻して、自力で |
5 ディズニーとの契約 |
小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』が発売され、ベストセラーとなった頃から、アダムスには映画化されたらいいな、程度の希望はあったようだ。たとえば監督はジョージ・ルーカスで、とか。ただし、これはあくまで夢物語のレベルであって、実現に向けて動こうとしたとか、具体的な製作の話が持ち上がったとかいう訳ではない(Webb、p. 202)。
その一方、アダムスは1979年に早くも『銀河ヒッチハイク・ガイド』の映画化権を50000ポンドで売ってほしいというオファーを受けてもいる。が、「お笑い版スター・ウォーズ」をイメージするディレクターと意見が合わず、契約には至らなかった。「この話を進める理由は金しかない、ということに不意に気が付いたんだ。金さえ手に入れば何でもいいってもんじゃない(そう信じ込むには酒の力を借りる必要がなったけれど)。結果としては、止めておいてよかったと思っている」(Gaiman, p. 102)。
ところが、恐らくはそのオファーより前のことなのだろうが、アダムスはある女性から映画化権を1000ポンドで買いたいという申し出を受けて、いったん了承したらしい。ただし、翌日には気持ちを変えて、エージェントに受けとった小切手を返すよう電話している。が、契約解消の手続きはきちんと行われなかったようで、そのため、後に『銀河ヒッチハイク・ガイド』の映画化問題がマスコミ報道されると、突然見知らぬ女性から『銀河ヒッチハイク・ガイド』の映画化権を持っていると主張され、彼女に多額の金を支払う羽目になった。(Hitchhiker, pp. 161-162)
1980年からテレビ・ドラマ『銀河ヒッチハイク・ガイド』の製作が始まり、1981年1月から2月にかけて放送された。それなりに好評だったが、アダムスとプロデューサーのアラン・J・W・ベルが不仲だったせいもあり、1981年11月にはテレビ・ドラマの続編は作らないことに決定する。これを受けて、いよいよ映画『銀河ヒッチハイク・ガイド』の売り込みが始まった。
映画監督の候補として真っ先に名前が挙がったのが、テリー・ジョーンズである。モンティ・パイソンのメンバーの中で、アダムスがもっとも親しくしていた友人であり、また映画『モンティ・パイソン/ライフ・オブ・ブライアン』(1979年)監督してその手腕は高く評価されたばかりだったから、まさに最適の候補だっただろう。だが、ジョーンズは『銀河ヒッチハイク・ガイド』はそのままでは映画にならないと考えていた。意外なことやおもしろいことは次々と起こる、でも主人公の成長もなければストーリーラインもない。「起承転結なんか『空飛ぶモンティ・パイソン』を手掛けている時は僕もまったく気に留めていなかったけれど、90分の長さの映画作品となればそうはいかない」(Hitchhiker, p. 192)。
また、当時のアダムスはアダムスで、ラジオ・ドラマ、舞台、小説、レコードと、『銀河ヒッチハイク・ガイド』の書き直しばかりをしていることにうんざりしていた。それに、親しい友人と仕事をすることは、一歩間違うと友情を台無しにしかねないということも知っていた。このため、いつか二人でまったく新しい映画を作ろうという、漠然とした話になって終わる。そしてその話が実現されることはなかった。(Gaiman、p. 103)
1982年夏、アダムスは(後に結婚相手となる)ジェーン・ベルソンと共に休暇を過ごすため、アメリカ・カリフォルニアのマリブに別荘を借りる。アダムスは、カリフォルニアがいたく気に入った。オープンカーを運転して、ショッピングも楽しめる。シリコン・バレーにも近いため、アダムスがこの頃からハマり始めていたコンピュータのことを、最先端の技術者たちと話すこともできる。
やがてそこに、『新・地名辞典』執筆のため、共同執筆者のジョン・ロイドもやってきた。ロイドがもっぱら執筆に専念するかたわら、アダムスはロスまで車を飛ばして『銀河ヒッチハイク・ガイド』の映画化に向けてハリウッドでの交渉にも精を出していた。そして、プロデューサーのジョー・メドジャックと出会う。
当時のメドジャックは、マイケル・C・グロスと共に映画監督アイヴァン・ライトマンの下で働いており、彼らと一緒にオムニバス・アニメーション『ヘヴィメタル』(1981年)の製作を終えたところだった。このアニメ映画の失敗を経験として、また新しいSFものを製作したいと考えたメドジャックは、『銀河ヒッチハイク・ガイド』に目をつけた。そしてマイケル・C・グロスとアイヴァン・ライトマンにも読ませたところ、二人とも気に入ったのでアダムスとの交渉に入る。もっとも、グロスは、以前ロンドンで『ヘヴィメタル』の録音に携わっていた時にラジオ・ドラマ『銀河ヒッチハイク・ガイド』を聴いたことがあり、「すごくクールだと思った」(Hitchhiker, p. 193)らしい。
メドジャックは当初、『銀河ヒッチハイク・ガイド』のアニメーションを計画していた。が、アニメ化の企画についてはアダムスに一蹴され、実写映画を製作することになったという。アニメーションに比べ、実写となると製作の規模が格段に大きくなることが予想されたが、メドジャックはライトマンと協議の末、この大仕事を引き受ける決意をする。
とは言え、アダムスはメドジャックと意気投合する一方、『アニマル・ハウス』(1978年)や『パラダイス・アーミー』(1981年)のような作品を作るライトマンと組むには抵抗があったらしい。それでもライトマンの名前には商業的価値があることを、メドジャックとグロスはアダムスにどうにか納得させた。かくして、既に映画化権を取得したと主張する女性から映画化権を買い戻した後、アイヴァン・ライトマンに20万ドルで映画化権を売り、そしてライトマンは自分がプロデューサーになることを条件にコロンビア映画に売った。1982年12月20日には、ロンドン・イヴニング・スタンダード紙にこの契約が公表される。(Hitchhiker、p. 194)
いよいよ『銀河ヒッチハイク・ガイド』の映画化が軌道に乗ったかと思われた。コンセプト・デザイン担当として、『スター・ウォーズ』(1977年)の酒場の宇宙人や『エイリアン』(1979年)で宇宙船のデザインを手掛けていたロン・コッブの名前も加わる。ロン・コッブは、アメリカで『銀河ヒッチハイク・ガイド』のテレビ・ドラマのリメイクの話が持ち上がった時にデザイナーとして参加することになった経緯があり、リメイクは実現しなかったものの、その折にコッブが描いたマーヴィンのデザインを、アダムスは気に入っていた。(Hitchhiker、p. 170)コロンビア映画は、映画『銀河ヒッチハイク・ガイド』は1985年に公開予定と公表する。
1983年に入ると、アダムスは映画脚本の執筆に専念するため、ジェーン・ベルソンと共にロスの Coldwater Canyon に引っ越した。この引っ越しは、ベルソンにとっては本意ではなかったようだが、アダムスがカリフォルニアに御輿を据えるつもりと見て取るや、カリフォルニアでの弁護士資格試験を受けて合格している(実際にその資格を活かして仕事をすることはなかったが)。なお、この近くには当時、テリー・ジョーンズも住んでいた。
しかし、アダムスの書き上げた映画脚本の第一稿を読んだメドジャックは、自分の考えが甘かったことを痛感する。「よく憶えていないが、彼は200ページもの脚本を書いてきて、中身は基本的に小説と同じだった。脚本がこんなに長いというだけでも、作者が素人だということがわかるというものだ」(Hitchhiker, p. 196)。
その後、アダムスは何度も映画の脚本を書き直すが、ライトマンとの溝は深まるばかりだった。両者の関係にとどめを刺したのが、ライトマンとは旧知の仲で、かつフォード役の候補の一人だったダン・エイクロイドが、ライトマンに見せた『ゴーストバスターズ』の脚本である。これを読んだライトマンは勿論のこと、メドジャックとグロスもまた『銀河ヒッチハイク・ガイド』の企画を捨てることに決めた。アダムスは、映画会社との契約に従って脚本を書き上げ、コロンビア映画は金を払い、それでおしまい。(Hitchhiker, p. 200)
1983年11月、アダムスはロスからの帰路でこう語っている。ハリウッドに行ってこのかた、ずっと考えているんだ。これがハリウッド行きってことか、って。今回の経験は、みんなからきっとそうなるよと警告されていた通りだった。僕が期待していたことようなこととは違ってね。僕は、「絶対うまくいく。きっと凄い仕事になるぞ!」と言いふらしていたけれど、結局はハリウッドのありきたりさにうんざりさせられただけだった。(Gaiman, p. 102)
勿論、これはアダムスの一方的な見解であって、ハリウッド側にはハリウッド側の言い分があるだろう。テリー・ジョーンズも認めている通り、『銀河ヒッチハイク・ガイド』の構成はまるで映画向きではない。アダムス自身そのことは分かっていて、1992年10月12日に放送されたラジオ番組の中では「構造上の問題があって、それが解決できないんだ。普通、映画では大きなクライマックスは最後にやってくる。でも、冒頭で地球がぶっ飛ばされるような映画では、一体どういう結末にすればいいのか、そこが難しい」(Hitchhiker, p. 198)と語ってもいる。でも、だからと言って自分以外の誰かに問題点を指摘され、訂正を強いられるのも受け入れ難い――メドジャックいわく、
次々と別のメディアに参入していくたびに、そのメディアの人たちから自分よりもストーリーの進行方法をわかっているという態度を取られた。彼がテレビ・シリーズが嫌いなのもそのせいだ。彼にとって『銀河ヒッチハイク・ガイド』は自分の子供みたいなもので、何のメディアだろうと、作品のエッセンスについては自分が一番よく知っていると思っている。その気持ちは分からなくはない。ただ、我々が言いたいのは「うん、君のいう通りだよ、でも映画のようなお客さんに劇場まで足を運んで楽しんでもらうメディアとしては、この程度の翻案じゃ不十分だと思うんだ」(Hitchhiker, p. 198)
ましてや、相手のプロデューサーが、ハリウッドの中でも保守的な映画製作者のライトマンとあっては。
とは言え、ライトマンが『ゴーストバスターズ』に去った後も、映画会社は『銀河ヒッチハイク・ガイド』の映画化を完全にあきらめた訳ではなかった。さまざまな人が入れ替わり立ち替わりやってきた。一時はアビー・バーンスタインという脚本家が雇われ、脚色を手掛けてもいる。その時の監督候補がテレビ・ドラマ『マックス・ヘッドルーム』で名を上げたばかりのロッキー・モートンとアナベラ・ヤンケル。でも結局話はまとまらず(Hitchhiker, p. 309)、彼らは代わりに『D. O. A.』(1998年)を撮ることになる。デイヴィッド・パトナム、ジェフリー・カッツェンバーグも出てきて、一時はディズニー傘下で作ろうという話も出たという。(Webb、p. 222)実際、この頃にはコロンビアも製作する気をなくし、映画化権を売れるものなら売りたいと考えるようになっていた。(Hitchhiker, p. 310)
一方、アダムスにとって単に映画が製作されなかった、というだけでは済まなかった。この時の契約で『銀河ヒッチハイク・ガイド』の映像権がハリウッドの映画会社の手に渡ったことにより、1981年にBBCで製作されたテレビ・ドラマのビデオを製作・販売することすらできなくなってしまったのだ。結局、1992年にアダムス自身が改めて映像権を買い直すことで、ようよう発売にこぎつけることになる。
1992年、アダムスはコロンビア映画から映画化権を自分で買い戻すことを決意する。そのきっかけとなったのが、マイケル・ネスミスとの出会いだった。
マイケル・ネスミスは、1942年テキサス生まれのミュージシャン。「ビートルズに対抗するアメリカのロックバンドを」というテレビ番組の企画として始まった「モンキーズ」というバンドのメンバーとなり、大ヒット曲を出すも1969年に脱退、その後は他のメンバーと組んでアルバムを発表したり、ソロ・ミュージシャンとして活動したりしていたが、1980年以降は映画のプロデュースやミュージック・ビデオ製作に力を注ぐようになっていた。
そんなネスミスと、アダムスは自分のエージェント、エド・ヴィクターを通じて知り合うことになる。ヴィクターが、彼の弁護士の家で開かれたディナー・パーティに行った時のこと、そこに来ていたマイケル・ネスミスと会い、彼もアダムスのファンだということが分かったのだ。じゃあダグラスも交えて何かしようじゃないかという話になり、アダムスがサンタフェにあるマイケルの農場へ行ったところ、彼らは大いに意気投合し、すっかり仲良くなった。ダグラスは、ネスミスならば映画化を実現するために力になってくれると確信し、自ら35万ポンドもの大金を投じて映画化権を買い戻した。この一事をもってしても、『銀河ヒッチハイク・ガイド』の映画化にかけるアダムスの意気込みの強さがわかるというものである。(Webb, p. 227)。
この時の映画監督の候補には、ジョン・ロイドと並んでジェイムズ・キャメロンの名前もあったという(Hitchhiker, p. 310)。とは言え、これがどの程度真剣に検討された話なのかはよく分からない。
かくしてアダムスは、再びサンタフェに赴き、ネスミスの農場で映画の脚本執筆に取り組むことになる。気候が快適で、不思議な美しさに満ちていただけでなく、近くにあるサンタフェ研究所にはノーベル賞クラスの科学者たちが何人もいて、彼らと話す機会が持てたこともあって、アダムスはサンタフェをすっかり気に入った。
1994年から1995年にかけて、アダムスはネスミス経由で再びハリウッドと繋がりを持つようになる。が、やはりアダムスが書き上げた脚本に買い手を見つけることはできなかった。当時のハリウッドでは、SFコメディに巨費を投じてもヒットするはずがないと考えられていたのだ。IMAXで撮影、という話もあったらしいが、資金面で折り合いがつかず、1996年8月には頓挫(Hitchhiker, p. 311)、結局ネスミスもあきらめて手を引くことになる。ただし、その後も二人の交友関係は続いた。
1996年の映画『メン・イン・ブラック』の大ヒットは、ハリウッドの流れを変えた。現金なもので、二匹目の泥鰌を狙う映画会社は、今まで見向きもしなかったSFコメディに突如として目を向けるようになったのだ。そして、1997年からディズニーとの契約に向けての交渉が始まった。
アダムス側の映画交渉の代理人は、CAA(Creative Artists Agency)のボブ・ブックマン。彼の紹介で、キャラバン・ピクチャーズ、後のスパイグラス・エンターテイメントのロジャー・バーンバウムと知り合いになり、またマイケル・ネスミス経由の人脈でジェイ・ローチと話をする機会を得た。ローチとアダムスは、お互いすぐに意気投合することができたらしい。
ちなみに、1996年の時点でアダムスが選んだ理想のキャスティングは以下の通り。アーサー・デント: サイモン・ジョーンズ
フォード・プリーフェクト: ジェフ・ゴールドブラム(『ザ・フライ』『ジュラシック・パーク』)
スラーティバートファースト: ショーン・コネリー
ゼイフォード・ビーブルブロックス: マイケル・キートン(『バットマン』)
マーヴィン: スティーヴン・ムーア
トリリアン: アマンダ・ドナヒューこれらはあくまで机上の空論。現実にアーサーを演じるには、1996年の時点でも残念ながらサイモン・ジョーンズは歳を取り過ぎている。代わりの有力候補として人気が高いのは、やはりケンブリッジ大学フットライツ出身のヒュー・ローリーだとか(Simpson, p. 70)。また、1998年10月号の『プレミア 日本版』には、「主演ジム・キャリー?」と書かれていたが、アーサー役ではなくザフォド役の候補だったという説もある。
1997年頃から、マイケル・ネスミスに代わる映画製作のパートナーとして、デジタル・ヴィレッジのロビー・スタンプが参加するようになる。ちょうどこの時期、デジタル・ヴィレッジもロビー・スタンプも、コンピュータ・ゲーム『宇宙船タイタニック』の仕事で大忙しだったのだが。
1997年12月24日、ディズニーとの契約が成立した。最終的に『銀河ヒッチハイク・ガイド』の映画化権を買ったのはデイヴィッド・E・ヴォーゲル、監督はジェイ・ローチという条件だった。予算規模は8000万ドル。(Webb, p. 231)ロビー・スタンプは製作総指揮を務める。
アダムスは、ネスミスと共同で書いた脚本にさらに手直しを入れる。ローチも加わり、後に「執筆中の、地獄のようにストレスが溜まっていった時でさえ、あれほど楽しい共同作業はなかったと思う」(Film Tie-in Edition, p. 225)と振り返っているが、同時にローチは、『銀河ヒッチハイク・ガイド』をハリウッドSF大作に仕立て上げることの矛盾にも気付いていた。ハリウッド大作にふさわしい華々しさと、『銀河ヒッチハイク・ガイド』本来の魅了である、イギリス風の洗練された知的アイロニーは、相容れないものである、と。
1998年10月、アダムスとローチの脚本を読んだヴォーゲルは、書き直しの注文が出した。翌年4月、二人がその注文通りに書き直して再度ヴォーゲルに送るが、さらなる書き直しの指示を受ける。
1999年4月14日、一時的にロンドンに戻ったアダムスはヴォーゲルに抗議のファックスを送った。このファックスの内容は、The Salmon of Doubt に収録されていて読むことができるが、それを読む限りアダムスが感じていた最大の不満は、ヴォーゲルが書き上げた脚本について一方的に訂正を要求するだけで、彼と直接会って話せないことにあったようだ。「あなたはきっと、あなたが取り組んでおられる業務の大変さを私が分かっていないことに苛立っておられるでしょうが、私は私で、このプロジェクトについてディズニー側と何ら創造的な話し合いを持てないことに苛立っています。私から提案したいことはただ一つ、直接会ってお話ししませんか、ということです」(The Salmon of Doubt, p. 169)
とは言え、ヴォーゲルが不親切だった訳でも不熱心だった訳ではない。ハリウッドでは、それがごく当たり前のやり方だった。ただ、アダムスにとっては、脚本どころか小説執筆の時でさえ編集者なり同居人なりに常にそばにいてもらい、意見や励ましを貰い続けるのが普通だったことを思えば、自分が書き上げたものに訂正個所をつけて問答無用とばかりに送り返され、相手が納得するまで黙々と何度でも書き直さなくてはならないというスタイルがどれほど苦痛だったかは、想像に難くない。だからと言って、無論、特別待遇を期待したアダムスのほうが間違っているのだが。
The Salmon of Doubt に付いている編集者の註には、「この手紙は功を奏した。デイヴィッド・ヴォーゲルは返答し、ミーティングが開かれ、映画製作は前進した」と書かれているけれど、これは少々前向きすぎる捉え方だろう。実際には、この手紙を読んだヴォーゲルは、もっとハリウッドの仕組みを理解している脚本家に変えるべきだと考え、ジョシュ・フリードマンを雇うのだから。確かにアダムスが望んだ話し合いはもたれたようだが、それはアダムスにフリードマンを雇うことに同意させるためのものだった。その時のことを振り返って、バーンバウムは「私達が彼をすごく尊重しているということを、彼にも分かってほしかった。私自身、彼を尊敬しているし作品に妥協したくはない、でも長年に亘って脚本の書き直しを続けているアダムスがますます行き詰まっているのも分かっていた」(Film Tie-in Edition, p. 227)と語っている。1999年には、アダムスは脚本完成のために家族ともどもカリフォルニアのサンタバーバラに引っ越してさえいたのに。
2000年3月頃にフリードマンの脚本は仕上がったが、やはりアダムスはその脚本が気に入らなかった。おまけに、その頃にはヴォーゲルはいなくなっており、後任のニーナ・ジェイコブソンはさらに気乗り薄で、そのためもともとは8000万ドルで組まれていた予算が、4500万ドル規模に減らされそうになる。アダムスが首を縦に振るはずもない。
2000年夏、アダムスは自分なりに脚本を書き上げて再度提出するも、ディズニー側の慎重な態度は変わらなかった。そのため、ディズニーの許可を得た上でこの脚本を他の有名スタジオに回してみたが、名乗り出るスタジオはない。ジェイ・ローチやロジャー・バーンバウム、ゲイリー・バーバーといった、ハリウッドでも影響力の強いメンバーの名前が並んでいるにもかかわらず、である。中でも、バーンバウムと個人的に親しい友人でかつて一緒に仕事をしたこともあったプロデューサーのジョー・ロス(現レボリューション・スタジオ会長)から見送られたことは、アダムスにとってもロビー・スタンプにとっても精神的に一番応えたようだ。「彼ですら食指を動かさないのなら、他の誰がやりたがるというのだろう」(Film Tie-in Edition, p. 228)。かくして2000年10月、映画はまた準備段階に逆戻りしてしまった。(Hitchhiker, pp. 313-314)
ローチは、第3の脚本家を捜すことに決め、実際、クレジットされていないものの『メン・イン・ブラック』の脚本に携わったことのある脚本家と交渉したこともあったらしい。だが、ディズニーのほうは製作する気をどんどん失っていった。2001年5月10日、アダムスはジェイ・ローチに電話でこう語ったという。「ハリウッドには、自分を詩人だと思っているヴォゴン人がうようよいる」(Hitchhiker, pp. 337)
翌5月11日、アダムス死去。その後、映画『銀河ヒッチハイク・ガイド』は、ローチは製作に回り、監督としてガース・ジェニングスを抜擢したことで、今度こそ本当に動き出した。