Forward by Simon Jones
ねえ、ダグラス、君には信じがたいことだろうけれど、僕たちはやり遂げたんだ。四半世紀もかかってしまい、恐ろしく不公平なことに君が目にすることは叶わないが、でも完成した。ついにアーサー・デント・サーガの完全版が収録され、世界中の人の耳を楽しませている。この脚本は、その証拠だ。
この作品が最後まで作り上げられことを僕はずっと確信していた、と言えたらいいのだが。でも、そう言ったら嘘になる。本当は、疑っていた。実際、地獄の業火の前で雪の玉が消えずに残っているのと同じくらいの可能性だと思っていた。
君が知っていたかどうかは分からないが、ラジオドラマ第2シリーズの終了後、僕とピーター・ジョーンズは、年に一度のペースでランチを共にする仲になっていた。言うまでもなく、僕らの会話は新シリーズのための再結成に関する最新の噂話へと流れて行き、そしてそれらがただの夢として潰えるのもいつものことだった。1994年のランチは、ピーターの提案で場所はエクスプローラーズ・クラブだったが、僕らは二人ともいつになくテンションが高かった。というのも、君が僕に新シリーズを始めるかもしれないとほのめかしていたからで、ラジオのプロデューサーが、ダーク・マッグスという何だかとってもSFっぽい名前の人と一緒にキャスティングの調整に入る、という辺り、これまで以上に話が現実味を帯びていた。その時期、ピーターも仕事に空きがあったし、考えてみれば僕もそうだった。
が、悲しいかな、実現することはなかった――少なくともこの時点では。君は誰か他の人が書いた脚本がまったく気に入らなかったし、かと言って君が自分で書く余裕もなくて、話はご破算になってしまった。最近、僕は永らく放置していた机の引き出しの中から、ピーターが書いた手紙を見つけた――ピーターは滅多に手紙を書かなかったから、珍しくてとっておいたのだ(実際は、そんなことは考えてなかったと思うけどね。単に引き出しに入れてそのままになっていただけだ)。1994年12月22日の日付になっていて、とりわけ目を引いた文章が、「ダーク・マッグスの話だと、ダグラスは映画のための脚本執筆に忙しく、新作ラジオドラマが製作される可能性は低いらしい」
映画は君がずっとやりたいと思っていたメディアだったし、門戸を閉ざされれば閉ざされるほど、君は絶対にやり遂げてみせると決意を固くしていた。
おまけに当時の君は『銀河ヒッチハイク・ガイド』から距離を置きたいとも口にしていて、既に出版済みの小説をラジオドラマ化することはあまりにも後ろ向きな行為に思えた。だって、最初の2作の小説は先にラジオで人気が出たストーリーを元に書かかれたものだからね。残りの3作は、完全な形で飛び出してきて活字となったけれど(いや、「飛び出して」というのは正確な表現じゃないな。脅したりすかしたり、君の言葉を借りれば、険しい顔で頑として譲らない編集者たちから拷問されて絞り上げられた末に書き上げられたんだったっけ。その間、君は「締め切りが通り過ぎていくときにたてるヒューヒューという音」を聞いていたんだよね)。
それからの数年間、ピーターとのランチの話題はラジオドラマ以外のことが多くなった。君がずっと頑張っている「映画版」は製作にこぎ着けるのかな、製作されるとしたら、年を取りすぎた僕たちに出番はあるのかな、と。さらに時は流れ、往年の仲間が一人、また一人と、この世を去るようになった。デイヴィッド・テイト(船載コンピュータのエディの声)、リチャード・ヴァーノン(スラーティバートファースト)、そして、ピーター自身。これで終わりだ、と、僕は思った。
でもダークはしがみついていた。何度も何度も希望を失っても、あきらめようとはしなかった。そして2001年5月、僕ら全員に未曾有の悲劇が襲った――突然、君が死んでしまったんだ。ダークは、それでも、というか、だからこそ、君へのトリビュートとして何としても実現したい、と、より一層固く決意した。
皮肉なことに、この企画が命を取り戻したのは、その年の9月に行われた君の追悼式の会場で、ダークが君の友人のブルース・ハイマンと会って話をしたのがきっかけだった。ブルースは、この企画に対してダークも同じ構想を抱いていると知ると、君へのトリビュートとして、なるべく早く話を進めねばと考えた。
2003年11月の朝、サウンドハウスに到着した時の僕の心中は複雑だった。君がこの場にいないことが腹立たしく、かつての3人の仲間も同様に姿を見せないことが悲しく、他の仲間とうまくやれるかが心配で、文字通りにも比喩的にもドレッシング・ダウンを着て懐かしきアーサー・デントになれることがこの上なく嬉しかった。
ところで、前から時々気になっていたのだが、僕は本当に、クリストファー・ロビン・ミルンとかアリス・リデルとかピーター・ルウェリン=デイヴィスみたいに、自分では知らぬ間にフィクション上の不朽のキャラクター誕生のためのインスピレーションになっていたのだろうか。ピーターからの手紙を見つけたのと同じ頃、僕は小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』の最初の3作のポスターを発見した。君は、いつも以上に寛大な気持ちになっていたんだろう、そのポスターにこんな献辞を書いてくれていた。「アーサーへ。出発点にして完成形である君は、多分ここに僕がサインすることを望まないだろうけれど、でもやっぱり書かせてもらうよ。愛をこめて。ダグラス」。君がこれを書いてくれた時のことを僕はまったく思い出せないのだけれど、それってきっと、その場にいた全員が翌日の日の出を憶えていないような、そういう夜だったにちがいない。とは言え、葬儀や追悼式の場でスピーチしたり、マイク・シンプソンやニック・ウェブが書いた、君の素晴らしい伝記本を読んだ今となっては、アーサーの良いところはひょっとすると君自身なんじゃないかと思えてきた。たとえば、君はお風呂大好き人間だが、僕はと言えば、誰もがバスタブに浸からないアメリカにいる時でさえ、シャワーすら億劫がっている。僕は滅多にコーヒーを飲まず、まともな紅茶が見つからないとうるさく文句を言う。でも、その他のアーサーのキャラクターについては、絶対に僕より君のほうが似ている。ま、真相はどうあれ、僕は死ぬまで自分の幸運に感謝する。ケンブリッジで二人ともまだ学部生だった頃、フットライツのオーディションにやってきた君に親切に振る舞っておいて、本当に良かった。あの時は、君のことはほとんど知らなかったけれど、君の書いたスケッチは本当におもしろいと思ったんだ。君の前にオーディションにやってきた、僕が耐え忍んで観なくちゃならかなった偽インテリたちの手によるくだらないギャグとは、雲泥の差だった。
それも今では昔話だ。
収録はどんな様子だったと思う? うん、僕としては混じりっけなしの楽しさだった。歳月は流れても、残された僕たちはちっとも変わってないと分かってほっとしたよ。とっても久しぶりに会ったスーザン・シェリダンは昔とまったく同じだった――というか、むしろ若返っているくらいかも。ジェフリー・マッギヴァーンとマーク・ウィング・ダーヴェーの二人にはここ数年しょっちゅう会っていたから、彼らが劣化していてもきっと僕は気付かなかっただろうな。僕としては、歳月を重ねた上質なポートワインのように、成熟した大人になった、と言いたい。実際、そうだと思うし。僕自身はと言うと、髪の毛が薄くなるわ残っている髪もすっかりグレーだわで、他のみんなより身体の傷み方が激しいんじゃないかと思ったことは認めなきゃならない。でも、見た目はともかく、声のほうはまったく変化なしだったから、僕らがかつてやっていたのも今現在やっているのもラジオという媒体で、おまけに当時と同じメンバーでやれたことに感謝している。ところで、ダークが言ってたんだけど、僕の声を何やら複雑な電子的テストにかけた結果、若い頃と比べて半音下がっていることが分かったんだそうだ。不思議なものだね、僕は年を取れば声は高くなるものだと思っていたよ。
おもしろいかなと思ったので記録しておくと、僕とジェフは二人とも、『さようなら、いままで魚をありがとう』の収録前に、歯に深刻なダメージを受けていた。僕は、収録の前月にあたる7月に、コネティカット州ハートフォードでの「マイ・フェア・レディ」の公演中に、舞台の裏方のおでことぶつかって前歯2本が折れてしまった。保険会社が支払いをしぶったせいで、新しい歯に差し替えることができたのは収録のわずか3週間前だった。
ジェフがサウンド・ハウスにやってきた時は、クリスマス・ナッツと格闘したせいで下の歯が2本欠けている状態だった。「大丈夫」彼は言った。「じぇんじぇんかわらないから」。緊急歯科医療とはたいしたものだ。たった1日で、蒸気漏れエンジンみたいな声から、いつもの滑舌なめらかなフォードの声に戻したのだから。
それにしても、昔なつかしのキャラクターに馴染むのがここまで簡単だったとは。多分、我々はみんな、役柄の殻をくっつけたままだったのだろう。ジェフリーと僕はたちまちフォードとアーサーになり、役柄の関係さながらにツンデレな会話を交わしていた。我々は1日1エピソードのペースで収録していたが、これが映画だったら1週間で4分しか撮れないのに、とダークはこぼしていた。彼は素晴らしい監督だったが、これは別に次の仕事が欲しくて言っている訳じゃない。彼は役者に適切な指示を出して場面を微調整するのが巧かったし、ドルビー5.1サウンドや派手な音響を使いながらも、台詞がきちんと聴こえるようにすることが最優先だとはっきり打ち出していた。信じてほしい、君もきっと同意するはずだ。
1970年代後半にパリス・スタジオで収録していて以来、想像もつかないようなことがいろいろ起こった。僕らは崇拝の的となり、当時だったら役をオファーされても鼻にも引っ掛けなかったであろう人たちが、こぞって僕らの仲間になりたいと切望した。懐かしい昔の仲間も大勢戻ってきてくれて、絆を確かめ合うこともできた。ミリウェイズこと宇宙の果てのレストランの騒々しい司会者、マックス・クォドルプリーン役のロイ・ハッドもその一人だ。(オーストラリアではなくスコットランドの)パース出身で、クローンのリンティア役だったルーラ・レンスカも再登場してくれた。マーク・ウィング・ダーヴェーも、ミュージカル演出のため滞在していたオーストラリアから飛んできた。ニューヨークから来た僕もたいがい遠距離だったけど、彼には負ける。テレビドラマ版のフォードとトリリアンだったデイヴィッド・ディクソンとサンドラ・ディキンソンも招かれ、それぞれイースト・シーンとチズウィックからやってきた。
1940年代からラジオのコメディ番組を務めてきた大ベテラン、ジューン・ウィットフィールドとレスリー・フィリップスは、最初にマイクに向かった瞬間から魅力に溢れ、素敵なユーモアのセンスを発揮していた。ハリウッドからは、躾のゆきとどいた二人の子供と一緒にクリスチャン・スレイターが飛び入り参加し、正気のウォンコ役を務めた。僕らがやっていることを彼が本当に分かっていたのか、僕にはどうも確信が持てないのだが、でも心から楽しそうに演じていた。ジョアンナ・ラムレイは、シドニー・オペラ・ハウスの形の頭を持つ、いかにもなエイリアンの役。ジョナサン・プライスは、『銀河ヒッチハイク・ガイド』の編集者ザーニウープ役の再演を二つ返事で引き受けてくれ、ミリアム・マーゴリーズは、アメリカ旅行中のチャールズ・ディケンズについての全10話のドキュメンタリー番組の仕事が終わると、時間をムダにすることなく、悪臭をはなつコピー取りの老婆の役を演じた。今は亡き友に替わって、リチャード・グリフィスはリチャード・ヴァーノンの後任を見事に務めた。ダブリンに本拠地をおくクレイジー・ドッグ・オーディオのロジャー・グレッグはエディ役を、そしてウィリアム・フランクリンは、なつかしき友ピーター・ジョーンズに替わって、ジョーンズととてもよく似た、親しみやすくて、でも軽く戸惑っているようなトーンを、ガイド役にもたらしてくれた。
でも、信じられないかもしれないけど、この番組の最大のスターは、実は君なんだ。本を朗読した時の君の演技がすごく生き生きとしていたので、君の声をこのラジオドラマに取り込むことになったんだよ。それも、君がずっとやりたいと思っていた役――何度転生してもアーサーにうっかり殺されてしまう、アグラジャグだ。箱の中に入れられ、スピーカーに向かって台詞を交わしながら、君と憎悪の大聖堂で対峙する場面を演じるのはとびきりシュールな体験だったけど――最高の出来だったよ。
勿論、僕が客観的じゃないことは分かっている。でも、ダークは小説を見事にラジオドラマの脚本に仕立て直したと思うし、この本を読んだ人もきっと同意してくれるはずだ。この脚本が、幸運にも演じることのできた僕たちを楽しませたように、本という形になっても読者を楽しませてくれることを願っている。奇妙でヘンテコで、君の世界観がすごくよく捉えている。君自身は別にすれば、ダーク以外の誰にもここまで巧く仕上げることはできなかったんじゃないかな。この本は、君と、君の素晴らしい知性へのトリビュートだと僕は迷うことなく宣言する。という訳で、愛をこめて、この本を君に捧げる。
君がいなくて寂しい。2005年1月
Introduction by Dirk Maggs
1978年夏、当時BBCのスタジオマネージャー見習いだった私は、まずはラジオの仕事で地歩を固めてからテレビの世界に入り、ひいては映画産業へと進むつもりでいた(BBCのスタジオは、現在ではランガム・ヒルトン・ホテル※になっている)。そのほんの二ヶ月程前に、ラジオドラマ『銀河ヒッチハイク・ガイド』の第一回目の放送が行われた。私は聴きそびれたが、番組の批評は目に留めていた。私には『銀河ヒッチハイク・ガイド』はモンティ・パイソン風『ドクター・フー』のように思え、フォード・プリーフェクトばりに大酒をくらって女の子たちと踊るのに忙しくてそれ以上深追いしようとはしなかった。
要するに、私にはまだまだ学ぶべきことがたくさんあったということだ。
次の人事異動でBBCテレビセンターに移ってから、ようやく私はテレビという媒体がラジオほどには自由が効かないことに気が付いた。それから、ワーキング・ホリデーを利用してトロントでの長編映画製作の使い走りの仕事をしてみて、映画産業というものがいかに面倒臭いかに気が付いた。そこからさらに時が流れ、ワールド・サービス・ネットワークで長く退屈な夜のシフトに就いていた時、ダグラス・アダムスとジェフリー・パーキンスが作り上げた『銀河ヒッチハイク・ガイド』の虜になった。今は亡き父と同様、私もラジオのコメディは大好きだったが、スパイク・ミリガン以降、言葉と音響と音楽を組み合わせただけでかくも見事な視覚効果を生み出した例を私は知らない。映像なしでここまでやれるとは。
10年後、ついに私はおよそ不可能とまで思えた高みにたどり着き、BBCラジオのライト・エンターテイメント部門のプロデューサーになった。そこではコメディ番組だけでなく軽めのドラマも製作しており、DCコミックスのスーパーマンやバットマンを題材にドラマを作ることになった時、私はきちんと書き込まれた映画のような脚本に多くの音響や音楽を重ねるという製作スタイルを発展させることができた。これは、当時も今も、ものすごく手間のかかるやり方であり、私自身、時々これは一体何の罰ゲームだろうと思ったものだ。だが、この時の骨折りが、ラジオドラマ『銀河ヒッチハイク・ガイド』の続編製作について協議していたダグラス・アダムスの注意をひいた。1993年春のある朝、彼は私の上司のジョナサン・ジェイムズ・ムーアに電話して、私に続編製作の仕事をする気があるかどうか質問した。私は圧倒された。後にも先にも、結婚したことと子供が産まれたことを除けば、私の人生が前途洋々だと知らしめてくれたものはない。
当初の計画は脚本上の問題と契約上の難点から頓挫することになった。1997年に、ダグラスとロビー・スタンプの二人と話をした時には、彼らの会社であるデジタル・ヴィレッジを絡めて再スタートすることになったが、長年待ち望んでいた映画版『銀河ヒッチハイク・ガイド』製作の契約がいよいよ成立するということで、話は流れてしまった。最後に会ったのは2000年、場所は放送局の受付で、その時もまだ私たちはラジオドラマをシリーズ完結まで製作するという希望を捨てていなかった。が、その後、アダムスが死去してしまい、そんなささいな問題はすべて吹っ飛んでしまう。思いがけず、他でもない彼の葬儀の場でブルース・ハイマンと出会ったことが、ラジオドラマの続編計画を再燃させるきっかけとなった。そして今度こそ実現することができた。
本書は、1985年にパン・ブックスから出版された The Original Script の続編である。この本には、我々が2004年から2005年にかけて製作したラジオドラマの脚本が収められていて、大体はこの脚本通りに収録されたが、脚本には書かれていないアドリブ部分は省略されているし、逆に放送時間の都合とか好みの問題とかで省略された部分も含まれている。まあ主に放送時間の都合かな。どのエピソードにも、最後に注釈を付け、脚色するにあたって原作小説を改変した理由や、作品を完成させるためにスタジオで使用した技術などを説明している。あと、歯に関する小話も。
「〜に感謝します」のコメントは、そういった注釈や謝辞のコーナーだけでなく、このイントロダクションにもたくさん書いた。一般読者をわずらわせたくはないが、実際のところ、この企画のために最初から本当に多くの人が協力してくれたのだ。だから、他のコーナーでの感謝の言葉に加えて、ここでも言わせていただきたい。ジェーン・ベルソン、エド・ヴィクター、グレイン・フォックス、彼らのおかげでこの企画は可能となった。ブルース・ハイマンには、その熱意と大きな賭けに怯まないでいてくれたことに対して。ヘレン・チャットウェルには、プレッシャーの中でも親切に使用を認めてくれたことに対して。ジョン・ラングドンには、ダグラスと最後の言葉を交わしたことに対して。ウィックス・ウィッケンスには、彼の素晴らしい音楽をパブのドラマーなんかに演奏させることを許可してくれたことに対して。スー・アダムスと、ジェイムズ、ジェーン、ブロニーそしてエラ・スリフトには、道徳的かつ物理的なサポートに対して。ロビー・スタンプ、ジェフリー・パーキンス、ケヴィン・J・デイヴィスには、アダムスに関してあまり知られていない一面についてアドバイスしてくれたことに対して。ロジャー・フィルブリック、アンナ・カサー、クリス・ベルソー、ジョン・パーティントンには、BBCのウェブサイトで我々の努力を正確に伝えてくれたことに対して。そしてパン・ブックスのニッキー・ハーセルには、これらのページに書かれているすべてを上手に指導してくれたことに対して。
1993年の時点で第3シリーズの企画が潰れたおかげで良かった面も少しはあって、それはポール・ディーリーやサウンドハウスのみんなと仕事できたことだ。ポールとフィル・ホームは素晴らしいスタジオを運営していて、ジュリーとフレディーとロスとハーレイは、騒々しい俳優たちに暴力で解決することなく忍耐を持ってエサと水をやってくれた。みんなの自制心には感謝している。ポールは親しい友人であり、かつ私がスタジオで俳優と一緒にいる時にはキュービクルで私の耳となってくれた。彼は、私の家族と共に、長年この企画をボツにしてきた逆風に倒れることなく耐え抜いた。ポール、レスリー、トム、テオ、トリー、我慢してくれて本当にありがとう。
ダグラス本人からはインスピレーションを貰えなかったけれど、サイモン・ジョーンズがその穴を十分に埋めてくれた。実際、収録中の現場の空気をポジティヴにできたのは、サイモンのおかげだ。彼は親切で思いやりがあり、すぐれた俳優であると同時に良き友人でもある。ケンタッキー州でカーネルの称号を与えられてもいる。我々が彼を必要としている時に、ケンタッキーがミネソタの国民軍に宣戦布告しないでくれて助かった(※2)。
私はダグラス・アダムスの友人ではなかったが、会えた折には彼のことがものすごく好きだった。何かに夢中になっている時も、不機嫌でむっつりしている時も、他のことに気をとられている時も、激しく怒り狂っている時でさえ。彼には、私のことを信用してくれてありがとうと言う他ない。が、この私のほうが、彼が自分自身のことを信用できるようにしたと思われる出来事もある。1993年に第3シリーズの企画が潰えた後、私はネット・シェリンのトーク番組「ルース・エンド」のプロデュースの仕事をすることになった。ちょうど『ほとんど無害』のペーパーバックが出版されたばかりだったので、ゲストとしてダグラスと、それから、人力でソリを引いて南極大陸を横断し、凍傷で足と手の指を何本か無くしたサー・ラノフ・ファインズの二人に出てもらった。偉大な冒険家がくぐり抜けた壮絶な忍苦について語っている間、ダグラスは顔をうつむけていた。
番組収録後、パブで、私は彼に何か気に障るようなことがありましたかと訊いてみた。
「いや、そういうことじゃないんだ」ダグラスは言った。「ただ、締め切りが過ぎた小説を完成させるためにホテルに閉じ込められたという話は、氷のクレバスを何千マイルも走破したという話と比べたらあまりにつまらないだろうなあ、と」
「それは見方によると思いますよ」私は答えた。「まず、あなたの奮闘は普通の人間の基準を越えているし、その結果として生まれた作品はとてもユニークで誰にも真似できません。それから、オンエア直前、ラノフ・ファインズはトイレに行こうとして放送局の1階で迷子になっていましたよ」
ダグラスは笑顔になり、グラスを持ち上げてこう言った。「それを聞いて気分がよくなったよ」
※ このイントロダクションが書かれた2005年当時、ホテルの名称はランガム・ヒルトンだったが、現在ではランガム・ロンドンとなっている。
※2 カーネルはケンタッキー州などで功績のあった民間人に送られる称号だが、軍隊の大佐という意味もある。