映画公開に合わせて発売された The Hitchhiker's Guide to the Galaxy: Film Tie-In Edition のペーパーバックには、製作総指揮の一人ロビー・スタンプがあとがきを寄せている。
以下はその抄訳だが、訳したのは素人の私であるので、少なからぬ誤訳を含んでいる可能性が高い。そのため、この訳はあくまで参考程度にとどめて、全貌をきちんと知りたい方は、必ずオリジナルにあたってくださるようお願いする。
Afterword
2004年4月19日午前9時30分、ベティ・ライトが歌う「Shoorah, Shoorah」が、ハートフォード州にあるエルスツリー・フィルムの第7スタジオに設置された「イズリントンのフラット」に鳴り響いていた。監督のガース・ジェニングスとプロデューサーのニック・ゴールドスミス、共に「ハマー&トングス」を立ち上げたこの二人に見守られながら、第一助監督のリチャード・ウィーランが「アクション!」と叫んだ時、BBCラジオ4でラジオドラマが最初に放送されてから四半世紀以上の時を経て、ついに映画『銀河ヒッチハイク・ガイド』の撮影が始まった。アーサー・デント役のマーティン・フリーマンが立って本を読んでいるそばで、仮装した40名以上の俳優が踊り出す。シュガー・ピンクのねずみや、酔っぱらったカウボーイや、インディアンの酋長といった群衆の中央に、アメリカ人俳優ゾーイー・デシャネル扮するトリリアンが、チャールズ・ダーウィンの格好をして上下に飛び跳ねているのが見えた。この歴史的な初日の進行予定表の簡略版は、本書の320頁から323頁に再録してある。
ハリウッドで映画を製作する過程について、アダムスが語った有名な言葉がある。「大勢の人がよってたかってやって来ては、息をふきかけることでステーキを焼こうとするようなものだ」。実際、ラジオドラマに始まりテレビドラマ、数冊の小説にもなった、国際的にも超有名な『銀河ヒッチハイク・ガイド』が映画化されるまでに25年もの歳月がかかったのは何故だろう? 説明すると長い話になる。
映画『銀河ヒッチハイク・ガイド』公開記念の特別ペーパーバックのためのこのあとがきでは、ハリウッドの大物エグゼクティブに「よし、『銀河ヒッチハイク・ガイド』の映画を作ろう」と言わせるまでの、25年間の苦難について書くつもりはない。ダグラスの親しい友人で、1981年以降はエージェントでもあったエド・ヴィクターの言葉を借りれば、「ものすごくたくさんの人が、舐めて味見をして拒絶して去った」。数々の味見についてすべて書くとなると、それだけで独立した一冊の本になってしまうだろう。が、この映画の製作総指揮の一人として私が言えるのは、主要な人物との会話に基づいて、この映画が最終的にいかにして作られることになったかということだけである。
私が初めてダグラス・アダムスと会ったのは、1991年、イズリントンにある彼の自宅でのことだった。彼は私にバッハを演奏してくれたが、それというのも彼は当時、音楽と数学に関する何かを作りたいと考えていたからで、二人でテレビ番組としての可能性を検討し、彼が脚本を書いてプレゼンターを務めたいという話になった。初対面の時は、ダグラス・アダムスという人の強烈な知的好奇心が、とにかく印象的だった。その後も私たちは互いに連絡を取り合った。彼は私に寿司を教えてくれた。私たちは一緒に会社を起こした(註・デジタル・ヴィレッジのこと)。一緒にたくさんの映画も観たし、私は彼が友人兼同僚となってくれたのは幸運だった。
ダグラスと私はずっと仲の良い友人同士だったから、出会ってから10年後、私の父が亡くなった時、私が病院から家に戻って真っ先に電話した友人のうちの一人がダグラスだったことは驚くに値しない。父の闘病中には、ダグラスは私のことを気遣ってくれ、親切にサポートしてくれたということもあって、私は自分の父の人となりについてあれこれ話をした。しばらくして会話が別のもっと普通の話題に移ると、ダグラスは今計画しているアイディアについて話し、そして、これでもう何度目になるか分からないが、またしても『銀河ヒッチハイク・ガイド』の映画化企画が煮詰まっているという話になって、もはやハリウッドでは永遠に「製作途中」のままというのが定説と化しているとのことだった。
まさにその翌日の2001年5月11日金曜日、私はエド・ヴィクターからの電話を受けた。私は台所にあるお気に入りのイスに座っていて、前の日の晩にダグラスと電話で話していたのとまったく同じ場所だったのだが、そこで私はダグラスがほんの一時間ほど前にカリフォルニアのモンテシトにあるジムで心臓発作を起こして死亡したと知らされた。私がエドに聞き返しているのを耳に挟んだ妻がショックのあまり悲鳴を上げたことは憶えているが、私自身は茫然自失の状態で一晩中友人や知人に電話をかけ続けていた。
インターネット上にはダグラスへの哀悼と感謝の言葉が溢れ、各紙に掲載された追悼記事には『銀河ヒッチハイク・ガイド』が世界中の人々に与えた影響の大きさについて書かれていた。恐らく、悲しいことではあるが、ダグラスの悲劇的なまでに早すぎる死と、そのことに対する反響のすさまじさが、結果として映画化を押し進める契機となった。本当にそうだとしたら、皮肉としても残酷すぎるが。エド・ヴィクターは『銀河ヒッチハイク・ガイド』の映画化を実現するのがいかに大変だったかについてこう述懐している。「私はいつだって『銀河ヒッチハイク・ガイド』の映画化権を売ろうと頑張っていた。ダグラスはいつだって、本当にいつだって『銀河ヒッチハイク・ガイド』を映画化したいと思っていた。私は計4回も『銀河ヒッチハイク・ガイド』の映画化権を売り、こんなに何年も頑張っているのに未だに映画が出来上がっていないのは私の人生における唯一にして最大の職業上の挫折だと言い続けていた。私はいつだって確信していたんだ。私はこの目でファンレターの山を見ている。映画版を待ち望むファンは大勢いると分かっていた。私はABCのドン・タフナーにテレビドラマ・シリーズの権利を売った。コロンビアとアイヴァン・ライトマンに映画化権を売った。マイケル・ネスミスと共同事業を立ち上げたこともあったし、最終的にはディズニーに映画化権を売って、それから7年経ってようやく映画の製作が始まった」
私とダグラスの付き合いはエドほどには長くないが、映画化企画に関しては、1997年、ディズニーに映画化権を売る交渉が始まった時から関わっている。この時期、「メン・イン・ブラック」の第1作目の大ヒットを受けて、SFコメディへの関心が高まったように思えた。ハリウッドでも力のある芸能プロダクション、CAA(Creative Artists Agency)に所属するボブ・ブックマンがダグラスの映画化権に関する代理人を務めていて、私とダグラスをその気がありそうな多くのプロデューサーに引き合わせてくれた。何度もミーティングを重ねた末に、本気で『銀河ヒッチハイク・ガイド』の映画化を押し進めてくれそうな二人の人物と出会うことができた。キャラバン・ピクチャーズ(後のスパイグラス)のインディペンデントのプロデューサー、ロジャー・バーンバウムには影響力と熱意があり、ディズニーを会議の場に引っ張り込んでくれ、また、ダグラスの友人で以前は映画化企画のパートナーでもあったマイケル・ネスミス経由で、ピーター・サフラン、ニック・リード、ジミー・ミラーという、映画『オースティン・パワーズ』の思いがけない大ヒットを引っさげて新人監督として飛ぶ鳥を落とす勢いだったジェイ・ローチの当時の代理人たちと会うことができた。ジェイもまた、ディズニーには強いコネがあった。ダグラスとジェイは出会ってすぐに和やかで創造的な関係を築くことができ、これで負けなしの三人組が結成されたかに見えた。
『銀河ヒッチハイク・ガイド』はラジオドラマとして始まり、「5作の3部作」な大ヒット小説となり、舞台化され、コンピュータ・ゲーム化され、この頃にはデジタル・ヴィレッジによる地球規模の本物の「ガイド」も形成されつつあった。そのため権利関係はものすごく複雑で、契約を結ぶのは恐ろしく骨の折れることだった。ケン・クラインバーグとクリスティン・カディの二人が、ディズニーとの契約締結のための弁護士となった。彼らの頑張りに加え、ロジャー・バーンバウムやジェイ・ローチ、CAAのチーム、エド・ヴィクターのオフィス、それにデジタル・ヴィレッジが長時間労働も厭わず必死でサポートしてもなお、交渉には18ヶ月近くもかかった。最終的に契約が成立したのは1998年のクリスマス直前のことで、ダグラスと私が製作総指揮に名前を連ねることと、ダグラス本人が新しい脚本を書くことが確定した。
ダグラスはこれまでも何年にも亘って『銀河ヒッチハイク・ガイド』の映画の脚本を書いていたし、ジェイ・ローチと当時の彼のビジネス・パートナー、ショーナ・ロバートソンらのアドバイスもあって、割と早く草案を書き上げることができた。この初稿には、彼のとびきりのウィットと知性がぎっしり詰まっていて、新しいアイディアの数々が、ラジオドラマや小説でおなじみのシーンやキャラクターと押し合いへし合いしていた。この1999年前半に書かれた初稿は良く出来ていたが、『銀河ヒッチハイク・ガイド』のエピソード的な構造的性格を活かすことと、映画としての筋の通った語りをすることとの間で、うまくバランスが取れないという問題が、真に解決されたとは言えなかった。実際、この問題は、長年に亘って映画の草案がどんなにたくさん書かれても以前として厄介の種であり、巨大な障害となり続けていた。ジェイは、ダグラスと仕事をするのはとても楽しかったけれど、向き合わなければならない問題もあったと語っている。
「脚本を書いていて、どうしようもなく煮詰まっていた時でさえ、彼と一緒に仕事をするのはこの上なく楽しかった。ディナーと、長話と、彼の笑い声。後になって、映画化が実現しそうもないという状況になった時でさえ、僕らはその不条理さを笑いのネタにしていた。という訳で、製作過程そのものはすごく愉快だったんだ。ただ、どこにも行き着かなかっただけで。『銀河ヒッチハイク・ガイド』で何かをやろうとなると、いつだって二律背反する問題がつきまとう。予算をたっぷり使って見所満載のSF巨編を期待する向きもあれば、アメリカの大規模コメディみたいなのじゃなくて、もっと小規模で、もっと洗練されていて、ちょっとイギリス的で、ちょっと皮肉が利いているものを期待する向きもあって、その両方を成立させるなんて不可能だし、ディズニーのニーズを満たすのは難しかった」
1999年4月19日、進展の遅さに苛立ったダグラスは、ディズニーの製作部門の責任者デイヴィッド・ヴォーゲルにファックスを送りつけ、直接対談を申し出た。「映画を作る好機というより映画を作れない問題ばかりが目につくような状況に陥っているように思えます。私の思い過ごしかもしれませんが、仕事を進めようにも返事がいただけず、いつも情報が不足しています。(略)私達の見解が異なっていたとしても、それは話し合いの内容が深まるという意味でむしろ良いことですし、問題の解決に向けて繰り返し続ければいいと思います。私にはよく分からないのですが、話し合いをする代わりに、何の説明もなく一方的な注意書きを送りつけるというのは有効なやり方でしょうか。(略)直接会ってお話しするというのはいかがですか? 以下に私の連絡先を書き添えておきます。これでも私と連絡が取れないとおっしゃるようなら、私としてはあなたは本当にやる気がないと考えざるを得ません」。独特のユーモアをまじえて、ダグラスはたくさんの連絡先の番号を並べている。自宅と携帯の電話番号は勿論、娘のベビーシッターや母親や妹、「きっと伝言を取り次いでくれる」という隣人に加え、行き付けのレストランや、きっと館内放送をかけて呼び出してくれるという地元のスーパーマーケット、セインズベリーの番号まで。効果はあったと見えて、この直後、私とダグラスはトップ会談に向けてLAへと旅立った。機内では、この先に待ち構えているものについて何時間も話し合った。ディズニーは、新しい脚本家の投入を申し出てきた。ロジャー・バーンバウムは、バーバンクにあるディズニーのスタジオで行われたこのミーティングのことを今でもよく憶えている。
「微妙な問題だとは分かっていた。彼のことを心から尊敬していると彼にも分かってほしかった。すごく敬愛しているし、作品に妥協してほしくないとも思っていたが、一方でダグラスはこれまでにも何年もかけて相当な数の草案を書いている訳で、泥沼にハマっているとも思っていた」
ダグラスは厳しい選択を迫られることになった。メッセージは明らかだった。ハリウッド映画にとって何より大切な「機運」が危険なまでに失われつつあり、もし映画化製作をまたしても行き詰まりにさせたくないなら、ダグラスは新しい脚本家を迎え入れるしかなかった。ディズニーとスパイグラスは、十分な配慮と敬意を持って事に当たってくれた。デイヴィッド・ヴォーゲルは、思慮深く、ラビの学者だったこともある人で、ダグラスのことを大聖堂の設計者に例えていた。次の段階に進むために必要なのは、腕のいい石工を雇うこと――新たなイメージを胸に抱く設計者ではなくて、元のコンセプトの素晴らしさを損なうことなくきちんとした土台を築いてくれるような、全然別の技術を持つ職人なのだと。
ベテランの脚本家が雇われ、草稿が書かれ、1999年の秋には完成した。ダグラスとの共同作業はあまり望めなかったものの、出来上がった脚本は決して悪い出来ではなく、それでもなお映画化企画はそこから先に進まなかった。さらに不吉なことに、スタジオ内の政権交替の時期と重なった。ディズニーが映画化権を買い取った時の責任者、デイヴィッド・ヴォーゲルとジョー・ロスは、二人とも去った。新たにブエナ・ビスタ・ピクチャーズの会長に就任したニーナ・ジェイコブソンが、ウォルト・ディズニー・ピクチャーズとして製作される映画の脚本に手を入れ、製作状況を監督する責任者となった。彼女の最大の関心は予算規模であり、この時点では彼女は実際のところ、この題材がディズニーが支持するにふさわしい、一部のマニアの枠に留まらない人気作になるかどうか、確信が持てずにいた。
またしてもやきもきしながら、ダグラスはまたしても自分で新たな草案を書くことに決め、2000年の夏に提出した。ディズニー側はまだ半信半疑だった、というより、以前にもましてこの映画に自分たちが出資すべきかどうか迷っていた。で、彼らの了解の下、脚本が速やかに他のスタジオに送られた。プロジェクトには、強力な支持者が何人かいた。ジェイは、今ではコメディの監督としてA級と看做されていたし、スパイグラスのロジャー・バーンバウムと彼のパートナー、ゲイリー・バーバーは絶大な影響力を持っていた。にもかかわらず、新しい草稿に目を通したすべてのスタジオ、すべてのインディペンデント会社から却下された。じれったい思いをしたこの時期に起こった出来事の中で、思い返してみて何よりもっとも痛切だったのは、ある一本の電話だった。私が家族とコルシカのビーチで過ごしていた時に、ダグラスがサンタバーバラからかけてきた電話だ。彼は私に、(ディズニーを辞めて新設した)レボリューション・スタジオのジョー・ロスからも断られたと告げた。今でも憶えているが、足元が崩れていくような気分で家族のほうに目をやると、妻が私の表情に気付いて何が起こったのかと不安になっているのが見えた。この電話が私にとってとりわけひどい打撃だったのは、ジョーがロジャー・バーンバウムの旧友にして仕事仲間だったことに加え、彼がディズニーのトップだった頃には、『銀河ヒッチハイク・ガイド』をディズニーが引き受けるに際し、水面下で主導的な役割を果たしていたからだった。彼ですら食指を動かさないのなら、他の誰がやりたがるというのだろう。エド・ヴィクターも、当時のことはよく憶えているという。「またしてもブラックホールに落ちたような気分だった。ある時、二人でオフィスの隣にあるバーに行き、揃ってウォッカ・マティーニを注文したら、ダグラスがこう言ったんだ。「僕はこのクソ映画のために人生のキャリアの丸5年を費やした計算になる。二度とごめんだ」」
言うまでもなく、ダグラスは二度と『銀河ヒッチハイク・ガイド』の映画が出来るという望みを持つことができなかった。
2001年春、映画は依然として膠着状態にあり、ジェイ・ローチは次第に、何年もこの映画のために頑張ってきたけれどうまくいかないのは自分がこの仕事に向いていないせいなのではと思い始め、大変残念で不承不承ながら彼は監督を降板することに決め、今後はプロデューサーという立場でのみ関わることにした。スパイグラスもまだあきらめず、次の一手を模索していた。スパイグラスの社長ジョナサン・グリックマンと、当時は映画企画部の幹部としてスパイグラスに所属し、ロジャー・バーンバウムに最初に『銀河ヒッチハイク・ガイド』の話をもちかけたデレク・エヴァンス、この二人は映画化企画のもっとも忠実な支持者だった(註/最終的に映画が完成した時、敬意を込めてジョン・グリックマンはプロデューサー、デレク・エヴァンスは製作総指揮として名前を載せている)。ジョンは、当時を振り返って、現実的に予算の問題と向き合い、最初の直感に立ち戻って、1997年に出会った頃のジェイ・ローチのような新進気鋭の監督を見つけ出す必要があると思ったという。とは言え、失意のどん底のような日々だった。
そして2001年5月、ダグラスが亡くなったという知らせが届いた。たった1週間のうちに、カリフォルニアに飛んでダグラスの葬儀に立ち会い、イングランドに戻って父親の葬儀に立ち会った。感情的にも肉体的にもくたくただった。ダグラスが亡くなってから何週間後とか、何ヶ月後とかに友人たちと会って話すと、ダグラスが映画化に向けて何年も何年も努力し続けたのはさぞ強いストレスだっただろう、という話がいつも出てきた。彼にとって、ほとんど執念に近いものとなっていて、しばらく後に、私は彼の未亡人ジェーン・ベルソンに、もし映画を作ることが可能になったら、あなたは賛成してくれますかと訊いた。彼女は迷わずイエスと答え、ただし一つだけお願いがあると言ったが、これは映画化を最終的に実現させた監督やプロデューサーのチームのことを思えば、とても予言的だった。「『銀河ヒッチハイク・ガイド』が最初に大ブレイクした時のことを知らない世代の、若い監督を選んで。ダグラスが『銀河ヒッチハイク・ガイド』を書いたのは、20代半ばのことだったのよ。今の時代の人、トレンディじゃなくていいけどクールな人を選んでほしい。『銀河ヒッチハイク・ガイド』が初めて世に出た時は、クールだったんだから」
そこで私が再度ロジャー・バーンバウムと話をしたところ、彼は以前と変わらないサポートを申し出て、熱意を見せてくれた。彼はその時の電話のやり取りを今もよく憶えているという。「ダグラスが亡くなってからというもの、私たちは身動きがとれなくなっていた。が、君から電話があって、遺産管理者にまだ映画化への意欲があると分かり、私たちはまた動き出すことになった。私たちはこのプロジェクトを愛していたし、またダグラスへの敬意という意味でも喜んで実現したいと思った」
私はジェイ・ローチにも連絡したが、彼のサポートがこの企画の要になると分かっていたからだった。このプロジェクトは、支持してくれそうな人を残らず味方につける必要があり、殊に『銀河ヒッチハイク・ガイド』のような映画の場合、もし作るチャンスを得られるとしたら、業界の内側にいる人の支持は欠かせない。ジェーン・ベルソンが映画化に積極的だと知ると、ジェイは、ダグラスに対する深い敬愛の念から、喜んで監督職に復帰するつもりだと言った。
とは言え、新しい草稿なしには先に進めないことは私たちみんなが分かっていた。『銀河ヒッチハイク・ガイド』はずっと店晒しの状態だった。新しい脚本家を雇うことは必須であり、幸運なことにジェニファー・ペリーニ(ジェイの製作会社エブリマン・ピクチャーズのパートナー)の紹介でカレイ・カークパトリックを見つけることができた。彼がこの企画とどのように関わっていったかについては、セルフ・インタビューの中で詳しく語っている。彼は、脚本の問題点を見つけ出すことのできる経験を積んだ脚本家としてこの仕事に参加しただけで、彼自身は『銀河ヒッチハイク・ガイド』のファンではなかった(後にファンになったけれど)。彼はダグラスの最後の脚本を出発点とし、私はダグラスのMacのハードディスクに残されていたたくさんの素材、初期の草稿や、脚本の裏設定、問題解決のための注意書きといったものを有効活用できるようにした。かくしてカレイと監督のイスに戻ったジェイの二人が、新しい「テイク」に着手したことで、脚本の基本的な方向が固まっていった。
数ヶ月後、2002年初夏のある朝、ビバリーヒルズにあるロジャー・バーンバウム邸でミーティングが開かれた。暖炉には火がついた薪が、テーブルにはスモークサーモンとベーグルが用意された中で、カレイ・カークパトリックは、彼とジェイの仕事の成果を、ニーナ・ジェイコブソン、ジェイ・ローチ、ジェニファー・ペリーニ、ロジャー・バーンバウム、ジョン・グリックマン、デレク・エヴァンスに売り込んだ。この人たちこそ、映画化実現のための核だった。カレイは、いかにして映画の語りを機能させるかについての概説から売り込みを始めた。彼はまず、小説『宇宙の果てのレストラン』の冒頭に書かれている、『銀河ヒッチハイク・ガイド』の内容を要約した文章をそっくりそのまま朗読した。(『宇宙の果てのレストラン』の第1章が、最後の段落を除いて丸ごと挿入されている)
ニーナは話がよく分かったと褒めた。映画の語りの大枠は決まった。まず地球が壊され、惑星を作るという伝説の惑星、マグラシアの話になる。映画化に際して新規に追加された事柄の大半は、マグラシアをストーリーの中に無理なく登場させるためのものであり、このためにダグラスは、「価値観転換銃」とか「大きな白いハンカチの到来」を説くイカれた宣教師、ハーマ・カヴーラといった、新しい装置やキャラクターを作り出した。このミーティングで決められたもう一つの大きな要素は、この映画の主人公はあくまでアーサー・デントであり、観客は彼の目を通して銀河宇宙を見る、ということだった。そんなの当たり前じゃないかと思うなかれ、何年もの間に書かれた数多くの草稿の中には、ゼイフォードを主人公にしようとしたものや、何とヴォゴン人を話の中心にしようとしたものだってあったのだ。が、ダグラス以上に独創性に富んでいるというところを示す必要はないと考えたのか、カレイは元々の語りの構造をそのまま活かす道を選んだ。彼はイギリス的なユーモアが持つ、皮肉っぽいところや、センチメンタルになるのを避けようとするところなどをきちんと理解しているだけでなく、ハリウッド的な構造上の感性もちゃんと把握していた。
ついに正しい軌道に乗ったという感触を得た。が、ようやく映画化が再燃したと思ったら、またしてもつまずくことに。続く数週間、ディズニーは上層部だけの内輪の話し合いをして、既に映画化権取得やら数々の草稿やらに結構な金をつぎ込んでいたにもかかわらず、カレイにリライト代を支払うのをしぶったため、すべてが空中分解しかねない事態となった。が、ロジャー・バーンバウムとゲイリー・バーバーがプロジェクトを救ってくれた。スパイグラスがリライト代を支払うことで、この映画は何としても製作するぞという意思表明をしてくれたのだ。スパイグラスのジョン・グリックマンは、この決定的なエピソードについてこう語っている。
「ディズニーとのミーティングの席上で、ニーナ・ジェイコブソンが、今では映画の支持者の一人だが、当時はまだ企画に疑いの目を向けていて、こう言ったんだ。「カレイにお金を払う気はありませんからね」。当時のカレイはギャラの高い脚本家だった。『チキンラン』が大ヒットしたばかりだったし、『ジャイアント・ピーチ』も手掛けていて、関係者一同、これでまたしても『銀河ヒッチハイク・ガイド』の映画化企画が流れてしまうんじゃないかと危機感を抱いた。この時、どうしてスパイグラスがこの作品に固執したのか、その理由は、私たちが題材自体をすごく愛していたという以外には考えられない。私たちはもう6年間もこの作品と取り組んでいて、私たちにとってダグラスはもはや他人じゃないという気持ちにもなっていたのかなと思う。私たちの通常のビジネスの進め方とは、全然違っていた。それでも、私たちはカレイにリライトを依頼するという選択をしたんだ。とてつもなくリスキーな決断だった。「カレイが何とかしてくれたらいいな」という思いだけで、草稿代に金を払ったんだから。実際、カレイは、リライトを指示するジェイと一緒に仕事しながら、実現に向けて着手してくれた訳だが」
ハリウッドでも有数のベテラン・エージェント、ボブ・ブックマンは、『銀河ヒッチハイク・ガイド』の映画化に向けてこんなにも多くの人が関わっていることについて、このように語っている。「映画は、大勢の人間が協力して作る媒体だ。作り始める前の過程と、実際に作っていく過程の両方でね。それにしても、こんなにも長期間に亘って、こんなにも大勢の人間、君やエドやジェイやロジャーだけでなく、君が後から振り返って「この人がいなかったら映画は作れなかっただろう」と思う人が何人もいて、なおかつ何が凄いって、その人たちが誰一人欠けることなく今なお企画の立ち上げ地点に揃っていることだ」
結果として、2002年の春の終わり頃には、カレイはたまにスパイグラスや私から意見を募りつつ、ジェイと一緒に仕事をして、脚本を書き始めていた。カレイは、何か問題にぶつかるたび、オリジナルのラジオドラマや、小説や、The Salmon of Doubt や、私がダグラスのハードディスクから引っ張り出したデータなどに立ち戻って、ダグラスの頭の中を探ろうとした。その年のクリスマスの直前、彼は脚本を脱稿した。私が夜遅くに帰宅すると、電子メールが一通届いていた。座って一読するなり、うなじの毛が逆立った。これこそ『銀河ヒッチハイク・ガイド』の精神に忠実であり、かつ、原作を離れて映画に必要な「始まり」「中間」「終わり」の構造を持った脚本だった。
エド・ヴィクターは、マイケル・ネスミスとの会話の中で、映画を作る上でちゃんとした脚本を手に入れることがどれほど大切かという話をしたという。ネスミスいわく、「もし君が映画のプロデューサーで、映画化権も所有しているとしたら、あとは映画会社の重役を暗い洞窟の入り口まで連れて行って、「この洞窟の奥には黄金の象があります。私に100万ドルをください。そうすれば、黄金の象はあなたのものです」と言ったとする。でも、映画会社の重役は、君が洞窟の中に入っていけるよう100万ドルを渡したいとは思わない。でも、(ネスミスは間を空けてから続けた)脚本は懐中電灯であり、それを使えば、君は洞窟の中を照らして、黄金の象がキラリと光るのを見ることができる。そうなったら映画会社の重役は君に100万ドルを渡して事業に参加し、君が黄金の象を手に入れるか見守るだろう」。これはとてもよく出来た例えだと思う。映画化したいのなら、まずは『銀河ヒッチハイク・ガイド』の映画用脚本を用意すべきだったんだ。本やラジオでは成功しているから大丈夫です、というんじゃなくてね」我々はようやく懐中電灯を手に入れた訳だ。
新しい年になって、ジェイは、映画化企画が加速する一方で、他の映画の仕事ものしかかるようになり、最終的に監督業から手を引くことに決め、プロデューサーとして留まることになった。かくして我々は新しい監督が必要となった。残念なことではあったが、これまでと違って我々には脚本がある。何年も何年も映画を作ろうと努力してきて、これまでは同じところをぐるぐる回っていた。興味を持ってくれる監督はいるが、脚本がない。でも今は、ハリウッド式の流通網で脚本は街中に運ばれていた。ジェイは、『マルコヴィッチの穴』や『アダプテーション』の監督で、以前はミュージック・ビデオの世界でトップクラスだったスパイク・ジョーンズと知り合いで、彼に脚本を送った。スパイクは、これまでにも独特の素材でオリジナルな作品を送り出していたから、この映画の監督としてもふさわしいのではないか、というのが大方の感想だった。彼は『銀河ヒッチハイク・ガイド』のファンで、脚本を読んで気に入ってくれたが、生憎、彼には他の仕事が入っていた。とは言え、彼は我々が映画化を進める上で決定的な役割を果たしてくれた。ハマー&トングスの、ガース・ジェニングスとニック・ゴールドスミスを紹介してくれたのだ。非常に独創的な作品を作り上げることで注目を集めているミュージック・ビデオやCM製作のパートナーで、それまで手掛けたバンドやパフォーマーには、R.E.M.やブラー、ファットボーイ・スリム、アリ・Gなどがあった。
当初、ハマー&トングスはエージェントのフランク・ワリガーに、脚本を送ることすら断っていた。自分たちで作りたい映画の企画を進めているところだったのに加え、監視の目を光らせたであろうダグラス抜きで作られたハリウッド産『銀河ヒッチハイク・ガイド』の脚本は、彼ら二人がもっとも大切にしたいところを台無しにしているにちがいないと思ったのだ。だが、ここでフランクもまた、映画化を進める上でささやかながらも決定的な役割を果たしてくれた。彼は強引に脚本を送りつけたのだ。職場のデスクに配達された脚本は、2週間に亘って放置され、ようやくニックが自宅に持って帰った。翌日、何気ない口調で彼はガースに読んでみたらとそっと勧めた。ガースは自宅に持ち帰り、トイレでほとんど一気読みして、トイレから出るなり妻に向かってこの脚本は本当に「全然悪くない」と言った。二人は、カレイがダグラスの資質をいかに上手に活かしたかを見て取ることができた。
ニックとガースは、ロンドンの私が住むエリアの近くにいたので、私が最初に彼らと会うことになった。ビバリーヒルズで暖炉のそばに集ってから約1年後のある天気のよい春の朝、私は改修した運河のボートに乗っている彼らを見つけた。皮肉なことに、イズリントンにあるダグラスの家から歩いて10分程の場所だった。映画化のために飛行機で何往復もし、家族を連れてカリフォルニアに引っ越しまでしたというのに、肝心のチームはイギリス、それもダグラスの自宅のすぐ近所にいたことが分かったのだから。チョコレート・ビスケットと、すごく人懐っこい黒犬のマック、そして何よりこのボート全体がアップル・コンピュータへのオマージュとなっていた。ファンならみんな知っていることだが、ダグラスは大のアップル信奉者だった(実際、「アップル・マスター」にもなっていた)が、もしニックとガースがコンピュータ世界の住人だったとしたら、私はごにょごにょ言い訳してその場から退散していただろう。でも、彼らはそうではなかったし、私も逃げ出さなかった。最初のミーティングの段階で、ニックとガースには、最終的に『銀河ヒッチハイク・ガイド』の舵取りをするだけの理解とヴィジョンと笑いのセンスがあることが、私にははっきりと分かった。
かなり初期のミーティングで、笑いのセンスと細部へのものすごいこだわりという、ニックとガースの人となりがよく分かる出来事があった。ジェイと、スパイグラスと、ニーナ・ジェイコブソン率いるディズニーのチームによるビデオ会議が開かれた。ロスの会議室とロンドンの会議室を繋いで行われたのだが、ロンドン側にいるニックとガースは、金の縁取りがついた古風な赤い劇場用のカーテンを用意し、カメラの前に取り付けたのだ。ロスのメンバーが会議室に到着し、スクリーンを覗いてみると、よくある会議室の大きな机といった普通の光景の代わりに、ぴたりと閉じられたカーテンがあった。我々のほうで準備が整うと、ガースは、あらかじめカーテンの紐をつけておいた自分のイスを後方にずらしていき、カーテンが開くと、そこには小さなボードに書かれた「Don't Panic」の文字が。このカーテンの一件くらい、ニックとガースの遊び心や、新規なものと古き良きものとの融合ぶりや、ガジェット好きをよく示してくれるものはないだろう。
このミーティングの席上で、ニーナは、映画化するからにはきっちりやろうと明言した。彼女は、『銀河ヒッチハイク・ガイド』を台無しにしたエグゼクティブ・プロデューサーとして歴史に名を残すつもりはなかった。ダグラスの世界観に基づいて、ただしディズニー作品として新しい観客にもついていけるものを、と。
2003年の夏中、ハマー&トングスはデザインとストーリーと予算に取っ組み合っていた。映画化企画を最終的に製作段階にもっていくために肝心なのは、ディズニーが安心できる予算の枠内で仕事を進められるアプローチ方法を見つけることだ。これは、ニックとガースにとっては楽しい挑戦だった。彼らにしてみれば、創意工夫で問題を解決することこそ名誉の勲章なのだ。秋になると、ロジャー・バーンバウムは、今や準備は整ったと決断を下した。「脚本があり、監督がいて、ヴィジョンがあって、予算もある。今こそディズニー側にやる準備ができているかを問うべき時だ」。契約の文言では、スパイグラスがカレイの脚本代を支払った時からロジャーとゲイリーが企画の総責任者であり、ディズニーには財政および配給のパートナーになることを最初に拒否する権限があった(訳者註/つまり、スパイグラス版『銀河ヒッチハイク・ガイド』に関して、ディズニーは他のハリウッドのスタジオに先んじて最初にオファーを受ける権利がある、という意味か?)。ニックとガースはロスに飛び、ニーナにプレゼンテーションをした。この時点では、ディズニーが本当に参加するかどうかはあらゆる意味で不明であり、ジェイいわく、パシフィック・コースト・ロードを運転中にニーナから電話はあったけれど、いくつか保留にしたい点があるようで完全には納得していないような感触だった。
9月17日、ニーナはミーティングを開き、ジェイが保証した通り、ニックとガースのエネルギーとヴィジョンはニーナを圧倒した。最後の段階は、ニーナの直近の上司でウォルト・ディズニー・スタジオの会長のディック・クックとのミーティングだった。心からの尊敬を集めるエグゼクティブのディックは、説得しなければならない最後の人物だったが、やきもきする数日間を過ごした後、2003年9月25日(木)のLA時間の午後4時に、ニックとガース、スパイグラスのチーム、ジェイ、そしてニーナが彼のオフィスに集合した。ガースは、"very good in the room"(場を席巻した、くらいの意味?)という素晴らしいハリウッド風のフレーズそのもので、プレゼンテーションを披露した。ディックは熱心に聴き、穏やかな口調で、来年の夏にはこの映画が用意できるのかなと質問した。ガースはこの言葉を「技術的に」2005年の夏までに間に合わせられるのかという意味だと受け取り、単純に「はい、可能です」と答えた。ディックとニーナは、一言か二言、二人だけで言葉を交わした。みんながミーティングの会場から立ち去ろうとし、ガースがプレゼンテーションで使用したデザインやストーリーのボードを集めていた時、ディックがガースに向かって、何か必要なものがあったら連絡しなさいと言葉をかけた。ニーナは、部屋を出てエレベーターに乗ろうと歩いているみんなを呼び止め、映画化が正式に決まったと告げた。ロジャーやゲイリーやジェイといったハリウッドの経験豊富なプレイヤーたちでさえ、キャストがまったく決まっていない段階でゴーサインを貰うことは稀であり、エレベーターのドアが閉まった途端、全員が文字通り喜びの雄叫びを上げた。ロンドン時間の午前1時、ニックは私に電話をかけてきて、ただ一言、「映画を作るよ」。電話を替わったジェイはほとんど泣かんばかりだった。長年に亘ってダグラスと仕事をしてきた者たち全員にとって、本当にほろ苦い瞬間だった。この言葉を彼はどれほど待ち望んでいたことだろう。ミーティングの席上で、ハリウッドのお偉方から、「よし、『銀河ヒッチハイク・ガイド』の映画を作ろう」と言ってもらえることを、どれほど待ち望んでいたことだろうか。
映画化にゴーサインと出すと共に、ディズニーは二つの大きな決断を下した。まず、この映画をディズニーの系列子会社で製作すること。ニーナ・ジェイコブソンはニックとガースを信頼し、かつ彼らが手掛けた素材にも感激して、この映画を夏の大作「実写」作品として製作過程にあるディズニー作品の中心に据えることにした。二つ目の決断は、恐らくはさらに重要なものだった。大胆にも、映画初監督と初プロデューサーに大予算映画のクリエイティブ面での全決定を委ねることにしたのだ。ニーナはガースとニックに、これまで彼らがミュージック・クリップやCMで一緒に仕事をしてきたスタッフたちを製作チームとして雇うことを承認した。撮影監督のイゴール・ジャデュー=リロ、美術監督のジョエル・コリンズ、第二班監督のドミニク・レオン、衣装デザインのサミー・シェルドン、彼らはみんな、ハマー&トングス家の主要メンバーだった。実際のところ、ニーナが自信を持ってガースとニックに「さあ、やってごらん」と言えたのは、二人が長年一緒に働いていた有能なクリエイティブ集団を集めることができたからだった。スパイグラスはプロデューサーとして映画に関わり続け、2003年の晩秋には映画はプリプロダクションの段階に入り、キャスト選びやスケジュール調整や予算管理や撮影用脚本の準備などが行われた。
主要キャストがどのようにして集められたかについては、この後のインタビューでキャストたち自身の言葉で語ってもらうが、ただ、それらのインタビューの中で、彼らがニックとガースと一緒に仕事をした体験について思い起こした際には、同じ話題――あの二人が仕事に向き合う時には些細なことにも多大な注意を向けるという話が何度も何度も登場した。製作の最初の段階から、ガースとニックは『銀河ヒッチハイク・ガイド』は完全なCG世界にすべきでないと確信していた。彼らのこれまでの仕事をざっと眺めてみても、彼らが人形や小道具を本物のセットの中に置いて撮影するのを愛しているのがよく分かる。勿論、『銀河ヒッチハイク・ガイド』のような映画にはCGを使った派手な見せ場も必要になるだろうが、結局のところ、俳優たちが緑や青の布に覆われたサウンド・ステージ(映画の撮影所にある、防音設備が整った巨大な建物のこと)で棒にくっつけられたテニスボールを相手に演技をする時間はほとんどなかった。ロンドンのカムデンにあるジム・ヘンソン工房と契約して、俳優たちの芝居の相手ができるよう、ヴォゴン人をはじめ何十もの本物の「クリーチャー」が製作された。エルストリーやフロッグモアやシェパートンのスタジオや、ウェールズの北ハートフォードシャーやロンドン中心部など、16週間もの撮影期間中に、製作デザインのチームは、キャストたちが実際に住めそうな、「本物っぽい」素敵な世界を作り上げた。
恐らく、ファンにとってもキャストにとっても、「至聖の場所」と言えば〈黄金の心〉号のセットだろう。かの有名なエルストリーのジョージ・ルーカス・サウンド・ステージに、宇宙船の内装が完璧に作り上げられた。本当に美しかった。ピカピカの白い曲線、中央に無限不可能性駆動のボタンがついた見事な操縦パネル、台所に加えて汎銀河ウガイ薬バクダンを作るためのバーカウンターまであった。そして2004年5月11日、ダグラスの三回目の命日に合わせて、〈黄金の心〉号のセットに全キャストと全スタッフが集合してダグラスへの感謝をこめて一分間の黙祷を捧げた。ジェイ・ローチはその日の夜遅くにロスで一人黙祷することになったが、振り返ってこう語る。「すべてはダグラスと共に始まったし、僕たちみんなにとって、ラジオドラマや小説がいかに素晴らしいかを伝えることが肝要だった。ダグラスのスピリッツが私たちを一つにまとめたのだし、彼や彼のファンを裏切るような真似だけはしたくないと思っていた。今回、新しい方向を探る必要もあったけれど、基本的な部分はこれまでと同じで、世界を見る目を変わるような、刺激的で気持ちを高揚させてくれる多角的な視点は健在だし、そういったエッセンスを抜きにして巧くいきっこないことを僕ら全員がよく分かっていて、ガースとニックに出会った時も、彼らなら僕以上にこのエッセンスを巧く活かすことができるだろうと本当に思ったんだ」
ロジャー・バーンバウムも「私のキャリアの中でも最大級の冒険の一つになった。映画化が軌道に乗るまでにすごく時間がかかっただけに、ようやく始動した時の満足感といったらもう……みんながこのプロジェクトのために一生懸命になり、少しでも良いものを作ろうと頑張った。ダグラスのスピリッツのためにね」
映画製作のための長い期間の中でも、心に強く焼き付く瞬間というものがあるものだ。私にとって、そんな瞬間の一つが、南ウェールズのトレデガー近郊にある、使用されなくなった採石場(イギリスのSFと採石場には、長くて栄誉ある歴史が今も息づいている)で撮影していた時のことで、その日は一日中、採石場に水平線上に土砂降りの雨が降ったり止んだりするのに合わせて、撮影用ヴァンを出たり入ったりしていた。ヘンソン工房のプロデューサーが、頭の先からつま先まで、友人から借りたという北極探検用の服にすっぽり覆われている一方、映画のスタッフたちは、どんなに寒かろうと自分のシャツとティンバーランドで驚異的な耐久力を示していた。撮影が可能な程度に日が射す時間は、ごくわずかだった。が、夕方の優しい光の中で、一人のすごく小柄な男性が採石場の中央に立ち、風に向かって巨大な白い頭(訳者註/マーヴィンの頭の部分のことか?)をじっと持っていようとしているのが目に入った。監督は、底知れぬエネルギーと熱意を発揮して、次の日に三人の俳優が使う予定の装置のチェックをしていた。小さいボタンを押すと、ものすごいスピードでパドルが出てきて彼の鼻先で止まった。その一方、パジャマの上にドレッシングガウンを羽織って首からタオルを下げた男が、銀河帝国大統領と暇つぶししていた。遠くでは、フェラーリっぽい赤い色をした宇宙船が地面に激突して5メートルの溝を作り、船尾を太陽に晒していた。
2004年7月1日、惑星ヴォグスフィアの撮影をしたが、この時もまた、長年の努力の末、実際に『銀河ヒッチハイク・ガイド』の映画を作っているんだよなあ、と、誇りと興奮がわき上がって来た。これこそダグラスが強く望んでいたことだったんだよなあ、でも彼はここにはいないからこの感動を他のみんなと分かち合うことはできないよなあ、と、いつものことながら誇りは深い悲しみとないまぜになった。
『銀河ヒッチハイク・ガイド』のプリプロダクションの段階でも撮影中の段階でも、それこそ何十回となく私が質問されたのは、「ダグラスはトラール星の貪食獣バグブラッターを入れた箱のデザインを気に入ると思う?」「ハーマ・カヴーラの神殿の入り口を高さ30フィートの彼の鼻の形にしたら、彼はおもしろがってくれるかな?」といったことだった。私の返事はいつも大体同じだった――箱の種類についても鼻についても(私としてはどちらの答えも「Yes」じゃないかと思うものの)何とも言えないが、でも一つだけ私にも分かることがあるとしたら、この映画の製作に関わっているすべての人が細部にまで情熱と注意を向け、混じりっけなしの創造的な活力に満ちていることを、彼ならきっと喜んでいるよ。そして、採石場でのあの光景、ウォーウィック・デイビスのスタンドイン、ジェラルド・スタッドンが鬱病ロボットマーヴィンの次の撮影に向けて立ち位置を調整し、アーサー・デントなマーティン・フリーマンとゼイフォード・ビーブルブロックスなサム・ロックウェルはかなりキツい状況の中でそれぞれに準備を整え、ガース・ジェニングスは小道具の性能を確認し、スタッフたちは忍耐強くすしづめ状態の車から出たり入ったりしている、そのすべての様子を、ダグラスはきっと誇らしく思うんじゃないかな。ロビー・スタンプ
ロンドン、2004年12月