以下のインタビューは、2004年、映画『銀河ヒッチハイク・ガイド』の撮影の合間に、製作総指揮のロビー・スタンプが行ったものである。2005年の映画公開と同時期に発売された、小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』の「Film Tie-in Edition」に収録された。
ただし、訳したのは素人の私であるので、少なからぬ誤訳を含んでいる可能性が高い。そのため、この訳はあくまで参考程度にとどめて、全貌をきちんと知りたい方は、必ずオリジナルにあたってくださるようお願いする。
マーティン・フリーマン |
モス・デフ |
サム・ロックウェル |
ズーイー・デシャネル |
ビル・ナイ |
マーティン・フリーマン(アーサー・デント)
映画化の企画を持ち込まれる前から、『銀河ヒッチハイク・ガイド』はご存知でしたか?
『銀河ヒッチハイク・ガイド』のことを耳にしたことはあった。僕の育った家では、ちょっとしたお気に入り作品だったから。でも、僕自身ではなく、僕の兄や義父がファンだったんだ。シリーズが始まった時には僕はまだ子どもで、ただ、テレビで放送されたのを見た記憶はあるよ。家に本もあったので、ところどころ拾い読みしたことも憶えているけれど、最初から最後までちゃんと読んではいなかった――でも、この作品のことをものすごく意識して育ったことは確かだね。
映画化の企画とかかわるようになった経緯は?
まず脚本が送られてきて、それを読んで、自分向きじゃないと思い、ガースとニックとドム(製作会社ハマー&トングスのメンバー3人)に会いに行った。自分がやるなんてありえないと思ってたから、ガールフレンドのアマンダ(女優アマンダ・アビントン。現在ではフリーマンと結婚し、二人の子どもに恵まれている)を駐車禁止の場所で待たせてたんだ。だって、自分ではせいぜい15分か20分くらいで戻るつもりだったんだから。でも、ニックと話をしただけで既に15分か20分くらい過ぎてしまい、それからやっとガースに会ったら、いかにもガースらしく、ものすごく大歓迎してくれて、さらに20分か25分くらい話しこんじゃって、ようやく脚本読みに入ったんだ。その間ずっと、「くそっ、絶対アマンダに殺される」と思ってて、だから部屋に入って読み合わせをやっていても、「とっととここから出なくちゃ、こんなことやってる場合じゃないだろ、どうせこの仕事は取れやしないんだから」と考えていた。
自分には向いていないと思った理由は?
僕の記憶にあったのは、テレビ・シリーズだったから。自分はサイモン・ジョーンズとは全然似ていない役者だし、僕の頭の中ではサイモン・ジョーンズこそがアーサー・デントだったんだ。僕だけでなく、多くの人がそう思ってたんじゃないかな――サイモン・ジョーンズがダメなら、彼によく似た別の人を、って。でもって、僕は彼とは似ていない。それに、ガースたちは僕のことを気に入ってくれたようだったけれど、彼らは他の人たちにも会わなきゃいけないだろうし、ネームバリューのない僕を主役に起用するのは簡単じゃないだろう。「ハリウッドのお偉いさんが、僕を映画の主役にすることに同意するはずないじゃないか」と、ずっと思っていた。でも、あれやこれやの議論の末に、いろんな人が入れ替わり立ち替わりやってきて、もう一度ズーイーと一緒にスクリーン・テストをやることになって、それで決まったんだ。
あなたご自身は自分には向いていないと直感されたようですが、私はその逆でした。最初の脚本読みの時点で、あなたしかいないと思いました。『銀河ヒッチハイク・ガイド』のエッセンスをすくい上げるためにも、20年前の焼き直しをすることだけは避けたいと考えていましたから。
心のどこかで、みなさんはきっと焼き直しをするつもりなんだろうな、と思っていたのと、もしそうしないのなら、前のヴァージョンとは極端に違う、イマドキの超ヒップでトレンディでクールな作品にしようとして、ストリート系とかアーバン系を狙って19歳の子供にアーサー・デントをやらせるんじゃないかと思って、「どちらにしても自分向きじゃない」と考えたんだ。だから、一番最初の読み合わせの時も、頭にあったのは「早くここから出なくちゃ。アマンダを駐車禁止スペースで待たせているのに」ということばかり。ガースも、僕の落ち着きのなさには気付いていたと思う。終始なごやかに、フレンドリーに話はしたけれど、内心では「こいつはまったくその気がなさそうだな。興味がないんだろう」と思ってたにちがいない。彼は、僕が怒られると知ってたし、実際僕は怒られたんだ! ま、結局すべては丸くおさまったんだけどね。
怒られたって、誰に?
アマンダに、だよ。15分くらいで戻るって言ったじゃないの、って。でも、僕にやらせてみよう、と決断してくれたことにはすごく感謝している。だって、映画版というからには、僕以外にも大勢の候補がいたはずだからね。
役作りのきっかけについて教えてください。「自分はサイモン・ジョーンズじゃないけど、アーサー・デント役を任された。みんなが知っている有名なキャラクターなのに」というところからスタートして、どのように役を自分のものにしていったのですか?
オーディションでやった通りにしただけだよ。あれが気に入ったから、僕にやらせてみることにしたんだろうし。アーサー・デントという役の先入観を捨てて、実際の人として演じることに専念しただけ。明るいトーンのコメディだから、ちょっとした誇張は必要だけど、現実味を与えることは大切なことだと思うし、それを放り出すようなことはしたくなかった。そのためには、『銀河ヒッチハイク・ガイド』のことなんか何も知らない、という気持ちで取り組まなくちゃならない。20年前のものを今っぽく化粧直しするだけなんて、僕にとってもみんなにとっても退屈なだけだよね? もしアーサーが、アンクル・ブルガリア(The Wombles というイギリスの子供向け人形アニメーションのキャラクター)みたいなドレッシング・ガウンを着た、エドワード朝で凝り固まったような人間だったら、サムやモスやズーイーみたいに、現代的でイマドキな感性の人たちが演じる、アメリカ人ではないけれどアメリカのアクセントで話す宇宙人たちとは差がありすぎるし、ヒップなアメリカ人とちょっとダサいイギリス人という組み合わせの映画なら、これまでにもたくさん作られてきた。そのドレッシング・ガウンだけどね。この作品にはどうしてもおさえておかなくちゃいけないポイントはいくつかあって、僕の衣装もその一つ。だから僕だって、「トラックスーツか、スーツを着られないの?」と言うつもりはなかった。アーサーなら、ドレッシング・ガウンにスリッパにパジャマであるべきだもの。どういう種類のものを選ぶかという問題はあるけど、でも正直言って僕としてはそんなに異論はなかったんだ。サミーはいいデザイナーで、欲しいものは心得ていたし、ガースはガースで、見た目にしても音にしてもすべてを自分で細かくチェックしていた。彼と一緒に仕事をしていたのは素晴らしい人たちばかりだったから、僕の仕事はただ現場に行って、言われた通り演じるだけで良かった。これは気に入らないなと思うものを与えられても、ノーと言わなかったとは思うけれど、アーサーがイマドキの人間で、どこから見てもはなからギャグとしか思えないような格好をさせられない限りは、僕としては何でも良かったんだ。メイクや髪型については、マザコン男みたいにはしてほしくなかった。それもまた、おとなしいイギリス男の典型例の一つで、つまらないからね。そういうキャラクターは、大抵、髪をぺったりと撫で付けて、年寄りくさい母親に選んでもらったような服を着ているけれど、そうじゃなくてもっと普通の世界で生きるごく普通の人の格好であってくれればそれで十分だった。そうあってこそ、僕はごく普通の人を演じることができる。カリカチュアを演じるのはごめんだ。
映画の冒頭で、アーサーはブルトーザーの前に寝転がります。根性がなければ、できませんよね。
そうだね、彼は、あの場で横になるにはものすごく勇気をふりしぼる必要があったと思うよ。彼にとっては、簡単にできることじゃなかった。誰にとってもブルトーザーの前に横になるのは簡単なことじゃないけど、でも彼はやってのけた。おかしなことを言うようだけれど、僕としては実はまだ自分が本当にちゃんとアーサーをやれたのかどうか、確信が持てずにいるんだ。こればかりは、映画が公開されてみないことには誰にも分からない。製作しているときは直感的にこれは絶対名作になる、と思われていたのに、フタをあけてみたら悲惨なことになっていた、という映画は山のようにあるからね。自分では、この映画はそういうことにはならないだろうと思っているし、良く出来た作品だと思うし、ちゃんと納得してもらえるアーサー・デントになったと思っているけれど、今は座して結果を待つしかない。
責任を感じますか?
正直に言って、僕が『銀河ヒッチハイク・ガイド』のオタクでないから不安だ、と心配するのは他の人に任せている。この作品が多くの人にすごく大切にされていることは十分承知しているつもりだけれど、実際に演じるのはその人たちじゃなくて僕だからね。僕が『銀河ヒッチハイク・ガイド』のコアなファンじゃないからって、その人たちに責任を感じることはできないよ。僕の普段の生活の中でもっと意味のある人、たとえばジョン・レノンを演じるとなったら話は別だけど。あるいはイエス・キリストみたいに、誰もがすごくよく知っていて、自分のほうがもっと詳しいとか、自分ならこう解釈する、と思っているような人ならね。でも、これは小説やラジオ・ドラマを基にした映画版の脚本の解釈であって、それに僕は他の人と一緒にオーディションを受けて演じることになったんだから。あとは、僕が巧くやれたかどうかの問題。自分としてはベストを尽くしたつもりだよ。
トリリアンとの関係はいかがでしたか? 我々としては、彼女のキャラクターを膨らませるのに苦心したのですが。
間違いなく、良い方向に変更されていたと思う。ハリウッドっぽく味付けされたようには見えなかった。それでいて、原作のエッセンスはちゃんと残されていたしね。はっきり言って、それが失われてしまったら、良さは半減してしまったと思うよ。
イズリントンのフラットで開かれたパーティで、アーサーはトリリアンと初めて出会います。この時、二人の間に何が起こったと思いますか?
アーサーは実はかなりのインテリで、僕が思うにアーサーが彼女に目をとめたのは――彼女が(仮装パーティとは言え)老人の格好をすることをためらわなかったことと、そんな仮装をしていてもなお彼女が美しかったからじゃないかな。その上、彼女は科学者で、しかもジョークや引用を次々に口にする。あのパーティ会場でこんな人と出会えるとは、彼は思ってもみなかったにちがいない。彼は社交的な人間という訳じゃない。他の人をバカだと言える立場にはないんだ。どうして彼にそんなことが分かる? だって、誰とも話していないんだから。彼は絵に描いたような抑制型の人間で、安全な隅っこに陣取って他の人を眺めているだけ、内気すぎて自分の考えが正しいかどうか確認するためにそこから出て行く度胸は自分にはないと分かっている。でも、一人の女性が彼に興味を抱いて近づいてきて、しかもその女性は何とまあダーウィンの仮装をしていて、おまけに美人でおもしろいときたら、もうこれ以上望むべくもないよね?
この時、彼は本を読んでいます。
これはもう絶対にそうあるべきなんだけど、彼女のほうから彼に話しかけるために部屋を横切ってやってくるんだ。彼も彼女を見てはいるけれど、実際に歩いて近づいてくるのは彼女のほう。という訳で、ヘンな男がやってきて彼女を連れ去ってしまうまで、すべてはうまくいっていた。後に、彼女とは<黄金の心>号で再会することになり、最初は彼女を失ってしまったと純粋に悲しんでいたけれど、実は彼女はゼイフォードと地球を脱出していたことを知って、本気の嫉妬を感じるようになる。彼女が自分以外の誰かと駆け落ちした、というだけじゃなく、その誰かさんはアーサーとは正反対で、地球人ですらない上に、アーサーにはただのバカにしか見えない男だ。アーサーは、ああいうふうにはなりたくないと思ってはいるが、それでいて心のどこかでああいうふうになりたいとも思っている。バカっぽくなりたいと思ってる訳じゃないけれど、もうちょっとクールで、もうちょっと女性に対して自信を持って振る舞えたらいいなと思っていて、でもアーサーは頭がいいから、ゼイフォードが実は女性をモノのように扱っていることもちゃんと分かっていて、自分は絶対にそうしないと思ってもいる。でも、大好きな彼女とはうまくいかず、何もかもダメになる。世界が彼に対して牙をむき、自分の惑星は文字通り失われ、好きになった女の子はとんでもないバカに奪われ、彼女は彼にろくに関心も示さなくなる。こういう状況って、実は一番キツいんじゃないかな。好きになった相手が、自分に親切にしてくれるし、好意的に振る舞ってもくれるけれど、でも愛とか憎しみみたいな強い感情を向けてくれることもない、というのは。何もかもすごくどっちつかずな感じで、アーサーはどうしていいのか分からない。彼は自分の気持ちが一線を越えていると分かっていて、トリリアンと一緒にさまざまな困難を乗り越えていくうち、彼女にびっくりさせられたり、彼女に申し訳ないと思ったり、いろいろあって最終的に二人はお互いを理解するようになる。で、最後には彼はちょっぴりヒーローになって、彼は彼女の素晴らしさを知るし、彼女は彼女で本当に彼の良さに気付く。
映画用に作り直していく過程で良かったことの一つが、アーサーを巨大な剣を手にした宇宙のヒーローみたいにすることなく、キャラクターを深化させることができた点でした。
まさにその通り。大切なのは、仲間たちの間でアーサーがだんだんとリーダーになっていくことだと思う。アーサーは、ハリウッドの基準からすれば「行動する男」ではないかもしれないけれど、アーサーの基準では彼は「行動する男」になっていくし、本当の自分の姿に近づいてもいく。映画が進むにつれ、アーサーはより自分らしくなり、発言力を増し、自分のやっていることに自信が持てるようになる。ある時点で、彼は気が付くんじゃないかな。「自分は家も何もかも失ってしまったんだ、だから今の現状を受け入れて生きて行くしかない、既に起こってしまったことに対して、何ごとも起こらなかったようなふりをして、家に帰りたいと願っていても仕方がない」って。で、彼は徐々に自分を立て直し、彼なりにどうにか宇宙で生きていけるようになる。彼は、地球上でもうまく生きていけなかったんだけどね。作品全体としては、稀な映画になっていると思うよ。宇宙で、本当にバカバカしいものと本当の自分の姿の両方を発見する映画なんて、そう多くない。この映画は、宇宙の大冒険活劇とは違う。本当にバカなエイリアンと、底抜けにアホなクリーチャーはいっぱい出てくるけど。あ、でも、ジョン・マルコヴィッチの演じたエイリアンは別だよ。ハーマ・カヴーラは本気で恐ろしいが、でもそういうのはあんまりいない。ヴォゴン人はバカだし。だって、やってることが無茶苦茶だろ、詩を読んで人を殺そうってんだから!
宇宙における官僚主義とか。多くは地球で起こっていることと同じだけど、ただちょっと規模が大きい。
そうなんだ。巧いこと考えるよね。すごく人間的なエイリアンの話なんだ。
人間的なエイリアンと言えば、あなたとフォードの関係について教えてください。
フォードは僕のガイドだ。僕自身の『銀河ヒッチハイク・ガイド』だね。と言っても、僕はヒッチハイカーじゃなくて人質みたいなものだけど。アーサーは、フォードがいなければどこにも行けなかった。ずっと地球にいたままだ。実際には死んじゃってただろうけど、でもフォードはアーサーに借りがあると思ってたから、アーサーを地球から連れ出し、宇宙で生き延びる術を教える。このおかしな生き物は何か、とか、この惑星ではどんなことが起こるか、とか、あの宇宙船では何が起こるか、とか。フォードは、ちゃんとアーサーの面倒をみてあげるんだ。
フォードは、アーサーに愛情をかけていますよね?
フォードなりの愛情を、だけどね。普通の人間の愛情ほどには分かりやすくない。ちょっと変わってて、ある意味クールとも言えるかな。アーサーは、ちょっと変わってて、そんなに社交性の強い愛に溢れた人間という訳ではないから。そう考えると、二人は結構いいコンビだ。最初のうち、アーサーはフォードのことをヘンな人だと思っていて、後になって彼はよその惑星の出身だと知ると、アーサーにとしては、だからフォードはあんな感じなんだな、と却って納得できたと思うんだけど、でもフォードの変人具合はエキセントリックな人間として十分通用するレベルでもある。だって、アーサーは、フォードにそう言われるまで、彼がエイリアンだと気付かなかったんだから。
特に印象に残っている瞬間はありますか?
あるよ。<黄金の心>号のセット――すごく大きくて、僕らは歩いて回ったんだけど、「すげえ、僕らは本当にSF映画の中にいるんだ」と思った。正直言って、どのセットも凄かった。細かいところにまで抜かりがなくて、何より強烈に印象的だったんだけど、デザインや小道具のディテールには本当に驚かされた。正直、演じてて特に楽しかったという場面はなくて、印象に残っているのはセットのことになるんだけど、それというのもすべてのシーンが大好きだからなんだ。それでも、役者として演技をするという意味で、魅力的な場面はいくつかある。だからって、チェーホフの芝居をやるのとは違うけどね。「くそ、今日はすごく深刻な台詞を言わなきゃならない、母親を亡くした悲しみについて語らなくちゃならないんだ」みたいなのとは。そうじゃないけど、でも「地球を失ってしまいました」みたいな場面はある。そういう場面は、本当に難しかったよ。アーサーが、地球を失って心に傷を負うような場面はね。それを、軽いトーンを失わずに演じるのはかなり難しい……底の浅いドラマにはしたくないし、場面をリアルなものにしたい、ちゃんと現実味を持たせたいと思う。悲劇じゃなくてコメディだけど、でもその中に感情をちゃんと注ぎ込まなくちゃいけない。だって、映画を観る時は、映画に出てくる人なり魚なりシュレックなりに感情移入するよね? 演じている役者がアーサーに感情を入れてやらなかったら、誰が感情移入できる?
アーサーはアイコン的なキャラクターですから、そんな彼に人間的な深みとか豊かさを与えるのは大変だったんじゃないですか? やりすぎになってもいけないし。
ほんと、その通りだよ! 何しろ僕の家族の愛読書だし、僕自身の思い出とも結びついているし、何と言っても四半世紀に亘ってポピュラー・カルチャーの一翼を担ってきた作品だからね。台無しにされたら僕だって怒るだろう。ましてや、アメリカナイズで台無しにされたらね。多分、僕が原作の熱狂的なファンだったら、アーサー役はできなかったと思う。僕らはチームで仕事をしていて、それぞれに自分の仕事をこなさなくちゃならない。みんなが『銀河ヒッチハイク・ガイド』のマニアだったら、ひどい映画になっていたと思うよ。だって、そういう人たちは僕たちがやっているような実際的な仕事はできないから。僕は、食べるのは大好きだけど、料理はできないようにね。だから、ファンの人たちには僕たちを信じてもらいたいけど。いろんな話を耳にすればするほど、そういう人たちって……。
まずは脚本が信用できるかどうかではないでしょうか。初めて読んだ時、どう思われましたか?
すごく気に言ったし、これはいける、と思った。脚本を読んでくれと言われたけどミーティングには行かなかった映画には、何かがあるんだよな。さっきも言ったけど、ガースたちに会って彼らのことが好きになったのは、彼らが作品に向けた熱意には、オタクっぽさがなかったからなんだ。映画作品として命を吹き込もうとはしていたけれど、自分たちだけの狭い『銀河ヒッチハイク・ガイド』ワールドにどっぷりハマっているということはなかった。それに、すごく実践的な人たちにも見えたしね。で、彼らの作品を見て、そのヴィジュアルに圧倒され、自分もその中に入りたいと思った。幸い、彼らとはすごく気持ちよく仕事することができたんだけど、それというのもガースが単に撮影を監督するというだけでなく、俳優とコミュニケーションできる人だったからだ。役柄について俳優と話そうとしない人たちもいるんだけど、ガースはそうじゃなかった。モニター越しに眺めるだけで、俳優なんかその場にいないかのように振る舞う人は多い。でもガースは人間そのものを愛している。オモチャや小道具やその他もろもろの装置と同じくらいにね。彼は、アーサーやトリリアンやフォードやゼイフォードが信じられなかったら、彼らの冒険だって何の意味もないし、そうなったら映画もおしまいだと分かっている。何だか小難しい話になっちゃったね。でも、何にせよ、部外者には関係ない話と言ってしまえばそれまでなんだけど。
あなたご自身は、この仕事を楽しまれたようですね?
そりゃあもう、素晴らしい毎日だったよ。僕にとってはこれまでで一番大規模で長期間の撮影で、悲惨な日々になるか素晴らしい日々になるか、どちらに転んでもおかしくなかったけど、幸いなことに素晴らしい日々になったんだ。
モス・デフ(フォード・プリーフェクト)
この映画に参加する前から、『銀河ヒッチハイク・ガイド』のことはご存知でしたか?
知ってはいたけど、読んだことはなかった。意識の片隅にはあったんだけどね。マイルズ・デイヴィスの名前は知らなくても音楽は聴いたことがある、みたいな感じで、『銀河ヒッチハイク・ガイド』って、詳しい人もそうでない人もいるけど、でもみんなどこかしらで耳にしたことがある、というものなんじゃないかな。
キャスティングされるまでの経緯を教えてください。
キャスティング・ディレクターのスージー・フィッギスが、ロンドンのロイヤル・コートで僕が出演していた舞台『トップドッグ/アンダードッグ』を観たことがあって、ニックとガースに、ニューヨークにいるなら僕に会ったほうがいいと勧めてくれたんだと思う。で、僕らは会って、このプロジェクトのことや、この映画だけでなく映画全般についての彼らの考え方について話をしたんだ。彼らのテイストには惹き付けられた。型に収まってないんだ。ものすごい想像力がある。もともと、彼らが作ったビデオ作品のことも好きで、スーパーグラスの 'Moving' とか、ブラーの 'Coffee & TV' とか、彼らが作っていたとは知らなかったけど、大好きだった。ハマー&トングスのプレゼンテーションは素晴らしい。エネルギーも、熱意も、センス・オブ・ワンダーも、最高だ。すごく真剣に取り組んでいるのは確かだけど、同時に楽しんでもいる。
センス・オブ・ワンダー、まさにその通りですね。
映画監督にはとても大切なことだと思う。ガースは、原作小説のエッセンスをユニークな形で映像化したけど、彼はすごく真剣で、すごく真面目に考え抜く一方、自分自身のことはあまり重要視していなかったと思う。これが巨大プロジェクトで、成功者への道の第一歩たりうることは彼も分かっていたはずだけど、そういうことはあまり考えていなかった。彼は仕事そのものに一生懸命で、そういう態度は俳優にとってとても好ましい。送られてきた脚本を読んで、僕は第1行目からすっかり気に入ってしまった。「よく知られた事実だが、物事は外見どおりとは限らない」。映画のオープニングとしては申し分ない。『銀河ヒッチハイク・ガイド』は高尚で壮大だから、一つ間違うと重たくなりすぎたりインテリ臭が鼻についたりしかねないが、彼はすごくすごく人間的で親しみやすいものにしてくれた。彼には彼の確固たる考え方があったけれど、それでいて彼は自分と違う見方や考え方も頭ごなしに否定したりバカにしたりすることなく受け入れていた。宗教や神の取り扱い方には本当に驚かされたよ。はっきりと個人の意見を出しつつも、他の人の考え方を受け入れる余地を残している。そういう視点や感覚を持って仕事に取り組める人は珍しいんじゃないかな。
あなたがキャスティングされたと知った子供たちがあなたのところにやってきて、あなたが『銀河ヒッチハイク・ガイド』に出るなんてすごくクールだと思う、と伝えてくれた、という話を、前に私に聞かせてくれましたね。
いろんな人にこの話をしたけど、返ってくる反応は2、3種類しかなかった。「何のことかさっぱり分からない」という人と、「ふうん、いいんじゃない」という人、それから「すっげえ!」という人。この作品を大切に思っている人は多いし、自分もそう。作品の中にあるユーモアも好きだし、畏怖や驚異といった感覚、自分たちをとりまく世界に対する好奇心も大好きだ。子供が空を見上げて、「あそこには何があるんだろう」と空想するような、そんな感じ。
私もその通りだと思います。ダグラスの好奇心――彼の知的な好奇心は、間違いなくこの作品を特徴づけていますね。
満足のいく出来だと思う。僕はリスクがあるものは好きだし、この作品を映画化するとなれば、アイディアやらユーモアやらのほうにみんなの関心が向けられることになると思う。言語センスが素晴らしくて、特上品なのに分かりやすいし、全宇宙を創造していて凄いんだけど、それと同時に日常感覚も失っていない。
どのようにしてフォードというキャラクターを見出したんですか?
何がおもしろいって、フォードはギアチェンジをすることだ。ものすごく集中することがあるかと思えば、お気楽三昧でほとんど何も気にしないこともある。ぼんやりしている、というんじゃなくて、何事にも動じない、ってことなんだけど。リハーサルに入る前、僕はフォードのことを、もっと好戦的というか辛辣というか、ウォルター・ウィンチェルみたいな、ストーリーを作り出していくタイプのジャーナリストとしてイメージしていた。彼の個性の中には、インディ・ジョーンズのようなヒーロー的要素もあるけれど、それよりも僕としては、彼がもっと鋭い、というか、自分の状況とか自分の企てに対して率直に反応するところを出したかった。思うに、フォードは、良いことだろうと悪いことだろうと、どんなことにも心の準備ができていて、すべてを受け入れようとする。物事をあるがままに受け止めて、嘆いたり批判したりしないんだ。あと、フォードが友人にすごく誠実なところも好きだんね。ある意味で、彼は無私の人なんだよ。友人が助けを求めたら迷わず応じるべきだと信じていて、それでいて感傷的なところはない。エアロックに閉じ込められて、今にも宇宙に放り出される、という場面で、フォードはアーサーに「ハグしたほうがいい?」と訊くよね。その時のマーティンの反応は絶妙で、おかげで思いやりのあるシーンに仕上がったと思う。説教臭かったり予定調和に見えたりしたら、安っぽくなってしまう。
ダグラスもきっと気に入ったと思います。彼は感傷的にならないようすごく神経を尖らせていて、そうなりそうな時にはひねりを加えて話を際立たせたいと思っていましたから。
友人を助けると言えば、あなたはアーサーにタオルについて説明するシーンで、それが本当に大切なことであるかのように話していましたね。
だって、タオルは絶対に必要だもの。常に手元に持っていること、それが大事。銀河系は、気楽な世界ではないから。
アーサーとの関係と言えば、前にもあなたにお話ししたと思うのですが、初稿の脚本の中には一部のファンを怒り狂わせた箇所がありました。それは、フォードはいつもいつもアーサーを切り捨てようとするのに、アーサーはフォードの命を助け続ける、それというのもアーサーはフォードに恩義を感じていてそうしなくちゃいけないと思い込んでいるから、という繰り返しのジョークでした。ファンの人たちが怒ったのは、原作小説では終始一貫してフォードとアーサーが揺るぎない友人関係にあったからではないでしょうか。
僕も二人の友情は好きだ。地球にやってきたエイリアンの話って、大抵、エイリアンは人間に敵対的だけど、フォードは人間のことを、彼らの欠点も含めて好きになった。アーサーに関して言えば、僕は惑星マグラシアでフォードがアーサーを慰めるシーンがとても気に入っている。思いやりがあるよね。
そのシーンについて説明してもらえますか?
マグラシアで謎の門を見つけたゼイフォードは、これがディープ・ソートへと通じる道だと思ってみんなを連れて行こうとするけど、アーサーは不安がっている。フォードはもうちょっと計算高い。状況を鑑みて、「これなら大丈夫だ」と推測する。でも、アーサーはただもう完全にびびっている。
本当に怖そうですよね。
まあね。頭から飛び込むしかないんだから。僕は、この場面が象徴するメタファーが好きだ。行くしかない時は、思い切って行っちゃえ、って。行かなかったら、ドアは閉まってしまう。誰の人生にも決断しなくちゃならない瞬間はあって、良かろうと悪かろうと、どうであれやるしかない。アーサーも決断を下すんだが、でもそのタイミングがちょっと遅い。彼は背中を押してもらう必要があるんだ、自分の殻から出て宇宙市民になるためにはね。彼は、心の中に不安や心配を抱えている。ありきたりな形でそれを表に出したりしない。マーティンの演技は素晴らしいと思う。アーサーは、美しくもイカれた銀河でひっきりなしに緊急事態に直面するけど、すべてにちゃんと向き合って対処し、立ち上がろうとする。時には、強引に連れ去られてぎゃあぎゃあ騒いで暴れるだけ、ということもあるけれど。
まさに。
そう。でも、彼はちゃんと順応して、なじんでいく。
マーティンとの仕事はいかがでしたか?
彼は、良い意味で俳優としての自分に自信を持っているから、一緒に仕事をするのは楽しかったよ。これまで一緒に仕事をしたことのあるキャストの中でも、最高の一人だった。
あなたの衣装についてきかせてください。
かなり複雑な工程だった、というのも、僕としては、トラディショナルであると同時に、どこかおかしなものでもあって欲しかったから。彼はよその惑星からやってきたエイリアンだけど、地球に溶け込みたいと思っている。だから微妙なんだ。普通の三つボタンのスポーツ・コートのボタンを4つにしたり、ベストを着せたり。どれもすごく意図的にやっている。寒さしのぎの帽子は、実用的であると同時に、紳士然としていてシンプルでなくてはならない。仕事上、スーツとタイは必須だし、自分の仕事をすごく大切にしているが、だからって仰々しく着飾りたいとは思っていない。リサーチャーとして、彼はいつだって国家元首とか大統領みたいなセレブを相手にする用意はできている。自分が出会った相手からは、ある程度のリスペクトを得ようとする。とっつきにくい人、と思われない程度にね。さらに言うと、靴だけは履いていて快適なのにしてほしかった!
ジャケットの裏側は何色でしたっけ?
オレンジだよ、オレンジとパープルが僕は気に入ってるんだ。
それがあなたの色なんですね?
そう。で、サミーに、パープルを入れられるところにはなるべくパープルにしてくれるようお願いしたんだ。裏地とか、折り返しとか、ほんのちょっとしたことだけど地球産の服としてはありえない、みたいな、そういう些細なディテールがアヴァンギャルドっぽさを生み、程よいバランスになる。出来上がった作品には、僕自身はすごく満足しているよ。
ところで、フォードのカバンには何が入っているのですか?
ダグラスが原作で書いていた以外のものも、いろいろ入っているよ。水と、当然ながら『銀河ヒッチハイク・ガイド』と、ピーナッツと、タオルと、カメラと、ペンと、メモ帳と、あとはメガネとサングラスかな。時々、惑星に降り注ぐ太陽の光が強すぎて目を保護してやらなくちゃいけないことがあるし、時には自分の正体を隠して別人のフリをしたいと思うこともあるからね。カバンの中に、進んだ宇宙のテクノロジーが収まっているというのは楽しい。こんな小さい物の中に、何もかも入っているというのがね。『ガイド』のデザインも気に入っているよ。シンプルで単純で、エレガントでスリム。惑星から惑星へと旅する時に持ち歩くには最適だよね。フォードという存在自体、ポータブルと言える。いつだって出かける用意ができているんだ。彼の、迷わず素早く段取り良く旅をするところも、僕は好きだ。
あなたが開発した、タオルの機能について教えてください。
そんなにおもしろい話じゃないよ。タオルを肩にかけたら、それは衣装の一部と化すか、あるいはその人のアイデンティティの一部と化す。武器としても使えるし、ナプキンとしても使えるし、身体を温めることも、頭に巻き付けることもできる。僕が思うに、タオルはある意味で持ち主の感情と結びついていて、危険を吸収してくれたり、物事をキレイに片付けてしてくれたり、慰めを与えてくれたりもする。そのくせ、間違いなく実用品で、どこか信用できるところもある。あくまでただのタオルで、ハイテクのガジェットなんかじゃないのにね。パワフルなサムとの共演はいかがでしたか?
フォードのキャラクターを形にする上で、僕にとってサムは指標そのものだった。リハーサルを始めた当初、僕はフォードの奇人ぶりをもっと強調するつもりだった。イカれた宇宙人にするつもりはなかったけれど、彼はものすごくヘンなところがあるはずだと思っていたし、今でもヘンなところは残っていると思うよ。でも、ゼイフォードを見て、「もう他の人がやっちゃってるじゃないか」と思い、むしろコントラストを出すことにしたんだ。フォードはとっても率直で、ゼイフォードはそんなフォードの格好の対照になる。彼と仕事をしていると、フォードの立ち位置がすごくはっきりしてくるんだ。フォードはアーサーの物語の中でどういう立場にあるのか、とか、主要キャラクター4人の中ではどうあるべきか、とか。一本の映画で、二人のキャラクターが二人ともイカれたことしかしなかったら、それってバカっぽくなるだけだよね。映画の冒頭では、フォードはおかしなヤツと思われるかもしれないけれど、ゼイフォードが登場した途端、フォードは別ヴァージョンのアーサーになるんだ。
一種の橋渡しですね。
そう、フォードはアーサーとゼイフォードをつなぐ橋になる。それぞれの側にあの二人を置くなんて、最高だよね。
トリリアンについてきかせてください。
ズーイーは素敵な女優で、彼女の演技には真実味がある。不満そうなところも、退屈しているところも、頭が切れるところも、冒険心に富んでいるところも、どれもはっきり分かるんだ。キャストはみんな素晴らしかったと思う。時々、気が立ってしまうこともあったけれど、何しろこの映画に出演するのは僕にとっては大きな意味があることだったし、ストーリーも複雑で重層的ときている。毎週のように、というか数日ごとに、新しい発見があった。撮影も終盤にさしかかった頃になっても、まだ新たな発見があったんだ。惑星マグラシアでのこと。失われた太古の惑星で、フォードは実在するとは思っていなかったんだけど、本当にそこにたどり着き、自分の足の下にはその惑星の土、というか、正確には氷がある。セットでの初日の撮影を終えた後、原作小説を読み返してみたら、フォードとゼイフォードの関係を知る上でヒントになるような文章があった。「いいだろう、ここはマグラシアだと認めようじゃないか――いまのところはね。だけど、これまでぜんぜん聞かせてもらってないことがある。いったいぜんたいどうやってここを見つけた? まさか星図には載ってないだろ」
「調べたのさ。政府の古文書保管所をあさったり、聞き込みをしたり、まぐれ当たりの部分もある。むずかしいことじゃない」
「で、それを探すために〈黄金の心〉号を盗んだっていうのか?」
「ほかにも探したいものはいろいろあるんだよ」
「いろいろ?」フォードは驚いて訊きかえした。「たとえば?」
「わからん」
「はあ?」
「なにを探したいのかわからないんだ」
「なんで?」
「なんでって……それは……たぶん、なにを探してるかわかってたら見つけられないからだろうと思う」
「なに言ってるんだ、頭がおかしいんじゃないか?」
「その可能性は否定できないな」ゼイフォードは押し殺した声で言った。「おれは自分で自分のことがよくわからないんだ。わかる範囲は脳みその状態で決まるんでね。で、いまおれの脳みそはあんまり状態がよろしくない」(安原訳『銀河ヒッチハイク・ガイド』、pp. 194-195)『銀河ヒッチハイク・ガイド』って、幻想と現実の両方に立脚しているから好きなんだ。現実に基づいて生み出された作品だから、役者も対応することができる。フォードとゼイフォードが〈黄金の心〉号で再会するシーンとかね。数年ぶりに旧友と再会するという場面だが、そこで僕らはエイリアン流の再会の儀式をやり、アーサーはその奇妙な儀式に反応する。そういう時も、僕らはみんな、状況がマンガっぽくなったりカリカチュアになったりしないよう、終始気を付けていた。
私も、おふざけにならないようにすることは大切だと思っていました。観客に目配せやウィンクを送ることは、あなた方がせっかく作り上げた世界から観客の注意をそらしかねないと思いましたから。
正攻法だけど、従来型でもないと思うよ。ガースはどの演技にもすごく注意を払っていたし、何より、撮影に3、4ヶ月もかかるSF映画に出演していたのに、存在しないキャラクターを頭の中でイメージしながらブルースクリーンの前で演技をする羽目にならずに済んだのは最高だった。想像するにも、実際に存在するものを相手にするほうがやりやすいしね。あ、でも(地中から飛び出して顔をひっぱたく)あのパドルは別だ!
だからこの映画には、他のSF映画にはない、優しさや魅力がもたらされたのだと思います。
うん、他の人もきっと同じように感じてくれるんじゃないかと思うし、役者としても意味のあることだった。ガースは映画の撮影のために、僕らがまるで舞台で演技しているみたいに、実際のモノとかセットを骨を折って用意してくれたんだ。おかげで状況とか環境がはっきりして、説得力がすごく増した。僕たち俳優にとっては有難かったし、観客にとっても、デジタル加工された世界ではないと感じられるのはものすごく大事なんじゃないかな。実際の世界は、人間の思考の産物というだけでなく、人間の手で作り出したものなんだからね。
実際の世界と言えば、今日の午後のあなたとマーティンの演技がすごく印象的でした。ちょっとした見物でしたよ!
ああ、ヴォゴン人の宇宙船の外部ハッチのことか! マーティンと僕は自分たちでスタントをやったんだけど、結構な距離を落とされたんだよね。フィジカルな役柄は好きなんだけど、それってローレルとハーディの気分を味わえるからなんだ。僕はローレルとハーディのファンでね。マーティンもだけど。チャップリンも好きだし、バスター・キートンも好きで、そういうドタバタ喜劇のスピリットもたくさん盛り込むことができて、しかもそれをSFのセットの中でやれるんだから、楽しかったよ。
あなたの登場シーンについて話してもらえますか。
ショッピングカートにビールとビーナッツを山積みして、丘の上からアーサーがブルトーザーの前で寝転がっているところめがけて突っ込んで行くんだ。ほんと、すごい登場の仕方だよね。脚本を読んでいて、フォードはとんでもないキャラになるぞと思った。だって地球にいる時の彼ときたら、他でもないショッピングカートで発進するんだから。フォードは元気いっぱいでアーサーの家の垣根を飛び越えるけど、でも彼にとってはごくごく普通の日常レベルでしかなくて、だからこそ余計にフォードはイカれているように見える。そういうところは彼にぴったりだし、またフィジカルな要素があるというのは、この映画の場合は特に、僕たちみんなにある種の緊張感をもたらしてくれる。みんな、「早くこの映画を観たい」と言ってくれるよね。でも、18週間も『銀河ヒッチハイク・ガイド』で仕事をしていた僕自身が、早く観たくて死にそうなんだ。今の気持ちも、ここに着いたばかりの頃と変わってなくて、すごくわくわくしているし、興奮しているし、何でも来いという気分で、嬉しくて仕方ない。他のみんなもこの映画には圧倒されると思うよ。特殊効果を多用した映画だと、俳優なんていてもいなくて同じって感じだけど、でもこのセットを見渡すと、すべてのものがちゃんと理由があって、きちんと目的を果たすべく置かれている。ガースとニックの知性と遊び心が、原作の精神をちゃんと掴んでいるからなんだ。あなた(インタビュアーのロビー・スタンプのこと)の熱意にもすごく感謝しています。おかげで、僕らはダグラスのこととか、原作の中のちょっとしたことまで、長い時間をかけて話をすることができたのだから。自分の大好きな本が、映画化で台無しにされたらどんな気がするか、僕にも分かる。原作を新しく改変するだけならいいけど、原作のコアの部分は大切にしてほしいと思うだろうし、だからこそ僕は毎日撮影現場に原作小説を持ち込んで、休み時間にはいつも読みふけっていたんだ! フォードはどんな風にも演じることができる。心優しくも、完全に別の世界の人っぽくも。フォードというキャラクターになりきるのは楽しいことだけど、でも気をつけて注意を払わないといけないキャラクターでもある。役にのめりこみながらも、冷静さを保って注意を怠らない、というような。僕は、俳優としても歌手としても、そうでありたいと思っている。椅子にどっかと腰掛けて、あとは流れに任せればいいという仕事じゃない。椅子に浅く腰掛け、辺りを見回していざとなれば立ち上がり、時には椅子の上に上がりさえする。本当に凄い体験をさせてもらえたし、自分は幸せだと思うよ。
サム・ロックウェル(ゼイフォード)
映画版ゼイフォードのようなワイルドなキャラクターをどのようにして作り上げたのですか?
まずはクリントンのモノマネから始めたんだが、うまくいかなかった。少々受け身すぎるんだ。ゼイフォードはもっとアグレッシブでないと、ということで、フレディ・マーキュリーとかエルヴィスみたいなロックスターに、ブラッド・ピットっぽさを少々加えてみた。それでいて政治家の資質も含まれているんですよね。
もちろん。もしロックスターが大統領になったら、って感じかな。私はこういう本当に芝居がかって演じる必要のある役をもらうことが多くて、ゼイフォードの場合も、少々大げさで少々芝居がかっていることが必要不可欠だった。伝説的な人物でなくちゃいけないし、同時に人をひきつける魅力もなくちゃいけない。小説の中に出てくるゼイフォードの描写がすべてだ。テレビドラマ版は無視して、あくまで小説だけを参照した。
ゼイフォードとセックスについては? 最初にゼイフォードを演じたマーク・ウィング・ダーヴェーもそのことについて話していたと記憶していますが。
ゼイフォードはとてもセクシーだ。だからこそフレディ・マーキュリー的な要素を取り入れたり、爪を磨いたり、アイライナーを引いたりした。「ロッキー・ホラーショー」のティム・カーリーっぽいとも言える。周りの人に影響力を持っていなくちゃいけないが、他の人には彼が何を目指しているのか分からない。ひょっとするとちょっとセクシーな方向に向かうかも?
宇宙にはいろいろな生き物がいますね。
ほんとにいろいろいるね! 男だろうが女だろうが、ゼイフォードはワイルドだから気にしない。彼はデイヴィッド・ボウイであり、フレディ・マーキュリーであり、キース・リチャーズであり、ロックンロールそのものだ。まっすぐ前を向いて進むなんてありえない。クレヨンで色を塗れば、線の外にはみ出してばかりいる。
外見作りにも苦労されたそうですね。衣装とか、銃とか。
うん、その通り。金髪に染めて、銃を持って、爪を磨いて、鎖をじゃらじゃらさせて、ゴールドのシャツを着て。
あなたのアイディアだったのですか?
最初はスパンデックスのキラキラしたシルバーのシャツがいいなと思っていたけれど、サミーが「〈黄金の心〉号のゴールド」だと思い付いた。そのシャツから、役に関するたくさんのヒントを貰ったよ。
そんなに?
衣装が役柄を左右することって意外と多いんだ。最初の頃に用意されたブーツは、重くて大きくてカウボーイのブーツみたいだった。で、言ったんだ。「いや、こういうのじゃなくて、もっとスリムな靴がいい。フットワークが軽そうに見えなきゃいけないんだから」
履いて踊れる靴じゃないと、ですね。
どんな役を演じている時も、私はその役柄と一体となってダンスをしているように感じている。ゼイフォードなら、すばやく器用に踊るはず。彼はロックスターなんだから、動けないと。
実際、彼はよく動く! 銃について教えてください。かなり熱心に銃の練習をされたそうですね。
最初の銃にはトリガー・ガード(用心金)がついていないせいでくるくる回すことができなかったから、小さい銃を作り直してもらう必要があった。トリガー・ガード付きで出来上がった銃は、スリムで、赤と白で綺麗にペイントされていた上に、見事なホルスターまで用意されていて、目が釘付けになった。で、撮影の記念に貰ってうちに持ち帰った。あの銃だけはどうしても欲しかったんだ!
それからもう一つ、あの歩き方について質問したいのですが。
実際にはそんなに歩いていなくて、ヴィルトヴォードル星系第六惑星のシーンと、あとはヴォグスフィアで雪の上を歩いたり走ったりしたくらいかな。ゼイフォードの歩き方は大好きだ(立ち上がり、歩いてみせる)。ちょっと気取った感じなんだよね。
そのくせフレンドリーで自信たっぷりで、「俺様はここだぞ」と言わんばかり。
その通り、愛想はいいけど根本はロックスターだから。
もう一つの頭について話していただけますか。
あの頭はかなり分かりにくいよね。二つ目の頭には、レトロっぽくニューヨークのアクセントで話させようかと思ったけど、うまくいかなかった。二つの頭の違いを際立たせたかったんだけど、それって声の調子とかアクセントではなく、感情的な違いによるものだ。一つの頭は、基本的に砂糖を過剰摂取している状態。で、テストテロン過多で怒りを募らせており、誰かのケツを蹴っ飛ばそうとしている。これが二つ目の頭の性格だ。君がくれたダグラス・アダムスの注意書きはすごく参考になった。「二つ目の頭は最初の頭よりずっと記憶力がいい」、その通りだよ。
アダムスは「銀河帝国大統領は二つの頭を持つことにしよう」とその場限りのアイディアのつもりで書き、ラジオドラマや小説の中ではそれで何の問題もありませんでしたが、映画となると話は別です。この件に関して、ダグラスとジェイ・ローチが長い時間をかけて話し合っていたことを知っています。ゼイフォードというキャラクターをどう捉えるか、ダグラスとしては可能な限り役柄を膨らませたいと考えていましたが、そういった観点に加え、技術的な観点からも考える必要がありました。映画『メン・イン・ブラック2』で、長い首を持つ二つ頭のエイリアンが出てくるのを観た時、私達は「ああ、これでもうこの手は使えなくなったな」と思ったものです。
え、二つの頭ってその場限りのアイディアだったの?
そうですよ。
道理で小説の中では滅多にもう一つの頭が喋らない訳だ。
ええ、だから二つの頭の違いといったものはたいして必要ありませんでした。それだけに、最初にあなたにお渡しした注意書きは興味深いものになります。「映画化するなら、二つの頭というアイディアをどう活かせばいいだろう」とダグラスが考えたことですから。
二つ目の頭は、即興だった。「意識の流れ」式コメディだ。とは言え、すべてがちゃんとダグラス・アダムスの世界に根ざしているものにしたかった。で、小説や注意書きを何度も参照した。アドリブは、ストーリーに奉仕し物語を前に進める役割を果たしているうちはいいけれど、役者が暴走したり自己満足に陥ったりして映画の邪魔をするようでは困る。
映画の中では、さまざまな女性(?)とお楽しみを持っていたようですね。
ああ、12の季節(twelve seasons)というのも気に入った。ヴィルトヴォードル星系第六惑星で日本人グルーピーが出てくるシーンのファイナル・カットに使用されたんじゃなかったかな。
あれはLAでアダムスが好きだったホテル、フォーシーズンズ(Four Seasons)への言及でもあります。私たちは、あのホテルをたびたび訪れて、映画の内容について話をしたり企画を進めたりしました。政治家としてのゼイフォードについてはどうお考えですか?
もし続編が製作されるようなら、今度は政治家としての側面を深めたいと思う。ビル・クリントンとジョージ・W・ブッシュを足して二で割ったようなキャラクターにしたら、おもしろいと思う。
「一人前の頭脳があったら大統領にはなれない」という台詞をおもしろがってもらえるのではないでしょうか。昨今の政治情勢を見ていると、そんな気がしますよね。
「一人前の頭脳があったら大統領にはなれない」、自分の台詞ながら、確かにその通りだ。そういう風には考えたことはなかったけど。
この映画に関わることになったきっかけを教えてください。
ガースとニックには三回会って、二回会った後にこの役をオファーされた。で、こちらからもう一度会いたいと申し出て、どうして僕にゼイフォードをキャスティングしたのか、その理由を聞かせてもらった。だって、もともと彼らは僕にフォードをやらせたいと話していたんだよ! ニューヨークで初めて会った時には、まだ脚本も読んでいなかった。で、テレビシリーズのDVDを取り急ぎ手に入れて観た。子供の頃に「ドクター・フー」とかと一緒に観た記憶はあって、フォード・プリーフェクトって何者だったかを思い出したかったからだが、観ていて「ああ、これがフォードか、この役ならやれそうだな」と思ったし、彼のことが好きにもなった。で、この仕事に参加してみて自分なりのアイディアもあったけれど、あまりうまくいかなかった。彼らの希望はもっとスリムでしっかりした男だったから、モスは最適だったと思う。彼らいわく、フォードが『ガイド』の現地調査員をやるというのは、イラクをカメラ片手に訪ね歩くようなもの、とのことで、おもしろい考えだと思う。二度目のミーティングでは、オーディション不要と言われた。幸運なことに、俳優としてのキャリアが出来てある程度のところまでいくと、オーディションを受けずに済む。時には、バカなことかもしれないけれど、自ら申し出てやることもあって、実際に会うこともない架空の人物像を掴むことができるという意味で勿論とても喜んでもらえるが、「声に出して読んでみてどんな感じかみてみよう」と思ったんだ。「フォードの箇所をやろうか」と言われ、「でも何の準備もしてないから、うまく言えないかもしれない」と答えてから読んだらやっぱりうまく感情を込めることができなかったから、少し南部なまりを入れて読み直してみたら今度はうまくいった。みんな笑ってくれたし、私はガースのほっぺだかどこだかにキスしたりなんかした後で、「ところでゼイフォードはどうだろう? おもしろい役だし、ついでだから彼の台詞も読んでみようか?」で、ゼイフォードの台詞も読んでみたらこちらは全然うまくいかなくて、フォードのほうが断然良かったんだよ。
どうしてゼイフォード役はうまくいかなかったんでしょうね?
あの時点では、この役のことはまったく考えてなかったからだと思う。憶えていたのは、ゼイフォードは登場シーンが素晴らしいってことだけで、ジャック・ブラックの登場シーンをイメージしながら「さて、自分だったらどうするだろう」と考えた。脚本をちら読みしただけで、ゼイフォードがいい役、というかすごくいい役だと分かっていたし。でもうまく読めなくて、結果は後で知らせると言われ、「せっかくフォードはうまくいったのにゼイフォードでコケたせいで、しくじったかも」と思った。で、彼らに向かってこう言ったんだ。「みなさんは私をゼイフォードに向いていると思ってくださったでしょうか。そうじゃないかもしれないし、私にはフォードのほうが向いているのかもしれませんが、でもざっとでいいから「ギャラクシー・クエスト」と「グリーン・マイル」という映画を観てみてください。この2本の映画の中では、ゼイフォード役に必要と思われる、芝居がかった要素も発揮していますから」。その後、彼らからは何週間も音沙汰がなく、フォード役はモス・デフに決まったという話を聞いた。落ち込んだけど、「いい考えだ。私だって彼をキャスティングする」。口先だけじゃなく、本当にそう考えたんだよ。で、「しようがない。こういうこともあるさ」と思った。それからしばらく経って、ロンドンで「ピカデリー・ジム」の撮影中、いきなり、本当に唐突に、エージェントとマネージャーの二人からほぼ同時に話があるというメッセージが届いて、これは何かあったなと思った。テレビ電話をかけ、このニュースを知らされた時は、嬉しかったけど何が何だか分からなかった。普通、役を貰えるときは、正式なオファーより1週間くらい前に「この役に合いそうだから、オファーすることになると思う」といった話が耳に入る。でも、この時ばかりは寝耳に水だった。しかも、結構な額のギャラを払ってくれるという。突然、電話一本で「仕事が決まった。高給が貰える」と言われても、頭の中は「はあ? 何の話? 全部決まった? 決まったって何が?」だった。私のチームから「そうだよ、良かったね、おめでとう」と言われ、でも私は丸一ヶ月もこの仕事のことは考えていなかったし、脚本を全部読んだかどうかも怪しいしと言ったら、「正気か? 仕事を受けるに決まってるだろ」と言われ、「ここのところ働き過ぎで疲れ果てているし、脚本をちゃんと読んで来週もう一度彼らと会ってから決めさせてくれ。次の木曜まで脚本が読むヒマもないから」と返事した。「ピカデリー・ジム」で、大掛かりなダンスシーンの撮影をやっていたんだ。ただでさえ疲れ果てていた上、ガールフレンドとの関係も泥沼化していて、考える時間が欲しかった。で、木曜と金曜に2日間の休みを取り、脚本を読んで、「向こうに行って彼らと会い、彼らが僕のアイディアを受け入れる気があるのかどうか確かめようじゃないか」と思った。勿論、彼らには前にも会っていたけれど、どうして彼らが私をキャスティングしたのか、正直謎だったから。で、ジーナ(・ベルマン)から、「エルヴィスっぽく演じるというのはどう?」と言われた時も、「いや、そういうことはしたくない、くだらないし、コントみたいになってしまう」と答えた。ま、後になってもう少し心を広くして、そういったアイディアも取り入れることにしたけどね。あの時のミーティングは録画されていたけど、見せてもらった?
ええ。
オフィスにいる僕らが映っていた?
はい。
ああだこうだと喋っていただけだが、私が「役者のアイディア」と呼ぶものをガースはちゃんと聞いてくれると分かったんだ。映画では、役者もアイディアを出すべきだと私は思う。彼はMTVの映像監督で、独創的なアイディアをキャラクターの視点から生み出す。単なる映像効果の視点からではなくてね。私にとって、ガースやニックとの仕事はエキサイティングだったし、スペシャルなことでもあった。監督、特に映像出身の監督は、役者の考えに耳を貸さないものなんだ。ちゃんと聞いてくれる監督なんて滅多にいないんだよ。これまでに会ったことがあるのは、「ギャラクシー・クエスト」のディーン・パリゾットくらいかな。彼は他の人のアイディアも受け入れてくれた。あとは、ジョージ・クルーニーみたいな俳優出身の監督くらいかな、そういう人たちはいつもこちらの話を聞いてくれる。そうだな、ジョージ・クルーニーと、リドリー・スコットと、ディーン・パリゾット、それにガース・ジェニングス、これまでに一緒に働いたことがある監督の中ではこの4人だけだよ。
大変な賛辞ですね。
本当にたいした人だよ。この映画に参加できて幸運だったと思う。素晴らしい体験だった。君も私のアホなアドリブにずっと付き合ってくれたし、マーティンやゾーイーやモスと仕事できたのも嬉しい。モスと私とで、オリジナルのテレビドラマにも映画の脚本にも出てこない、フォードとゼイフォードの関係を考え出すことができたんじゃないかな。二人のキャラクターの間で、これまで存在したことのないような、まったく新しい絆みたいなものを創り出せたと思う。ゼイフォードに関しては、開拓すべき余地がまだまだたくさんある。今まで演じた中で、最高のキャラクターの一人だ。
撮影中、特に印象的だったことは?
ありすぎるくらいあった。特に好きなのは、〈黄金の心〉号を盗もうとする前に、ゼイフォードが群衆を湧かせ、シャンペンのボトルを開け、ローブを翻すシーン。撮影の直前、セットにファッジが置いてあるのに気付いてそれを掴み、撮影が始まったらそれをむしゃむしゃ食べながらスピーチをしたんだが、これこそゼイフォードだ、と思ったね。彼は人生を愛しているんだ。チャーミングで愉快なゼイフォードこそ最高だし、ゼイフォードというキャラクターを理解する鍵は彼の笑い声にある。私はいつも演じるキャラクターを必要以上に身体的に表現しようとする傾向があるけど、ダンスのシーンでは、ガースも私にそうしてほしいと思っていた。ヴィルトヴォードル星系第六惑星のセットに入った時、ガースから「ここでダンスしてほしいんだけど」と言われ、「いいけど、どんなダンスを?」と質問した。脚本には全く書かれていなかったからね。ガースいわく、「銃でバンバン撃たれている最中に、芝居がかったロックスターみたいなダンスを披露してくれたらおもしろくなると思うんだ」。僕のほうから彼にやらせてほしいと言ったんじゃないんだ。彼は僕がダンスができると知っていて、彼のほうから提案してきたんだよ。で、どんな音楽がいいか訊いてくれて、僕としても頑張ってみたんだ。何度もね。ゼイフォードにとっては最高の見せ場になったと思うし、やらせてもらえて本当に光栄だ。
ガースがいつも心配していたのは、昔からよくあるSFアクションみたいな場面になってしまわないかということで、それだけにメインキャラクターの一人がエイリアンに攻撃され銃撃される場面では「どうすれば『銀河ヒッチハイク・ガイド』っぽいひねりを加えることができるだろう」と考えていました。勿論ダグラスっぽいという意味でですが、観客の予想を裏切りたいとも考えていて、実際うまくいったと思います。走り回るシーンも多かったですよね? ウェールズの谷を駆け上がったり駆け下りたり……。
そうそう、あのペダルのシーンではこれまでの人生でもっともアホなことをやったが、あれってダグラスが新しく考え出したアイディアなんだって? まず天気が悪かった。僕らはみんな低体温症になりかけ、私は撮影の合間に何枚も何枚も重ね着していた。それにしても、ペダルで顔をひっぱたかれる真似をしろと言われるとは……芝居の基本中の基本というか、子供の頃に戻って刑事と泥棒とかカウボーイとインディアンに分かれて遊ぶようなものかもしれない。とりわけそういうシーンでは、撮影が始まったら演技の技術的なことは必要最低限にして子供ような心持ちで臨むほうがいい。モスやマーティンと一緒に、突然地面から生えてくる木のペダルに顔をひっぱたかれるフリをするのは、SF作品に出演する上での最高にして最悪のシーンだ。前に友人と『ジュラシック・パーク』を観ていて、こんな映画に出られたら最高だよなと友人に言うと、「本気で言ってる? こんなの演技じゃない。ただのゴミだ。どこが演技だよ」。私はそんなことはないと思う。俳優たちはとてもよくやっていたと思う。あれがどんなに大変なことか、なかなか分かってもらえない。実際にその場にないものを想像して怖がる演技をすることが、どれほど難しいか。でも、今回一緒だった面々はみんな素晴らしかったし、いいアンサンブルになったと思う。最初のうち、ゼイフォードははっきり脇役だと思っていた。でも、脚本をちゃんと読んでみたら結構な数の見せ場があって、こりゃ大変な仕事になるぞと思ったら、実際そうなった。みんな、休む間もなしだったね。
スーイー・デシャネル(トリリアン)
この仕事に関わる前から、『銀河ヒッチハイク・ガイド』のことはご存知でしたか?
ええ、初めて『銀河ヒッチハイク・ガイド』を読んだのは11歳くらいの時だったわ。私の学校のクラスには、ちょっとした『銀河ヒッチハイク・ガイド』のファンクラブがあったの。で、私も読んでみて好きになったけど、この映画の仕事が決まるまで読み返す機会はなかった。
キャスティングの経緯を教えてください。
この企画のことは知っていたんだけど、ニューヨークで別の映画の撮影をしていた時に、ガースとニックが私に会いにセットまで来てくれたのよ。みんなで一緒にランチ・ミーティングをして、私は彼の感じの良さとか、創造性とか、素材に対するアプローチの仕方といったものにすっかり魅せられた。まず最初に感じ入ったのは、これはSF映画だというのに、彼らは特殊撮影とかそういったものではなく、登場人物同士の結びつきのようなものを何より大切にしていたことね。ガースが口にしていたのは、ビリー・ワイルダーの『アパートの鍵貸します』、ジャック・レモンが出ている映画ね、あと『アニー・ホール』も好きだって言ってて、この2本の映画、私も大好きなのよ。という訳で、私はのっけからすっかり興味津々だったんだけど、特殊効果満載の映画を監督する人が何よりもまず人間同士のつながりのほうに多大な関心を持ち、それこそが作品の土台となると考えているなんて、私には珍しいことに思えたのね。
私は、この映画の製作に最終的なゴーサインが出た理由についてよく質問されます。乗り越えなければならない課題はいくつもありましたが、でもニーナ・ジェイコブソンが最終的に製作の許可を出してくれた主な理由の一つは、私たちがさんざん骨を折ってアーサーとトリリアンとの関係をリアルなものにしたからだと思います。
その通り、映画版『銀河ヒッチハイク・ガイド』と、他のヴァージョンとの最大の違いはそこじゃないかしら。映画版での二人の関係は、すごく良かったと思う。小説も、ラジオドラマも、テレビドラマも、それぞれ全部違うけどね。
作品の中心に人間らしさを持ち込んだことで、映画全体がほんわかとしたのではないでしょうか。
そうね、普通、製作規模が大きくて、多額の予算がかかっていて、特殊効果重視の映画だと、人間同士の親密な関係を見せる瞬間ってあんまりないもの。壮大な宇宙と並べて、そういった人間関係を見せることで、題材を愉快なものにしていると思う。ちょっとした誤解とか勘違いがきっかけで人間とエイリアンが仲良しになるなんて、「宇宙って狭い」と思わせてくれると同時に、「誰かと仲良くなるってとてつもなく凄いことなんじゃないか」とも思わせてくれる。ダグラスは、コアの部分では、私たちは自分で思っている以上にちっぽけな存在だけど、そんな私たちのちょっとした思いやりが実はすごく大きな意味を持っている、と言いたいんだと思う。
『銀河ヒッチハイク・ガイド』の他のヴァージョンでは、トリリアンは他の登場人物に比べ、一番ぞんざいな書かれ方をしているため、映画化にあたってはキャラクターを膨らませることになりました。どのようにしてトリリアンというキャラクターとその声を見出したのか、話していただけますか?
最初の読み合わせの時から実際の撮影までの間に、トリリアン像がかなり変わったのは確かだけど、キャラクターって大抵、映画の中で他の人たちと絡んでいく過程で見つかるものだからよ。自分以外の俳優さんたちとの組み合わせや、映画の文脈の中で、自分の心にピンと来るものを見つけ出すの。最初の頃のトリリアンはもっとおとなしい感じだったけど、もうちょっと積極的で、もうちょっとタフな女の子にしていったわよね。そのほうが巧くいくと思ったの、特にゼイフォードをつっぱねるシーンでは。女性の観客にも、共感が持てて応援したくなるようなキャラクターは必要なはずよ。だって、この映画、最初のうちは少しばかり男性優位すぎるんだもの。トリリアンは、物事に疑問を持ったり、頭のいい人と会話したりすることでワクワクするタイプ。だから、彼女が一番幸せなのは、《黄金の心》号でマニュアルを読んでいる時じゃないかしら。彼女にとっては、理解する、ということが何より楽しいんだと思うし、そう考えると、トリリアンというキャラクターの外見がどんな感じなのか見えてきたの。彼女は、いい意味でちょっとオタクっぽくて、勉強好きなの。私は彼女を強くてセクシー、でも何より知的に演じたかった。そしていざとなれば、ある程度、肉体を武器にすることもある。ヴォゴン人の攻撃から逃れるためゼイフォードを魅惑した時には、実際、かなりタフにならざるを得なかったはずよ。でも、彼女はきっと不満が溜まっていただろうとも思う。せっかく宇宙に飛び出したというのに、出会ったのがヴォゴン人みたいな連中ではね。あれじゃ、地球で出会ったバカどもと大差ないじゃない。
男たちがおたおたしている間に、トリリアンがリーダーシップを発揮するシーンが結構ありましたね。
彼女はとても利口で要領もいいから、ある時点から、他の登場人物たちが言い争ってばかりいるのに少しばかりうんざりし始めて、自分が主導権を取ることにするの。
彼女も宇宙船を操縦できますしね。マニュアルさえあれば、ですが。
実際、トリリアン抜きでは《黄金の心》号は動かせないのよ。みんな、それぞれに得意分野があって、ストーリーの中にちゃんと組み込まれている。ゼイフォード抜きでは、そもそも《黄金の心》号に乗り込むことはなかったし、彼が有名人だったおかげで他の仲間も何度も命日拾いしているしね。アーサーはずっと質問ばかりして、パーティで自分をびっくりさせたまま姿を消してしまった女の子と再会し、今度こそ何とかして彼女と親しくなろうと頑張っている。フォード・プリーフェクトは割と観察者タイプで物事に動じないけれど、ほとんど禅の境地に近いような彼の勇気が物語をひっぱっていく。トリリアンはもっと率直で、人間とエイリアンのハーフみたいなところもあるけど、彼女こそが実は他の面々になすべきことをさせているのよ。
半分エイリアンって、どんな感じでしょうか。私も自分のことを、半分エイリアンみたい、という気がするの。学校とかで、これまでずっとみんなから「変わってる」と言われ続けてきたけど、これで元が取れたわ! 多くの人がこの物語に共感するのはきっとそのせいね。誰だって、自分が周りから少し浮いていると感じているのよ。
インターネット上のダグラス・アダムスのファンたちの間では、「トリリアンは人間か?」というトピックで盛り上がっていますが、あなたはどう思いますか?
自分が実は半分エイリアンなんだと知ったら、トリリアンは結構喜ぶと思う。彼女は3つも学位を取れるほど頭が良いから、彼女にとって人生で初めての挑戦らしい挑戦は、宇宙船に乗り込んでマニュアル片手に操縦しなきゃならない、ってことだったんじゃないかしら。それって相当すごいことよね、だって宇宙船を設計した人はボタンやダイヤルをいっぱい付けたでしょうから。不可能性ドライブだって、地球で習う物理法則とは全然違う! このことが、私がトリリアンというキャラクターを理解するための最初の鍵だったの。頭がいいからこそ、彼女はパーティでゼイフォードと一緒に行くことを選んだのよ。彼女にとっては地球は狭すぎるような気がしてならなくて、わくわくする人生を送るためにはこのバカげた冒険に乗ってみるしかなかったのね。地球上には、彼女が挑戦できるようなものはなかったから。宇宙に出るや否や新しい体験にとびつくトリリアンは、ある意味アーサーとは対照的ですね。
まずは自分の知的好奇心を満足させ、自分がどこまでやれるかを試してみなくちゃ気が済まないのよね。誰かと本気の恋に落ちるのは、その後。
あなたとアーサーの出会いのシーンは、かなり独創的です。本を読んでいる彼に、あなたのほうから近づいていき、第一声が「あなたは誰?」。
何だか別のジャンルの映画のはじまりみたいよね。普通は、こういうシーンはさっさと切り上げて話をもっと盛り上げる。よくあるパーティの「ボーイ・ミーツ・ガール」なシーンよりも派手な見せ場はいくらでもあるんだもの。でも、この映画の場合、地球での「ごくありふれた日常」で始めることがとても大切なの。宇宙での大冒険に乗り出して、ファンタスティックなセットや惑星を目にする前に、ちゃんと地に足をつけておくことがね。私が「これは凄い」と思って一番感激したのは、初めて《黄金の心》号のセットに入った時だった。学生時代に初めてこの本を読んだ時のことを思い出して、まるでその頃の若い自分に戻ったような気がしたの。あまりに強烈な感覚だったので、思わずセットの中をぐるぐる走り回ったり階段を駆け上がったり駆け下りたりしたわ。想像力の余地があるという感じがしたし、何よりこの時私は初めて、この映画は自分たちにできる最高の作品にしようという思いで固く結ばれた人たちの手によって作られているんだ、ということを強く実感して、彼らの仕事ぶりにすっかり圧倒されちゃったの。こんなにも丁寧にセットを作ってくれた人たちを見ると、役者として奮起させられるし、あと、作品のファンとか、ダグラス・アダムス本人とか、彼のご家族に対して、ものすごい責任感もあったと思う。そのためにも良い映画を作らなくちゃ、それが一番大事なことなんだ、だから私たちみんなが創造性や知性をめいっぱい発揮して頑張らなくちゃ、って。
おっしゃる通り、ファンの人たちやご遺族にも多大な責任を感じていましたが、『銀河ヒッチハイク・ガイド』を知らない人たちにも同じくらいの責任を感じていました。
新しくファンになってくれる人たちね! この映画は、裏に哲学的な意味を含んだ知的なコメディだから、何度観ても飽きないと思う。きっと、観るたびに何か新しい発見があるはず。4ヶ月も撮影に参加していた私でさえ、見逃したことや憶えてなかったようなことがね。本当に、この映画の完成が待ち遠しいわ。自分が参加している映画のことは気になるものだけど、でもこの映画は特別ね。こういう知的なコメディを待ち望んでいる人はたくさんいるんじゃないかしら。ある種の、政治的意義も持っているし。あ、私が言いたいのは、映画の中の出来事は、地球で実際に起こっていることと比較できる、という意味ね。エイリアンとか宇宙の話ではあるけれど、でも何よりおもしろいのは、話のスケールはすごく大きいのに、実際に起こっている物事は私たちの日常と変わらない、ってところだから。相変わらず官僚主義ははびこっているし、政府はやたらと決断を急ぐし、汚職はあるし、といった具合で、イライラすることばっかり。それから、人間の常に問い続ける能力を重視しているところも好き。この映画のメッセージの一つは、疑問を持つことを大切にしよう、だと思う。政府に対しても、身の回りの人やものに対しても、疑問を抱き続けるのって、大事よね。というか、そもそも地球は「究極の疑問」を導き出すために作られたんだから、その地球にいる私たちがやたらと疑問を抱きたがるのも当然かしら。
そういうふうに考えたことはありませんでした。地球が究極の答えを計算するために作られたのなら、当然、ダグラスのキャラクターたちにもその影響はあるはずですよね。彼は疑問を持つことを大事に思っていましたし、他の人たちに、新しい視点、これまでとは違う角度で物事を見てもらいたいと思っていました。私はモスとも長時間お話しましたが、お二人ともアイディアというものに関心を持っていらっしゃることが印象的でした。
もともと哲学には興味があったから、アイディア満載のSFコメディを読むのはすごくおもしろかった。印象的だったのは、哲学的な要があって、世界とか、美とか、不条理について語っているところ。だからこそ、ヴォゴン・イェルツが拡声器で私たちに向かって「今から地球を破壊します」というシーンがおかしいの。「いまごろ大騒ぎしてなんになる。設計図も破壊命令も、最寄りの土木建設課出張所に張り出してあっただろう。アルファ・ケンタウリの出張所に地球年にして五十年も前から出てたんだから、正式に不服申立をする時間はいくらでもあったはずだ。いまごろ文句を言うのはいくらなんでも遅すぎる」(安原訳『銀河ヒッチハイク・ガイド』、p. 48)
アメリカでも似たようなことはあって、運転免許の更新に陸運局(DMV: Department of Motor Vehicles)に行ったら、デスクの向こう側にいる人から「この書類に記入して、ただし書類をいったん家に持ち帰って青いペンで記入してください、それも木曜日に」と言われたのよ。エイリアンというと、私たちはつい自分たちよりもずっと大きいか、あるいはもっと小さいものを想像しがちだけど、フタをあけてみたら自分たちとたいしてかわらなかった、というアイディアは素敵だと思うわ。
映画の撮影現場で私が驚いたのは、キャストのみなさんにとって身体的に大変なシーンが多いことです。あなたとバグブラッターのスタントシーンは、かなり印象的でしたよ。
子供の頃にロッククライミングをやっていたから、ハーネスとかそういう装備に私はかなり慣れているの。だから全然心配してなくて、一番いいのは自分なりに最善を尽くすことだ、と思ってた。スタントシーンも、自分でやれならそれに越したことはない。勿論、危険すぎるということなら、プロのスタントマンにおまかせするけど。
あなたが思っていらっしゃった以上にアクションシーンが多かったのでは? かなり怪我もされたそうですね。
傷だらけで帰宅して、ジェイソン(・シュワルツマン)に大笑いされたこともあったわ。だって、銃で撃たれたり、物が降ってくるのを頭で受けたりしなくちゃならなかったんだもの。
ミサイルに追いかけられた《黄金の心》号が、大揺れするシーンもありましたね。
自分たちの身体をいろんなものにぶつけたりして、おもしろかったけど、想像以上に身体的にはすごくキツかった。これぞ知的SFアクション映画だ!とも思ったけど。知的SFアクションであると同時に、フィジカルなコメディだと思ったのは、惑星マグラシアでお互いに自分の考えを叫び合うシーンで、とてもおもしろかった。マーティンが、やかましい音を立てる移動装置に向かってわめくところとか。
トリリアンとゼイフォードの関係についてはどう思いますか? 二人の間に、肉体的にも惹かれ合うものはあったでしょうか?
トリリアンなら、ゼイフォードを十分キュートだと思ったはずよ。ひと夏の恋、みたいなものね。《黄金の心》号の中で、そういうことが行われたと?
観客一人一人の判断に委ねるわ。私が思うには、トリリアンはゼイフォードを魅力的だと思うけど、ずっと続く恋の相手ではない、ってこと。
他の俳優陣との共演はいかがでしたか? 相当いろいろなタイプの方が集まっていらっしゃったと思いますが。
みんな、一丸となって仕事ができたと思う。ミサイルの攻撃に晒された《黄金の心》号の中で、私たちがわあわあ言い争っていると、アーサーが "Well, we can talk about normal till cows come home"(「ノーマルとは何かなんて話し合ってたらいつまでも終わらないよ」) と言い、他のキャラクターが口々に「ノーマルって?」「家って?」「牛って?」と訊くシーンとか。すごくいい台詞だと思うわ。哲学的だし、キャラクターの性格もよく出ていて、ジョークにもなっているもの。
とても『銀河ヒッチハイク・ガイド』的ですよね。
彼らの関係を表現するのにぴったりね。こうして振り返ってみると、この映画の仕事は本当に楽しかったと改めて思うわ。
ビル・ナイ(スラーティバートファースト)
『銀河ヒッチハイク・ガイド』のことはご存知でしたか?
ああ、前からよく知ってる。もうちょっと若い頃に読んだんだが、私の知人はみんな読んでいたね、何しろ大ヒット作だから。私も楽しく読んで大笑いし、これはすごいと思ったから、その後、当時13、4歳だった自分の娘にも買ってあげた。もし『銀河ヒッチハイク・ガイド』のカバーに何か惹句をつけたいと思うなら、私と私の娘の名前は公にしない、という条件で、「私の娘は読んで椅子から転げ落ちた」というのを使ってくれて構わない。実際、娘は転げ落ちたんだから。後ろでバタンと大きな音がしたから、何ごとが起こったのかと軽くパニックしながら振り向いたら、娘は文字通り、椅子から転がり落ちて大笑いしていた。もっと素晴らしかったのは、娘はあまりにこの本が美しくておかしくてファンキーだったものだから、僕とその感動を分かち合おうと、ほとんど本1冊丸ごと読んできかせてくれたことだ。朗読してくれている娘の姿を見ているのは最高だった。で、続編の『宇宙の果てのレストラン』『宇宙クリケット大戦争』『さようなら、いままで魚をありがとう』もまとめて買ってあげた。どの本も見事な出来だと思う。著者は、本当に才能があったんだね。彼の本は、ただおもしろいだけじゃないし、SFというジャンルの枠も越えている。彼がものすごく頭が良い人だったってことは、これらの本を読めばすぐに分かる。この世界に、彼の本があるってことが本気の本気で嬉しい。
まさにおっしゃる通りです。知性とユーモアが両立している作品は、本当に稀ですよね。私の娘は当時10歳でしたが、同じように感じて、作品のファンになりました。このことは、映画版にとって幸先が良いと思いますし、『銀河ヒッチハイク・ガイド』を知らないティーンエイジャーの世代にアピールするためにも、次の夏には「是非見なきゃ」と思わせるような、楽しくてヒップでクールな作品にしなければ、と思います。
私も、最初に脚本を読んだ時にそう思った。この作品に参加したいと思ったのは、何もかもすべてが気に入ったからなんだ。本当に良く出来ている。ジョークは世界トップクラスだ。ものすごく愉快でドキドキわくわくできる上に、物事を考えるきっかけを与えてくれる。作品に挿入される、ほんのちょっとしたネタ、たとえば、空を飛ぶなら、まず身体を地面に向かって投げ出して、あとは地面について忘れてしまいましょう、とか、そういうのに私がすごくそそられるんだ。子供だったらみんな夢中になるんじゃないかな。
参加されることになったきっかけは?
この企画のことを初めて耳にしたのは、ガース・ジェニングスと私の共通の友人が、スコットランドで結婚式をあげることにしたと言ってきた時だった。友人いわく、「ところでさ、彼は映画監督なんだけど、今彼が関わってる『銀河ヒッチハイク・ガイド』のことで君と話したいと思ってるんじゃないかな」。ガースとはそれまで一面識もなかったが、もうちょっとで結婚式まで車に同乗するところだった。結局、一緒には行かなかったたけどね。結婚式会場でも一言も口をきかなかったし。ガースはそういうことはしちゃいけないと思ってたんじゃないかな。で、アイリッシュ音楽に合わせてお互いの手を握ったかもしれないが、プロジェクトについては何も話さなかった。その直後に脚本が送られてきたので速攻で読み、他にもいくつか読んでいた脚本はあったけれど、まったく迷うことなく決めた。脚本を読み終えるや否やエージェントに電話し、この映画に出させてもらえるなら是非とも出たい、と言った。この作品ならヒットすること間違いなし、という計算もあったが、でも本当にそうなるかは誰にも分からない。ともあれ、私たちはヒットすると確信していたけど、そうでなければやらないよ。というか、実際にやることにしたんだが。私も、そう思ったから今ここにこうしている訳だし。でも、この映画はきっと話題になると思う。いろんな人にアピールする要素が入っていて、どんな客層も楽しめる。脚本はよく出来ていて、小説版をとても巧くアレンジしている。大冒険があって、魅力的な旅があって、ステキなラブストーリーがあって、大いなる決断も下されて、その上、映画の冒頭10分で地球が破壊されるんだから堪えられない。この手の映画は、そういうことが起こるのを止めようとするものなのにね。だから、一読するなり気に入った。実際のところは、いたってシンプルだ。電話を1本かけて、そしたら、契約したおぼえのないことも含めてあれこれいろんなことが起こって、気が付いたらロサンジェルスでレッドカーペットに立っていて、たくさんのマイクを向けられていろいろ喋らされるんだが、最後にはいつも「次回作は何ですか?」と訊かれてモゴモゴと口ごもることになる。自分でも分からないし、もし分かっていたとしてもスタッフから口止めされているからなんだが、しまいには口ごもるネタも尽きて、つい「次は『銀河ヒッチハイク・ガイド』に出たいね」と言っちゃったんだが、言った相手がBBCだったせいで、翌日エージェントから電話がかかってきて、「自分が何をやらかしたか分かってるのか?」という趣旨の言葉を賜ったよ。そんな契約はしていなかったからね。結局、「インディペンデント」紙の一面に記事が出た。私としては全然気にしてないんだが。「だって、本当に出たいんだよ」と言っておいた。
そして私たちは今、こうしてスラーティバートファーストのトレーラー車にいる訳ですね! 映画版の魅力の一つは、スラーティの見た目だと私は思います。いかにもな白ヒゲの老人とは、似ても似つかないものにしましたから。
映画の中のヒゲについては、そりゃ例外もたくさんあるけれど、表情を出せる顔の部分が狭くなるせいで、往々にして観ている人に感情が伝わりにくくなってしまうんだ。それが、「西洋の老人」風のメイクを止めにした最大の理由かな。その他に私から注文をつけることはなかったよ、サミー・シェルダンとガース・ジェニングスの二人がよくやってくれたし。あれこれいじくりまわす必要も感じなかった。ヒゲは邪魔なだけ、という点にについては全員一致で、あとは企業の人間っぽいテイストも足すとおもしろいんじゃないか、衣装もそうしよう、ということになった。スラーティバートファーストやフォード・プリーフェクトやアーサーを初めて読んだ時、そういうイメージってぱっと頭に浮かばないけれど、いざ思いついてみれば何だかうまくいきそうだし、きっとおもしろくなるぞという自信も持てた。
あなたの演技の定番とも言える、鼻を鳴らすことについてはどうお考えですか? お約束の笑いのようなものですが、でもかわいらしくて好きにならずにはいられません。
筋の通った説明になっているかは分からないが、人が無意識のうちにやっていることって、その人の生まれながらのイノセントな資質だと思う。時々ヘンな音を立てるのも、そういうことじゃないかな。
私が何より気に入っているのは、どのキャラクターも普通の人間だということです。ある程度の人間らしさを盛り込みたいと思っていました。銀河を舞台とした作品にしては、極めて稀なことですが。
私が気に入ってるのはまさにその点だし、『銀河ヒッチハイク・ガイド』に初めて出会った人にも私のような筋金入りのファンにもきっと受け入れられると思う。必ずしも普通の人間から英雄的行為を引っ張り出す必要はないんだよ。普通の人間が失敗したり、誰かと仲良くなったり、おしゃべりしたりするのって、この種の映画ではあんまりないけどね。ま、この映画自体が一つのジャンルみたいなものと思えばいいか。
スラーティの魅力は、自信と気後れがないまぜになっているところです。自分の仕事についてアーサーに話している時の彼は楽しそうです。でも、同時に彼は、ネズミたちがこの感じのいい地球人の脳を取り出そうと画策していることを知っていて、実際、地球人を俎板に載せるよう命じられてもいます。
うん、そうだね。彼は、遠くの会議室にいるような連中から詳しい話は聞かされていなかったんじゃないかな。仕事が完了し、晴れて自由の身になれると思ったのに、残りあと10分というところでヴォゴン人のバカどもが地球を吹き飛ばしてしまった。銀河中のつまらない仕事をやらせるために、ヴォゴン人のための惑星ヴォグスフィアを建設した。何かおもしろいことを思いついた人がいたら、そいつの顔をひっぱたいて阻止する、という機能まで付けてね。実際、退屈な仕事をしなきゃならない人たちの身に起こる現実を、巧く反映していると思うよ。
あのパドルは、LAから戻る飛行機の中でアダムスが考えついた、映画オリジナルのアイディアです。次の朝、彼はオフィスに来ると、他の人たちの反応を知るべく、声に出して読んでくれました。オフレコで出来立てのネタを聞く僥倖に恵まれた我々のチームは、転げ回って大笑いしました。
それは素晴らしい。数百万年におよぶ進化の果てに、ヴォゴン人はマニュアル通りに動く無慈悲な種族となったが、これもいわゆる官僚主義ってモノをよく反映している。それを対照的なのがスラーティで、温和で、思いやりの心があり、自分のやっていることに誇りを持っていると思う。自分で物を作っている人たちは、自分の作業場なり特撮小屋なりモデルショップなりを見せて回ったのに思ったほど感心してもらえなかった、ということがあっても、口に出さないだけで自分の仕事に誇りを持っている。こういうことに気付くところがダグラスの優しさで、地球製造者たちもきっとそうだったんじゃないかな。映画の中で、野原に植物を植えたり、海に水を注入したり、ドーバー海峡の白い崖やエアーズ・ロックに色を塗ったりする人が登場するけど、あのイメージは大好きだ。ダグラスの世界では、地球を作るというのはああいう感じなんだね。感動的で、独創的で、ちょっと愉快な。
それから、ノルウェーのフィヨルドも、『銀河ヒッチハイク・ガイド』を一度読んだら忘れられません。ノルウェーのフィヨルドでデザイン賞を受賞、だなんて、変わってるけど素敵ですよね。今や定番のネタですが。
最近、会う人みんながその話を思い出すんだ。僕と同じくらいの年齢の人ばっかりなんだが、『銀河ヒッチハイク・ガイド』を20年以上も前に読んだきりなのに、僕がどの役を演じることになったかと言うと、まあ実際は言う前に大抵当てられるんだが、ともあれみんな 'Fiddly bit' とか「ノルウェー」とか「賞をもらったんじゃなかった?」と言い出す。全部を憶えていないとしても、みんな何かしら憶えているんだ。それだけ愛されているってことだね。
ほとんどの時間は、マーティンとの共演でしたね?
彼と仕事するのは本当に楽しい。素晴らしく頭のいい若手コメディアン兼俳優で、コミカルな演技も苦もなくできる。彼がキャスティングされたと訊いた時は、「『The Office』のティムがアーサーをやる? そうそう、そうこなくっちゃ」と思ったよ。あらゆる意味で、彼はアーサー役にふさわしい。コミカルなタッチを出させたら、彼はワールドクラスだ。でも、それだけじゃない。彼には、人をひきつけて、見続けずにはいられない資質がある。アーサーは、観客を代表して次から次へとものすごい体験をし、観客はアーサーを通じてそれを体験する。そういう演技をやり遂げるには、常に自分が前に出て何かをやるのではなく、一歩下がって受け身になる必要がある。彼がやっているのを見ると簡単そうだけど、主役でありながら同時に観客の目となり耳となるのは、非常に難しいことなんだ。
おっしゃる通りだと思います。あなたご自身に関しては、撮影中で特に記憶に残っていることは何ですか?
昨日、マーティンと僕は惑星製造工場でカートに乗っているシーンの撮影をしたんだ。あれはなかなかおもしろかったな、放水機とウィンド・マシン(風が吹いている音を出す機械)が同時に稼動している中で芝居をするのはね。いい歳をした大人たちが、プラスチックのカップで放水機に水を入れていたんだが、高圧の放水が突然僕たちのほうに向かって吹き出してきた。監督も水を止めようとしてたんだが、おもしろがりすぎてついカップから手を放してしまったせいで、カップは放水機に吸い込まれてしまい、突然プラスチックのカップがマーティンの顔めがけて飛び出したんだ! 僕に言わせれば、かなり『銀河ヒッチハイク・ガイド』っぽかったな。大体こんな感じで、楽しんだり頑張ったりしながらこの映画を作り上げたんだよ。
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