以下は、ラジオ・ドラマやテレビ・ドラマで『銀河ヒッチハイク・ガイド』の主人公アーサー・デントを演じたサイモン・ジョーンズが、M・J・シンプソンが書いた『銀河ヒッチハイク・ガイド』の解説本 A Completely and Utterly Unauthorised Guide to Hitchhiker's Guide (2001年) と、その改定版(2005年)に寄せた序文の抄訳である。
ただし、訳したのは素人の私であるので、少なからぬ誤訳を含んでいる可能性が高い。そのため、この訳はあくまで参考程度にとどめて、全貌をきちんと知りたい方は、必ずオリジナルにあたってくださるようお願いする。
僕にはずっと謎だった。どうして長年の友人ダグラス・アダムスはいつも、『銀河ヒッチハイク・ガイド』のヒーロー兼犠牲者のアーサー・デントは僕をモデルにして書いたと言い続けるのか。僕としては、共通点はまるでないと思う。ぶっちゃけて言えば、ちっとも似てない。アーサーは、人生の大半をガウンを着たままイライラと紙一重のドキドキ状態で宇宙を旅して回ることに費やし、その間ほとんどずっと、ちゃんとした良質の紅茶がないことに文句を言い続けている。彼のイライラの原因は、物理的に転移した場所の状態のせいではなく、これまでも、そしてその瞬間も、何もかもが見た目通りではないことに対する漠然とした不安によるものだ。彼は雑多な知識にすぐ気をとられ、今日は木曜日だと思い続けている。
実のところ、僕がマイク・シンプソンという人から初めて電話を貰ったのは木曜日だった。彼はイギリスにいて、僕はニューヨーク、彼にはちょうどいい時間だったかもしれないが、僕にとっては少しばかり朝早すぎる時間だった。実際、ベッドから出て薬缶を火にかけたところだったのだ。
彼はすぐに要点を切り出した。「私が書いた『銀河ヒッチハイク・ガイド』に関する本に、序文を書いていただけませんか?」
言うまでもなく、疑惑の念がすぐさま立ち上ってきた。
「何の本だって? 一体何の話だ?」
彼いわく、彼の本は、ダグラスの古典的名作が、これまでありとあらゆるメディアでどのように扱われてきたかを製作された順に解説したものだという。そして、「お分かりのことと思いますが、アーサー・デントとしてのあなたの生涯についても詳しく書かれています」
僕はちょっと考えた。そういうことか、それはかなりおもしろそうだ、でもその前に訊いておかねばいけないことがある。「その本を欲しいと思う人は、本当にいるのかな?」
彼は少し険のある口調で即答した。「勿論、そうでなきゃ書いたりしませんよ」。
「なるほどね!」僕は考えた。「間違った側からベッドを出た人がいたとしても、それは自分ではなさそうだ」。実際には、僕は間違った側からベッドを出ることはできない。反対側で妻が寝ているからだ。とは言え、自分では気付いていなかっただけで、これまでずっと間違った側から出ていたとしたら……。
僕は彼からの電話を保留にして、その頃には沸騰していた薬缶を火から下ろした。お茶を蒸らす前にまずポットを温めなければ、でなきゃ飲めたものではない。茶葉の上にお湯を――沸騰しているうちに、そうでないと時間の無駄である――そそぎながら、僕は彼の提案について考えた。彼はツボをついていた。この本は必要だ。僕にとって必要だ。これで今度こそ、小説より先にラジオ・ドラマが作られたのだとみんなに証明することができる。意外に多くの人がこの事実を知らなくて、僕が説明しても頑として信じてくれないのだ。時期や場所に関する決定版の解説書が出れば、不毛な言い合いで時間を無駄にすることもなくなるだろう。僕もびっくりすることがあるが、世間にはとんでもない言説が流れている。僕は一度、ロック・バンドのザ・フーが、アーサー役をロジャー・ダルトリー、『ガイド』役をピート・タウンゼンドという配役でロック・オペラを企画したことがある、という話をきかされた。バカバカしいけど、ちょっと興味深くもある。ドイツの映画監督ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーの弟子が監督した9時間もの実験映画が、忘れ去られたままライプチヒの倉庫に眠っている、とか言っていたのは誰だったっけ? 単に夢の中でそう思っただけか?
僕が紅茶を蒸らしていると、電話からキーキーと音がするのが聞こえた。マイク・シンプソンはしびれを切らし始めていた。「で?」彼は言った。「どうされますか?」彼は急いでいるようだった。「本の内容を読んでから決めたいということなら、Eメールで送りますが?」
「あ、いや、そんなお手間は……はあ、そうですね、もしできればお願いします」
情報スーパーハイウェイって凄い! 僕にはその仕組みはさっぱり分からないが、いまだに興奮させられる。
僕が待っていると――たいして長い時間ではなかったが――ダウンロードできるようになった。勿論、言うは易し行うは難しで、コンピュータと格闘している間にファイルの存在そのものを忘れ果てる始末だったが、どうにかスクリーンに出すことができ、ほどなく印刷することもできた。読んでみると、とても分かりやすくて、正確で、興味深い。僕の名前が随所に出てきて、いろいろな意味で励まされたが、一カ所、ハリウッド映画版でアーサーを演じるには僕は年を取りすぎているという下りだけはあまり嬉しくなかった。僕の名前じゃ集客力がない、ということか。それに、僕が年を取りすぎているというなら、それは僕が長い間待たされすぎたせいだ。将来誰がキャスティングされるにしろ、彼らがまだ生まれてもいない頃から……。
ともあれ、僕は彼に電話を掛け直した。彼の研究成果におめでとうと言い、喜んで、じゃなかった、謹んで本の序文のようなものを書かせてもらうと伝えた――何を書けばいいのか全然分からなかったにもかかわらず。電話の受話器を置いて、僕は紅茶のことを思い出した。紅茶は煮出されて、色といい濃さといい、プルーン・ジュースと化していた――入手困難な、上等のセカンドフラッシュアッサムだったのに。
え、この本のこと? すごく良い本だよ。共に楽しく読みましょう(あれ、前にどこかで聞いたような気がするぞ)。サイモン・ジョーンズ
2000年11月、ニューヨークにて
やれやれ。初版に向けた僕の序文を読み返してみたら、何だか1914年の穏やかな夏の日にアスコットで撮影された写真でも見ているような気がした。トップハット姿の紳士や優雅な服装の淑女たちが、これから自分たちの身に降りかかる災いについてまるで知らずにいたように、僕自身もまた、自分やアーサー・デントやダグラスに何が待ち構えているかまったく気付いていなかった。どんな運命のカードが回ってくるかを推測することなどできるはずもないにしても、僕らは想像の及ぶ限りの最悪の出来事について心の準備をしていなかった。
2001年は、残酷なほど突然に、世界が一変した年だった。だが、僕ら『銀河ヒッチハイク・ガイド』の関係者たち、ファンにとってもキャストにとっても、本当の悲劇は911の大惨事に先立つ5月に、ダグラスがサンタバーバラにある地元のジムでルーティンのウェイトリフティング中に、重度の、そしてまったく予想外の心臓発作に倒れたことだった。
僕たちは皆、彼の家族、妻のジェーンや娘のポリーほどではなかったにしろ、一様に打ちのめされた。インターネットでの反応も大きかった。地球上のあらゆる場所から追悼の言葉が溢れ出たが、これにはきっとダグラス本人でさえびっくりしたにちがいない。本当にたまたまだったのだが、カリフォルニアで行われた葬儀の場で、ある遠くの天体がアーサー・デントにちなんで命名されることが公式に決定したとアナウンスすることもできた。そしてまたこれもある種の必然だったのではと思うが、葬儀の後、ニューヨークへ戻る飛行機の搭乗カードに悄然と目をやると、自分の飛行機がデルタ航空42便であることに気が付いた(でっち上げではない。僕はその時のカードを今でも持っている)。
9月11日、僕はニューヨークにはいなかった。ロンドンのセント・マーティン・イン・ザ・フィールズ教会で行われたダグラスの追悼式に参加していたからだが、約18年前、ワールド・トレード・センターの最上階のレストラン、「世界の窓(Windows on the World)」でダグラスと夕食を共にしたことが今でも忘れられない。ダグラスが、西海岸から車を運転してそちらに向かっているところだから、是非そのレストランで一緒に食事をしようと言ってきたのだ。予約を入れようか、と。ちょうどその日、テリー・ギリアムもカナダから飛行機で戻ってくることが分かったので、みんなでタワーの頂上に集合しようじゃないかという話になった。このタイミングの良さに勇気づけられ、僕は思い切ってガールフレンドのナンシー・ルイスに結婚を申し込むことにした。彼女はモンティ・パイソンのアメリカ人マネージャーで、僕に会う以前からダグラスの友人でもあったのだ。僕は、マンハッタンを走る広々としたチェッカー・キャブの最後の一台の中で膝をついて求婚し、彼女は寛大にも承諾してくれた。僕らが浮かれ気分でレストランに着くと、支配人のような人が出て来て、誤って火災報知器が作動したためキッチンが緑の泡だらけになってしまった、と、大層申し訳なさそうに説明してくれた。呆然としながらも、僕たちが今回の会合の重要性を説くと、彼はさらに申し訳なさそうな様子で僕たちにシャンパンのボトルを渡し、お隣の寿司バーへどうぞと言った。やがて他の二人も到着し、豪華な夕食はダメになったけれど、その失望も僕たちの婚約という慶事のおかげで半減したと思いたい。そして今、こうしてロンドンにいて、あのすさまじい破壊と多くの人命の損失について振り返る時、僕は、ダグラスだけでなく他の誰もがもうあの場所で食事することはないんだな、とふと考えてしまう。
ともあれ、セント・マーティン・イン・ザ・フィールズ教会で、ラジオ・プロデューサーのダーク・マッグスは、BBCに優れた番組を提供している製作会社 Above the Title 社の代表取締役ブルース・ハイマンと出会った。かつて、1994年頃に、ラジオ・ドラマ『銀河ヒッチハイク・ガイド』第2シリーズの続きを製作しようという企画が持ち上がったことがある。その時、ダークは以前のキャストに再演させたいと考え、僕たち全員に仕事の予約を入れてくれたが、その努力も、ダグラスが脚本に不満だったため無となってしまった。僕たち全員にギャラは支払われた――僕たちとしてはお金よりも番組を作れるほうが良かったのだが。時が経ち、ダグラスも亡くなり、残る3作の小説がラジオ・ドラマ化される可能性は完全に消えたかと思われた。ピーター・ジョーンズも、デイヴィッド・テイトも、リチャード・ヴァーノンも、今はもういない。努力するだけ無駄としか思えない。が、それでもブルースとダークは、ダグラスへの追悼としてやり遂げる決意を固めた。
かくして、2003年11月、オリジナル・キャストの生き残りたちはサウンド・ハウス・レコーディング・スタジオに集結して、髪の生え際を比較し合い(僕は負けた)、そして懐かしい役柄に戻っていったが、それは長年使い込んだ馴染みの手袋に手を入れるようなものだった。こうして、小説『宇宙の果てのレストラン』はラジオ・ドラマ第3シリーズとなった。そして、2005年1月には、『さようなら、いままで魚をありがとう』と『ほとんど無害』も収録した。この仕事を完成させることは僕にとってもとても重要だったが、仕事の達成感とは別に、僕はもう二度とアーサー・デントとして台詞を言うことはないのかと思うと寂しい。僕と彼との付き合いはもう25年以上になるため、もはや切っても切り離せない仲なのだ。
スタジオでの収録が終わったその翌週、僕には3つの別の仕事が入っていた。そのいずれもが、ダグラスと何らかの関連があった。月曜と火曜は、ハーパー・オーディオ社の仕事で、ノエル・カワードの短編小説のオーディオ・ブックをフィンチリー・ロード駅近くのモチベーション・スタジオで収録した。スタジオに到着するなり、僕はここがかつてダグラスが小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』全巻の朗読を収録した場所であることに気が付いた。水曜は、G・K・チェスタトンの小説『奇商クラブ』(The League of Queer Trades)のラジオ・ドラマ第4話の収録のため、BBCに行った。その番組のキャストの中にはジェフリー・マッギヴァーンもいて、僕は彼の快適な控え室にずっと居座っていたのだが、その他に、タッチストーン製作の映画『銀河ヒッチハイク・ガイド』でアーサー・デント役を務めることになったマーティン・フリーマンがいたのだ。一緒にいられる時間はほとんどなくてすぐに別れてしまったが、でもにこやかに会話をすることはできたし、アーサー役のトーチだかバトンだかを誰かに引き渡すのは不本意ではあるものの、彼の成功を祈っている。木曜には、オブジェクティブTVというところからのインタビューで、1980年代を代表する作品についての番組を製作するということで、『銀河ヒッチハイク・ガイド』と『華麗なる貴族』について話をした。どうやらダグラスはまだまだ僕を手放す気はないようだし、僕としても彼の愉快な作品を宣伝するためなら喜んで何でもやるつもりだ。
マイク・シンプソンは、誰にもまして『銀河ヒッチハイク・ガイド』の火を絶やすまいと長年に亘って熱心かつ惜しみないサポートをしてくれた、と言っても過言ではない。彼が書いた素晴らしいダグラス・アダムス伝について、僕が「シンプソンはダグラス本人以上にダグラスのことを知っていた」と言ったように。このことは今日までも真実であり、アダムスの全作品のファンにとって、この小さなガイドブックは、読んでおもしろいだけでなく、分かりやすさという点でも抜群、故にもっとも信頼できる「基本文献('essential')だ。サイモン・ジョーンズ
2005年1月、ロンドンにて