The Hitch-Hiker's Guide to the Galaxy: the original radio script
INTRODUCTION
to the 42nd Anniversary Edition

 以下は、2020年3月5日にパン・ブックスから出版された The Original Hitchhiker's Guide to the Galaxy Radio Scripts 42周年版につけられた、サイモン・ジョーンズによる序文の抄訳である。ただし、訳したのが素人の私なので、少なからぬ誤訳を含んでいる可能性が高い。そのため、この訳はあくまで参考程度にとどめて、全貌をきちんと知りたい方は、必ずオリジナルにあたってくださるようお願いする。


INTRODUCTION
to the 42nd Anniversary Edition

 最近、BBCの古典的ラジオコメディ、Beyond Our Ken を聴く機会があった。この番組がBBC Home Service(BBC Radio 4の前身)で最初に放送されたのは1958年〜64年で、私はちょうど思春期だった。当時も今も、シンプルに楽しませてくれる。
 私のお気に入りのレギュラーキャラクターの一人が、ケネス・ウィリアムズが演じる老人で、この番組では教会の鐘撞き男という設定になっている。ケネス・ホームズに、何年くらい教会の鐘のロープを引っ張っているのかと尋ねられ、彼は自分のキャッチフレーズを使ってふがふがと答える。「45年!」。ものすごく年寄りくさい喋り方で、「45年」は永遠のように聞こえた。若かった頃の私の耳にも永遠のように聞こえただろうが、あれからうんと長い年月が経っている以上、私の理解の埒外(beyond my ken)だ。
 今の私は60代であり、この程度の年月は通り過ぎる雲ほどの実体感しかない。ノエル・カワードは、年をとると「30分ごとに朝食の時間になる」と言っていた。不意に、私たちの貴重な人生がいかにあっけなく消え失せてしまうかについて、思い巡らすことになるのだ。
 記念日は、今や日課になった。先日、50回目の大学の同窓会に出席し、喜ばしくも意外ながら、懐かしい友人知人と心和む楽しいひとときを過ごした。結婚式や洗礼式の話題で盛り上がる年齢は通り過ぎたが、毎週のように誰かの葬儀に参列するにはまだ早い、でもそうなるのも時間の問題だろう。だが今はまだ、年月が過ぎ去るのを意識しつつ祝いたい。命短し恋せよ乙女、だ。
 40年、50年、60年、70年、下一桁0の数字なら、どれでも祝うに値する――が、たった一つ、私の人生に暴走列車よろしく怒涛の勢いで押し寄せ、私を仰天させた数字がある。
 42。
 ダグラスが生命と宇宙と万物についての究極の答えを「42」に定めたのは、このありふれた数字にカリスマ性というものが欠けていたからだった。彼が選んだ地味な数字は、彼が40代前半を迎える頃にはすっかり定着し、彼に限らず誰の予想をもはるかに超えるほどの神秘主義的重要性を授かることになった。今ではいたるところで目にする。2019年、ディオファントス方程式(3つの異なるサイズの立方体の体積の合計が、1から100までの数字になるような、すべての解を求める問題)を、二人の数学者がグローバル・ネットワークを通じて50万台ものコンピュータを駆使して解いた。最後まで手こずらせた数字は何だと思う? 42だ。
 2001年、サンタバーバラで行われたダグラスの葬儀からニューヨークに戻る飛行機の中で、私は自分が「デルタ42」に乗っていることにふと気付いた。亡き友からの別れのメッセージのように思えて、この時のボーディング・パスは今も大切に残している。
 そして、今。
 私が初めて『銀河ヒッチハイク・ガイド』の試作用脚本を開いてから本当に42年もの歳月が過ぎたが、私が声を担当した役名は以来ずっと私につきまとっている――アーサー・デント。アーサーは、私が切り落とすことのできない尻尾のようなものだ(手放したいと思っている、という意味ではなく)。このあいだ私が地元の診療所に行った時のこと、これまで会ったことのない医師に出会った。私が症状を話し始める(我が家では「内臓独演会」と呼んでいる)や否や、彼女は自分が耳にしたことを確認するかのように頭をかしげ、そしてこう言った。「あなたの声に聞き覚えがある。あなた、アーサー・デントでしょ」。
 1977年6月27日に話を戻す。この日は私の27歳の誕生日(2と7は、共に「42」の重要要素である)のちょうど一ヶ月前のことで、ケンブリッジ大学時代の友人ジェフリー・マッギヴァーン(フォード・プリーフェクト)と初めてコンピとして組んで仕事をすることになると知ったが、まさかこの関係がその後数十年にわたって続くことになろうとは夢にも思わなかった(そりゃ当然、私たちが知るよしもない。私たちにそれがわかるくらいなら、馬券か株でも買って残りの人生を慈善活動に費やしているはずだ)
 ロウアー・リージェント・ストリートにあったBBCパリス・スタジオで初めて会った時から、私たちはコンビだった。このスタジオでは、1948年以来、数々の伝説的なラジオコメディ番組が録音された(Beyond Our Ken もその一つ)。スタジオというよりもまるで劇場で、400人もの生の観客を収容できる観客席を擁しており、ラジオコメディで育った私たちのような世代にとっては一種の聖地だった。舞台はたった1フィートの高さだったため、ありえないほどの親密さと素晴らしい音響効果の両方を兼ね備えていた。と言っても、ただのアカデミックな関心事に過ぎない。私たちの収録時には観客はおらず、空っぽの客席を前に脚本を読み上げることになったから。
 他に選択肢はなかった。『銀河ヒッチハイク・ガイド』では、空間が拡大したり宇宙を飛び越えたり、これまでにない全く新しいサウンド・ランドスケープが必要だった。地球外の、宇宙っぽい音響は、後からBBCの伝説的なラジオフォニック・ワークショップで追加された。観客がいたとしても、私たちの地声でしかセリフが聞こえない上、最初のプロデューサーだったサイモン・ブレットは、時系列を無視してセクションごとに脚本を区切って録音することに決めたから、プロットを把握することすら不可能だっただろう。
 加えて、いくつかの役柄はポータブル・サウンド・ブースの中で録音しなければならなかった。マーク・ウィング=ダーヴェーは、「食器棚演技」と呼んでいた。閉じ込められた役者の一人が、私と名前のよく似たピーター・ジョーンズで、他のみんなが帰った後、ナレーターとして長く複雑なモノローグをこなしていた。
 エピソードが進むと、ここはスティーヴン・ムーアの住処となった。彼が担当した鬱病ロボットマーヴィンの声は後から加工する必要があったからだ(ある時、みんな彼のことをすっかり忘れてパブに行ってしまい、彼は永遠にやってこないキューを待ち続ける羽目になった、というのは本当の話)。最後には、ジグゾー・パズルのすべてのピースが組み立てられて、私たちにも話の意味がわかるようになった。
 確かに、私たちは本当にシリーズ全話が放送されるかどうか確信が持てなかったし、放送された時には正直驚いた。今となっては、BBCのお偉方にサイエンス・フィクションとラジオコメディの融合にはすごい可能性があると納得させた、サイモン・ブレットが類いまれなる外交力のおかげだとわかっているけれど。
 それでもなお、番組編集局はリスクを減らそうと、私たちのシリーズを火曜の午後10時半に放送することにしたが、これは衣装部屋に置いたスーツケースの中で展示するに等しい。今では、もちろん、カルト人気を煽るためにわざとそうしたというのが後知恵の公式見解だが、結果として成功したのだから文句は言えない。
 でも、もし本当にそうだったとしたら、BBCパブリシャーズはどうして小説版の出版を見送ったのか? この疑問を、当時BBCの理事会議長だったジョージ・ハワードが、彼がヨークシャーに所有していたハワード城でテレビドラマ『ブライズヘッドふたたび』の撮影中だった時に、私に投げかけてきた。彼はこの番組がどんなにヒットしたかよくわかっていたし、ダグラスは本にして出版する値打ちはないと言われたそうですよと私が答えると、機嫌を損ねていた。とは言え、BBCの損はパン・ブックスの益、結果としてダグラスにとってはよい商いになったんじゃないかと思う。
 第2話に進んだ時は、正式に製作の許可が出たことで活気付き、私たちは再びスタジオに集合した。ジェフと私はすっかり経験豊富なベテランの風格を漂わせており、そこに新顔のマーク・ウィング=ダーヴェー(ゼイフォード)、スーザン・シェリダン(トリリアン)、デイヴィッド・テイト(船載コンピュータのエディ)、そしてロボット役のスティーヴン・ムーアが加わった。
 今回から――そしてシリーズの最後まで――ジェフリー・パーキンスが責任者となった。サイモン・ブレットは、優秀なラジオの製作者は遅かれ早かれそうなるが、テレビのほうに移行してしまったからだ。今となって振り返り、かつ、このラジオドラマの脚本に寄せた彼の序文や脚注を読むと、第1シリーズを成功に導いた彼の忍耐と自制心と意志の強さに敬服するしかない。着実に番組を録音している時ですら、ダグラスはどうやって番組を終わらせるべきか決めかねてうなされていたことを考えると、今でもぞっとする。ジョン・ロイドが助け船を出してくれたことには今なお感謝しているし、ジェフリーの高潔なる秘書アン・リングが、疲れ果てながらも最後の土壇場での書き直しを大急ぎで届けてくれた時のことは未だに憶えている。というのも、その紙がクシャクシャのカサカサだったからで、私たちはてっきり男性用トイレのトイレットペーパーだと思ったが、本当のところはトレーシングペーパーだった。ジェフリーが最後の脚本は放送の数分前に届けられたと言っていたのは全き真実であり、当時は勿論今となっても考えただけで恐怖で毛が逆立つ思いがする。
 あれから42年経ち、ピーター・ジョーンズ、デイヴィッド・テイト、リチャード・ヴァーノン(スラーティバートファースト)、スーザン・シェリダンジェフリー・パーキンス、そしてダグラス・アダムスも、みんな故人となってしまった。パリス・スタジオさえ今はもうない。「時は川の流れに似てすべてを運び去る」('Time, like an ever-rolling stream, bears all its sons away.' アイザック・ワッツの賛美歌の一節)。でも、『銀河ヒッチハイク・ガイド』は頑固に生き残っている。
 2012年から2013年にかけて、ラジオドラマ第3〜第6シリーズの脚色/監督のダーク・マッグズは、試作版の収録35周年を記念し、集まれる限りのオリジナル・キャストが集まるステージ・ツアーを企画した。パリス・スタジオでは無人収録だったから、観客と向き合い脚光をあびるのはそれが初めてだった。観客の大多数はジョークを暗記していて、一緒になってシリウス・サイバネティックスの社歌を歌ってくれた。私たちは観客席から押し寄せる善意とノスタルジアの大波に飲み込まれ、ダグラスもきっと喜んでくれたと思う。いや、間違いなく喜んだはずだ。
 ショーが終わった後も、かなりの数の人がステージドアで待っていて、ある意味、一番興味深い時間だった。タオルとか写真とかドレッシング・ガウンとかレコードアルバムとかにサインしてくださいと頼まれる――ちなみに『銀河ヒッチハイク・ガイド』のファンたちはいかなる時も礼儀正しい――だけでなく、多くの人たちがその晩のショーに心から感動している様子だった。お世辞にも若いと言いかねる人たちから「祖父にこのラジオドラマを紹介してもらって本当に良かったです」と言われたり、ひどいストレスに襲われている時もこの番組を聴くことでどんなに心安らぐことができたかどうしても伝えたかったと言われたり、あなたはご自分が聖像(icon)になっていることをご存知でしたかと訊かれたりした(これはちょっとした啓示だった)。
 ある人は、東アフリカに長期駐在中だった時に『銀河ヒッチハイク・ガイド』を繰り返し聴いて正気を保ったと話してくれた。自宅に戻ったような心地よさだったそうだ。別の人は、1970年代後半をベルファーストで過ごした子供時代は本当に危険を隣り合わせだったけれど、ラジオ4から流れてくるアーサー・デントの冒険にかじりつくことがトラブル続きの日々の唯一の明るい光だったと言っていた。「僕みたいなオタク少年にとって」と、彼は言った。『銀河ヒッチハイク・ガイド』は、暴動や爆撃、銃を持った男たちが走り回っているようなどん底のアルスター(北アイルランドの一地方)から遠く離れ、愉快で開放的な世界につながるたった一つの逃げ道だった、と。それはまるで、「この世界がどうなろうと、毎週わくわくしながら待ち続けることのできる、暗闇の中のともしびだったんです」。
 普通じゃないというか、かなりユニークというか、ファンにとって『銀河ヒッチハイク・ガイド』はすごく個人的なものになっているように思う。ダイアナ妃が亡くなった時――私たちのようにもう少し上の世代ならJFKが暗殺された時、自分がどこで何をしていたか、はっきりと記憶しているものだが、同じように少なからぬ人数の人々が『銀河ヒッチハイク・ガイド』を初めて聴いた時のことをピンポイントで説明できる。放送時間になると、ココアを入れていた人もいれば、猫を部屋の外に出していた人もいるが、何にせよ多くのリスナーにとって人生が変わるほどの出来事だったのだ。
 どうしてこうなったのだろう? その秘密をとく鍵は、独特で多岐にわたるダグラスの心のありようだと私は思う。彼はおもいがけない方向におかしさを見出していた。彼の手にかかれば、日常生活のごくありきたりのエピソードが、もっともらしいと同時に奇妙奇天烈なものに作り上げられた。グレアム・チャップマンと一緒にいた短い期間にモンティ・パイソン流のものの見方を吟味して学習し、それを発展させたのだ。彼は言っていた。「『空飛ぶモンティ・パイソン』での出来事は、世界の一面をひとひねりした上で、そのひねった論理に従ってたどり着く先を見定めることだ」。くどいようだが、『銀河ヒッチハイク・ガイド』はまさにその通りで、ダグラスのアイディアはどんなに突飛なものでも、すべて日常生活のよくある状態に基づいている。たとえば、必要な時に限ってペンが見つからない、という状態を説明するにあたり、彼はペンというものは定期的に空間ポータルを通り抜けてはるかかなたの惑星で暮らしているのだ、と推測する(目下、私は同じ理屈を老眼鏡に当てはめている)。
 常に変わらぬ彼の魅力の一つは、人生にはつきものの日常のイライラを分かち合い、それらを客観視し、とんでもない規模にまで拡大してまぜっかえすことだ。アーサー・デントは、大なり小なりのストレスを抱えて暮らす、どこにでもいる人間である。が、そんな彼が宇宙に解き放たれると、彼の悩みは宇宙規模にまで膨らみ、バカバカしいほどのレベルになる。私たちは大笑いすると同時に、「あるある」とも思う。
 2001年、ダグラスは49歳であまりに早すぎる死を迎え、私たちはカオスの中にあって正気を保ってくれる声を奪われてしまった。彼はコンピュータと、コンピュータを使ってできることのすべてを愛していた。前に一度、コンピュータを使って明かりをつけるのがどれだけ簡単が見せてくれたことがある(照明が消えてヒューズが飛んだらどうすべきかとは言わなかった)。彼はアップルの中枢グループとごく親しくて(そんなグループは存在しないと言われているけれど)、開発の最先端と繋がっていようとしていた。今なお彼がここにいて、ソーシャルメディアの泥沼から抜け出す方法を教えてくれたらいいのにと願わずにはいられない。彼ならきっと、集団ヒステリーの只中に分別ある調和を与えてくれただろう。
 とは言え、彼もまた他のみんなと同じように、お金のことについてはいつも間違っていた。
 随分と昔、私はダグラスに、彼が選んだ魔法の数字にちなみ、42年後には私たちはどうなっていると思う、と訊いたことがある。「まあ、何が起こるにせよ」と、彼は言った。「その頃には『銀河ヒッチハイク・ガイド』は救いようのないくらい時代遅れになっているよ」。ああ、彼が今の状況を知ってくれたなら。

サイモン・ジョーンズ、2020

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