「SF MASTERWORKS」への序文

 以下は、「SF MASTERWORKS」シリーズの一環として2012年5月10日に発売された小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』、『宇宙の果てのレストラン』、『宇宙クリケット大戦争』、それぞれにつけられた序文の抄訳である。『銀河ヒッチハイク・ガイド』はイギリスのSF評論家グレアム・スライト、『宇宙の果てのレストラン』ミッチ・ベン『宇宙クリケット大戦争』ジョン・ロイドが寄稿した。
 ただし、訳したのは素人の私であるので、少なからぬ誤訳を含んでいる可能性が高い。そのため、この訳はあくまで参考程度にとどめて、全貌をきちんと知りたい方は、必ずオリジナルにあたってくださるようお願いする。

 


The Hitchhiker's Guide to the Galaxy (2012年5月10日発売)

INTRODUCTION

 私が初めて『銀河ヒッチハイク・ガイド』と出会ったのは、他の多くの方々と同様、1978年のオリジナル・ラジオ・ドラマを通じてだった。ドラマを彩る声は、「本」役のピーター・ジョーンズのちょっと戸惑ったようなの声や、アーサー役のサイモン・ジョーンズの愚痴っぽくていかにもイギリス人という感じの声など、今でも私の頭の中にこびりついている。あのラジオ番組には、シュールでぶっとんだ想像力があり、私がそれまでに聴いたことのあるものとは懸け離れているように思えた。小説版は、ラジオドラマの最初の4話分を大体カバーしており、ラジオドラマが放送された翌年に発売された。その続編として、『宇宙の果てのレストラン』(1980年)、『宇宙クリケット大戦争』(1982年)『さようなら、いままで魚をありがとう』(1984年)、『ほとんど無害』(1992年)がある。その他に、原作に忠実なテレビドラマ版があり、コンピュータ・ゲームがあり、映画にもなった。2001年のダグラス・アダムスの死去で、『銀河ヒッチハイク・ガイド』サーガが終わったとみなすのは意味がない。実際、オーエン・コルファーが続編を書いているのだから。アダムスは、その生涯で、ドクター・フー作品や2冊の『ダーク・ジェントリー』シリーズなど、他にもたくさんの作品を書いているが、アダムスの代表作と言えば間違いなく『銀河ヒッチハイク・ガイド』である。
 私としては、小説版は他のヴァージョンよりもいいですよと勧めたくはない。似たようなもの同士を比較しても仕方がないからだが、でも小説版がもっとも強い影響力を持っていることだけは確かだ。何百万部も売れたし、世界中で翻訳されてもいるからである。今では、『銀河ヒッチハイク・ガイド』は神話か民間伝承のようなものと化し、我々の文化の一部となっている。『銀河ヒッチハイク・ガイド』には、有名かつ単純明快な前提が二つあって、一つは地球は超空間高速道路の建設のために破壊されるということ、もう一つは生き残った唯一の地球人アーサー・デントが『銀河ヒッチハイク・ガイド』という本を持って銀河を旅する、ということ。小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』が特別なのは、自由な発想から生まれた、わくわくするようなジョークがたくさん入っていることだ。アダムスのユーモアのセンスは、感じがよくて、元気がよくて、意地悪なところがほとんどない。
 ラジオ・ドラマの脚本を小説化するにあたっては、アダムスは明らかに相当苦心している。プロッサー氏がチンギス・ハーンの子孫だった、というくだりとか、入れらそうなところには片っ端から新しいジョークが織り込まれている。その一方、ラジオ・ドラマ第1シリーズ第1話に出てくるレディ・シンシア・フィッツメルトンのような、ジョークとして弱いものは削除されている。登場人物に関しては、性格付けがより濃くなった。たとえば、フォードがプロッサー氏に、アーサーに代わってブルトーザーの前で横になるよう説得するシーンは、ラジオ・ドラマ版と比べてはるかに筋が通っている。同様に、ゼイフォード・ビーブルブロックスの脳が刻印されていたと分かるくだりについても、ラジオ・ドラマ版よりずっと微妙なニュアンスをゼイフォードに与えている。
 『銀河ヒッチハイク・ガイド』に出てくるジョークの大半は、「宇宙は不条理だ」という中核的な構造的原則に則っている。もう少し詳しく言えば、我々が日々の生活の中で体験するちょっとした不条理体験は、もし我々が地球の外に出て行ったら出会うであろう、より大きな不条理を反映したものである、ということ。故に、アーサーの家がいい加減なお役所仕事のせいで破壊された直後に、地球はいい加減なお役所仕事のせいで破壊される。でも、これは単なる不条理話ではないし、アダムスもありふれた皮肉屋ではない。彼は、バベル魚で神の非存在を証明したように、明らかに自分のアイディアを使って論理ゲームを楽しんでいる。アイディアが字義通り受け取られた後でくるりと反転するのも、アダムスの好みだ。ディープ・ソートが、生命と宇宙と万物についての究極の答を出した時のように。
 ディープ・ソートが自分に続くコンピュータを命名する場面のオチは、数々の不出来なSF作品を明らかにおちょくっている(その典型例は、二人の登場人物が未知の惑星に不時着し、あちこち探検した挙げ句、二人の名前はアダムとイブでした、というもの)。アダムスは不出来なSFによく通じていたようで、執筆に際しては狙いの的にしていた。とは言え、彼が優れたSFに、とりわけ先達の手によるすぐれたユーモアSFについてもよく知っていた。記録によると、アダムスは、ロバート・シェクリイは「すぐれたコメディ作家の一人」とみなしており、シェクリイの『奇蹟の次元』は明らかに『銀河ヒッチハイク・ガイド』の元ネタである。『奇蹟の次元』も、途方に暮れておどおどと受け身な主人公が銀河を舞台にピカレスクな旅をするという話であり、彼が当選した全銀河間宝くじの商品の小箱が、彼のいる場所や見たものを説明する役割を果たす。2つの作品の大きな違いは、その作風だ。シェクリイの小説では、次から次へと危険がふりかかり、主人公は追いかけ回され、続編の余地のないエンディングを迎える。それとは対照的に、アダムスの小説はもっとオープンで開放的だ。アーサー・デントの冒険は、どこまでも永遠に続けられるように思える。
 『銀河ヒッチハイク・ガイド』のシリーズ後半になると、作風が少し変わる。行動には結果が伴い、結果には向き合わねばならない。地球が破壊された傷を癒すために、さまざまな方法が試される。そのため、オリジナル版と比べると、これらの小説としてはあまり愉快ではないし、あまり値打ちがない、というのが一般的な見解だ。私は、これら後期の小説は、アダムスが以前と同じ形式を繰り返すのではなく、もっと興味深くてもっと違うことをやろうと試行錯誤し続けた結果だと思う。が、この第1作目では、そういった試行錯誤にすら独特なおもしろさがあることは否定できない。
 最後にもう一言。SFニュースレター Ansible の1992年9月号で、デイヴィッド・ラングフォードは「出来過ぎた話」という見出しで次のような小話を掲載した。「ラジオ4に就職したての大卒君が、手柄を立てようとして自分の判断でダグラス・アダムスに手紙を書いた。あなたの『銀河ヒッチハイク・ガイド』をラジオ・ドラマ化しませんか、と」。これぞ不条理、だよね?

グレアム・スライト

 


The Restaurant at the End of the Universe (2013年11月28日発売)

INTRODUCTION

 僕が初めてダグラス・アダムスと出会ったのは、『宇宙の果てのレストラン』だった。といっても、この本のことじゃない。『銀河ヒッチハイク・ガイド』ワールドにおいてもっとも愉快で、かつもっともイカレていることの一つが、いろいろなヴァージョンが作られすぎ、しかもそれが今なお共存しているせいで、どれが決定的なヴァージョンなのか、というか、そもそも決定的なヴァージョンなんてあるのかさえ断言できないことだろう。SFコメディの形を借りた、多元宇宙のモデルみたいだ。
 今あなたが手にしているこの本は、この難題の完璧な一例である。最初に出版された時、本の表紙には(派手な惹句として)「『銀河ヒッチハイク・ガイド』の続編!」と書かれていたが、これを純然たる文学用語で言い直すと、「とても人気のあるラジオドラマシリーズ全6話のうちの4話(言い換えると最初の三分の二)のエピソード(正確には’fits’という言葉が使われている)を、少々曖昧ながら大きく膨らませてノベライズした小説の続編であり、最初のラジオドラマの第5話と第6話のエピソード(正確には’fits’)を少々曖昧ながら大きく膨らませてノベライズした小説、ということになる。
 勿論、ラジオドラマこそ、オリジナルの(つまり決定的な)『銀河ヒッチハイク・ガイド』である、という意見を掲げる人にとっては、この本はちっとも「続編」ではない。ややこしくて頭が溶けそうなラジオドラマ第2シリーズの要素を、ラジオドラマ第1シリーズの第5話と第6話のエピソード(正確には’fits’)の前に、まさに頭が溶けそうな形で書き直して嵌め込んでいるのだから。
 そして、まさにこの頭が溶けそうなラジオドラマ第2シリーズこそ、僕が初めて触れた『銀河ヒッチハイク・ガイド』だった。僕は第1シリーズの本放送を聴き逃していた。というのも、僕に限らず当時はみんな、「ああ、また別のラジオのコメディが始まったな」くらいの意識しかなくて、よもやまさか通常のラジオ番組の枠を越えてさまざまなメディアで旋風を巻き起こすことになろうとは夢にも思わなかったのだ。それでも、ラジオドラマ第2シリーズの放送開始が近づく頃には少しはそういう気配も出てきて、ちょっと目立つ宣伝等も行われた(雑誌「ラジオ・タイムズ」の表紙を飾ったりもしたが、1950年代以来、ラジオのコメディとしてはほとんど異例の扱いだった)。当時、SF(とラジオのコメディ)のマニアだった10歳の僕は、必死で聴いていた。話には全然ついていけなかったけれど、それでもすごく好きだった。
 第1シリーズはその後BBCで(可能な限りの技術と予算を与えられた感じで)テレビドラマ化され、僕は食い入るように見てすっかり魅了されてしまい、挙げ句、もしテレビドラマの第2シリーズが作られていたらどんな作品になっていただろうとあれこれ妄想を膨らますことになった。
 僕は何とかして作品を所有しようとした。この頃には小説版も出ていて、オリジナルのラジオドラマ版にもましてダグラス アダムスの言語センスが発揮されていたが、僕としてはオリジナルのラジオドラマのハードコピーか何かが喉から手が出るほど欲しかった。三回もダビングを重ねて音質が劣化した海賊版のテープを友人から貰ったとしても、それでは到底満足できなかっただろう。そんなものを、僕が見つけ出せたとしての話だが。実際には見つけられなかったし、見つけるアテもなかった。何一つとして、まるっきり。
 奇妙なことに(あ、実際はたいして奇妙でもないのかな。何たってBBCだし)、BBCはラジオドラマのレコードを出さなかった。当然の流れとして、出しても良さそうなものだったのに。その代わり、キャストとスタッフは貸しスタジオに再び集まり、第1シリーズを再収録して録音し、BBC版ではないヴァージョンの2枚のアルバムを出した。1枚目には第4話までが収録されていて、2枚目には残る2話が収録されていたのだが――この2枚目のアルバムの表紙には、『宇宙の果てのレストラン』と書かれていた。
 そしてこのアルバムこそ(当時はカセットだったんだけど、憶えている?)、僕は1980年にリバプールのレコード店で見つけたのだが、僕個人として一番好きなヴァージョンになった。数ある『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズの中で、僕の個人的なお気に入りとなったのが、『銀河ヒッチハイク・ガイド』の熱心なファンでも見逃しがちなヴァージョンだった、というのは、何だかすごく妥当な感じだ。
 という訳で、このイントロダクションの最初の段落に戻ろう。僕が初めてダグラス・アダムスと出会ったのは、小説じゃなくてオーディオ版の『宇宙の果てのレストラン』だった。といっても勿論、生身のダグラス・アダムス本人には会ったことがない。ものすごく残念なことだけど。
 ここ数年、僕は憧れのヒーローたちと直接会う機会をたくさん持つことができ、彼らはみんなとても楽しい人たちだった。憧れのヒーローとは直接会わないほうがいい、会えばがっかりするのがオチだから、という話もよく耳にするけれど、でもそれはヒーローの選択をひどく間違えた人の言葉じゃないだろうか。ダグラス・アダムスが亡くなってしまったのは残念でならないし、想像力とユーモアを愛するすべての人と同様に、僕もこの先ずっとそう思い続けることだろう。
 選べるものなら、彼だって紙の上ではなく実際に生き続けることのほうを望んだだろうということは僕も分かっているけれど、でもここでならいつでも彼に「会える」こともまた然り。ミリウェイズのバーには、いつだって僕らの席が用意されている。
 僕には汎銀河ウガイ薬バクダンを。ウガイ薬は少なめで、バクダン多めで頼む。乾杯。

ミッチ・ベン

 


Life, the Universe and Everything (2013年12月31日発売)

INTRODUCTION

 パラドックスに出会うとは何と素晴らしいことか。おかげで我々はさらなる進化が期待できるのだから。
ニールス・ボーア(1885-1962)

 ニールス・ボーア図書館は、メリーランド州ブレントウッドから3マイルの距離にある。ダグラス・アダムスはエセックスのブレントウッドにある学校に通っていた。二人が出会った可能性は低いが、でも無限不可能性レベルではない。ボーアが亡くなったとき、ダグラスは10歳だったのだから。
 出会っていれば、二人はきっと仲良くなっただろうと私は確信している。二人とも素晴らしく知的で、ユーモアのセンスに恵まれた感じのいい人間であり、おまけに独力で世界の新しい見方を創り上げた。でも、ニールス・ボーアは、ダグラス・アダムスがパラドックスの塊であることにこそ特に心を惹かれたのではないか、と私は思う。彼は、とてつもないパラドックスだった。
 かつてアルバート・アインシュタインはボーアに「あなたのように、ただそこにいるというだけでこれほどの喜びを感じさせてくれる人間には滅多にお目にかかれない」と書いたことがある。もちろん私はアインシュタインではないが、ダグラスについて全く同じようなことを何度も感じたものだ。まだ、かなり何度も、その正反対のことを感じた。ご存知の通り、彼は難しい男だったのだ。
 宇宙はパラドックスの上に成り立っている。マクロの世界を取り扱う相対性理論と、ミクロの世界を取り扱って科学の歴史においてもっとも成功した理論である料理力学は、互いに矛盾している。さらに言うと、物質の形態における宇宙の正エネルギーの量は、重力という形態における負エネルギーによってきれいに帳消しにされてしまう。科学的に言えば、宇宙はエネルギーゼロである。つまり、この世界には実際には何もないということだ。
 このような謎には、ボーアやアインシュタインに加え、1970年代に住まいをシェアしていたダグラスや私のような若くて貧乏な作家も大いに興味をそそられた。コメディは、宇宙と同様、パラドックスに満ちており、ダグラスの本にもたくさん詰まっている。
 彼の生涯と人となりは、どちらも等しく矛盾だらけだった。びっくりするほど頭がいいのに壊滅的なまでにバカな振る舞いができ、親切心と同じ量の無神経さを持っていた。エネルギッシュなのに怠惰で、ぼうっとしているのに感受性が鋭くて、輝かしく陽気でありながら末期的なまで暗鬱だった。
 ダグラスはゼイフォード・ビーブルブロックスのように見せびらかし好きの自惚れ屋であり、アーサー・デントのように迷ってばかりのいい人であり、マーヴィンのように頭がよくて鬱々としていた。箱舟団B船の船長みたいに度外れて長い時間を風呂の中で過ごしていたが、彼の本当の分身は宇宙一やかましいバンド、〈デザスター・エリア〉のリードボーカル、ホットブラック・デザイアトだ。彼の友達はみんな彼のことを敬愛していたが、彼は私たち全員を大いに振り回した。
 「ここには本当は何も存在していない」というのは明らかに不条理だが、ダグラスがもはやここには存在してないというのも同じくらい不条理だ。彼が49歳で突然に悲劇的な死を迎えたことで、この世界から最高に興味深い知識人が一人いなくなってしまったが、これこそまさに、ダグラスが強く信じるようになった通り、宇宙が無神経で思いやりの欠片もないという事実を端的に示す好例だろう。
 アダムスの作品の中で私が常に変わらず一番気に入っているのは、『宇宙の果てのレストラン』に出てくる以下の件である。「一説によると、この宇宙がなんのためにあるのか、またなぜここにあるのか、それをだれかが正確に突き止めてしまったら、宇宙はたちまち消え失せて、いまよりもっと変てこでわけのわからないものに変わってしまうという。また一説によると、それはもうすでに起こってしまったともいう」(安原訳、pp.5-6)
 これは、生命と宇宙と万物についての究極の答えが42だというよりもっとずっと興味深い宇宙理論であり、同じくらい笑えると思う。だが、自らの人生の終わりに向かって、ダグラスは第三の理論を生み出そうとしていた。
 彼が致命的な心臓発作に襲われる1年ほど前、彼は友人のリチャード・カーティスと昼食の約束をしていた。レストランに向かう道すがら、リチャードがにこやかに今は何の仕事をしているのかと尋ねたところ、ダグラスは出し抜けに、自分はついに生命と宇宙と万物についての究極の答えを思いついた、と宣言したのだ。
 ダグラスがひとたび話し始めたら「長話」という言葉ではとても物足りないくらいの長話になることを知っていたリチャードは、「そうなの? 説明してくれよ……」と言いそうになるのを堪えた。ダグラスは確かに「説明」してくれるだろうが、そうなったら昼食の間もノンストップで喋り続けるとわかっていたからで、その大騒動を交わすため、さりげなく彼の奥さんのことを訊いた。「そうなの? ところでジェーンは……」
 その結果、とても愉快でゴシップだらけのランチを楽しむことができたが、それから数ヶ月後にはダグラスが突然我々のもとから奪い取られてしまい、リチャードは真に宇宙レベルで重要な情報のただ一人の受け取り手となる機会を逸したことに気が付いて、消えることのない恥辱と当惑に苛まれることになった。この宇宙で、正しい答えを知ることができる人間がいるとしたら、それはダグラスしかいない――製品が売り出される30年以上前に、(「銀河ヒッチハイク・ガイド」という、名称こそ違えど機能はそのものズバリな)iPadの出現を予言したのだから。
 というわけで、良い方に考えるなら、現在のヘンテコで説明不能な宇宙は今なお我々と共に存在している。それとも逆か、どうすれば我々に分かるだろう?
 ニールス・ボーアも大いに敬愛していた、デンマークの偉大な哲学者セーレン・キルケゴールはこう書いている。「パラドックスを悪く考えてはいけない。パラドックスこそ思索の情熱であり、パラドックスをもたない思索者は情熱なき愛人のようなものだ。 二流の輩である」(註)
 ダグラスについてどんなが言えるとしても、絶対に「二流の輩」ではなかったし、私は彼のことを悪く思ってなどいない。彼は素晴らしくも複雑な人間で、彼の作品やアイディアやジョークはこの先何十年も引用され議論されるだろう。今あなたが手にしているこの本から始めてみても悪くない。
 では最後に、高さ三マイルの発行文字で作られたシリウス人工頭脳会社苦情処理部門のモットーを。「ともに楽しみましょう」

ジョン・ロイド

(註) キルケゴールの言葉は、『哲学的断片または一断片の哲学』第3章からの引用。英語の原文は、’One must not think ill of the paradox, for the paradox is the passion of thought, and the thinker without the paradox is like the lover without passion: a mediocre fellow.’ であり、大谷愛人によるデンマーク語からの日本語訳は、「人は逆説というものをいやなものと考えてはならない。なぜなら、逆説とは思考の激情であり、逆説のない思想家は情熱のない恋人のようなもの、つまり平凡なパトロンのようなものだからだ」(『キルケゴール著作集6』、p. 80)。

 

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