2020年3月5日、4枚組CD-BOX The Hitchhiker's Guide to the Future - Douglas Adams and the digital world が発売された。以下はその内容を簡単に紹介したものだが、私の英語リスニング能力は英語読解能力以上にお粗末であり、間違っている箇所はいくつもあると思われる。そのため、以下の文章はあくまで参考程度にとどめておいて、きちんと知りたい方はオリジナルの音源にあたってほしい。私が内容をかいつまんで説明したものより、アダムス本人の語りのほうがはるかにおもしろいことは保証する。
Disc 1:
The Internet: The Last 20th-Century Battleground
Presented by Douglas Adams
Produced by Mark Rickard
1999年9月1日〜8日1999年9月1日から8日にかけてBBC Radio 4で放送されたラジオ番組。たった5年ほどの間に、インターネットはコンピュータおたく専用のオモチャではなく、万人のコミュニケーションツールになった。20世紀のテクノロジーが誕生する前、コミュニケーションとは人と人が直接向き合うもの――1人対1人の話し合いだけでなく、大勢対1人の演説スタイルもあれば、大勢対大勢の討論もあった。20世紀のテクノロジーは、ラジオにせよテレビにせよ、コミュニケーションを相互ではなく一方通行なものに変えたが、インターネットの登場でコミュニケーションは再び相互がかかわるものとなる。昨今、「インタラクティブ」という言葉がもてはやされているが、20世紀以前、すべてのコミュニケーションは「インタラクティブ」だったから、そもそもそんな言葉は必要なかった。
インターネットは、大勢対大勢のコミュニケーションツールだ。アダムスは、ディナーパーティーを例に挙げる。最初のうち、まずは知り合いに声をかけ、お互いが興味を持っている事柄について話をする。つまり、話の内容は、誰と話しているかによって決まる。が、夜が更けていくうちに、ある時点で、自分が全然知らない相手であろうと、その場で一番気になる話題を持ち出した人と話が盛り上がっていく。誰が話しているか、ではなく、何が話されているか、が決め手となるのだ。ディナーパーティーでの会話が、赤の他人とのやりとりであっても時間た経つにつれヒートアップすることがあるように、インターネットでのやりとりも円満であり続けるとは限らない。
インターネットでは、興味のある話題ごとに「村」のようなものが形成される。距離や年齢、障害の有無にかかわらず、世界中で自分と共通の関心を持つ人と繋がれるのはいいことだが、「村」がユートピアである保証はない。ディナーパーティーで主義主張の異なる人を言い負かそうとする人がいるように、主義主張の異なるサイトを乗っ取ろうとする人もいる(ベジタリアンのサイトを運営している人が、強い政治的主張をする人にハッキングされた例や、愛猫家のサイトに猫嫌いからの嫌がらせ投稿が相次いだ例など)。現実の世界では、嫌いな人や考え方の違う人とも付き合わざるを得ない面もあるが、インターネットの世界では自分とウマの合う人たちとだけ付き合って、そうでない人たちのことは無視することができるはずだが……。
従来のメディアと違って、インターネットでは社会的地位や立場に関係なく意見し合うことができる。国家や国家に縛られることもない。これまで「大勢対1人」のコミュニケーションツールに支えられてきた民主主義のシステムも、揺らぎかねない。
これまでのところ、大手企業のインターネットへの反応は鈍かった。コンピュータ業界においてさえ、だ。でも、インターネットの重要性に気づくのは時間の問題だ。だが、大手企業の洗練された宣伝サイトだけでインターネットが覆い尽くされる恐れはない。誰もがインターネットにアップすることができ、そしてアップされた内容はコントロール不可能なまま増殖していくからだ。そこがテレビとは違うところ――テレビでは、夜の10時にニュースを放送するかハリウッドの対策映画を放送するか、選ばなければならない。でもインターネットでは、どちらも同時に配信することができる。何でも無制限で配信できる以上、「アメリカ映画ばかりでけしからん」との批判は的外れになる。何を観るか決めるのは、放送局ではなく私たち自身の選択だからだ。
規制やコントロールが事実上不可能であることには、弊害もある。子供が性的コンテンツを含む内容を見てしまったら? でも、インターネットだけでなく実社会でも同じことだ。使う側が良識的に判断するしかない。
インターネットは新しいテクノロジーであり、我々はまだ使い慣れていない。それゆえに、インターネットは犯罪に利用されるのではないか、との不安の声もある。でも、それを言うなら電話だって犯罪に利用されていることを思い出すべきだ。
不安の声は他にもある。インターネットの進化はこれまで人類が体験してきたよりはるかに早く、そのせいで多くの人が取り残されるのでは? ブロードバンドの整備が進む国と遅れる国との格差は、「そのうち何とかなる問題」だろうか……?
新作映画の感想を投稿し合う一般人のフォーラムを、ハリウッドの大手映画会社も注視している。観客の反応を知ることができるからだ。インターネットはよく「ジャングル」に例えられるけれど、「ジャングル」というと私たちは「喰うか喰われるかの残酷な世界」をイメージする。が、「ジャングル」を「レインフォレスト」に置き換えてみるとどうなるか。インターネットの何たるかについて言いたいことは同じでも、たった一つ言葉を変えただけで、「多様な生命に溢れた豊かで美しい森」をイメージしないだろうか。「ジャングル」と「レインフォレスト」の違いは、ダーウィンの進化論をどういう視点で捉えるかに依る。ハッキングされてデータを消されたベジタリアンのサイトの管理者には、事件の後、大勢の人から応援メッセージが届いたという。インターネットの世界では、過酷な生存競争だけでなく、相互に思いやって繁栄を支え合うこともできるのだ。
インターネットで起こる良いことも悪いことも、実世界で起こることに相似している。ここでアダムスは、飛行機を例にあげる。飛行機は、安定して飛ぶことを目指して開発が続けられた。でも、飛行機の開発が進み、戦闘機が作られるようと、逆に操縦が難しくなる――つまり、飛行機を安定して飛ばすために、パイロットの負担が大きくなる。そこで、操縦が難しい飛行機を安定させるためにコンピュータに操業させるようになる。エアコンに組み込まれたコンピュータが室内の温度によって自動調整するように、飛行機に組み込まれたコンピュータが飛行を安定させるおかげで、アクロバット飛行の安全性が確保された。では、人間の実社会はどうか。こちらも予測不能かつ管理不能、法律はあるけれど実社会の変化に追いつくのは難しい。エアコンが半年間温度設定を変えないまま稼働しているようなものだ。ここからはアダムスの願望だが、コンピュータ、つまりインターネットの発達で人々の意見交換が活発になれば、実生活の法律を微調整することでより安定した社会を築くことができるのではないか……?
世界の変化は早くなった。変化についていかねばというストレスも増える一方だ。変化がもっとゆっくりだった時代、変化は1枚か2枚の絵にたとえることができた。今では常に変化しているため、絵というより動画のようだ。
コンピュータの発達に伴う不具合にも次々と解決策が打ち出される。より快適な検索サイト、より強固な暗号セキュリティが生み出され、まるでそれ自体が一つのエコロジーだ。その進化は止まらない。
インターネットにより、大量の情報にアクセスできるようになった。が、その情報の信頼性は? 生身の相手であればその人を信じるかどうかだし、新聞やテレビといったメディアであればきちんとした検証がなされていると(一応)信用することができる。同じような信頼性をインターネットの情報に期待することはできないが、インターネットには「インタラクティヴ」機能があり、間違った情報に対して気づいた人が反論することができる。ただし、反論する人もいれば賛同する人もいる場合、ネット上ではどちらの意見も等価値で載ってしまう。インターネットに公正な判断をくだす管理人はいない。おまけに、投稿者は基本的に匿名だ。メディアにも情報のバイアスはあるが、少なくとも視聴者側はそのメディアにどのようなバイアスがかかっているかあらかじめ知っている。
写真も、簡単にデジタル加工できるようになった。こうなると写真も信用できない、と言いたくなるが、もともと写真は都合よく事実を捻じ曲げられるものだったことを思い出すべきではないか。
これまで情報は紙の上に蓄えられてきた。が、今後は、アクセスが容易で効率よく情報を集められるインターネット上のアーカイヴのほうが重宝されるだろう。情報の真偽を確認するにも、ハイパーリンクで筆者の情報を簡単に確認できるし、サイトの管理者をチェックすることもできる――ということは、逆に言うと、読み手の一人一人がインターネットの情報を鵜呑みにしないだけのリテラシーが必要、ということでもあるが。
コンピュータが発達するまでの長い年月、人類の知識や情報は紙に書かれ、本という形で図書館に集められた。が、20世紀後半以降、情報の管理がもっぱらインターネット上で行われるようになり、若い世代が紙媒体の情報と無縁になっていけば、そのうち、本や図書館といったものが消滅してしまうかもしれない。そうなると、はるか未来の歴史学者たちは、人類の歴史を振り返って「人類の知的活動は21世紀から始まった」と考えるかもしれない――アレクサンドリア図書館が消滅したことで、それまでの人類の知的活動がどのようなものだったか今の私たちには知る由がないように。「消滅」とはそういうことだ。
ともあれ今のところ、紙の本はまだ現役である。モノとして存在している分、著作権の管理はしやすい。今後、電子書籍が発達することに、著作権料でお金儲けをしている私のような人間は脅威を感じるべきだろうか?
現在、一冊の本が売れたことに対して私が受け取れる著作権料は、最高で10パーセントである。残りの90パーセントは、本の製作と流通にかかる費用だ。だとしたら、製作と流通のコストを大幅に減らせる電子書籍のほうが、むしろ作家にとって好都合かもしれない……? 学界にとっても、最新情報をいち早く知らしめたり、専門家以外の人にも広く公開できるという意味で、電子媒体の登場を歓迎すべき、とも考えられる。
これまで、さまざまな情報は断片的に保存するしかなかった。が、インターネットが発達すればするほど、バラバラだった情報が脳の神経回路のようにつなぎ合わされていく。学術的なことばかりではない。市井の人が自分の家族歴を調べたいと思えば、ものの5分ほどでチェックできるサイトもある。年老いてから、子供の頃に通った学校の同級生を探し出すこともできる。そして、見つけた同級生と電子メール等で再び連絡を取ることも可能だ。
この先、インターネット利用者はどんどん増えるだろう。とりわけ中国の人々が多く参加するようになると、これまでは英米が中心だった商業的・文化的状況に大きな変動が起こるにちがいない。
現在のインターネットは確かに便利だが、かさばるパソコンだのモデムだのを必要とする。だがこの先、技術がもっと進めば、普段の生活の中でインターネットに繋がっていると意識することもないまま利用する機会が増えるだろう。映画や音楽は、配信をダウンロードして視聴するのが当たり前になるだろう。テレビの前とかパソコンの前に座って利用するのではなく、ポケットに携帯電話とかコンピュータを入れて持ち歩けるようになり、そのうちそういった装置も不要になるかもしれない。遠い未来、分子レベルのコンピュータがそこらじゅうに埋め込まれ、気がついた時には人類はもう一つ別の生命体と共存していることになるのかも……?
Disc 2
The Hitchhiker's Guide to the Future
Presented by Douglas Adams
Produced by Mark RickardEpisode 1: Music
With Brian Eno, Jim Kerr, Mike Nesmith, Peter Gabriel and others
2000年10月4日数年前、テクノロジーカンファレンスに出席したアダムスは、音楽業界、出版業界、放送業界の3人から同じ質問を受けた。「この先、コンピュータの発達が私の業界にどんな影響を与えると思いますか?」
この質問は、アマゾン川やミシシッピ川やコンゴ川が「海は私たちにどんな影響を与えると思いますか?」と訊くようなものだ――海に行き着いた先では、あなたたちはもう「川」ではない。この番組では、それぞれの業界がデジタルの海に行き着いた時に何が起こるか考えてみたい。まずは音楽から。
インターネットの発達で、世界中のさまざな音楽にアクセスできるようになる。アダムスは、子供の頃に聴いていたレコードのB面の曲をナップスター経由で見つけることができた。
音楽のコンピュータ言語であるMIDIを使えば、一つの楽曲からさまざまなアレンジ曲が簡単に作れる。ミュージシャンでない人でも音楽の仕事に携わることができるようになったし、コンピュータに保存してインターネットにアップすれば多くの人に聴いてもらえるチャンスも、その曲を売ってお金を得ることもできる。
インターネットに音楽が大量にアップされるようになると、逆に何を選べばいいかわからなくなる。そうならないために、個人の嗜好や趣味に合うものを選択しておすすめしてくれる、フィルタリングのような仕組みが求められる。
これまで音楽業界ではmp3という規格を利用していた。元の音源を圧縮してデジタル化したものだから、インターネットにアップするのに向いているが、利用者が簡単にコピーを作れるようにもなる。さらにナップスターの登場によって、利用者同士が簡単に音楽データを共有できるようになった。
当然、著作権の問題はある。違法コピーのせいでレコード会社やアーティストの取り分は減る。が、インターネットの発達はアーティストがリスナーの反応を直接的に知る機会も与えてくれる。それに、これまでアーティストが曲の著作権料として受け取れるのは売り上げの10パーセント程度であり、残りの金額は中間搾取で消えていたとのだから、曲の値段を10分の1にしてインターネットで直接販売したところで、アーティストが手にする金額は変わらない。既に多くの固定ファンを持つ有名アーティストであればなおのことだ。無論、大手のレコード会社にとっては大問題だろうが、アーティストにとっては大手レコード会社の言いなりになって音楽製作をしなくて済むという利点すらある。
とは言え、リスナーは、インターネットで公開されたデジタル音源の音楽に正規料金を払うだろうか。新曲が公開されたらあっという間に違法の無料コピーが出回るというのに。それでも自分の音楽を聴いてくれる人が増えるほうがいい、と思えるかどうか。
インターネットでの買い物は、クレジットカードで行われることが多い。が、1曲だけ購入する、となると、100円以下のひどく安い物でもクレジットカード決済することになり、現行のクレジットカード会社はそういう利用を嫌がるだろう。そこで、今後は、クレジットカードに変わるデジタル決済方法が必要となる。実際の生活では、細かい額の買い物には小銭が使われていて、それをデジタル決済する利点がないため、なかなか普及しない。でももし、インターネットで安い額の買い物に向いたデジタル決済の仕組みが出来上がれば、それを使って音楽を購入する人も増えるのではないか(あくまで推測だけど、とアダムスは付け加えている)。
インターネットでは、世界中のミュージシャンの音楽を自由に聴けることができる、リスナーは自分の趣味に合わせて選び放題――と言われていたが、フタをあけてみたら、実際にダウンロードして視聴される曲のほとんどは、大手レコード会社の大きなスタジオで多額の資金を投入して製作されたものだった。ただし、正規にお金を払っているかどうかは別。多くの人がコピーを作って無料で聴いている。
しかし、コピーというなら、これまでだってリスナーはラジオやレコードをカセットに録音して聴いていた。家庭で録画できるビデオが発売されても、映画やテレビ業界を破壊したりしていない。音楽だって同じこと。ダウンロード購入する人もいれば、CDを買い続ける人もいるだろう。違法コピーを無料で聴いた上で、気に入ったから買う、ということだって大いにあるだろう。というより、多くの音楽好きたちはカセットに録音して聴いた音楽の中で、本当に好きなアーティストのレコードで買っていたのではなかったか。バラバラに配信されている音楽だって、1枚の完成された作品としてCD化されたら買うだろう。好きな作家が雑誌に寄せた文章が、きちんとまとめ上げられ、1冊の美しい装丁の本になったらあらためて買うように。
テクノロジーの進歩で著作権料が徴収できなくなった、というが、そもそも「著作権料」はテクノロジーの進化のおかげで発生したものだ。録音だの放送だのといった技術が開発される前、音楽業界が巨万の富を生み出す前、ミュージシャンは著作権料ではなく人前で演奏することでお金を得ていた。
番組は、MTVの創設者マイケル・ネスミスの言葉で締めくくられる。ミュージシャンたちはこれまで音楽業界の重役たちの前で演奏し、気に入られるところから始めなければならなかった。でもこれからは、自分で自由に発信できる。創作物が時代を超えて生き残れるかどうかは、純粋にその創作物の出来だけで決まるだろう、と。
Episode 2: Publishing
With Peter Cochrane, Muriel Gray and Stewart Brand
2000年10月11日
書くことは我々の文化の中心であり、本は文化を支える根幹である。が、この先、文字を印刷した紙を綴じて作られた本は、インターネットから流れてくるデジタル情報に置き換えられるのだろうか。
そのほうがいい、という人もいる。印刷や製本は時間がかかるため、インターネットと比べて即時性に劣る。娯楽としての読書には紙の本もいいだろうが、最新情報や知識を得るならインターネットの記事に限る、と。一方で、プリントアウトすれば数ページほどのテキストデータにお金を払う気になれない、という人もいる。実際、その記事を読むにはパソコンやらプリンターやらを自前で購入しなければならないのだ。そう考えれば、本屋に行って本を買うほうがずっといい。
作家にとって電子書籍は、エージェントや出版社や取次を介すことなく読み手に販売することができるという意味で有効な手段である。だからといって、これまでの大手出版社が倒産するとは考えにくい。大手出版社も電子書籍の有用性を学び、利用するようになるだろう。
大手出版社には、本を出してほしい作家から大量の原稿が届く。その原稿の山の中から良く出来たもの、売れそうなものを探し出すのは大変だ。一方、作家の側としては自分の原稿を出版社に目をとめてほしいと思うが、それがなかなか難しい。となれば、インターネット上で電子書籍という形で発表しようと考える作家も出てくる。そのほうが、世界中の人に読んでもらえるではないか。そして、インターネット上で話題となり評価されることで、紙の本の出版へとつながることもある。出版社にとっても、自分たちで原稿を査読しなくて済んで大助かり、とも言える。
電子書籍系の出版社は、コストがかからない分、売れ行きを気にせず発行できる強みがある。本の代金は、本を買う人の大半は著者の文章にお金を払うつもりで買うが、実際のところ、90パーセントは本というモノを製造し販売する料金であり、著者に印税として届くのは10パーセントだ。スティーヴン・キングは電子書籍での販売に挑戦した最初の有名作家だが、今後も彼に続く作家は出てくるだろう。
とは言え、PC画面での画面に抵抗を感じる人は多い。実際、紙に印刷された文字ではなく、長時間にわたって粗いドットの文字を追うのはつらいから当然だ。でも、これはテクノロジーの問題であって、じきに解決されるだろう。ただし、紙に印刷されたのと変わらないくらい精度で表示される電子画面が開発されたとしても、それで紙の本が消え去るとは考えにくい。新しいメディアが誕生したからといって、それで古いメディアが完全に消え去ることはあまりないからだ。むしろ、それぞれの利点を生かして共存していくことのほうが多い。テレビの発明で、ラジオがなくならなかったように。
私(ダグラス・アダムス)の本棚をみてみよう。P・G・ウッドハウス、ジェーン・オースティン、どちらも大好きな作家なので、良質の紙としっかりした装丁の本で揃えている。リチャード・ドーキンスの『盲目の時計職人』も生涯にわたって読み続けたい本だが、こちらはインデックスやレファレンスを活用したい本なので、電子書籍版を利用している。
私の持論だが、人は、自分が生まれる前からある技術は、正常で当たり前だと思う。35歳までに開発された技術は、新しくて革新的だと思う。35歳以降に開発された技術は、自然に反する代物だと思う。
本が好き=読書が好き、だとしたら、収納しきれないほどの大量の紙の本を所有するより、美しい豪華本など何冊かの例外を除けば、かさばらない電子書籍で所有するほうが合理的ではないか。ペーパーバックサイズの読書用端末を買い、インターネットで電子書籍を購入する。バッテリーの持ちがよくて、快適なバックライトがついていれば、機内での読書にも最適だ。自宅に並べておきたいちゃんとした装丁のハードカバーならまだしも、一度読んで捨ててしまうような安っぽいペーパーバックを買うくらいなら、電子書籍のほうがいいのではないか。学校に通う子どもたちも、重たい教科書を何冊も持ち運ぶのではなく、全学年分の教科書データを収納した電子書籍だけで通学できるなら、そのほうがずっといいだろう。
ただし、著作権を守るために、通常のインターネットに乗せるのと別の規格で電子書籍を用意しなければならない。でも、管理しすぎると誰にも知られず誰からも買われない。そのさじ加減が難しい。
また、電子書籍の場合、古いフォーマットが新しいフォーマットに変わると、読めなくなる=失われてしまう。CDにしても、寿命は意外と短い。技術の進歩が早くなればなるほど、失われるまでの時間も早くなる。ちゃんとした紙の本なら何百年も保つのに。すべてが失われてしまう前に、デジタルにしろアナログにしろ、保存の方法について早急に検討したほうが良いのではないか。
BBCはテレビ番組のアーカイヴをきちんと残しておかなかったが、番組を録画していた一般視聴者から提供されたコピーのおかげで、ピーター・クックの出演番組や初期の「ドクター・フー」を取り戻すことができた。著作権を考えれば、勝手にコピーを作られるのは好ましいことではないかもしれないが、おかげで失われずに残っていたことを考えれば、コピーされるのも悪くない。人気があるもの、好ましく思われるものは、世代から世代へ、さまざまな媒体にコピーされて生き残っていく。何だかどこかで聞いたような話ではないか。そう、リチャード・ドーキンスが命名したところの、ミームというヤツである。よくできたアイディアや考えは、まるで遺伝子(gene)のように人から人へと広がっていく。ナップスターに登録された音楽だって、人気が出れば一気に拡散するし、そうでなければそれなりに生き残る。これぞまさしくダーウィニズムだ。
Disc 3
Episode 3: Broadcasting
With John Browing, Dylan Winter and Matthew Steele
2000年10月18日昨今「インタラクティブ」という言葉がもてはやされているが、20世紀以前、すべてのコミュニケーションは「インタラクティブ」だった。テニスしかり、料理しかり、セックスしかり。だから、そもそもそんな言葉は必要なかった。なのに急に必要となったのは、20世紀だけが「ノンインタラクティブ」なメディアに支配された世紀だったからだ。映画、ラジオ、CD、テレビといった一方通行のコミュニケーションに対し、できることといえばスイッチを入れるか切るかだけ。どんなに感情をかきたてられても、相手側に伝えるすべはない(多くの人がセラピーを必要としたのも当然だ)。
が、その状況は変わろうとしている。テレビのニュース番組をダラダラ見るのと違って、インターネットのニュースサイトでは興味のある記事を自分で選ぶことができる。今後、テレビやラジオの番組がデジタル化され、自宅なり車なりにネット接続できるデータの保存スペースを設置されるようになったら、「放送」の概念が覆されるだろう。
アメリカでは、若年層を中心にインターネットを活用する時間が増える一方、テレビを見る時間が減っているとの報告もある。ブロードバンドが十分発達すれば、好きなテレビ番組だけをPCで観ることも可能だろう。
しかし、そもそも「インタラクティヴなテレビ番組」とは? 現時点では、これといった成果がない。テレビにインタラクティヴな要素を追加するのではなく、テレビをもともとインタラクティヴなメディアであるインターネットに繋げる方向に進めるべきだろう。テレビという「川」が、インターネットの「海」に流れ着くようなものだ。
何年か前、アダムスは「アートとサイエンス」をテーマとしたニュース番組で高名な科学者と対談することになった。バックステージでは、お互いに何時間も熱く話をしたけれど、スタジオ入りして行った本番では、放送時間に限りがあり、司会役の仕切りにも従わねばならなくて、言いたいことのすべてを盛り込むことはできなかった。
新聞の紙面に記事の内容に従ってスペースの配分がある。1面の記事の続きを3面に乗せたりするように、テレビやラジオでも関連する番組同士をリンクさせることはできないか。録画機器に、自分の嗜好に合った番組を録画させる機能を搭載するという手もある。インターネットこそ、そういう機能にうってつけのはずだが、インターネットでは映像は質が悪いのが難点だ。でも、昔は映像どころか音源すらも質が悪くて聴けたものではなかったことを考えれば……?
オリンピックの競技を複数のカメラで撮影するように、ドラマ撮影にも複数のカメラを据えて視聴者は好きなカメラアングルから見る、そして好きなストーリー展開を選ぶ――そういった「インタラクティヴなドラマ」は本当におもしろいだろうか? 素人の自分が考え付くものを観るよりも、才能ある作家やカメラマンや役者によって作り上げられた完成作品のほうがおもしろいのではないか。
「インタラクティヴなドラマ」というと、製作者の多くは、ドラマの途中で視聴者にいくつかの選択肢が委ねられ、選択次第で物語の展開が変わる、というものを想像する。でも、選択肢の先にあるのは製作者が決めた物語が直線的に展開するにすぎない。
ハリウッドの大作映画では、映画の公開前に一般人に試験的に視聴させ、その時の観客の反応によっては映画のエンディングまで変更したりする(そして映画全体を台無しにしたりもする)。が、本当のインタラクティヴとはそういうものではなく、子供に物語を語って聞かせる時に子供の反応次第で物語の語り方が変わるようなものではないか。以前、テキストアドベンチャーゲームを製作した時に考えていたのは、ゲーマーに物語の結末を選択させるというより、ゲームで設定した環境の中を自由に歩き回って散策してほしい、ということだった。
デジタル技術の革新により、ハリウッドでは「ターミネーター2」や「マトリックス」など、リアルなCGを用いた映画がたくさん製作されるようになった。昔は大手のスタジオでなければ不可能だった映像や音声の加工も、今ではラップトップコンピュータ1台で処理できるようにもなった。デジタルカメラも小さく安くなり、一般人がハンドバッグに入れた小型カメラで撮影して映画を作ることもできるだろう。
一般人が映画やドラマやCDを作る際に真っ先に問題となるのは、予算と技術、次に配給だ。デジタル技術の進歩で安く簡単に仕上げることができたとしても、配給がこれまで通りの「ゼロサム」だったら大手企業に対して勝ち目はない。映画館のスクリーン数には限りがあり、上映できる映画の数にも限度がある。テレビの放送時間枠についても、CDショップの棚についても、同じことが言える。が、インターネットの世界は「ノンゼロサム」だ。
最後に問題となるのは、マネージメント。予算的にも技術的にも配給的にも問題がなかったとしても、誰と何を作ればいいのか?
数人の仲間と撮影し編集して低予算で映画を作り、デジタルプロジェクターで映写することができる。インターネットにアップすることもできる。アダムスは、以前、空腹をかかえて入ったロスのハンバーガーショップで、バンズの種類から肉の焼き方、サイドディッシュにサラダのドレッシングまで、次から次へと選択させられ、「いっそ「出されてものを黙って食べろ」と言われたい」と思ったという。選択肢が多すぎても面倒なのだ。テレビのチャンネルがどんなに増えたとしても、多くの人は他の人と同じ番組を観て次の日にその番組の話をしたい。そういう意味では、これから先もたいして変わらないか……?
Episode 4: Convergence
With Chris Langton, Stuart Kauffman and others
2000年10月25日第4回は、テクノロジーの進化についての総括。コミュニケーションとは、お互いが「届く」ことで成り立つ。交通網の発達に始まり、電話が発明され、電報が送られるようになる。電話や電報は一対一のやりとりだが、インターネットの発達により、一対一のみならず、好きなように一対多で情報のやりとりができるようになった。
とは言え、人類は最初からコンピュータの正しい使い方を理解していたわけではない。アダムスが初めて目にしたコンピュータはピラミッド形のコモドール製で、これはすごいと思ったものの、実際に何に使えばいいのかわからなかったという。
アダムス自身も含め、最初のうち、人々はコンピュータを電卓だと思っていた。すごい機能が搭載されてはいるが、あくまで電卓。ついで、数字がアスキーコードで文字に変換されるようになると、コンピュータはタイプライターだと気付いた。すごい機能が搭載されているが、あくまでタイプライター。やがて、フルカラーのディスプレイがつくと、何と、コンピュータはテレビだったと気付く。そして、コンピュータがネットワークにつながるようになると――コンピュータとは、本当は「パンフレット」なのだと気が付いた。
勿論、コンピュータは電卓でもタイプライターでもテレビでもパンフレットでもない。コンピュータとは、モデリングの装置である。
スティーヴン・ピンカーの『言語を生み出す本能』に、ピジン言語とクレオール言語についての記述がある。共通言語を持たない大人の集団(植民地の支配者と、強制連行されてきた奴隷とか)が、コミュニケーションの手段として形成するのがピジン言語だが、そのような言語環境下で生まれ育った子供たちは、拙いピジン言語の枠を超えた新しく豊かな言語、クレオール言語を作り出すという。コンピュータについても、第一世代が拙いピジン言語しか使えないのに対し、生まれた時からコンピュータに馴染んでいる世代は、第一世代には想像もできないような新しいクレオール言語を獲得するのではないだろうか。(トラック12)
この先、携帯電話は単なる電話をするための装置ではなく、映像を見たり、テキストを読んだり、さまざまな用途に対応するものになるだろう。(イギリスのコミック雑誌「Eagle」で連載されていた、SFコミックの)ダン・デアの読者が夢見たような。インターネット配信が増えば、エンターテイメントの選択肢は夥しい量になる――1940年代にはラジオくらいしかなかったのに。
これまで、少数の人間がトップダウンで管理するものと思われてきた。その流れで、数台の巨大コンピュータがあれば事足りると考えられたこともある。が、現実には、コンピュータはありとあらゆる場所にある。自宅にも車にも携帯電話にも。そして、個人と個人を直接的に繋ぐ。インターネットとは、誰か特定の責任者が管理できるものではない。ニューヨークの食糧供給のように、イギリスのコモン・ローのように、自生的に維持される。
インターネットの発達の過程は、ダーウィンの進化論に似ている。ごく単純なものから、素晴らしく多様性に富んだものが生み出される、という理屈はなかなか理解しがたいが、コンピュータの発達により「シミュレーション」が可能になった。フィードバック、世代から世代へと伝わる遺伝の単純な繰り返しも、回数が重なればすごい効果を生む。特定の誰かがデザインする必要はない。
同様に、かつてのような「巨大なメインコンピュータが末端コンピュータを管理する」というイメージは無効となった。その代わり、無数の小さなコンピュータ同士が互いに繋がって情報を共有していく。
コンピュータの性能が上がって膨大なデータを処理できるようになれば、特に生物学の分野で有益な研究ができるのではないか。複雑なエコシステムの解析もできるようになるかもしれない。
情報化の世代が生物学を救う、というのは大変に皮肉なことだが、昨今ようやく大金を投じてヒトゲノムの解析に取り掛かることになったが、その一方で、いくつもの生物種が毎日のように絶滅していくのに手を貸している。アマゾンの熱帯雨林の生物多様性たるや、人の頭では到底理解不能だが、未来の人類は、人類がやらかした最悪の愚行はアマゾンの熱帯雨林の破壊だとみなすのではないか。
人類は自ら人類の進化の停止ボタンを押した、という説がある。進化とは、環境の変化によって促されるが、人類は自分の都合に合わせて緩衝領域を作ってきた。寒すぎる環境に対して暖かい服や住居を作ったように、農業や医療を発展させ、飢えても怪我しても暑くても寒くても人が死なないように心がけた。こうして築き上げた緩衝領域は、やがて環境そのものになった。
複雑に繋がったコンピュータのネットワークは、緩衝領域の中で生息しているように思える。かつて、コンピュータは椅子くらいの大きさだった。それが紙のようなものになり、砂つぶのようになり、シリコンチップの間で行き交う電子だったものが、光コンピュータになり、やがて量子コンピュータが到来する――これは正しいことなのか、それとも愚かなことなのか? 喜ぶべきか、警戒すべきか? イギリス人は警戒すべしと考えるだろう。大英帝国の衰亡史を考えれば無理もない。でも、未来を創り出すのはいつだって、新しいものに興奮する人たちだ。(Disc 4へ続く)
Episode 4: Convergence
Presented by Mitch Benn
Produced by Mark Rickard
2015年3月14日2000年に放送されたThe Hitchhiker's Guide to the Future を、約15年後の2015年に振り返って検証した番組。プロデューサーは The Hitchhiker's Guide to the Future と同じマーク・リカーズで、ホスト役をミッチ・ベンが務めている。
複数の人の意見を集めて検証した結果、アダムスの見解は概ね正しかったと判明した。The Hitchhiker's Guide to the Future が放送された時点では、iPhoneどころかiPodさえまだ発売されていなかったことを考えれば、その先見性と分析力はたいしたものだ。この番組が放送される10日ほど前、ニール・ゲイマンが行ったダグラス・アダムス記念講演での発言も、番組の中に取り入れられている(紙の本とサメの類比について――同じ話は、ニール・ゲイマンとクリス・リデル共作によるイラストエッセイ Art Matters: Because Your Imagination Can Change the World に収録された、"Why Our Future Depends on Libraries, Reading and Daydreaming" にも登場する)。
番組全体が28分ほどの長さしかなく、かつThe Hitchhiker's Guide to the Future がたびたび引用されるため、Disc 3まで聴いてきた身にとって新しい素材はそんなに多くない。が、「ツイッターは絶対にアダムス向きだったのに、彼が死んでから発明されるなんてあんまりだ("It is one of the savage irony that Twitter which could have been designed for Douglas Adams was invented five years after he died."」(トラック9、1分30秒)というミッチ・ベンの発言には、私も激しく同意する。