インタビュー集 I Was Douglas Adams's Flatmate and Other Encounters with Legends

 

 以下は、2005年からBBCのラジオ4で放送された、有名人と意外な形で接点をもった人たちへのインタビュー番組をまとめた本、I was Douglas Adams's Flatmate and Other Encounters with Legends に収録された、かつてアダムスと同居していたことのあるコメディ・ライター、ジョン・カンターへのインタビュー内容を簡単にまとめたものである。
 ただし、まとめたのは素人の私なので、とんでもない誤読をしている可能性は高い。そのため、これはあくまで参考程度にとどめて、全貌をきちんと知りたい方は、必ずオリジナルにあたってくださるようお願いする。


 ジョン・カンターがアダムスと初めて出会ったのは、ケンブリッジ大学在学中のこと。アダムスはセント・ジョンズ・カレッジで英文学を専攻、カンターはゴンヴィル・アンド・キーズ・カレッジで法学を専攻、と、在学しているカレッジも専攻分野も違っていたが、共にフットライツの活動を通じて互いの存在を認識していた。そして、大学の中庭にて二人が初めて直接交わした会話というのが、「自分がフットライツの代表になる」「いいや、代表になるのは僕だ」というものだったらしい――結果として、1974年にフットライツの代表になったのはカンターのほうだったが。
 学生時代、二人の仲はあまり良くなかった。フットライツのメンバー表を見ると、カンターは1972年から名前が入っており、1973年には書記、そして1974年には念願だったフットライツ代表の座についている。それに対し、アダムスの名前があるのは最終学年の1974年のみ、それまでは、ゲリラ的レヴュー・グループ「アダムス・スミス・アダムス」を結成して憂さを晴らすしかなかった。ようやく「アダムス・スミス・アダムス」のスケッチが認められ、この年のフットライツ公演 Chox に採用されることになった、と喜んだのもつかの間、カンターはパフォーマーとしてのアダムスを評価せず、アダムスは役を降ろされてしまう。
 この一件については、アダムスは1999年のインタビューでも「未だに腹が立つ」と言っているくらいだから、ケンブリッジ時代のアダムスとカンターの関係が良好だったはずはない。むしろ、卒業した後に、二人がフラットを共有するほど親しい友人になったことのほうが不思議なくらいだ。
 また、当時のカンターにとって、自分の野心をおおっぴらに表明し、会いたいと思えば相手がどんな大スターだろうと気後れせずに会いに行く、そんなアダムスの性格や態度は、決して好ましいものではなかったようだ。カンターいわく、「今にして思うと……うちで子犬を飼ってるんだけど、サイズはダグラスより小さいとは言え、性格はよく似ている気がする。あけっぴろげで、意欲満々で、ボーイッシュで……初めて会った時のダグラスを思い出したよ、この男は一体どういう性格なんだろうと思った。感情を抑えることがない。気後れすることがない。ジョン・クリーズに会いたいと思ったから会いに行った、そんな感じ」。(p. 12)
 カンターから見たアダムスは、文系専攻なのに理系の知識のある人間でもあった。加えて、かなりのSF好きでもあった。特に気に入っていたのは、アーサー・C・クラークカート・ヴォネガット。ヴォネガットが文学にコメディを持ち込んだように、アダムスはテレビやラジオで、SFとコメディを融合させた番組を作りたい、という野心を早くから抱いていたという。
 大学を卒業してからは、アダムスとカンターは疎遠になり、それぞれメディアの世界で身を立てようと悪戦苦闘の年月を送っていた。そんなある日、カンターがケンブリッジ大学の仲間たち、ジョナサン・サイモン・ブロックやクレア・ゴースト、ポール・ウィルコックス、キム・ルイストンらと暮らしていたイズリントンの一軒家にアダムスが転がり込んでくる。
 「ソファを使ってもいいかな」とアダムスに訊かれたとき、カンターはまさかアダムスが何日もずっとそのソファに居座るつもりだとは思わなかったという。でも、アダムスはそのままソファに滞在し続け、同居人の一人となった()。そして、その頃にはカンターとアダムスは親しい友人同士になっていた。
 1978年、ジョナサン・ブロックやクレア・ゴーストのカップルに子供ができると分かり、子供部屋を確保するためにも、このまま一軒家に5人+アダムスで暮らし続けることができなくなった。そこで、カンターとアダムスはイズリントン地区の別のフラットに引っ越し、二人での同居生活を始めることになる。
 彼らは2階の部屋を借りていたが、他の階の住人たちの中に、近所のよしみで仲良くしたいと思えるような人はいなかった。それどころか、カンターいわく、「外に出て彼らと顔を合わせるくらいなら、ずっと部屋にこもっていたほうがマシ、という気分にさせられるフラットだった。一種の牢獄みたいなものだったね」(p. 15)。
 おまけにその「牢獄」は、大柄な男性二人で暮らすには恐ろしく狭かった。その上、二人ともすぐに部屋を散らかすタイプの人間だったというから、その混乱ぶりは容易に想像できる。そんな狭い部屋の中でも、興に乗ったアダムスは手を振り回して話をするものだから、あちこちに手をぶつけたり物を落としたりしていたらしい。
 また、アダムスはさまざまなことに興が乗る人間でもあった。学術的なことから音楽のこと、それからセックスについても。
 カンターは、アダムスからセックスのことをいろいろ教わったらしい。カンター自身がウディ・アレンのような神経質なユダヤ人タイプだとしたら、アダムスはまるで『チャタレイ夫人の恋人』の登場人物みたいだった、とか。
 一方、物事がうまくいかなくなると、アダムスは「傷ついた獣みたいになり、何時間も座ったまま、ギターを弾いたり好きな音楽(ケイト・ブッシュの「嵐ヶ丘」('Wuthering Heights')とか)を聴いたりしていた。あるいは、風呂に引きこもった」(p. 17)。
 そんな時のアダムスは、本当に長風呂だったらしいが、カンターに言わせれば、時にはそうやって自分の殻に閉じこもって一人で考え続けることも、作家になるためには必要なのだ、という。単なる自己憐憫じゃないか、と言われれば否定できないけれど、でも決してそれだけではない、と。
 アダムスは、アルコールやドラッグにはハマらなかったが、新しいテクノロジーには目がなかった。アップル社の製品がまだ全然世に知られていなかった頃に、カンターはアダムスからマックを貰ったことがある。1981年にコードレスフォンを手に入れたアダムスは、コードレスフォンの機能を電話相手のカンターに分からせるために、トイレに行って用を足しながら電話で話し続けたこともあったとか。
 同居していた当時、二人はアメリカのコメディが大好きだった。とりわけ、「M*A*S*H(マッシュ)」が好きで、録画できる装置などない時代だったから、放送時間には二人でテレビにかじりついて観ていたらしい。カンターいわく、「M*A*S*H(マッシュ)」のブラックユーモアのセンスは、『銀河ヒッチハイク・ガイド』に相通じるものがあるのでは、とのこと。カンターは、アダムスは心のどこかでずっとアメリカ人への憧れを抱いていて、だから晩年になってサンタバーバラに移住したのではないか、とも語る。
 話を戻して、カンターが細々と広告のコピーライターを続けている一方で、アダムスは小説版『銀河ヒッチハイク・ガイド』を書き、一躍有名人になった。『銀河ヒッチハイク・ガイド』の成功後も、アダムスはカンターとの共同生活を続けた。カンターいわく、アダムスは友達思いですごく親切だった、という。自分の友達にも自分と同じように成功してほしいと心から願い、それでいて、まだ目が出ていないカンターに引け目を感じさせるようなことはしなかった。
 アダムスがもっとリッチなハイベリー・ニュー・パークにあるフラットに引っ越すことになった時、アダムスはカンターにこう言ったという。「僕のフラットには、君の部屋もあるからね」。
 当時を振り返って、カンターは、この時のアダムスは幸せの絶頂だったのではないかと語る。なまじ1作目が大成功だったため、2作目以降では執筆のたびにとてつもないプレッシャーに晒されることになったからだ。カンターの目には、狭い共有フラットで小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』を書いていた時のアダムスはとても楽しそうだった。が、2作目では、はるかに快適な環境だったにもかかわらず、結局アダムスは自分のフラットでは書き上げられなくて、近くのホテルに缶詰された――そして、その後のアダムスは、生涯ずっとこのパターンを繰り返すことになる。
 とは言え、小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』が大ヒットし、アダムスの元にインタビューや契約依頼の電話がしょっちゅうかかってくるようになると、否応無しにカンターはアダムス宛の電話を取り次ぐ係のようにならざるを得なくなった。アダムス本人の思惑はどうあれ、「ダグラス・アダムス」はもはや一大ビジネスであり、電話を取り次ぐことは、そのビジネスに巻き込まれることでもあった。
 かくなる上は、同居解消は不可避だった。
 1981年、カンターもこのフラットから引っ越した。アダムスとしては、カンターにもイズリントン界隈にとどまって欲しかったようだが、カンターは作家のスー・リムと共に、ロンドン北部のストーク・ニューイントンに住むことにした。その後、やがてカンターがサフォークへ、アダムスがカリフォルニアへと居を移したが、カンターとアダムスの親交は続いた。
 2001年、カンターは共通の友人メアリー・アレンから、アダムスの訃報を伝えられた。生前のアダムスが切望していた『銀河ヒッチハイク・ガイド』の映画化を果たせぬままこの世を去ってしまったことに強い悲しみを感じつつ、でも生涯の最後に、アダムスがさまざまなカンファレンスで講演者として舞台に立って喝采を浴びることで、若い頃からの「ライター兼パフォーマーになりたい」という夢が実現したのは何よりだった、とも語る。
 カンターは、アダムスから贈られたダーク・ジェントリー・シリーズの2作、Dirk Gently's Holistic Detective AgencyLong, Dark Tea-Time of the Soul を持っている。その2冊には、それぞれ、'Fuck off Jon, Douglas' とサインされている――といっても、アダムスがカンターに喧嘩を売った訳ではない。アダムスは、ごくごく親しい人にしかこの言葉は使わなかった。だから、アダムスから送られた 'Fuck off' は、むしろ親密さの証なのだとか。
 
※ ちなみに、ラジオドラマ『銀河ヒッチハイク・ガイド』が最初に放送された時には、アーサーとトリリアンが初めて出会ったイズリントンのフラットの電話番号は、彼らが同居していた家の番号そのものが使われていた。そのため、彼らの家にはラジオドラマを聴いた熱心なファンからの電話がしょっちゅうかかってきたらしい。それでも、「マーヴィンはいますか?」といったファンからの質問に、「いえ、今はおりません」などと律儀に返答していたのだとか。今では考えられないことだけれど、1979年はそんな呑気なやり取りも可能な、まだまだのどかな時代だったのだ。


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