The Hitch-Hiker's Guide to the Galaxy: the original radio script 'Introduciton'


 以下は、ラジオ・ドラマ『銀河ヒッチハイク・ガイド』のプロデューサー、ジェフリー・パーキンスが、1985年に発売されたラジオ・ドラマのオリジナル脚本 The Hitch-Hiker's Guide to the Galaxy: the original radio script に寄せた 'Introduction'の抄訳である(2003年に発売された25周年記念版に寄せた 'Introduction to the 25th Anniversary Edition' については、こちらへ)。
 ただし、訳したのは素人の私であるので、少なからぬ誤訳を含んでいる可能性が高い。そのため、この訳はあくまで参考程度にとどめて、全貌をきちんと知りたい方は、必ずオリジナルにあたってくださるようお願いする。

 私が初めてダグラス・アダムスの姿を目にした時、彼はぐらぐらする椅子の上に立ってスピーチをしていて、随分変わったことをするものだと思ったのを今でも鮮明に憶えている。というのも、椅子に乗るまでもなく彼はその部屋の誰よりも6インチは背が高かったからだ。彼は自説を強く主張していたが、同時に自分が監督しているケンブリッジ・フットライツ・ショウのキャストたちからキツい口調で質問攻めにされてもいた。
 あの場にいた人たちの中で、将来、誰が一番無謀なことを企てるか、誰が不遇に耐えてやり抜くか、また誰が一番先に椅子から転げ落ちるかは、一目瞭然だった。いずれの3点でも、私の予想は的中した。
 数年後、ラジオ・ドラマ『銀河ヒッチハイク・ガイド』をプロデュースをしていて、私は彼がどれほど想像力豊かなコメディ作家であるかを知ることになる。彼は、ラジオのコメディ番組の限界を打ち破ろうという強い熱意を持っており、その熱意に匹敵するものたるや、レストランにおける彼の食欲くらいのものだった。
 私はBBCラジオの仕事に就く前に、リバプールの海運会社で働いていた。私がそこに行ったのは、大学の就職課に将来何をしたらいいのか分からないのですがと相談したところ、それなら海運業がいいと即答されたからである。後で分かったことだが、どうやら彼らは水曜日に「何をしたらいいのか分からない」と言ってやって来た学生全員に海運業を勧めていたらしい。木曜だったら会計業務、といった具合だったのだろうか。そこに勤めていた半年間、自分が何をやっていたのかよく分からないのだが、ともあれ私はサイモン・ブレットにプロデューサーとしての見込みありとしてBBCに推薦された。彼は、アダムスに『銀河ヒッチハイク・ガイド』を着手させた人でもある。私たち二人は、一生彼に頭が上がらない。
 海運会社に行く前、私はオックスフォード大学に在学しており、卒業前の2年間、エジンバラ・フェスティバルで大学のレヴューの監督をしていた。この時の経験が、後にダグラスと一緒に仕事をする僥倖へと繋がるのだが、ダグラスはケンブリッジ出身、おまけに身体のサイズは私の二倍くらいある。私たちが一緒にいるところを見たら、誰だってすぐにサイモン・アンド・ガーファンクルを思い浮かべるにちがいない。ただし、私は曲を書けないし、ダグラスは歌えない。いや、ダグラスは歌えたが、歌う必要はなかった。何せ彼は(アート・ガーファンクルと違って)優れたギタリストで、また自分とは似ても似つかないポール・サイモンの大ファンでもあった。実際、ニューヨークで、ポール・サイモンはダグラスの身長を知って彼と会うのを拒否したという逸話がある。あるいはサイモンは、ダグラスがぐらぐらする椅子に乗った挙げ句に転げ落ち、自分の膝で鼻の骨を折ったという話を耳にしていて、だったらきっと自分の上に転がり落ちてきて押しつぶすにちがいないと思ったのかもしれない。
 また、ダグラスは私が知る中では、逆向きに執筆できる唯一の人でもある。『銀河ヒッチハイク・ガイド』のレコーディングの4日前、彼は8ページ分の脚本しか書けていなかった。それでも、締め切りには間に合うと私に請け負った。さて撮影当日、丸4日間に亘って彼が必死に執筆し続けた結果、8ページあった原稿は何と6ページになっていた。どんなからくりだと思う人もいるかもしれないが、私はダグラスが書いている時に一緒にいたことがあるから、どうしてそういうことになるのか分かる。単語一つとか、コンマ一つでもいい、どこかを書き換えたいと思ったら、そこを横線で消して先に進むということをダグラスはしない。代わりに、タイプライターからその紙を引き抜いて、もう一度頭から書き直すのだ。確かに、彼が完璧主義者だったということもあるが、それだけでなく、続きを書くのを少しでも先延ばしにしたいという気持ちが強かったのだと思う。この他にも、彼の大好きな先延ばし作戦がもう一つあって、それが風呂に入ることだった。いよいよ締め切りという段ともなれば、一日に5回くらい風呂に入れただろう。結果として、原稿が遅れれば遅れるほど彼は清潔になっていった。危機の際に、彼が不潔だと言って非難することだけはできない。
 しかしながら、『銀河ヒッチハイク・ガイド』の強みは、アダムスが言葉の一つ一つに至るまで気を配って書いたという事実に多くを依っていることは言うまでもない。おもしろい、というだけでなく、実に良く書けているのだ。視聴者が「これはきっと役者のアドリブだろう」と思わないようなコメディ作品など、滅多にあるものではない。それに、締め切り破りという点でも、少なくともダグラスはゴドフリー・ハリソンよりはマシだった。ハリソンと言えば、50年代に人気のあったコメディ番組 The Life of Bliss の脚本を書いた人だが、彼の脚本が出来上がるのは、往々にして番組を見にきた観客が家路についた数時間後だったというのだから。
 幸い、私たちは観客のことを気にする必要はなかった。驚くべきことに、この番組の制作が始まった当初、スタジオに観客を入れるかどうかで討議が行われたのだが、それというのも当時はほとんどすべてのラジオのコメディ番組は観客込みで製作していたためである。現実に『銀河ヒッチハイク・ガイド』の製作現場に観客が立ち会うことになったとしたら、丸一週間お付き合いいただくことになっただろう。一話につき、私たちはそれだけの時間をかけていたのだから。
 おまけに、観客の方々には何が何やらさっぱり分からなかったに違いない。私たちは、映画の撮影のようにシーンの順番を無視して録音していたし、録音の最中ですら、ステージに上がっていて姿を見ることのできる役者はせいぜい半分くらいだった。私たちが開発した画期的なラジオのパフォーマンス方法を、マーク・ウィング=デイヴィは「戸棚演技」(cupboard acting)と命名してくれた。ロボットとかコンピュータとかヴォゴン人といった、録音後に声に機械的処置を加えなければならない役に関しては、他の俳優の声と分けて録音する必要があったため、そういう役の俳優たちを戸棚の中に閉じ込めることにしたのである。シリーズを通じて、ベテラン有名俳優にもしぶしぶながら戸棚に入ってもらい、他の俳優とはヘッドフォンを通してしか話ができない状態した。時々、彼らを閉じ込めたままにしているのを忘れてしまい、彼らの出番がとっくに終わった後になって、コントロール室に「そろそろここから出てもよろしいでしょうか」と訴える声が聞こえてきたこともある。さらに、私たちが使用していたのが、ロンドンのロワー・リージェント・ストリートにある、BBCラジオの中でも観客を多く収容できるメイン・スタジオのパリスだったから、事態はますますおかしなことになった。当時は、ここにしかマルチトラック・テープレコーダー(と言ってもたった8トラックだが)が備えられていなかったのだ。役者たちは、しばしば広い空席だらけの観客席を前に演技をすることになり、3、4人のエイリアンだけが登場するシーンでは、コントロール室からは舞台上には誰の姿も見えないということにもあった。彼らが入っている戸棚は、スタジオのあちこちに散らばって設置されていたためである。時には、一人の役者が何役も兼任することもあった。5役も掛け持ちした役者もいる。これは勿論、彼らの多彩ぶりを示すものだが、おかげで番組の予算を抑えることもできた。
 俳優の声を録音した時にはまだ背景音や効果音はついておらず、それらは後で追加する必要があった。多くの人が思っていたのと違い、それらの音は完全な「電子音」ではなく、何千という普通のBBCの効果音ディスクをいじって作り出したものである。シンセサイザーの効果音や音楽には、ARPオデッセイという機械を使ったが、ご大層な名前の割には、世界中のカクテル・バーで客をイライラさせるような、実にちっぽけで安っぽい代物だった。Radiophonic Workshop 自体(Maida Vale の、ピンクに塗られて改造された屋内スケート場内に設置されていた)、長年に亘ってかき集めた、さまざまな装置類の集積場のようなものだった。シリーズを始めたばかりの頃は、これらの機械で一体何ができるのか(あるいは何ができないのか――たとえば、入って一番最初に目につくボコーダーは、部屋全体をふさぐくらい大きな機械なのに、頑として何種類かのぼやけた不愉快なブーンという音しか出さなかった)を突き止めるのにかなりの時間を費やした。でも、最初から装置の使い方を知っていたら、私たちはそれらを使って遊ぶことはなかっただろうし、Maida Vale 近辺のパブについて理解を深めることもなかっただろうと思うと、それはそれで残念な気がする。
 機械いじりはパリス・スタジオに移ってからも続き、ここで番組を一つにまとめる作業を行った。大半のバックグラウンドやちょっとしたノイズ(マーヴィンの歩く音とか)は、エンドレスに回り続けるループテープに収録された。時に私たちは、こういうテープを3、4本同時にぶっ続けで回すこともあり、録音室は至るところ陰気な黒いクリスマスデコレーションに覆われたような有様になった。が、Alick Hale-Munro 率いる技術チームの奮闘ぶりに関しては、どんなに言葉を尽くしても足りない。今でもはっきり憶えているのは、私たちが制限時間をはるかに越えてミキシング作業をした後、(上司から)スタジオのマネージャーたちにこれ以上の超過勤務は絶対にさせるなというキツい指令の電話を私が受けた時のことだ。6時ちょうどになって、私が「じゃあ、これで終わりだから」というと、全員が信じられないという顔つきで私を見て言った。「でもまだこのシーンは半分しか片付いていませんよ」。私が、君たちにこれ以上残業させることはできないのだと説明すると、ならば残業代は請求しないからこのシーンを終わらせたいと食い下がった。こうしたスタッフの姿勢こそが、番組を成功へと導く大きな要因なのだ。
 この番組はちょっと変わっているというにとどまらず、成功したと言えるんじゃないかと私たちが初めて感じたのは、私のオフィスに届いた一通の手紙の宛先が「小熊座ベータ星、メガドードー・ハウス、メガドードー出版」(Megadodo Publications, Megadodo House, Ursa Minor)と書かれているのを見た時だった。イギリスの郵便局すらこの番組を知っているのなら、本当に人気が出ているにちがいない。
 『銀河ヒッチハイク・ガイド』は、ラジオ・ドラマとしてはありえない程の成功をおさめた。Under Milk Wood だって良かったけれど、スピンオフのタオルが大量に売り出されるようなことはなかった。にもかかわらず、ラジオ番組が大金を産み出す紡績機械になるとは思わなかったBBCエンタープライズは、番組の本やレコードを作るという提案を却下したが、私が最後に聞いた話では、グッズ販売権を取り戻そうと必死に頑張っているらしい。私たちの元にはやがて大量のファンレターが届くようになり、そのうちのいくつかは脚註として引用させてもらった(ただし、引用した手紙の中には、残念ながらBBCと『銀河ヒッチハイク・ガイド』のアルバムを作ったオリジナル・レコードとの間のどこかで紛失してしまったものもある)。
 番組は、ラジオの批評家のほぼ全員から惜しみない賞賛を受けた(一人だけは「やかましくて意味が分からない」と書いた)し、ラジオの賞もたくさん受賞した(ヨーロッパでの賞は逃したものの、あれは多分フランス語の翻訳に間違いがあったせいだろう)。
 番組がBBC World Service で放送された時も好評だったが、興味深い批判も一つ二つあった。ベルギー在住のリスナーからは、(私の翻訳でご容赦いただくとして)「どうしてユーモアがこんなに慌ただしくなくてはいけないのですか? 医者が病気の子供のお尻に素早く注射する時みたいに、大急ぎで片付けてしまえばまだ顔に笑顔が残ったままだから、とでも?」。シエラレオネのリスナーは、「情報源として誤解を招きかねない」と考え、「もっと教育的な番組を放送すべきです。たとえば、世界の国歌を特集するとか」。インドのリスナーは、「コメディにロボットが出てくるなんて間違ってる」と強固に主張してきた。そのうち、銀河の反対側で電波を拾った誰かさんから、「ヴォゴン人に関する描写は不正確だ、それに我々が作ったスペクタクル・コメディ Eg Twonkwarth El Ploonikon のほうがずっとおもしろい」というメッセージが届くかもしれない。
 BBC Worldwide で放送されたヴァージョンは、最初にBBCラジオ4で放送されたものとは少し異なっている。BBC transcription service disc も、この二つとはちょっと違っているし、一般に販売されたレコードも別物だ。この他に、テレビ番組という別ヴァージョンもあれば、小説という別ヴァージョンもある。だが、この本に収録したのは『銀河ヒッチハイク・ガイド』のオリジナル・ラジオ・ドラマの脚本であり、最初に書かれた通り、初めて誕生した時のままになっている。
 あ、いや、『銀河ヒッチハイク・ガイド』にまつわるあらゆる事柄同様に、この本も見た目通りとは限らない。この脚本には、変更や修正や追加が山ほどあり、しかもそれらは録音している最中に行われ、話の流れを分かりやすくしたり、あるいはダグラスが次のページを書き上げるのを待っている間の時間潰しにもなった。加えて、最初の放送の時にはカットされた箇所も復元されている。そのうちのいくつかは、出来は悪くなかったものの、シーンのテンポが遅くなるからという理由でカットした。あるいは単純に放送時間の問題、番組はきっちり28分30秒に仕上げなければならないのだが、不幸なことにいずれの放送回でも番組として28分30秒が完璧の長さになるというものではない。脚本の中で、後で復元した箇所についてはイタリック体で表記した。
 それぞれのエピソード、私たちは(ルイス・キャロルの『スナーク狩り』にならって) 'fit' と呼んでいたが、そこに付けた短いキャプションは、『ラジオ・タイムズ』に載せたオリジナルの広告文であり、また番組の終わりに出演者・製作者の名前が読み上げた後のアナウンサーの台詞は、私かダグラスかのどちらかが指示したものである。
 私は各エピソードの最後に脚註をつけたけれど、これはもっと理解を深めてもらおうと意図したものでは決してなく、単に興味を持ってもらえるかなと思ったことを一つ二つ付け加えただけである。これらは、常に絶対の真実である、とか、正確な事実だ、というものではないかもしれないけれど、(『銀河ヒッチハイク・ガイド』から引用するなら)少なくとも「決定的に間違っている」ということでもない。
 視聴者からの手紙を読んでいると、人々がある種の事柄に関心を寄せているらしいことが分かった。ほぼ半数の手紙の中にあのテーマ曲は何ですかという質問があって、ある手紙には「あの素晴らしいバックグラウンド・ミュージックを、うっとうしい話し声に邪魔されずに聴けたら嬉しいのですが」とさえ書いてあった。という訳で、私たちがこの番組で使用した音楽のリストもここに掲載した。
 アダムスが書いた効果音(FXと呼ぶ)の指示も、大多数はそのまま残しておいた。批評家の一人が、『銀河ヒッチハイク・ガイド』は誰かが自分の考えていることをそのまま音にしたみたいだ、と書いていたが、これらの注意書き以上にダグラスの考えをはっきりと示している箇所はない。
 キャストのみんなには、心から感謝している。彼らのことは、脚註の中で名前を挙げておいた。それから、最初の頃に私が間違いを正すよう助けてくれたサイモン・ブレット。いろいろ助けてくれた上に、時にはモラル面でもサポートしてくれたパディ・キングスランド、彼とのランチの思い出は脚註を書く時にとても役に立った。Alick Hale-Munro にはこの番組に対する素晴らしいハードワークと強烈なドアの開閉音に、また彼を助けてくれたPaul Hawdon、リサ・ブラウン、コリン・ダフの3人、Radiophonic Workshop のディック・ミルズ、ハリー・パーカー、当時の上司で、私が第2シリーズの不可能としか思えない締切に間に合うよう助けてくれたデイヴィッド・ハッチ、ラジオ4で昼夜を問わずこの番組を流し続けてくれたリチャード・ウェード、私の元秘書で、いつでも素晴らしく冷静な、タイプしろと言われればいつでも脚本をタイプしてくれ、またこの本のためにいろいろな話や情報をまとめるのも手伝ってくれた Anne Ling、それから最後にダグラス、私にプロデューサーとして最高の仕事をする機会を与えてくれたことに感謝する。またいつか、一緒に食事をしよう。  

 ジェフリー・パーキンス
 1985年7月

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