The Hitch-Hiker's Guide to the Galaxy: the original radio script
'Introduction to the 25th Anniversary Edition'


 以下は、ラジオ・ドラマ『銀河ヒッチハイク・ガイド』のプロデューサー、ジェフリー・パーキンスが、2003年に発売されたラジオ・ドラマのオリジナル脚本 The Hitch-Hiker's Guide to the Galaxy: the original radio script の25周年記念版に寄せた 'Introduction to the 25th Anniversary Edition'の抄訳である( 1985年に発売された初版に寄せた 'Introduction' については、こちらへ)。
 ただし、訳したのは素人の私であるので、少なからぬ誤訳を含んでいる可能性が高い。そのため、この訳はあくまで参考程度にとどめて、全貌をきちんと知りたい方は、必ずオリジナルにあたってくださるようお願いする。

 最初のイントロダクションを読み返した時は、さんざん飲み食いして共に楽しんだことを思い出すばかりだったが、こちらのイントロダクションのほうを読み返すと、ダグラスの思い出がひっきりなしに甦り、今でも彼が私たちと一緒にいるような気がして、胸が痛んだ。
 ジョン・レノンが射殺された日、忘れもしない、私はアダムスからの電話で起こされた。彼は、自分がいかにショックを受けたか話したくてたまらなかったのだ。その悲劇に倣うかのように、2001年5月11日、私はダグラスの突然の死を知らせる電話で起こされた。ただし、今度は私のほうから何人かに電話をかけて自分が受けたショックについて話し、彼との思い出を分かち合いたいと思った。
 巨大。
 熱狂。
 不器用。
 熱狂と不器用は、しばしば手を携えてやって来た。ひとたびアダムスが行動を起こすと、床に釘付けされていないものはすべてひっくり返されることになった。
 無神経。何年か前、私は彼からエキサイティングな感じのプロジェクトに関する電話を何度か貰ったが、何のことはない、ダグラスには他に一緒に仕事をしたい人がいて、単にその人の電話番号を教えてほしいというだけだった。6ヶ月かけて世界中を旅するというおもしろそうな企画もあったが、実際のところ私の仕事は6ヶ月間ロンドンに居残り、彼が世界各地の辺境から送りつけてくるバラバラのテープを編集するだけだと分かった。
 非実際的。私が初めて彼と会うことになったフットライツのショウは、ダグラスそのものだった。神懸かり的なアイディアの数々が、ありえない演出で暗礁に乗り上げている。たびたびの暗転と、暗転の合間の舞台では一人の役者が巨大な柱に座っていて、その柱が人力であちこちに動かされていたのを今でも憶えている。それから約20年後、私はジミー・ムルヴィル(奇しくも彼はフットライツ・ショウの後のパーティの席上でダグラスを詰問していた人物だった)と共にダグラスのフラットにいた。ハットトリック・プロダクションで私たちと一緒に仕事をしないかと話をしに行ったのだが、約1時間に亘って、ダグラスは彼のみが生得しうるようなものすごい熱狂ぶりで自身のアイディアを語ってくれた。主要なアイディアは、彼を世界各地へと送り出して(これがテーマのようなのだが)、講義をさせるというものだった。講義そのものはどの場所でもまったく同じだが、肝心なのは人々がさまざまなサイズの講演室からでも、また講義のどの部分からでも、アクセスできるということらしい。ダグラスがようやく一息ついてしばらく席を外した途端、私はジミーに向き直って言った。「この1時間、ダグラスが何の話をしていたか、分かった?」ジミーが答えた。「いや、さっぱり分からない」
 寛大。彼はとてつもなく親切にもなれた。何年か前に個人的な不幸ごとに見舞われた時には、すべてを投げ出してそばにいてくれたが、彼の惜しみない親切に気付くのは少し時間が経ってからのことだった。
 才気。マーヴィン同様、彼は惑星サイズの頭脳を持っていた。彼は多くのことに関心を寄せていたが、彼の葬儀の日に、私はダグラスを『銀河ヒッチハイク・ガイド』の一発屋のように世間に思わせた張本人として非難され、環境問題とコンピュータに対する彼の知識と熱意がアフリカにおける自然保護に多大な影響を与えたことを指摘されるまで、よく分かっていなかったと思う。
 今となっては、ダグラスにとってラジオ・ドラマ『銀河ヒッチハイク・ガイド』がコメディ作家になるための最後のチャンスだったことを思い出すのは難しい。彼は、ラジオ4の長寿番組『ウィークエンディング』のような時事問題を扱うコメディ番組で仕事を得ようと七転八倒していた。時事ネタの一行ジョークを書くライターになり損ねた人間が、根強い人気のある、独創的でシュールなコメディを書く作家へと変貌しようとは。
 一時期、ダグラスは新たなラジオ・ドラマ製作に熱中していた。計画では、まずは専用のスタジオを建て、気が済むまで効果音や音楽を試してみることになっていた。1985年のことだ。もし実現していたとしたら、私は15年後もまだその中にいたことだろう。でも、刺激的だったにちがいない。結局、私の人生で最良の、そしてもっともクリエイティブだった時間は、いろいろな意味で惑星サイズだった熱狂的天才コメディ作家と一緒に、スタジオに籠っていた時だったのだから。

 ジェフリー・パーキンス
 2002年12月19日

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