以下は、2014年9月25日に William Heinemann から出版された The Hitch Hiker's Guide to the Galaxy: Nearly Definitive Edition につけられた、イギリスのSF作家ニック・ハーカウェイによる序文の抄訳である。ただし、訳したのが素人の私なので、少なからぬ誤訳を含んでいる可能性が高い。そのため、この訳はあくまで参考程度にとどめて、全貌をきちんと知りたい方は、必ずオリジナルにあたってくださるようお願いする。
なお、この本にはニック・ハーカウェイの序文の前に、リチャード・ドーキンスの序文もついている。が、ドーキンス自身が認めている通り、この序文の大部分はアダムスが死去した当時にガーディアン紙に寄稿した追悼文とロンドンのセント・マーティン・イン・ザ・フィールド教会で行われた追悼集会で読み上げた頌徳の辞の二つを組み合わせたものであり、もともとの追悼文と頌徳の辞はドーキンスの『悪魔に仕える牧師』(早川書房)に収録されていて垂水雄二訳で読むことができるため、ここでは省略した。
ANOTHER INTRODUCTION
作家は誕生するものだと広く信じられているが、確かに厳密にはその通りである。大抵は多くの出版業界の求めに応じてではあるが、それでもスペアパーツで作家を組み立てたり卵を温めて孵化させればいいというものではない。
それでも、少なくとも作家は誕生する――が、作家として誕生するということではない。ぼんやりしていて夢見がちで忘れっぽくて上の空で偏執的で分からず屋で注意力散漫な遺伝的傾向を持っていたとしても、必ず作家になれるという保証はできない。言えるとしたら、たとえその人がアルミサッシの営業をしていたとしても、常に作家の片鱗があるということだけだ。ゆりかごを出て書き物机に座り、あなたをまともな人生行路から引き剥がそうとする外部からの影響に屈し、奇妙なアイディアの数々が無視しようもなく頭の中で燃え上がり、おまけにそれらを紙の上に書きとめずにはいられないしそれを読んだ人もきっと次から次へと続きを読みたくてたまらなくなるだろうという、馬鹿げた衝動にかられなければならない――書いて書いて書きまくって300ページくらいの長さになったら、表紙に適当なイラストをつけてハードカバー本にまとめる、ということだが、そうなる前にプロの精神科医か霊的指導者にでも電話したほうがはるかに利口な振る舞いと言えよう。
私の場合、そのような影響を与えた作家の一人がダグラス・アダムスだったことは疑問の余地がない。子供の頃の私は、彼やチャールズ・アダムス(註/アメリカの漫画家。代表作は「アダムス・ファミリー」)やA・A・ミルンに繊細な心をねじ曲げられた。「ザ・シンプソン」や「マトリックス」やテリー・プラチェットに先立って、アダムスはそれまで単なる思考実験としか思われていなかったものを文字通りに解釈すると同時に、作品として機能させていた。彼が亡くなった時、私は震え上がった。どんな人の死も「早すぎる」ではあるけれど、その人が何よりもまず軽やかさや楽しさというものに直結していた場合にはより激しくそう感じられるものだ。私の中では、彼は永遠にシューレディンガーの猫のためにミルクを取り出そうとしている。見捨てられたソ連の宇宙犬ライカを長い散歩に連れ出して、低い軌道で棒を投げてやっている。ひょっとすると、ライカは国際宇宙ステーションの芝生でオシッコしているかも? そんなライカを、彼は慰めているかもしれない。
彼のどこがそんなに特別なのだろうか。その最たる理由は、彼には稀な才覚、誰の目にも明らかであるはずなのに分別ある大人であれば却ってこれまでの慣習に囚われて見えなくなっているような事柄について、気づいていないふりをするのではなく、言葉にする才覚を持っていたことだ。何かモノを与えられた子供は、その使い道を100通りは思い付くことができる。成長すると、大抵の人は、せいぜい5通りか6通りしか思い付けない。アダムスは、大人になっても自由な子どもの目を持ち続けていた。たとえば、人が空を飛ぶ方法さえ思いつくことができた。コツは(と彼は書いた)、地面に向かって身を投げ出そうとして、しくじることだ。このアイディアは今なおあまりに魅惑的なので、ひょっとすると空中に漂うことができるんじゃないかという気がして、私自身、デスクから立ち上がって試してみたくなる。
そして、彼の文章からは広い心と寛大さが感じられる。たとえばアーサー・デントだが、彼はどこにでもいる典型的なイギリス人だ。二日酔いで途方に暮れながらも、気がつくと彼は役所のブルトーザーから自分の家を守ろうと泥の中に横たわって、どのみち壊されるに決まっているものを壊されまいとして空しく奮闘する。不運にめげず精一杯戦う姿勢は、何にもましてイギリス的だ。実用性や能力も大事だけれど、イギリス人の魂の大部分は、「プロ」というのはほとんどどんな分野であってもある意味ずるい、と考えている。銀河のオデッセイを通じてアーサーは悪戦苦闘し、不平不満を言い、どうにかこうにかやり過ごしはするものの、何であれ頂点に立つことはないように見えるからこそ、私たちは彼を愛しているのだ。アダムスはそのことを理解した上で、私たちを励ましてくれる。イギリス人の中には、蹄鉄が外れてもまだあと3個付いている限りその馬を応援し、鞍にまたがっている限りそのジョッキーを応援してしまう何かがあって、アダムスはこの馬鹿げた心構えにかけては名誉ある詩人だった。単なる負け犬ではなく、ノミとの戦いにすら負ける犬だからこそ思わず愛おしく思えてしまう。私が買いた小説『世界が終わってしまったあとの世界で』が期待以上によく売れて、私が最初にしたことは、華々しい進化を遂げたせいで交尾のためにメスを呼ぼうとするとその声がメスを遠ざけてしまう結果となった、カカポという名のオウムを保護するニュージーランドのチャリティ団体への少しばかりの募金だった。どうして私がそんな世界一アホな鳥のことを知っていたのかって? それは勿論、ダグラス・アダムスが『これが見納め』の中で書いていたからだ。
道化役は難しいが、良い道化ともなると稀だし貴重だ。我々はどうも彼らを見くびりがちで、笑いなんて悲しみに比べれば単純で軽薄だなどと言ったりする。私はそんなに確信を持てないけれど。これってひょっとすると、『アンナ・カレーニナ』のせいではないだろうか――文学史上に残る素晴らしくも軽やかな名文、「幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである」。トルストイの見事な書き出しによって、文学の世界では悲しみは聖なるものとなった――そして悲しみは自己強化の道を辿る。悲しみはシリアスに扱う必要があり、またそうでなければ生き残れない。対照的に、喜びについて熟考するなんて時間の無駄だし、その重要性について語らねばという気持ちにもならない。喜びは慌ただしい。悲しみには時間がかかる。このことをアインシュタインは相対性がどうのと難解な言い回しで表現したが、ともあれ主にこの時間差のせいで私たちはウィットには本当の意味なんてほとんどないと考えてしまう。とは言え、勿論、正しい文脈に挟み込まれた正しいジョークは破壊力抜群で、革命的で、斬新だ。あるいは、それだけで生きる値打ちがあると思えるほどおかしい。
アダムスの文章に出てくるちょっとしたユーモアだけでも十分に読む価値があるけれど、彼には憤りも、さらに言うと悲しみもあって、その両方が脈々と流れている。仮想宇宙の驚異と、落伍者への愉快な讃歌との間で、彼は辛辣にもなれた。彼は、デイヴィッド・アッテンボローと共に、不注意な開発と無責任な産業が急速に進んだせいでこの惑星の環境がどんどん劣化していることに、初めて気づかせてくれた。
同時に、彼は官僚や政府の狭量な行動形式についても鋭い目を向けていた。1980年代当時、まだ「コンピュータがNOと言っています」でやり過ごすことはできなかった――そのような機械的冷淡さを自動発動できるのはまだ数年先の未来のことだ――が、それでも人それぞれの違いを認めない構造は作り上げられていた。アダムスは、普通の人が官僚主義の強固な壁にぶつかった時の様子を描く風刺家であり記録者だった。この本で、地球は宇宙人に脅されるが、宇宙人たちが地球にやってきたのは「征服」とか「帝国」といった大層なものとは何の関係もなく、単に人類が地元の役所に正しい書類を提出しなかったからだけなのだ。遊び心と生真面目さを併せ持つ他の作家が、命じられることを黙々とこなすだけの人が感じる疎外感や、そういうものに支配された社会の有様について描こうと考えたなら、主人公を虫に設定するだろう。アダムスの場合は全く別で、同じような敵意に満ちた世界観の作品を作るにあたり、『銀河ヒッチハイク・ガイド』の主人公をドレッシング・ガウンを着て宇宙放浪の旅に出る刑に処したが、この主人公、地球ですら寛ぐ術を心得ていなかったくらいだから、他の惑星ではなおさら寛げないときている。とどのつまり、奇妙な生命体やロボットやモンスターといったものはどれも人間、人間そのものというのではなく、人間の行動そのものだ。自分の中に取り入れたいと思うものであれ、自分の中から排除したいと思うものであれ。
当然のことながら、こういったことは、ある意味、すべて状況次第だ。私も作家である。だから、ほどほどの情報と2時間ほどの時間を与えられれば、チーズ作り全廃についてだろうとウェストミンスター寺院のキューバへの売却についてだろうと真四角のうさぎの実存についてだろうと、論理立てて主張してみせよう。これも一種のギャグだ。しばしの間、バカバカしいものをもっともらしく見せかけること、真実ではないと分かっている事柄について説き伏せることで、あなたが生きているこの世界も私の目から見ればまるで別物なんですよと示すこと。私がダグラス・アダムスは特別なんだと言うと、今あなたが手にしている本は素晴らしいんだろうなと思うだろうし、この本を買った自分は何て目利きなんだと思うだろうが、まあ実際その通りである――がしかし、嘘だったとしても効果が減じることはない。100パーセントの本心を言えば、彼は、かつても現在も、私、今のこの仕事をしているニックにとって、重要な存在だ、ということだ。
私は彼に会ったことがない。私に向けたサイン本は持っているが、それは私の母が彼に手紙を書いてサインをお願いしたからで、彼はいつもバタバタしている上にいつも時間を守れない人でもあるので届くのにすごく時間がかかったが、私が物理的にもっとも近づいたのはこのサイン本とこのイントロダクションである。作家になって良かったことの一つが、他の作家に声をかけて仲良くなれることだ。常にイエスと言ってもらえるとは限らないけれど、でも徐々に招待を受け入れてくれるようになることも多い。なのに、私がもっとも敬愛する作家の一人にはもう声をかけることができない、それもこれも宇宙が彼なしでも何とかやっていけるだろうと決めたせいだというのには、本当にムカつく。宇宙のほうが間違っていて、私のほうが正しい。
とは言え、先週、私がまだこのイントロダクションを書かせてもらえると知る前のことだが、奇妙で素敵な体験をした。スタニスワフ・レムの『宇宙創世期ロボットの旅』(1967年)を初めて読んでいて、あるページのある言葉の並びを目にした途端、私の中の何か、普段は小説を書くためのアイディアを見つけた時にだけぱっと明かりがつく何かが、まるで花火のように炸裂した。「ダグラス・アダムスはこの小説を読んでいた」。私は思った。「書いていたらリズムがぴったり合ったからこれを使ったんだ」。どのページのことか、指摘することはできる。証明はできないが、絶対そうだと確信している。
握手もできない。駅のカフェでお茶を飲みながら話すこともできない。でも、私は手に入れられる限りのものを手に入れるだろう。死してなお、私の前に広がるダグラス・アダムスの足跡を。
初めて『銀河ヒッチハイク・ガイド』を読むという方へ。おめでとう。羨ましいよ。もう読んだという方へ。私との共通点が見つかったね。
それでは、好き勝手にお楽しみあれ。2014年7月