以下は、小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』の発売開始25周年を記念して、Harmony Books から出版されたThe Hitchhiker's Guide to the Galaxy:25th anniversary edition にテリー・ジョーンズ寄せた序文である。ただし、訳したのが素人の私なので、少なからぬ誤訳を含んでいる可能性が高い。そのため、この訳はあくまで参考程度にとどめて、全貌をきちんと知りたい方は、必ずオリジナルにあたってくださるようお願いする。
Foreword
かつて、ダグラスと私は、南ロンドンの安酒場でうだうだとリアル・エール(イギリスの伝統的手法で製造されたビール)を飲んでは、自分たちが座っている椅子がぐらぐらしていると文句を言ったものだ。ビールも椅子、どちらも軽んじられているが、文明化された暮らしとコミニュケーションには必要不可欠である。
私たちが知り合いになったのは、『空飛ぶモンティ・パイソン』の最終シリーズの頃で、ダグラスはグレアム・チャップマンと一緒に執筆していた。実のところ、アダムスは時々最終シリーズに顔を出している。(またしても)実のところ、彼はパイソンのメンバー以外でテレビ・シリーズに脚本家としてクレジットされた、唯一の人間でもある。
ビールと椅子のおかげか、ダグラスと私は親しい友人になった。『空飛ぶモンティ・パイソン』以降の彼の仕事ぶりまでは知らなかったけれど、『ドクター・フー』やBBCのラジオ番組の脚本を書いているらしいという話はきいていた。
ある日、マイケル・パリンと私は、彼が脚本を書き、収録が終わったばかりの番組を視聴しにBBCまで来てほしいと頼まれた。で、マイクと私はしぶしぶ放送局まで足を運び、狭い部屋にダグラスとプロデューサーの四人で集まって、彼らが製作したという番組の第一話を聴いた。
コメディ番組を初めて視聴させられ、おもしろいかおもしろくないかの判定を迫られる、という体験をしたことがおありかどうか分からないが、これはかなり苦しい試練だと断言できる。『モンティ・パイソン・アンド・ホーリー・グレイル』の時にそのことがよく分かった。作品のおもしろさが伝わるかどうかを知りたくて少人数のグループに見せると、いつも惨憺たる有様だったのだ。多分、どうか観てくださいとお願いする時、私たちの顔に不安の色が浮かんでいたのだろう。おもしろがってもらえるだろうかというこちらの不安が観客に伝わり、彼らを怯えさせたのだ。そのような精神状態では、おもしろがるなんて不可能である。(三度目だが)実のところ、この映画で観客が笑っているのを耳にしたのは、ロサンゼルスで初めて一般上映された時だった。
ということで、放送局でラジオ番組に耳を傾け、おもしろいかどうかを判断する、というのはかなりキツい体験だった――ましてや、その番組の作家とプロデューサーが2フィートほど離れた場所に陣取って、マイクと私のほんのわずかな反応すらいちいち不安げに見守り、我々がくすっと笑えば顔を明るくし、思わず吹き出せばお互いに顔を見て頷き合い、我々が爆笑間違いなしのシーンをうっかりスルーすると眉をひそめる、とあっては。
ありがたいことに、番組はとてもおもしろかったし、二人で立ち上がって、とてもおもしろい番組だったよ、一足先に聴くことができて良かった、とか何とか言ってその場を立ち去ろうとしたが……早とちりだった。「今のは第一話で」、とダグラスは言った。「第二話もあるんです」。そこですかさずプロデューサーが再度テープレコーダーのスイッチを入れ、ダグラスともども元の場所に戻り、私とマイクの表情を細部に亘って検証する作業に入った。私とマイクの顔には緊張の色が浮かんでいたと思うが、我々は先を続け、笑ったり吹き出したり、しかるべき場面では眉をひそめたりした。
第二話が終わって、マイクと私は立ち上がり、「すごくおもしろかったよ……とても気に入った……でもそろそろ……」と言いかけたところ、
「第三話もあるんです」ダグラスが言った。
ものすごく大事なランチデートの約束が、とか何とか言うヒマもなく、再びテープレコーダーに身を寄せて座らされ、ダグラスとプロデューサーはそこからさらに30分間、6インチばかり離れた場所から我々のわずかな口元の動きや眉間のしわや歯の見え加減をチェックし続けた。
かよわき人間には、耐えるにも限度というものがある。同様の手口で第四話が流される前に私とマイクは建物を飛び出し、早足で道を歩きながらこんな会話を交わした。「悪くなかったよね……というか、かなりおもしろくないか……でも大向こう受けするかなあ……すごく良いシーンはあったけど……」。
我々は、多分、『銀河ヒッチハイク・ガイド』の一番最初の視聴者だったのだと思う。伝説的コメディ番組の誕生に立ち会ったのだと分かっていたなら、六話全部を拝聴し、大笑いし、関係者全員にシャンペンを買ってお祝いしたのに。
そういう訳で、『銀河ヒッチハイク・ガイド』の人気が上がり続けるのを目にするにつけ、悔しさもいや増すことになった。『銀河ヒッチハイク・ガイド』の成功自体が悔しいのではない、最初に出会った時に作品の素晴らしさに気付けなかった自分が悔しいのだ。
神経を鎮めるために、言い訳してみよう。ダグラスとプロデューサーの二人があんなに近くに座っていなかったら――あるいは誰かが先に、おもしろいかどうかなんて心配することないよ、間違いなく素晴らしい番組だから、と耳打ちしておいてくれたなら――そうしたら我々もリラックスして楽しむことができたのに、とか。大鎚が眉間の間を狙っているような状況で、おもしろさを堪能するなんてできっこないじゃないか。
ただ、『銀河ヒッチハイク・ガイド』が変わっているのは、元々ラジオ・ドラマとして始まったにもかかわらず、私には本という形式のほうがベストだと思えることだ。後にも先にも、リメイクのほうが良いという例は私の知る限り他にはない。
本書は、天才の手による最高傑作であり、読んで人生が豊かになったと思える稀な本でもある。ただの本というのでは足りない、読み終わった後もずっとそばにいてくれる友達、と言ったほうがいい。(四度目になるけど)実のところ、ある意味では「読み終わる」なんてことはできないのだが。
そういうところは、ちょっとダグラス本人とも似ている。私は心からダグラスのことが好きだった。彼は(いろいろな意味で)おもしろかったし、優しくて――こういう言い方でいいのかどうか――良質の人間だった。まさに最良。何より彼を喜ばせたのは、不条理と洞察だった。ダグラスはその両方を、どちらも大体同じくらい、世界に送り返してくれた――どちらも欠くべからざるものだが、ビールや椅子と同様に、いつも軽んじられている。
彼が書いた本のように、彼自身もまた、今なお私の近くにいる。たとえこの場にいなくても彼はずっと私の友達であり、彼と知り合えたことで私の人生はより豊かなものになった。テリー・ジョーンズ
2004年2月15日