Last Chance to See: In the Footsteps of Douglas Adams への序文

 以下は2009年に発売された Last Chance to See: In the Footsteps of Douglas Adams に寄せた、スティーヴン・フライマーク・カーワディンの序文の抄訳である。ただし、訳したのは素人の私なので、少なからぬ誤訳を含んでいる可能性が高い。そのため、この訳はあくまで参考程度にとどめて、全貌をきちんと知りたい方は、必ずオリジナルにあたってくださるようお願いする。


FOREWORD

 私が初めてダグラス・アダムスと会ったのは、1983年のことだった。友人になってから最初の7ヶ月間、私たちは二人で一体何をしていたのか想像もつかない――指をいじくりまわし、あくびをしていたのかな――が、1984年1月にアップル社のマックが発売されてからは、私たちは毎日のようにお互いの家を訪問し、モノを交換したりコンピュータを動かしたりしていた。続く1年ばかりの間、私たちの関心はもっぱら無生物たる電気装置と、この電気装置がいかに働かないかに向けられていた――私たちがほんの一瞬でも自然界に注意を払うとしたら、窓の外を見て雷雲が発生しそうかなと思うくらいのものだった。落雷は停電の元だし、たとえ瞬間的に電圧が大きく変化しただけでも、私たちの大切なおもちゃにダメージをもたらす。自然とは、その程度のものだった。
 時は過ぎゆく。ある日、私には大いに意外だったことに、ダグラスが珍しい種類のキツネザルに関する風変わりな取材の仕事でマダガスカルに出かけて行った。彼が戻ってくると、私は私の頼りになるコンピュータ・オタクの中の何かが変わったことに気が付いた。彼はリチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』と『盲目の時計職人』を読んでいて、読めばきっと人生が変わるからと、私にもその本をくれた。その通りだった。ニール・ボーアが量子力学について言ったことは、進化論についても真実だった。「ショックを受けなかったとしたら、それはあなたがまだちゃんと理解していないというだけのことだ」
 この頃、私は大学時代の友人たちと一緒にダルストンでルームシェアしていたが、みんなそろそろ自分専用のフラットなり家なりを購入して別々に暮らすことを考える時期に差し掛かっていた。私としてはイズリントン辺りに住みたかったが、適当な物件を探して見つけるまで時間がかかりそうだと思っていた。まずは賃貸で始めたほうがいいかな? ある日の午後、いつものようにダグラスと一緒にマックの前に座って、ちょうど1000回目になるだろうか、私たちが何か普段と違うことをやろうとするたびに「ボーン」と音がしてシャットダウンしてしまうのを止められないものだろうかと画策していた時に、私はダグラスに自分の住居問題を押し付けてみた。
 「だったらこの家で一年暮らしてみないか?」と、彼は提案した。「僕のために家の管理をやってほしいんだ。これから12ヶ月ばかり、珍しい動物を探して世界中を旅することに決めたから」
 「え、何を探して何をするんだって?」
 彼は、マダガスカルへの旅が、彼の中に消すことのできない火をつけたのだと説明してくれた。マーク・カーワディンとかいう名前の動物学者と組んで、アイアイと呼ばれる発見困難なキツネザルを見つけて写真を撮るという体験をしたり、ダーウィンについて学ぶうちに、目下彼を夢中にしている最新テクノロジーは、何百万年もの時を経た進化の産物であり、彼や私、そして究極的には「ボーン」と言い続ける装置もその一部ということだった。彼は本気で生命と絶滅とやらについて理解したいと思っていたのだ。彼とマークはもう少し直接的な言い方をしていたが、ともあれ彼らの計画は、アイアイ同様に絶滅の恐れがあって永遠に失われてしまうかもしれない動物を7種類以上見つけようというものだった。
 そうして出来上がったのがマークとダグラスの共著『これが見納め 絶滅危惧の生きものたち、最後の光景』とBBCのラジオシリーズだった。恐れ知らずな二人組が地球を旅している間、私は決められた期間にダグラスの家にいて、時折かかってくる電話に出てその対応をすることになった。これはファックスとか電子メールとかテキストでのやり取りが一般化する前の時代の話であり、連絡とか飛行機の予約とかその他旅行に関するあれこれは、直接電話で話すかテレックスを使うしかなかった。午前3時頃、現地で何かが起こっているらしく、興奮して時差のことなど忘れ果てたダグラスから電話がかかってくることなどしょっちゅうだった。「ガルーダ航空にテレックスして、フライトを変更したいと伝えてくれないか?」と電話越しに叫ぶ、とか。私は、今まで聞いたこともない島や港や街の名前を書き留め、地図上のどこにあるかも知らない国々に電話をかけたものだ。
 この本は素晴らしい出来だった。絶版になっているなんて信じられない。主題の重要性といい、ダグラスとマークの生まれ持った語りの巧さや魅力やウィットや独特の執筆スタイルの、見事な証しとなっているというのに。自然環境についての警告、自然保護や汚染、特定の場所に生息する動植物の減少、絶滅危惧種などの提言は、『これが見納め』以前にも存在していたが、今と比べれば世間一般に知られていなかった。マークとダグラスの本は、この惑星のさまざまな場所で野生生物の未来が危機に瀕しつつあるという個々の事例を通して、全体的な懸念に焦点を当てていた。どんなキャンペーンにも、その問題を代表するようなヒーローや顔が必要だ。現在なら、アイコン、とでも言うのだろうか。いかにもダグラスらしく、後に私はマークも同じタイプだと気づくのだが、彼らが選んだアイコンは、アマゾンマナティーとかアイアイとかカカポといった、ヘンテコで(ぱっと見だと)かわいくない動物たちだった。こういった動物たちには、厳粛にすら感じられる不可思議さとか、独特の生真面目さがあって、だからこそ、もっと写真写りが良くて魅力的な、たとえばピューマとかイルカとかパンダよりも、もっと切実かつ悲痛に私たちの胸を打つのだ。自然界には、美しさとか有益さとか重要さとかによるランク付けなどない。大きな間違いではあるのだが、私たちは人類こそが自然界の支配者であり進化の最終形なのだとか、あるいは、食物連鎖の上位に立っている動物のほうが下位にいる動物よりも重要なのだと考えたがる。『これが見納め』は、不器用に地上を跳ねているだけのオウムも、空高く舞い上がるコンドルと同じくらい自然界の美しさと壊れやすさを象徴することができる、とても醜くて枝みたいになった中指を持つ夜行性のキツネザルも、ミーアキャットやオランウータンと同じくらい生物の素晴らしさを適切に伝えることができると示してくれた。
 私はダグラスと知り合いになれたことを誇らしく思うし、彼とマークの素晴らしくも画期的な仕事にささやかなりとも関われたことを嬉しく思うが、正直な話、『これが見納め』が出版されてから15年ばかりの間、この本について深く考えたとはとても言えない。ただ、再読したし、自分なりに野生動物についての知見も少しばかり持つようになった――ペルーのメガネグマに関する二本の番組と本の仕事をし、たくさんのBBCのネイチャー・ドキュメンタリー番組でナレーションを担当した。
 2001年5月11日、突然でまったく思いがけないダグラス・ノエル・アダムス――この世界で私が愛し価値を見出していたものの中核となっていたDNA――の訃報に、私はショックを受け胸が張り裂ける思いをした。49歳の若さだった。あれからもう何年にもなるが、私は今もダグラスのことを、友達として、教師として、仲間として、恋しく思っている。iPhoneもiMacもコンパクト・カメラもGPS機能もブルーレイ・プレイヤーも、ダグラスがここにいて彼独自の思いがけない視点から説明してくれない以上、どうしてちゃんと理解することができるだろう?
 そして2007年のある日、出し抜けに私は電話を受けた。マークと一緒に旅に出て『これが見納め』に出てきた主な動物たちを再訪する、ただし今回はテレビ番組として収録するという企画について考えてほしい、と。私は自分自身に打診し、マークに打診し、BBCに打診してみた。みんな、ちょうどいいタイミングだと同意しているようだった。最初にマークとダグラスが選んだ8種のうち、2種(キタシロサイとヨウスコウカワイルカ)は既に事実上絶滅状態だった――言い換えると、ほとんど無作為に選んだ絶滅危惧の動物たちのうち、四分の一が生物の地図から消し去られたことになる。マークは最初のミーティングで私に、近絶滅種とされている動物の中から私たちがどの8種を選ぼうと、その動物が絶滅してしまう確率は四分の一だろうと話してくれた。
 結果的にこのドキュメンタリーの撮影は、その時私がやっていたアメリカ全州を回るというBBCの別のプロジェクトと平行して行われることになったため、私自身は関われなくなるんじゃないかと心配していた。どちらの側も積極的に協力してくれたおかげでうまくこなすことができたが、2008年1月に私はフロリダ州マイアミからアマゾンのマナナスに飛び、マークと合流して、アマゾンマナティーを取り上げた第1話目の撮影を開始した。
 マークは、いかにも彼らしく、今回の冒険譚を動物学者としての専門知識と人間らしい洞察を交えて書き上げたが、その結果、多くの博物学者や自然保護活動家のはるか上をいくことになった。と言っても、彼時自身はとても謙虚な人なのだけれど。私としては、マークのエネルギーや熱意、地元の知識、そして決して次善の策で良しとしない態度なしでは、『これが見納め』のテレビシリーズもこの本も完成しなかっただろうと言わせていただきたい。彼は、動物を観察し、写真を撮り、必要とあらばその動物を危険から守る、そのためならどんなことでもやってのける。アフリカやアジアで、密猟者を取り締まるためのパトロールのためにたびたび自分の命を危険に晒し、金儲けのために虐殺しようとする連中からサイやゾウやトラを守ってきた。絶滅の恐れが高まれば高まるほど、極東アジアにおける「伝統医学」の需要を満たすため、そういった動物のツノや牙やペニスの値段は高くなり、密猟者と金持ちの密売ルートを邪魔しようとする人間を殺したいと思う密猟者の数も増える。マークは銃で撃たれかねない場に身を置く勇気については滅多に口にしないし、話すとしてもごく控えめに語るだけだが、マークがどんな状況下だろうと自然の中に分け入っていく様を見れば、彼の責任感や情熱やとてつもない活力など、一目瞭然だ。その動物を何度見たとしても、マークはまた見たいと強く思う。動物を一目見るためだけに、山に登り、川を渡り、蒸し暑くてマラリア感染の危険がある沼にも入っていく。そればかりか、もっと電波の調子が良くてエアコンが使える場所があればいいのにと思いながら彼の横でのろのろ歩くことになった、デカくて汗っかきで文句たらたらな同行者を、最大限に勇気付け、鼓舞し、興味を持たせようとさえするだろう。
 このプロジェクトに取り掛かった時、正直、私は自分の手に余ることをしようとしていると思っていた。私は肉体派のヒーローではない。それどころか、不器用で、体重過多で、不健康で、鈍臭い。第1話の撮影開始早々、私は浮きドックから転げ落ちて右上腕骨を骨折した。それでもどうにか1年4ヶ月後、私は大幅に体重を減らし、嬉々として我が身を肉体的に過酷な状況に放り込んだが、それまでの私だったらきっとべそべそ泣いたりぎゃんぎゃん騒いだりしていたことだろう。今回の撮影を通じて人生を変えるほどの体験をさせてもらえたのは、ひとえに動物たちとマークのおかげだ。彼と私が一度も喧嘩しなかったのは、彼がとびきり穏やかな気性と優しい性格の持ち主だということの証である。彼は、怠け者で口ばっかりのド素人の存在を受け入れ、彼がいかに完璧な教師であるか、そしていかに私が不釣り合いな旅の仲間であるかを証明した。
 だが何より大切なのは、マークのおかげで私は、これからみなさんにお見せすることになる、素晴らしくて魅力的な、そしてすごく稀少な動物たちに会って仲良くなれたことだ。この体験が、どんなにささやかな形であれ自分にできることは何か、とか、動物たちを救うために世界中で行われている自然保護活動についてとか、あるいは既にいなくなってしまった種のことなどを考えるきっかけになればと願う。
 この本と私たちの冒険に目的があるとすれば、それは自然保護に関する会話を促すことだ。動物たちを救う値打ちは、複雑に絡み合った生き物同士の相関関係の網の中で、その動物が重要な位置に占めているからなのか? あるいは、この先いつか、医療とかその他の有益な技術を開発するヒントになったり素材になったりするかもしれないからなのか? それとも、彼らはみんな、何百万年もの時をかけて淘汰された末に生まれてきた美しい達成物だからなのか? 種の絶滅が進化の過程において当然起こるものだということは、疑う余地のない事実だ。それでも、気候変動や地球温暖化についてどのような見解を抱いているとしても、人類が生存場所の環境を変えたことにより、惑星全体で夥しい数の植物や動物が未だかつて例を見ないほどの速度で絶滅しようとしていることだけは、決して否定できない。そう考えると、恐らく正しい質問は、「なぜ彼らを救うべきか?」ではなく「どんな権利があって我々は彼らを滅ぼそうというのだ?」。
 この惑星でともに暮らす生き物たちについて語り続けようではないか。その第一歩として、彼らについてもう少し学んでみよう。

スティーヴン・フライ


IN THE BIGINNING

 スティーヴン・フライとアマゾンに行くことになったと僕が言っても、誰も信じてくれなかった。(セックス・ピストルズの)ジョニー・ロットンをオペラに連れて行く、とか、ダライ・ラマと一緒にオランダで1週間ばかりスキーをしてくる、とか言ったみたいに聞こえたにちがいない。
 僕たちは本当に世界最大の熱帯雨林の中でもとりわけ辺境な場所へと向かい、異様なまでに動きのない泥の土手と見間違えるような、巨大で黒くて寝てばかりいる動物を探すのだと説明した時には、ついに正気を失ったとばかりに、みんな無言で僕を見つめるばかりだった。
 でも、本当のところ、アマゾンは僕たちの慌ただしい約1年に亘る世界ツアーの最初の(そして、実際にはいろいろあってほとんど最後になった)目的地だった。
 2007年のクリスマスから2日後、僕らは不思議な野生動物たちを見つけるため、5つの大陸と8つの国にまたがる約14万5千キロの旅に出た。僕らの目的は、この惑星に生息するもっとも稀少でもっとも奇妙な動物たち、マダガスカルにいる夜行性のETみたいなキツネザルとか、インドネシアにいる旅行者を主食とするドラゴンとか、ニュージーランドにいる飛べないけどおバカでかわいいオウムとか、戦火のコンゴにいる四角い口のサイとかに、対面することだった。
 その過程で、恐れ知らずで肝がすわった凄い人たち、絶滅寸前の動物を(残念ながらすべてとはいかないまでも)少しでも多く守るためなら、時として自分の身をも危険に晒すような人たちに会えたらいいなとも思っていた。
 スティーヴンと僕は、1980年代の後半くらいからの知り合いだが、「やあ」とか「元気?」とか、最近だったら「君のiPhoneにも電波が入らない?」とか、その程度の挨拶を交わす程度の関係だった。同じ車に乗り合わせたこともほとんどないし、ましてや船室や小屋やテントを共有したり、遠方への冒険旅行や熱帯地方特有の感染症を一緒に体験することなんてもっとなかった。それが突然、良いんだか悪いんだが、ほとんどの時間は不快で、時としてかなり過酷ですらあり、一度か二度くらいはトラウマにさえなりそうな、そんな長期間の旅行に二人揃って放り込まれる、ということは、僕らが築き上げつつある友情への挑戦であり、忍耐力のテストであり、ベストとされた計画を試練にめげず遂行することであり、医学的な技術を厳しく追求されることでもあった。
 「白状すると、この企画全般に不安を憶えていた」と、スティーヴンも認めた。「私は動物(creature)は好きだけど、それ以上に快適な生活(creature comforts)のほうが好きだからね」。
 が、僕らの狂気の沙汰にも規則はあった。僕らは、僕らの共通の友人で、残念ながら2001年5月に亡くなってしまった故ダグラス・アダムスと僕がきっかり20年前に採った足跡を辿ろうと決めていたのだ。
 1985年、「オブザーバー・カラー・マガジン」は、『銀河ヒッチハイク・ガイド』の著者として知られたコメディ作家ダグラス・アダムスを、絶滅の恐れがある夜行性のキツネザル、アイアイを探すため、インド洋の只中にある別世界めいた島まで送り込むことに同意した。この動物は、創作意欲に溢れたユーモアSF作家がいかにもでっち上げそうな類の、ヘンテコで素晴らしい生き物だった。
 これは画期的な企画だった。心に留めておいてほしいのだが、これは古き良き時代、絶滅危惧の動物や孤児の子どもたちが、落ち目なD級セレブのウソ泣きに晒されることなく、ねぐらやすみかで安全に暮らしていられた時代の話である。アイアイたちは、それまでセレブリティーなどに会ったことなどなかった。ましてや、ダグラス・アダムスほどの(サイズという意味でも人となりという意味でも)巨星には。
 ダグラスの任務はマダガスカルにおける環境保全の効果についてレポートすることであり、彼にしかできない独特のスタイルで、ユニークで想像力に富んだ視線を野生動物や野生動物よりもっとワイルドな人たちに向けていたが、プロの動物学者なら当たり前と思って気にも留めなかっただろう。当時、彼はこう話していた。「僕の役割は、何が起こってもびっくり仰天してばかりいるような、恐ろしく無知な非動物学者になることであり、そしてその役割に僕は完璧に当てはまっていた」。で、僕自身の役割はと言うと、基本的に、野生動物との出会いをたくさん用意することと、今見ているのが何なのかを特定すること、そして彼の生還を保証することだった。
 僕らが一番初めに顔を合わせたのは、マダガスカルの首都、アンタナナリボの空港であり、そこからいかにもマダガスカルなジャングルとお役所仕事をどうにかくぐり抜けるという、愉快で示唆に富んだ3週間を過ごすことになった。勝算は恐ろしく低かったにもかかわらず、これまで目にした中でも間違いなく一番奇妙な生き物であるアイアイに、僕らはこの旅のギリギリ最後のタイミングで会うことができた。
 相手の人となりを知るベストな方法は、二人揃って過酷な旅を数週間続け、幾晩も幾晩もジャングルの真っ只中で湿ったコンクリートの床の上で寝てみることだ。僕らの場合、すごくウマが合うことが分かった。実際、あまりに楽しい体験だったので、この次はもうちょっと大掛かりに、それも6回も繰り返してやるという計画を立てた。壁に大きな世界地図を貼り、ダグラスが行ってみたいと思うところに片っ端からピンを刺し、私は絶滅危惧種の動物がいるところにピンを刺して、二つのピンが刺さったすべての場所に行くことにした。
 それから3年後、僕たちは出発した。
 正直に言うと、本当のところはそんなに単純ではなかった。「冒険旅行」という言葉が「ガソリン15リットル」と同じくらい日常的なものとなる以前、電子メールという言葉が世に知られるよりはるか以前の時代において、地の果てまでの長距離旅行のための手筈を整えることは、「というわけで、出発しました」というお気楽な一言で片付けられるようなものではなかった。言葉を変えよう。「3年後」というのはつまり、「恐ろしく反応が遅いテレックスが届くのを何百回と待ち、タイプライターと修正液で書かれた何十もの手紙をやりとりし(その大半はまともに届かない)、ほとんど聞こえないのに事前予約が必要な長距離電話を数えきれないくらいかけたせいで、髪の毛が真っ白になる」と読み替えていただきたい。……そして、僕らはアイアイ以上に絶滅が危惧されている動物たちを探す旅に出発した。
 ようやく、すべての準備が整った。スケジュールが確定し、世界各地の動物学者たちが待機してくれ、僕たちのパスポートにヴィザのスタンプが大量に押され、おびただしい数の航空券やボートやホテルが予約された。
 するとダグラスから、新作小説の完成が遅れているから、旅行のプランニングをもう一度立ててくれないかという電話がかかってきた。
 私は一からすべてをやり直し、今度こそようやく、僕らは人生を一変させるような荘厳かつ驚きの体験をし、ラジオ・シリーズとして放送し、(『これが見納め』というタイトルで)僕らの冒険を一冊の本にまとめ、その過程で揺るぎない友情を築くことができた。
 そして、歴史は繰り返す。地図に刺したピンの場所は同じだが、今回僕と一緒にジャングルで寝て、人生を一変させるような荘厳かつ驚きの体験をしながら、この20年の年月を野生動物たちとその保護活動家たちがいかに生き抜いてきたかを探るのは、スティーヴン・フライだ。
 これは僕らの物語である。

マーク・カーワディン

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