映画『銀河ヒッチハイク・ガイド』評 各種記事


 以下の映画評は、2005年の映画公開当時、イギリスの新聞媒体に掲載されたものである。訳したのが素人の私なので、少なからぬ誤訳を含んでいる可能性が高い。そのため、この訳はあくまで参考程度にとどめて、全貌をきちんと知りたい方は、必ずオリジナルにあたってくださるようお願いする。


2005年5月1日 The Observer, p.7
Philip French "Future imperfect: The Hitchhiker movie is clever but adds little to the radio original

 過去50年というもの、BBCのラジオ放送局にリクルートされた人が真っ先に聞かされるのが、一人の利口な少年の話である。その少年いわく、テレビよりラジオのほうが好き、だってラジオのほうが映像がきれいだから、とのこと。
 この意見に対抗するカウンター理論もあって、40年前に私に最初に知識を吹き込んでくれたのは演劇評論家のマイケル・ビリンガムであり、一等最初に放送されたトム・ストッパードのラジオ劇についてのトークの中でのことだった。彼の主張によると、ラジオドラマ、特にシュールな作品の場合、鮮明な映像を思い起こさせるかどうかではなく、むしろ聴いている人が心の中で曖昧で適当で夢のようなイメージを創り上げる時にこそ効果を発揮する、という。
 このような、かつては異端だった見方が私の中で次第に説得力を持つようになり、1978年にラジオ4で製作されたコメディシリーズが大成功してダグラス・アダムスの名前を不動のものとし、小説化、テレビドラマ化、舞台化、さらにはつとに知られたタオル化までされて、ついに映画化までされるに至った、その理由を説明する一助にもなっている。思慮深く、かつとびきりお気楽そうなタイトル『銀河ヒッチハイク・ガイド』が忘れ去られることはなかった。
 数々のプロダクション・チームの手から手へと流れていき、果てしない書き直しが行われたにもかかわらず、映画版はオリジナルのストーリーにかなり近い。ボンクラなイギリス人ヒーローのアーサー・デント(『ジ・オフィス』のマーティン・フリーマン)は、仲良しのエイリアン、フォード・プリーフェクト(モス・デフ)から、サリー州の家が、というかこの世界そのものが、超空間高速道路建設のため、邪悪なヴォゴン人(チャールズ・ロートン演じるカジモドに似た種族)によってまもなく破壊される、と警告される。
 粉微塵になった地球から逃れ、アーサーとフォードは、作品のタイトルにもなっているガイドブック(声を担当するのはスティーヴン・フライ)の助けを借りて宇宙を旅して、やがて一連のキャラクターたちに出会うわけだが、彼らは今ではすっかりポピュラー・カルチャーの伝説となっている。二つ頭の銀河大統領、ゼイフォード・ビーブルブロックス(サム・ロックウェル)や、ビーブルブロックスの女性同伴者、トリリアン(ズーイー・デシャネル)、鬱病ロボットのマーヴィン(アラン・リックマン)、巨大コンピュータのディープ・ソート、そして「地球その二」を作った神のごときエンジニア、スラーティバートファスト(ビル・ナイ)、など。
 脚本家として、ダグラス・アダムス(4年前に死去)とキャリー・カークパトリック(彼の脚本作品には『チキン・ラン』も含まれる)の名前がクレジットされている。これまでコマーシャルやミュージック・ビデオの監督として高く評価され、本作が映画の初監督作品となるガース・ジェニングスはイギリス人だが、主要キャストの何人かはアメリカ人、とは言うものの資本の問題を除けばスタンダードなハリウッド映画のプロダクションとは似ても似つかない。
 ストーリーは(ハリウッド版『宇宙戦争』のように)アメリカ化されず、フォード・プリーフェクトがアイオワ州ダビュークのフォード・ムスタングに改変されることもないまま、映画は地元の流儀と時勢をかなり保持している。この映画の究極の前身作品は『不思議の国のアリス』だ。詮索好きな主人公は謎のクリーチャーとのシュールな出会いを繰り返し、やがて官僚主義的なゴタゴタや不条理を追求する合理的な議論に巻き込まれていく。
 もっと最近の、コメディという側面で影響を受けた作品として、J・B・モートンが Beachcomber のペンネームで書いたコラム記事や、『ザ・グーン・ショー』、モンティ・パイソンなどがある。『銀河ヒッチハイク・ガイド』の先行作品として、『ドクター・フー』シリーズ(放送開始から15年経ったところでアダムスも脚本に参加していた)や、黙示録的な核戦争コメディ『博士の異常な愛情』、ジョン・アントロバスとスパイク・ミリガンによる舞台 The Bed-Sitting Room(のちに映画化された時の邦題は『リチャード・レスターの不思議な旅』) も挙げられる。
 この作品が誕生したのは、映画『スター・ウォーズ』や『未知との遭遇』が到来した時期とたまたま一致していた。このような流れに乗りかかって一体化しつつも、アダムスはそこに適切なウィットやひねりの効いた創意や本当の意味での生命の不条理、そして世界は終末に向けて衰退しているという適切な確信(別のところで彼は急速に絶滅しつつある種の保存活動に関わっていると表明していた)といったものを持ち込んだ。
 今回の映画版は、特定の美点を強化していると見ることもできる一方、今となってはいささか古めかしいとも感じさせる(SFとか未来予想といったものほど急速に時代遅れになるものはあまりない)し、見慣れたスペシャル・エフェクトを取り込んだことでありきたりなものになっている箇所もある。ジョークはハードウェアと張り合わねばならず、俳優たちはしょっちゅう絶望感を滲み出させようとしていた。
 原作のシリーズでは、この世の終わりとか大災害に対する慣れの感情からダークなユーモアの引き出していたが、今回は、そんなに不安がらなくていい時(というのは、絶滅が差し迫っている時、ということだけれど)には、ユーモアがクールにふざけているようにも見えた。映画版『銀河ヒッチハイク・ガイド』は十分以上に愛らしいが、散発的におもしろいだけだ。メル・ブルックスが作った『スター・ウォーズ』の子供っぽいパロディ映画『スペースボール』に比べればおもしろいし明らかに知的だが、ポピュラーSci-fiの底の浅さを笑いのネタにしつつセレブリティやファンダムへの愛情あふれる風刺となっていた『ギャラクシー・クエスト』ほどの魅力はない。


2005年5月1日 Sunday Express, p.66
Marshall Julius "A Very bad case of star flaws and galactic old hat: The Hitchhiker's Guide to the Galaxy" ★

 遠回しに言っても意味がない。我々はこの映画を観るためにあまりに長く待たされたのだから、単刀直入に言おう。『銀河ヒッチハイク・ガイド』はたいして良くない。もっと悪いことに、はなから見込みがなく、ほとんど笑えず、しょっちゅう退屈する。
 我々のように著者ダグラス・アダムスの大胆不敵なSci-fiで育ってきた人なら、映画化は彼の頭脳の産み出したものの究極の輪廻転生になることを願っていたはずだが、ひどい失望を感じることになるだろう。単に出来が悪いというだけでなく、私たちの多くがあまりにストーリーを知りすぎているから、たとえ新しい色付けがなされていたとしても、おなじみの古いジョークに笑いづらいのだ。
 新しい内容もあるが、これまであったものに追加するというより気を逸らしている。映画オリジナルのキャラクターは本当に平凡だし、アメリカ人の観客の好みに合わせるため、ちょっとしたロマンスやハッピー・エンディングを入れ、可能な限り口当たりのいいエンタメにしようとしている。そういう意味では、任務は達成されていた。
 これまでに『銀河ヒッチハイク・ガイド』を体験したことがないという人なら、意識を保ったままでいられる機会も高まる。もし小説を読んだことも、ラジオ版を聴いたことも、テレビシリーズを観たことも、ビデオゲームで遊んだことも、ヴォゴン人の詩を耳にして死にかけたことも、バベル魚のことも、タオルの重要性について耳にしたこともないなら、やり過ごすこともできるかもしれない。
 さもなくば、何もかもどっちかと言うとダサくて古臭いと思うかもしれない。当時はイギリスの誇るべきSci-fi資産として絶大な影響力があったとしても、その奇妙キテレツさも不遜さも忖度なしの斬新さも、今では救いようもなく時代遅れになってしまった。これは少なくとも20年前に作られているべき映画だ。『フューチュラマ』や『ギャラクシー・クエスト』を経て、Sci-fiコメディのハードルは使い古しのフランチャイズ作品では手が届かないほどの高さになった。
 地球が超空間高速道路建設のため破壊させる前の貴重な数分間で、パジャマ姿の一般人アーサー・デント(『ジ・オフィス』のマーティン・フリーマン)は、あらゆる知識を網羅し小噺やアドバイスでいっぱいの『銀河ヒッチハイク・ガイド』というおしゃべりな電子書籍(その気取った声はスティーヴン・フライ)の覆面調査員をやっている友人のエイリアン、フォード・プリーフェクト(ヒップ・ホップ界のスーパースター、モス・デフ)に助けられて宇宙空間に移動する。
 戻る家を失ったため、アーサーはフォードと一緒に次から次へと冒険のヒッチハイク旅を余儀なくされ、二つ頭のヤクザ者、ゼイフォード・ビーブルブロックス(サム・ロックウェル)や、一筋縄でいかない地球人女性トリリアン(ズーイー・デシャネル)や、スーツを着たドワーフみたいな見た目と動きの鬱病ロボット、マーヴィンと手を組むことになる。このロボット、アラン・リックマンが声を担当しているが、このロボットは単調なキャラクターなので、いい加減いなくなればいいのにという気になってくる。
 盗んだ宇宙船で旅をしながら、アーサーと彼の新しい仲間たちはあれやこれやをやらかすわけだが、そのどれもがおもしろくない。その過程で、さまざまなゲスト・スター――ジョン・マルコヴィッチビル・ナイスティーヴ・ペンバートンなど――が盛り上げようとするけれど、徒労に終わる。
 あらゆるレベルで実質的に失敗している以上、この『銀河ヒッチハイク・ガイド』はブーイングに値する。ダグラス・アダムスが脚本執筆半ばで死去した時に、プロデューサーたちはこれを兆しとみて製作を中止すべきだった。そうする代わりに彼らは新しい脚本家キャリー・カークパトリックを雇って脚本を完成させ、彼は言われた通りにその仕事を果たしたのだった。
 とは言え、もっと非難されるべきなのは、初めて長編映画を監督したガース・ジェニングスだ。これまでポップ・ミュージックのプロモやコマーシャルの監督しかしたことがなく、ちゃんとした映画を創り上げるとはどういうことなのか明らかに分かってない。本物の映画とは、チャラいシーンを適当につなぎ合わせた寄せ集め以上のものなのだ。
 プロデューサーたちがこのプロジェクトに多額の金を注ぎ込んだことはよくわかるが、斬新なエフェクトも野心的なプロダクション・デザインも、アイディアが弱く脚本が不自然ではどうしようもない。笑えるところはほとんどないというかほぼゼロ、出演者たちは(ごくわずかの例外を除いて)凡庸(フリーマンマルコヴィッチリックマン)か、うっとうしい(ロックウェルデシャネルフライ)。あと3年で30周年になるそうだが、今こそ『銀河ヒッチハイク・ガイド』にタオルを投げるべきだ。

 


 なお、私自身の映画『銀河ヒッチハイク・ガイド』評はこちら

 

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