アダムスがテレビドラマ『ドクター・フー』に脚本編集者として携わっていた頃、映画版の企画として「Doctor Who and the Krikkitmen」というシノプシスを提案したが、実現しないままに終わった。そのため、アダムスは後に小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズ3作目『宇宙クリケット大戦争』という形でこのアイディアを再利用した。
現在、アダムスの遺稿はケンブリッジ大学図書館で保管されているが、整理作業が進むにつれ、「Doctor Who and the Krikkitmen」の関連の脚本や覚え書きといったものが予想外に多く遺されていたことが分かった。この発見を受けて、これまでアダムスの『ドクター・フー』作品のノベライズを手掛けてきたジェイムズ・ゴスが、さまざまなバリエーションの遺稿を1つの小説にまとめ上げたのが、2018年1月18日に発売された小説 Doctor Who and the Krikkitmen: The Lost Adventure by Douglas Adams である。
以下は、Doctor Who and the Krikkitmen: The Lost Adventure by Douglas Adams の冒頭に掲載された、アダムス自身による提案書である。ただし、訳したのが素人の私なので、少なからぬ誤訳を含んでいる可能性が高い。そのため、この訳はあくまで参考程度にとどめて、全貌をきちんと知りたい方は、必ずオリジナルにあたってくださるようお願いする。
INTRODUCTION
1)SF映画
問題は、狙いを正しくすること。これまで何度挑戦してもうまくいかなかったのは、コンセプトが地球上に限られていて、『1984年』的未来の焼き直しだったからだ。例/『2300年未来への旅』(1976年)や『ソイレント・グリーン』(1973年)など。
これは恐らく、SFなど読んだこともない平均的な一般大衆が、現在の兆候から察するに未来は全体主義へと向かうであろうという陰気な予想をするのがSFだと考えているからではないだろうか。
評決:退屈。SFファンの私でさえ、観に行かなかったくらいだ。2)アポロ宇宙計画は、宇宙や宇宙旅行について現在分かっている範囲の事実に対してさえ一顧だにしてこなかったこれまでの古いスペースオペラタイプの映画を一気に無効にした。
SFは、今の時点で分かっていることを無視してはならない。実際に分かっていること以上に想像力を膨らませるのはいいが、想像世界の構造は論理的でなければならない。そしてこの点にこそ、SFの美学がある。
とてつもない想像世界は、現在分かっている事実に想像力に溢れる論理的外挿を行うことによって創り上げることができる。
たとえば――アインシュタインの理論を考慮せざるを得ないからには、現在のSFで光速を超えるスピードの宇宙船を登場させることは全くの論外だ。だが、瞬間的に通過できる超空間という設定なら受け入れる。言い換えると、現在分かっている知識に異議を申し立てることは可能だが、窓から放り投げることはできない。
もう一言――ブラックホールは想像を膨らませるには素晴らしいエリアだが、確かな知識に基づく想像でなければならない。作家がブラックホールについてでっち上げたすべてについて、理論家に序文という形で異議申し立てされてもいいように考えておかなくてはならない。
SFの視聴者は……懐疑心を一時的に棚上げしたいと思っているし、作り手も視聴者の知性をバカにしない形でそうさせてやるべきだ。とは言え、それは、どういう意味においてであれ、『ドクター・フー』やハリイ・ハリソン作品等を除外すべしということではない。これらはそれぞれの想像世界におけるむちゃくちゃさ故に、最高に知的でよく出来たSF作品の一つとなっているからだ。だが、SFの遊び心や腕前は、内なる論理性を維持している必要がある。
シュールリアルなコメディであれ、SFであれ、スパイスリラーであれ、優れたアイディアは、どんなに突拍子がなかろうと、作品内の論理に忠実である。論理なしには、驚きも喜びもない。3)問題とその解決法には大いに気を配ること。問題の解決法が、自分が組み立てた論理の枠組みに収まっていることが肝となる。ジェームズ・ボンド映画は多くの点でこのポイントを上手にクリアしており、映画版『ドクター・フー』の製作を試みるなら、ボンド映画がトンデモ設定の中で為したことが大いに参考になるはずだ。
サイエンス・フィクションならぬサイエンス・ファンタジーという言葉は、論理的な構築の欠如を示しているようで、私が決して信用しない。ダグラス・アダムス
(The Krikkitmen のための最初の提案書より)