リチャード・ドーキンスの著作に出てくるダグラス・アダムス

 以下は、リチャード・ドーキンスの著作でダグラス・アダムスの名前や作品が登場する箇所をまとめたものである。丸ごと引用するには長すぎる箇所もあるので、詳しくはそれぞれの著作にあたってくださるようお願いする。


『利己的な遺伝子』 The Selfish Gene, 1976

 リチャード・ドーキンスの代表作『利己的な遺伝子』は、1976年に最初に出版されてから現在まで、何度となく増補を繰り返されてきた。ここで引用しているのは、1989年に発売された第二版を日本語に翻訳し、1991年に紀伊國屋書店から出版されたものである。この版で、ドーキンスは12章と13章を新たに書き加えた。
 ダグラス・アダムスの名前は巻末の「補註」の部分に出てくる。ラジオドラマ『銀河ヒッチハイク・ガイド』が最初に放送されたのは1978年だから、この補註も1976年の初版にはなかったはずだ。

ここに「スペクテイター」紙の一九八八年一○月七日付けのチェス寄稿家レイモンド・キーンの発言がある。

今のところまだ、タイトルをもつ選手がコンピューターに負かされるとちょっとした騒ぎになるが、おそらく、そういうことは長くは続かないだろう。これまで人間の脳に挑戦してきたもっとも恐るべき金属製の怪物は「ディープ・ソート(深い考え)」という古風な名を付けられているが、これはまぎれもなく、ダグラス・アダムスに敬意を表した名である。(p. 442)

 ここに出てくるダグラス・アダムスの名前は、あくまで「スペクテイター」紙の記事からの孫引きにすぎない。が、もう一箇所の別の補註で、ドーキンスは直接的に、アダムスの著作『ダーク・ジェントリー全体論的探偵事務所』(1987年)に言及している。

結局のところ信仰とは何なのだろうか。それは、証拠がまったくない状況のもとで、人々に何か(それが何であるかは問題ではない)を信じされてしまう心の状態だ。(略)
 信仰篤い人々が何を信じるかは問題ではない。人々はとんでもなくふざけた人為的なものさえ信仰の対象にする。たとえばダグラス・アダムスの愉快な著書『Dirk Gently's Holistic Detective Agency』の中の電気仕掛けの修道士のようなものだ。彼はあなたに代わってあなたの信仰を貫くように作られており、見事にその仕事を果たす。私たちが彼とあう日は、彼はあらゆる反証にもかかわらず、世界のすべてはピンクだと断固として信じているのである。(p. 520)


『虹の解体』 Unweaving the Rainbow, 1998

 本書でドーキンスは、先の『利己的な遺伝子』の読者から「冷酷」呼ばわりされたことに対し、「科学がもたらす自然への畏敬の気持ちは、人間が感得しうる至福の経験のひとつ」であり「美的な情熱の一形態」(p. 8)でもあると反論を試みる。「キーツもまた、ニュートンが虹を科学的に説明したことによって、その詩性を解体してしまったと非難した。それがさらに一般化されて、科学は詩の敵であり、無味乾燥、温かみがなく、そこには若き詩人が求めるものは何もないとされた。本当はまったくの正反対である、ということを主張するのが本書の目的の一つである(p. 49)」。
 そして、その一例として『銀河ヒッチハイク・ガイド』をすぐれたSF小説の一つとして取り上げている。

SF小説では自然法則に手を加えることがあるが、一つの局面で、せいぜい一カ所が限度、それもよく考えられた末のことだ。法則性が根底からないがしろにされることはなく、それゆえにすぐれたSF小説たりえるのである。小説の中のコンピュータは進化して意識を持つようになり、それは悪意に満ちたものであったり、ダグラス・アダムスの名作『銀河ヒッチハイク・ガイド』のように被害妄想に陥ったりする。宇宙船は未来工学が作り出したワープ航法によって遠く離れた銀河まで旅する。しかしどの場合でも核心の部分では、科学のありようは一定のラインを保っている。科学は謎を認めるが、魔法は認めない。奔放な想像力を越えた不可思議は認めるが、呪術や魔術を認めない。安易な奇跡を認めない。質の悪いSFでは法則を守るという軸足を失って、かわりに「何でもあり」の魔術が乱発される。最悪なのは、それが超自然現象と手を組むケースである。(p.52)


『悪魔に仕える牧師』 A Devil's Chaplain, 2003

 ドーキンスが発表した多くの記事や講演などを、編集者レイサ・メノンが選んで1冊の本にまとめたもの。内容ごとに7つの章に分けられていて、それぞれの章にドーキンスによる解説が付けられている。
 第4章は、亡くなった人を偲んだ弔辞の文章を集めたもので、「愛情のこもったユーモア抜きの作家ダグラス・アダムスを考えるのは難しい。そしてそのことは、ロンドンのセント・マーティン・イン・ザ・フィールド教会における彼の追悼集会において、十分にはっきりと現れていた。私もそこで話をした人間の一人で、その頌徳の辞(4−2)をこの章の二つめの作品として再録した。しかしそれ以前に——実際には、彼が亡くなった翌日に——、私は哀悼の辞(4−2)を《ガーディアン》紙に書いていた。この二つの文章は、一方が衝撃に打たれた悲しみに満ちているのに対して、他方は愛情を込めた儀式的なものであり、まったく調子が異なったものであるがゆえに、両方ともここに収めるのが適切だと思われた」(p. 286)。
「4-1 ダグラスへの哀悼の辞」は288〜292ページに、「4−2 ダグラス・アダムスへの頌徳の辞 二○○一年九月一七日、ロンドンのセント・マーティン・イン・ザ・フィールド教会にて」は293〜299ページに亘って収録されている。どちらも長文なのでさすがに丸ごと引用するのは避けるが、ただ、ドーキンスが三度目の結婚相手、ララ・ウォードと出会うきっかけを作ったのがダグラス・アダムスだった、ということで、「彼は、彼の四○歳の誕生パーティーの際に、私に妻を紹介してくれた。彼と妻は同い年で、某博士のところで一緒に働いていたのだ」(p. 289)「ダグラスは、私にララを引き合わせてくれました。ダグラスとララは某博士のところでいっしょに働いていたのです。」(p. 296)と書かれているが、ここに出てくる「某博士」とはテレビドラマ『ドクター・フー』のこと。女優だったララ・ウォードは、アダムスが『ドクター・フー』の脚本編集者として働いていた時に、主人公ドクターの助手のロマーナ役で出演していた。
 本書には、この他にもアダムスに言及している箇所がある。「3−2 心のウイルス」と題されたエッセイでは、コンピューター・ウイルスと同じように人間の心にも流行や宗教という形の「心のウイルス」があること、そして神秘を解明しようとする試みは心のウイルス感染を阻害するが故に宗教家から嫌がられる、と説く。

 「神秘は美徳」といった感染症の極端な症例の一つが、テルトゥリアヌスの「ありえないがゆえに確実である」である。この道には狂気が横たわっている。ルイス・キャロルの白の女王の言葉を引用したい誘惑にかられる。白の女王は、「ありえないことを信じることはできませんわ」というアリスに応えて、「それはきっと練習が足りないのですよ。……私がおまえの年頃には、いつでも毎日三○分ずつはしたものだよ。そうよ、朝飯前に六つのありえないことを信じたこともあったわ」と反論したのである。あるいは、ダグラス・アダムスの、あなたの信じることをあなたのためにおこなうようにプログラムされた省力装置である〈エレクトリック・モンク〉を持ち出してもいいだろう。これは、「信じるのが難しかった事柄を、ソルトレイクシティーでは信じる」ことを可能にするもので、読者に紹介された瞬間に、あらゆる証拠に反して、世界の万物は、一様なピンクの色調を帯びていることが信じられた。しかし、こうした卓越した信奉者が、現実の人生において尊敬される神学者と区別がつかないことに気づくと、白の女王とエレクトリック・モンクは、それほど滑稽には思えなくなる。(pp. 244-45)

 さらに、911テロの直後に書かれた「3−5 立ち上がるべきとき」というエッセイでは、宗教に対して遠慮せず「ノー」を突きつけるべきだとして、一九九八年にアダムスが行った演説を(わずかに短縮した形で)3ページにも亘る長さで引用している。

私たちは、宗教的な考えには異論をさしはさまないことにしているのですが、リチャード[・ドーキンス]がそれをしたときに、どれほどの憤激を巻き起こしたかは、とても興味深いことです。そのことについては、誰もが完璧に逆上します。なぜなら、そういうことを言うのは許されていないからです。しかし、理性的になってよく検討してみれば、そうした考えを、ほかの考えと同じように、自由に論争の対象にするべきではないという理由は存在しないのです。唯一の理由は、私たちがどういうわけか、そうすべきでないとお互いに合意しあっているということだけなのです。(p. 275)

 ドーキンスいわく、「ダグラスは亡くなったが、彼の言葉は、今こそ立ち上がって、この愚かしいタブーを打破するよう、私たちを鼓舞するものである」(p. 275)。


 『祖先の物語 ドーキンスの生命史』 The Ancestor's Tale: A Pilgrimage to the Dawn of Life, 2004

 本書でドーキンスは、現在のホモ・サピエンスから逆に遡り、「現存するすべての生き物の最終的な共通祖先への大合流」を描き出した。その途中、「キツネザルとその仲間」との共通の祖先にたどりついたところで、ドーキンスはアダムスが書いたアイアイの描写を絶賛している。

故ダグラス・アダムスは、動物学者マーク・カーウォーダインと一緒の旅について述べた旅行記『目にする最後の機会』において、アイアイに関するすばらしい一章を書いている。

アイアイは夜行性のキツネザルである。それは、他の動物から少しずつ断片を寄せ集めたような奇妙な姿をしている。コウモリの耳と、ビーバーの歯と、大きなダチョウの羽のような尾と、長い枯れ木のような中指と、あなたの左肩を越えたすぐ後ろにあるまったく別世界をのぞき込んででもいるような、とてつもなく大きな眼をもち、大型のネコにちょっと似ている。……マダガスカルにすんでいる事実上すべての生物と同じく、アイアイは地球上でここ以外の場所には存在しない。

 何とすばらしく簡潔な書きぶり、この著者を失ったのがどれほど残念なことか。『目にする最後の機会』におけるアダムスとカーウォーダインの目的は絶滅に瀕する種が置かれた窮状に人々の注意を喚起することだった。三○種ばかりの現存するキツネザルは、二○○○年ほど前に破壊的な人類がマダガスカル島に侵入するまでは生き残っていた、もっとはるかに豊かだった動物相の残存種である。(『上巻』、pp. 246-247)

 さらに時間を遡り、ホモ・サピエンスの祖先が鳥類と爬虫類との共通の祖先に出会うところで、ドーキンスは飛べない鳥ドードーを取り上げ、アダムスが『ドクター・フー』並びに『ダーク・ジェントリー』で絶滅した飛べない鳥ドードーを哀悼したことに、深い共感を寄せた。

 今は亡きダグラス・アダムスは、ドードーの悲惨な話に心を動かされた。彼が一九七○年代に書いた『ドクター・フー』のエピソードの一つで、ケンブリッジ大学の老教授クロノティスの研究室が一つのタイムマシンとして使われているが、教授はそれをたった一つの目的、秘密の悪習のためだけに使う。すなわち彼は、ドードーを哀んで涙するだめだけに一七世紀のモーリシャス島に、とりつかれたように何度も繰り返し訪れるのである。BBCがストライキをしたために、『ドクター・フー』のこのエピソードは放送されなかった。そこで、ダグラス・アダムスは後に小説『ダーク・ジェントリーの全体論的秘密探偵社』のなかで、ドードーをたびたび訪れるというモチーフを再利用している。センチメンタルと言ってもらっていいが、私はここで黙禱を捧げなければならない——ダグラス、クロノティス教授、そして彼が涙を流した鳥のために(同、pp. 403-404)。


『神は妄想である 宗教との決別』 The God Delusion, 2006

 ドーキンスは、無神論について徹底的に語った本書で、アダムスに献辞を捧げている。

 ダグラス・アダムス(一九五二—二○○一)を追悼して

「庭が美しいことさえわかれば十分じゃないのか?
花の下に妖精がいるなんて信じなくても」
[『銀河ヒッチハイク・ガイド』第16章より]

 当然、本書ではダグラス・アダムスの作品や発言があちこちで紹介されている。
 まずは、37ページ。早くもアダムスが宗教について語った演説が引用されているが、これは『悪魔に仕える牧師』の273〜275ページで引用されたのと同じものである。ただし、引用箇所はこちらのほうが短い。また、『悪魔に仕える牧師』も『神は妄想である』も日本語に翻訳したのは同じ垂水雄二氏だが、ところどころで少し言い回しが変更されている。

故ダグラス・アダムスが、亡くなる直前にケンブリッジ大学でおこなった即興の演説でそのことを非常にうまく語っているので、私は飽きもせず、彼の言葉を繰り返すつもりだ。

 宗教というのは……その核心に、私たちが聖なるもの、神聖なもの、あるいはその他もろもろの名で呼んでいるある種の考えをもっています。それが意味するところは、「ここに、悪く言うことをいっさい許されない一つの考え、ないし概念がある。けっして許されないのだ。なにゆえに? ——許されないから許されないのだ!」ということです。(略)
リチャード〔・ドーキンス〕があえてこの不文律を犯したら、どれほどの憤激を巻き起こすだろうかは、とても興味深いことです! すべての人が、完全に半狂乱になって騒ぎ立てるでしょうそういうことを口にするのは許されていないからです。しかし、理性的になってよく検討してみれば、どういうわけか私たちがそうすべきでないとお互いに同意しあっているということを除けば、そうした考えを自由に論争の対象にしてはいけないという理由は存在しないのです。(pp. 37-38)

 続いて、「神を信じたほうがいい、なぜなら、もしあなたが正しければ永遠の幸福という利得を得るが、まちがっていたとしても、いずれにせよ失うものはないだろう」(p. 157)という、「パスカルの賭け」という考え方に異議を唱えるにあたり、ドーキンスはまたしてもアダムスの『ダーク・ジェントリー全体論的探偵事務所』を引用する。

パスカルの賭けは、神を信じているふりをするための論証でしかありえない。そして、あなたが信じると主張する神は全知という類の存在ではないほうがいいだろう。さもなければ、神はその偽装を見抜いてしまうだろうから。「何を信じるか」ということが自分で決定できるものだという馬鹿げた考えは、ダグラス・アダムスの『ダーク・ジェントリーの全体論的秘密探偵社』において、もののみごとにからかわれている。そこにはロボットの電子僧侶が登場するが、それは「あなたにかわって物事を信じてくれる」、労働節約型の装置である。宣伝によれば、デラックス型は、「ソルトレイク・シティ[モルモン教の本拠地]では信じないようなことを信じさせることができる」というふれ込みの商品だ。(p. 157)

 さらに、自然淘汰という仕組みを正しく理解すれば、世界は神の創造物であるという考えに疑問を抱けるようになるのでは、と、実際にドーキンスの著作を読んで無神論者になったアダムスを例にあげる。

 ダグラス・アダムスが、自分が急進的無神論者に転向した——誰からも不可知論者にまちがわれないよう、彼は自分が「急進的」であることを強調した——ときのことについて述べた、感動的で楽しい文章は、意識を高める道具としてのダーウィン主義の力をまざまざと見せつけるものである。私としては、以下に引用する文章に明らかな手前味噌を許していただけることを願っている。そのお詫びと言っては何だが、そもそも本書をダグラスの思い出に捧げようと考えたのは、ダグラスが私の初期の本――ほかの誰かを転向させることはなかった――を読んで転向したことがきっかけになっている、ということを申し添えたい! 死後に出版された『疑惑のサケ』という本に再録されたインタビューで、彼は一人の記者から、どうして無神論になったのかと尋ねられている。実は、その答をどうして不可知論者になったのかの説明から始め、次にこうつづけている。

 そして私は、考えに考えて、考えぬきました。(略)三○代になったばかりのころ、たまたま偶然に、進化生物学に、とくにリチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』と『盲目の時計職人』という本の形で出会うことになり、そこで突然(『利己的な遺伝子』を二度めに読んでいるときだったと思う)、すべてのことがうまく収まったのです。それは驚くほど単純な考え方なのに、自然に。どこまでも限りなく当惑させられるような生命の複雑さを生みだすのです。それが私の心にかきたてた畏怖の念は、正直に言って、宗教的な体験に敬意を表して語る人々の畏怖の念など比べるのも馬鹿馬鹿しく思えるほどのものでした。それ以来、どんなときでも私は、無知ゆえに畏怖することよりは、理解ゆえに畏怖することを選択してきました。

 彼が語っていた驚くほど単純な考え方というのは、もちろん、私とは何の関係もない。それは、ダーウィンの自然淘汰による進化という理論——究極の科学的な意識高揚の道具——であった。ダグラス、私はあなたを失ったのが淋しい。あなたは私にとって、もっとも賢明で、愉快で、もっとも心広く、機知に富み、もっとも背が高く、そしておそらくたった一人のわが回心者だ。私はこの本があなたを笑わせることができたのではないかと思っている――あなたが私を笑わせてくれたほどではないにしても。(pp.174-176)

 最後の章で、ドーキンスは再びアダムスについて語る。

 本書が献辞を捧げている人物[ダグラス・アダムス]は、科学の奇妙さを飯のタネにし、それをコメディの地点まで推し進めた。次に掲げるのは、先に引用した一九九八年のケンブリッジ大学における即興演説の、別の箇所からとったものである。「私たちが、九○○○万マイル彼方の核融合の火の玉のまわりを巡る、気体でおおわれた一惑星の表面にある、深い重力の井戸の底で暮らしていて、それを正常だと考えているという事実は、明らかに、私たちの視野がどれほど歪んだものになりがちであるかを示す兆候であります」。他のSF作家たちなら、科学の奇妙さにつけこんで私たちの神秘的な感覚を目覚めさせるところで、ダグラス・アダムスは、それを使って笑わせる。(彼の『銀河ヒッチハイク・ガイド』を読んだことのある人は、たとえば、「無限不可能性ドライブ」のことを考えるかもしれない)。現代物理学の奇妙なパラドクスに対する最良の反応は、おそらく笑うことなのだろう。(p. 535)


『進化の存在証明』 The Greatest Show on Earth, 2009

 ダーウィンの「進化論」は、理論ではなく事実である、というドーキンスの主張をまとめた1冊。なまじ「進化論」と呼ばれるせいで、あたかも「考え方の一つ」であるかのように扱われることに異議を唱える。

 第11章で、ドーキンスは進化の「事実」の例として、進化の過程で今では飛べなくなった鳥類に言及し、ニュージーランドの飛べない鳥、カカポについてのアダムスの言葉を借りている。

すべての鳥が飛ぶわけではないが、すべての鳥類は少なくとも飛行器官の名残をもっている。(略)ニュージーランドの飛べないオウムであるカカポ(フクロウオウム)には、まちがいなくこれが当てはまる。カカポの飛ぶことのできた祖先は、あまりに最近まで生きていたために、成功するための装備を欠いているにもかかわらず、いまだに飛ぼうと試みる。不滅のダグラス・アダムスの『目にできる最後のチャンス』の表現を借りれば、こうだ。

 それは極端に太った鳥だ。かなり大きめの成鳥だと体重は六、七ポンドになり、その翼は、何かに躓きそうだと思ったときに、ちょっとピクつかせるのにちょうどいいくらいだ——しかし、飛ぶのは問題外である。けれども悲しいかな、カカポは飛び方を忘れてしまっただけでなく、飛び方を忘れたことも忘れてしまったかのように思える。どうやら、重大な危機を感じるとカカポは、時に木の上に駆け上り、そこから飛び立つらしい。そして、猛烈な勢いで飛んで、無様にドタッと地面に着陸する。(pp. 482-483)


『好奇心の赴くままに ドーキンス自伝I 私が科学者になるまで』 An Appetite For Wonder: The Making of a Scientist, 2013

 2013年に出版された『ドーキンス自伝1 好奇心の赴くままに 私が科学者になるまで』は、ドーキンスが『利己的な遺伝子』を発売した直後までの人生を振り返ったものである。当然、アダムスと知り合う前のことだが、それでもこの本にもアダムスの名前は登場している。

ダグラス・アダムスは、まさに私を襲ったようなコンピューター中毒をおもしろおかしく風刺した。彼の皮肉の標的は、解決する必要のあるXという特定の問題を抱えたプログラマーだった。彼はXを解決するプログラムを五分で書き、それから仕事を進めて、その解決法を使った。しかし、それをするだけで終わらず、彼は、より包括的なXという部類のすべての同様な問題を、誰でもがいつでも使うことができるような、より一般的なプログラムを書くことに何日も何週間も費やした。何が楽しいかと言えば、その一般性と、一団の仮説上の、おそらくはまず存在しないユーザーにとって審美的に心地よく、ユーザーフレンドリーな作品を供給することにあり、特定のX問題への答えを実際に見つけることがそうなのではなかった(p. 324)。

 アダムスが皮肉の標的とした「特定の問題を抱えたプログラマー」とは、まさにアダムス自身のことでもあっただろう。


『進化とは何か ドーキンス博士の特別講義』 Growing Up in the Universe, 2014

 1991年にドーキンスが「宇宙で成長する」と題して英国王立研究所で行った、クリスマス・レクチャーの内容を編集し、さらに訳者である吉成真由美自身がドーキンスにインタビューした内容を加えたもの。
 クリスマス・レクチャーは5回にわたって行われ、その4回目、「紫外線の庭」と題された回では、ダグラス・アダムス本人もゲストとして参加している。

 中世のある敬虔な信者は、雑草というものは、それを引き抜くことが人間の精神衛生上いいから、そのために存在するのだと考えたし、またある牧師は、シラミというものは、清潔にしようという強い動機を人々に与えるから、必要不可欠なものだと考えた。そもそも動物というものは、積極的に人間に仕えたいのだ、人間に食べてもらいたいのだ、という議論さえあるくらいです。
 この考え方は、私の好きなダグラス・アダムス著『銀河ヒッチハイク・ガイド』というシリーズの一節を思い出させます。ダグラスにその一節を朗読してもらいましょう(ゲストのダグラス・アダムスが朗読する)。(p. 144)

 続いて、144ページから146ページにかけて『宇宙の果てのレストラン』の「本日の料理」のくだりが引用されている。日本語訳は、安原訳からの転載ではなく、吉成真由美自身によるもの。166ページには、朗読しているアダムスの写真が掲載されている。


『ささやかな知のロウソク―ドーキンス自伝Ⅱ 科学に捧げた一生』 A Brief Candle in the Dark: My Life in Science, 2015

 『ドーキンス自伝1 好奇心の赴くままに 私が科学者になるまで』に続く2作目の自伝は、1976年に『利己的な遺伝子』を出版し、一躍その名前を知られるようになってからの日々について語っている。ただし、時系列に沿って書かれていた前作とは異なり、「テーマによって分けられ、横道への脱線と逸話によって区切られた、一連のフラッシュバック」(p. 44)という構成になっている。
 オックスフォード大学で学生を個別指導していた頃の話、アナバチについての共同研究の話、招待された学会の話、出演したテレビ番組の話、出版した本の話……と、えは、さまざまなテーマに分かれているが、あちこちでダグラス・アダムスの名前が出てくる。冒頭のカラー口絵でさえ、アダムスの写真が2枚も載せられている。
 該当箇所は、以下の通り。

「ある祝宴での回想」

 ドーキンスが、70歳の誕生パーティで行ったスピーチ。

悲しいかなこの祝宴にはいない、ダグラス・アダムスという、偉大な忘れがたい人物が思い起こされます。一九九六年、五五歳のときに私は自分より一〇歳若いダグラスと、《科学の障壁を破る》と題するチャンネル4のテレビ・ドキュメンタリー番組で対談したのです。この番組の目的はほかでもなく、科学がもっと広い文化のなかで花開く必要があることを示そうとするもので、ダグラスへの私のインタビューはその白眉でした。次に示すのが、彼が語ったことの一部です。

 小説の役割は少しばかり変わってきたと思っています。一九世紀には、小説は自分についての深い省察や、人生についての疑問を手に入れるために赴くべき場所でした。トルストイやドストエフスキーを読むべきだとされていたのです。現在ではもちろん、ご承知のように、そうした問題に関して実際には科学者たちが、小説家から得られるよりもはるかに多くのことを教えてくれるのです。ですから私は、本当に重要だと考える実質的問題のためには、科学書を当たるべきだと思います。そして、息抜きのためになにか小説を読めばいいのです。 (p. 39)

「クリスマス講演」

 イギリスの王立研究所では、毎年、子どもたちのためのクリスマス講演が開催されていて、ドーキンスがその講演を依頼された時の話。全5回の講演のうち、4回目の講演でドーキンスは「人間が動物を搾取してきた歴史について」話したが、その中で『宇宙の果てのレストラン』に出てくる、自らレストランのメニューとして客に食べられたがるウシの話を引用しようとして、

このブラックなユーモアに富んだ哲学的に秀逸な作品を朗読してくれる人間が必要になった。ここで私はまたしても、「幼い聴衆」のなかから志願者を募った。いつものように、数十本の熱心な手が挙がり、私はそのうちの一人を指さした。大男が七フィート(二メートル)近い長身を伸ばしたので、私は彼を、前に来るよう差し招いた。

「お名前はなんとおっしゃいますか」
「えーと、ダグラスです」
「ダグラス何さまですか」
「えーと、アダムス」
「ダグラス・アダムス! なんという驚くべき偶然でしょう」

 少なくとも年かさの子どもたちは、このやり取りが仕組まれたものであることに気づいていた(pp. 184-185)

「出版社を得るものは恵みを得る」

 ダグラス・アダムスの40歳の誕生パーティ会場で、後に結婚することになる三度目の妻ララ・ウォードと初めて出会った時のエピソードが語られる。

 これは一九九二年のことで、この年、ダグラス・アダムスが四〇回めの誕生日を迎えたのだが、その場だったのである。彼はララを《ドクター・フー》がもっとも才気にあふれた番組であった頃から知っていた。というのも彼はこの番組のスクリプト・エディターをしていて、ララトム・ベイカーの、二人組の主役としての独創的に皮肉な演技が、台本の機知の価値をさらに高めていたからである。この誕生パーティで、ララがスティーヴン・フライと話をしているところへ、ダグラスが私を連れて行き、私たちは引き合わされた。ダグラスとスティーヴンのどちらも、ララと私よりはるかに背が高かったので、頭の上で高度な機知に溢れた言葉をやりとりするダグラスとスティーヴンがつくるゴシックアーチの下で、彼女と私が顔をつきあわせることになるのは自然だった」(pp. 226-227)

 少なくともドーキンスは、『ドクター・フー』の数あるエピソードのうち、アダムスとララ・ウォードが直接関わっているものについては視聴済みのようだ。

 1996年に『不可能の山に登る』の宣伝ツアーで、ドーキンスがララと一緒にニュージーランドを訪れた際には、「残念ながら、フィヨルドランド(この場所についてダグラス・アダムスは、誰しもが最初に思わずするのは「ただ自然に拍手喝采してしまうことだ」と言っていた)にまで行くことはできなかった」(p. 235)とのこと。

「テレビの裏側」

 《科学の障壁を破る》というテレビ番組で、アダムスにインタビューした時の話をきっかけに、アダムスと知り合うことになったいきさつ、その後の交流について5ページに亘って語られている(pp. 299-303)。すべてを引用するには長すぎるので、ここでは他ではあまり見かけないエピソードの箇所だけを選んで引用する。

 彼は四二歳の誕生日を、数百人のゲストを招いた大晩餐会という、独特のスタイルで祝った。着席形式のディナーという約束だったが、その約束を全うすることはほとんどできなかった——その驚くべき座席プランゆえに。それぞれのプレースマット(一人分の食器用のテーブル敷き)の上にゲストの名前を書いたカードを置くというのは、ダグラスにとってあまりにも単純すぎた。ダグラスのプレースカードには二人の名前があり、それはそこに座る人物ではなく、両側に座る人の名前である。「あなたの左に座るのはリチャード・ドーキンスなので、食前の祈りをするように彼に頼んでください。右に座るのはエド・ヴィクターです。彼のほうを向いて、疑うような声音で『一五?』と言ってください」(ダグラスの著作権代理人であるエド・ヴィクターは、その頃のロンドンで一五%という高い手数料を取る唯一の代理人だった)。カードによるこの席決めは、かくのごとくいわれのない複雑さをもつ離れ業だったから、ダグラスは(私の推測では彼のもっているMacコンピューター船団の二隻以上にけしかけられて)その夕方のほとんどをそれに忙殺され、私たちは真夜中近くになるまでディナーの席に座ることができなかった。世界一流のユーモアのセンスと——ずっと言われてきたように——世界一流の想像力をもつ彼を失って、私はどれほど悲しいか。

「シモニー教授職」

 数学教師のグウェン・ロバーツについて、「もし作家であれば、きわめてエキゾチックなpulverbatchをもてるだろう」(p. 415)。同じページにpulverbatch という言葉についての註があって、「ダグラス・アダムスの造語〔本のカバーの有名な作家たちが寄せる推薦文の冒頭の一節のことで、若い頃に苦労したとかいうようなことが書かれている〕。

「編まれた本の糸を解きほぐす」

 『不可能の山に登る』で、貝殻の形を例にあげて生物の進化パターンを考えると、貝殻の形状の変化は、フレア、ヴァーム、スパイアと名付けられた3つの数値が作る三次元の枠の中に限定されることが分かる。しかし、「いくつかのかなり大きな、数学は許容するがいかなるものも実際に生き延びることのできないような、「立ち入り禁止」区域(面というよりもむしろ空間)がある。これは、そうした形状が機能的に生存不能だからである。そうした「危険(ここにはドラゴンがいる)」〔ダグラス・アダムスの『これが見納め』に出てくるコモドオオトカゲの存在を警告する看板の文句〕地帯にとどまる突然変異体は、ただ死ぬしかない」(p. 523)

 さらに、『神は妄想である』を2006年に出版した際、自身に向けられた非難に対する反論として

そのような非難がなされるのは、宗教が批判を、あるいは上記のような文章に盛り込まれたような穏やかな冷やかしさえも禁止する慣例を受け入れようとでもしているのでなければありえないと、私は推測する。この論点は、『神は妄想である』の何年か前に、ダグラス・アダムスがケンブリッジ大学での即興スピーチではっきりと述べていた」

 宗教というのは……その核心に、私たちが聖なるもの、神聖なもの、あるいはその他もろもろの名で呼んでいるある種の考えをもっています。それが意味するところは、「ここに、悪く言うことはいっさい許されない一つの考え、ないし概念がある。けっして許されないのだ。なにゆえに? 許されていないから許されていないのだ!」ということです。もし誰かが、あなたが賛同してない党派に投票したとすれば、あなたはそのことについて好きなだけ自由に論じることができます。誰もが自分の意見を言うべきでしょうが、それによって不当な扱いを受けたと憤慨する者はいません。もし税金を上げるべきだとか下げるべきだとか考えている人間がいれば、それについてあなたは自由に議論することができます。しかし一方で、誰かが、「土曜日は安息日なので電灯が点けられないのです」と言えば、あなたは「私はそれを尊重します」と言うしかないのです。労働党か保守党か、共和党か民主党か、この経済モデルか別の経済モデルか、マッキントッシュかウィンドウズか、そのいずれを支持することも完全に正当化されるのに、宇宙がどのように始まり、誰が宇宙をつくったかについて意見をもつことが、なぜ正当化されないのでしょう。……それが神聖なものだからでしょうか?……私たちは、宗教的な観念には異論を差し挟まないことにしているわけですが、リチャード〔・ドーキンス〕があえてこの不文律を犯したら、どれほどの憤激を巻き起こすだろうかは、とても興味深いことです! すべての人が、完全に半狂乱になって騒ぎ立てることでしょう。そういうことを口にするのは許されていないからです。しかし、理性的になってよく検討してみれば、どういうわけか私たちがそうすべきでないとお互いに同意しあっているということを除けば、そうした考えを自由に論争の対象にしてはならないという理由は存在しないのです。

私はこのダブル・スタンダードについて、『神は妄想である』のペイパーバック版への序文でも強調しておいた。 (p. 597)


『魂に息づく科学 ドーキンスの反ポピュリズム宣言』 Science in the Soul: Selected Writings of a Passionate Rationalist, 2017

 ドーキンスのたくさんのエッセイや講演録などの中から、編者ジリアン・ソマスケールズが選んでまとめたもの。アダムスの名前が出てくる文章は、

「科学の価値観と価値観の科学」

 1997年に行われたオックスフォードのアムネスティ連続講演で、ドーキンスは「科学の価値観」というテーマの7回シリーズのうちの2回目を担当した。講演は、毎年1冊の本にまとめられ、この文章はそれを転載したものである。

 アダムスの名前は、「十分な時間があれば、私たちは人為淘汰によって、痛みを楽しみ、快楽を嫌う動物種を育てることができるはずです。もちろん、その動物の新たに進化した定義では、この言い方は矛盾語法です。言い直しましょう。人為淘汰によって、快楽と痛みの従来の定義を逆転させることができます」(p. 68)につけられた註に出てくる。

* 私は『動物の苦痛(Animal Suffering)』の著者で、このテーマの有数の研究者であるマリアン・スタンプ・ドーキンスと、このような品種改良が集約畜産の倫理的問題の一部の解決策になる理論上の可能性を議論したことがある。たとえば、現在のニワトリが養鶏小屋のケージに閉じ込められる状況に不満なのであれば、そのような状況を積極的に楽しむニワトリを育種すればいいのでは? 彼女の指摘によると、人々はそのような提案に嫌悪を示す傾向があるという(あるいは、ダグラス・アダムスのすばらしい『宇宙の果てのレストラン』の場合はユーモアで応じている。大きな牛のような動物が、テーブルに近づいて、自分は「あなたの本日の料理」だと名乗り、食べられることを望むように品種改良されたのだと証明するのだ)。(p. 69)

「第二部 無慈悲の誉れ」

 本書は、テーマごとに第一部から第八部に分けられており、それぞれに編者ジリアン・ソマスケールズによる解説がついている。「第一部のテーマが科学とは何か、だったとしたら、第二部は実行される科学に的を絞っている——具体的には、いまや科学的事実として確立された、リチャードの言葉を借りれば「無慈悲の誉れ高い」自然淘汰による進化についての、ダーウィンの偉大な理論の展開と精緻化である」(p. 132)。この解説の中で、ソマスケールズもアダムスの名前を出している。

 第二部で繰り返し出てくる主題は、群淘汰が承認できないという主張であり、ダーウィン主義の原理は家族、族、種のレベルで当てはまるという見解だ。「血縁淘汰に対する一二の誤解」はこのキャンペーンの力作であり、学問の世界の牧羊犬競技会のようなもので、適切な道から逸れてしまう流れを、辛抱強く効果的に囲いへと導いている。広範囲について専門誌のために書かれた文章だから、ドライで、退屈で、人間味がないだろうと考えるかもしれないが、そうではない。次のような文は、ダグラス・アダムスと同類の精神を示している。「だから今日、鋭い動物行動学者は世論に彼の耳を傾けて、懐疑的な不満のつぶやきを聞きつける。血統淘汰説が当初上げた功績のひとつが新たな問題に遭遇すると、つぶやきはしだいに独りよがりな吠え声へと高まっていく」。難解な分野の科学書を著す人のうち、このような飛躍をあえてする人がほかにどれだけいるだろう?(p. 134)

「第六部 自然の神聖な真実」

 ジリアン・ソマスケールズいわく、「第六部の締めくくりは、この壊れやすい楽園と、さらに広く世界の多様性の壊れやすさを世に知らしめるすばらしい本、ダグラス・アダムスとマーク・カワディンによる『これが見納め——絶滅危惧の生きものたち、最後の光景』新版への序文である。もしこのエッセイに憂いを感じるなら、それは意外ではない。これを序文とする本そのものが絶滅寸前の消えゆく種への哀歌であるだけでなく、序文の書き手は書いている最中に、ダグラス・アダムス——ユーもリスト、人道主義者、科学の称賛者——の享年四九という早すぎる死を、大勢の人とともに嘆き悲しんでいるところだったのだ。これは生きている地球の貴重な豊かさへの賛歌であり、かけがえのない人への挽歌でもある。(p. 395)

 『これが見納め——絶滅危惧の生きものたち、最後の光景』新版への序文は、「さようなら、夢見るデジタルエリート」のタイトルで420ページから427ページに亘って収録されている。
 『これが見納め——絶滅危惧の生きものたち、最後の光景』は、2011年に安原和見の訳でみすず書房から出版され、この本の巻頭にもドーキンスの序文は収録されている。が、もともとのテキストは同じでも、本書に収録されているのはあくまでこの本の訳者である太田直子によるもので、安原和見訳の転載ではない。


『遺伝子は不滅である』 The Genetic Book of the Dead, 2024

 「あなたの体とゲノムは、消えて久しい一連の多彩な世界、とっくにいなくなった祖先を取り巻いていた世界に関する、包括的な調査書として読むことができる。つまり「遺伝子版死者の書」なのだ」と宣言し、さまざまな写真やイラストを盛り込みながら、地球上の生命史全体を解説する。
 その中で、ドーキンスは「原理的には体の負傷を報酬ととらえる動物の血統を人為淘汰によって育成できる」という、一つの思考実験を紹介する。

 この点をダグラス・アダムスは『宇宙の果てのレストラン』(安原和見訳、河出書房新社)で、すばらしいコメディに凝縮している。主人公のゼイフォード・ビーブルブロックスのテーブルに大きいウシのような生き物が近づき、今日の料理だと自己紹介する。動物を食べることの倫理的な問題は、食べられることを欲し、そう主張できる種を育種することによって解決されたのだ、と説明する。「肩の辺りを切り取って、白ワインソースで蒸し煮にするのはいかがでしょう?」(p. 167)

 ドーキンスがゼイフォードを『宇宙の果てのレストラン』の主人公として紹介するとは考えにくいが、原文がどうなっているかは未確認。