A Guide to the Guide: Some unhelpful remarks from the author


 以下は、 "A Guide to the Guide: Some unhelpful remarks from the author." (Douglas Adams. The Hitch Hiker's Guide to the Galaxy: A Trilogy in Four Parts. London: Heinemann, 1986.) の抄訳である。
 ただし、訳したのは素人の私であるので、我ながら意味不明でいかがわしい箇所もあり、訳文の正確さについては保証しかねることと、実際のエッセイにはこの先にまだ "How to Leave the Planet" というショートスケッチが付いていることを、あらかじめお断りしておく。私の訳はあくまで参考程度にとどめておいていただきたい。

 『銀河ヒッチハイク・ガイド』の歴史は、今はとてつもなくこんがらがってしまったので、毎回説明するごとに前に自分が言ったことと食い違い、それを直そうとすれば今度は引用を誤ってしまう。だからこのオムニバス版の出版を機に、記録を正そう――あるいは、少なくとも歪んだままでもいいからしっかり固定させてしまおうと思う。ここに書かれた誤りはどれも、私個人に関しては、永久に誤りのままである。
 題を初めて思い付いたのは、1971年、オーストリアはインスブルックの原っぱで、酔っ払ってひっくり返っていた時のことである。特別に酔っ払っていた訳ではない――一文なしのヒッチハイカーだったため、2日間もまともに物を食べていない状態で、Gosserを2本空けた時に酔うであろう、普通の酔っ払い方だった。つまり、立っているのがいささか無理、といった程度か。
 私は、ケン・ウォルシュ著『ヨーロッパ・ヒッチハイク・ガイド』の本を手に旅をしていた。この本は、かなりボロボロになったのを誰かから借りていたのだが、この1971年から私が未だにこの本を所有していて、今となっては「借りた」というより「盗んだ」とみなすべきだろう。『一日5ドルで回るヨーロッパ』(当時はそうだった)の方は持っていない、というのもあの頃の私ときたら一日5ドルの金すらなかったのだ。
 夜のとばりが降り始め、寝転がっている私の下では原っぱがぐるぐると回っていた(訳注・つまり地面が揺れているように感じられるほど、酔っぱらっていたということか)。私は、どこに行けばインスブルックほど金がかからなくて、あまりぐるぐる回らなくて、その日の午後インスブルックで私の身に起こったようなことが起こらずに済むだろうかとぼんやり考えていた。
 インスブルックで起こったことというのは、次の通りである。私はある住所をつきとめようと町を歩き回っていたが完全に迷子になり、通りすがりの人に道を訊こうとして立ち止まった。私はドイツ語は話せないから簡単にはいかないだろうとは思っていたが、この男とコミュニケーションすることの困難至極さには驚いた。それでも、お互い理解しようと空しくとっくみ合ううちに、次第に事の真相が私にも見えてきた、インスブルックには私が道を尋ねることのできる人は山ほどいたにもかかわらず、よりにもよって私が選んでしまった人は英語を話せず、フランス語も話せず、そしてまた聾唖者でもあったのだ。手の動きで心からのおわびを繰り返してから私は彼と離れ、数分後、別の通りで別の人をつかまえたところ、その人も聾唖者であることが判明した。この時、私はビールを買った。
 私は雄々しくも通りに戻り、再び挑戦した。
 私が話しかけた3人目の男がやっぱり聾唖者で、さらに盲目でもあることが判明した時、私は両肩にずしりと重いものを感じ始めていた。目に入る木々や建物は、暗く不吉な様相を呈していた。私がコートを身体にしっかりと巻き付け、道をよろめきながら早足で歩いていると、突然一陣の風が吹き付けた。私は人にどんとぶつかり、どもりながら謝った。が、何とその人も聾唖者で、私の言っていることをさっぱり分かってくれなかった。空は唸り声をあげた。舗道は傾き、回転した。もしその時私がたまたま横道に逃げ込んで、「聾唖者会議」と書かれた看板の掲げられたホテルの前を通らなかったら、きっと私の精神は完全にぶっ壊れ、残りの人生はヨダレを垂らしながらカフカのような本を書くことだけに費やされていたにちがいない。
 実際のところはというと、私は『ヨーロッパ・ヒッチハイク・ガイド』だけを手に、原っぱに行って寝転がったのだが、空に星が出ているのを見て、ふと思った。誰かが『銀河ヒッチハイク・ガイド』という本を書いてくれたら、少なくとも自分は一散で飛んでいくのになあ。こう考えて、私はすぐに眠りに落ち、このことは6年間忘れていた。
 私はケンブリッジ大学に入学した。何度も風呂に入り――そして英文学の学位を取った。女の子のことや、自分のバイクに起こったことに大いに頭を悩ませた。それから私は作家になり、たくさんの仕事をしたが、それらはほとんど信じられないくらい成功するはずだったのに、実際には日の目をみることなく終わった。同業者ならきっと私の言わんとするところを分かってくれるだろう。
 私の秘蔵の計画とは、コメディとサイエンス・フィクションを融合したような作品を書くことだったが、この妄想のせいで私を深い絶望と借金地獄に突き落とされた。誰一人として興味をもってくれなかったのだが、最終的にこの人が登場してくれた。その人物とは、サイモン・ブレットという名のBBCのプロデューサーであり、彼もまたコメディとサイエンス・フィクションを融合するという同じアイディアを抱えていた。サイモンは第1話をプロデュースしただけで、自作の著述(彼はチャールズ・パリスの出てくる推理小説の生みの親である)に専念するためBBCを去ってしまったけれども、最初に事を起こす場を与えてくれただけでも、私は彼に多大な恩義を蒙っている。サイモンの後は、伝説の人物、ジェフリー・パーキンスが継いでくれた。
 もともとの形では、このショウは随分違ったものになる予定だった。当時私は少しばかり世の中に不満を抱いていて、それぞれ異なった理由で異なった具合に世界が崩壊して幕を閉じる、6つの異なったプロットをオムニバス形式でまとめるつもりだった。題は「地球の最期」。
 私は1つ目のプロットのディテールを埋めていて――その話では、地球は新しい亜空間高速道路を造るために取り壊された――必要な状況説明を話の中に挿入するために、読み手に何が起こっているのかを伝える異星人の登場人物が必要だなと思った。となると、その異星人が何者で、地球で何をしているのかを考え出さなければならない。
 私は彼の名前をフォード・プリーフェクト(Ford Prefect)とした(これは、このかなりヘンテコな車の存在を耳にしたことのないアメリカ人の読者には通じないジョークだった。ほとんどの人がパーフェクト(Perfect)のタイプ・ミスだと思ってしまった)。私は本文の中で、この異星人が地球に来る前にちょっとした予備調査をケチったため、この名前が「ごく目立たない」ものだと考えてしまったと書いた。彼は単に、上位生命体を間違えてしまったのだ。ではどうしてこんな間違いが起こるのだろうか?思い起こせば、私がヨーロッパをヒッチハイクしていた時も、私が手にしていた情報やアドバイスは、ふたを開けてみるとしばしば古すぎて使えないものだったり、どこか勘違いしたものだったりした。その大部分は、言わずもがな、他人の旅行体験から来る話である。
 その時、突然それまで心のどこか奥底にしまい込まれていた『銀河ヒッチハイク・ガイド』という題がポンと頭の中で閃いた。フォードは、この『ガイド』のためのデータを収集する記者という設定にしよう。この思い付きを膨らませていくと、たちまちそれはぐいぐいと話の中核に突き進んでいき、それ以外のことは、オリジナルのフォード・プリーフェクト製作者も言ったであろう、ただのクズになった。
 物語は、えらく入り組んだやり方で進んでいった。たいていの人はそれがどんなだったかを知れば驚くに違いない。エピソード風に書く、ということは、第1話を書き終えた時点で、次の話に何が来るか全く分からないということだった。プロットをよじったりねじったりしていて、突如ある出来事が前に書いたことを照射した時には、他の人同様私もびっくりしたものだ。
 製作中に、BBCがこのショウに向けて取った態度は、マクベスが殺す相手に向けて取った態度とかなり似ていると思う――主として疑惑、それに慎重な熱狂がくっついて、そして企画の薄っぺらさに対して警戒心がどんどん膨れ上がり、それでもなお先が終わりが全く見えてこない。ジェフリーと私と音響技師たちが地下のスタジオに何週間もぶっ続けでこもりきりとなり、たった一つの音響効果を作るのに、他の人なら全シリーズを録音し終えてしまうだけの時間をかけてしまった(そしてそうするために他の全員のスタジオ使用時間を奪ってしまった)という報告は、全て力強く否定されてきたけれど、実はまごうことなき真実である。
 さてここから、異なるバージョンが派生し始めるのだが、今回はさまざまな舞台版については触れないことにする。これに手をつけると話がややこしくなるだけだから。
 第1話は、1978年3月8日水曜日午後10時30分からBBCラジオ4で放送された。華やかな宣伝は一切なかった。コウモリが聞いていた。ヘンな犬が吠え立てた。
 二週間後、1、2通の手紙が届けられた。ということは、つまり、放送局の外で誰かが聴いてくれていた訳だ。私が話をした人たちは、鬱病ロボット、マーヴィンが気に入っているようだったが、このキャラクターはもともと私としてはその場限りのジョークとして書いたものを、ジェフリーがどうしてもと言うので発展させただけである。
 その頃、いくつかの出版社が関心を持ってくれ、私はその中でもパン・ブックスと契約し、シリーズの小説版を書くことにした。何度も締め切りを破り、言い訳を考え、風呂に入り、私はどうにか三分の二を書き上げた。この時、出版社側は大変快活かつ親切な口調で、私が既に10回以上も締め切りを破っていること、そしてよろしければ今私がとりかかっているページを書き上げて、そのいまいましい代物を渡していただけませんかと言った。
 その一方で、私はラジオ・ドラマの続きを書くのと『ドクター・フー』の脚本執筆及び編集にてんてこまいだった。自分の書いたラジオのシリーズがあり、ましてや「聴かせてもらいました」と書かれた手紙を受け取るのはとてもいい気分ではあるが、それだけでは昼食は食べられないのだ。
 というのが、1979年9月に小説版『銀河ヒッチハイク・ガイド』が出た時の大体のあらましで、この本はサンデー・タイムズのベストセラー・リストの一位に輝き、その後も座を保持し続けた。誰かがラジオ・ドラマを聴いていてくれたことは、もう間違いない。
 ここから話がややこしくなるのであり、この序文を書くにあたってしっかり説明してくれと言われたのもこの点である。『ガイド』はいろいろな形――本、ラジオ、テレビ・シリーズ、レコード、そしてもうじき映画にもなる予定――で登場したが、それぞれの場合でどれも話の筋が異なっているため、相当熱心なファンでも時々こんがらかってしまう。
 そのために、ここではおのおののバージョンの分析をしてみよう。ただし、舞台版は省略させていただく。これも加えたら、話はますますややこしくなってしまうから。
 ラジオ・シリーズは1978年3月に始まった。最初のシリーズは6話完結で、1つ1つは「節」と呼ばれていた。第1節から第6節までという訳だ。簡単明瞭。その年の終わりに、一般的にはクリスマス・スペシャルとされているエピソードがもう1節新たに録音・放送された。ただし内容はクリスマスとは何の関係もない。しかし、最初に放送されたのが12月24日だったというだけの理由でクリスマス・スペシャルと呼ばれている(さらに言えばこの日はクリスマスではないのだが)。この後、事態はどこまでもややこしくなっていく。
 1979年の秋、シリーズ最初の小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』が出版された。この本は基本的にラジオ・シリーズの第1話から第4話までを膨らませて書いたもので、あるキャラクターはラジオ・ドラマとは全く違った態度を取り、また他のキャラクターは全く同じように行動するが、その行動の理由のほうはラジオ・ドラマとは全然違っていたりする。これは、結果的には同じことになったけれども、対話部分を書き直さずに済んだ。
 ほぼ同時期に、2枚組のレコード・アルバムがリリースされ、これらはそれと対照的にラジオ・シリーズの最初の4話分を少々短縮しただけである。
 ただし、これはもともとラジオで放送したものをレコーディングしたのではなく、ほぼ同じ脚本を使ってもう一度新しく録音し直した。というのも、我々はシリーズに臨時の音楽としてグラモフォン・レコードを使用しており、これはラジオで使うには結構だが、商品として販売することはできなかったからである。
 1980年1月、『銀河ヒッチハイク・ガイド』の新たな5話が5夜連続で放送され、これで全12話を数えることとなった。1980年秋、イギリスでシリーズ2冊目の小説が出版され、同じ頃アメリカ合衆国でハーモニー・ブックスが1冊目の小説を出版した。2冊目のほうは、大体ラジオ・ドラマ『銀河ヒッチハイク・ガイド』の第7、8、9、10、11、12、5、6話(小説版ではこの順で話が展開する)を書き直したり編集し直したり、短縮したりしたものである。短絡的すぎないよう、2冊目の小説は『宇宙の果てのレストラン』と名付けたが、それは『銀河ヒッチハイク・ガイド』の第5話目の話がこの本に入っており、この第5話にレストラン〈ミリウェイズ〉、別名宇宙の果てのレストランが登場するからである。
 ほぼ同じ時期、2枚目のレコード・アルバムが、ラジオ・シリーズ第5、6話分を大きく書き直し拡張した形で作られた。このアルバムのタイトルは、『宇宙の果てのレストラン』。
 一方、BBCで6話完結のテレビ・シリーズも製作され、1981年1月に放映された。これは大体、ラジオ・シリーズの最初の6話分を基にしている。言い換えれば、小説版の大部分が取り入れられたことになる。小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』の全部と『宇宙の果てのレストラン』の後半とが取り込まれた。それ故、ラジオ・シリーズの基本構造をなぞりながらも、小説版の修正部分を取り込んだ。
 1982年1月、アメリカ合衆国で、ハーモニー・ブックスが『宇宙の果てのレストラン』を出版した。
 1982年夏、ヒッチハイク・シリーズ3冊目の小説が英米同時発売された。タイトルは『宇宙クリケット大戦争』。
 これは、ラジオにもテレビにも全く出てこない話である。実を言うと、ラジオ・シリーズの第7、8、9、10、11、12話と大きく矛盾していたりする。ラジオ・シリーズ『銀河ヒッチハイク・ガイド』第7話から第12話のエピソードは、御承知の通りもう既に2冊目の小説『宇宙の果てのレストラン』の中に形を変えて編入してある。
 この時点で、私はアメリカに行き、これまで起こったほとんどすべてのこととは全く別物の映画の脚本を書いたが、この映画の製作が遅れている(最近の噂では、Last Trumpの直前に撮影開始らしい)ので、私はこの三部作の4冊目にして最終巻の『さようなら、いままで魚をありがとう』を書き上げた。この本は1984年の秋に英米で同時発売され、内容のほうはこれまでに書いたすべてのことと見事なまでに矛盾している――この文章も含めて。

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